この世界は、すべての存在が、今のそのままで受け入れられています。
たとえ調和を乱す異分子であっても、他の存在と等しく、天地は温かく優しく包み込んでいます。
どのような形であれ、存在しているというのはそういうことです。
あえて意味付けをしたり、屁理屈をこねたりするまでもなく、プラスもマイナスもなくそのままで
受け入れられているわけです。
これと同じことが、私たちの肉体にも当てはまります。
私たちの心は、全宇宙にあまねく天地の心と同じものです。
今こうして天地の心に包まれて生きている私たち一人一人と同じように、細胞一つ一つも私たちの心に
包まれながら存在しています。
そしてまた私たちは、天地宇宙と一つに溶け合う存在であり、同時に私たち自身という一つの存在でも
あります。
つまり、全にして個であり、個にして全です。
私たちの身体にしても同じことで、一つ一つの細胞という「個」であるとともに、この私という「全」である
わけです。
私たちは、まさに天地宇宙の縮図です。
全を感じながら、個も感じる。
肉体の外に広がる世界がそうであるように、この肉体の内でも、全と個が共に感じられているのです。
私たちの身体には、天地宇宙の姿が投影されています。
私たちは、生きることがそのまま天地宇宙を感じることになっています。
天地宇宙を感じることに何ら障害となるものはありません。
たとえば、病気というのは正常ではない状態のように思いがちです。
でも病気であろうと何であろうと、天地宇宙は自他の別なく感じることができます。
確かに、天地と一体になっていれば病気にはならないというのも一理あります。
ただ、それはあくまで一理でしかありません。
その逆が真ということではないわけです。
病気になったからといって、天地と一つではない、ということにはなりません。
私たちにとって、この世に生まれた本当の目的は「今をただ生きる」ことにあります。
今を様々に感じて生きる、というところにあるわけです。
ですから、たとえ体を壊したり病気になろうとも、天地宇宙を感じることには何の障害もないのです。
むしろ、それらは天地宇宙を感じるための縁(よすが)であるというのが真実です。
病気というのは、常日頃とは異なる状態かもしれません。
でも、病気になった体や細胞それ自身としては、自分が異分子であるとは思っていないでしょう。
違う視点から見れば調和を乱しているように映ったとしても、一つ一つの視点では必死に生きています。
そして私たちの身体は天地宇宙の縮図ですから、これと同じことが私たち自身にも当てはまります。
私たちも、時に足を踏み外し、時に調和を乱し、それでも自分なりにもがき苦しみ生きていきます。
天地宇宙に見守られながら、色々な人生を歩んでいきます。
決して天地から排除されたり、迫害されるようなことはありません。
異物だとかマイナスの存在だというようなレッテル貼りはされないのです。
そうであればこそ、「今をただ生きる」ことができるのです。
非難めいた視線や悪感情を注がれながら、針のむしろの中で生きるのは本当にツラいことです。
私たちは天地の下で、そんなこともなく自由に生かさせて頂いています。
むしろ、自分で自分に非難がましく悪感情を注ぐことさえも、温かく見守られているわけです。
当たり前に思っている今この状態は、大変にありがたいことです。
ただ、自分だけでなく周りの人たちも同じ厚遇に浴していると、想像力が欠けて、そうした感覚が
鈍ってしまいます。
空気の中にいると、その存在を忘れてしまうようにです。
極端な話、今ここで自分一人が異分子になってしまったとすると、どのように感じるでしょう。
大変な孤独に陥るでしょうし、周りから責められやしないかと心を痛めるのではないでしょうか。
そんな時に思うのは、せめてソッと温かく見守って欲しいということでしょう。
そしてもしも、優しく包み込んでもらえたのならば、それだけで全てが救われるのではないでしょうか。
私たちにとっての天地宇宙がそうであるように、細胞にとっての私たちはそのような存在なのです。
私たちは天地であり、私たちは宇宙そのものです。
私たちが病気の体に向ける心は、良くも悪くもそういうことなのです。
異分子にしか見えないものでも無条件に受け入れるというのは、プラスもマイナスも関係なしに、一切の
価値判断を加えず、ただその存在を認めてあげるということです。
褒めもせず、けなしもせずです。
とりわけ、自分の身体は自分のものだという思い込みは、これを難しくさせます。
自他なく受け入れることと、我が物と思い込むことは、全く違うものです。
自分の配下に置いてしまうと、思い通りにならないことに苛立ちを感じてしまいます。
言うことを聞かせようと叩きに叩き、それでも従わない時は、我が敵として切り捨てにかかります。
「病気と闘う」というのは、まさにこのことです。
対立というのは本当に悲しいことです。
ましてや、家族以上の身内である、自分自身、それも自分の一番近くで無心で自分を支えようとしている
不可分の自分に敵対するなんて尚更です。
そもそも私たちこそ、彼ら細胞の庇護のもと、生かされています。
そしてそうした彼らも私たちに見守られて存在しています。
どちらが上も下もありません。
互いが互いを包みながら、生かし生かされているのです。
時に、私たちも道を踏み外さないよう何とかしようとあがいているうちに益々おかしくなってしまうことが
あると思います。
こんなはずではなかったと。
でもそれを、例えば天でもいいです、親でもいいです、それを責め立てられた挙げ句、この世から居なく
なって欲しいなんて思われてしまったら、いったいどうしていいのか分からなくなってしまいます。
彼ら細胞も、自主的に道を踏み外そうとしたわけでなく、自分ではどうしようもない大きな流れに清らかに
従っているだけです。
しかも、その大河を生み出しているのは、他でもないこの私たちです。
細胞はただ素直にその流れに乗って、一所懸命に生きているだけなのです。
大きな流れというのは、自分の信念だったり感情だったり、思い込みだったりこだわりだったり、あるいは
自分自身が演出したプレゼントだったり、その出処は星の数ほど様々です。
ですから、その流れの元を見つけようとか止めようとしても、なかなか出来るものではありません。
むしろ、そうした考え自体がフワフワと足元おぼつかなくさせ、目の前の今から遠ざかる行為となりかね
ません。
となると、もっと違うところへ心を向けるのが健全ということになります。
つまり、まず受け入れることです。
流れを見つけようとするのではなく、その流れに身を投じて私たちに指し示してくれている病気に、
心を向けるということです。
ただ、それは自分の悪感情を無視して頭ごなしにやるものではありません。
自分の芯の部分で受け入れられていなければ、たとえ必死に受け入れようとしても、かえって思いを奥へ
押し込めてしまい、大河という部分では逆効果になってしまいます。
こうすればいいからとか、そのような理屈でもありません。
自分の内から湧き出る純粋な思いに耳を澄ませるだけです。
細胞たちが、本人たちの必死のあがきにも関わらず、私たちの生み出した流れによってそのようになって
しまったという、そのことに、まず思いを向けてみましょう。
その流れの中で必死に生きようとしていることにです。
自分がその立場だったらどう思うでしょう。
それでも彼ら(=私たち)は明るく懸命に生きようとしてるのです。
私たちを恨むこともなく。
それなのに、罵詈雑言を浴びせられたり、非難されたりしているわけです。
いま、心の底からフツフツと湧きあがるものがあれば、理屈は横へ置いといて、その気持ちに心を向けて
みて下さい。
そして、その思いを素直に出してみて下さい...
「ごめんね」
「ありがとう」
たとえ今この一瞬だけであろうとも、心からそう思えることはとても貴いものです。
それこそが、まさに「受け入れる」ということになります。
神道の真骨頂は、異物を排除することではなく、それをそのままで変換させることにあります。
「異分子」「異物」というのは、私たちの頭で勝手に「異なる」と判断したものです。
「異なる」というのは、自分とは区別するということです。自分の外に置くということです。
相手をそのままで受け入れるということは、そうした線引きを手放すことになります。
つまり、異なっていたものが、異ならないものになるということです。
それこそが、神道でいう変換された瞬間であり、祓われた瞬間であるわけです。
異なるものはダメなものだと烙印を押して排除するのとは違います。
この世界は、私たちの心一つで、穢れもするし、祓われもするのです。
病気によって不自由になるのは、身体ではなく、実は心のほうです。
身体はその時できる100パーセントを常に現していますが、そこに比較を挟むことで、心が不自由さを
覚えてしまいます。
そのため、病気に対して物凄いネガティヴな感覚を抱いてしまうわけです。
いつもは鳴りを潜めている囚われや我執が大騒ぎし始めます。
ですから、病気を受け入れることは心の祓い清めになると言えます。
その意味では、私たちの心が病気を祓うのではなく、病気が私たちの心を祓うのです。
受け入れるというのは、プラスの意味付けをして理屈で納得するものではありません。
むしろ、全ての意味付けを無くして、ありのままに見ることです。
病気とは私たちの生み出す心の流れを示す光と言えるかもしれません。
それはまさに指月の指です。
その灯明を頼りに、私たちは目に見えない心を現し見ることが出来ます。
ただ、それは決して、今の自分の心が汚れていたり穢れているということではありません。
そのように判断やレッテル貼りを始めてしまうことこそが元の木阿弥になってしまいます。
誰の心も、汚れていませんし、穢れてもいません。
天地宇宙はすべてをそのままに受け入れています。
そして、新たな飛躍や違った景色が広がる時に、今の視点を変えるためのキッカケとして、ポッとそれを
指し示す明かりが灯るのです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
意味付けや価値づけは必要ないものです。
視点が変われば、景色が変わります。
そして視点は、雑念や囚われを手放すことで、変わります。
ですから、ただ真っさらな心で目の前のことを受け入れていくだけなのです。
人によって、ここだけは真っさらになれない部分というのが様々あります。
でも、それはそれでいいのです。
ただ、タイミングとしてそこを清らかに晴らす時が、人それぞれにやってきます。
それにゴーサインを出しているのは自分自身であるわけです。
ですから、病気になったから良くないとか、そういうことでは決してありません。
私たちの心を洗い流したあと、役目を果たした灯火は薄っすらと清らかに消えていきます。
私たちは、素直な心を向けるだけです。
たとえ一瞬でも風が吹き抜ければ、私たちも私たちの身体も、天地宇宙のもとで一つに溶け合うでしょう。
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たとえ調和を乱す異分子であっても、他の存在と等しく、天地は温かく優しく包み込んでいます。
どのような形であれ、存在しているというのはそういうことです。
あえて意味付けをしたり、屁理屈をこねたりするまでもなく、プラスもマイナスもなくそのままで
受け入れられているわけです。
これと同じことが、私たちの肉体にも当てはまります。
私たちの心は、全宇宙にあまねく天地の心と同じものです。
今こうして天地の心に包まれて生きている私たち一人一人と同じように、細胞一つ一つも私たちの心に
包まれながら存在しています。
そしてまた私たちは、天地宇宙と一つに溶け合う存在であり、同時に私たち自身という一つの存在でも
あります。
つまり、全にして個であり、個にして全です。
私たちの身体にしても同じことで、一つ一つの細胞という「個」であるとともに、この私という「全」である
わけです。
私たちは、まさに天地宇宙の縮図です。
全を感じながら、個も感じる。
肉体の外に広がる世界がそうであるように、この肉体の内でも、全と個が共に感じられているのです。
私たちの身体には、天地宇宙の姿が投影されています。
私たちは、生きることがそのまま天地宇宙を感じることになっています。
天地宇宙を感じることに何ら障害となるものはありません。
たとえば、病気というのは正常ではない状態のように思いがちです。
でも病気であろうと何であろうと、天地宇宙は自他の別なく感じることができます。
確かに、天地と一体になっていれば病気にはならないというのも一理あります。
ただ、それはあくまで一理でしかありません。
その逆が真ということではないわけです。
病気になったからといって、天地と一つではない、ということにはなりません。
私たちにとって、この世に生まれた本当の目的は「今をただ生きる」ことにあります。
今を様々に感じて生きる、というところにあるわけです。
ですから、たとえ体を壊したり病気になろうとも、天地宇宙を感じることには何の障害もないのです。
むしろ、それらは天地宇宙を感じるための縁(よすが)であるというのが真実です。
病気というのは、常日頃とは異なる状態かもしれません。
でも、病気になった体や細胞それ自身としては、自分が異分子であるとは思っていないでしょう。
違う視点から見れば調和を乱しているように映ったとしても、一つ一つの視点では必死に生きています。
そして私たちの身体は天地宇宙の縮図ですから、これと同じことが私たち自身にも当てはまります。
私たちも、時に足を踏み外し、時に調和を乱し、それでも自分なりにもがき苦しみ生きていきます。
天地宇宙に見守られながら、色々な人生を歩んでいきます。
決して天地から排除されたり、迫害されるようなことはありません。
異物だとかマイナスの存在だというようなレッテル貼りはされないのです。
そうであればこそ、「今をただ生きる」ことができるのです。
非難めいた視線や悪感情を注がれながら、針のむしろの中で生きるのは本当にツラいことです。
私たちは天地の下で、そんなこともなく自由に生かさせて頂いています。
むしろ、自分で自分に非難がましく悪感情を注ぐことさえも、温かく見守られているわけです。
当たり前に思っている今この状態は、大変にありがたいことです。
ただ、自分だけでなく周りの人たちも同じ厚遇に浴していると、想像力が欠けて、そうした感覚が
鈍ってしまいます。
空気の中にいると、その存在を忘れてしまうようにです。
極端な話、今ここで自分一人が異分子になってしまったとすると、どのように感じるでしょう。
大変な孤独に陥るでしょうし、周りから責められやしないかと心を痛めるのではないでしょうか。
そんな時に思うのは、せめてソッと温かく見守って欲しいということでしょう。
そしてもしも、優しく包み込んでもらえたのならば、それだけで全てが救われるのではないでしょうか。
私たちにとっての天地宇宙がそうであるように、細胞にとっての私たちはそのような存在なのです。
私たちは天地であり、私たちは宇宙そのものです。
私たちが病気の体に向ける心は、良くも悪くもそういうことなのです。
異分子にしか見えないものでも無条件に受け入れるというのは、プラスもマイナスも関係なしに、一切の
価値判断を加えず、ただその存在を認めてあげるということです。
褒めもせず、けなしもせずです。
とりわけ、自分の身体は自分のものだという思い込みは、これを難しくさせます。
自他なく受け入れることと、我が物と思い込むことは、全く違うものです。
自分の配下に置いてしまうと、思い通りにならないことに苛立ちを感じてしまいます。
言うことを聞かせようと叩きに叩き、それでも従わない時は、我が敵として切り捨てにかかります。
「病気と闘う」というのは、まさにこのことです。
対立というのは本当に悲しいことです。
ましてや、家族以上の身内である、自分自身、それも自分の一番近くで無心で自分を支えようとしている
不可分の自分に敵対するなんて尚更です。
そもそも私たちこそ、彼ら細胞の庇護のもと、生かされています。
そしてそうした彼らも私たちに見守られて存在しています。
どちらが上も下もありません。
互いが互いを包みながら、生かし生かされているのです。
時に、私たちも道を踏み外さないよう何とかしようとあがいているうちに益々おかしくなってしまうことが
あると思います。
こんなはずではなかったと。
でもそれを、例えば天でもいいです、親でもいいです、それを責め立てられた挙げ句、この世から居なく
なって欲しいなんて思われてしまったら、いったいどうしていいのか分からなくなってしまいます。
彼ら細胞も、自主的に道を踏み外そうとしたわけでなく、自分ではどうしようもない大きな流れに清らかに
従っているだけです。
しかも、その大河を生み出しているのは、他でもないこの私たちです。
細胞はただ素直にその流れに乗って、一所懸命に生きているだけなのです。
大きな流れというのは、自分の信念だったり感情だったり、思い込みだったりこだわりだったり、あるいは
自分自身が演出したプレゼントだったり、その出処は星の数ほど様々です。
ですから、その流れの元を見つけようとか止めようとしても、なかなか出来るものではありません。
むしろ、そうした考え自体がフワフワと足元おぼつかなくさせ、目の前の今から遠ざかる行為となりかね
ません。
となると、もっと違うところへ心を向けるのが健全ということになります。
つまり、まず受け入れることです。
流れを見つけようとするのではなく、その流れに身を投じて私たちに指し示してくれている病気に、
心を向けるということです。
ただ、それは自分の悪感情を無視して頭ごなしにやるものではありません。
自分の芯の部分で受け入れられていなければ、たとえ必死に受け入れようとしても、かえって思いを奥へ
押し込めてしまい、大河という部分では逆効果になってしまいます。
こうすればいいからとか、そのような理屈でもありません。
自分の内から湧き出る純粋な思いに耳を澄ませるだけです。
細胞たちが、本人たちの必死のあがきにも関わらず、私たちの生み出した流れによってそのようになって
しまったという、そのことに、まず思いを向けてみましょう。
その流れの中で必死に生きようとしていることにです。
自分がその立場だったらどう思うでしょう。
それでも彼ら(=私たち)は明るく懸命に生きようとしてるのです。
私たちを恨むこともなく。
それなのに、罵詈雑言を浴びせられたり、非難されたりしているわけです。
いま、心の底からフツフツと湧きあがるものがあれば、理屈は横へ置いといて、その気持ちに心を向けて
みて下さい。
そして、その思いを素直に出してみて下さい...
「ごめんね」
「ありがとう」
たとえ今この一瞬だけであろうとも、心からそう思えることはとても貴いものです。
それこそが、まさに「受け入れる」ということになります。
神道の真骨頂は、異物を排除することではなく、それをそのままで変換させることにあります。
「異分子」「異物」というのは、私たちの頭で勝手に「異なる」と判断したものです。
「異なる」というのは、自分とは区別するということです。自分の外に置くということです。
相手をそのままで受け入れるということは、そうした線引きを手放すことになります。
つまり、異なっていたものが、異ならないものになるということです。
それこそが、神道でいう変換された瞬間であり、祓われた瞬間であるわけです。
異なるものはダメなものだと烙印を押して排除するのとは違います。
この世界は、私たちの心一つで、穢れもするし、祓われもするのです。
病気によって不自由になるのは、身体ではなく、実は心のほうです。
身体はその時できる100パーセントを常に現していますが、そこに比較を挟むことで、心が不自由さを
覚えてしまいます。
そのため、病気に対して物凄いネガティヴな感覚を抱いてしまうわけです。
いつもは鳴りを潜めている囚われや我執が大騒ぎし始めます。
ですから、病気を受け入れることは心の祓い清めになると言えます。
その意味では、私たちの心が病気を祓うのではなく、病気が私たちの心を祓うのです。
受け入れるというのは、プラスの意味付けをして理屈で納得するものではありません。
むしろ、全ての意味付けを無くして、ありのままに見ることです。
病気とは私たちの生み出す心の流れを示す光と言えるかもしれません。
それはまさに指月の指です。
その灯明を頼りに、私たちは目に見えない心を現し見ることが出来ます。
ただ、それは決して、今の自分の心が汚れていたり穢れているということではありません。
そのように判断やレッテル貼りを始めてしまうことこそが元の木阿弥になってしまいます。
誰の心も、汚れていませんし、穢れてもいません。
天地宇宙はすべてをそのままに受け入れています。
そして、新たな飛躍や違った景色が広がる時に、今の視点を変えるためのキッカケとして、ポッとそれを
指し示す明かりが灯るのです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
意味付けや価値づけは必要ないものです。
視点が変われば、景色が変わります。
そして視点は、雑念や囚われを手放すことで、変わります。
ですから、ただ真っさらな心で目の前のことを受け入れていくだけなのです。
人によって、ここだけは真っさらになれない部分というのが様々あります。
でも、それはそれでいいのです。
ただ、タイミングとしてそこを清らかに晴らす時が、人それぞれにやってきます。
それにゴーサインを出しているのは自分自身であるわけです。
ですから、病気になったから良くないとか、そういうことでは決してありません。
私たちの心を洗い流したあと、役目を果たした灯火は薄っすらと清らかに消えていきます。
私たちは、素直な心を向けるだけです。
たとえ一瞬でも風が吹き抜ければ、私たちも私たちの身体も、天地宇宙のもとで一つに溶け合うでしょう。
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