これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

病気は心の洗われ

2015-07-26 21:31:32 | 体をラクに
この世界は、すべての存在が、今のそのままで受け入れられています。
たとえ調和を乱す異分子であっても、他の存在と等しく、天地は温かく優しく包み込んでいます。
どのような形であれ、存在しているというのはそういうことです。

あえて意味付けをしたり、屁理屈をこねたりするまでもなく、プラスもマイナスもなくそのままで
受け入れられているわけです。

これと同じことが、私たちの肉体にも当てはまります。

私たちの心は、全宇宙にあまねく天地の心と同じものです。
今こうして天地の心に包まれて生きている私たち一人一人と同じように、細胞一つ一つも私たちの心に
包まれながら存在しています。

そしてまた私たちは、天地宇宙と一つに溶け合う存在であり、同時に私たち自身という一つの存在でも
あります。
つまり、全にして個であり、個にして全です。
私たちの身体にしても同じことで、一つ一つの細胞という「個」であるとともに、この私という「全」である
わけです。

私たちは、まさに天地宇宙の縮図です。
全を感じながら、個も感じる。
肉体の外に広がる世界がそうであるように、この肉体の内でも、全と個が共に感じられているのです。

私たちの身体には、天地宇宙の姿が投影されています。
私たちは、生きることがそのまま天地宇宙を感じることになっています。

天地宇宙を感じることに何ら障害となるものはありません。
たとえば、病気というのは正常ではない状態のように思いがちです。
でも病気であろうと何であろうと、天地宇宙は自他の別なく感じることができます。

確かに、天地と一体になっていれば病気にはならないというのも一理あります。
ただ、それはあくまで一理でしかありません。
その逆が真ということではないわけです。
病気になったからといって、天地と一つではない、ということにはなりません。
私たちにとって、この世に生まれた本当の目的は「今をただ生きる」ことにあります。
今を様々に感じて生きる、というところにあるわけです。
ですから、たとえ体を壊したり病気になろうとも、天地宇宙を感じることには何の障害もないのです。
むしろ、それらは天地宇宙を感じるための縁(よすが)であるというのが真実です。

病気というのは、常日頃とは異なる状態かもしれません。
でも、病気になった体や細胞それ自身としては、自分が異分子であるとは思っていないでしょう。
違う視点から見れば調和を乱しているように映ったとしても、一つ一つの視点では必死に生きています。

そして私たちの身体は天地宇宙の縮図ですから、これと同じことが私たち自身にも当てはまります。

私たちも、時に足を踏み外し、時に調和を乱し、それでも自分なりにもがき苦しみ生きていきます。
天地宇宙に見守られながら、色々な人生を歩んでいきます。
決して天地から排除されたり、迫害されるようなことはありません。
異物だとかマイナスの存在だというようなレッテル貼りはされないのです。
そうであればこそ、「今をただ生きる」ことができるのです。

非難めいた視線や悪感情を注がれながら、針のむしろの中で生きるのは本当にツラいことです。
私たちは天地の下で、そんなこともなく自由に生かさせて頂いています。
むしろ、自分で自分に非難がましく悪感情を注ぐことさえも、温かく見守られているわけです。
当たり前に思っている今この状態は、大変にありがたいことです。

ただ、自分だけでなく周りの人たちも同じ厚遇に浴していると、想像力が欠けて、そうした感覚が
鈍ってしまいます。
空気の中にいると、その存在を忘れてしまうようにです。
極端な話、今ここで自分一人が異分子になってしまったとすると、どのように感じるでしょう。
大変な孤独に陥るでしょうし、周りから責められやしないかと心を痛めるのではないでしょうか。
そんな時に思うのは、せめてソッと温かく見守って欲しいということでしょう。
そしてもしも、優しく包み込んでもらえたのならば、それだけで全てが救われるのではないでしょうか。

私たちにとっての天地宇宙がそうであるように、細胞にとっての私たちはそのような存在なのです。

私たちは天地であり、私たちは宇宙そのものです。
私たちが病気の体に向ける心は、良くも悪くもそういうことなのです。

異分子にしか見えないものでも無条件に受け入れるというのは、プラスもマイナスも関係なしに、一切の
価値判断を加えず、ただその存在を認めてあげるということです。
褒めもせず、けなしもせずです。

とりわけ、自分の身体は自分のものだという思い込みは、これを難しくさせます。
自他なく受け入れることと、我が物と思い込むことは、全く違うものです。
自分の配下に置いてしまうと、思い通りにならないことに苛立ちを感じてしまいます。
言うことを聞かせようと叩きに叩き、それでも従わない時は、我が敵として切り捨てにかかります。
「病気と闘う」というのは、まさにこのことです。
対立というのは本当に悲しいことです。
ましてや、家族以上の身内である、自分自身、それも自分の一番近くで無心で自分を支えようとしている
不可分の自分に敵対するなんて尚更です。

そもそも私たちこそ、彼ら細胞の庇護のもと、生かされています。
そしてそうした彼らも私たちに見守られて存在しています。
どちらが上も下もありません。
互いが互いを包みながら、生かし生かされているのです。


時に、私たちも道を踏み外さないよう何とかしようとあがいているうちに益々おかしくなってしまうことが
あると思います。
こんなはずではなかったと。
でもそれを、例えば天でもいいです、親でもいいです、それを責め立てられた挙げ句、この世から居なく
なって欲しいなんて思われてしまったら、いったいどうしていいのか分からなくなってしまいます。

彼ら細胞も、自主的に道を踏み外そうとしたわけでなく、自分ではどうしようもない大きな流れに清らかに
従っているだけです。
しかも、その大河を生み出しているのは、他でもないこの私たちです。
細胞はただ素直にその流れに乗って、一所懸命に生きているだけなのです。

大きな流れというのは、自分の信念だったり感情だったり、思い込みだったりこだわりだったり、あるいは
自分自身が演出したプレゼントだったり、その出処は星の数ほど様々です。
ですから、その流れの元を見つけようとか止めようとしても、なかなか出来るものではありません。
むしろ、そうした考え自体がフワフワと足元おぼつかなくさせ、目の前の今から遠ざかる行為となりかね
ません。

となると、もっと違うところへ心を向けるのが健全ということになります。
つまり、まず受け入れることです。
流れを見つけようとするのではなく、その流れに身を投じて私たちに指し示してくれている病気に、
心を向けるということです。

ただ、それは自分の悪感情を無視して頭ごなしにやるものではありません。
自分の芯の部分で受け入れられていなければ、たとえ必死に受け入れようとしても、かえって思いを奥へ
押し込めてしまい、大河という部分では逆効果になってしまいます。

こうすればいいからとか、そのような理屈でもありません。
自分の内から湧き出る純粋な思いに耳を澄ませるだけです。

細胞たちが、本人たちの必死のあがきにも関わらず、私たちの生み出した流れによってそのようになって
しまったという、そのことに、まず思いを向けてみましょう。
その流れの中で必死に生きようとしていることにです。
自分がその立場だったらどう思うでしょう。

それでも彼ら(=私たち)は明るく懸命に生きようとしてるのです。
私たちを恨むこともなく。

それなのに、罵詈雑言を浴びせられたり、非難されたりしているわけです。

いま、心の底からフツフツと湧きあがるものがあれば、理屈は横へ置いといて、その気持ちに心を向けて
みて下さい。
そして、その思いを素直に出してみて下さい...

「ごめんね」

「ありがとう」

たとえ今この一瞬だけであろうとも、心からそう思えることはとても貴いものです。
それこそが、まさに「受け入れる」ということになります。

神道の真骨頂は、異物を排除することではなく、それをそのままで変換させることにあります。
「異分子」「異物」というのは、私たちの頭で勝手に「異なる」と判断したものです。
「異なる」というのは、自分とは区別するということです。自分の外に置くということです。
相手をそのままで受け入れるということは、そうした線引きを手放すことになります。
つまり、異なっていたものが、異ならないものになるということです。

それこそが、神道でいう変換された瞬間であり、祓われた瞬間であるわけです。
異なるものはダメなものだと烙印を押して排除するのとは違います。

この世界は、私たちの心一つで、穢れもするし、祓われもするのです。

病気によって不自由になるのは、身体ではなく、実は心のほうです。
身体はその時できる100パーセントを常に現していますが、そこに比較を挟むことで、心が不自由さを
覚えてしまいます。
そのため、病気に対して物凄いネガティヴな感覚を抱いてしまうわけです。
いつもは鳴りを潜めている囚われや我執が大騒ぎし始めます。
ですから、病気を受け入れることは心の祓い清めになると言えます。

その意味では、私たちの心が病気を祓うのではなく、病気が私たちの心を祓うのです。

受け入れるというのは、プラスの意味付けをして理屈で納得するものではありません。
むしろ、全ての意味付けを無くして、ありのままに見ることです。

病気とは私たちの生み出す心の流れを示す光と言えるかもしれません。
それはまさに指月の指です。
その灯明を頼りに、私たちは目に見えない心を現し見ることが出来ます。

ただ、それは決して、今の自分の心が汚れていたり穢れているということではありません。
そのように判断やレッテル貼りを始めてしまうことこそが元の木阿弥になってしまいます。
誰の心も、汚れていませんし、穢れてもいません。
天地宇宙はすべてをそのままに受け入れています。

そして、新たな飛躍や違った景色が広がる時に、今の視点を変えるためのキッカケとして、ポッとそれを
指し示す明かりが灯るのです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
意味付けや価値づけは必要ないものです。

視点が変われば、景色が変わります。
そして視点は、雑念や囚われを手放すことで、変わります。
ですから、ただ真っさらな心で目の前のことを受け入れていくだけなのです。

人によって、ここだけは真っさらになれない部分というのが様々あります。
でも、それはそれでいいのです。
ただ、タイミングとしてそこを清らかに晴らす時が、人それぞれにやってきます。
それにゴーサインを出しているのは自分自身であるわけです。
ですから、病気になったから良くないとか、そういうことでは決してありません。

私たちの心を洗い流したあと、役目を果たした灯火は薄っすらと清らかに消えていきます。

私たちは、素直な心を向けるだけです。

たとえ一瞬でも風が吹き抜ければ、私たちも私たちの身体も、天地宇宙のもとで一つに溶け合うでしょう。



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和をもって貴しとなす

2015-07-19 13:02:39 | 国を常しえに立てます
伝統を守るのは、理屈を抜きにして、とても大事なことです。
生命の歴史を見ても、先祖代々脈々と続くものを継承していくのが、天地自然の姿です。

しかし、尊重することと固執することは全く違うものです。
そこに我執があるか無いかで、その意味が大きく変わってしまいます。

自分が謙虚な心にあれば、続いてきたものに対して自然に敬意をはらいます。
敬意とは、それをそのままで受け入れるということです。
変えまいと固執するのとは違います。
つまり自然に変化していくものは、変化するままに任せていくわけです。
決して恣意的に捻じ曲げるようなことはありませんし、凝り固めてしまうこともありません。
敬意を払うとは、それを自分の土俵におろして我執を混ぜこぜにしたりはしないということです。
抱え込みもせず、突き放しもせず、大切に見守ります。

変化というのは、まわりとの関係によって自然と起こるものです。
まわりが変化していけば、その中にあるものも変化していきます。
まわりとは、環境の場合もあれば、他者の場合もあります。
そしてそれに対する自身の変化というのは、順応という言葉にも置き換えられます。

長い歴史の中で、地球の変化に順応した生物だけが生き残りました。
あるいは、天敵から逃れるために進化したものだけが生き残りました。

何から何まで全く同じであり続けるものではないのです。
むしろ、微妙な揺らぎこそが、生命の脈動であるわけです。
人為的にガチッと固めてしまうのは、そのエネルギーを止めることでしかありません。

生き物の歴史がそうであるように、この世の森羅万象は緩やかな変化を普遍の共通項としています。
生活環境もそうですし、人間関係もそうです。
あるいは思考や心、信念や価値観もそうですし、様々な決めごともそうです。
長いスパンで見て、一つの形にこだわり続けたものは、いずれは消え去っています。

さて、政治の世界では、信条や旗色を鮮明にするために保守とか革新というような色分けをします。
一般的に、前者は右派、後者は左派と呼ばれます。

当然ながら、保守とか革新というのは、勝手な色付けでしかありません。
色々なものごとがある中で、変化していくものもあれば、変化しないものもあります。
守りか攻めかという指向性の違いはあるにせよ、右や左に関係なく、その時その時に応じて対処する
というのが天地の自然な姿といえます。

しかし今は、内容以前にまず右左のカラーありきで、それに従って結論を最初から決めつけてしまって
います。
思考のパターン化と言ってもいいかもしれません。

定義という枠組みを作ってしまい、そのレールに乗って進んでいき、対立をエネルギーとして論理を
展開させていく。
これは、完全に西洋のやり方です。
もともと私たち日本人は、そういう世界には居なかったはずです。

たとえば佐幕も倒幕も、あとから色付けされたものです。
右翼や左翼にしても、やはりあとから色付けされたものです。
昔の政治家は、己の中心に柱を立て、自身の灯明に依って生きていました。
外の枠組みに沿って生きていたわけではありません。
それは自分の世界に固執するということではなく、天地の中心としての自分ということです。
天地を土俵にした自分です。

小我という狭い土俵ではなく、世界の中の日本国、天地の中の人間という視野を持っていればこそ、
例えば坂本龍馬は仇敵である上士とも語り合えたし、幕府側とも当たり前に語り合えたわけです。
西郷隆盛しかり、山岡鉄舟、勝海舟しかり。
右翼の巨魁であった頭山満が、左翼の大物の中江兆民と無二の親友であったこともそうであるわけです。

今の私たちからすれば驚くべきものですが、実際そんな色づけなどは後から付けたものでしかないの
ですから、当時の人たちからすれば、ごく自然なことだったということです。
そして大我に身を置いてぶつかり合ったからこそ、世界が弱肉強食だった時代に、この国を生きて
永らえさせられたのです。

私たちも、西洋かぶれはもうやめましょう。
西洋的なやり方に触れて、まだ150年やそこらしか無いのです。
ましてや、保守だ革新だ、右派だ左派だなんてのは100年も経っていないわけです。
そんなポッと出の、青臭いものに熱を上げるのはやめましょう。

私たちには、もともと何千年も続いてきた、素晴らしい叡智と伝統があります。

すなわち「和合」です。

それこそが、私たちの国が世界に誇るべき最高のものです。
その姿は古事記や日本書紀にも描かれていますし、最古の憲法にも書かれています。
遥か太古から、私たちの国では天地宇宙の道理が当たり前に説かれています。

何が今一番大事なことなのか。
目先の狭い視野では、映るものは千差万別です。
それこそ、人の数だけ違ってきます。
信条や思い込みで見えるものなど、点でしかないのですから、そもそも和合など無理です。
世界が今どういう状況であるのか、他国の顔色ではなく私たち日本が生き残るためには何が必要なのか、
自分たちの子や孫の世代が護られるためには何が大事なのか、幅広く末永い視野で映し見ないと、会話は
成立しません。

ここで陥りやすいのが、子や孫のためといって自分だけの思いに囚われてしまうことです。
「子や孫の世代」というのは、30年、50年先の日本ということです。
その時代の全世界の中の日本という、広い視野こそが必要になります。
いくら未来に思いを馳せても、その先の視野が狭ければ何の意味もありません。
いま現在を広く眺め、行く末の世界も幅広く眺めることで、初めて主義や信条を超えた会話が成立
します。
そこでの対話をするのが、本当の政治です。
揚げ足取りなどというのは、それこそが視野の狭さの現われです。
子供の喧嘩と何一つ変わりません。
新聞やテレビを意識して悪口書いたプラカードを掲げるなんていうのは、いったい本当にこの国のことを
真剣に考える姿と言えるのでしょうか。

右も左もありません。
本当にこの国のことを思う心があるかどうかだけです。
そこでお互い真剣に思いを語り合いましょう。
国のことを語っているように装いながら、その実、自分のことしか見えていないような視野の狭い
我執など見たくありません。
これは、政治家だけでなく、私たち一人一人に当てはまることです。
自分のことなど、今は必要ないのです。
自分でもなければ相手でもありません。
この国のことです。
今の世界と、この国のことです。
個人などという瑣末な視野は本当に要りません。
そうした上での、和合です。
決して迎合ではありません。
個々のごたわりや我執ではなく、天地に身を置き、真っさらになって国のこと考えれば、必ずそれは
成ります。

私たち大和民族は、大いなる和合の民なのです。

西欧諸国のように、力にモノを言わせて相手を屈服させてきた時代は終わりました。
私たち日本人が太古から間違いなく引き継いできているものが、今や最も新しい光となります。
それは押し入れの奥に押し込められて、まだ100年やそこらの話です。
数千年、数万年のうちの、たった100年です。
そんな程度で錆びるものではありません。
たまたま今の私たちが生きてきた時代だけが特殊だったわけで、心配しなくても私たちの体には何千年も
続いてきた血が流れてます。

まずは私たちの目の前にある、今この場面で、そこに立ち返ってみましょう。

変化するものは、変化するままに受け入れる。
その流れを我執で止めない。
そして天地自然の視点に立って、大局を語り合う。
自分と相手という対立構造へ盲進せず、大我の中で真の融合を目指す。

和というのは、こだわりや我執の世界から降りて、天地の土俵に立つところから始まります。
自分が折れるとか、相手が折れるとか、そのような次元のものではありません。
小我に身を置いた対立は、本当に国を滅ぼします。
国の死とは、そのまま私たちの死に直結します。
観念論ではなく、物理的な現実のことを言っています。
私たちの集まりが、国です。
日常から離れた遠い世界のことではありません。
ボンヤリとうたた寝しながら反対を叫んでいる時ではありません。

「和をもって貴しとなす」というのは大変に深い真理です。
今の憲法がどうのこうの、そんなことにヒステリックになる前に、まずはこの国に最も古くから在った
天地普遍の憲法に立ち返りましょう。


和合とは、柔軟さであり順応性でもあります。
我を出し合っているうちは、たとえ今日明日を勝てても、いつか必ず負けます。
己の土俵にしがみつくのは、この天地宇宙の中にありながら必死に孤立していることになります。

前近代的な対立構造という仕組みに行き詰まりを見せている今の世界に、その姿は新鮮な輝きをもって
迎えられるでしょう。

そして間違えてはならないのは、相手(相手国)があくまで我執の土俵にしがみついているうちは、
それを無理やり引き剥がしてこちらの土俵にあげようとするのでもなければ、自分がその土俵に降りて
いくのでもありません。

こちらはあくまで天地の土俵に身を置いたまま、相手の変化と己の順応に耳を澄まして、我執を挟まず
その流れを尊重するだけです。

何がどうなろうとも、全てはこの天地の中での出来事です。
どこに身を置くかによって、大きくも見えますし、小さくも見えます。
そして、その天地宇宙そのものも脈動しながら移り変わっています。

船の舳先(へさき)だけを見ていれば大揺れに揺れているように映るかもしれませんが、遠くの水平線
を見れば行く先がハッキリ見えます。
目先の揺れにいちいち大騒ぎする時ではありません。
神経質にあちこちキョロキョロしなければ、極めてシンプルなものなのです。

天地にビシッと心柱を立て、大海を臨み見ながら、素直さと謙虚さで日々を柔軟に乗り切りましょう。


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国を護るのは私たちです

2015-07-13 22:36:50 | 国を常しえに立てます
東京に来ますと、あまりに偏った報道にウンザリしてしまいます。

確かに政府は少し慌てすぎの感はありますが、とはいえ、法解釈を変えると危機を招くなんてことを本気で信じている人がどれだけいるのでしょうか。

一部の人たちが大騒ぎしているだけなのに、あたかも全体がそうであるかのような印象操作に思えてなりません。

金切り声で、ただ反対のための反対を叫んだり、確信犯的に危機感や不安感を煽りたてる女性議員の姿が連日ニュースに流れています。
なぜこの人ばかり注目されるのでしょう。
視聴者の興味よりも報道側の作為の方が優先されてはいないでしょうか。

そもそもその人物からして、内容以前に、衆目の場で注目されることに胸踊っているのがヒシヒシと伝わってきます。
その憤った姿とは裏腹に、内面の喜びが全身から溢れ出てしまっています。

さすがに、必死に署名活動をやったり集まって叫んだりしている人たちはそれとは違うとは思います。
ただ、理想を追い求めすぎて今の現実が見えなく
なっていたり、規則や規律を守ることが絶対正義と信じて生きてきた人生が、どうしても見え
隠れしてしまいます。

もしかしたら、先ほどの女性議員にしても確信犯などではなく本気で憂い心配しているのかもしれません。
でもストレートに言ってしまえば、それは己の乱された心を元に戻したいためだけのヒステリーだったり、全体を見ずに一点のみにしがみつく
偏狭でしかないように思えます。

そして今ここに至っては、さすがに気がついてないはずはありませんので、ただ己の幻想を汚したくないがために現実を見まいとしている、
もしくは規則や規律から脱線することを生理的に嫌がっているだけと言わざるを得ません。

ただそのような中でもクレバーな人たちは、この先の世界情勢をきちんと想定した上で、意図的にそうした言動を取っているように感じます。

下手に頭が回るだけに、そうした本心を隠し、もっともらしい言葉を並べ、不安を煽りながら大衆を誘導し、本流を決壊させようとしています。

そうした人たちからすれば、キンキン声で叫ぶ人というのは、都合のいい演者ということになります。

こうした夢見心地の幻想というのは、誰もがさすがに現実離れしてると感じてたはずなのですが、まさかここにきて現政権の支持率低下という
報道がされてしまうと、冗談では済まされなくなってきます。

知識人やマスコミがこぞって浅はかなケチをつけ続けると、目先を惑わされて洗脳されてしまうのでしょうか。

その有り得ない現実に、憤りのあまり思わず口を滑らせてしまう議員が出るような始末です。

しかしそのこと自体が格好の材料となり、揚げ足取りが加速してしまいました。
もちろんこの議員たちもまだまだ幼いとしか言えず、大変に残念です。
わざわざ低次元で叩かせるようなネタを提供してしまったのは痛恨の極みです。

マスコミは強い政権を見ると本能的にこれを叩き落とそうとするものです。
そこには正しいか正しくないかといった理屈など存在しません。


アンチテーゼという対立構造こそが自己の存在理由であるからです。

非難したいという衝動が先にあって、理屈や大義名分などはあとから付け加えているだけです。

マスコミや知識人たちは論理をすり替え、違う土俵へ移してしまうことを得意中の得意としています。
本来はそんなところに論点はなかったはずなのに、民衆の不安や怒りを煽るポイントを的確に突いて誘導していきます。

目の前に差し迫った国の危機と、何となく強引に見えることへの心理的な抵抗感を、同じ土俵で語るというのはどう考えても無茶苦茶な話です。

感情というエネルギーは本当に盲目的なものです。
そこに心が向かうと、瞬時にそれが100%となって、他の全ては視界から消えて見えなくなります。

そこのところを巧みに突いてきます。

とても大切な内容について、広く深く、様々な切り口から冷静に考えていかないといけないのに、一瞬にして、狭く浅く幼稚な視点にフォーカス
させてしまいます。

そして感情的な好き嫌いというレベルに落としめてから、フェアネス精神を全面に出して「もっと様々な論議を尽くすべき」として、関係のない
箱までひっくり返してグチャグチャにして焦点をボヤけさせて「何だかよく分からないけど嫌な印象だけ残る」ように仕向けるわけです。

だから、現総理はわざわざ子供に絵本を読み聞かせるように譬え話をするしかなくなりました。
論点を整理すれば、もともと誰にでも分かる話だからです。

しかし、マスコミや野党はその努力までも揚げ足を取って非難の材料にします。

幼少期に戦争を実体験してその悲惨さが強烈に焼き付いている世代の一部は、そのあとの人生を平和に過ごせたが故に、いま目の前に迫る危機を
冷静に判断できない、いや、冷静に判断したくないという状況に陥っています。

現状を変えることが、平穏な日々を失うことに思え、過去のトラウマが恐怖となってしまうわけです。

あるいはまた、我が子を戦地に送りたくないという母親たちにしても、実はこのまま座して待つことの方が戦場に置かれることになるのを理解
できずにいます。

現総理は石つぶてを投げつけられて泥と血にまみれようとも己を顧みず、この国と私たちを護ろうとしています。
言い過ぎかもしれませんが、それはゴルゴダの一場面と重なって見えます。

数々の名作を世に送り出してきた聡明な映画監督ですら、いつもの冷静さを失って、決めつけの論理でもって自らの景色を翳らせてしまって
います。

何故、これほど傷だらけの総理の姿を見て、それを自己満足の売名行為などと思えるのでしょう。
信念や感情に囚われてしまうと、ありのままの姿が見えなくなってしまうのでしょうか。

このようや偏向報道が繰り返されると、誰だって不安になるのが当たり前です。

自分たちは政治家に騙されているのではないか?
学者や弁護士がこれだけ騒いでいるから本当にヤバいんじゃないか?
第一、最近の自民党は傲慢すぎる!
何でも思い通りになるなんて勘違いさせてたまるか!
黙ったまま騙されるくらいなら、取り敢えず先送りの「NO」だ!


これが大衆心理というものです。
感情に走ると理屈ではなくなります。

そうであればこそ、今、私たち一人一人がしっかりと自分の柱を天地に立てる必要があります。

今のアジアの緊張状態をしっかりと見てみましょう。
近い将来どのようなことが想定されるでしょうか。
本当に何も起きないと思いますか?

中国が戦争なんてするはずがないと、ナゼ決めつけられるのでしょうか?
それは単に、私たち日本人の視点でしかないと思いませんか?

戦争か無益だというのは私たちの価値観でしかありません。
この世にはそれが有益だと考える人たちだって居るのです。

常識というのは一人一人違うものですし、それが国単位になれば尚更です。
爆買い集団のマナーを見ていればそんなことくらい簡単に分かるはずです。

中国という国が、経済的にも国政的にも今どういう状態にあるか考えてみましょう。
アメリカが、今どのような状態にあるかも。
戦争というのは、どういう時に起きるのでしょうか。
ウクライナ情勢を見て、分かることがあるはずです。

「悪いことをしたら孤立する、責められる、損をする、だからやるはずがない」というのは幻想です。

そして何故ここまで焦って法案成立をしようとしているのか。
この案件を審議する前までは支持率も高かったわけですし、普通に考えれば時間をかけて慎重に進めれば、わざわざ大勢を敵に回さなくとも
法案は可決したと思いませんか?

それを、アメリカに脅されているとか、タカ派の戦争屋が本性を現したなどと言うのは簡単です。
でも、ここまであれだけ慎重に進めてきた総理がそこまでやるのは、待った無しの理由があるからと思えませんか?
いずれ成立させればいいというのでは遅いと。

すでにその一端が先日の上海株式でも見られました。
破綻してからの体制作りでは遅いのです。

その時すでにシッカリとした体制ができていることが、彼らの暴発を防ぐことになります。
しかしそんな話を一国の総理が出来るはずありません。
責任ある立場の人間は、自ら引き金をひくようなことはしません。

前例しか見えていないと、この先の様々な変化は想定できなくなります。
同じ状態が続くだろうというのは、単なる願望であり、思考放棄です。
それは自分勝手な理屈でしかなく、相手のことを何も考えていません。

どれだけ正論を並べたところで、現状を変えずに守り続けたいという主張は、結局は自分のことしか考えていないのです。

本当に相手(相手国)に心を向けていれば、相手(相手国)がやりたいようにやるだろうということが当たり前に分かります。

ナゼ、「そんなはずはない」と、こちらの理想を相手に押し付けられるのでしょうか。
それは相手を見ていないことと同じです。
拒絶していることに他なりません。

相手のそのままを受け入れていれば、善悪や良し悪しの判断など加えることなく、ありのままの姿が見えてきます。

あの国が経済発展してるだとか、一つにまとまってるとかいうのが実は幻想でしかないことは、他の誰でもない、当事国である彼らが一番よく
分かっています。
そして、戦争や侵略というのが現状打破の手段として有り得ることも、彼らは極めて冷静に現実的に認識しているのです。

「私たちに向かって戦争責任を叫んでいる当事国なのにそんなバカな」と思うのは単なるお人好しです。

それでも自分はイイ人でありたい、お人好しでもイイというならば、それはそれで一人で勝手に
浸っていればいいだけの話です。
口には出さず静かにしていればいい。
そんな自爆も厭わぬような自己満足に、まわりの人たちを巻き込むのは筋違いも甚だしい。

「集団的自衛権などやったところで中国は抑えられない、他の方法があるはずだ」などと綺麗事を言うのは簡単です。
ならば何をやれるのでしょうか。

具体的な対策も無いのに、スカッとカッコよく極めたいだけの無責任発言は慎むべきです。
心清らかに座して待てば天佑が現れるなどと言うのはファンタジーの世界でしかありません。

最後まで必死にあがく人を、天は助くのです。

マスコミや知識人たちの狡猾な誘導で、違う土俵へと目を逸らされてしまうことは本当に恐ろしいことです。

何となくモヤモヤするから反対しようという、情緒だけに流される今の空気感は、過去にもありました。
民主党への政権交代の時です。

誰が見ても左巻きの集団で危ういと分かりきっていたはずなのに、何故かその時みんなの思考は停止して、ただ目先の感情に流されてしまいました。

あの時も、そして今も、冷静に考えれば誰もが分かることなのです。
あの時の、言いようのないもどかしさを今また感じています。

「現状は変わらない」のではなく、すでに変わっているのです。
ですから私たち自身も変わらないと、逆に危ういということです。

大災害に備えずボーッとしたままでいるほうが、甚大な戦死者を招いてしまいます。

相手のことを本当に思い、キチンと心を向けるというのは、相手がどのように考えて何を思うかに関係なく「そのままを受け入れる」ことです。

それは美化したり、あるいは非難したりすることではなく、どのようなものであってもそのままに冷静に映し見る(認める)ということです。

そこに自分勝手な価値判断を入れてしまうと、相手を嫌って悪意の拡大解釈となったり、逆に架空の理想像へと美化しすぎてしまったり、どちら
にしても現実とは異なる虚像が生まれてしまいます。

何であろうと、勝手な価値判断を加えなければ、自然のありのままが映ってきます。

その景色を、良い悪いとか好き嫌いとか判断するのではなく、そうしたものを映し見た上で私たちは何を対処するのかということに尽きます。

善悪や好悪を混ぜこぜにすると景色がボヤけてしまい、道を誤ります。
これは国の話だけでなく、日頃の対人関係においても言えることです。

人の延長に国があるのですから、それが同じであるのは当然と言えます。

関西に居た時は、そうした対人関係においても「相手は相手」「自分は自分」という空気がありました。
群れなすことなく、それぞれの我が道を尊重していました。

それは冷たさではなく、受け入れていることに他なりませんでした。

それゆえ、たかじんや橋下さんのような人たちが大いに受け入れられていたわけです。

そして、ここが一番大事なのですが、みんなそうした人たちの姿を面白がりはするけれども決してそれに迎合することはありませんでした。

近しくして同調共感するのではなく、突き離したところでそのままを受け入れて面白がっていたわけです。

このスタンスはとても大事だと思います。
迎合することが優しさや親しさになるというのは勘違いも甚だしいことです。

やしきたかじんの番組は、どれも時勢の的をついた辛口の内容でした。
そうした番組が西日本だけでなく東北でも放送されているのに、実は関東圏だけがスポンサーや上層部の関係で放送されていないということが
この国のイビツさを物語っています。

誰からもクレームがつかないことを良しとする安全思考、減点ゼロ狙いの八方美人な優等生思考がそこにはあります。
さらには、より深刻な反日事情もあります。

そうしたものが、いま安保論議を無茶苦茶にしてしまっている元凶と言えるかもしれません。

衝突を恐れるあまり相手に迎合して自らの優しさや親しさ、大人らしさを保とうとする姿勢は、己の弱さ、自信のなさ、許容力の無さ、恐れの
裏返しに他なりません。


そんなものは長続きするものではなく、結局は最後に大きな傷を負うことになります。

地方から多くの人が集まって形成された都市だからこその、肌を触れる痛さや怖さといった、人間関係の脆さがそこにはあります。

関東以外のエリアであれば、正直ベースでやり取りする人たちに対して野暮なクレームをつけるような輩はツマはじきにされます。
だから、たかじんの番組にしても、誰かにケチをつけられたとしても、それを上まわる冷静な人たちによって視聴率ナンバーワンが稼げているわけです。

野党の口撃や市民運動、マスコミの偏向報道を見ているとまさに野暮なクレームそのものです。

それはテレビの中の話ではなく、私たちが現実に生きるリアルの世界の話です。
感情的な空気に流されて安易に視聴率(支持率)を押し下げてしまったら、取り返しのつかないことになります。
決してテレビの向こうの話ではないのです。

ですから、今こそ私たち一人一人が自分の中心に柱を立てて、ありのままの姿を自分の心に映し見ることが大事なのです。

そして何が本当に必要なのか、誘導に惑わされず自分たちで認識しなくてはいけません。

どこか遠い世界の話などではないのです。

この国を護るのは、まさしく私たち一人一人であるのです。



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整理整頓

2015-07-10 18:54:19 | 心をラクに
今年の後半戦が始まりました。
大祓いのリフレッシュとともに、職場も西から東へ変わり、公私ともども真っさらのスタートとなりました。

そんなこんなで、先週は引っ越し荷物の大整理をしました。

要らないものを棄てるという、ただそれだけのことなのに、存外これが大変な作業なのに驚きました。
皆さんも経験あるかもしれませんが、いざ棄てようとすると「まだ使える」「もったいない」と踏ん切りつか
なくなるのが最大のネックでした。
それでも普段から愛着のあるものだったらば良心が痛むのも仕方ないところなのですが、実際荷物を
ひっくり返してみると、使ってないものが多くてますます躊躇してしまいました。

お祝いに頂いた食器や、ちょっとした小物、そして洋服類...
思い返せば「せっかく頂いたのに申し訳ない」「何かに使うかもしれない」と、取り敢えず仕舞いこんで
いたものばかりです。
この「取り敢えず」というのが実にクセモノです。
まさに、問題の先送り。
そしてそのまま塩漬けとなってしまうわけです。

色あせてしまっている服も、「いや、部屋着で使える」と、“取り敢えず”仕舞ってみたものの、結局
そのまま着ることなく忘れてしまいました。
古着であればリサイクルに出せばいい話ですが、目の前にモッタイナイという言い訳がチラつくと、
後さき考えずにタンスへ押し込んでしまって、何となく解決した気になってしまったのです。

確かに、ボロになっても捨てずに着続けるというのはモッタイナイ精神にのっとるものですが、単に
タンスの肥やしにしてしまうのでは、それこそが本当のモッタイナイでしかありません。
もっともらしい大義名分に飛びついてフタをしてしまうのでは何の解決にもなりません。

そうした思いを断ち切るまでにかなりの時間がかかりましたが、あくせくするうちにあることに気が
つきました。

最初どこから手をつけていいか分からない状態の時は、一見したところ要らないもの(捨てられる
もの)など、ほんのわずかしかないように感じました。
そうして始めのうちは物がなかなか減らなかったわけですが、2巡目、3巡目と見直していくうちに、
要らないものが次々と目につくようになっていきました。
たとえば1巡目では「コレは使う」と思ってスルーしていたものでも、まわりを一つ二つと捨てた後に
あらためて全体を見渡してみると、フトそれが目につくようになったわけです。

つまり、まわりを片付けていくうちに、心の風通しが良くなっていったということです。

1巡目では自分の心が囚われていたため、ニュートラルな判断ができていなかったのでしょう。
その時は本心から必要と思っていた(見えていた)ものでも、環境が変わるにつれて心に映るその
姿が変化したわけです。
それは自分でかけたフィルターが薄まり、見えていなかったものが見えるようになったとも言えます。

思い込みというのは、執着の一つです。

まわりに激しく汚れたものがあると、多少のシミは気にならなくなります。
場合によっては、気がつかないほどです。
本来すべては無色透明ですから、それはそれ、コレはコレなのですが、無意識のうちに色がつくと
フィルターがかかってしまいます。
そして、そこにあるものが、そのままの姿では見えなくなったりします。
そうした夢見心地が、たとえばまわりの雑貨を取り除くことによって、ハッと我に帰り、初めて目に
入ってくるようになるわけです。

こうした整理整頓というのは、心の世界にも当てはまるものです。

信念や価値観というものは、自分なりの大義名分で正当化されていると、いかにも非のつけどころ
のないものに見えます。
考えるまでもなく真っ白であると思い込んでいるとフィルターがかかってしまい、自分では冷静に
なってるつもりでも、真実に程遠い姿しか映らないわけです。

見えているようで実は何も見えていない、ありのままの姿を映していない。
ある人は、これを眠っている姿に喩えました。
目を覚ましているつもりでも、実際は自分の夢を見ているだけだと。

だからこそ、先ほどの荷物整理の話のように、根気よく一つ一つ手放していくにつれて、それまで
映ることのなかった本当の姿が浮かび上がってきます。

もしかすると、そんな悠長なこと言わずにいっぺんに手放して身軽になりたいと思う方もいらっしゃる
かもしれません。
ただ、後ろ頭をガツンと叩かれるような余程の出来事でもないかぎり、それは難しいことでしょう。
要するに、自分自身を変えたいかどうかということではなく、本当に自分でそれを要らないと感じるか
どうかなのです。
手放すことに躊躇しているうちは、無理やり捨てたとしても、どこかからまた似たようなものを拾って
きてしまいます。

今の自分を変えたいというのは、自分を受け入れていないことになります。
今の自分をそのままで受け入れた時に、自分は、自然と変わっていきます。
こだわりを持っていようが持っていまいが、今の自分を受け入れるということです。

ですから、それを必要だと思っているうちは、無理に捨てなくていいのです。
慌てず、地道にコツコツ、色々な言い訳と向き合いながら、捨てられるものだけを少しずつ手放して
いけばいいのです。
そしてその言い訳に対しても、無碍に否定せず、そうだよねと優しく受け入れてあげるのです。

そうして1巡、2巡と流していくうちに、先ほどまでは絶対に必要と思ってたものが、自然に違った
見え方をしてきます。

もしも手放すことに罪悪感がある時は、これまでの感謝の言葉とともにサラッと見送るのがいいかも
しれません。
灯籠流しのように、流れ去る灯りをスーッと温かく見送る心境です。
俗な話に戻りますが、引っ越し整理でも私はこのやり方で、自分の未練を断ち切りました(笑)

また、荷物の整理をしているうちに、いかに隅々にまで心を向けられていないかも目の当たりにしま
した。
たとえば、ハンカチや靴下などは収納ケースの手前から出して使っていたため、奥の方は存在すら
忘れていました。
洗ったものをセッセとケースの手前にしまい、また手前から使っていく。
似たようなものだけを使い回していたわけです。
これは、意識の浅いところばかり綺麗にスッキリしたつもりでいながら、心の奥のほうは風通しが
悪かったということに通じます。

要は、何でもかんでも取り敢えずストックしておけば安心、という心グセがマズイということです。
収納ケースも、ギッチリ詰め込まなければ、風通しも良くなって綺麗に隅から隅まで心が届くわけ
です。

「捨て上手は買いもの上手」という言葉もあります。
あれこれ貯め込まず、隅々まで見えるようになると、無駄な買い足しをしなくなるということです。

耳触りのいい言葉や信念、信条、価値観や方便をセッセと集めて大切に仕舞い込んだりせず、
ドンドン手放して風通しを良くしていけば、真新しいフレーズを目にしてもサラリと流すことが
できるわけです。

もしも今この瞬間アレコレたくさん抱えすぎて溢れかえっていたとしても、途方に暮れる必要は
ありません。
なかなか手放せないからといって、自己嫌悪になることはありません。
手放すのを不安に思っているうちは、無理せずそのまま持っていていいのです。
なぜならば、それらは自然と色あせて見えるようになった時に、自然に手放せるものだからです。

こだわりや心グセがいくつもあるならば、まずはどれか一つを手放すところから始まります。
その一つにしても、最初からコレと決め打ちするのではなく、手放しやすいものでいいのです。
手放しやすいものいいのです。

あれもこれもと焦る必要はありません。
それ自体が、今まであれもこれもと抱え込んできた心グセそのものです。

些細なものであっても、心置きなくスパッと手放せるものからでいいのです。
一つが無くなるだけで、他のこだわりが少しずつ違った見え方になっていきます。

整理整頓をしていくうちに、サラサラと心の風通しが良くなっていきます。
知らず知らずにギュッと抱え込んでいたものが、ほのあかりとともに露わになってくるでしょう。

半年も経つとまた荷物が増えてしまっているかもしれません。
でも、そのつど整理整頓すればいいだけのことです。
荷物を増やすまいと気張る必要はありません。

世の中には何とかの法則やら様々な美辞麗句が溢れています。
もしそこに気になるものがあれば、正直に心を向けてもいいのではないでしょうか。
見まい見まいとするくらいならば、いっそ買い込んでしまった方がいいと思います。
優等生になる必要はありません。
この世界には、色々なことを味わうために来たのです。
買い込みたいものが自分の囚われや我執の象徴であるならば、それこそ買って仕舞って塩漬け
して、あとでタンスをひっくり返して整理すればいいのです。

そうしたときに手放すことが、自分の囚われや我執を昇華することになります。

押入れの奥からは怪しいダイエット用品や便利グッズが出てきたり、流行りもののドギツイ服が
出てきたりします。

あぁ!こんなの買ったよなぁ、と自分で自分を笑い飛ばす瞬間です。

それでいいわけですし、それがいいのです。
カラッとした笑いが我執を昇華させます。
いちいち自己嫌悪に陥ってイジイジと落ち込んでも、また同じことを繰り返すだけです。

捨て上手は買い物上手だそうです。

整理整頓しながら、人生を笑い飛ばしましょう。


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