あんなことをしなければ良かった。
あんなこと言わなければ良かった。
そのような後悔に苛まれた時は、今ココで選びなおす、今ココで上書きする、それが過去の傷を癒すことになると話しました。
ただ、そこまでやってもまだモヤモヤが消えない、自己批判が収まらない場合は、もうそれは相手への申し訳なさではなく、単純に自分自身へ
のこだわり、囚われになってしまっている可能性があります。
そう聞くと、そんな馬鹿な、本当に相手に申し訳ないと思ってるのに、と反発したくなるところですが、それは申し訳ないという思いだけが上滑り
して単なる念仏というか呪文と化している恐れがあるということです。
自分に厳しいというのは一種の美徳でありますが、度が過ぎるとそれは執着になってしまいます。
やり過ぎになっても表面上は依然として真面目で善良な振る舞いに映るために、自分自身も騙されてしまう。そうなると誰も止める人が居なく
なり気づかぬうちにドンドン加速することになります。
「これが正しい」という考え方は、例外なくそのような危険を孕んでいます。
それらは本来、自らを律したり抑えたりするブレーキの役目を果たすものですが、やりすぎると逆方向へのアクセルとなってしまいます。
車体はもう停まっているのにまだ安心できず、思いっきりブレーキを踏み続ける。
ついにはバックし始め、それでもまだ不安が消えずにペダルを踏み続けて逆方向へ加速していく。
それはまるで昔懐かしトムとジェリーやウッドペッカーに出てきそうなナンセンスギャグにしか見えませんが、私たちはそれを大真面目にやって
いるわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/21/5485d13f9cd2c41ccef3fef5f0427d2b.jpg)
「過去の自分を責めすぎて、傷だらけのボロボロになってしまう」
「相手はもう気にしてないのに、自分で自分を許せず自己批判が止まらなくなる」
「それが間違いと分かっているのに止められない、そんな自分が嫌で仕方ない」
どれもこれも真面目で繊細な人ほど陥りやすいパターンです。
でも敢えて厳しいことを言います。
それはもはや傷つけた相手のことをおもんばかる優しさではありません。
キッカケはそうだったかもしれませんが、途中から変質しています。
つまり美徳を隠れ蓑にして、実際は自分のことしか考えてない状態になってしまっているわけです。
自分を責め続ける
そこには、親からよく思われたい、友達からよく思われたい、まわりからよく思われたい、自分で自分をよく思いたい、「ステキ自分像」に少し
でも近づきたいという思いが隠されています。
よく思われたい衝動の出どころは、孤立への不安であり、安心に対する飢えにあります。
最初のキッカケは他人に対する慮り(おもんばかり)からスタートしたとしても、いつしかそこから離れ、最後はただ惰性だけになってしまう。
思考の暴走に陥り、目隠しの無限ループにハマってしまっている状態です。
傷口に塩を塗るようではありますが、自分を責め過ぎるという負のスパイラルから抜け出すにはこの事実を知る必要があります。
自分で良かれと思ってやっていたことが、実は最も毛嫌いしていたことだったと。
だから、もっと適当でいいわけです。
チャランポランでいい。
100点なんて目指さなくていい。
正論というのは単に一つの指標に過ぎません。
100点に近づけようとする発想自体が、自らを思考の牢獄に閉じ込める行為になってしまいます。
答えらしきものを探す、相手の望む答えを探す、万人受けする答えを探す、それこそが真っ暗闇の迷宮へ一直線に突き進む道に他なりません。
それはセッセと頑張って自分を縛っている姿でもあります。
正義や正論に囚われると、景色の一部分しか見えなくなります。
何故なら、そのとき見ているのは思考の世界であり、頭の中の牢獄であるからです。
まわりが見えなくなる、つまりフィルムの全景が見えなくなるというのは、現実が見えなくなるということです。
すると、自分が起こした波立ちも見えなくなります。
自らの思考に囚われている人は、己の頭の中を見ています。
ですから、その景色には自分の信じた正義と正論しか映っていません。
信じたものしか見えていないのですから、信じたものしか存在しない世界となります。
だからこそ、それ以外のものがそこに混じると嫌で仕方なくなります。
自分の頭の中、自分の心の中に異物が入り込んだ感覚になるため、生理的に耐えがたくなるのです。
子供の頃を思い返しますと、生徒会や学級委員にもギャーギャーと規則をわめきたてる人が居ました。
優等生気質というのは自分の信じた正義と正論を何としても守ろうとします。
自分を縛るだけでなく他人をも矯正しようとするのは、自分の世界ひいては自分の心を守るための生理現象だったということです。
自分が住む、この価値観、この世界を平和に過ごしたい、わずかな波立ちも許さない。
彼らの多くが、平和主義者で、平等主義者で、世界市民であるのは、まさにこうした理由によります。
他人のことをおもんばかっているように振る舞いながら、実際は自分の頭の中からスタートして自分のことしか見えていないため、時としてその
言動は異常な形となって表れます。
自分たちを正当化して他人を矯正しようとする。
それに従わない相手は力づくでも排除しようとする。理屈でもって潰そうとする。決してそのまま見逃すことはしません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/82/e84682cc9138bf5f7d9744bc7c721ba4.jpg)
心が自分に向いている、つまり何でもかんでも自分に立脚していると、常に不安を抱えることになります。
それはフィルムの中に取り込まれている状態とも言えます。
他者の違いを受け入れられず、正義や正論に囲い込もうとすることは、自分自身に対してもイレギュラーな言動を慎ませ、好き勝手にやっては
いけないと己を縛ることになります。
一方、まわりへ心を向け、自分との違いを受け入れますと、この世界そのものを受け入れることになります。
それは何か正しい指標を作ってそこに万人を従わせようとする行動とは真逆のものです。
みんなバラバラ、色々な考え方、色々な評価があって当然という姿勢です。
裏を返せばそれは、自分もやりたいようにやる、まわりからどのように評価されようとも関係ない、ということになります。
フィルムの中の自分も、フィルムの中の他人も、フィルムそのものも、分け隔てなく受け入れる。
それは、こちら側(スクリーンの外)にいる私たちと同じ心、同じ目線となります。
すなわち、本当の私たちと一致した状態となります。
純粋な気持ちでやったことで誰かに喜ばれるととても幸せな心地になれるのはそのためです。
それは天地と一つになった状態であり、本当の私たちと繋がった状態です。
天地宇宙が無償の愛に包まれているというのは、本当の私たちがスクリーンに流れる画像を白黒判断つけずそのまま受け入れている姿に他なりません。
その私たちと一致した状態になればこそ安心の境地となるわけです。
しかしフィルムの中の自分に軸足を置いて自分だけに心を向けてしまうと、まわりから断絶してしまい、結果としてこちら側の私たちとの繋がり
を自らシャットダウンさせることになってしまいます。
本当の自分にフタをして、根無し草となってフラフラと流浪の旅に出る。
家も故郷も捨てた孤独の身では、不安な気持ち、不足した気持ちを抱え続けるのは当然と言えます。
だから、終わることなく安心を求め続けてしまうのです。
おてて繋いでランランランを求めるのです。
優等生気質の根っこに他人に褒められたいという思いが強くあるのもそうした理由からです。
褒め言葉とは真逆のこと、つまり非難や批判を受けると、瞬間煮沸的にトンデモないヒステリー状態になる。
それというのも、もはや己の存在そのものに関わることだからです。
それは生き死にを超え、魂の根幹を危うくさせるほどの恐怖であるわけです。
相手を攻めるときはトコトン追い詰めるのに、守勢に回ると一転、ほんの少しやられただけで激しく逆上するのはそうした理由からです。
異常なプライドというのは強い自己愛がベースにありますが、その奥には、孤立に対する不安感があるわけです。
孤立感の出どころは、自分を中心に考えるというスタンスにあるのですが、そこは正視せず、その延長上で何とか解決しようとする。
正論を振りかざし、まわりを説き伏せることで不安感、不足感を埋めようとする。
異論を認めず排他的になり、合わない人たちは駆逐排除して、安心を掴もうとする。
弱者を救わねばならぬと言うのも、実際は自分の頭の中の世界を守りたい、心を波立たせたくないというのが理由なので、その人たちから「別に
そんな必要はない」と異を唱えられると「恩知らず!あんたの為にやっているのに!」とその人たちへ矛先を向けることになります。
インテリ層に左巻きが多いのは、脳で考える世界に住む人たちであり、自意識が強く、無意識のうちに自分の腕一本で生きてると思ってしまって
いるからです。
誰にも縛られたくない、誰にも指図されたくない、自由と平等を守らなければならない。
それはワガママな子供が言っていることと何も変わらず、つまるところ自分本位であるわけです。
子供の頃から自分が頑張った結果として成功を重ね、大人になってからも自分で考えたり分析をする。常に自分から外へと発信する日々を過ごし
てきた。
ある意味それは環境の犠牲者と言えなくもありません。
自分からスタートする、自分が中心になる。
自己正当化のために、正義や正論といった標識にしがみつき、自由や平等を叫ぶ。
政府が何かをやるたび、あるいは大陸や半島が騒ぐたび、弁護士や大学教授が連名で抗議する姿はいつ見ても異様なものがありますが、それは
自然な反応だと言えるわけです。
絶対正義、正論というものは、脳から生まれるものであり、優等生気質の好むところであり、柵に守られた安心安全な世界だからです。
だからこそらそれを波立たせるものは何人たりと許さない。
もちろん彼らの全員がそうだというのではありません。
ただ、一般平均に比べると明らかに大きく偏っているのは止むを得ないということです。
さてこのように書いてきたのは、決してそうした人たちを貶めるためでも、けなすためでもありません。
正義や正論、正解というものに縛られることがいかに危ういか、目隠しそのものであるかを伝えたかっただけです。
まさにそれらを生業(なりわい)としている人たちが身をもってそのことを示しているので、その役目にクローズアップさせてもらいました。
そもそも私たちは大なり小なりこうした因子を内に秘めています。
ですから、これは決して他人事ではありません。
どれもが自分のこととして、心と体に通して行く内容だと言えます。
なにより、その因子を私たちの誰もが持ってしまっている理由こそ、最も深く知る必要があります。
正義や正論に私たちが寄りかかろうとしてしまうのは、心の奥底にある不安や不足感を払拭したいからです。
そして、その不安や不足感が生じる原因は私たちが本当の故郷を忘れてしまっているからなのです。
繰り返しになってしまいますが、もう一度触れたいと思います。
私たちというのは「こちら側」にずっと居ます。
始まりも終わりなく、何万年、何億年と、今ココに居るわけです。
しかし、フィルムの全体ではなく自分だけに光を当ててしまうと、フィルムの中で孤立してしまい、こちら側の私たちからも離れていくことに
なります。
そしてその状態が続くと、親に見捨てられた子供のように、猛烈な孤独感に襲われ不安になります。
その不安から逃れようと逆のことをやってしまい、ますます脳ミソの中へ閉じこもることになり、目隠しの無限ループへと突入してしまっている。
それが今この世界で行われていることなのです。
これは誰もが例外ではありません。
天地自然の真理を追う人たちの中にも、正論主義者、正義主義者が数多くいます。
「唯一絶対の真理はどこだろう」「不安や悩みを吹き飛ばす真実がきっとある」と夢見心地でフワフワと青い鳥を追いかけるのは、正義正論を
追うガリ勉優等生とやってることは何も変わりません。
いま目の前の景色を受け入れず、何処か遠くに飛んでいる青い鳥を探している時点で、不安や悩みの解決も、また本気で真理を見極めようとする
心も、放棄しているわけです。
すべからく自分の為にと考え、思考の自縛、脳内監獄に浸りきり、その結果として孤独と不安を増幅させている。
それが「未だ目覚めぬ人類」の正体です。
目の前の景色を見渡す、広くひろく見渡す、目の前の景色を楽しむ。すべてそのまま受け入れる。
すると、こちら側(フィルムの外)の私たちの目と、景色(フィルム)の中の私たちの目が一致することになります。
そこに心を浸すうちにまるで田舎に帰ったように不安や悩みがスーッと消えてまいります。
長いあいだ行方不明になっていた子供が、ようやく自分の家に帰ってこれた時、心の底からこう叫ぶでしょう。
Mam, I'm coming home!
(ただいまー!)
「今ココ」から一ミリも動かず、過去から未来永劫、このスクリーンを見続けている私たち。
それこそが私たちの故郷なのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b0/b7bcd809ae15676e7d04205005c3b16e.jpg)
(おしまい)
あんなこと言わなければ良かった。
そのような後悔に苛まれた時は、今ココで選びなおす、今ココで上書きする、それが過去の傷を癒すことになると話しました。
ただ、そこまでやってもまだモヤモヤが消えない、自己批判が収まらない場合は、もうそれは相手への申し訳なさではなく、単純に自分自身へ
のこだわり、囚われになってしまっている可能性があります。
そう聞くと、そんな馬鹿な、本当に相手に申し訳ないと思ってるのに、と反発したくなるところですが、それは申し訳ないという思いだけが上滑り
して単なる念仏というか呪文と化している恐れがあるということです。
自分に厳しいというのは一種の美徳でありますが、度が過ぎるとそれは執着になってしまいます。
やり過ぎになっても表面上は依然として真面目で善良な振る舞いに映るために、自分自身も騙されてしまう。そうなると誰も止める人が居なく
なり気づかぬうちにドンドン加速することになります。
「これが正しい」という考え方は、例外なくそのような危険を孕んでいます。
それらは本来、自らを律したり抑えたりするブレーキの役目を果たすものですが、やりすぎると逆方向へのアクセルとなってしまいます。
車体はもう停まっているのにまだ安心できず、思いっきりブレーキを踏み続ける。
ついにはバックし始め、それでもまだ不安が消えずにペダルを踏み続けて逆方向へ加速していく。
それはまるで昔懐かしトムとジェリーやウッドペッカーに出てきそうなナンセンスギャグにしか見えませんが、私たちはそれを大真面目にやって
いるわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/21/5485d13f9cd2c41ccef3fef5f0427d2b.jpg)
「過去の自分を責めすぎて、傷だらけのボロボロになってしまう」
「相手はもう気にしてないのに、自分で自分を許せず自己批判が止まらなくなる」
「それが間違いと分かっているのに止められない、そんな自分が嫌で仕方ない」
どれもこれも真面目で繊細な人ほど陥りやすいパターンです。
でも敢えて厳しいことを言います。
それはもはや傷つけた相手のことをおもんばかる優しさではありません。
キッカケはそうだったかもしれませんが、途中から変質しています。
つまり美徳を隠れ蓑にして、実際は自分のことしか考えてない状態になってしまっているわけです。
自分を責め続ける
そこには、親からよく思われたい、友達からよく思われたい、まわりからよく思われたい、自分で自分をよく思いたい、「ステキ自分像」に少し
でも近づきたいという思いが隠されています。
よく思われたい衝動の出どころは、孤立への不安であり、安心に対する飢えにあります。
最初のキッカケは他人に対する慮り(おもんばかり)からスタートしたとしても、いつしかそこから離れ、最後はただ惰性だけになってしまう。
思考の暴走に陥り、目隠しの無限ループにハマってしまっている状態です。
傷口に塩を塗るようではありますが、自分を責め過ぎるという負のスパイラルから抜け出すにはこの事実を知る必要があります。
自分で良かれと思ってやっていたことが、実は最も毛嫌いしていたことだったと。
だから、もっと適当でいいわけです。
チャランポランでいい。
100点なんて目指さなくていい。
正論というのは単に一つの指標に過ぎません。
100点に近づけようとする発想自体が、自らを思考の牢獄に閉じ込める行為になってしまいます。
答えらしきものを探す、相手の望む答えを探す、万人受けする答えを探す、それこそが真っ暗闇の迷宮へ一直線に突き進む道に他なりません。
それはセッセと頑張って自分を縛っている姿でもあります。
正義や正論に囚われると、景色の一部分しか見えなくなります。
何故なら、そのとき見ているのは思考の世界であり、頭の中の牢獄であるからです。
まわりが見えなくなる、つまりフィルムの全景が見えなくなるというのは、現実が見えなくなるということです。
すると、自分が起こした波立ちも見えなくなります。
自らの思考に囚われている人は、己の頭の中を見ています。
ですから、その景色には自分の信じた正義と正論しか映っていません。
信じたものしか見えていないのですから、信じたものしか存在しない世界となります。
だからこそ、それ以外のものがそこに混じると嫌で仕方なくなります。
自分の頭の中、自分の心の中に異物が入り込んだ感覚になるため、生理的に耐えがたくなるのです。
子供の頃を思い返しますと、生徒会や学級委員にもギャーギャーと規則をわめきたてる人が居ました。
優等生気質というのは自分の信じた正義と正論を何としても守ろうとします。
自分を縛るだけでなく他人をも矯正しようとするのは、自分の世界ひいては自分の心を守るための生理現象だったということです。
自分が住む、この価値観、この世界を平和に過ごしたい、わずかな波立ちも許さない。
彼らの多くが、平和主義者で、平等主義者で、世界市民であるのは、まさにこうした理由によります。
他人のことをおもんばかっているように振る舞いながら、実際は自分の頭の中からスタートして自分のことしか見えていないため、時としてその
言動は異常な形となって表れます。
自分たちを正当化して他人を矯正しようとする。
それに従わない相手は力づくでも排除しようとする。理屈でもって潰そうとする。決してそのまま見逃すことはしません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/82/e84682cc9138bf5f7d9744bc7c721ba4.jpg)
心が自分に向いている、つまり何でもかんでも自分に立脚していると、常に不安を抱えることになります。
それはフィルムの中に取り込まれている状態とも言えます。
他者の違いを受け入れられず、正義や正論に囲い込もうとすることは、自分自身に対してもイレギュラーな言動を慎ませ、好き勝手にやっては
いけないと己を縛ることになります。
一方、まわりへ心を向け、自分との違いを受け入れますと、この世界そのものを受け入れることになります。
それは何か正しい指標を作ってそこに万人を従わせようとする行動とは真逆のものです。
みんなバラバラ、色々な考え方、色々な評価があって当然という姿勢です。
裏を返せばそれは、自分もやりたいようにやる、まわりからどのように評価されようとも関係ない、ということになります。
フィルムの中の自分も、フィルムの中の他人も、フィルムそのものも、分け隔てなく受け入れる。
それは、こちら側(スクリーンの外)にいる私たちと同じ心、同じ目線となります。
すなわち、本当の私たちと一致した状態となります。
純粋な気持ちでやったことで誰かに喜ばれるととても幸せな心地になれるのはそのためです。
それは天地と一つになった状態であり、本当の私たちと繋がった状態です。
天地宇宙が無償の愛に包まれているというのは、本当の私たちがスクリーンに流れる画像を白黒判断つけずそのまま受け入れている姿に他なりません。
その私たちと一致した状態になればこそ安心の境地となるわけです。
しかしフィルムの中の自分に軸足を置いて自分だけに心を向けてしまうと、まわりから断絶してしまい、結果としてこちら側の私たちとの繋がり
を自らシャットダウンさせることになってしまいます。
本当の自分にフタをして、根無し草となってフラフラと流浪の旅に出る。
家も故郷も捨てた孤独の身では、不安な気持ち、不足した気持ちを抱え続けるのは当然と言えます。
だから、終わることなく安心を求め続けてしまうのです。
おてて繋いでランランランを求めるのです。
優等生気質の根っこに他人に褒められたいという思いが強くあるのもそうした理由からです。
褒め言葉とは真逆のこと、つまり非難や批判を受けると、瞬間煮沸的にトンデモないヒステリー状態になる。
それというのも、もはや己の存在そのものに関わることだからです。
それは生き死にを超え、魂の根幹を危うくさせるほどの恐怖であるわけです。
相手を攻めるときはトコトン追い詰めるのに、守勢に回ると一転、ほんの少しやられただけで激しく逆上するのはそうした理由からです。
異常なプライドというのは強い自己愛がベースにありますが、その奥には、孤立に対する不安感があるわけです。
孤立感の出どころは、自分を中心に考えるというスタンスにあるのですが、そこは正視せず、その延長上で何とか解決しようとする。
正論を振りかざし、まわりを説き伏せることで不安感、不足感を埋めようとする。
異論を認めず排他的になり、合わない人たちは駆逐排除して、安心を掴もうとする。
弱者を救わねばならぬと言うのも、実際は自分の頭の中の世界を守りたい、心を波立たせたくないというのが理由なので、その人たちから「別に
そんな必要はない」と異を唱えられると「恩知らず!あんたの為にやっているのに!」とその人たちへ矛先を向けることになります。
インテリ層に左巻きが多いのは、脳で考える世界に住む人たちであり、自意識が強く、無意識のうちに自分の腕一本で生きてると思ってしまって
いるからです。
誰にも縛られたくない、誰にも指図されたくない、自由と平等を守らなければならない。
それはワガママな子供が言っていることと何も変わらず、つまるところ自分本位であるわけです。
子供の頃から自分が頑張った結果として成功を重ね、大人になってからも自分で考えたり分析をする。常に自分から外へと発信する日々を過ごし
てきた。
ある意味それは環境の犠牲者と言えなくもありません。
自分からスタートする、自分が中心になる。
自己正当化のために、正義や正論といった標識にしがみつき、自由や平等を叫ぶ。
政府が何かをやるたび、あるいは大陸や半島が騒ぐたび、弁護士や大学教授が連名で抗議する姿はいつ見ても異様なものがありますが、それは
自然な反応だと言えるわけです。
絶対正義、正論というものは、脳から生まれるものであり、優等生気質の好むところであり、柵に守られた安心安全な世界だからです。
だからこそらそれを波立たせるものは何人たりと許さない。
もちろん彼らの全員がそうだというのではありません。
ただ、一般平均に比べると明らかに大きく偏っているのは止むを得ないということです。
さてこのように書いてきたのは、決してそうした人たちを貶めるためでも、けなすためでもありません。
正義や正論、正解というものに縛られることがいかに危ういか、目隠しそのものであるかを伝えたかっただけです。
まさにそれらを生業(なりわい)としている人たちが身をもってそのことを示しているので、その役目にクローズアップさせてもらいました。
そもそも私たちは大なり小なりこうした因子を内に秘めています。
ですから、これは決して他人事ではありません。
どれもが自分のこととして、心と体に通して行く内容だと言えます。
なにより、その因子を私たちの誰もが持ってしまっている理由こそ、最も深く知る必要があります。
正義や正論に私たちが寄りかかろうとしてしまうのは、心の奥底にある不安や不足感を払拭したいからです。
そして、その不安や不足感が生じる原因は私たちが本当の故郷を忘れてしまっているからなのです。
繰り返しになってしまいますが、もう一度触れたいと思います。
私たちというのは「こちら側」にずっと居ます。
始まりも終わりなく、何万年、何億年と、今ココに居るわけです。
しかし、フィルムの全体ではなく自分だけに光を当ててしまうと、フィルムの中で孤立してしまい、こちら側の私たちからも離れていくことに
なります。
そしてその状態が続くと、親に見捨てられた子供のように、猛烈な孤独感に襲われ不安になります。
その不安から逃れようと逆のことをやってしまい、ますます脳ミソの中へ閉じこもることになり、目隠しの無限ループへと突入してしまっている。
それが今この世界で行われていることなのです。
これは誰もが例外ではありません。
天地自然の真理を追う人たちの中にも、正論主義者、正義主義者が数多くいます。
「唯一絶対の真理はどこだろう」「不安や悩みを吹き飛ばす真実がきっとある」と夢見心地でフワフワと青い鳥を追いかけるのは、正義正論を
追うガリ勉優等生とやってることは何も変わりません。
いま目の前の景色を受け入れず、何処か遠くに飛んでいる青い鳥を探している時点で、不安や悩みの解決も、また本気で真理を見極めようとする
心も、放棄しているわけです。
すべからく自分の為にと考え、思考の自縛、脳内監獄に浸りきり、その結果として孤独と不安を増幅させている。
それが「未だ目覚めぬ人類」の正体です。
目の前の景色を見渡す、広くひろく見渡す、目の前の景色を楽しむ。すべてそのまま受け入れる。
すると、こちら側(フィルムの外)の私たちの目と、景色(フィルム)の中の私たちの目が一致することになります。
そこに心を浸すうちにまるで田舎に帰ったように不安や悩みがスーッと消えてまいります。
長いあいだ行方不明になっていた子供が、ようやく自分の家に帰ってこれた時、心の底からこう叫ぶでしょう。
Mam, I'm coming home!
(ただいまー!)
「今ココ」から一ミリも動かず、過去から未来永劫、このスクリーンを見続けている私たち。
それこそが私たちの故郷なのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b0/b7bcd809ae15676e7d04205005c3b16e.jpg)
(おしまい)