これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

自分らしさという虚像

2020-12-05 16:11:00 | 心をラクに
人生というのは嬉しいこと楽しいことばかりではなく、辛いこと悲しいこともあります。

この世に生を受けた目的が、あらゆる体験をすることにあるのならば、そうしたストレスもまた私たちの生きる意味そのものだと言うことができます。

とはいえ、苦しいことを耐え忍んで黙々と修行しろというのでは、あまりに無慈悲すぎます。
私たちは苦しむために生まれてきたはずはありませんし、この世が私たちを苦しめるために存在しているはずもありません。

確かに、生物の進化の歴史を見ると、そこにはストレスが大きく影響しています。
そうなるとストレスそのものが良い悪いではない。むしろ辛いこと悲しいことは私たちにとって必要な事象であるのは明らかです。

つまり、天地は必要なものを私たちに与えているのであって無慈悲なわけではない。
そうなると、そこから派生する「悩み」「苦しみ」というものが不自然なのではないかということになります。

まさしくそれらは人間特有のものであって、他の生き物にはありません。
つまり、もともとそんなものはこの世に存在しないものであり、私たちが勝手に自作自演しているに過ぎないということです。

といって、それを「知恵を持ったための宿命だ」と考えるのは短絡的であり、思考停止と言えます。

人類は太古から生老病死に苦しんできました。
しかしこの世の体験として、それらはどれもかけがえのない事象です。
それを苦しみと捉えてしまうところにこそ問題がある。

私たちは、なぜ自作自演をしてしまうのでしょうか。

何千年、何万年と、人類はそれが仕方のないものだと思わせられてきました。
諦めさせられてきたと言ってもいいかもしれません。

具体的に、身近なところから紐解いていきたいと思います。





現代社会は様々なストレスに溢れていますが、そのほとんどは結局のところ、人間関係に帰結すると言えます。
生老病死のうち、「生」の苦しみの筆頭は、人間関係かもしれません。

仕事の付き合い、身内の付き合い、ご近所付き合い。
そうしたものは現代社会に限らず、太古から存在しました。

私たちは誰しも、自分の好きなようにやりたいわけですが、そうはいかないところから悶々とした感情が生まれます。

もしも他の人が自分と同じ考え、同じ感性であれば、こちらで気を使ったり、気を揉んだりする必要はなくなります。
軋轢や衝突が生じないとなれば、人間関係での苦しみは存在しなくでしょう。

しかし、何から何まで自分と同じ考えの人など存在しません。
人は少しずつ考えが異なるため、自分のことを理解してもらう必要が生まれます。そこに心労が生じます。
誤解されたりするとますます心労がつのります。

理解してもらう必要など無いとして好き勝手にやると、それはそれで疎(うと)んじられ嫌われることになります。
そこでも心労が生まれます。

ましてや、全く意見が合わない人、考え方が違う人というのは必ず居るものです。
多少あわないくらいならばストレスも小さくて済みますが、話が全く噛み合わない、考え方が根本から違うとなると、これはもう大変です。

しかも状況によって、例えば上司とか親戚が相手だと、その考え方に合わせないといけない場面もあります。
これまた大変な心労となるわけです。

心の波立ちというのは、落ち着いていれば鎮まっていくものですが、落ち着く前に次のストレスを受けてしまうと、波立ちはさらに激しくなります。

波立っている状態にあると、小石が飛んでも、たちまち大波と化します。
そのため、波立っている時は防衛本能から相手に過剰に当たるようになります。
イライラしている時に逆ギレするのはそのためです。

イライラを外に出せない場合は、それを押し殺して自らダメージを受けることになります。
それが続くと心や体を壊すことになる。

そうしたことが日常茶飯になると「次また来るかも」という心配がつきまとい、常にハラハラした状態になります。
心が波立っている状態、イライラしている状態というのは、いわば臨戦態勢です。
お互いが臨戦態勢にあると、波立ちの連鎖はエスカレートしていきます。

互いに自分は悪くないと思っているので、自分は引きたくない。相手に降参して欲しい
「相手が謝るのが当然」というのは、相手を屈服させることと同意です。
そうであればこそ、自分が謝ることは相手の軍門にくだることに感じ、自分から謝れなくなります。

これは個人の関係だけでなく、国同士の関係にも当てはまります。
外交といっても、結局は人間関係の延長に過ぎません。

あらゆる言葉や理屈を畳み掛けて相手を屈服させたところで、相手に残るのは傷と恨みでしかありません。
それは経済圧力や武力によって屈服させられた相手国がどうなるか考えれば容易に想像できることです。

個人でも同じです。

自分の安心を求めると、相手は真逆の状態になります。

自分から謝らないと何も事態が変わらない、でも認めたくない、屈服したくない。その機微は相手に伝わります。
自分も悪いが相手も悪いなどと考え始めたら、相手も臨戦態勢を解かず、波立ちは収まらないままとなります。

相手もストレスを受けている。
こちらと同様、相手も波立ちの中にアップアップしているのです。

たとえば相手に力いっぱい腕を掴まれたら、無意識のうちにこちらもグッと力が入ります。
オマエが先に力を抜けと言ったところで無意識レベルの話ですから、それは無理というものです。

臨戦態勢を解くよう相手に強要したところで、相手は余計に波立つ。
つまりは、まず自分の臨戦態勢を解くのが先。

自分が良い悪いではなく、その自問自答そのものを手放すということです。

それは第三者から見れば全面降伏に映るかもしれません。
でも目的が勝ち負けでなく正常化にあるなら、そんな意地など本当にどうでもいい話でしょう。

これは相手の方が強い立場にあったとしても同じです。
たとえ自分が弱い立場だったとしても、自分がこだわっているからこそ自分自身を傷つけることになっているということです。

あれほど仲の良かったカップルだったのに、まわりも信じられないほど互いに嫌悪し合ったりするのは、まさに波立ちの連鎖に因ります。

常にザワザワと心が波立っているため、ほんの少しのことでも大波になってしまう。
それ自体は大したことでなくとも過剰なストレスとなりダメージは果てしなくなる。

生理的にダメ、顔も見たくないというのは、それはもう平時の波立ちが酷すぎるということです。
不安と苦痛から逃れるための防衛本能が、相手のことを考えただけで鳥肌モノとさせるわけです。




こうした極端なケースに限らず、人間関係のストレスというのは、大なり小なり、相手との考え方の違いにあります。

他人との関わりの中で、不安、心配、怒り、悲しみが起こります。

あらためて考えてみましょう。
その波立ちとは誰が起こしたものなのでしょうか?
相手でしょうか?
それとも自分?

石を投げて来たのは相手なんだから、当然、相手ではないか、、、

波長の合う相手だろうが、合わない相手だろうが、衝突した時に共通する言い分は「相手が悪い」「相手が間違っている」というものです。

これは裏を返せば「私は正しい」ということになります。

ちなみに「私は可哀想」というのも、この「私は正しい」の一種です。

世の中には色々な考え方が存在します。
考え方というのは価値観から生まれるものです。
「私は正しい」は、そうした価値観によって生み出されます。

価値観とは、文字どおり、何に価値を置くか、何を良しとするかの物差しです。
ですから、自分の価値観に合えばそれは「正しい」ことになり、合わないことは「正しくない」ことになります。

同時にそれは、合わないものは「価値が無いもの」という危険な因子をはらむことになります。

世の中の対立というのはすべてここから始まっています。
その行き着く先が敵対関係であるわけです。

敵対関係の根源は、お互いの価値観にあります。

自分の価値観にどっぷり浸かりすぎると、異なる価値観は、見ているだけでゾッとするようになります。生理的に。
これが正しいのだ、私こそが正しいのだ、という考えに囚われてしまうと、排他性が極まり、残酷な思考を生むことになるのです。

多様性を訴えておきながら排他的かつ攻撃的な人たちが存在する理由はここにあります。
彼らの中には自分の信じる一つの完成形があって、それに少しでもそぐわないものは「間違ったもの」「正すべきもの」となるのです。

「相手が間違っている」という考えは「相手を正すべき」となり、さらには「駆逐すべし」となります。

黒人差別反対から派生した破壊活動はまさにこのパターンであり、過去の戦争もすべてこのパターンです。

個人同士の軋轢も、民族同士、国家同士の軋轢も、根っこは同じです。
もっと言えば、私たちの日々の悩み、苦しみ、そして悲しみも、すべて根っこは同じです。

「己の正しさ」こそが、すべての大元にあります。

解決するには、相手をどうにかさせるのではなく、自分が手離すということです。

相手を非難・否定するのではなく、自分のこだわりを捨てるということです。

程度の差こそあれ、この世に生きる私たちは誰もがみな「良くないこと→だからそれはダメだ」「正しくないこと→だからこれは違う」という判断のもと日々を生きています。

これはほとんど脊髄反射的に自動判定されています。

自分で考えて判断を出すケースもありますが、日常の多くは、考えるまでもなく自明のものとして、先に結論が出されています。

私たちはそれを追認しているだけなのですが、まるで自分の中からその結論が生み出されたかのような錯覚に陥っています。
自分が考えたものと信じ込んでいるわけです。

今の私たちは、自分の信じる価値観に完全に乗っ取られています。
身も心も預けた信者と化し、おんぶに抱っこの状態にあるのです。

この世には、本当の正しさなど存在しません。
それぞれに信じるものがあるだけです。




もともとの私たちは、まっさらな状態でこの世に生まれてきました。

生まれたての本当にまだ小さい頃、心の中に「いい・悪い」という小さな種が蒔かれました。
まわりの顔色や声色で「相手が嫌がること」「喜ぶこと」という、初期の価値観が植え付けられました。

それは「相手が怒る」「褒める」という反応によっても強化されていきました。

まわりの人たちが何に対して嫌がるか(怒るか)というのは、まわりの人たち自身の価値観に依るものです。
自分が望む望まないにかかわらず、幼いこの時点で、自分を育てた相手から、価値観の相伝が行われるということです。

子どもの頃に撒かれた種は、その後も色々な価値観が塗り重ねられ少しずつ大きくなっていきます。

家庭で蒔かれたケシ粒をそれぞれ持ち寄り、遊びの中で関わり合い、塗り重ね、さらにまた家庭や学校、隣近所、あるいはテレビや本から得たものが塗り重ねられ、整えられていきます。

小さなケシ粒の上に色々なものが塗り重ねられ、形が整えられ、細部まで丁寧に作り込まれていく。

世の中には、その場その場に正しさが存在しており、私たちはそうした正しさに合わせて粘土をこねていきます。
そうして三者三様の粘土細工が作られていくわけです。

その粘土細工は、別の言葉で「自分らしさ」「自分像」とも言います。

家庭での自分像が作られ、会社での自分像が作られ、自分の中での自分像が作られていきます。

私たちは、自分で彫り上げた自分像に服を着せて暮らしているわけです。

子供というのはそれが一つしかありませんので、TPOに関係なく場違いなことをやらかします。
私たちが様々な自分像を使い分けるようになるのは、それぞれの環境によって「あるべき姿」(=正しさ)が異なるからです。

家庭の中での自分。
交友の中での自分。
学校や会社の中での自分。

会社の中で父親のように振る舞うことはできませんし、家庭の中で上司のように振る舞うことはできません。

周囲の人々との関係性の中で、私たちの自分像は無自覚のうちに形作られていきます。

立ち位置が変わると、自動的にその場に合った自分像に入れ替わります。
立ち位置というのは相手との関係性で決まるものです。

このことがよく分かるのが、高校や大学の友だちと久々に会った時です。
その瞬間、私たちは当時の自分に戻り、年齢も立場も忘れて、はしゃぎまわります。

私たちは、その場その場の「正しさ」をもとにいくつも自分像を作っており、まわりとの関係性の中で無意識のうちに特定の自分像を選択しています。

その場その場の正しさというのは、その場その場を支配する価値観によって作られたものです。
会社や学校、家庭といった小さな範囲を支配する価値観もあれば、社会全体を占める価値観もあります。

親とはこういうもの、学生とは、社会人とは、日本人とは、人間とは、、、

固定観念は価値観によるものですし、常識というものも価値観によって作り上げられたものです。
様々な場面の「正しさ」が幾重にも重なり、私たちの社会は成り立っています。

私たちは、人間社会という波立つ海を渡り歩くため、いくつもの自分像をポンポンと飛び石しています。

そうした自分像の中でも最たるものは、言うまでもなく「普段着の自分」です。

これこそが一番のクセモノであるわけです。

様々な場面で使い分けている他の自分像と同じく、普段の自分というものも作られた偶像の一つに過ぎません。
にも関わらず、物心がつく前から身近にあるために、私たちはそれが自分自身だと勘違いしています。

この最も近しい自分像というのは、すでに触れた通り、幼い頃からの環境の中で作り上げられたものです。

そして、それこそが自分にとっての正しさの凝縮でもあります。

自分像とは、これまで信じてきた様々な価値観の集合体です。
だからこそ、自分の信じていることを否定されると、まるで自分自身を否定されたような錯覚に陥るのです。

この自分像の作り主は、まぎれもなく私たち自身です。

たしかに物心もつかない子供にとっては、何も分からず、言われるがままに作ったに過ぎません。
それでもなお、それを作った主体は、親や環境ではなく、私たち自身にあります。

別に、責任の所在をどうこう言おうとしているのではありません。
誰がそれを掴んで離さずにいるのか、という話です。

自己判断を伴わない幼子ですから不可抗力そのものです。
でも「だから仕方がない」「そんな私はかわいそう」と判断してしまうと、話はそこで終わってしまいます。

親が悪い、環境が悪いと、まわりのせいにしてしまうと、一生この自縛から逃れられなくなります。
それどころか、負の連鎖、拡大再生産を招く危険すらあります。

たとえば、
親から受けた仕打ちを我が子に行い、上司に受けた仕打ちを部下に行う。

はたまた、
親から受けた仕打ちを、自ら、自分に行う。
人から受けた仕打ちを、自ら、自分に行う。

親の呪縛は解かれたはずなのに、自分で自分にその縛りを課す。

そもそも人間は、教わったことを疑うことなく吸収する存在です。
何にも濁らず透明に透き通った存在、それが本当の私たちです。

その私たちは、今この瞬間もここに在ります。

ただ、私たちはそこに意識を置かず、今は粘土細工の方に意識を置いているというだけの話です。

そんな作り物の出来に、悩んだり悲しんだりする必要はありません。

「でもこんだけ塗り重ねられた粘土を引き剥がすのは大変だ」「ピカピカに戻すのは困難だ」などというのは単なる思い込みです。

そもそも、その粘土細工は私たちではないのです。
核となるケシ粒からして私たちではない。
引き剥がす作業自体、必要ないのです。

こっちに、透明に透き通った私たちはいます。

今のそれは単なる粘土の塊に過ぎません。
必死にしがみ付くものではありません。
それは本当の自分ではなく、単なる彫刻なのです。




あらゆる悩みや苦しみを生み出しているのは、その自画像、自刻像です。
自分の信じる正しさこそが、様々な苦しさの元凶です。

粘土の彫刻を押し付けたのは親や環境かもしれません。あるいは過去の自分かもしれません。

でも、、それを選んでいるのは私たち自身なのです。

ですから、本当に単純な話。

ただ、手放すだけ。

「え、そんなことしたら何も無くなってしまう」「自分が無くなってしまう」

そんな心配は無用です。
私たちは、そもそも何も無いのです。
これが私だ!なんてものなど最初から無い。
つまり、そんなもの必要ないということです。

「普段の自分」などに縛られなくていい。

何か着てないとマズいなんてことはありません。

何も無い状態こそが、自然な私たちなのです。


(つづく)




真面目もほどほどに 3

2020-01-18 23:46:00 | 心をラクに
人は誰でも、無意識のうちに自分の身を守ろうとします。
生きるための本能としてそれは当然のことです。

それが根源から湧き上がる衝動によるものであれば何の問題もないのですが、損得勘定や価値観と結びついてしまうと、たちまち我執の暴走が始まってしまいます。

タチが悪いのが、そうなったとしても私たちは生き残るための本能だと信じてしまい、歯止めが効かなくなるところです。

理想や信念に真面目気質が注ぎ込まれると、もう誰も止められなくなります。

善と悪。
正しさと間違い。

対極となる相手ができると、我執の垂れ流しが始まります。

褒められたいがための真面目。
安心したいがための真面目。
否定されない・怪我しないための真面目。

「魔が刺す」という言葉がありますが、「真面目」は「魔自滅」にもなります。

そしてこの仕組みをうまく使い、正義の旗を振って大衆を導く手法があります。
本当の手練れともなると、美しく綺麗な音色を奏でるようになります。

冷静な大人は違和感を覚えますが、真面目を信じる子どもたちはコロッと騙されます。

極東に現われる「永遠の未成年者集団」というのを予言した指導者も居ました。

夢見心地に鼻高々に歩みを進め、その先に待ち受けていることが分からない。気がつけない。
いざその時になって泣き喚いても、なお、それが自ら招いたものだと気が付かない。

ハーメルンの笛吹きは今この時も綺麗な音色を奏でています。

正義のメロディーを奏でれば簡単に騙される。
だから、真面目すぎるのは危険なのです。


世界の国々はお互いが「自分こそ正しい」と信じて最後の戦いに向かいます。

様々な国の言い伝えでも、この世の終末は白と黒の闘いだとされます。

正義と悪との最終決戦。
それは天使と悪魔にも喩えられたりします。

しかし、誰もが自分こそが白い存在だと思っています。
本気でそう思っている。
そして、相手こそが悪だと思っている。
お互いがそう思っている。

それが最終決戦、ハルマゲドンの正体です。

白黒はっきりさせない日本は優柔不断だと馬鹿にされてきました。
しかし和合を目指すのはまさしく天地宇宙の姿そのものです。
海外の評価ばかり気にして、海外の価値観を日本に導入しようとする行為は、破壊行為以外の何物でもありません。

世界を救うのは日本であるという言い伝えもまた世界中にナンボでもあります。
その理由は、この世界というのは拮抗と和合が対になっているからでしょう。
自然界を見れば分かるように、拮抗の先にあるのは共倒れか、和合(融合)のどちらかです。

しかしながら、自らの勝利を信じる者にとって共倒れなんて発想は微塵もありません。
そのため日本の存在は目の上のタンコブとなります。
真の平穏は衝突とカタストロフィ無くして訪れないと本気で思っている人たちにとっては、それこそが正義なのです。

もちろん、破壊と創造という視点からすれば、その考えにも正しさはあります。
但し、そこに勝者は居ない、という条件が付きます。

カタストロフィというのは何も残らなくなることです。
野焼きによって草一つなくなった大地から新たな息吹が次々と芽生える。
まさに、もののけ姫のエンディングです。
私たち人類はこれまで何度もそれを繰り返してきました。

当事者である彼らがそこまで達観した志を持っているのかというと、多くはそうではないでしょう。
自分たちは白き存在、正義の存在であると信じて勝利は自分たちの上にあると思っている。
それが双方のモチベーションとなっています。


そんなやる気マンマンの気持ちにザバーッと水をかけて丸く収めようとする日本の存在は、ある意味脅威でしょう。

そのため、そうはさせじと日本を貶めるラッパの音が高らかに鳴り響くのです。
それを知らぬ永遠の子供たちは、笛の音に導かれ、国を貶めたり皇室を絶やすような道を、鼻息荒く進んでいきます。

ただそれとて全否定して排除すべきかというと、そんなことはないのですから世の中というのは本当に面白いものです。

それどころか広い視点で見れば、そうした反日行動が国を護るための一つのピースに成っているとも言えます。

本気で自衛隊を解体させよう、国を骨抜きにしようとする、その暴走モードによって、最終決戦における自衛隊の本格介入が阻まれ、その手前までは行けても、結局どっちつかずの状態のまま生殺しにされる。

各国からは後ろ指を差され、さげづまれながらも、敵対的立場に立たず、一歩引いた場所に身を置くことになります。

この位置に居なければ、最終局面で登場することはできないわけです。

ですから、あるところまでは永遠の子供たちも必要な役目を為していると言えます。
ただ、これまでがそうだったというだけで、あとわずかはそうであるものの、今がギリギリの瀬戸際です。

全否定が無いように、全肯定というのもない。
そろそろ良い加減にとどめなければなりません。

今までがそうだったからといって、それが将来の保証にはなりません。
真面目すぎる日本人は憲法を変えることでもヒステリックになりますが、だからこそ真面目はほどほどに止めないと身を滅ぼすことになります。

ラッパの音がさらに強さを増していく時に、今までのように何も考えず付いていってしまうと、それこそ本当にハーメルンの笛吹きの結末
になってしまいます。

自分のことばかり求めていると、まわりが見えなくなります。

安心を求める人は常にウロウロしてないと落ち着きません。
ドッシリとどまってまわりをゆったりと見ることなどできないのです。
そのため、前に進むための原動力として、信じられるものを求め続けます。
信じるものが無ければ前には進めないと思い込んでいるのです。

そして正義や大義はそういったものに使われやすい。

終戦の時も、ヒステリックに極端な右に突っ走っていた人ほど、情勢が変わるとともに極端な左に突っ走ることになったのはそのためです。

いま極端な左に暴走している人はこの点要注意です。
我が身に危機が訪れた瞬間、豹変する恐れがあります。

そのことをよく分かった上で、その奏でる音色を聞く必要があるということです。

信念というものは凄い原動力と成ります。
宗教にもそれは現れています。
政治的思想に燃える人たちが宗教信者と似てくるのは、モチベーションの仕組みが同じだからだと言えます。



新約聖書のマルコ伝には、終末が近づくと偽メシアが数多く出現すると書かれています。

これを単なる宗教指導者の類いと思っているとすっかり騙されることになります。

宗教家でもない、ごく普通の人が発する耳触りの良い言葉に、スッカリ心奪われ、この鬱屈した世界を変えてくれるのではないかと期待を寄せる。

政界でも、言論界でも、TVの世界でも、環境の世界でも、精神世界でも、本当にありとあらゆるところにハーメルンは現れます。

綺麗事だけを言っていれば誤魔化せる時代は終わりました。
すでに政治の世界でもそういった手法はボロが出るようになっています。

肩の力を抜いて、頭の力を抜いて、心の力を抜いて、気持ちを楽にすれば、景色がよく見え、耳の聞こえも良くなります。

この世というのは玉石混淆です。
見た目を追うとどれが本物か分からなくなります。

一流芸能人の格付けチェックという人気番組が有りますが、あれよりもこの世のほうが遥かに難易度は高いのです。
あの番組では知識や経験がモノを言いますが、この世では逆にそうしたものを捨てるところに目利きの道が開けます。

本物というのは上っ面を加工するものではなく内側から滲み出るものです。
ですからいくら知識や経験を頼りに外側からアプローチをかけても、中身の判別はかえって難しくなります。

もともと私たちは誰もが天地宇宙そのものです。
根っこはみんな同じです。
芯の部分に身を置けば等しく天地宇宙。
優劣なんてものは存在しません。
上っ面の音色など、どこ吹く風です。

自分は天地宇宙そのものだから大丈夫。
それを信じきれるか、それを事実として受け入れられるか、そこに尽きます。

自分の芯の部分に立ち返れば、まわりのものも、その芯の部分を感じ取れます。

誰にとっても正しさというものはあります。
それを全て捨てろというのは無理な話でしょう。
それでも、決してこれが絶対のものではない、と思うことならできるはずです。

同じ会社の中でも、職場が変われば正しさは全く変わります。
ましてや会社が変われば尚更です。

同じ日本でも土地が変われば正しさは変わるわけですから、国が変われば尚更でしょう。

家庭によって正しさは異なりますし、個々人においてもそうです。

違う家庭(過程)で育った人間同士が同じ場所で暮らすようになれば、それぞれの正しさがぶつかり合うことになります。

家庭では、掃除はこうやるもんだ、片付けはこうだ、と。
職場では、仕事はこうやるもんだ、段取りはこうだ、と。

そんな時「何を言ってんだ、こうやればいいじゃないか」と思うのは、それはこちらの正しさだということです。

相手は相手の信じる正しさに依っているのです。

理解する、受け入れる、許容する。

誰もが自分の正しさこそ、一番正しいと思って生きています。
自分の正しさが何の根拠もないものだと知れば、私たちは相手だけでなく自分自身も許せるようになります。

ただ、最後の最後まで油断は禁物です。
ここでまた「正しさなど持たないのが正しいのだ」となると、またまた囚われの世界に片足踏み入れることになってしまいます。

真面目は終わり!
何でもエエわい、くらいの気持ちでちょうどいい。

少しは自分としての正しさを持ちたいというのがあれば、そこは大目に見る気持ちこそ大切です。

自分も含め、人それぞれに依るところが無いと不安になるのです。
それは標識なのだと割り切って、大切にしてもいいところです。

日本では昔から、どこか憎めない悪党というのが好かれてきました。
ジブリ映画にしてもガンダムにしても、相手を悪者にして終わりにはしませんでした。
敵も味方もそれぞれの信念があり、正義があり、そこに向かって必死に生きる姿がありました。

戦国時代にしても、関ヶ原にしても、幕末にしても、お互いの正義がありましたし、何よりそうしたことを日本国民が当たり前に受け入れています。

そして太平洋戦争の敗戦があればこそ、双方の義がぶつかる哀しさと虚しさは私たちの細胞の奥にまで染み込んでいるのではないかと思います。

欧米も中国も、海外の多くの国々は、その時その時の敵対相手を悪役にすることで現政権を正当化してきました。
だからこそ映画にしても物語にしても、あるいは遥か昔の神話にしても宗教にしても、善と悪との対立を背景とした勧善懲悪ものが主流となっています。

しかし、旧約聖書の創世記やエノク書には、もともと悪魔も天使も同じ存在だったと書かれています。
人間を愛したことで天使が悪魔になった。
つまり、二つの存在の差はわずかにそれだけのものでしかないということなのです。

一切の妥協を許さない完全なる真面目存在が天使で、ある意味自分に正直な存在が悪魔だったわけです。

悪魔というのは、いま描かれるような極悪非道な存在なんかでは無かったのです。
そんなものは、たとえば地獄で人を切り刻む鬼などと同じく、私たちの妄想でしかなかったということです。

「ハルマゲドン」「天使と悪魔の最終決戦」などと言うとやたらおどろおどろしいものをイメージしてしまいますが、何のことはない、
単に正義を追求する真面目人間が、自分の意に沿わない相手を悪魔呼ばわりして、差別して排除しようとするものでしかなかったわけです。

真面目が過ぎると、自分は天使になって相手が悪魔になってしまう。
これは私たちにもあてはまることです。

こうなると本当にもう、この言葉しかありません。

「真面目もほどほどに」

もっとチャランポランでいいんです。
もっと自分に素直でいいんです。

なぜ日本神話があれほど自由奔放なのか。
八百万の神々たちがすでに示されているではないですか。
寛容性とはそういうことです。

そして、私たちの御先祖様たちはすでに何千年も前からそのことを理解していたわけです。



(おわり)


  

真面目もほどほどに 2

2020-01-18 23:45:00 | 心をラクに
正しさを追いすぎると泥沼に落ち入る危険があります。

そもそもこの世には間違いなど無いと知れば、気に食わないからといって目くじらを立て過ぎることもなくなります。

とはいえ、いざ、そう考えようとすると、これまで私たちの背中を押し続けてきた信念がワーワー騒ぎだしてそれを許しません。

そうした時には、信念そのものを疑いの目で見る必要があるのですが、信念というのはなかなかの手練れでして、ありとあらゆる手を使い、もっともらしい理屈で自分の正当化を図りに来ます。

しかも、私たちは彼らが発するその言葉がまるで自分が発しているように感じるため、自問自答しているような錯覚に陥ります。
もともと自分の考えなのだと思ってしまうと、一人相撲をしてることが無駄な労力に思えて面倒くさくなってきます。

大概はここで諦めてしまいますが、そこでもう少し踏ん張り、思い切って彼らを手放そうとすると、そのこと自体を思いとどまらせるような上手い理屈を騒ぎ立て、様々に角度を変え、あの手この手で私たちを諦めさせようとします。

たとえば冒頭のケースでいえば、「この世がすべてを許容しているなら好き勝手やったもん勝ちではないか、そんなのは許されない、やはり正しさは必要なんだ」というようにです。

一つが正しいから全部が正しい、もしくは一つが間違っているからすべて間違い、と騙して私たちを思考停止に陥らせるのは彼ら(信念)の得意技です。

そしてこの方法で騙されることに慣れてしまうと、マスコミや宗教や指導者や詐欺師など、現実でも同じやり方で騙されてしまいますので要注意です。

ちなみに先ほどの「好き勝手やったもん勝ち」との反論に関しては、そもそも好き勝手というのも私たちの物差しであって、その結果もそれと同じ物差しによって測られるわけですから、問いかけの前提からしてオチは決まっている、つまり自分(信念)の正しさへ導くための出来レースと言えます。

何が得で、何が損か。
何が勝ちで、何が負けか。
詰まるところ「価値判断を追う限り、価値判断で苦しむ」という話なわけです。

物差しを使って反論証明してる時点で違うだろーってなもんです。

しかも、やったもん勝ちだとか、勝ち逃げだとかいう話は、この世が全てを許容しているという話とは何も関係のないものです。
こうした論点外しも信念が使う常套手段です。
ただここではこのままその土俵に付き合って続けたいと思います。

私たちが独自の判定器(信念、価値観、人生観、損得勘定など)を使って道を選ぶなら、その先はその道に応じた展開となります。
そしてその先に繰り広げられる展開も同じ判定器で観測されるので、苦しみは終わらない。
そのような仕組みになっています。

これは今の人生だけにかぎらず、輪廻転世にも当てはまる話です。


このような無限ループに陥るとなかなか抜け出せなくなります。
なぜなら、そこから抜け出すには道の選び方を変えるしかなく、選び方を変えるためには測定器を手放す(もしくは変更する)しかないからです。

ただ先ほども触れたように測定器は自身を手放さないように様々な理屈を組み立てます。

もちろんその測定器はそれ自身の価値観や損得勘定に基づいた理屈しか作り出せないのですが、その測定器を信じている状態ではそれが真実にしか思えなくなるわけです。

他人から見ればザルな理屈であっても、彼女に首ったけの状態では恋は盲目なのです。

そのため余程のことが起きない限り、我に帰ることは難しい。
ただ、だからこそ人生は様々なイベントが起きるようになっている、と。
そこに繋がってくるわけです。
(もちろんイベントの理由はそれだけではありませんが)

病気だったり、事件だったり、人との出会いだったり、ショッキングな出来事によって測定器を手放せる(変更する)、という仕掛けです。

昔の人はそれを御縁と言いました。

今世でループから抜け出せた人は幸いです。
それが出来ないと、また生まれ変わって再チャレンジとなり、そこでもまた囚われて同じことを繰り返すと、また生まれ変わって再トライ、ということにもなりかねません。

これをもって輪廻転生そのものが不幸であるかのように説かれることがありますが、そうではなくて、せっかく自ら望んでリトライをしたのに、同じ囚われから抜け出せずに延々と繰り返すことが不幸であるわけです。

輪廻転生は楽しいから好きでやるものです。

私たちは遊園地のフリーパス状態ですから、絶叫系で発散するのも平和系でホンワカするのも自由です。
いつだって遊園地を去れますし、夜中まで楽しむことも出来ます。

遊園地はみんなが思い思いに楽しむ場所です。
こうでなければいけない!なんて野暮の極みです。

何度も何度も絶叫系に乗りたがる人が居たところでそれを見下す人なんて居るでしょうか。
むしろサッサと退園する人のほうこそ、勿体ないと思われるでしょう。

解脱が正解で、輪廻から逃れられない自分たちは不幸だなんて思うことはこれっぽっちもありません。
しっかり叫んで、泣いて、笑って、楽しめばいいのです。

ですから、もし不幸という表現を使うならそれは、我知れず判定器にしがみつき、無自覚で絶叫系ジェットコースターに乗り続けていることこそ当てはまるでしょう。


やったもん勝ちという発想も、結局は判定器の生み出したものに過ぎません。

本人が善悪や損得といった判定器を使わず過ごしていれば、仮にそれが他人の判定器では悪事となるようなことをやったとしても、その人は自業自得の結果にはなりません。
(少なくとも本人はその結果をネガティブに受け止めない)

そうでなければ、捕食動物はみんな罪深い生き物になってしまいます。
生きながらにして悪行を重ねて、不浄を背負うなんてことがあるはずありません。

良い悪いという判断基準など、この世に存在しないのです。
ですからジャッジも存在しません。
当然、罪や罰なんてものも無いのです。

もちろん日常生活においてそんなことを言ってしまうと身も蓋もなくなるかもしれません。
ですから、判定測定器がすべてダメとは言いません。
転ばないための杖というのはそれなりの意味を持ちます。
ただ、頼りすぎると大怪我をしてしまうというだけです。
そのため、その杖というものを冷静に観察することが必要となるわけです。

そうしてしげしげと観察されると、判定器は自らを手放させまいと必死に理屈を編み出します。
ここまでこうして書いてきたのは、その必死の屁理屈に籠絡されないためのものです。


少し本題から逸れてしまいましたので元に戻したいと思います。

正義や正論を追って自分を縛るのは、自らを鳥かごに閉じ込める行為に他なりません。
せっかく色々なことを味わいに来ているのに、それは命の無駄遣いになってしまいます。

縛りつけられた自分を選ぶわけですから、縛られた現実が創造されていきます。

人生に夢も希望も無くてニートになるというのは、まさにこのパターンです。
理想と現実の折り合いがつけられず、理想に縛られた結果、縛られた現実を選んでいるわけです。

好き勝手の我執や我欲にまみれた人たちがいつまでも安息の地を得られないように、正義や正論にまみれた人たちもまた、いつまでも安心の境地に辿り着くことは出来ません。

国会議事堂に向かって拡声器で叫ぶ。
アメリカに向けてデモ行進をする。
それなのに野党の落ち度は責めず、ロシアや中国を非難することもない。

明らかに安全な相手しか批判しない。
それは本当に現実を変えたいのではなく、ただ己の不満を吐き出したいだけです。
しかしそれでは格好悪いので、依って頼れる正論を探し出す。
正論が見つかなかったら、嘘を捏造してでも必死に己のよるべを求める。

正義・正論といってもピンキリですが、いずれにしても、かくも都合のいいように作ることのできるものなのです。

いや自分の場合そんな低レベルなこととは違うと誰もが思うところですが、ここで言いたいのはその中身の話ではなく、正義や正論というものはそうやって驚くほど簡単に作られていくものだという、その仕組みのことなのでありました。

見た目どれほど凄くても、簡単に作られたものは、簡単に壊れるものです。

そこさえ押さえておけば、冷静さを失わず、耳触りのいいセリフに騙されたり囚われたりすることもなくなるでしょう。

そもそも、そのような外部からの甘言に飛びつくか否かは自分次第です。
やはり自分の心の持ちようというものが大きな要因になってくるわけです。

そんなとき「だからこそ自分に厳しく他人に迷惑をかけない!」という、これが危ない。

それは人として立派なことですが、何ごともちょうどいい加減というものがあります。
猪突猛進にやり過ぎてしまうと、何もやらない方がマシということにもなりかねません。

自分自身をクソ真面目に縛ることは、自分自身に甘く怠惰に流されることと本質的には変わりません。
我執を暴走させるという一点においては同じであるわけです。
単に名目があるか無いかの違いでしかないのです。

さらに言えば、探究心というのも一歩間違えれば迷宮に迷い込んでしまう恐れがあります。

真理を追おうとするのは根源的な衝動です。
先の見えない荒波に放り出された(ということにしている)幼子にとっては、真理というものが唯一の羅針盤です。

しかし、だからこそ、そこで間違いが起こりやすい。

真理を追うのは絶対的に正しい、それは我々の存在証明だから、と成ると、もうそれに依って頼って、己を顧みずに突っ走ってしまいます。
錦の御旗のもと、自らを籠の中に縛りつける危険があるということです。

お花畑に憧れてキラキラ輝いた目をしているのはまさしくこのパターンです。

もちろん、理想というものが進化や発展を引っ張る牽引力になっているのは間違いのないところです。
しかし、あまり一人歩きをさせすぎると現実から乖離して、ついには何処へ向かうか分からなくなります。
キラキラ輝く目は現実逃避の現れです。

いま目の前にある理想というものが、歪んだ価値観や縛られた価値観に因るものでないか、私たちはよくよく冷静に考える必要があります。

明らかな私利私欲なら誰にでも気がつきやすいですが、厄介なのはそうではないケースです。

一見すると正論であり正義であることこそ注意が必要ということです。

水中の魚は自分が水の中に居ることに気が付けないように、すでに自分は正しいと信じてしまっている状態にあると自らを客観視することが非常に難しくなります。

最初は清らかな心でスタートしていても、我執に囚われ盲目になってしまっていることがあるということです。


もし自分がどうなっているのか分からない時には「寛容性」によって判別することができます。

相手の存在を大目に見られるか、それとも決して見過ごせないか、ということです。

自分が正しいと思うことでこの世を埋め尽くしたい、それ以外のものは駆逐排除したいというのは明らかに我執の垂れ流しです。
そうしたことは、正義や理想を掲げた世界中の国々、西方の大国、あるいは隣国もしかり、また国内の左右どちらにも見られることです。

確かに自分の正しさに満たされた世界は、安心安泰に過ごせるかもしれません。
でもそれでは正しさではなく、自分の安心を求めていることになります。

こうした傾向が、特に知識階級などに多いのは、他人から認められたい、守られたい、安心したいという思いが人一倍強いというのもあるでしょう。
 
あるいは、理屈が立つほど正論・正義という隠れ蓑はより強化なものになっていきますので、頭のまわる人ほど自分で自分をますます騙して
しまっている、策士、策に溺れる」なのかもしれません。

そうした隠れ蓑は、それが崇高であればあるほど危険度が増していきます。
ですから正義や正論もしかり、ましてや真理を追うとなると、より一層の慎重さが必要となるのです。

崇高なものは高みにあるものだと思い込むと、本当の景色が見えなくなります。

落とし穴はあらゆるところにあります。
たとえば「道端の雑草にも真理が現れている」などというのも、表現の美しさに酔ってるだけということにもなり得るのです。

見た目の崇高さを追うと足元からすくわれてしまいます。

崖の上や地の果てに行かずとも、この世というのがすでに真理そのものです。
特別なもの、凄いものを探して背伸びする必要はありません。

認めたくないかもしれませんが、嫌いなアイツもダメダメな自分も、真理そのものなのです。

天地宇宙というのは、すべてを許容する世界です。
こうでなければダメというものは何一つありません。
絶対的に正しいものなど存在しないのです。  

にも関わらず、私たちは正しさというものを信じて追い続ける。
そうなると、自分は正しい、間違っているのは相手だとなる。

正しさを求める目的が自己防衛にあると、尚更それは顕著なものとなります。
絶対非難されることのないセーフティーゾーンを確保したいがために、正悪の区別をハッキリつけたがるということが起こります。

そして、ひとたびそうなると相手の言い分は一切認めなくなります。

それを認めてしまうとそのぶん自分の主張(=安心・安全)が目減りすると感じてしまうからです。
だからこそ一歩も譲らず相手を組み伏せようとする。
それは天地の理とは対極にある不寛容そのものでしょう。


見通しの悪い横断歩道なのに青信号だからと左右も見ずに無防備に渡る人がいます。

私の権利だ、私が正しい、と正義や権利を主張することが染み付いていると当たり前のことも分からなくなります。

そこに無謀な運転をする車や自転車が突っ込んでくることだってあるでしょう。
それに対して、悪いのは相手だと睨みつけて終われば幸いですが、万が一大怪我をしたり、まかり間違って命を失ったらどうなるでしょう。

もちろん悪いのは相手です。
その相手は断罪されるでしょうし、賠償金も払わされるでしょう。
でも自分の痛みや命は元に戻りません。

相手を糾弾して恨み続けたところで自分は少しも救われないわけです。
まわりに同情され、貴方は少しも悪くないと慰められても何一つスッキリするはずがありません。

正しさに寄り掛かり、外に向かっては不寛容の声をあげる。
得体の知れないものに思考も判断も預け、安心しきって無思考に生きる。

誰も責任を持たないフワフワしたものに我が身を差し出すのは、自らを「未だ目覚めぬ人類」へと貶める行為に他なりません。

私たちは、本当の本当に自由です。
すべて自分で選択できるという自由があります。
そして選択するためには判断が必要です。
そして選択した結果には責任が伴います。

自分で判断したくないから選択しないとか、責任を負いたくないから選択しないとかいう逃げ口上は通用しません。

「選択をしない」というのも私たちの選択ですし、「誰かに判断を預ける」というのも私たちの選択です。

どんな選択をしようとも、その責任はすべて私たちが負うものとなるのです。
どんなことになろうと、全てを受け入れることになるのです。

思考停止をしようとも、その結果は全て受け入れることになります。
受け入れたくなくとも、受け入れることになります。

何故なら、この世は「わたし」が主役だからです
「わたし」による「わたし」のための映画が、今まさに放映されているからです。

今この目の前の景色は、それがどんなものであろうと「わたし」のためのものです。

だから、私たちは本当の本当に自由なのです。

受け入れたくないも何も、生まれた時から、すでに上映開始なのですから「何をか言わんや」です。

料理にしてもそれぞれの美味しさがあるからこそ、私たちは色々なメニューを楽しみます。

出るもの出るものケチばかりつけて、自分は三食とも大好きなハンバーグしか食べない、なんていうのは哀れな話ではないですか。


(つづく)

  


真面目もほどほどに

2020-01-18 23:43:00 | 心をラクに
海外誌の「今年の顔」に10代の女性活動家が選ばれました。
世の大人たちに対して激しい口調で地球温暖化を訴える姿が印象的でした。

「正しさ」というのは、喩えるなら夜道を照らす懐中電灯のようなものと言えます。

私たちは今この瞬間だけが見えていて、一歩先は何も見えません。

一寸先は闇の中。

実際どこへ向かっているのか皆目、見当もつかないわけです。
歴史上どの部分を切り取ってもそれは同じで、目に見えるのは常に足元だけでした。

しかし生きることは進むことです。
流動の世界に生きるかぎり、立ち止まることはありません。

そのためわずかでも照らせる明かりを私たちは求めてきました。

人によっては、その一つが「正しさ」であるわけです。

それは一歩先へと差し出す、杖に喩えることも出来ます。
その杖を信じればこそ、決して奈落の底へ落ちることはないと安心し、目の前の一歩を大きく踏み出せる。

そうして一歩先の不安を忘れ、真っ暗闇であることも忘れ、今ここに集中できているということです。

怖がって前へ進めないのに比べれば、今に集中できるというのは大変に良いことなのですが、反面、危うさを合わせ持っていることも忘れてはなりません。

「正しさ」というのは、どこまでいっても人間が決めたものです。
そもそも天地宇宙には正しさなど存在していません。
そこを勘違いしてしまうと、過信が生じ、無思考へと身を落とすことになります。

一番恐ろしいのは、知らず知らずのうちにその正しさというものに自ら縛られてしまうことです。

天地宇宙の視点に立てば、正しいも間違いも無い、それは言い換えれば、全てのものは正しいということになります。

どこを照らしても「正しい」
どの方向に向かおうと「正しい」

もちろん、そうした先の展開は様々です。
ただ何をもって幸福と見るか、不幸と見るか、それは私たちが貼るレッテルでしかありません。
そして私たち人間が決める「正しさ」というのはそうしたレッテルで決められたりしています。

では、私たちは一件一件そこまでレッテルをチェックして「正しさ」を決めているかというとそんなことはなく、実際のところは、みんなが受け入れている「正しさ」を自分も受け入れているだけです。

ですからそんなものは、時代や場所、立場が変わればコロコロ変わる、真逆にもなるということです。

そうなると、大切なのは「正しさというものはその程度のものだ」という冷静さになります。

そうした認識があれば、暴走にひきづられることも無くなります。

もちろん秩序を保つために、ある程度の指標は必要です。
正論にしても正義にしても、全てを否定したり軽んじたりするものではありません。

ただ、指標というのはどこまでいっても指標に過ぎない。
それが私たちの中で絶対的なものとなってしまうとマズいということです。

道路標識というのも一つだけでなく、場所と状況によって様々なものが存在します。
どこであろうとこれ一つだけ守っていればいいというものはありません。
たとえ同じ場所であっても道路事情が変われば標識も差し替えられます。

この標識は絶対に変わらない、どこまで行ってもこの標識が正しい、というのはおかしな話です。

世の中の常識もまた情勢によって変化するものです。
正義や正論だってもともと変幻自在であるわけです。
これだけが絶対正しいなんてことは有り得ない。
事情が異なれば、標識は通用しなくなります。

それは個人同士にも当てはまることです。
いま目の前の標識が絶対のもので、それ以外は駄目という思い込みは極めて危ういことだと言えます。

いやいや現実を変えるために理想・理念は必要ではないかと問われれば、それはその通りでしょう。
ただ、それは月をさす指のようなものです。
しかし理想・理念を追うあまり、その理想や理念自体が月になってしまう(目的化してしまう)と、妄想に囚われた自縄自縛でしかありません。

現実をしっかり受け入れ、自らの理想へと繋がる糸口を探し、そこへ向けた具体策を考え抜いていく。
それが本気で現実を変えようとする大人の行動です。

お花畑というのは、誰が見ても美しいに決まっています。
でも都会のコンクリート全てをお花畑に出来るはずがありません。
美しさと現実をどのように折り合いつけていくか模索するのが責任ある大人というものです。

理想に囚われ、正義や正論を盲信し、自己正当化の暴走が始まると、まずは現実をけなし、その現実を受け入れている人たちを非難し出します。
解決策も何も無い。非難するだけ非難して終わり。
解決も思考も相手に押し付けるというのは、思考停止に他なりません。

それは、檻の中に入って回転車を走りながらワーワー叫んでる姿そのものです。



理想に囚われるのは危険です。
正義や正論に囚われるのも危険です。

大切なものほど適切な距離感が必要となります。

たまたまその時その場所において秩序を保つための方便、我欲の暴走を防ぐための規範として設けられたもの正義・正論です。
どこまで行っても私たちが主体であって、標識というのはあくまで参考程度のものでしかありません。

「こうあるべきだ」「この正しさは絶対のもの」という信念を持ってしまうと、主客が入れ替わってもそれに気が付けなくなります。
明らかにおかしくてもその異常事態に気がつかない。
それが信念の怖いところです。

人間は自分の信じるものしか見えません。

「こうあるべき」というのはまさに「理想」という言葉に置き換えられます。
理想というのは価値観の現れですから、「こうあるべき」「これが正しい」というのも人の数だけ存在することになります。

正義や正論が理想と結びついてしまうと、お互いの理想、お互いの信じるものがぶつかり合うことになります。

つまり、正義あるところ必ず対立が生じるということです。

間違いや過ちが対立を生むのではなく、正義や正論が対立を生むのです。

「これが正しい」
「これこそが正しい」
「これしか無いのだ!」

自分が正しいと思うものを追いすぎると、それは信念を通り越して信仰となります。
それ以外が見えなくなる。
それ以外は目に入れたくなくなる。

視野の狭い見方をすると排他的になります。
自分を縛ると他人も縛りたくなるのです。

この世の中には、正しい正しくない、なんてものは存在しません。
存在しているのは「私たちの決めごと」だけです。

現実というのはオールOK。
ポジティブもネガティブも、善も悪も、全て私たちが勝手に決めた価値観です。

すべての存在が許される。
もとより、この世というのは完全なる寛容の世界であるわけです。





(つづく)


  


嫌がらずに見守る

2019-08-11 21:16:02 | 心をラクに
相手の話に乗っかって「あ、それね!」と同意を示したのに「違う」と言われると、あれ?何か違う話になるのかと頭を巡らせるものです。

でもそのまま話を聞いてると結局こっちが言ったままの展開ということがあります。

キャッチボールを図ろうとしているのに「違う」といって口を挟ませようとしない。
そうしたことが何度も続くと、その人の話はあまり聞きたくなくなってしまいます。

怖いのはその人が無意識のうちに「NO」が口癖になってしまっている場合です。

会話というのは自分一人で成立するものではありません。
お互いの参加によって成立するものです。
一方通行ではなく、行って返ってまた行ってという相互交流であるわけです。

一方的に「吐き出す」ことが目的になってしまうと、そこに二人いる意味がなくなります。
いつも条件反射的に「違う」と相手を制してしまうと、相手の心はそこから去ってしまいます。

相手からすれば、ここに居るのは別に自分でなくてマネキンでもいいだろうと思ってしまう。
自己完結している人の前にボーッと立たされている私は何なんだろうとなります。

なぜ交流を図ろうとしてくる相手にそのようにNOを出すのかといえば、それは自分の発言を守りたいからです。
貴方の意見はいいから、この自分の発言を大事にして欲しいと。

「出したいだけ」ならマジメに聞かなくてもいいだろと思いたくなりますが、その人としては一人でブツクサ言っている状態は嫌なわけです。
無理やり相手を座らせて、口を挟むな、私の話を聞いてくれ、となります。
そして相手が上の空でちゃんと聞いていないとカチンと来る。

これがどういうことかと言うと、自分という存在の手応えを得るためには、こちらに心を向けた他人の存在が必要になるということです。

「相手の話は聞きたくない」「自分だけが主張したい」というのは、実は「相手の存在を強く求めている」ことと同意だったのです。

私たちはテニスの壁打ちでは何も満たされません。

どれだけワガママで自己本位な人間であっても、その欲していることは「ハッキリ自分に返ってくるリターン」であり、その手応えであるわけです。

ですから、たとえ相手が目の前に居てくれたとしても、適当に返ってくるボールでは悶々が増すことになります。

ここでポイントになるのは「手応え」ということです。

つまり、無反応や無関心が一番堪え難い。
ポジティブな形に限らず、たとえネガティブな形でも手応えが欲しい。
スカスカの返球をされるくらいなら殺意のこもった返球の方がいい。
とにかくしっかり自分に向いて欲しい。

交流というのは、お互いの心が相手にしっかりと向くことで生じます。

この天地宇宙はすべてが流動しています。
存在するものはすなわち流動そのものです。
停滞してしまうと存在することができなくなります。
私たちは流動そのものですから、停止を嫌い流動を欲するのは本能であるわけです。

バンッ!と発するエネルギーがポジティブかネガティブかによって、見た目は友好か敵対か大きく変わりますが、どちらも「交流」に違いありません。
良好な関係、いがみ合う関係、憎しみ合う関係、すべて交流です。

慈しみや優しさというものはもちろんのこと、暴力や衝突もまた関係性の在り方の一つです。
親子の虐待が代々引き継がれてしまうのも、それしか関係性の在り方が分からないからですし、根底には交流を図りたいという本能があるわけです。

これは決してそれを肯定するということではなく、善悪という道徳観念だけがこの世の全てではないという話です。

それを幸せと見るか不幸せと見るかは客観的な評価でしかなく、事実は、停止・停滞だけはこの世に存在するかぎり出来ないということです。

単に殴られるよりも無視されたりスルーされることの方が遥かに辛いというのは、そこに交流が無くなるためです。
この世で最も残酷なことは無関心だと昔の聖人は言いました。

周囲との交流がゼロになり完全孤立することは、空の乾電池と同じで、ただの無機物と化すこと、存在しないことを意味します。

とはいえ、ポジティブな交流が大勢を占める社会においてネガティヴな交流は持続性に難ありとなります。
いつまでも悪態をつくような人間のまわりからはどんどん人が遠ざかっていきます。

そのためネガティブなアプローチを選んだ人は、なんとか自分の方を向いてもらおうと、そのスタイルをますますエスカレートさせていくしか
やりようが無くなります。

より攻撃的になることで相手の心が自分に向くようにする。
それが極端になると無差別犯罪を起こすようなことにもなります。

交流が途絶えると魂は悲鳴を上げます。
そのため手段を問わず周囲との繋がりを作ろうとします。

これは国レベルにおいても同じことが言えます。

外向きのスパイラルは和合となって広がっていきますが、内向きのスパイラルは自滅のブラックホールとなります。



一方的に吐き続けていては呼吸は成立しません。
吐くのと吸うのが交互にきて、それらが同じバランスになっていくのが自然な姿です。

これは職場でもそうですし、家庭でもそうです。
もちろん武道の世界でも同じです。

相手を一方的に制しようとする者は、それだけ自分自身を制してしまうことになります。

隣国との関係がここまで悪化してしまったのもこの理屈です。

会話というのはキャッチボールです。
自分の言いたいことを一方的にまくしたてて、相手の言うことには耳を塞いでしまうというのでは成立しません。

交流を拒絶して自分の話だけ聞いて欲しいというのは、天地自然の原理に照らしても無理な話であるわけです。

相手にNOを出して自分だけ喚き続けるようなことをされると、誰だってその土俵から降りたくなります。
それでも彼らは歴史的に、相手をぶん殴って怒らせて関係性を保つというやり方を選んできました。

何百年もの間、支配者に対して恨みと憎しみという形で関係性を保ち、目下の人たちに対しては相手の完全服従という形で関係性を構築しました。

自分の立場が上になっても下になっても、そうした従属の構図で関係性を保ち、上から下へ、下から上へ、流動というものを維持し続けてきました。

隣国は自立してからほんのわずかしか経っていません。
今現在の暮らしの後ろには何千年もの苦しい歴史が流れています。
暮らしや嗜好は数十年あれば変わりますが、価値観や国民性というのはたかだか数世代で変わるものではありません。

明日の生活が保証されていない人間が第一に優先するのは当然、生き残ることです。
私たちは命が保証されて初めて、それ以外のことへ心を向ける余裕が出てきます。

弱肉強食の世界というのは、近隣国に限らず日本でも引き揚げの時や闇市の時に体験しました。
ただ日本の場合はそれが短期間で終わったのが幸いでした。

でもそれが百年単位、千年単位でその苦境が続いたらどうなるか。
正直者は馬鹿を見るというのが何世代も続いてしまう。
二代、三代くらいならば頑張れたとしても先細りになるのは明らかです。
なにせ食べものもロクに手に入らないわけですから。

そもそもこの世は綺麗事では生きていけません。

綺麗事や正論というのは人間が作った観念の一つにすぎません。
天地自然に正しい正しくないなんて論理は存在しません。

それは戦争や貧困といった極限状態になると一層、顕在化していきます。
そこのところを、お花畑の平和主義者の人たちは分かっていません。
生きる余裕がない時は、相手を生かすなんて生ぬるいことは言ってられない。

もちろんそんな中でも相手を生かそうとする人も居るでしょう。
ただそれは見えない程度にこっそりやるしかありません。
表立ってそれをやると一気に身ぐるみ剥がされるツラい世界があるわけです。



生まれた時、私たちは誰もがみんな無垢な存在です。
これは国や民族に関係なく、いつ何処に生まれても同じことです。
ですから、古今東西、和洋を問わず、誰だって自ら穢れることは忌み嫌うものです。

誰かを貶めたり悪口を言ったりすると、全ての人間は必ず自己嫌悪というものに直面します。

相手を押しのけて自分のことしか考えないようなことをすると、心が苦しくなって自己嫌悪に悶々となります。
これはどんな国のどんな人間であっても、一番最初は必ず味わうものです。

どんな悪人でも子供の頃まで遡ると、必ずその最初の体感があります。

誰もが直面するその場面でどういう対処をするかによってその後が大きく変わります。

自分の身を振り返ってそれを正したならば、ゼロリセットされますので、次にまた同じ場面に直面した時に同じように自己嫌悪に悶々とすることが
できます。

「することができる」と言ったのは、汚れた身をまた綺麗にすることが出来るという意味からです。

天地に照らして自分が不自然な状態にあるのを自覚すると、モヤモヤが消えませんので自発的に身を正すことになります。

逆にひとたびそれを他人や環境や社会といった外部のせいにすると、次また同じようなことが起きても外部のせいにすることになります。
最初のうちこそ他人のせいにすることにモヤモヤとした自己嫌悪を覚えるのですが、それを無視して繰り返すにつれ、心にとめることなく無自覚に
そのパターンに放り込むようなオートモード(自動装置)が出来上がっていきます。

すると、他人のせいにしても悶々と良心の呵責にさいなまれるようなことが起こらず、何も感じずスッキリ、ケロリとした状態がキープされるように
なります。

他人を押しのけて自分のことしか考えてないと、普通はモヤモヤした気持ちになります。
しかしオートモードになると、モヤモヤしなくなるわけです。

ただこの方法を取ると、罪穢れをどんどん自分の身にまとっていくことになります。

外へポンと投げて責任回避していると、感覚としては自分は何も汚れていないような感じになります。
でもあくまでそれは顕在意識の感覚であって、実際は目を背けているだけでしっかり心の芯にまで届いていますので、罪穢れとしてどんどん積もり
積もっていくことになるのです。

とはいえ綺麗事では生きていけない時代や世界に生まれ落ちたら、自らの身を正して我欲を捨てて生きていけるものではありません。
自責の念に負けてしまったら物理的に生き残れない世界があります。

日本では飢饉や疫病に苦しんだ中世以前がおそらくこれに近い状態だったのではないかと想像します。
実際、中世以前の日本を見ると、誰もが自分は地獄に行くものだと頭を抱え、救いを求めていました。

心も感覚も今よりはるかに繊細だった当時の人たちですから、穢れに堪え兼ね、自責の念に悶絶したことは想像にかたくありません。

ただ、だからといってその頃の人たちはこの世を呪ったり、誰かを恨んだり、外部のせいにしたりして楽になろうとは考えませんでした。

このあまりに不条理な世の中に生まれついた不幸をどう飲み込むか。
そうして、個々を救済する教えとして仏教が庶民に広がったのでした。

そしてそれは、おすがりの宗教なんかではありませんでした。

素直で正直な人たちが真剣に悩む思いを決して否定することなく「生きろ!」とその背中を後押しするものだったのです。

「生まれながらの罪人だから仕方ない、罪深き人間だから贖罪が必要だ、地獄行きだ」と言って、死人に鞭打つような非情な宗教とはそこが決定的
に違いました。

「確かに我欲を捨てて生きることこそ正しい、しかし生きるためにはそんなことは無理だ、それでも大丈夫、今は穢れに苦しむともそれで地獄に
行くことはない、腐らず立ち上がれ、その先には光差し込む未来がある」と絶対肯定で寄り添って
肩を貸したのでした。

こうして私たちのご先祖様の心は救われました。

私たちが今、人のせいにすると悶々と自己嫌悪に陥ったり、その結果反省してキチンと身を正してスッキリなれるのも、全てそうしたご先祖様たち
のおかげです。

そんなの当たり前と思うのは恩知らずです。
それが当たり前ではない国もあるのです。

地獄のような苦しみの中、自己の我欲と穢れに目を背けず、直視してそれを受け入れることは本当に大変なことです。

せめてお盆の時期だけでも、そうした思いに手を合わせて感謝したいものです。



一方、近隣国では過去においてそうした自己嫌悪の苦しみから逃れるために、嫌悪のエネルギーを外へ向けることで解決を図りました。

つまり悪いのは自分ではなく、相手だ、世間だ、国だ、と。
それが「恨」の文化となりました。

他者嫌悪というのは、実は自己嫌悪の裏返しであったということです。

それが強ければ強いほど、いかにそのプロセスを繰り返してきたかということになります。

自己嫌悪というのは自分自身の否定に繋がりますので本能的にそのまま放置しておくことは不可能です。
私たちのご先祖様は、その原因となる我執を捨てることで嫌悪の元を絶ちました。

もしそこで知らんぷりしてそのまま原因を解決しないと自己嫌悪はどんどん増大していきます。
そうなると、それを打ち消すために自己肯定で上書きをするという反射行動が起こります。

自己肯定をやり過ぎると自意識過剰となっていきますので、つまりはプライドが高くなっていきます。

プライドというのは自己嫌悪の産物ということです。
自己嫌悪に押し潰されないようプライドに寄りかかってバランスを取っているというのが全体像になります。

そのプライドというのはガラスのようにもろい虚像ですから、それを維持するために日頃から他者を見下したり悪く言ったりすることになります。

これは自己嫌悪からの自滅を防ぐための一つの道ですから、どれを選択するかだけの話で、国や時代に関わらず誰にでも起こりうる現象です。

何百年、何千年もの間、世の中の大半がそうなると、助け合いや譲り合いといった精神論は通用しなくなります。
ただそうなると集団の統制が取れなくなるため、近隣国では儒教が採用されました。

しかしそれはあくまで外づけの矯正、ルールや規則に近いもので、価値観や美意識にまで昇華されるものではありませんでした。
実際、儒教が無くなるとともにキリスト教が圧倒しています。

もちろん今でも儒教の教えは形として残っています。
ただそれが規則やルールと化している証拠に、例えば「長幼の序」にしても、敬うという本質はすっ飛ばされ、年長者の方が偉いということに
フォーカスされてしまっています。

電車で席を譲るという場面でも、老人が若者に権利を主張し、頭ごなしにドヤしつけてどかせるということが起きています。
躾や道理として相手を叱るのではなく、権利を主張して怒りにまかせている状態です。

若者はこれを嫌って最初からシルバーシートに座らなくなるということですが、ルールとしては成立しても果たしてそれでいいのかということです。

若者たちにしても、それを権利による上下関係として諦めて席に座らない。
となれば将来、彼らが年老いたら同じように権利を主張するのは明らかです。

少し脱線しました。

その時代その環境によって何が正しいかというのは変わっていくのが自然な姿です。

天地宇宙にこれが正しいというものは存ません。
正しい正しくないというのはすべて私たちが決めているものです。

醜く生きるより美しく死んだ方がいいというのは、少なくともそういう価値観が存在する世界に生きる人が思うことです。

しかし苦境が何百年も続き、実利が全ての世界になると、今この時この瞬間の自分たちにとっての「正論」が絶対のものになります。

過去の事情なんて関係ない、相手の事情なんて関係ない、今の自分たちが正しい、となります。

現代の価値観を過去に当てはめて事後法で断罪するというのは、王朝交替(王朝が滅ぶと前代の全てを否定する)と根っこは同じと言えます。
政権が変わるたびに過去の約束を全て反故にするのはそのためです。

そもそも為政者と国民の関係性について「代替わりのたびに全てがリセットされ新たな国策が作り出される」「国策に関しては当代の政権に全責任が
あり国民は受け身でしかない」という感覚があるように見受けられます。

根っこに支配層と被支配層という感覚が残っているため、民主主義という概念が深部まで到達できず表層で上滑りしてしまっている。

だからこそ、日本の今の対応も全てはアベ政権の暴挙によるものだ、アベシンゾウが悪党なのだ、という個人攻撃が起こるわけです。

私たち日本人の感覚からすればそこがしっくりこないところだと思います。

政府の暴走でもなければ、政府からの押し付けでもない、扇動されたものでもない、国民全体として共有された感覚であるだけに、ここでもし安倍さん
が替わろうとも私たちの意識が変わるものではありません。

逆を言えばそれは、いかに隣国では官民の断絶が激しいか、いかに日頃から国民が騙され踊らされているか、独裁者的な要素が半ば諦めのもと受け
入れられているか、そしてそのことを国民がしっかり自覚しているかを表すものといえます。
そこにはトップが替われば国民の意識も変わるのが当たり前という無意識の賛意があるのかもしれません。

そうなると、投票した自分たちに責任はなく、自分たちを騙した為政者が悪いとなりますので、自己を振り返ることが為されなくなります。

自分たちが悪かったと認めませんと学習効果は起きませんので、再びまた感情に任せて大統領を選ぶことになります。
そして最後にはまた個人攻撃で弾劾して吊るし首にすることが繰り返されるということです。



プライドだけが自己存在を肯定するためのヨスガになってしまうと、それを危うくするような因子はすべて敵、すべて悪となります。

自作の妄想に全身を預けてしまうと、それが否定されることは自らの存在を否定されるのと同じ感覚になります。
ですから妄想を事実化させることに全力を注ぐことになります。
それはまさしく自己のアイデンティティーを確立させる行為、安定させる行為に他ならないのです。

ですから「それは事実と異なる」とお年寄りが言うと、こいつ売国奴だと吊るし上げられることになります。
自分の存在を危うくするのは敵という感覚です。
歴史上の事実よりも、自分がここに居てもいいという事実の方が重要になるのです。

プライドが砕かれることは自己肯定ができなくなることですから、存在を賭けてそれを阻止せねばならなくなります。
そうなると屈服という言葉も、私たちが考えるより遥かに重みのあるものとなっていきます。

プライドを守ろうとすると何事も勝った負けたという考えになります。
そしてそこで負けを認めるのは相手の靴を舐めるような屈辱だということになります。
そのため、それだけは絶対に認められないという独り相撲が始まるわけです。

近隣国の中ではお互いがそのような状態にありますので、自らの非を認めるというのは「負けを認めた」という意味に変換され、あらゆるものを
とことん奪い取ってもいいという話に飛躍します。
そして実際、何もかも奪い奪われる歴史がありました。

日本が統治していた時代、日本は決してそこまで酷いことはしませんでした。
あの時代のどの国もが普通にやっていた範囲内のことしかやっておらず、むしろ世界一厳しい軍規で西洋列国よりも紳士たろうとしていました。

ただ、今日の国際試合を見ても分かるように、勝った者は何をやってもいいという感覚を持ってしまっていると、日本の統治下もそうだったに違い
ないと勝手な想像を膨らませることになります。

想像というのは自分の意識の範囲内の材料によって作り上げられるものです。
範囲外にある考えや感覚はそこに加えられることはありません。

大陸の大国にしてもそうですが、戦時下の日本陸軍がやったとして捏造されている残虐行為は、どれもが彼らの行動原理に基づいているものです。
遥か昔の大陸での内戦や元寇などで見られはすれども、日本人の感性では思いつきすらしないものばかりです。

妄想というのは全てその本人の価値観、行動意識をピース(パズルの一片)にして作り上げられます。

そして実際、太平洋戦争でも日本に対してそのような残虐行為(散々なぶられて最後は残酷な殺され方をする)を行なっていたために、「生きて
虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が私たちの国に広まったわけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/通州事件

戦陣訓は決して国民が強要されたり騙されたものではなく、生き地獄を味わわされる事実が当時共有されていたからこそ受け入れられたものだった
ということです。

幸いに米軍はそのような猟奇的な習慣を持っていませんでしたので、そのことを知っている後世から見ればひめゆりの塔なども軍部の洗脳による
悲劇にしか映りませんが、当時の日本人が身近に知っていた事実というのはむしろ大陸の出来事だったことを私たちは知らなくてはいけません。

戦後日本ではWGIP(戦争の罪悪感を植えつけるための宣伝計画、占領軍による洗脳プログラム)により全て自国が悪いことにされ、他国の非道は
封印されました。
今さらそれを蒸し返して相手が悪いなどと言うつもりは毛頭ありませんが、せめて先人の名誉だけは回復させるべきでしょう。

ご先祖様たちをさげずむようなプロパガンダを信じたままというのは草葉の陰で悲しませる行為となってしまいます。



話を戻します。

勝った人間は負けた相手に何をしてもいいという価値観を持っていると、どんなことがあっても自分の非を認めることはできないということになります。
自分が作った価値観に自ら脅されることになるわけです。
同時に、非を認めた相手からはとことん奪い続けていいという感覚を持つことになります。

一方では、自分たちの先祖がやられたのだから今こそ恨みを晴らす時だという妄想が加速していきます。

さらにはプライドを保つために生じる差別意識というものが輪をかけることになります。

隣国は大陸の文化や価値観を正当に引き継ぐものと称しているように、国内において苛烈な階層社会を形成していきました。
その意識というのは家庭の中まで浸透し、弱き存在は下へ下へと追いやられ、集団のバランスを取る役目を押し付けられたのでした。

このような精神構造が根底にあるため、現代においても学歴や社会的地位というものがそれに代わるものとなって残り続けています。
上へ上へと這い上がるため貪欲に頑張り、それが叶わず下層に固定化されると今度は支配層や富裕層を引きづりおろすパターンが繰り返されています。

パトカーまで出動する受験騒ぎや、権力者や高所得者への強烈なパッシングはそのような背景があります。
そして当然この精神構造というのは国家レベルにおいても現れるものです。

中国やロシア、アメリカは隣国に対して過去から一貫して強固な態度で接していましたが、日本は紳士たろうとして必要以上にへりくだり、下手
(したて)に出ていました。
これが今現在の状況を作り出した一番の原因となっています。

つまり、その中身が正しいか正しくないか以前に、精神的に自分たちより下にいる日本が自分たちより上に行こうとするなど生意気だ、許せない、
到底受け入れられないとなってしまったわけです。

こうなるともはや単なる心の問題ですから、理屈ではなくなります。
理解できない集団行動の出所はそこです。
精神的勝利などという謎の言葉を必死に追うのは自らの心の安定のためであり、それは自己存在を危うくされたくないという無意識の不安に因る
ものなのです。

実際、中国やロシアに同じことをされてもそこまでのヒステリーは起きません。
それはどちらの国も最初から一貫してガツンと強い態度で接していたからです。

ですから今さら日本が、大丈夫だよ、怖くないよと言ったところで、無意識のかなり奥深くまで根が張ってますので通じるものではありません。
なぜそんなにもハラハラしたりイライラするのか、その理由は当人が一番わかっていない状態だと言えます。

日本が嫌な理由を聞く街中アンケートでも「何となく」「過去に悪いことをしたから」となり、「でも日本人は嫌いじゃない」「日本文化は好き」となっています。
それを政府と市民は別ものなのだとか、国と国民は別なのだとか、安直にお花畑な結論に結びつけてしまうと物事の本質が見えなくなってしまいます。

一度や二度謝られたところでその不安やイライラやハラハラが無くなることはありません。
理屈でどうこう言うような上っ面の話ではなく、無意識下にある観念とそのパターン化に根ざすものだからです。

彼ら自身そのことに気づいていないので、一回謝れば不安やイライラは消えるものだと本気で思っています。
でもそこで消えるのは目の前の悶々だけであって、すぐまた不安やイライラが湧き上がってくるのです。

たまたま近隣国の話になりましたが、もともと誰にでも当てはまる話をしています。



プライドというのは、自己肯定をしきれない人間がしがみつく命綱のようなものです。

自分に対して不安があるとそれを打ち消すためにプライドが増幅していきます。
国やその歴史に対して不安があっても同じことが起こります。

そして自己肯定が出来ない人間はまわりから自分にOKを出してもらうことで安心を得ます。
ですからプライドが高い人間は、例外なく承認欲求が高くなります。

レーダー照射問題にせよ、不正輸出にせよ、サッと謝罪さえすればあっという間に終わる話ではないかというのは、育ちのいい人間が言うセリフ
かもしれません。

非を認めるというのは彼らの世界では社会的な死であるとともに個人にとっても精神的な死を意味します。
非を認めた人間が死後も唾を吐きかけられ、子々孫々まで非難され続けられている様を見ればそれは明白です。

いわゆる慰安婦問題にしろ、今回の一連のゴダゴダにしろ、ここに全ての本質があります。

謝ったら未来永劫謝り続けなければいけない、だから自分たちは謝れないし、逆に一度非を認めた日本人は永遠に謝り続けろ、となります。

現代の生活水準を見ると私たち日本人は無意識のうちに同じ価値観を有していると思い込んでしまいます。
そのため理解に苦しむ言動に映ってしまいますが、それは私たちのワガママというものです。

相手には相手のバックボーン、相手の価値観、相手の事情というものがあるのです。
伝統や民族性というのは何百年もの積み重ねによって醸成されていくものです。

もしも自分の負けを認めたらそこから相手は際限なく次々と何かを求めてくる、土下座をするというのはそういうものだ、という感覚があるのです。

どれほど不利な状況でも最低でも引き分けにしないといけない。うやむやにしないといけない。

ワーワーと騒いだり、相手のアラ探しをしたり、捏造してでも相手を悪者にしたりというのは長い歴史で得た処世術です。

ただそれが成功するのは、相手が大目に見たり、根負けしたりした場合に限りました。
通用しない相手には最後に土下座し、その代わり恨みをもって自己のバランスを保つというのが過去の歴史だったわけです。

ですから、もう仕方がないところまで来てしまいました。

過去において不幸にして恵まれない境遇に生まれてしまった。
それでも前だけを見て心を逞しくしていく道もあったかもしれませんが、そうではなく、まわりに責任転嫁して自らを保つ道を選んでしまった。
それは今さらもう如何ともしがたいものです。

そこに手を差し伸べるというのは、彼らからすれば「優位に立った」「勝った」ということになってしまいます。
結論を先送りにするというだけでなく事態をより深刻化させる悪手の極みです。

私たちも学ばせて頂く場面にあります。

どうしようもないこと、変わりようもないことを変わってほしいと思うからイライラがつのります。
相手が怒っている状況、波風の立った状態が辛いと思うから苦しくなります。


これまでの日本は、モヤモヤするのが嫌だから譲歩するという選択をしてきました。
でもその譲歩こそがお互いをますます不幸にすることになりました。

それは単に息苦しさを手っ取り早く解消させたいという手抜きであり、自己中心的な逃げでしかありません。
優しさだとか大人の対応だとかいうセリフは自己正当化の単なる言い訳、誤魔化しです。

相手が怒っているとなぜ苦しいと思うのか、そこが今私たちに突きつけられたものであるわけです。

もちろん、和を尊ぶ国民性というのも理由の一つかもしれません。
しかし今の場面で気づきとなるのは「和に執着していませんか?」ということです。

あるいは、平穏な状態が正しいと思ってないか、いい人に思われたいという強迫観念がありはしないか。

相手も自分と同じであって欲しいというのは単なるワガママです。
理解しあいたいというのもワガママです。


和合というものに執着すると、今の状況が変わって欲しいという我欲が生じます。

和合というものが安心安定なのは当然のことです。
でも、羽化する卵の話にもありますように、待ちきれず無理やり卵の殻を割るというのはどんな理由をつけても正当化されるものではありません。

相手にとってもこちらにとっても、そこに至るまでの必要な時間というものがあるのです。

平和主義者や差別反対者というのは、不調和を受け入れたくないという煩悩を自ら作り出し、その苦しみに向き合いたくないがために正論めいた
美辞麗句をもって真実を覆い隠し、目先の悶々からラクになろうとします。

それは相手のためでも何でもなく、単に自分のためでしかないわけです。

仕方がないものは仕方ない。
その割り切りが必要なのです。

隣人がもっと大人だったら良かったなどと思うのも、波立ちを嫌う自分勝手な思いの一つです。

原因の元が断てないなら、ただそのまま静かに置いておくしかありません。
たらいに張った水もそのまま置いておけば時間とともに必ず落ち着いていきます。

あとはそのあいだ静かに見守れるかどうかだけです。

日常の場面でも、自分が苦しいと思うものの根っこが何なのか、冷静に見極めることが大切です。
本質を直視しないまま表面のことに振り回され、それを嫌ってすぐに排除しようとしてないか。

相手のためというセリフ自体が、実は自分のワガママを満たすための逃げ口上に過ぎないかもしれません。

隣国のことを非難するつもりは毛頭ありません。

「どんなに理不尽でも人の言動にはそれなりの理由がある」
「世の中には綺麗事ではどうにもならないものが
沢山ある」
「どうにもならないことはなるようにしかならない」
「私たちの苦しみの原因は私たち自身にある」

そういうことです。

相手が何をやっても何を言っても、もうそれはそういうものなのです。
といって耳を塞いで無視をすればいいというものでもありません。

ただ心さえ向けていればいい。

誰の中にも同じ芽はあります。
それをそのままスルーしているか、セッセと水をあげるか、たったそれだけの違いであるわけです。

時代や環境が違えば私たちだって同じことをやっているかもしれません。

今この時というのは、彼らにとってはその芽がテーマであり、私たちにとってはまた別の芽がテーマであるというだけです。

波立ちをそのまま受け入れて静かに見守れるか。

優しさだとか理解だとか、そんな上っ面のことよりも遥かに大事なことを私たちはいま経験しています。


(おしまい)