これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

過去も「今」です

2015-01-30 00:12:33 | 心をラクに
長いこと生きていますと、人生には色々なことがあります。

楽しかったこと、苦しかったこと、すべてはその時の「今」に刻まれていきます。
そうして、時ととともにそれは流れ薄まり、よき思い出となります。

ただ、ツラい過去というものはなかなか流れ去らず、よき思い出にもならないものです。

それは、思いが強すぎるあまり、その時の「今」で終わらずに、今この時の「今」にも
刻んでしまっているからです。
表現を変えれば、心が今この時に100%は向いておらず、何%かは過去のその時に向いて
しまっている、それが毎瞬毎瞬ずっと繰り返されているということです。

ツラい記憶を思い出したくないからとフタをして塩漬けにしてしまいますと、逆に、常に「今」と
ともにある状態になってしまいます。

さりとて、ツラい思い出は、本当にツラいものです。
特に、子どもの頃のツラい思い出となると、まだ意識が無防備の時のことですから、その
ダメージはとても深く、理屈ではなく感覚として胸(魂)にダイレクトに響きます。

同じ経験であっても、もう少し大人になってからであれば、全然スルーできただろうと思ったりもします。

つまり、今から振り返って見れば、その時のツラさはそこまで傷つくことではないと「頭では」
理解できるのです。
それでも、感覚記憶のほうが圧倒的なので、理屈ではどうしようもないわけです。


そうしますと、
「頭では理解してるのに、ツラい気持ちは薄まらない」
「どうしようもないので、塩漬けにして見ないようにするしかない」
という流れになってしまうのです。

しかし、それを囚われだとか執着だと切り捨てるのは、あまりにも酷だと思うのです。
相手は子どもです。
自分自身とはいえ、子どもの自分です。
執着や囚われなど無縁だった時の自分です。
傷ついたのがいけないかのようなアプローチこそ、間違いではないでしょうか。

純粋無垢な心が傷つくのは、全く自然のことです。
そこで、「傷ついたという事実を手放せないのは執着だ」と考えてしまうと、いつまでも
先には進めなくなります。

手放す必要なんてありません。
傷ついたことは何もいけないことではなく、全く自然なことだからです。
「傷ついていいんだよ」です。


事実を無理やり手放そうとするのは、それを否定したり拒否することになります。

すへてそのまま受け入れて、力一杯、抱き締めてあげて下さい。
それは、その時の「今」に戻って、その時の「今」をすべて受け入れることになります。
その時の「今」に、改めて100%心を向けることになります。

まだ本当に小さな子どもだったのです。
その時は、目の前のことを全てそのまま受け入れることなど到底できなかったでしょう。
ですから、今のこの自分が手を差し伸べてあげるのです。
それが出来るのは、同じ自分だけです。

そうして、全てを受け入れた時、不思議なほどに体が軽くなったように感じるかもしれません。
これまでの日々に刻まれ続けていたすべての「過去」が、一瞬にして細かな結晶のように、
キラキラと宙に舞い散ったのですから。
受け入れることは、手放すことであり、それは天地と同化していくことなのです。

傷ついた過去を流そうとする必要はありません。
囚われまいと努力する必要もありません。


傷ついた自分がいたというのは事実です。
傷つけた人物や、傷つけた出来事があったのも事実です。
そのどちらも悪くありません。
善悪判断は不要です。
そこにはただ、そういう事実があったというだけです。

ですから、それをねじ曲げることなく、そのままの姿で100%受け入れるということです。
ああだこうだと、自分を納得させるための理屈は要りません。
そのままを受け入れる寛容さ、包容力です。
それは、すべてを赦すと言い換えてもいいかもしれません。

「それでいいんだよ」

その時の「今」を、そのままで受け入れれば、もうそれでOKです。
これから先、「あの時はツラかった...」と何度でも思い出してOKです。

「ツラいと思ったらいけない」とか「逆に相手を傷つけてしまう」とか「いつまでも過去に
囚われてはいけない」とか、余計なことは考えないことです。
それこそが囚われです。

だって、ツラかったのは事実なんですから。
もう、それは変えようがない。
有るものを「無い」と言ったって無理な話です。
ツラかったことをプラスの気持ちに変えようなんてムチャです。
それこそ鬼というものです。
優しさを自分に向けてあげて下さい。
頑張る必要はありません。


事実は事実として受け入れる。
「受け入れたはずなのに何度も思い出してしまう」という時も、慌てないで大丈夫です。
それは単に、まだ全てを受け入れきれていないだけのことですから、何度でも思い出して
いいのです。
少しずつ近づいていけばいい。
そして、思い出してツラくなったら、その時の自分をしっかりと抱き締めて、涙を流せば
いいのです。

その時の自分に戻り、そばに寄り添って、話を聞いてあげて下さい。
何度でも泣いてあげて下さい。
それにより、幼かった頃の自分が、温かく癒されていきます。

泣くのはとてもいいことです。
慈愛の涙はとても美しいと思います。

ツラい記憶や嫌な思い出が、大人になってからのものだったとしても同じです。
大人になった自分も、子どもの頃の自分も、同じ自分です。
肩ひじを張る必要はありません。
大人なんだから頑張らねばと考える必要はありません。
誰も見てないのですから、すべて脱ぎ捨てて、子どもの自分に戻りましょう。
そして、相手のことはひとまず横に置いて、自分の心に優しく耳を傾けてあげるのです。
母親が子どもに向けるように、心の苦しみを優しく包んであげて下さい。


あわてなくても大丈夫。
最初からいきなり全てを受け入れようとすると、かえって苦しくなります。
何ごとも、一歩一歩、少しずつです。

そうしていくことで、胸に刻まれた傷が癒されていきます。
この今に、過去が混じることがなくなってきます。
過去は、過去の「今」にしっかり刻まれることになります。

そして、それは実は、自分自身だけではなく、その時の相手も救うことになります。
まさに陰徳となるわけです。

そうして初めて、苦しかった過去も、いい思い出になっていくのです。

過去を見まいとする囚われがある時は、心は過去に向いてしまっています。
それを無くさない限りは、今に100%向けることは無理です。
今に心を集中するためにこそ、過去をしっかり振り返る。
前を向いて歩くとは、そういうことだと思います。

苦しいと感じている時は、苦しんでいいんです。
悲しいと感じている時は、悲しんでいいんです。

怒ってもいい。
泣いてもいい。

事実から目を背けることや、自分の心にウソをつくことが、迷いや苦しみを生んでしまう
のですから。


今の自分を信じましょう

2015-01-28 08:37:40 | 心をラクに
若い頃というのは、怖いもの知らずの、はじけるような元気に溢れています。
それが、失敗や成功といった大きな波を経験するにつれて、自信に満ちて風格を備えて
いきます。
そして、年老いていくにつれ、円みを帯びた優しい雰囲気へと変わっていきます。

「自信」というのは、文字通り、自らを信じるということです。

これは「自分は『できる』と信じている状態」と取られがちですが、それですと「結果」が
セットになってしまうので、少し違うような気がします。
それよりも、そのまま「自分を信じきっている状態」「今の自分に全てを託している状態」
「全てを委ねている状態」といった方が、しっくりきます。
全てを託しているというのは、過去や未来もなく、今が100%の状態です。
そうなると、先の結果のことなど頭にないわけですから、どのような展開も全てOKに
なります。

一方、「自分は『できる』と信じる」というのは「慢心」や「過信」に繋がりやすくなります。
つまり、実際の自分を冷静に客観視できず、気持ちが先走って身の丈以上の幻想を抱いて
しまっている状態です。
それは文字通り「信じ過ぎている」ということになりますので、焦点が今からズレて
しまっています。
自己暗示の方法というのは、うまくいけばハマりますが、副作用も大きいと思います。

「自信」は、結果として現われる「状態」「心境」です。
ですから、それが現われる前提が刻まれていないのに「自信を持とう」というセリフを
発するのは、中身のないシャボン玉です。
そういう時は「今の自分を受け入れよう」の方が適切だと思います。

つまり、「自信」というのは、そこに我執が入るか否かで、慢心や過信と紙一重
ということです。

自信が伴っていますと、見た目の様子がいかにも堂々としているものです。
「堂々としているから強そうだ」「堂々としているから何かやってくれそうだ」と、
その大きさに信頼感や安心感を抱くわけです。

ただ、この「堂々として見える」というのがまたクセモノです。

ジャンルを問わず、職人であっても、武道であっても、あるいは会社の仕事であっても、
その道を究めていく過程において、例えば「自分はここまで成長した」「ここまで掴んだ」
という思いが、無意識のうちに振る舞いや佇まいに出ることがありますが、禅ではこれを
「悟臭」と呼ぶのだそうです。
まさに、鼻持ちならないといったところでしょう。

本人としてはそれを、堂々とした雰囲気だと履き違えてしまうかもしれません。
でも、それは慢心であり、我執の現われです。
ドンナモンダイという我執の匂いたつような様子を、悟臭と表現したわけです。

溌剌とした明るいエネルギーが出て大きく見える姿と、大きく見せようとして胸を張って
いる姿は、似て非なるものです。

自己顕示欲は他人の目を意識することで生まれ、自尊心は自分という存在への執着に
よって生れます。
そうしたものが無かったとしても、他人との「比較」や、過去の自分との「比較」によって
少しでも優越感が生じてしまうと、悟臭が漂い始めてしまうかもしれません。


結局は、心が目の前の「今」ではなく、あちこち色々なところへ向いてしまうことによって
囚われが一人歩きしだしてしまうのです。

「能力がある、運動ができる・・・それが何なの?」とスルーさせて、そんなことよりも
「今」を無邪気に楽しみきる。そこに集中する。
すると、途端に、鼻持ちならない雰囲気は消えてなくなります。
代わりに、肩の力の抜けた好々爺のような姿が現われます。

それは、威風堂々とした姿には程遠いものですが、そばにいるだけで何だか心が休まる
ほっこりした空気が漂います。


これまた好みの問題ですから、どっちがいいというわけではありません。
でも、遅かれ早かれ、人は体力が落ちてくるとともに、自分一人だけで何でもできると
いう慢心が薄れ、肩の力が抜けて円みを帯びていくものです。
老いるというのは、そういうことだと思います。

なかには若いころの堂々とした姿にこだわって、アンチエイジングに走る人もいるかも
しれませんが、そこには人が近づきたくなるような円みはありません。

老いることによって、自分一人で生きているという我執が薄れ、まろやかな優しい雰囲気が
生じ、自然に人が集まるようになります。
結果として、多くの存在に生かされていことが、目に見える形になって現われているのだと
私は思います。

ただ、その老いた状態こそが、他よりいいと言っているわけではありません。

若い時は、若い時の雰囲気。
壮年であれば、壮年なりの雰囲気。
そして老年になれば、老年の雰囲気。

どれが良い悪いではなく、その時ならではの、それぞれの良さがあるわけです。

ですから若い人は、堂々としているのがいいのです。
若いのに妙にホッコリしている、落ち着いているというのは、それがナチュラルなもの
であれば別ですが、自ら作ったものであるならばやはり不自然です。

それぞれに魅力があるのですから、余計なことをしようとする必要はありません。
余計なことこそ、執着や囚われになりかねません。

一つの人生、二度おいしい、三度おいしい。

今の自分を信じましょう。
目の前の今を刻んでいけば、自然と、なるようになります。

年を取るって、本当に素敵なことですね!







やっぱり、これでいいのダ

2015-01-26 01:42:13 | むかしの話
これまで「今に生きましょう」「寛容さです」「オールOKです」など、サラっと言ってきましたが、人生そんな
簡単なもんじゃないと思います。
「囚われてもイイんデス」とも書きました。

私も、長いことヒドい固定観念に囚われていました。

強い観念にとらわれてしまうと、自分が観念にとらわれていること自体に気がつけなくなります。

特に、正論や正義というものは一番厄介です。
たとえば世間や周囲から賞賛されるような「こういう人間が素晴らしい」という観念などは、最たるものかもしれません。
その観念自体は何の害も無いものなのですが、「そうならなくてはいけない」という強い思いが「執着」を生んで
しまうのです。


そうなると優等生発言や行動というものを取るようになるわけですが、それを褒められる成功体験を得てしまうと
その正当性が強化されてしまい、また同じことを繰り返してしまいます。
まさに負のスパイラルの完成です。
こうなると、その道から外れることが怖くて出来なくなっていきます。
自分で自分を縛る状態に陥ってしまうわけです。

そして、周囲の目を気にしながら褒められようとする生き方だけでなく、実は「世間などクソくらえだ」と叫んで
己の生きざまを貫こうとする生き方も、やはり先ほどの優等生発言と本質的には同じであることは、なかなか気が
つけません。

己の信条や生きざまを掲げて、常に自分にそれを問うような人生とは、結局は「自分」自身に褒められようとしての
行動であるわけで、結局は優等生を目指そうとしていることに他ならないわけです。

私の場合は「生まれたからにはしっかり生きねば」「お天道さまに恥じないようにしよう」「男らしくありたい」と
いった感じでした。
今こうして見てみても、もっともらしい口上です(笑)

もちろん、そうした生きざまでも一切のウソが無くイキイキしてたら、話は別です。
その場合は、結果としての生きざまであって、自然な行動によって創り出されたものだからです。
要は、生きざまを守ろうとして、自分の本当の気持ちを曲げるようなことをしていないか、ということです。
「生きざまありき」になっていないか、ということです。
自分を縛ってレールに乗せている時点で、それは囚われということになります。

とはいえ「誰が何と言おうとこれこそ正しい姿なのだ」というのは、それこそ自分だけの世界に入ってしまっている
状態であるわけですから、他の誰よりも、自分こそが聞く耳を持たないということになります。
囚われという点では、なまじっかな優等生よりもタチが悪いかもしれません。
私はまさにそれでした。

「かくあるべき」というのは明らかにがんじがらめの世界ですが、自分はそれを信じきっていましたので、全く
苦しくありませんでした。
むしろ、自信に溢れてイキイキしているように感じていました。


それほどに、渦中にいる時というのは自分が見えないものです。

誰の声も聞こうとしない、自分の信じた道しか行かない。
こうなると、内側から氷解していくしか道はありません。
まさに、天は自ら助くるものを助くなのです。

さて、当時はそれとは知らずに私は通っていたのでしたが、良縁の御利益で有名な神社がありました。
それを求める女性たちが、観光気分まる出しでキャーキャーと押し寄せていました。

当時の私は、寛容性のカケラもなく、むしろ攻撃的・排他的で、ダメなものは全否定するような性格でした。
ですから、そのように何かに依存しようとする姿に正直嫌悪感を覚えましたし、また、観光気分で我欲のお願い事を
しようとする不敬不遜ぶりを不快に感じていました。
そこには「自分は正しい」という思いと同時に、「彼女たちはダメな人たちだ」という思い上がりがあったわけです。

とはいえ、その時はそういうこと以上に、彼女たちの行ないは、世間の常識からしても明らかに失礼なこと、いけないこと
をしているようにしか見えないものでした。

しかし、神様は『それでいい』の一言でした。

まさに、すべてを受け入れる大きな心がそこにはありました。
きちんとやっている人だけに心を開くのものだと思い込んでいた当時の私にとって、それは衝撃的なものでした。
相手がチャランポランな人であろうと何だろうと、何も変わることなくそのままを受け入れる心がそこにあった
のです。

それでもなお、「かくあるべき」だった自分はそれを消化することが出来ませんでした。
きちんとやっていない人までも等しく扱われるということに、激しい抵抗感を覚えました。

当時の私は、世の中の即物的な価値観を拒絶し、天地の真理・天地の大道に沿った生き方を目指そうとしていました。
でも結局は、天地というものをまったく分かっていなかったということです。

境内を出てから何度も自問自答を繰り返し、そしてついに、自分の姿がはっきりと映りました。
人間風情で神様の気持ちを分かったような顔して理解者を気取り、自分だけイイ子チャンになって認めてもらおうと
していた、その姿が。

他人から褒めてもらおうとする生き方には白い目を向けていながら、実際のところは、自分以外の存在(天地)に認めて
もらおうとしていたのです。
誰よりも優等生たろうとしていたわけです。

そこに思い当たった時、とてつもないほど恥ずかしい気持ちになりました。
観光気分の彼女たちは褒めてもらえない存在で、自分は褒めてもらえる存在だと、無意識のうちに優越感に浸っていた
のですから。

その瞬間、それまでのすべての価値観、固定観念が粉々に崩れ落ちました。

価値観や固定観念というのは自分の存在そのものの投影でしたから、まさに自分自身が音を立てて崩れるような感覚でした。
一瞬にして30年間のすべてが壊れたのですから、なんとも酷い話です(笑)

「すべてを認める」「すべてを受け入れる」という寛容さや包容力は、ある意味、母性的なものです。
いわば父性的なものを追い続けていた自分からすれば、それはヤワで軟弱で、到底受け入れがたいものに感じていました。

ただ人間というのは、誰もが母性と父性の両方を持っています。
そして母性と父性は切り分けられるものでなく、陰陽のマーク(太陰大極図)のように、お互いの中にそれぞれを内含
しているものです。

今だから分かりますが、男らしい潔さや度量、利他行為というのものは、自分の中の母性を否定し排除することで
磨かれるものではなく、むしろ全てを受け入れる母性あればこそ発露するものだったわけです。


今日はすっかり話が脱線してしまいましたが、一つ一つの言葉はすべて自分自身へのメッセージであり、それを反芻する
作業だと思って書いています。

過ぎ去った昔のことで「あれで良かったのか」と迷いが生じることや、他の誰かの言動でムカッとしてしまうことは
多々ありますが、そんな時こそ「それでもやっぱり『コレでいいのダ』」と、安心の境地で言うように心がけています。

それでも、なかなか、そうしたがらない自分がいるのも確かですが…

そんな自分もまた「これでいいのダ」ということで(笑)

チャンチャン

透明なこころ

2015-01-24 16:19:55 | 心をラクに
天地というのはエネルギー(氣・神気)に満ち満ちています。

「水の中にいる魚は水の存在に気づけない」と言いますが、さしずめ「『お蔭さま』の中にいる私たちは『お蔭さま』の存在に気づけない」と
いったところかとしれません。

天地のエネルギーをその水に喩えるなら、私たちは大海の中に両手を入れて水をすくおうとしているようなものだと言えます。
手の中の水を自分の力と思ってしまい、それを使いきるまい、逃すまいとして必死に指を閉じているわけです。

心や体が疲れ果てている時というのは、そのエネルギーが枯れかけている状態です。
仕事や生活にガリガリ(我利我利)しすぎて指を閉じてしまっているため、水が枯れかけているということです。

このことは、水の中にソッと手をいれたまま優しく包んでみればよくわかります。
指の隙間(透き間)はスカスカにあいてます。
そのままに放っとけば、指に関係なく水は漂っています。
手の中も、手の外も、どちらも同じ水ということです。

便宜上はエネルギーが交流するという言い方をしていますが、実際は流れているのではなく、溶け(解け)合った一つの状態であるわけです。

しかし天地を忘れ、自分だけになってしまうと、手をガチガチに固くして壁を作ってしまいます。
天地と自分とを隔てる壁とは、我執のことです。
自我の執着が強いと、雑念が詰まり詰まって天地と隔たりができてしまいます。

たとえば、人里離れた大自然の中に行くと、天地のエネルギーが自分の中に流れ込んできて清々しい気持ちになります。
これは様々な雑念を呼び起こす要素に溢れる日常から切り離されたことで、心の雑味が薄まったからだと言えます。

もちろん、大自然に満ちるエネルギーの純度が強いために、それが呼び水になって囚われから解放されたという面もあるでしょうが、やはり
私たち自身の変化が一番の要因だと思います。

つまり、こういうことです。
「天地のエネルギーは、都会であっても大自然の中であっても、等しく満ち満ちている」
「ただ都会の方が、私たちがあれこれと囚われやすいために、天地のエネルギーを感じ取りにくくなっている」

といって、都会で悶々と暮らしていることが不幸で、田舎のナチュラルライフが健全だということにはなりません。
たまたま縁があってそうなるのであれば別ですが、今の環境を否定してナチュラルライフを求めるのは、目的を履き違えてしまっていると
いうことです。

執着や囚われが少ければ天地と一体となって生きやすいのは確かですが、人生は生きやすくなるのが目的ではないからです。

私たちは、生きやすくなるために生きているわけではありません。

都会であれ田舎であれ、あるいは過酷な仕事であれ楽勝な仕事であれ、執着や囚われを生み出す誘惑や出来事に囲まれていればこそ私たちは
自分の心の状態に気が付けるわけですし、今に集中することの大切さと素晴らしさを感じられるわけです。

そして、その結果として、天地と溶け合って一つになるのです。
あくまで結果として、生きやすくなるだけなのです。

そこまでの「過程」つまり「今を刻む」ことをすっ飛ばして、天地と溶け合って一つになることだけを求めるのは本末転倒ということです。

それは灯台の明かりのような、道を進むための目印ではありますが、本当の目的ではありません。
本当の目的は、この足元の一歩一歩です。

ですから、ある瞬間に天地との一体感を覚えたのに、その次の瞬間また執着に囚われてしまったとしても、それでいいのです。
常に天地と一体でなければいけないということではないのです。

執着の素は外ではなく内にあります。

囚われや執着のネタを排除しようと奥山にこもったとしても、それは外のものを排除し続けるという、終わりなきイタチごっこでしかなく、時々たまたま天地のエネルギーと一つになれるか
どうかでしかないわけです。

確かに、それが清々しい状態なのは間違いありません。
でもそれは、誰でも普通に生きて普通に死んだらそうなるわけです。

私たちは最初からその状態になっているというのならば、なぜこの世であえて再びそれを目指そうとするのかというところにまさしく答えが
あります。

つまり、それ自体はただの目標に過ぎず、大事なのは足元の一歩のほう。
「今」ということなのです。

そうすると、私たちがすでに知っているその大きな心に立ち返ってみれば、囚われや執着すらも有りがたく、あるいは愛おしく思えてくると
いうことになります。

しかし、私たちは囚われたくない執着したくないという思いが強すぎるあまり、それを忌み嫌って、遠ざけよう、切り捨てよう、フタをして
しまおうとしてしまいます。


「雑念や感情が湧いてきたらそのまま流す」というものも解釈を間違ってしまうと、遠いところに置いたり無視したりしてしまいます。
正しく言うならば、むしろ積極的にジャンジャン受け入れていくことが、流すことになります。

見ないようにしよう、心を向けないようにしようと思えば思うほど、その思いに囚われてしまいます。
執着しないようにしようとすればするほど「執着しないようにしよう」という思いに執着してしまいます。

雑念や感情を流すというのは結果的に「流した」形になっているだけであって、実はそれは「受け入れる」ということであるわけです。

流れを止めないためには、それらを受け入れることです。
そして受け入れるということは、それを否定も肯定もしないということです。

見ないというのは拒絶です。
すなわち、拒絶にエネルギーを注いでいる状態です。
あるいは肯定というものもまた、囚われになりかねません。

よく「天(宇宙、神)の愛」という表現において、ポジティブやプラスや積極性、肯定、出力という意味合いにとられることがありますが、
残念ながらそれらはどれも色がつきすぎてしまっています。

四の五の言わず、ただ、受け入れる。100%そのままの今を認める。
その寛容さだと思います。

注がれるものや出されるものではなく、ただ、在る。
まさに、この天地宇宙に満ちているエネルギーと同じであるということです。

愛というものは、その言葉のイメージに引っ張られて勘違いしやすいものですが、それというのはエネルギーであり「状態」だと言えます。
まさしく、天地宇宙に満ちる寛容性こそが愛であるわけです。

寛容に満ち溢れたこの世に生まれ出て、今こうして存在している、ただ生かされているというその時点で、私たちは全てひっくるめてOK
されているということです。

そんなにあわてて一足飛びに上を目指そうとしなくてもいいのです。

目の前にある執着や囚われを、時には上手く流し、時には飲み込まれ、悶々としたりスッキリしたりしながら日々を刻んでいく。

それでイイのです。
それイイのです。

湧きあがる執着から逃れることができず苦しくて仕方がない時、私たちはどうしてもそれを否定し、拒絶したくなります。
でも、それをすればするほど執着は強化されてしまいます。

そんな時にこそ、天地の心であるわけです。

「これでいいのダ」
「囚われてしまいがちでもイイのダ」

何もかも受け入れてくれる天地の優しさというのは、まるで揺りかごのようです。

そうやってホッとした気持ちになった時、私たちは天地そのものとなっているのです。




みんな、おかげさまで生きてます

2015-01-21 22:15:40 | 心をラクに
「おかげさま」って、とってもいい響きですよね。
もう、その語感だけで、なんだか心洗われるような清らかな気持ちになります。

以前、私たちは自分だけで生きているわけではないと書きましたが、この言葉にはそのエッセンスが詰まっているような気がします。

親や家族、友人や知人、地域や社会に包まれて私たちは生活していますが、そのアタリマエの毎日も、そうした多くの存在のおかげで成り立って
います。
もちろんそんなところで、俺のおかげだゾと主張する人なんて居ません。
まさに、蔭ながらです。

そして、さらにはそれらをも包む、大自然、天地宇宙の存在があるわけです。

たとえば、親が子供に向ける心は、子供が外へ遊びに出かけて目の前から居なくなっても途切れることはありません。
相手が見えようが見えまいが、変わることがありません。
そして、その心は、目には見えなくとも確実に存在しています。

同じように、あらゆる人間は、意識せずに心を外へ向けています。
地域や社会というものも、そのエネルギーに満ちています。

そして天地宇宙も、まさに親が子に向けるように、私たちに心を向けています。
天地に満ち満ちている氣の中に、私たちは包まれています。

私たちが、自分で思いついたり、自分で閃(ひらめ)いているかのように思っていることも、実は天地のおかげかもしれません。

世の中には、普通の人に聞こえないものが聞こえたり、見えないものが見えたりする人もいますが、それが特別なことかというとそうでは
ありません。
それはたまたま分かりやすい形で見えるだけで、この世に存在するすべての人間はそれと同じことをごく自然にやっています。

天地と分け隔てなく溶け合っている時は、天の心も自分の心も一つになり、あたかも自分で思いついたような形になってあらわれます。
自我が薄まっているから、受け手も送り手もなくなるわけです。
まさに、時差ゼロ秒です(笑)

自分で思いついたことですから、自分の意思でもってそれを行動に移します。
これは、誰かに言われて動くのとは180度違います。
「自ら」という内発的な行動だからいいわけです。

神様が降ろしたご神託だから凄いなどというのは短絡的な発想と言わざるを得ません。
比較と優劣の観念でもってありがたがっている時点で、それは本物には成りません。
自分で思いついたものこそ、ありがたいのです。

さて、ではこれを人間関係に当てはめるとどうなるでしょうか。

誰か他の人に対して、こうやるとイイよとアドバイスしたり、手を貸したり、あるいは後押しをしたりと、そういう人はいわゆるイイ人と
呼ばれます。
自分も、そうありたいものです。
簡単にできそうで、なかなかできないのが人間というものです。

でも、その先へとさらに進めてみますと、そこには、
『相手に気づかれないように蔭ながら手助けする』
『相手が自分で思いついたかのように蔭ながら導く』

という世界があります。

昔からそれは「陰徳」と呼ばれ、尊ばれてきました。

外部の誰かの力を借りたと認識してしまうと、その人の心は、自らの課題や業を純粋にクリアできなくなります。
自分の力でやっていると信じて、自らの足で進むところに意味があるわけです。

子供は、両親が見守る眼差しには気づかずに、目の前のことに100%心を向けて、自分の世界を自分の足で歩いていくことで大きく
成長していきます。

陰徳というのは、神性の発露のために自らの欲得を捨てて無心で行なう純粋性・透明性の大切さを示すものですが、一方では、このような側面も
あったのではないかと、私は思います。

そして、その陰徳の最たるものが天地の心であるわけです。

今も私たちは、天地宇宙という大いなる存在に見守られて、生かされています。

人はみな、自分の足で歩くために、生まれてきました。
ですから、今の一歩に100%心を向けて進んでいきます。
しかし、ともすれば、自分の力だけで進んでいると勘違いしがちです。

だから、いつも思いだして感謝することがとても大切なことだと思います。

私たちは、生まれてから今この時も、一瞬も絶やすことなく、溢れるほどの『お蔭さま』によって生かされているのです。