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私たちの本当の故郷(3)

2018-11-13 09:00:06 | 天地の仕組み (Basharサポート)
あんなことをしなければ良かった。
あんなこと言わなければ良かった。

そのような後悔に苛まれた時は、今ココで選びなおす、今ココで上書きする、それが過去の傷を癒すことになると話しました。

ただ、そこまでやってもまだモヤモヤが消えない、自己批判が収まらない場合は、もうそれは相手への申し訳なさではなく、単純に自分自身へ
のこだわり、囚われになってしまっている可能性があります。

そう聞くと、そんな馬鹿な、本当に相手に申し訳ないと思ってるのに、と反発したくなるところですが、それは申し訳ないという思いだけが上滑り
して単なる念仏というか呪文と化している恐れがあるということです。

自分に厳しいというのは一種の美徳でありますが、度が過ぎるとそれは執着になってしまいます。

やり過ぎになっても表面上は依然として真面目で善良な振る舞いに映るために、自分自身も騙されてしまう。そうなると誰も止める人が居なく
なり気づかぬうちにドンドン加速することになります。

「これが正しい」という考え方は、例外なくそのような危険を孕んでいます。

それらは本来、自らを律したり抑えたりするブレーキの役目を果たすものですが、やりすぎると逆方向へのアクセルとなってしまいます。

車体はもう停まっているのにまだ安心できず、思いっきりブレーキを踏み続ける。
ついにはバックし始め、それでもまだ不安が消えずにペダルを踏み続けて逆方向へ加速していく。

それはまるで昔懐かしトムとジェリーやウッドペッカーに出てきそうなナンセンスギャグにしか見えませんが、私たちはそれを大真面目にやって
いるわけです。





「過去の自分を責めすぎて、傷だらけのボロボロになってしまう」
「相手はもう気にしてないのに、自分で自分を許せず自己批判が止まらなくなる」
「それが間違いと分かっているのに止められない、そんな自分が嫌で仕方ない」

どれもこれも真面目で繊細な人ほど陥りやすいパターンです。

でも敢えて厳しいことを言います。

それはもはや傷つけた相手のことをおもんばかる優しさではありません。
キッカケはそうだったかもしれませんが、途中から変質しています。
つまり美徳を隠れ蓑にして、実際は自分のことしか考えてない状態になってしまっているわけです。

自分を責め続ける
そこには、親からよく思われたい、友達からよく思われたい、まわりからよく思われたい、自分で自分をよく思いたい、「ステキ自分像」に少し
でも近づきたいという思いが隠されています。

よく思われたい衝動の出どころは、孤立への不安であり、安心に対する飢えにあります。

最初のキッカケは他人に対する慮り(おもんばかり)からスタートしたとしても、いつしかそこから離れ、最後はただ惰性だけになってしまう。
思考の暴走に陥り、目隠しの無限ループにハマってしまっている状態です。

傷口に塩を塗るようではありますが、自分を責め過ぎるという負のスパイラルから抜け出すにはこの事実を知る必要があります。

自分で良かれと思ってやっていたことが、実は最も毛嫌いしていたことだったと。

だから、もっと適当でいいわけです。
チャランポランでいい。
100点なんて目指さなくていい。

正論というのは単に一つの指標に過ぎません。
100点に近づけようとする発想自体が、自らを思考の牢獄に閉じ込める行為になってしまいます。

答えらしきものを探す、相手の望む答えを探す、万人受けする答えを探す、それこそが真っ暗闇の迷宮へ一直線に突き進む道に他なりません。
それはセッセと頑張って自分を縛っている姿でもあります。

正義や正論に囚われると、景色の一部分しか見えなくなります。
何故なら、そのとき見ているのは思考の世界であり、頭の中の牢獄であるからです。

まわりが見えなくなる、つまりフィルムの全景が見えなくなるというのは、現実が見えなくなるということです。
すると、自分が起こした波立ちも見えなくなります。

自らの思考に囚われている人は、己の頭の中を見ています。
ですから、その景色には自分の信じた正義と正論しか映っていません。
信じたものしか見えていないのですから、信じたものしか存在しない世界となります。

だからこそ、それ以外のものがそこに混じると嫌で仕方なくなります。
自分の頭の中、自分の心の中に異物が入り込んだ感覚になるため、生理的に耐えがたくなるのです。

子供の頃を思い返しますと、生徒会や学級委員にもギャーギャーと規則をわめきたてる人が居ました。
優等生気質というのは自分の信じた正義と正論を何としても守ろうとします。
自分を縛るだけでなく他人をも矯正しようとするのは、自分の世界ひいては自分の心を守るための生理現象だったということです。

自分が住む、この価値観、この世界を平和に過ごしたい、わずかな波立ちも許さない。
彼らの多くが、平和主義者で、平等主義者で、世界市民であるのは、まさにこうした理由によります。

他人のことをおもんばかっているように振る舞いながら、実際は自分の頭の中からスタートして自分のことしか見えていないため、時としてその
言動は異常な形となって表れます。

自分たちを正当化して他人を矯正しようとする。
それに従わない相手は力づくでも排除しようとする。理屈でもって潰そうとする。決してそのまま見逃すことはしません。





心が自分に向いている、つまり何でもかんでも自分に立脚していると、常に不安を抱えることになります。
それはフィルムの中に取り込まれている状態とも言えます。

他者の違いを受け入れられず、正義や正論に囲い込もうとすることは、自分自身に対してもイレギュラーな言動を慎ませ、好き勝手にやっては
いけないと己を縛ることになります。


一方、まわりへ心を向け、自分との違いを受け入れますと、この世界そのものを受け入れることになります。

それは何か正しい指標を作ってそこに万人を従わせようとする行動とは真逆のものです。
みんなバラバラ、色々な考え方、色々な評価があって当然という姿勢です。

裏を返せばそれは、自分もやりたいようにやる、まわりからどのように評価されようとも関係ない、ということになります。

フィルムの中の自分も、フィルムの中の他人も、フィルムそのものも、分け隔てなく受け入れる。
それは、こちら側(スクリーンの外)にいる私たちと同じ心、同じ目線となります。
すなわち、本当の私たちと一致した状態となります。

純粋な気持ちでやったことで誰かに喜ばれるととても幸せな心地になれるのはそのためです。
それは天地と一つになった状態であり、本当の私たちと繋がった状態です。


天地宇宙が無償の愛に包まれているというのは、本当の私たちがスクリーンに流れる画像を白黒判断つけずそのまま受け入れている姿に他なりません。
その私たちと一致した状態になればこそ安心の境地となるわけです。


しかしフィルムの中の自分に軸足を置いて自分だけに心を向けてしまうと、まわりから断絶してしまい、結果としてこちら側の私たちとの繋がり
を自らシャットダウンさせることになってしまいます。

本当の自分にフタをして、根無し草となってフラフラと流浪の旅に出る。
家も故郷も捨てた孤独の身では、不安な気持ち、不足した気持ちを抱え続けるのは当然と言えます。

だから、終わることなく安心を求め続けてしまうのです。
おてて繋いでランランランを求めるのです。

優等生気質の根っこに他人に褒められたいという思いが強くあるのもそうした理由からです。

褒め言葉とは真逆のこと、つまり非難や批判を受けると、瞬間煮沸的にトンデモないヒステリー状態になる。
それというのも、もはや己の存在そのものに関わることだからです。
それは生き死にを超え、魂の根幹を危うくさせるほどの恐怖であるわけです。

相手を攻めるときはトコトン追い詰めるのに、守勢に回ると一転、ほんの少しやられただけで激しく逆上するのはそうした理由からです。

異常なプライドというのは強い自己愛がベースにありますが、その奥には、孤立に対する不安感があるわけです。

孤立感の出どころは、自分を中心に考えるというスタンスにあるのですが、そこは正視せず、その延長上で何とか解決しようとする。
正論を振りかざし、まわりを説き伏せることで不安感、不足感を埋めようとする。
異論を認めず排他的になり、合わない人たちは駆逐排除して、安心を掴もうとする。

弱者を救わねばならぬと言うのも、実際は自分の頭の中の世界を守りたい、心を波立たせたくないというのが理由なので、その人たちから「別に
そんな必要はない」と異を唱えられると「恩知らず!あんたの為にやっているのに!」とその人たちへ矛先を向けることになります。

インテリ層に左巻きが多いのは、脳で考える世界に住む人たちであり、自意識が強く、無意識のうちに自分の腕一本で生きてると思ってしまって
いるからです。

誰にも縛られたくない、誰にも指図されたくない、自由と平等を守らなければならない。
それはワガママな子供が言っていることと何も変わらず、つまるところ自分本位であるわけです。

子供の頃から自分が頑張った結果として成功を重ね、大人になってからも自分で考えたり分析をする。常に自分から外へと発信する日々を過ごし
てきた。
ある意味それは環境の犠牲者と言えなくもありません。

自分からスタートする、自分が中心になる。
自己正当化のために、正義や正論といった標識にしがみつき、自由や平等を叫ぶ。

政府が何かをやるたび、あるいは大陸や半島が騒ぐたび、弁護士や大学教授が連名で抗議する姿はいつ見ても異様なものがありますが、それは
自然な反応だと言えるわけです。

絶対正義、正論というものは、脳から生まれるものであり、優等生気質の好むところであり、柵に守られた安心安全な世界だからです。
だからこそらそれを波立たせるものは何人たりと許さない。

もちろん彼らの全員がそうだというのではありません。
ただ、一般平均に比べると明らかに大きく偏っているのは止むを得ないということです。



さてこのように書いてきたのは、決してそうした人たちを貶めるためでも、けなすためでもありません。

正義や正論、正解というものに縛られることがいかに危ういか、目隠しそのものであるかを伝えたかっただけです。

まさにそれらを生業(なりわい)としている人たちが身をもってそのことを示しているので、その役目にクローズアップさせてもらいました。

そもそも私たちは大なり小なりこうした因子を内に秘めています。
ですから、これは決して他人事ではありません。
どれもが自分のこととして、心と体に通して行く内容だと言えます。

なにより、その因子を私たちの誰もが持ってしまっている理由こそ、最も深く知る必要があります。

正義や正論に私たちが寄りかかろうとしてしまうのは、心の奥底にある不安や不足感を払拭したいからです。
そして、その不安や不足感が生じる原因は私たちが本当の故郷を忘れてしまっているからなのです。


繰り返しになってしまいますが、もう一度触れたいと思います。

私たちというのは「こちら側」にずっと居ます。
始まりも終わりなく、何万年、何億年と、今ココに居るわけです。

しかし、フィルムの全体ではなく自分だけに光を当ててしまうと、フィルムの中で孤立してしまい、こちら側の私たちからも離れていくことに
なります。
そしてその状態が続くと、親に見捨てられた子供のように、猛烈な孤独感に襲われ不安になります。

その不安から逃れようと逆のことをやってしまい、ますます脳ミソの中へ閉じこもることになり、目隠しの無限ループへと突入してしまっている。

それが今この世界で行われていることなのです。

これは誰もが例外ではありません。
天地自然の真理を追う人たちの中にも、正論主義者、正義主義者が数多くいます。

「唯一絶対の真理はどこだろう」「不安や悩みを吹き飛ばす真実がきっとある」と夢見心地でフワフワと青い鳥を追いかけるのは、正義正論を
追うガリ勉優等生とやってることは何も変わりません。

いま目の前の景色を受け入れず、何処か遠くに飛んでいる青い鳥を探している時点で、不安や悩みの解決も、また本気で真理を見極めようとする
心も、放棄しているわけです。

すべからく自分の為にと考え、思考の自縛、脳内監獄に浸りきり、その結果として孤独と不安を増幅させている。
それが「未だ目覚めぬ人類」の正体です。

目の前の景色を見渡す、広くひろく見渡す、目の前の景色を楽しむ。すべてそのまま受け入れる。

すると、こちら側(フィルムの外)の私たちの目と、景色(フィルム)の中の私たちの目が一致することになります。
そこに心を浸すうちにまるで田舎に帰ったように不安や悩みがスーッと消えてまいります。

長いあいだ行方不明になっていた子供が、ようやく自分の家に帰ってこれた時、心の底からこう叫ぶでしょう。

Mam, I'm coming home!
(ただいまー!)

「今ココ」から一ミリも動かず、過去から未来永劫、このスクリーンを見続けている私たち。
それこそが私たちの故郷なのです。






(おしまい)






私たちの本当の故郷(2)

2018-11-06 13:16:43 | 天地の仕組み (Basharサポート)
「何の因果か知らねぇけども」というのは昔の時代劇によく出てきたセリフです。

思いもよらない展開となった時、あるいは知り合いとまさかの巡り合わせになった時などに出てきました。

この因果というのは「原因があって結果が現れる」という仏教用語で、善因善果、悪因悪果などと言われたりもします。

それをもって、何かの種(たね)があって芽が生える、蒔いた種は自分で刈らねばならぬといった教えにもなっています。

これは事実そのものなので、法則としてそれを知るのはとても大切なことだと言えます。

ですがそこで原因は自分にあるというのを真面目に考え過ぎたり、辛気くさく考えてしまうと、もうスタート時点でウゲッという気持ち(=種)が
心の中に生じることになってしまいます。
そうした種を放っておくと、それが蔓(つる)のように成長して自らを縛ることになっていきます。

因果応報のことを考えすぎて新たな因果を生むというのでは笑うに笑えません。

悪いのは自分だ、これから改めよう、という程度ならばいいのですが「常に正しくあらねばならない」となるとコレはもう自縛以外のなにものでも
ありません。

抑圧が加わると反発心が生じるのが自然の摂理です。
先ほどのウゲッがまさにそれです。

真面目に考えすぎたり、反省モードになりすぎるとそれが抑圧となって自縛に至るわけですから、それを解くためには誤った流れを断ち切る必要
があります。つまり、

「今が不幸 → 悪因悪果 → 悪い種を蒔いてしまった → 種を蒔いた自分がいけない → 後悔

と、この最後の二つが余計なわけです。
しかもこのパターンにハマると、得てして青字の部分だけでグルグル回り続けてしまいがちです。

これが「反省」であればこの先へ生かすためのものなので後腐れなくスッキリさっぱりですが、「後悔」となる過去に囚われ、自身の思考に
囚われ、日を追うごとに後腐れが酷くなってしまいます。

実際のところは、自分で蒔いた種が芽生えた、というその事実を知るだけで十分だと言えます。
事実をただ受け入れる。
そこには良い悪いという価値判断は必要ないわけです。

「因果応報」という言葉にしても「応報」の部分が余計ということです。

そもそも種が芽生えたというのは画像の変化でしかありません。
因果というと大袈裟なものを考えてしまいますが、それはただ私たちのまわりの画像が変化したものに過ぎないということです。

言ってしまえば、この世は全て因果だということになります。

たとえば顔にあたる風の強さが少し違ったり、お風呂の温かさが少し違うのも因果であるわけです。
大きい小さいに関係なく、どれもこれも同じく因果なのです。

本当に大事なことは、善果を得ようと逆算して善因を仕込むことでもなければ、悪果に傷ついて悪因を悔やむことでもありません。

その仕組み、その事実を知ることが全てです。


そうすることによって目隠し状態のエンドレスループから抜け出すことが出来るようになります。

ここでの目隠し状態とは、自分の脳ミソの中から出られなくなって右往左往しているさまを指します。
するとフィルムの全景は目に入らなくなり、頭の中の苦しみに追い立てられて走り続けるようになります。

苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ、その苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ。
まさに回転ハシゴを走りつづけるネズミのように無自覚のまま条件反射的に走り続ける。
そしてそのままの勢いで盲目的に、次のフィルム、次のフィルムへと走り続ける。

今世の中だけにとどまらず、幾世も繰り返し続けてしまう輪廻の牢獄とはこのことです。

そもそも、こちら側にいる私たちは、映像を眺めて何かを「感じる」だけです。
何かを「考える」のは、あちら側で起きていることです。


しっかり感じるためには、映し出された事実をそのままに受け入れることが必要となります。
考え事をしながら食事をしていると料理の味わいがボヤけてしまうのと全く同じです。

ですが、私たちは事実(映像)から派生した考えの方に心を奪われてしまっています。

自分たちの考えのほうを眺めても、感じるものなどありません。
映画で言えば、ストーリーや画像とは関係なしに、主人公がブツブツ独り言を呟き続けるようなものです。
いつもいつもそんなものばかり観せられていたら「あぁコイツまた始まったよ」と思うだけでしょう。

こちら側の私たちにとって本当に観たいのは、自分で蒔いた種が芽生えたという、その事実、そのストーリーです。
それをボヤかしてしまうような余計な付け足し(独り言、思考の暴走)なんてのは邪魔以外のなにものでもないのです。





私たちは、ケンケンパをする子供のようなものです。
次はどの石に飛ぼうかなと楽しんでいるだけで、石自体には何の意味もありません。
まして、それによって私たち自身が変質するというようなことはないわけです。

石とはフィルムの一コマのことであり、まわりを囲む景色や現実のことです。

「一歩」というその実際のアクション、実際の行動によって、波紋のようにこちら側に刺激が伝わってくる、そして私たちの魂が色々なことを感じる。
その瞬間に「意味」が発生するのであって、一歩先の踏み石そのものに意味があるわけではありません。

私たち自身は何一つ変わっていません。
私たちは変わらずに、外の景色だけが変わります。

外の景色が理想的なものになれば幸せを感じられるというのは、単に私たちがそう信じているだけのものです。
脳で幸せと考えたものと、心や魂とは別の状態にあります。

だから、ややこしい。

脳で考えたものは、どこまで行っても満たされることはなく、むしろ苦しみが増していく。
何千年も私たちはこのループにはまってしまっています。

どうなれば幸せになれるかというのは、頭だけで判断できるものではありません。

頭で考えた理想というのは「欲望」「一般論」「価値観」に支配されがちです。

何故なら、考えというのは何もないところから捻り出されるものではなく必ず何かを起点としなければ作り出せないからです。

ですから、こちら側の私たちが感じていること、それを起点にしていればそれは純粋なものとなっていきますが、大抵はあちら側のフィルムの
中にあるものを起点としてしまいます。

自分のことばかり考えていればいるほど、そうなります。
つまり、フィルムの中に埋没していればいるほど、そうなるということです。



食欲や物欲、名誉欲、承認欲、自己満足。
こうしたものは一見バラバラですが、実は安心したいという点で共通しています。

安心したいということは、その前提として不安に感じる状態があるということです。
もとの状態を受け入れられていないのですから、そこに戻るたびに不安になります。

結果、与えられれば安心するものの、長続きしないということになります。
安心を維持するためには新たなものを与え続ける必要が出てくるわけです。

たとえば事業が大成功したら満たされるかというと、今度は綺麗な人と付き合いたいとか、野球チームを持ちたいとか、宇宙に行きたいとか、
どこまで行ってもキリがありません。

そもそも、新たな刺激を求め続けるのは私たちの本能です。
それは、こちら側の私たち、今ココの私たちが求めているものです。
それが「生きる」ということの根幹にあります。

ただ、もっともっと上のものを、と欲しがっても物質世界であるかぎり無限にレパートリーが存在するわけではありません。
また誰もがそうしたものを叶え続けられるわけでもありません。

同じ景色でも満足を感じるためには、途中に不足の状態を挟むしかなくなります。

あれ?と思うかもしれません。

私たちの人生で、苦労や不足感が絶えずやってくるのは、まさしく満足を得るための自作自演だったということになります。

ですから、とどまることのないループから抜け出したい、あるいは苦労や不足感を断ち切りたいのならば、まずは「頭で考えた幸せを追うことを
やめる」のが第一になるわけです。


下手な考え休むに似たり。

考えた幸せというのは、無限ループの迷宮路に一直線です。
何度も生まれ直す輪廻の牢獄もまた、これと同じ理屈にあります。

これは輪廻そのものが良くないと言っているのではありません。
仏教が否定的に扱う輪廻の牢獄というのは、眠り続けたままでの暴走トラック状態のことを指しています。

もとより、こちら側の私たちが刺激を得るためには輪廻こそが最良と言えます。

ただ、新しいアトラクションを嬉々として乗り替えていくのと、目隠ししたまま何が何だか分からずに同じジェットコースターに乗り続けている
のとでは全くの別物であるわけです。

自ら目隠しをして条件反射的な無限ループから抜け出せなくなる、仏教が説いているのはそのパターンです。

輪廻というものは不幸で、輪廻から解放されるのが幸福だなんて誰も言ってません。
解脱することが魂として進んでるなんていうのは幼稚な発想でしかありません。

同様に、善因善果や悪因悪果も、単に仕組みを説明するものでしかなく、悪因悪果がいけないなどとは一言も言ってないわけです。

それは、目隠しをしたまま「不条理だ」と嘆き悲しむ子供たちを見て、目を開けてみなさいと優しく教えているに過ぎないのです。





マウスの実験でこういうものがあります。

ニコチン入りの水の入った容器があってスイッチを押せば数滴ずつ出てくる仕掛けです。
依存症のマウスは一度学習すると何度でもそのスイッチを押し続けるようになると言います。

不安と苛立ちを自ら作り出し、そこから逃れるためにカゴの中をウロウロし、ニコチン水のスイッチを押す。
飼い慣らされた家畜。まだ目覚めていない人類。
グフジェフが言っているのはそういう意味でした。

豪邸を夢見てついに手に入れた、あるいは事業に成功した、そうしたものは素晴らしいことです。
ただ、その喜びというのはそうした景色そのものにあるのではなく実現の過程にあるものです。

そこを勘違いして景色そのものを喜びと思ってしまうと、ニコチンを追うマウスと同じになってしまいます。

夢を描いて泥や汗にまみれるのは尊いものです。
ただその尊さは泥や汗にあって、夢そのものにあるのではありません。
夢は方便でしかないわけです。

そこを履き違えると欲望ループに身を委ねることになってしまいます。

ですから「夢見た景色を簡単に手に入れる方法」なんていうのは本末転倒の極みでしかありません。
そこに至る過程、経験、つまりその刺激こそが真の目的だというのに、そこをすっ飛ばして結果だけ得ようとは、いったい何のために生まれて
来たのかという話です。

引き寄せの法則というのは、思い込みを捨てるための方便としては有効ですが、私たち自身をさらに深い眠りにつかせて家畜化させる危険のほうが
遥かに大きいと言わざるを得ません。

私たちの頭が夢見る「成功続き」「幸せ続き」というのはまさに無限ループそのものです。
新たな刺激を得れば得るほど依存度というものは高まっていきます。
クスリならばその先にあるのは廃人です。

アメリカの億万長者がボロボロになっていく姿をこれまで山ほど見てきているはずです。

そうした無限の欲望ループを絶つため、言いかえれば私たちを依存症にさせないために、早め早めの失敗や不幸が起きていると言うことだって
できるわけです。



「結果ではなく過程こそが目的そのもの」
その理由は、まさしく私たちが今ココから動けないことに尽きます。

今ココから一ミリも動けない私たちというのは、まわりが変化することでしか何かを感じること
ができません。
こちら側は変わらない。ならば向こう側の変化から刺激を受けるしかないということです。

何故そんな面倒くさい仕掛けになっているかは既に説明したとおりです。

もともと、こちら側しか存在していない。
もともと、今ココの私たちしか存在していない。
ただ、こちら側だけでは何も起きない。
なぜならばそれは一つの同じものであるから。

だから大いなる一つ(=私たち)は「自分以外」という概念(向こう側)を作り出したのでした。

こうすることで、外からの刺激によって内から生じるものが出来ました。

そのために私たちはこの世を生きているのでした。

結果だけにしか目を向けないというのは、わけもなくオモチャを欲しがる子供にそのままアホみたいにジャンジャン与えるのと同じです。

景色を比較すること自体が無意味なことだと分かれば、過去に戻りたいとか、あの時ああすれば良かったなどというのが単なるおママゴトでしか
ないと知るでしょう。

すべてコレでいいのです。

選択肢は無数にあります。
ただ、選択は一つです。
今ココにおいては、あれ以外の選択など無かったのです。

今ココの選択というのは常に一つしかありません。
どれが正しいなんていう概念はそもそも存在しません。
選択したもの、それが唯一絶対です。

どれが成功でどれが失敗なんてものはない。
それは単なる幻想です。
ですから将来を心配する必要も無いわけです。

「そうは言っても割り切れない」「あの時ああすれば良かった」「もっと他の選択があった」と悶々を消すことができないならば、今ココで
それをやり直せばいい。


空想のおママゴトより遥かに現実的な話です。

今ココで選択できるのは一つですが、選択肢そのものは無限にあります。
先ほどまで選び続けてきた選択を、今この瞬間に変えることもできます。

過去の選択に不満を覚えるならば、あれこれ理由をつけて続けたりせず、今ここで少しでも違った選択をしてみればいい。
大きく違うのが怖ければ、ほとんど違いが分からないくらいの選択をすればいい。

見た目が変わらなくとも、心が違えば、それは違う選択となります。
不安などというのは自作自演の幻想でしかありません。


ガチャッと行き先を変えたらそのレールの先は谷底に真っ逆さまかもしれない、なんていう不安こそが幻想そのものです。

私たちは今ココにしか存在できません。
あちら側には存在できません。
フィルムのコマの中に入り込むことはできないのです。

まわりの景色がどうなろうと、私たちは今ココから一歩も動きません。

だからどんな選択をしても絶対に大丈夫なのです。
どんな選択をしても非難する存在もいません。
こちら側はそもそも私たちしかいないからです。





これまで出来なかった選択。
それこそが、未来の私たちからすれば「やり直し」と同じ意味になります。

同時にそれは、今から見た過去においての、やることのできなかった悔やみを晴らす選択にもなります。

「過去あの時の自分が謝れなかった、けれども今この自分は謝れた」
不思議なことにそれによってあの時の悔やみは半減します。そしてそれを繰り返すにつれて、あの時の悔やみは綺麗さっぱり無くなります。

「過去あの時に怖じ気づいて選択できなかった、けれども今この自分は思い切って選択できた」
それによってあの時の自分への非難や反省は半減します。そしてそれを繰り返すうちに、あの時の傷も無くなっていきます。

何故ならば、傷ついているのはあの時の自分ではなく、今ココの自分だからです。

謝る相手や選択する内容が、今と昔で違うものだったとしても、私たちは変わらず今ココにあればこそ、その原理は発動します。

それは向こう側ではなく、こちら側に刺さったトゲです。
悔やんでいることがあるならば、それを今ココで正せば、時空に関係なく過去も癒されます。
私たちは一ミリも動かず変わらず、今ココに在り続けているのですから。

時空(時間・空間)なんていうものは所詮あちら側のものでしかありません。
単なる景色であり、その羅列でしかないわけです。

私たちが過去を悔やんでいるという時、それはその当時のまわりの景色に対してではなく、自分自身に対して向けられています。

ですから今のまわりの景色が当時と違うものだったとしても、今この自分に上書きされた最新の言動こそが時間を超えて全てを凌駕するものと
なります。

過去の自分を書き換えるには、当時に戻らなくても、今ココの自分を上書きすればいいということです。

過去に冷たい態度を取ってしまったりヒドいことを言ってしまったとしても、今ココで心から謝り新たな気持ちで接すれば、過去のモヤモヤは
すぐに消えます。

子供たちが仲直りの達人であるのは、まさにこの一点に尽きます。
そして、そうであればこそ子供たちは後悔などとも無縁なのです。





(つづく)