長いこと生きていますと、人生には色々なことがあります。
楽しかったこと、苦しかったこと、すべてはその時の「今」に刻まれていきます。
そうして、時ととともにそれは流れ薄まり、よき思い出となります。
ただ、ツラい過去というものはなかなか流れ去らず、よき思い出にもならないものです。
それは、思いが強すぎるあまり、その時の「今」で終わらずに、今この時の「今」にも
刻んでしまっているからです。
表現を変えれば、心が今この時に100%は向いておらず、何%かは過去のその時に向いて
しまっている、それが毎瞬毎瞬ずっと繰り返されているということです。
ツラい記憶を思い出したくないからとフタをして塩漬けにしてしまいますと、逆に、常に「今」と
ともにある状態になってしまいます。
さりとて、ツラい思い出は、本当にツラいものです。
特に、子どもの頃のツラい思い出となると、まだ意識が無防備の時のことですから、その
ダメージはとても深く、理屈ではなく感覚として胸(魂)にダイレクトに響きます。
同じ経験であっても、もう少し大人になってからであれば、全然スルーできただろうと思ったりもします。
つまり、今から振り返って見れば、その時のツラさはそこまで傷つくことではないと「頭では」
理解できるのです。
それでも、感覚記憶のほうが圧倒的なので、理屈ではどうしようもないわけです。
そうしますと、
「頭では理解してるのに、ツラい気持ちは薄まらない」
「どうしようもないので、塩漬けにして見ないようにするしかない」
という流れになってしまうのです。
しかし、それを囚われだとか執着だと切り捨てるのは、あまりにも酷だと思うのです。
相手は子どもです。
自分自身とはいえ、子どもの自分です。
執着や囚われなど無縁だった時の自分です。
傷ついたのがいけないかのようなアプローチこそ、間違いではないでしょうか。
純粋無垢な心が傷つくのは、全く自然のことです。
そこで、「傷ついたという事実を手放せないのは執着だ」と考えてしまうと、いつまでも
先には進めなくなります。
手放す必要なんてありません。
傷ついたことは何もいけないことではなく、全く自然なことだからです。
「傷ついていいんだよ」です。
事実を無理やり手放そうとするのは、それを否定したり拒否することになります。
すへてそのまま受け入れて、力一杯、抱き締めてあげて下さい。
それは、その時の「今」に戻って、その時の「今」をすべて受け入れることになります。
その時の「今」に、改めて100%心を向けることになります。
まだ本当に小さな子どもだったのです。
その時は、目の前のことを全てそのまま受け入れることなど到底できなかったでしょう。
ですから、今のこの自分が手を差し伸べてあげるのです。
それが出来るのは、同じ自分だけです。
そうして、全てを受け入れた時、不思議なほどに体が軽くなったように感じるかもしれません。
これまでの日々に刻まれ続けていたすべての「過去」が、一瞬にして細かな結晶のように、
キラキラと宙に舞い散ったのですから。
受け入れることは、手放すことであり、それは天地と同化していくことなのです。
傷ついた過去を流そうとする必要はありません。
囚われまいと努力する必要もありません。
傷ついた自分がいたというのは事実です。
傷つけた人物や、傷つけた出来事があったのも事実です。
そのどちらも悪くありません。
善悪判断は不要です。
そこにはただ、そういう事実があったというだけです。
ですから、それをねじ曲げることなく、そのままの姿で100%受け入れるということです。
ああだこうだと、自分を納得させるための理屈は要りません。
そのままを受け入れる寛容さ、包容力です。
それは、すべてを赦すと言い換えてもいいかもしれません。
「それでいいんだよ」
その時の「今」を、そのままで受け入れれば、もうそれでOKです。
これから先、「あの時はツラかった...」と何度でも思い出してOKです。
「ツラいと思ったらいけない」とか「逆に相手を傷つけてしまう」とか「いつまでも過去に
囚われてはいけない」とか、余計なことは考えないことです。
それこそが囚われです。
だって、ツラかったのは事実なんですから。
もう、それは変えようがない。
有るものを「無い」と言ったって無理な話です。
ツラかったことをプラスの気持ちに変えようなんてムチャです。
それこそ鬼というものです。
優しさを自分に向けてあげて下さい。
頑張る必要はありません。
事実は事実として受け入れる。
「受け入れたはずなのに何度も思い出してしまう」という時も、慌てないで大丈夫です。
それは単に、まだ全てを受け入れきれていないだけのことですから、何度でも思い出して
いいのです。
少しずつ近づいていけばいい。
そして、思い出してツラくなったら、その時の自分をしっかりと抱き締めて、涙を流せば
いいのです。
その時の自分に戻り、そばに寄り添って、話を聞いてあげて下さい。
何度でも泣いてあげて下さい。
それにより、幼かった頃の自分が、温かく癒されていきます。
泣くのはとてもいいことです。
慈愛の涙はとても美しいと思います。
ツラい記憶や嫌な思い出が、大人になってからのものだったとしても同じです。
大人になった自分も、子どもの頃の自分も、同じ自分です。
肩ひじを張る必要はありません。
大人なんだから頑張らねばと考える必要はありません。
誰も見てないのですから、すべて脱ぎ捨てて、子どもの自分に戻りましょう。
そして、相手のことはひとまず横に置いて、自分の心に優しく耳を傾けてあげるのです。
母親が子どもに向けるように、心の苦しみを優しく包んであげて下さい。
あわてなくても大丈夫。
最初からいきなり全てを受け入れようとすると、かえって苦しくなります。
何ごとも、一歩一歩、少しずつです。
そうしていくことで、胸に刻まれた傷が癒されていきます。
この今に、過去が混じることがなくなってきます。
過去は、過去の「今」にしっかり刻まれることになります。
そして、それは実は、自分自身だけではなく、その時の相手も救うことになります。
まさに陰徳となるわけです。
そうして初めて、苦しかった過去も、いい思い出になっていくのです。
過去を見まいとする囚われがある時は、心は過去に向いてしまっています。
それを無くさない限りは、今に100%向けることは無理です。
今に心を集中するためにこそ、過去をしっかり振り返る。
前を向いて歩くとは、そういうことだと思います。
苦しいと感じている時は、苦しんでいいんです。
悲しいと感じている時は、悲しんでいいんです。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
事実から目を背けることや、自分の心にウソをつくことが、迷いや苦しみを生んでしまう
のですから。
楽しかったこと、苦しかったこと、すべてはその時の「今」に刻まれていきます。
そうして、時ととともにそれは流れ薄まり、よき思い出となります。
ただ、ツラい過去というものはなかなか流れ去らず、よき思い出にもならないものです。
それは、思いが強すぎるあまり、その時の「今」で終わらずに、今この時の「今」にも
刻んでしまっているからです。
表現を変えれば、心が今この時に100%は向いておらず、何%かは過去のその時に向いて
しまっている、それが毎瞬毎瞬ずっと繰り返されているということです。
ツラい記憶を思い出したくないからとフタをして塩漬けにしてしまいますと、逆に、常に「今」と
ともにある状態になってしまいます。
さりとて、ツラい思い出は、本当にツラいものです。
特に、子どもの頃のツラい思い出となると、まだ意識が無防備の時のことですから、その
ダメージはとても深く、理屈ではなく感覚として胸(魂)にダイレクトに響きます。
同じ経験であっても、もう少し大人になってからであれば、全然スルーできただろうと思ったりもします。
つまり、今から振り返って見れば、その時のツラさはそこまで傷つくことではないと「頭では」
理解できるのです。
それでも、感覚記憶のほうが圧倒的なので、理屈ではどうしようもないわけです。
そうしますと、
「頭では理解してるのに、ツラい気持ちは薄まらない」
「どうしようもないので、塩漬けにして見ないようにするしかない」
という流れになってしまうのです。
しかし、それを囚われだとか執着だと切り捨てるのは、あまりにも酷だと思うのです。
相手は子どもです。
自分自身とはいえ、子どもの自分です。
執着や囚われなど無縁だった時の自分です。
傷ついたのがいけないかのようなアプローチこそ、間違いではないでしょうか。
純粋無垢な心が傷つくのは、全く自然のことです。
そこで、「傷ついたという事実を手放せないのは執着だ」と考えてしまうと、いつまでも
先には進めなくなります。
手放す必要なんてありません。
傷ついたことは何もいけないことではなく、全く自然なことだからです。
「傷ついていいんだよ」です。
事実を無理やり手放そうとするのは、それを否定したり拒否することになります。
すへてそのまま受け入れて、力一杯、抱き締めてあげて下さい。
それは、その時の「今」に戻って、その時の「今」をすべて受け入れることになります。
その時の「今」に、改めて100%心を向けることになります。
まだ本当に小さな子どもだったのです。
その時は、目の前のことを全てそのまま受け入れることなど到底できなかったでしょう。
ですから、今のこの自分が手を差し伸べてあげるのです。
それが出来るのは、同じ自分だけです。
そうして、全てを受け入れた時、不思議なほどに体が軽くなったように感じるかもしれません。
これまでの日々に刻まれ続けていたすべての「過去」が、一瞬にして細かな結晶のように、
キラキラと宙に舞い散ったのですから。
受け入れることは、手放すことであり、それは天地と同化していくことなのです。
傷ついた過去を流そうとする必要はありません。
囚われまいと努力する必要もありません。
傷ついた自分がいたというのは事実です。
傷つけた人物や、傷つけた出来事があったのも事実です。
そのどちらも悪くありません。
善悪判断は不要です。
そこにはただ、そういう事実があったというだけです。
ですから、それをねじ曲げることなく、そのままの姿で100%受け入れるということです。
ああだこうだと、自分を納得させるための理屈は要りません。
そのままを受け入れる寛容さ、包容力です。
それは、すべてを赦すと言い換えてもいいかもしれません。
「それでいいんだよ」
その時の「今」を、そのままで受け入れれば、もうそれでOKです。
これから先、「あの時はツラかった...」と何度でも思い出してOKです。
「ツラいと思ったらいけない」とか「逆に相手を傷つけてしまう」とか「いつまでも過去に
囚われてはいけない」とか、余計なことは考えないことです。
それこそが囚われです。
だって、ツラかったのは事実なんですから。
もう、それは変えようがない。
有るものを「無い」と言ったって無理な話です。
ツラかったことをプラスの気持ちに変えようなんてムチャです。
それこそ鬼というものです。
優しさを自分に向けてあげて下さい。
頑張る必要はありません。
事実は事実として受け入れる。
「受け入れたはずなのに何度も思い出してしまう」という時も、慌てないで大丈夫です。
それは単に、まだ全てを受け入れきれていないだけのことですから、何度でも思い出して
いいのです。
少しずつ近づいていけばいい。
そして、思い出してツラくなったら、その時の自分をしっかりと抱き締めて、涙を流せば
いいのです。
その時の自分に戻り、そばに寄り添って、話を聞いてあげて下さい。
何度でも泣いてあげて下さい。
それにより、幼かった頃の自分が、温かく癒されていきます。
泣くのはとてもいいことです。
慈愛の涙はとても美しいと思います。
ツラい記憶や嫌な思い出が、大人になってからのものだったとしても同じです。
大人になった自分も、子どもの頃の自分も、同じ自分です。
肩ひじを張る必要はありません。
大人なんだから頑張らねばと考える必要はありません。
誰も見てないのですから、すべて脱ぎ捨てて、子どもの自分に戻りましょう。
そして、相手のことはひとまず横に置いて、自分の心に優しく耳を傾けてあげるのです。
母親が子どもに向けるように、心の苦しみを優しく包んであげて下さい。
あわてなくても大丈夫。
最初からいきなり全てを受け入れようとすると、かえって苦しくなります。
何ごとも、一歩一歩、少しずつです。
そうしていくことで、胸に刻まれた傷が癒されていきます。
この今に、過去が混じることがなくなってきます。
過去は、過去の「今」にしっかり刻まれることになります。
そして、それは実は、自分自身だけではなく、その時の相手も救うことになります。
まさに陰徳となるわけです。
そうして初めて、苦しかった過去も、いい思い出になっていくのです。
過去を見まいとする囚われがある時は、心は過去に向いてしまっています。
それを無くさない限りは、今に100%向けることは無理です。
今に心を集中するためにこそ、過去をしっかり振り返る。
前を向いて歩くとは、そういうことだと思います。
苦しいと感じている時は、苦しんでいいんです。
悲しいと感じている時は、悲しんでいいんです。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
事実から目を背けることや、自分の心にウソをつくことが、迷いや苦しみを生んでしまう
のですから。