すべてモノには陰と陽が内在しています。
陰と陽のどちらか一方だけ、単色というものはありません。
なぜならば、それは裏と表だからです。
両方があってバランスが取れているのであり、片方だけでは天地宇宙も存在できません。
ですから、それ自体には優劣などありません。
しかし、白が良いとか黒が悪いとか価値判断を加えると、その幻想が表面を覆ってしまうため、その通りに私たちの
目には映ってしまいます。
昔の人たちはそうした囚われを無くそうと、慎ましく生きていました。
見た目の価値判断など追い求めず、ひたすら清らかであろうとしました。
あらゆる事物は自らの鏡であり、そこに何を映し見るかは自分の心次第。
どのようなことであっても、その中の心地よい部分に目を向けて、そこから清らかな風を受けようとしました。
この国に住む人たちみんながそうであったため、美しさとはそういうものだと誰もが同じように思い、そこに幸せを
感じていました。
ですから、幕末や明治の外国人は、土ぼこりにまみれながらも弾けるその笑顔に衝撃を覚えたのです。
幕末は、国中が尊皇攘夷の空気に包まれ、外国人は毛唐と蔑視され、当方は神国であると自己讃美
するような時代でした。
しかしそれほどの自尊心と差別意識に溢れながらも、その毛唐であるはずの西洋から良いものを取り込み、文明開化
を果たしました。
そこには、良いものは良いと素直に見て取れる柔軟さがあったわけです。
和魂洋才という言葉が示すように、冷静な目で全体を受け入れて、肝となる部分をごく自然に見極めることができた
のです。
私たちのご先祖さまは、一部分だけを見て他を全否定するようなことはしませんでした。
そして、自分(自国)に中心を置いたままで自由自在に広がり変化しました。
それはそれ、これはこれ、という幅広い視野を持っていたわけです。
しかし今の時代は、どうでしょうか。
何か一つでもシミがあれば、それを騒ぎ立てて真っ黒にしてしまってはいないでしょうか。
あるいは、誰かが大騒ぎしているだけで、それを鵜呑みにして自分もスッカリその気になっていませんでしょうか。
実際、私たちの目に映る世界は、私たちが関わる前に、すでに歪められてしまっているとも言えます。
本来、目の前に見える世界というのは、自分の心の内を映しだしたものです。
皮膚や心で感じたものは、かたや魂へダイレクトに届き、かたや頭へと流れ、知識や観念と照合されて、認識として
顕在化されます。
もちろん、そこには社会通念や固定観念といったものが影響してくるわけですが、それらは少なくとも一旦は自分の
身体を通した上で現われているものであるわけです。
それが現代では、あまりの情報の多さに個々人の処理が追い付けず、処理や判断自体を外部にまか
せてしまい、自分はただそれを受け入れるだけになって居はしないかということです。
色々なことを知りたいという人間本来の衝動がまさって、最後の結論だけを少しでも多く摂取しようとしてしまって
いるように感じるのです。
味わいながら咀嚼してお腹に入れるのではなく、ドロドロにされた流動食をドンドンと流しこんで
いるような状態です。
そして、どのような味なのか自分の舌で判断するのではなく、ラベルに書かれた説明を鵜呑みにして味わったつもり
になってしまいます。
まるで一昔前の宇宙食。
液状のものがパックされたチューブ状のアレです。
いつも私たちの前には、それがカラフルな色違いにズラッと並べられています。
それを口にふくまずゴクゴク飲んでしまうのですから、味など感じません。
香料だけで、いかにもそれらしい味わいを錯覚します。
なんだかいいものを食べたような満足感を覚えるわけです。
加工会社も手をかえ品をかえ、もっともらしいものを作り続けます。
素材の原形が、あとかたもなくなっていることもあります。
それでも口当たりが良ければ、私たちはそれを喜び、味のわかる人間だと勘違いしてしまいます。
普段の食事でも、噛んだり味わったりしていないと、当然アゴや舌は衰えてきます。
散々サボったあとに、いざそれをやろうとしても、顎は疲れるし時間もかかるし、面倒に感じてしまいます。
そして、どうせ同じだからと、ドロドロの加工品に手を出してしまいます。
でも結局のところ、お手軽なものは、その中身も薄っぺらなものでしかないのです。
現代は情報社会といいながら、実は個人にとって、歴史上もっとも情報の薄い時代になっていると言えます。
考えることを面倒がり、熟慮せず無思考のまま他人の論評や評価を流し込むのは、自ら噛むことを
面倒がり、チューブで腹に流し込むのと同じです。
そうしますと、何かが起きても冷静に観察したり、深く沈思するということができなくなります。
言われるまま鵜呑みにして全肯定してしまうか、一部だけを拡大解釈させて全否定してしまうか、ゼロか100という
選択が染み付いてしまいます。
確かに、それが一番ラクチンです。
30や70といった曖昧なところにジャッジを置くというのは、その前提としてしっかりと頭の中で整理することが
必要となります。
つまり、顎を使ってガリガリと咀嚼しなくてはならないわけです。
しかし、ゼロか100の二者択一ならば、そんな大変なことは必要なくなります。
わざわざマズいものを味わって選別するストレスも無くて済みます。
そして自己責任というリスクを背負うことも回避できます。
ミスがあっても、それは発信者のせいにできるわけです。
しかし、冒頭にも書きましたように、本来、ものごとには陰も陽も内在されています。
自然界では、複雑な味わいが濃淡さまざまに絡み合っているのが当たり前。
単色の味など存在しません。
そして、そうしたことは説明されて分かるものではなく、自分が実際に噛みしめてみて初めて感じられるものです。
無責任に、良いの悪いの言ってればお金を貰える批評家と違って、私たちはこの国の人間です。
その場しのぎの自己満足や責任逃れで誤魔化しても、この国を残すことはできないのです。
良い悪いと無責任に言い放って終わりにするのではなく、それをしっかりと味わい、自分で感じて
いかなくてはいけません。
そのためには、まずは自分の中の決めつけや思い込み、囚われを無くすことが第一歩となります。
もちろん私たちのご先祖さまにだって、思い込みや囚われはあったはずです。
しかし少なくとも、何も考えず全否定して排除したり、あるいは全肯定して鵜呑みにしたりはしませんでした。
たとえ眉をひそめるものであったとしても、キラリと光るものがあれば、そこに光を当ててしっかりと見極めました。
あるいは全体が光り輝くものであっても、そのまま丸呑みにすることはなく、変化アレンジさせて
まわりと溶けこませるように吸収しました。
いま私たちに必要なことは、遥か昔から受け継ぐ、その精神を呼び起こすことです。
白も黒も分け隔てなくすべてありのままを陽にさらし、今こうして私たちが存在できている感謝へと繋げていくこと
です。
国外のこと、国内のこと、政治のこと、社会のこと、生活のこと、いま私たちを取り巻く様々なこと、そして何よりも、
両親や祖父母、ご先祖さまたちに向けて。
白だ黒だと騒ぐ必要はありません。
白はただの白ですし、黒はただの黒です。
目をつぶることはいけませんが、一つ一つを騒ぎ立てることはもっといけません。
それは、私たち自身の人生についても同じことが言えます。
過去にフタをすることはいけませんが、一つ一つを騒ぎ立てることはもっといけません。
それぞれにプラスやマイナスのエネルギーを注ぐよりも、真っさらのまま陽のもとに照らすことが
大事なのです。
どのような過去であっても、それがあればこそ、今の自分があります。
嫌な過去であろうと、嫌な自分であろうと、それも今の自分へと繋がる一歩です。
自分勝手な価値判断を上塗りさせても、本質はまったく違うところにあります。
どのような過去であろうと、それが無ければ今はありません。
ただそれだけで、否応もなく、ありがたいことなのです。
たとえ闇に見える過去であろうと、その中には必ず一筋の光があります。
なぜならば、この天地宇宙では、陰はそれ単体では存在できないからです。
表裏一体ですから、必ず光はあります。
思い込みを手放して、ありのままに映せば、それは見えてきます。
そうして、闇も光も関係なく、今の自分をそのままに受け入れられるようになっていくことでしょう。
それは、他人に対しても全くおなじです。
決めつけて断罪するのではなく、そのありのままに心を向けるということです。
何かを感じそうになった時に、条件反射で打ち消そうとしてしまうかもしれません。
私たちの心は、自我が見ようとしているものに埋め尽くされてしまうものです。
ただ、何処にでも陽があり、何処にでも陰があるものだと認識しておくだけで、感じ方は変わってきます。
それぞれを良いものだとか悪いものだとか決めつけないことが大事です。
とはいえ、自我というものは極めて強力です。
理屈で分かっても、気づけばその激流に押し流されてしまうものです。
そうした時に力を発揮するのが『思いやりの心』です。
もともと私たち日本人は、互いへ思いを向けながら社会秩序を保ってきました。
相手の立場に自分を置き替えて考えられる心、その生活環境や社会情勢も汲むことができる心、
そのように自他を分けぬ柔軟さが、悠久の昔から私たちの身体に流れ続けています。
それこそが、日本人の感性です。
感覚や感性は、理屈にまさります。
わずか100年やそこら鈍らされたところで、何千年の歴史に比べれば屁のようなものです。
心配しなくても、私たちの中にはそれが流れています。
スイッチをオンにすれば、すぐさま発動します。
人は、相手の立場に身を置き換えてその心を感じることができます。
それは世界のどの人種であっても同じことです。
ただ、他の国では、相手のことばかりを考えていては自分が生き残れなかった時代がありました。
それに対して、私たちの国では太古から、話し合いと歩み寄りで和合を遂げてきました。
小競り合いはあっても決定的な衝突は避けてきた歴史があります。
これは神話の世界でもそうですし、聖徳太子の時代も、あるいは幕末の無血開城もそうです。
戦国時代ですら、多くの場合は和睦が主でした。
信長の焼き討ちも後世の為政者によるネガティヴな歪曲に過ぎません。
強者が情け容赦ない我欲に走ることもなく、互いに節度を持っていればこそ、我が身の存亡を恐怖
することなく相手のことを思いやることができたわけです。
私たちの国では、奇跡的なほどに、相手のことをおもんばかる感性が磨かれていきました。
これは、何よりも異民族による侵略がなかったことが大きいといえます。
まさに、四方を海に囲まれた島国ならではの、目に見えないお陰さまです。
思いやりとは、相手の細やかなところまで自分のこととして感じ取るものです。
それは遠くから見て分かるものではなく、身を置き換えることで肌に感じるものです。
日本人は、無意識のうちに誰もがこの能力を受け継いできました。
言わずもがなで、互いに通じます。
それがあまりにも当たり前すぎるために、外国人とのコミュニケーションがうまく取れないほどです。
外国人は、曖昧すぎて日本人の会話を煙たがります。
しかし日本人からすれば、言わずもがなのことをあえて言葉にするほど気持ち悪いことはないわけ
です。
そして普段はそうしたことすら自覚せず、無意識のうちにハショりながらコミニュケーションを取っています。
私たちは、知らず知らずのうちに、言葉以上の深みを互いに伝え合っているのです。
現代は、日本でも外国的にはっきりモノいうことが増えてきています。
それはそれで別に構わないと思いますが、言わずもがなの部分を察する能力が衰えてしまうようでは問題アリです。
相手に心を向けることがおざなりになってしまうのは、非常に由々しきことです。
メール社会、LINE仲間など、言葉だけが行き交う世の中になると、相手を思う心が加速度的に欠落していきます。
それが若者の異常犯罪の一因ともなっています。
そして、相手のことを我がこととして感じ取る心が失われると、海外のような遠くの相手を思うことなど、なおさら
困難となります。
社会環境や固定観念が違えば違うほど、相手の立場に立つことが難しくなっていきます。
だからといって、他国の気持ちを理解させようと、他国に中心を置いた教育をするのは完全な誤りです。
まずは自分(自国)に中心をしっかりと立てなければ、他の何もマトモに理解などできません。
自立していない子供が、知識だけ頭デッカチになって理解者ズラをしたところで、誰が心を開いて
くれるでしょうか。
自らの中心をしっかりと立ててから、心を広げて相手の思いを感じるのが健全な姿だと思います。
そうして初めて、相手も、本気で心を向けられていると感じるのです。
自分に中心を置くには、まず自分を信じることです。
自分を無条件に受け入れることです。
良いところも悪いところも、強さも弱さもです。
その結果、相手の良いところも悪いところも、すべてそのままで受け入れられるようになります。
すると、相手の思いがジワーッと、ありのままに感じられてくると思います。
そうなりましたら、あとは冷静に会話をし、見守るだけです。
そこで相手の心を開かせようとする必要はありません。
自分がそのようにあればいいだけの話です。
それが本当の思いやりであると思います。
長年連れ添った夫婦や恋人同士、あるいは親子は、まるでテレパシーのように互いの気持ちを察し合うものです。
それは決して相手の心を読もうと我欲を発しているわけではなく、ただ自然に相手に心を向けているだけのことです。
すると、言葉以上の感覚がスッと流れ込んでくる。自分の中心から湧いてくるわけです。
それと全く同じことが、ご先祖さまに対しても言えます。
そこに心を広げるということは、その時代の世界事情、生活環境、社会常識、社会通念、そうしたものを肌に感じる
ということです。
そのために、今の自分の常識や囚われを肩からスッと降ろすのです。
その時代の思いが、ありありと流れ込んでくると思います。
これは決してご先祖さまたちの行ないが正しいとか間違っているとか、そのようなことを論じるためのものでは
ありません。
ご先祖さまたちがどのような思いだったのか。
どのような気持ちで必死に生きていたのか。
そうしたことをしっかり感じることが、本当の感謝へと繋がるということです。
私たちは自分の力だけで、今こうして存在しているわけではありません。
それをいつも心の片隅に置いておくためには、本当の歴史を知ることが大切です。
そしてその景色を観る時には、 先入観や固定観念を脱ぎ去って、その心を肌で感じることがとても
大事なのです。
評論家や批評家になったところで、仮りそめの自己満足しか生まれません。
思いやりの心は、自我の心を解放することになります。
まずは謙虚になって、目の前の相手のことを思ってみましょう。
それがこの国に柱を立てる第一歩となります。
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陰と陽のどちらか一方だけ、単色というものはありません。
なぜならば、それは裏と表だからです。
両方があってバランスが取れているのであり、片方だけでは天地宇宙も存在できません。
ですから、それ自体には優劣などありません。
しかし、白が良いとか黒が悪いとか価値判断を加えると、その幻想が表面を覆ってしまうため、その通りに私たちの
目には映ってしまいます。
昔の人たちはそうした囚われを無くそうと、慎ましく生きていました。
見た目の価値判断など追い求めず、ひたすら清らかであろうとしました。
あらゆる事物は自らの鏡であり、そこに何を映し見るかは自分の心次第。
どのようなことであっても、その中の心地よい部分に目を向けて、そこから清らかな風を受けようとしました。
この国に住む人たちみんながそうであったため、美しさとはそういうものだと誰もが同じように思い、そこに幸せを
感じていました。
ですから、幕末や明治の外国人は、土ぼこりにまみれながらも弾けるその笑顔に衝撃を覚えたのです。
幕末は、国中が尊皇攘夷の空気に包まれ、外国人は毛唐と蔑視され、当方は神国であると自己讃美
するような時代でした。
しかしそれほどの自尊心と差別意識に溢れながらも、その毛唐であるはずの西洋から良いものを取り込み、文明開化
を果たしました。
そこには、良いものは良いと素直に見て取れる柔軟さがあったわけです。
和魂洋才という言葉が示すように、冷静な目で全体を受け入れて、肝となる部分をごく自然に見極めることができた
のです。
私たちのご先祖さまは、一部分だけを見て他を全否定するようなことはしませんでした。
そして、自分(自国)に中心を置いたままで自由自在に広がり変化しました。
それはそれ、これはこれ、という幅広い視野を持っていたわけです。
しかし今の時代は、どうでしょうか。
何か一つでもシミがあれば、それを騒ぎ立てて真っ黒にしてしまってはいないでしょうか。
あるいは、誰かが大騒ぎしているだけで、それを鵜呑みにして自分もスッカリその気になっていませんでしょうか。
実際、私たちの目に映る世界は、私たちが関わる前に、すでに歪められてしまっているとも言えます。
本来、目の前に見える世界というのは、自分の心の内を映しだしたものです。
皮膚や心で感じたものは、かたや魂へダイレクトに届き、かたや頭へと流れ、知識や観念と照合されて、認識として
顕在化されます。
もちろん、そこには社会通念や固定観念といったものが影響してくるわけですが、それらは少なくとも一旦は自分の
身体を通した上で現われているものであるわけです。
それが現代では、あまりの情報の多さに個々人の処理が追い付けず、処理や判断自体を外部にまか
せてしまい、自分はただそれを受け入れるだけになって居はしないかということです。
色々なことを知りたいという人間本来の衝動がまさって、最後の結論だけを少しでも多く摂取しようとしてしまって
いるように感じるのです。
味わいながら咀嚼してお腹に入れるのではなく、ドロドロにされた流動食をドンドンと流しこんで
いるような状態です。
そして、どのような味なのか自分の舌で判断するのではなく、ラベルに書かれた説明を鵜呑みにして味わったつもり
になってしまいます。
まるで一昔前の宇宙食。
液状のものがパックされたチューブ状のアレです。
いつも私たちの前には、それがカラフルな色違いにズラッと並べられています。
それを口にふくまずゴクゴク飲んでしまうのですから、味など感じません。
香料だけで、いかにもそれらしい味わいを錯覚します。
なんだかいいものを食べたような満足感を覚えるわけです。
加工会社も手をかえ品をかえ、もっともらしいものを作り続けます。
素材の原形が、あとかたもなくなっていることもあります。
それでも口当たりが良ければ、私たちはそれを喜び、味のわかる人間だと勘違いしてしまいます。
普段の食事でも、噛んだり味わったりしていないと、当然アゴや舌は衰えてきます。
散々サボったあとに、いざそれをやろうとしても、顎は疲れるし時間もかかるし、面倒に感じてしまいます。
そして、どうせ同じだからと、ドロドロの加工品に手を出してしまいます。
でも結局のところ、お手軽なものは、その中身も薄っぺらなものでしかないのです。
現代は情報社会といいながら、実は個人にとって、歴史上もっとも情報の薄い時代になっていると言えます。
考えることを面倒がり、熟慮せず無思考のまま他人の論評や評価を流し込むのは、自ら噛むことを
面倒がり、チューブで腹に流し込むのと同じです。
そうしますと、何かが起きても冷静に観察したり、深く沈思するということができなくなります。
言われるまま鵜呑みにして全肯定してしまうか、一部だけを拡大解釈させて全否定してしまうか、ゼロか100という
選択が染み付いてしまいます。
確かに、それが一番ラクチンです。
30や70といった曖昧なところにジャッジを置くというのは、その前提としてしっかりと頭の中で整理することが
必要となります。
つまり、顎を使ってガリガリと咀嚼しなくてはならないわけです。
しかし、ゼロか100の二者択一ならば、そんな大変なことは必要なくなります。
わざわざマズいものを味わって選別するストレスも無くて済みます。
そして自己責任というリスクを背負うことも回避できます。
ミスがあっても、それは発信者のせいにできるわけです。
しかし、冒頭にも書きましたように、本来、ものごとには陰も陽も内在されています。
自然界では、複雑な味わいが濃淡さまざまに絡み合っているのが当たり前。
単色の味など存在しません。
そして、そうしたことは説明されて分かるものではなく、自分が実際に噛みしめてみて初めて感じられるものです。
無責任に、良いの悪いの言ってればお金を貰える批評家と違って、私たちはこの国の人間です。
その場しのぎの自己満足や責任逃れで誤魔化しても、この国を残すことはできないのです。
良い悪いと無責任に言い放って終わりにするのではなく、それをしっかりと味わい、自分で感じて
いかなくてはいけません。
そのためには、まずは自分の中の決めつけや思い込み、囚われを無くすことが第一歩となります。
もちろん私たちのご先祖さまにだって、思い込みや囚われはあったはずです。
しかし少なくとも、何も考えず全否定して排除したり、あるいは全肯定して鵜呑みにしたりはしませんでした。
たとえ眉をひそめるものであったとしても、キラリと光るものがあれば、そこに光を当ててしっかりと見極めました。
あるいは全体が光り輝くものであっても、そのまま丸呑みにすることはなく、変化アレンジさせて
まわりと溶けこませるように吸収しました。
いま私たちに必要なことは、遥か昔から受け継ぐ、その精神を呼び起こすことです。
白も黒も分け隔てなくすべてありのままを陽にさらし、今こうして私たちが存在できている感謝へと繋げていくこと
です。
国外のこと、国内のこと、政治のこと、社会のこと、生活のこと、いま私たちを取り巻く様々なこと、そして何よりも、
両親や祖父母、ご先祖さまたちに向けて。
白だ黒だと騒ぐ必要はありません。
白はただの白ですし、黒はただの黒です。
目をつぶることはいけませんが、一つ一つを騒ぎ立てることはもっといけません。
それは、私たち自身の人生についても同じことが言えます。
過去にフタをすることはいけませんが、一つ一つを騒ぎ立てることはもっといけません。
それぞれにプラスやマイナスのエネルギーを注ぐよりも、真っさらのまま陽のもとに照らすことが
大事なのです。
どのような過去であっても、それがあればこそ、今の自分があります。
嫌な過去であろうと、嫌な自分であろうと、それも今の自分へと繋がる一歩です。
自分勝手な価値判断を上塗りさせても、本質はまったく違うところにあります。
どのような過去であろうと、それが無ければ今はありません。
ただそれだけで、否応もなく、ありがたいことなのです。
たとえ闇に見える過去であろうと、その中には必ず一筋の光があります。
なぜならば、この天地宇宙では、陰はそれ単体では存在できないからです。
表裏一体ですから、必ず光はあります。
思い込みを手放して、ありのままに映せば、それは見えてきます。
そうして、闇も光も関係なく、今の自分をそのままに受け入れられるようになっていくことでしょう。
それは、他人に対しても全くおなじです。
決めつけて断罪するのではなく、そのありのままに心を向けるということです。
何かを感じそうになった時に、条件反射で打ち消そうとしてしまうかもしれません。
私たちの心は、自我が見ようとしているものに埋め尽くされてしまうものです。
ただ、何処にでも陽があり、何処にでも陰があるものだと認識しておくだけで、感じ方は変わってきます。
それぞれを良いものだとか悪いものだとか決めつけないことが大事です。
とはいえ、自我というものは極めて強力です。
理屈で分かっても、気づけばその激流に押し流されてしまうものです。
そうした時に力を発揮するのが『思いやりの心』です。
もともと私たち日本人は、互いへ思いを向けながら社会秩序を保ってきました。
相手の立場に自分を置き替えて考えられる心、その生活環境や社会情勢も汲むことができる心、
そのように自他を分けぬ柔軟さが、悠久の昔から私たちの身体に流れ続けています。
それこそが、日本人の感性です。
感覚や感性は、理屈にまさります。
わずか100年やそこら鈍らされたところで、何千年の歴史に比べれば屁のようなものです。
心配しなくても、私たちの中にはそれが流れています。
スイッチをオンにすれば、すぐさま発動します。
人は、相手の立場に身を置き換えてその心を感じることができます。
それは世界のどの人種であっても同じことです。
ただ、他の国では、相手のことばかりを考えていては自分が生き残れなかった時代がありました。
それに対して、私たちの国では太古から、話し合いと歩み寄りで和合を遂げてきました。
小競り合いはあっても決定的な衝突は避けてきた歴史があります。
これは神話の世界でもそうですし、聖徳太子の時代も、あるいは幕末の無血開城もそうです。
戦国時代ですら、多くの場合は和睦が主でした。
信長の焼き討ちも後世の為政者によるネガティヴな歪曲に過ぎません。
強者が情け容赦ない我欲に走ることもなく、互いに節度を持っていればこそ、我が身の存亡を恐怖
することなく相手のことを思いやることができたわけです。
私たちの国では、奇跡的なほどに、相手のことをおもんばかる感性が磨かれていきました。
これは、何よりも異民族による侵略がなかったことが大きいといえます。
まさに、四方を海に囲まれた島国ならではの、目に見えないお陰さまです。
思いやりとは、相手の細やかなところまで自分のこととして感じ取るものです。
それは遠くから見て分かるものではなく、身を置き換えることで肌に感じるものです。
日本人は、無意識のうちに誰もがこの能力を受け継いできました。
言わずもがなで、互いに通じます。
それがあまりにも当たり前すぎるために、外国人とのコミュニケーションがうまく取れないほどです。
外国人は、曖昧すぎて日本人の会話を煙たがります。
しかし日本人からすれば、言わずもがなのことをあえて言葉にするほど気持ち悪いことはないわけ
です。
そして普段はそうしたことすら自覚せず、無意識のうちにハショりながらコミニュケーションを取っています。
私たちは、知らず知らずのうちに、言葉以上の深みを互いに伝え合っているのです。
現代は、日本でも外国的にはっきりモノいうことが増えてきています。
それはそれで別に構わないと思いますが、言わずもがなの部分を察する能力が衰えてしまうようでは問題アリです。
相手に心を向けることがおざなりになってしまうのは、非常に由々しきことです。
メール社会、LINE仲間など、言葉だけが行き交う世の中になると、相手を思う心が加速度的に欠落していきます。
それが若者の異常犯罪の一因ともなっています。
そして、相手のことを我がこととして感じ取る心が失われると、海外のような遠くの相手を思うことなど、なおさら
困難となります。
社会環境や固定観念が違えば違うほど、相手の立場に立つことが難しくなっていきます。
だからといって、他国の気持ちを理解させようと、他国に中心を置いた教育をするのは完全な誤りです。
まずは自分(自国)に中心をしっかりと立てなければ、他の何もマトモに理解などできません。
自立していない子供が、知識だけ頭デッカチになって理解者ズラをしたところで、誰が心を開いて
くれるでしょうか。
自らの中心をしっかりと立ててから、心を広げて相手の思いを感じるのが健全な姿だと思います。
そうして初めて、相手も、本気で心を向けられていると感じるのです。
自分に中心を置くには、まず自分を信じることです。
自分を無条件に受け入れることです。
良いところも悪いところも、強さも弱さもです。
その結果、相手の良いところも悪いところも、すべてそのままで受け入れられるようになります。
すると、相手の思いがジワーッと、ありのままに感じられてくると思います。
そうなりましたら、あとは冷静に会話をし、見守るだけです。
そこで相手の心を開かせようとする必要はありません。
自分がそのようにあればいいだけの話です。
それが本当の思いやりであると思います。
長年連れ添った夫婦や恋人同士、あるいは親子は、まるでテレパシーのように互いの気持ちを察し合うものです。
それは決して相手の心を読もうと我欲を発しているわけではなく、ただ自然に相手に心を向けているだけのことです。
すると、言葉以上の感覚がスッと流れ込んでくる。自分の中心から湧いてくるわけです。
それと全く同じことが、ご先祖さまに対しても言えます。
そこに心を広げるということは、その時代の世界事情、生活環境、社会常識、社会通念、そうしたものを肌に感じる
ということです。
そのために、今の自分の常識や囚われを肩からスッと降ろすのです。
その時代の思いが、ありありと流れ込んでくると思います。
これは決してご先祖さまたちの行ないが正しいとか間違っているとか、そのようなことを論じるためのものでは
ありません。
ご先祖さまたちがどのような思いだったのか。
どのような気持ちで必死に生きていたのか。
そうしたことをしっかり感じることが、本当の感謝へと繋がるということです。
私たちは自分の力だけで、今こうして存在しているわけではありません。
それをいつも心の片隅に置いておくためには、本当の歴史を知ることが大切です。
そしてその景色を観る時には、 先入観や固定観念を脱ぎ去って、その心を肌で感じることがとても
大事なのです。
評論家や批評家になったところで、仮りそめの自己満足しか生まれません。
思いやりの心は、自我の心を解放することになります。
まずは謙虚になって、目の前の相手のことを思ってみましょう。
それがこの国に柱を立てる第一歩となります。
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