日々の暮らしというのは様々なものに囲まれ、無意識のうちにあれやこれやと心が飛びまわります。
仕事に追われてる時もそうですし、家にいる時もそうです。
目まぐるしく変わる景色。
湯水のように流れ込む情報。
そんなこんなに振りまわされ翻弄される自分。
そうなると週末はとにかく家から出て、どこか遠出しようとするのは人間の本能だと言えるでしょう。
目が回るような日々のまま土日も家の中で悶々としていては、体は休めても心は休めず、エネルギーが枯渇していくばかりです。
気持ちの切り替え、リフレッシュはとても大事なことです。
そうしたリセットの一つに、たとえば喧騒を離れ山奥の禅寺に籠るというものがあります。
寺に行って何をやるかというと、特別なことをするわけでなく、ごく当たり前の生活を繰り返すだけです。
炊事や掃除、坐禅といった単純な作業を黙々と繰り返すだけ。
山の禅寺に入ると携帯電話も何もかも没収されてしまいます。
そうすると、あれをやらねばこれをやらねば(=あれをやりたいこれをやりたい)という強迫から解放され、目の前のことしか存在しなくなります。
LINEをやりたい、メールをやりたい、ネット情報をチェックしたい…
携帯を奪われるとウズウズするものですが、最終的にはそれが実は「やりたい」ではなく「やらねば」だったことに気がつきます。
普段、私たちは、押し寄せる波、その次の波、その次の次の波と、際限なく考えてしまいます。
なぜそうなるかというと、どこまでも続く波に対処していかないと平穏は訪れない、落ち着くことができないと思い込んでいるからです。
外が落ち着かないと自分も落ち着かない。
平穏を求めるあまり平穏を失ってしまっているわけです。
ただ、それも意識を変えればガラリと変わります。
今ここに来ている波が一つだけであることに気がつくのです。
次々と押し寄せる波が連なっていたとしても、たとえばその映像を一時停止すると、それらが単に遠くの景色に過ぎないことが分かります。
停止画面の中では、足元に来ている波は一つだけです。
たとえ複数のトラブルが同時に起こったとしても、今この瞬間というのは一枚絵です。
今ここに存在する私たちにとって、今できるのは、その一枚を見ることだけです。
ですから、私たちはその一枚だけに集中すればいいのです。
何枚も先の絵のことは、そのときに任せておけばいい。
今は、今の絵だけを見ていればいいのです。
また、目が移ろいやすい理由の一つに、今この一枚絵と、次に寄せてくる一枚絵が、ほとんど同じものに見えるということもあります。
似たような作品があるとチラチラ目移りしてしまう。
それらが全く別の作品であることをしっかり理解すれば心も落ち着いていきます。
美術館でモナリザとピカソの絵が並んでいた時に、隣の絵に目移りすることはないはずです。
一つ一つじっくりと鑑賞するでしょう。
今のこの一枚絵も先ほどの絵とは全くの別物です。一からすべてが新しいものです。
映画フィルムの一コマ一コマはそれぞれ独立して存在していますが、それと同じです。
人生というのは、まさに私たちが美術館に行って一つ一つの絵画を鑑賞していることに喩えることができます。
目の前の一枚絵を見る。
一歩あるいて、隣に飾られている一枚絵を見る。
その連続が一秒となり一日となるわけです。
本当の美術館を想像してみましょう。
ある絵画を鑑賞している時に、何枚も向こうに飾られている絵画をチラッチラッと横目に観ている姿は、なんとも残念なものではないでしょうか。
いや、目の前の絵画が落ち着かないから落ち着く作品を探しているだけだ。
何かは分からないが今ここに無い名画があるはずだ。
確かにそういう入館者も美術館には居るかもしれません。
でもそれは素人であることが丸わかりです。
私たちは誰しもみな、美術館巡りのエキスパートです。
何百回、何千回も美術館を訪れて色々な作品を堪能してきました。
私たちの本体というのは、見ため派手な作品だけに飛びつくような初心者ではないのです。
色々なジャンルの作品をじっくり鑑賞する、目の肥えたプロです。
私たちは、人生の達人、生きることのプロフェッショナルなのです。
そもそも美術館の中というのはシーンとした静けさに満ちています。
物凄い大嵐の絵画がそこにあったとしても、美術館の中は静かに落ち着き払っています。
それを観る私たち自身も落ち着いています。
私たちはじっくり落ち着いて作品を鑑賞しています。
世界というのはバタバタと大波のように揺れているように見えますが、実際はシーンと落ち着ききった世界です。
私たち自身も落ち着ききった存在です。
だからこそ、その一枚をじっくりと味わえる。
目の前の一枚に、驚いたり悲しんだり、素直な心になれる。
でも私たちは、先々の波に心が揺れに揺れ、まるでまわりの世界が激しく揺れてるように感じている。
そんな自らの心の揺れに、驚いたり悲しんだりしています。
ここは美術館。作品を観る場所です。
フト我に帰れば、そこは静かな世界であることに気がつきます。
目の前には先程と同じ、嵐の一枚絵が存在していますが、どこまでも静かな世界が広がっています。
禅寺では、世界をシンプルにさせることでそのことに気づかせてくれます。
次々と押し寄せる波にアタフタと翻弄されるのではなく、いま目の前に来た波に黙々と対処する。
私たちが自分の心をどこに置くかで、私たちの心は大きく変わります。
押し寄せる波に置けばアタフタとなりますが、今ここに置けばシーンとなります。
縛られた心になるか、自由な心になるか分かれるわけです。
社会から分断された禅寺というのは「何もできない」世界ではなく「何でもできる」世界だと言えます。
私たちの日常というのは、テレビやパソコンから様々な情報を自由に得られるし、携帯電話で誰とだって繋がるし、また交通手段でどこにでも行けるため、何でもできる自由な世界だと思っています。
しかし実際は、そのように押し寄せる波に追われアクセクする日々となっています。
いくらでも選択はあるのに、一歩横にズレる心の余裕がない。
もし今そうしようものなら、次々と押し寄せる波に一気に飲み込まれてしまうだろう、、、
そのようにして、私たちは結局同じことを選択し続けています。
しかし心ひとつで、今この瞬間から「何でもできる世界」になります。
流れ込む情報、携帯やテレビ、そうしたものは遠くに見える波に過ぎないわけです。
一日で何百人も感染者が出ました、ワーワー大変だー
指導者がまた悪いこと企んでる、私たちは被害者だ、ワーワー
そんなのは赤の他人が描いた、遠くの波でしかない。そんな雑音にいちいち心を置く必要はない。囚われる必要はないのです。
それでもどうしても遠くの波まで気にしてしまうのは何故なのか。そこを理解しないとこのイタチごっこは終わりません。
その理由は、あの波にやられたら大変なことになるかもしれないという不安にあります。
あの波が自分の足元に来た時にツラい状況になるかもしれない、だから前もって身構えておこうと。
ツラい状況、苦しい状況、悲しい状況、そういうのは嫌だ!というのはエゴの条件反射によるものです。
この肉体を存続させることがエゴの使命ですから、少しでもそれを危うくさせることに過剰反応を示すわけです。
そして「最悪の場合、命を危うくさせるかもしれない」という遠大なストーリーを作りだして、自らを正当化します。
この「ツラくなるのは嫌だ!」という思いこそが、私たちを縛りつける全ての元凶となっています。
ツラい状況になりたくないという思いが、私たちをツラい状態に貶めているわけです。
そうなると、この解決法はたった一つしかありません。まったくもって単純明快。シンプルこの上なし。
それは、、、
「ツラい状況は嫌だと拒絶しない」ことです。
ツラい状況をツラいと思うな、ということではありません。
ツラいことをツラいと思う、嫌だなぁと思うのが素直な心です。
要は、ツラい状況は嫌なんだけども、でもツラい状況になったらなったでそれはもう仕方ないと、諦める、バンザイしまうということです。
なんだそりゃ?という話です。
まったくもった当たり前の話ですが、それしかないのです。
すべては、そこからになります。
それができれば世話ない、それができないからツラいんだ、となるでしょう。
方丈記の頃からそうでしたし、仏陀の頃からそうでした。
遥か昔から私たちは、この世というのは生きにくい世界だと悩み苦しんできました。
でも、理屈として分かることですが、ポツポツと新たに現れる波に対して、心を向けてジーッと気にし続けたところで、その波が消えるようなことはありません。
波自体がどう変化するか風まかせなのですから、こちらがどう舵を切ったところで、ぶち当たるものはぶち当たりますし、当たらないものは当たらず通り過ぎていくのです。
とんでもない大波が遠くに見えたら、そりゃ回避しようと足掻くのが正直というものです。
ギリギリまで足掻く。
でも結局はどんな波であろうと自分の足元に届くまでは、いまだ自分には縁の無いものであるわけです。
逆に、足元に届いた波はすべて縁あってぶち当たった。
来るべくして来た。
嫌は嫌だけれども、仕方ないわけです。
生きるために必死に足掻き、回避しようとしつつも、そうなったら仕方ないという割り切りの心を持っていることが、先々の波に囚われないコツとなります。
そうなると先々の波は、絵画に描かれている遠くの景色となります。
無視するということではなく、冷静に眺められる状態となります。
そうして初めて、足元に集中となります。
遠くの波が命を危うくするような大きさならば、回避のためにいま出来ることに集中します。
連なる波が単にストレス程度のものならば、ただ足元のいまやること、いま出来ることに集中します。
いま出来ること。
いまやること。
この世界に存在するのはそれだけです。
これに気づかせるため、禅寺では無意味なことに没頭させます。
綺麗な廊下なのにこれ以上雑巾をかけて何の意味があるのか?
何も落ちていない庭なのにこれ以上ホウキを掃いて何の意味があるのか?
意味や理由というものをとことん排除するために逆のことをやり尽くす。これも方便です。
綺麗にするため雑巾をかけるというのは、逆算の行動です。
落ち葉が積もってからホウキで掃くというのは、綺麗になった庭を目的とした行動です。
今というのは、将来の姿から逆算して決まるのではありません。
将来の何かのために今を縛るということでは無いのです。
磨くこと自体が目的。掃くこと自体が目的。
未来を見て歩くのではなく、今を見て歩く。
今のために、今やる。
そうしているうちに心は落ち着き、広がっていきます。
すると不思議なことに、大切なことが見えてくるようになる。これまで気づかなかったことが心に映るようになってきます。
特別な何かをやって特別な何かを得るという話ではありません。
当たり前のことをやって当たり前のことを知るのです。
天地宇宙には「今」しかありません。
未来も過去も、本当の意味で「今」の中にあります。
だから心配しないでも、いや、心配するのであれば尚更のこと、「今」の目の前だけに集中です。
(つづく)