これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

他人(ひと)を思うこころ

2015-04-30 21:04:22 | 国を常しえに立てます
すべてモノには陰と陽が内在しています。
陰と陽のどちらか一方だけ、単色というものはありません。
なぜならば、それは裏と表だからです。
両方があってバランスが取れているのであり、片方だけでは天地宇宙も存在できません。
ですから、それ自体には優劣などありません。
しかし、白が良いとか黒が悪いとか価値判断を加えると、その幻想が表面を覆ってしまうため、その通りに私たちの
目には映ってしまいます。

昔の人たちはそうした囚われを無くそうと、慎ましく生きていました。
見た目の価値判断など追い求めず、ひたすら清らかであろうとしました。
あらゆる事物は自らの鏡であり、そこに何を映し見るかは自分の心次第。
どのようなことであっても、その中の心地よい部分に目を向けて、そこから清らかな風を受けようとしました。

この国に住む人たちみんながそうであったため、美しさとはそういうものだと誰もが同じように思い、そこに幸せを
感じていました。
ですから、幕末や明治の外国人は、土ぼこりにまみれながらも弾けるその笑顔に衝撃を覚えたのです。

幕末は、国中が尊皇攘夷の空気に包まれ、外国人は毛唐と蔑視され、当方は神国であると自己讃美
するような時代でした。
しかしそれほどの自尊心と差別意識に溢れながらも、その毛唐であるはずの西洋から良いものを取り込み、文明開化
を果たしました。
そこには、良いものは良いと素直に見て取れる柔軟さがあったわけです。
和魂洋才という言葉が示すように、冷静な目で全体を受け入れて、肝となる部分をごく自然に見極めることができた
のです。

私たちのご先祖さまは、一部分だけを見て他を全否定するようなことはしませんでした。
そして、自分(自国)に中心を置いたままで自由自在に広がり変化しました。
それはそれ、これはこれ、という幅広い視野を持っていたわけです。

しかし今の時代は、どうでしょうか。

何か一つでもシミがあれば、それを騒ぎ立てて真っ黒にしてしまってはいないでしょうか。
あるいは、誰かが大騒ぎしているだけで、それを鵜呑みにして自分もスッカリその気になっていませんでしょうか。

実際、私たちの目に映る世界は、私たちが関わる前に、すでに歪められてしまっているとも言えます。
本来、目の前に見える世界というのは、自分の心の内を映しだしたものです。
皮膚や心で感じたものは、かたや魂へダイレクトに届き、かたや頭へと流れ、知識や観念と照合されて、認識として
顕在化されます。
もちろん、そこには社会通念や固定観念といったものが影響してくるわけですが、それらは少なくとも一旦は自分の
身体を通した上で現われているものであるわけです。

それが現代では、あまりの情報の多さに個々人の処理が追い付けず、処理や判断自体を外部にまか
せてしまい、自分はただそれを受け入れるだけになって居はしないかということです。
色々なことを知りたいという人間本来の衝動がまさって、最後の結論だけを少しでも多く摂取しようとしてしまって
いるように感じるのです。

味わいながら咀嚼してお腹に入れるのではなく、ドロドロにされた流動食をドンドンと流しこんで
いるような状態です。
そして、どのような味なのか自分の舌で判断するのではなく、ラベルに書かれた説明を鵜呑みにして味わったつもり
になってしまいます。
まるで一昔前の宇宙食。
液状のものがパックされたチューブ状のアレです。

いつも私たちの前には、それがカラフルな色違いにズラッと並べられています。
それを口にふくまずゴクゴク飲んでしまうのですから、味など感じません。
香料だけで、いかにもそれらしい味わいを錯覚します。
なんだかいいものを食べたような満足感を覚えるわけです。
加工会社も手をかえ品をかえ、もっともらしいものを作り続けます。
素材の原形が、あとかたもなくなっていることもあります。
それでも口当たりが良ければ、私たちはそれを喜び、味のわかる人間だと勘違いしてしまいます。

普段の食事でも、噛んだり味わったりしていないと、当然アゴや舌は衰えてきます。
散々サボったあとに、いざそれをやろうとしても、顎は疲れるし時間もかかるし、面倒に感じてしまいます。
そして、どうせ同じだからと、ドロドロの加工品に手を出してしまいます。
でも結局のところ、お手軽なものは、その中身も薄っぺらなものでしかないのです。

現代は情報社会といいながら、実は個人にとって、歴史上もっとも情報の薄い時代になっていると言えます。

考えることを面倒がり、熟慮せず無思考のまま他人の論評や評価を流し込むのは、自ら噛むことを
面倒がり、チューブで腹に流し込むのと同じです。
そうしますと、何かが起きても冷静に観察したり、深く沈思するということができなくなります。
言われるまま鵜呑みにして全肯定してしまうか、一部だけを拡大解釈させて全否定してしまうか、ゼロか100という
選択が染み付いてしまいます。

確かに、それが一番ラクチンです。

30や70といった曖昧なところにジャッジを置くというのは、その前提としてしっかりと頭の中で整理することが
必要となります。
つまり、顎を使ってガリガリと咀嚼しなくてはならないわけです。
しかし、ゼロか100の二者択一ならば、そんな大変なことは必要なくなります。
わざわざマズいものを味わって選別するストレスも無くて済みます。
そして自己責任というリスクを背負うことも回避できます。
ミスがあっても、それは発信者のせいにできるわけです。

しかし、冒頭にも書きましたように、本来、ものごとには陰も陽も内在されています。
自然界では、複雑な味わいが濃淡さまざまに絡み合っているのが当たり前。
単色の味など存在しません。
そして、そうしたことは説明されて分かるものではなく、自分が実際に噛みしめてみて初めて感じられるものです。

無責任に、良いの悪いの言ってればお金を貰える批評家と違って、私たちはこの国の人間です。
その場しのぎの自己満足や責任逃れで誤魔化しても、この国を残すことはできないのです。

良い悪いと無責任に言い放って終わりにするのではなく、それをしっかりと味わい、自分で感じて
いかなくてはいけません。
そのためには、まずは自分の中の決めつけや思い込み、囚われを無くすことが第一歩となります。

もちろん私たちのご先祖さまにだって、思い込みや囚われはあったはずです。
しかし少なくとも、何も考えず全否定して排除したり、あるいは全肯定して鵜呑みにしたりはしませんでした。
たとえ眉をひそめるものであったとしても、キラリと光るものがあれば、そこに光を当ててしっかりと見極めました。
あるいは全体が光り輝くものであっても、そのまま丸呑みにすることはなく、変化アレンジさせて
まわりと溶けこませるように吸収しました。

いま私たちに必要なことは、遥か昔から受け継ぐ、その精神を呼び起こすことです。
白も黒も分け隔てなくすべてありのままを陽にさらし、今こうして私たちが存在できている感謝へと繋げていくこと
です。

国外のこと、国内のこと、政治のこと、社会のこと、生活のこと、いま私たちを取り巻く様々なこと、そして何よりも、
両親や祖父母、ご先祖さまたちに向けて。

白だ黒だと騒ぐ必要はありません。
白はただの白ですし、黒はただの黒です。
目をつぶることはいけませんが、一つ一つを騒ぎ立てることはもっといけません。

それは、私たち自身の人生についても同じことが言えます。
過去にフタをすることはいけませんが、一つ一つを騒ぎ立てることはもっといけません。
それぞれにプラスやマイナスのエネルギーを注ぐよりも、真っさらのまま陽のもとに照らすことが
大事なのです。

どのような過去であっても、それがあればこそ、今の自分があります。
嫌な過去であろうと、嫌な自分であろうと、それも今の自分へと繋がる一歩です。
自分勝手な価値判断を上塗りさせても、本質はまったく違うところにあります。
どのような過去であろうと、それが無ければ今はありません。
ただそれだけで、否応もなく、ありがたいことなのです。

たとえ闇に見える過去であろうと、その中には必ず一筋の光があります。
なぜならば、この天地宇宙では、陰はそれ単体では存在できないからです。
表裏一体ですから、必ず光はあります。
思い込みを手放して、ありのままに映せば、それは見えてきます。
そうして、闇も光も関係なく、今の自分をそのままに受け入れられるようになっていくことでしょう。

それは、他人に対しても全くおなじです。
決めつけて断罪するのではなく、そのありのままに心を向けるということです。

何かを感じそうになった時に、条件反射で打ち消そうとしてしまうかもしれません。
私たちの心は、自我が見ようとしているものに埋め尽くされてしまうものです。
ただ、何処にでも陽があり、何処にでも陰があるものだと認識しておくだけで、感じ方は変わってきます。
それぞれを良いものだとか悪いものだとか決めつけないことが大事です。


とはいえ、自我というものは極めて強力です。
理屈で分かっても、気づけばその激流に押し流されてしまうものです。

そうした時に力を発揮するのが『思いやりの心』です。

もともと私たち日本人は、互いへ思いを向けながら社会秩序を保ってきました。
相手の立場に自分を置き替えて考えられる心、その生活環境や社会情勢も汲むことができる心、
そのように自他を分けぬ柔軟さが、悠久の昔から私たちの身体に流れ続けています。

それこそが、日本人の感性です。

感覚や感性は、理屈にまさります。
わずか100年やそこら鈍らされたところで、何千年の歴史に比べれば屁のようなものです。
心配しなくても、私たちの中にはそれが流れています。
スイッチをオンにすれば、すぐさま発動します。

人は、相手の立場に身を置き換えてその心を感じることができます。
それは世界のどの人種であっても同じことです。
ただ、他の国では、相手のことばかりを考えていては自分が生き残れなかった時代がありました。
それに対して、私たちの国では太古から、話し合いと歩み寄りで和合を遂げてきました。
小競り合いはあっても決定的な衝突は避けてきた歴史があります。

これは神話の世界でもそうですし、聖徳太子の時代も、あるいは幕末の無血開城もそうです。
戦国時代ですら、多くの場合は和睦が主でした。
信長の焼き討ちも後世の為政者によるネガティヴな歪曲に過ぎません。

強者が情け容赦ない我欲に走ることもなく、互いに節度を持っていればこそ、我が身の存亡を恐怖
することなく相手のことを思いやることができたわけです。
私たちの国では、奇跡的なほどに、相手のことをおもんばかる感性が磨かれていきました。
これは、何よりも異民族による侵略がなかったことが大きいといえます。
まさに、四方を海に囲まれた島国ならではの、目に見えないお陰さまです。

思いやりとは、相手の細やかなところまで自分のこととして感じ取るものです。
それは遠くから見て分かるものではなく、身を置き換えることで肌に感じるものです。
日本人は、無意識のうちに誰もがこの能力を受け継いできました。
言わずもがなで、互いに通じます。

それがあまりにも当たり前すぎるために、外国人とのコミュニケーションがうまく取れないほどです。
外国人は、曖昧すぎて日本人の会話を煙たがります。
しかし日本人からすれば、言わずもがなのことをあえて言葉にするほど気持ち悪いことはないわけ
です。
そして普段はそうしたことすら自覚せず、無意識のうちにハショりながらコミニュケーションを取っています。
私たちは、知らず知らずのうちに、言葉以上の深みを互いに伝え合っているのです。

現代は、日本でも外国的にはっきりモノいうことが増えてきています。
それはそれで別に構わないと思いますが、言わずもがなの部分を察する能力が衰えてしまうようでは問題アリです。
相手に心を向けることがおざなりになってしまうのは、非常に由々しきことです。

メール社会、LINE仲間など、言葉だけが行き交う世の中になると、相手を思う心が加速度的に欠落していきます。
それが若者の異常犯罪の一因ともなっています。
そして、相手のことを我がこととして感じ取る心が失われると、海外のような遠くの相手を思うことなど、なおさら
困難となります。
社会環境や固定観念が違えば違うほど、相手の立場に立つことが難しくなっていきます。

だからといって、他国の気持ちを理解させようと、他国に中心を置いた教育をするのは完全な誤りです。
まずは自分(自国)に中心をしっかりと立てなければ、他の何もマトモに理解などできません。
自立していない子供が、知識だけ頭デッカチになって理解者ズラをしたところで、誰が心を開いて
くれるでしょうか。
自らの中心をしっかりと立ててから、心を広げて相手の思いを感じるのが健全な姿だと思います。

そうして初めて、相手も、本気で心を向けられていると感じるのです。

自分に中心を置くには、まず自分を信じることです。
自分を無条件に受け入れることです。
良いところも悪いところも、強さも弱さもです。
その結果、相手の良いところも悪いところも、すべてそのままで受け入れられるようになります。

すると、相手の思いがジワーッと、ありのままに感じられてくると思います。
そうなりましたら、あとは冷静に会話をし、見守るだけです。
そこで相手の心を開かせようとする必要はありません。
自分がそのようにあればいいだけの話です。
それが本当の思いやりであると思います。

長年連れ添った夫婦や恋人同士、あるいは親子は、まるでテレパシーのように互いの気持ちを察し合うものです。
それは決して相手の心を読もうと我欲を発しているわけではなく、ただ自然に相手に心を向けているだけのことです。
すると、言葉以上の感覚がスッと流れ込んでくる。自分の中心から湧いてくるわけです。

それと全く同じことが、ご先祖さまに対しても言えます。

そこに心を広げるということは、その時代の世界事情、生活環境、社会常識、社会通念、そうしたものを肌に感じる
ということです。
そのために、今の自分の常識や囚われを肩からスッと降ろすのです。
その時代の思いが、ありありと流れ込んでくると思います。

これは決してご先祖さまたちの行ないが正しいとか間違っているとか、そのようなことを論じるためのものでは
ありません。
ご先祖さまたちがどのような思いだったのか。
どのような気持ちで必死に生きていたのか。
そうしたことをしっかり感じることが、本当の感謝へと繋がるということです。

私たちは自分の力だけで、今こうして存在しているわけではありません。
それをいつも心の片隅に置いておくためには、本当の歴史を知ることが大切です。
そしてその景色を観る時には、 先入観や固定観念を脱ぎ去って、その心を肌で感じることがとても
大事なのです。

評論家や批評家になったところで、仮りそめの自己満足しか生まれません。

思いやりの心は、自我の心を解放することになります。

まずは謙虚になって、目の前の相手のことを思ってみましょう。
それがこの国に柱を立てる第一歩となります。


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無理は心をカタクなにします

2015-04-28 10:18:27 | 体をラクに
年末に体調を崩して以来、今年はどうも体調がすぐれません。

一時は、わずかな距離を歩いただけでも息が切れたり、足が張るような有り様でした。
そういう時に限って仕事も忙しくなるもので、休む間も無くアチコチへと出張が重なり、仕事でも
トラブルが頻発するのでした。
その一方、プライベートでは色々な所へと行かさせて頂き、ヒーコラ言いながら廻ってるうちに
エネルギー当たりでぶっ倒れたりと、何とも慌ただしい数ヶ月でした。

渦中にいる間は必死でしたが、しばらくすると、やはり色々とガタが出てきます。

これまではどれだけヘロヘロになっていても、道場に入ればシャキッと一本筋が通って気力が
蘇ったのですが、
ここ最近はいくら稽古に臨んでも、締まらない状態になっていました。
これではいかん、集中しよう、気を引き締めようと思うのですが、どうにもなりません。
呼吸法をやったり、印を組んでみたり、様々なことを試みても、ピシャっと戻らず。

でも、実際はそうしたものこそ、我欲なのでした。

身体は本当に正直です。
いくらムチをふるっても、ダメなものはダメ。
ならんものはならんのです(笑)

心身の疲れは、しっかり休むことでしか取れない場合もあります。
しかし過去の成功体験があると、グッタリした心身を蘇らせようと、道場に行ってしまうものです。
ただ、それで元に戻れるのは、それなりの元気が残っている時だけです。
心を落ち着けてもなおボンヤリしてる時は、身体が休息を求めているということです。

そんな状態を情けないとは思ったりせずに、そんなもんだと受け入れることが大事です。

若い時や元気な時ならば出来たことも、年齢とともに段々と出来なくなってきます。
昔の自分でしたら、そんなのは気合いが足りないだけだと一蹴していたでしょう。
爺むさい話ですが、年をとると身体を通して少しずつ世界が広がるわけです(笑)
実際、そのようにして人を感じる心も広がっていくものです。

肉体が弱るというのは、心が大きくなることなのかもしれません。

とはいえ、そんな状態で相手に迷惑をかけてしまっては、何の意味もありません。
休んでも迷惑をかけ、出ても迷惑をかけるというのは悩ましいところですが、そういう時こそ
まわりの目ではなく、自分に中心を置く時でしょう。

これは稽古に限らず、会社や私生活にも当てはまることです。

相手は、相手の立場として望むものがあります。
こちらもそれに応えようと食らいつくのは大切なことです。
しかし、無理をした結果、相手に迷惑をかけてしまうのでは本末転倒になってしまいます。

それが我欲であろうと利他であろうと、一線を越えた無理には、シンドさしか残りません。
心がNOしている状態での無理は、心が固まっていきます。
そして心が硬くなってしまうと、体もますます硬くなってしまい、物事はますます上手く運ばなく
なります。

しかしながら、心がYESしている状態での無理は、そうではありません。
必死のバッチは、見るものの心に響きます。
そして、自分自身にも響くのです。
つまり、それは「無理」ではなく「一所懸命」ということになります。
心がYESとは、心が開いている状態なのです。

もしも身体がNOしている時は、一度自分を振り返って見るときなのかもしれません。
今の心は果たして、一所懸命なのか、それとも単なる無理強いなのかと。

実際、無理をしている時は、何をやっても楽しくありません。
どちらかと言えば「もっと上達せねば」とか「上手く対応しなくては」とか、そのような方向に心が行きがちです。
無理やりエンジンをかけている時は、そういうものです。
ハッパをかけなければ動けないのですから、自分で叱咤激励のスローガンを作り出すわけです。
「集中せねば」「気を張らねば」というのも同じことです。

一所懸命やろうとすればするほどに、かえってそのような我執に囚われてしまいます。
そして、囚われに縛られて深みにはまると、心はますます小さくなってしまいます。
その小さくなった心を無理やり動かすために、さらに大きなハッパをかけ、ますます苦しくなって
いく・・・

必死にあがけばあがくほど、余計にシンドくなっていく。
その先は袋小路しかありません。
この状態が一番ツラいところでしょう。

解決手段としては「仕方ない」とすべて諦めることです。
つまり、原点に還るしかありません。

それが頭で分かっててもなお足掻きたい時は、まだこだわりがある時です。

こんなはずではないと思う必要はありません。
上手くやろうなどと思う必要もありません。
一所懸命やろうと思う必要もないのです。

今は今です。

すべてを手放して、ただ楽しむだけです。

上手くできようが、できまいが、そんなことは本当にどうでもいいことなのです。
周りがどう言おうが、関係ありません。
自分自身が何を言おうとも、関係ないのです。

楽しんでナンボです。
この世は楽しむための世界です。

老化というのは、誰の身にもやってきます。
パフォーマンスを求めても限界があります。
大切なのは、そんなことではないわけです。
上手くできたかなどというのは、あくまで表面的なものでしかありません。
大切なのは、自分が楽しめたかどうかなのです。

楽しく感じることに、老化などありません。

自分は、最初どうしてこれを始めたのでしょう?
何故、それをこうして続けてきたのでしょう?

何もが新鮮に見えてたあの記憶。
無我夢中になっていたあの感覚。
驚きと感動に溢れていたあの頃。

誰に何を言われても、気にならなかったのではないでしょうか。

このことは、私たちがここに生まれてきた原初の思いにも当てはまります。

どうにもならない時は、原点に還る時です。
初心はいつでも、今ここに蘇ります。
それは、素直になるということです。

今の体調、今の条件での目一杯を楽しみましょう。
黒の中にも白はあります。
幸せを感じるところに、心を向けてみるのです。

それは、楽しくないのに無理やり楽しもうとすることとは違います。
ただ、楽しかった時の気持ちを思い出すだけでいいのです。

すると、いつの間にか「今」に向けて心が開いて溶けだしていくでしょう。
それこそが、一所懸命の状態なのです。

一所懸命になることと、無理をすることは、違うものです。

それは、あとから結果として現われる状態でしかありません。

楽しい気持ち、心を開いた感覚、まずはそれを追ってみましょう。
自分を覆う囚われが、一瞬にして輝き消えていくのを感じられるかもしれませんよ。



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天地の心は、素朴さの中に

2015-04-22 21:11:10 | 国を常しえに立てます
小さい頃、子どもの世界には「真面目はカッコ悪い」という空気がありました。
今にして思えばそれは純粋に、エエかっこしいを指したものであり、他者からの評価を求める姿を
醜いと感じていたのでしょう。
もしかしたらその背景には、戦後の社会が、外からの評価に染まっていることがあったのかもしれ
ません。
純粋な子供の心からすれば、不自然なことに、ものすごい違和感を覚えたのだと思います。
ただ残念だったのは、真剣な真面目さも、そうした打算的なものといっしょくたにされて、カッコ悪い
ものとされてしまったことでした。

何故、そうなってしまったのでしょう。

それはやはり、この国に漂うフワフワした空気感に原因があったのではないかと思います。
地に足つかぬ、中心点の無い状態です。
そうした背景には、日本人の美意識が曖昧にされてしまったことがあると思います。
道徳心とはどういうものか、否定するのではなくあえてそれに触れさせないことで、干上がらせて
しまったのです。
その結果、分別がつかずに味噌クソ一緒になって、全否定するようになってしまったということです。

何千年もの間、私たちのご先祖さまは、当たり前のように「忠孝」というものを子どもたちに教えて
きました。
その確かな流れは、ついほんの最近まで、脈々と繋がっていたのです。
例えば、今や闇に葬られつつある教育勅語にも、それは現れていました。
読まれたことがない方が多いと思いますので、意訳を書かせて頂きます。
原文は漢文です。
こんなに短いというのも、意外に思われるかもしれません。

その前に、もう一言だけ付け加えさせて下さい。
戦前・戦中の話となると、即座に悪いもので右翼思想だと条件反射するように、私たちは植え付け
られてしまっています。
でも、右翼や左翼といった、あと付けのカラーに関係なく、良いものは良いですし、悪いものは悪い
わけです。
短絡的に全否定したり全肯定するのは、無思考そのものです。
昔から私たち日本人は、見た目のイメージやカラーなどに惑わされず、自分の心の目で、本質を
ありのままに見てとれる寛容さと聡明さを持ってきました。
良い部分を見極めて、それを抽出して純度を高め、より良いものにする。
それが日本人の歴史です。
どうか、中心を自分に置いて、真っさらな心の目で読んでみて下さい。


『教育勅語』

 ◎皇室は徳を尽くし、国民は忠義と孝行を尽くし、心を一つにして幾代にもわたり、
  立派な行ないをしてきました。
 ◎これは我が国の優れたところであり、教育の根本もそこにあります。
  そのためには、
  ・親孝行をしましょう
  ・兄弟は仲良くしましょう
  ・夫婦は仲睦まじくしましょう
  ・友だちとは信じ合いましょう
  ・行動は慎み深くしましょう
  ・他人に博愛の心を向けましょう
  ・勉学に励み、職を身につけましょう
   ・知能を開き、徳と才能を磨きましょう
  ・世のため人のためとなることに尽くしましょう
  ・憲法や法律を重んじ、秩序を守りましょう
  ・危急の事態が生じたら公のために奉仕して、皇室が天地とともに続くよう
   助けましょう
 ◎これは祖先が残した良い風習(遺風)を褒めたたえることでもあります。


いったいどんなことが書かれているのかと思いきや、あまりに当たり前のことすぎて拍子抜けした
かもしれません。
私も初めて読む前は、もっと重々しいことや難しいことが書かれているのかと思っていました。
でも、そんなおためごかしの装飾などは必要がないわけです。
躾(しつけ)というのは、そういうものかもしれません。
もっともらしい論理展開をしてガチガチに縛っても、子供の心には何も残りません。

教育勅語は、これ以上ないほどシンプルです。
しかしそれらは、どれもが核心を伝えています。
そして着飾ったりすることなく、素の姿に光をあてることで、それを誰にとっても正々堂々としたアタリ
マエのものとしたのです。
でも今の時代は、そのシンプルさをつたないなどという浅はかな判断しかせず、もっともらしい単語を
使って美辞麗句を並べるものだから、子供たちはそのシンプルな気持ちが必要となる場面で照れが
出たり、カッコ悪いものだと思ってしまったりするのです。

ここに書いてあることを押さえずして、小難しい文章を羅列させても何の意味もないのです。
言葉や表現というものは、着飾れば着飾るほど、中身は薄っぺらなものになっていきます。
逆に言えば、ここに書いてあることさえ押さえていれば、あとはそれに照らして自ずと規範が定まっ
てくるのです。

なにより、教育勅語は「親孝行」を第一にもってきています。
そして、最後は「遺風」で締めてます。
お蔭さまへの感謝をとても大切にしていることが伝わってきます。

それにしても、「遺風」というのはなんて美しい言葉でしょうか。
これは、雰囲気とか風習とかそういう意味ですが、意訳せずそのまま「風」としたほうが遥かに深い
味わいを感じます。
フワーッと、ご先祖さまたちの遺した風が漂ってきます。
その心、その温かさ、その優しさ、その苦労、喜びや悲しみ、そうしたすべてを称賛しているのです。

教育勅語は悪の権化のように思われていますので、私たちは、あまり触れる機会がありません。
でも書いてあることは、こんなに素晴らしいことだったのです。
そして世界の国々が、この教育勅語を絶賛していました。
真髄といえるものを、これほど簡潔にまとめているのですから、当然のことかもしれません。
なぜこれをGHQが必死に潰そうとしたのか、その方がビックリではないでしょうか。

確かに、戦後教育を受けた私たちからすれば、最後に書かれている“皇室を助けよう”という部分に
反応してしまうところです。
しかし、日本の皇室は、過去において一度として、国民を自分の下に見たことはありません。
そのような上から目線など、一度たりと思われたことがないのです。
それは、私たちの勝手な被害妄想や妬みが作り出した幻想でしかありません。
日々のお務めを知るだけでも、それがあり得ないことが分かるでしょう。
むしろ、そうしたものとは最も対極の場所におられるとさえ言えます。

歴代の天皇は、この島と国を己が身とし、民を「おおみたから」(大御宝)と呼び、天地へ祈りを
捧げてきました。
国を我が身とするというのは、所有という意味ではなく、霊的な意味です。
たとえば、私たちにとって、足の小指の先も、自分自身であることに変わりありません。
小指も心臓も、分け隔てなく同じ心を向けています。
それと同じです。
つまり、その天地の心を、この国の隅々にまで向けているということです。
これは本当にすごい境地です。
その透明なこころのままに、この国とこの国に住む人たちの安寧を願って、祈りを続けています。
今の御身では、文字どおり命を削る行ないです。
感謝を捧げることがそのまま生きることになられています。
まさに天地宇宙と一つ、神ながらの道です。

それだからこそ、国民もついてきたのです。
無償の愛、目に見えない陰徳は、間違いなく伝わってきます。
何をなされているのかを知らされなくても、それが伝わってくるのです。
そのような天皇陛下を国の中心に置くことで、全体がブレることなく定まり、私たち国民は気張る
こともなく自然体のままで、心を一つにして、こうして続いてきたのです。
ちょうどそれは、私たち自身も、自分の内に中心を置くことで全体がスッと統一されて落ち着くのと、
相似形を成しています。
それがいいとか悪いとか、好きだとか嫌だとか、そういう次元ではないのです。
私たちの国はそういうやり方で、実際に今に至るまで続いてきたという、その事実が全てです。

戦前とて、本当の神様だと信じ込んでいた人は、殆んどいなかったと聞きます。
ただ、そのあまりに透き通った心を思えば、まさしく神様のような人だと誰もが思っていたこと
でしょう。
実際、いわゆる『人間宣言』の時にも、国民はその意図がよく分からなかったといいます。
考えてみれば当然のことです。
「本当の神様ではないんだよ」だなんて、どこかのカルト教団ではあるまいし、いくらなんでも
日本人を馬鹿にしすぎです。
それはGHQだけでなく、その発想がベースの教科書で育った今の私たちも同じです。

戦前戦中の日本人は小さい頃から洗脳されたのだろうとか、可哀そうに情報が足りなかったんだ
ろうとか、勝手な思い込みで決めつけて、分かったような顔をするのはあまりに大人げありません。
ご先祖さまも私たちと同じ人間ですし、むしろ私たちよりも勤勉で慎み深く、遥かに聡明だったこと
を忘れてはいけません。
自分たちと異なる環境の人たちのことを思う時は、まず自分たちが謙虚に真っさらになることが
必要です。


「神様」と「神様のような人」というのは全く違います。
この国の誰よりも私心を捨て公に尽くす姿を見ればこそ、尊敬の念を抱くのです。
そして、自分たちも襟を正そうと思うのです。
皇室というブランドだけで尊敬したのではなく、そのような姿を何千年も続けてこられたことへの
敬意と感謝なのです。
決して服従とか神格化とか、そういうお仕着せのものではないのです。

そういうことを知れば、教育勅語の最後の文章も、何らおかしなものではないことが分かると思い
ます。
本当に洗脳や軍国の香りが強かったなら、そもそもヨーロッパ各国で絶賛されるはずがありません。
当時イギリスで火がついたあと、仏語、独語、中国語にも翻訳されて世界に広まったのです。
それは国際的に見ても、この文章が何もおかしくないことを示しています。
そしてさらに、それは過去の話ではなく、今でも何ヶ国かで使われているのです。
もはや言わずもがなでしょう。

当然GHQも、そうしたことは分かっていました。
私たちが戦後に刷り込まれた悪のイメージは、彼らがあれこれと練って作り上げたものですから、
彼ら自身が本当にそのように思っていたわけではありません。
私たちにとっての常識は、世界の中で私たちだけが勝手に思っている(思わされている)ものだと、
割り切る必要があります。

GHQの影は、教育界だけでなく、新聞やテレビといったメディアに、未だに色濃く残っています。
たとえばGHQ規制であるプレスコードは今でもそのまま生きており、事なかれ主義の下地となって
います。
こうしたものこそ、私たちがリセットしなくてはならない固定観念でしょう。
情報を色づけしたり、矮小化させたりしたものを、日々、私たちは目にしています。
私は、別に陰謀論などを話すつもりはありません。
すでにGHQの手を離れたはずなのに、自分たちで勝手に自分たちを縛ってしまい、囚われている
というだけです。
ですから、何でもかんでも疑う必要はありませんが、素直な天地の心をもって見極める必要があり
ます。
言われた通りに、無思考のまま自動的に飲み込むのは非常に危険です。
しかも今はテロップも同時に流れていますので、聴覚と視覚のダブルで刷り込まれる状況です。
そうしたものに慣れてしまうと、いつも頭で考えずそのまま無条件に信じる癖がついてしまいます。
まさに洗脳です。
ですから、たとえセリフが流れてきても、もっと大きな視点や、違う角度からそれを観るのです。
心を自分の中心に置き、真っさらに広げた状態で聞いていれば、おかしいものはすぐに分かります。

話を戻しますと、GHQはそれだけ日本人の教育というものを恐れたともいえます。
日本人を骨抜きにしないといけないので、教育勅語や修身教育を廃止したわけです。
それこそが、この勅語の正当性を証明することにもなります。

それは、天地の心へと導く一つの道標でありました。

聖徳太子の有名な『十七条の憲法』も同じものです。
これまた内容が深いので、詳しくは次の機会にしたいと思います。

戦後の学校教育は、私たちの国の過去の偉業を、ほとんどマトモに伝えていません。
尾ヒレを付けて過大に伝えることではありませんが、抹殺することもないのではないでしょうか。
私も、十七条憲法は「和をもって貴しと為す」しか知りませんでしたし、そういう学級ルール的な
お題目が並んでいるだけだと思っていました。

先人の知恵や知能を軽んじてはいけません。
冷静に比べてみますと、今の私たちが、いかに愚民化させられているかを痛感します。
自分たちはマトモで賢いと思い込まされているうちに、ドンドンと身ぐるみ剥がされ、それにも
気づかず自尊心だけ膨らましているというのでは、それこそ本当の愚かものになってしまいます。
ご先祖様は劣るものだとして、せせら笑って見下すように子供たちに植え付けている戦後教育は、
最低最悪というよりも、ただ、下品としか言えません。
そうやって先人たちへの敬意と感謝の心を奪うことで、この国の柱が腐るように仕向けられています。
それこそ、教育勅語で最後に書かれた言葉の、真逆を行っていることが分かるかと思います。
そこには「国が無くても自分たちは生きていける」「先祖は先祖、自分は自分」という傲慢(ごうまん)
な考えがあります。
自分たちは、自分たちの力で生きていると思っているのです。
だから、国への敬意もなければ、ご先祖様たちへの感謝もないのです。

私は、こういう人たちと心中したくはありません。

そのためには、知らないことを知るというのがとても重要なことだと思います。
知ることによって、本当の意味で、心からの感謝が芽生えるからです。

私たちの国とご先祖さまたちは、常に、天地と一体であろうとしました。
その流れを引き継いで守っていくことが、私たちの果たすべき責任です。
これは、理屈ではありません。
世界中でこれほど長く続いた国はないのです。
続いたということが重要なのです。
それこそが、この国のすがたが、天地の理にかなっている証拠だと思います。
伝統というのは、そういうものです。
伊勢の式年遷宮にしても、伝統芸能や伝統工芸にしても、男系男子の皇位継承にしてもそうです。
何故そうやるのか?という理屈は、まったく意味がありません。
これまでそうやってきたことで現に、今この瞬間まで続いて来れているということが最重要なのです。
絶えていないということが、人間の小さな心で考える以上に、説得力を持つわけです。
天地自然の流れに矛盾ないものは続くわけですし、そこに不自然な考えが混じれば絶えるのです。

戦後は、その流れを断ってしまいました。
今ここまでは、過去のご先祖さまの貯金だけで、何とかもったと言えます。
まさに、お蔭さまでもっていただけなのです。

いま一度、教育勅語を読み返してみて下さい。

ご先祖さまへ心を向けることは、天地へ心を向けることにもなります。

そして敬意と感謝の心こそが、私たちの国の柱をふたたび立て直すことになります。



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身近なものほど尊いです

2015-04-19 21:19:55 | 国を常しえに立てます
私たちは、天地宇宙の大きな心に見守られ、ご先祖様たちの遺産に寄りそって、いきています。

自分は何一つ持っていないと分かれば、自ずと謙虚になります。
謙虚になると、天地へ心が広がり、清々しい風が吹き抜けます。

大きな感覚にあると、自ずと天地宇宙に対して、喜びと有り難さが湧いてきます。
また、世界中の幾億万のご先祖さまに対しても、感謝と有り難さが湧いてきます。

そうして、心は晴れやかになります。

ただ、私たちは常に天地宇宙や全人類の広がりを感じながら日々を生きているわけではありません。
そこには、いつもの生活や、いつもの人たちが居ます。
いくら天地に心を広げても、この目の前の景色をボンヤリさせてしまっては、結局は意味がありません。

私たちは、日々のこの現実に生きています。
天地宇宙や大自然、神仏、全地球のご先祖さまに感謝の心を送るというのは、ともすれば自己満足
に陥りかねません。
もちろん、それはそれでとても大事なことです。
しかし、その心地よさに浸ってしまうと、なかなか現実に繋がらなくなってしまいます。
なぜならば、それは目の前の日々とは、あまりにもかけ離れたものであるからです。
何となく幸せな気持ちになり、何となく心が軽くなっても、いざ日々の生活に目を戻すと、全く違う
スイッチが入ってしまうものです。
そして、あまりのギャップにガックリしてしまかもしれません。
そのギャップを埋めようと色々なものを探し求めても、その断絶を埋めることは難しいわけです。

私たちは、目の前の現実を見るときに、それに合わて心も変えてしまっています。
つまり、大きなものを見るときは心も大きく、中くらいのものを見るときは心も中くらいに、と。
そして目の前のことを見るときは、自我の意識がまさって、心が自我の枠に収めされてしまっている
のです。

ですから、せっかく大きく広げたならば、心をそのまま放ったままで、目の前の現実を眺めるという
ことです。
すでに、皆さんはそれを実践されてます。
いま目の前に映るすべて、この世界のすべてが、ご先祖様たちの遺産であり、天地宇宙に護られて
いることを、感じられたはずです。
それが、まさに天地の心のままに、目の前の今を眺めた瞬間です。
新たな景色というやつです。

そして、こうも言えるわけです。
ありがたい気持ちに、大きいも小さいもないと。
相手の存在が大きいとか、小さいとかいうのも関係ない。
ただ、自分の中からジンワリ湧き出るものが有るか無いかでしかない、と。

全世界の幾億万のご先祖さまたちに繋がる一番身近な存在は、父母や祖父母です。
また、八百万の神さまに繋がる一番身近な神さまは、氏神さまです。

感謝の対象が、偉かったり大規模だったりすることで有り難さが増すわけではありません。
もしも、それで有り難さが増すようなことがあれば、それは誤った幸福感(満足感)の恐れが
あります。
相手の格や立場を見て価値判断をしてしまい、それによって自分の心を切り替えてしまうのは
我執でしかありません。
それに気がつけたら幸いです。
そのままだったら、下手に大義があるだけに、やればやるほど我執を強めることになってしまう
ところでしょう。
もちろん、世間的に格式が高いとされているような神社で、真っさらな心のまま手を合わせたら、
物凄く爽やかな風が一気に駆け抜けて幸福感に包まれるということはあります。
ただ、それはあくまで結果としてのものなのです。
要は、手を合わせる前から勝手な思い込みで“心を変えて”臨むのがいけないということです。

両親に感謝を示すことは、ご先祖さまに感謝を示すことと同義です。
全世界の幾億万のご先祖さまたちに感謝を伝えることへと繋がります。

いきなり十段飛びに全世界のご先祖さまたちに感謝を思うよりも、身近の存在に伝える方が、その
濃さも電導率もケタ違いです。
もちろん、両親や祖父母に感謝しつつ、さらに全世界のご先祖さまに感謝できれば最高です。
でも、まずは身近な存在に感謝です。

同じように、高いところに坐す神さまに感謝を伝えるのは大切なことですが、まずは身近の氏神
さまです。
氏神さまといっても、近くの神社が廃れてたり雰囲気がピンとこなければ、氏神さまにこだわらず
ピンとくる身近な神さまです。
何となくスッとくるのは、それこそが身近におられる証拠です。
たとえば、夏祭りや初詣をするような、暮らしに近い神社がいいと思います。
とにかく、いきなり大きな存在ではなく、より近くの存在に感謝ということです。

すると、天地へ向ける心と、日々の身近なことに向ける心の断絶が、少しずつ薄れていきます。
断絶させていたのは、自分の心の方なのです。
一つ一つを切り替えてしまっているために、一つ一つに断絶を生んでしまっています。
近くであろうと遠くであろうと、みんな繋がった一つのものです。
ですから、こちらの心も変える必要はありません。
伊勢の神さまは有り難いからと真剣に手を合わせて、近所の神さまは見慣れてるからとそこそこに
手を合わせるというものではありません。
どちらも同じ心境のままに、軽やかに手を合わせるだけです。

そして、それは両親に対しても同じなのです。

ただ両親という存在は、あまりにも身近すぎて、物心ついた時から刷り込まれ続けた感覚もあります
ので、なかなか素直になれないかもしれません。
安心している部分や甘えている部分があって当然だと思いますし、親は親でそれが嬉しいものです。
ですから、いきなり最初からスッキリ透き通った心で感謝を向けようなんて思わずに、まずは照れくさ
がりながらでも、小さな感謝から少しずつというのがいいと思います。
突然かしこまって感謝を伝えても、親のほうだって面食らうでしょうし、逆に心配するかもしれません(笑)
小さなことから、小さな感謝を。
できることから、無理なく少しずつです。
そうして一つ一つ重ねていくことで、いつしか透き通った感謝へと繋がっていくことでしょう。

そして、それが天地宇宙に対しても、素直な感謝となっていくのです。
身近な存在に対して素直に感謝できないうちは、天地宇宙にも素直な感謝ができていないということ
です。
それでは、猫をかぶったヨソ行きの姿でしかないということです。
家でリラックスして気楽に過ごしているのと、神社で背筋を伸ばして真面目に過ごしているのと
本当の自分はどちらなのでしょうか。
心を変えてしまっているというのは、そういうことです。
家でも神社でもリラックスして、同じ感覚で軽やかにニコやかに、同じように感謝を向けられるのが、
自分でも気持ちがいいと思います。

いかにも大層なことをやればキッチリやったような感覚(錯覚)に浸ることができる、というのは
もう卒業です。

天地に、地味も派手もありません。
すべて一つです。

天地宇宙の全ての存在に感謝を向けることと、両親や氏神様に感謝を向けることは同じものです。

そして、身近なものほど、より自分自身の心を明らかに映します。
だからこそ、何となく気恥ずかしい気持ちになるとも言えます。
その最たるものは、鏡に映った自分に感謝を伝えることではないでしょうか。
少しずつでも自分を直視し、少しずつでも感謝を伝えていければ、いつしか透き通った心のままで
素直に自分に感謝を思えるでしょう。
それが、自分の全てを本当にそのままに受け入れられた瞬間かもしれません。

身近な存在というのは、人によってそれぞれです。
その身近な存在こそが、自分にとっての一番近くの天地宇宙です。
遥か遠くにある天地宇宙も、一番近くにある天地宇宙も、同じものです。
そこに大小はありません。

誰の近くにも、天地宇宙が開いているのです。

すべては自分の心次第です。

そして身近の天地宇宙こそが、もっとも自分のことを見守り、もっとも自分に心を向けているのです。
だからこそ、そこに私たちの方から心を開くことが、何にも増して効果絶大になるわけです。
それは、まさに天地と一体となることです。
親孝行とは、神ながらの道なのです。
そして自分に感謝して、自分を受け入れるのも、神ながらの道ということです。
身近なことや、身近な存在に感謝を思うことが、この世で一番の功徳であるというのはそのためです。

私たちは何をするために生まれてきたのか、何をするために生きているのかと問われれば、それは
身近なものごとや人々に感謝を思うためだと言ってもいいのです。

ここにおいて、ようやく断絶することなく、天地宇宙と目の前の現実とが合致するのではないでしょうか。


大それたものは遠くにあるというのは、私たちの勝手な思い込みです。


最も身近なものこそ、最も大それたものなのです。



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ほんとうの世界遺産

2015-04-16 18:52:48 | 国を常しえに立てます
現代の私たちは、どれだけ進化しているのでしょうか。

さすがに100年くらい前の人たちとは、それほど違わないような気がします。
でも、それが江戸時代となると何だかモヤモヤっとしてきます。
「江戸時代って、あのチョンマゲの?それなら少しくらいは賢くなっているんでは・・・」と。
ましてや弥生時代、縄文時代ともなると、それはもう自信をもって断言してしまうかもしれません。

文明の進んだ華やかな景色に囲まれていると、何となく私たち自身が進化しているように錯覚して
しまいます。
でも、今ここで着ぐるみ剥がされて無人島に放り出されたら、どうなのかということです。
あるいは、このまま縄文時代に放り出されたら、私たちは何ができるのでしょうか。
そこは今どきの素材も道具もない世界です。
必死に知恵を絞り出したところで出来ることといえば、木や枝で家を作ったり、粘土で食器を焼いたり、
ツタや蔓で服を編むくらいではないでしょうか。

そう、結局は同じなのです。

機械も道具も無いところでは、土器を作ったり、竪穴式住居を作ったりするのが精一杯なのです。
そしてその精一杯と思っていることでさえ、いざ、やるとなると、とてつもなく難しいわけです。
ですから、その時代の人たちより、私たちがまさっているということでは決してないのです。
ここのところを、つい私たちは勘違いしてしまいます。

何千年どころか、おそらくこの何万年、私たち人間の基本スペックは、何ひとつ変わっていません。
石器時代の人と、私たち現代人との違いは、ただ知識の違いでしかないのです。
その知識にしても、自力で獲得したものではなく、生まれた時すでに用意されていた借りもので
しかありません。
そして知識ではなく、それが知恵や知能となると、むしろ現代人の方が劣っているかもしれない
わけです。
そもそも、知恵や知能というものは、与えられたものを最大限に活用する能力です。
私たちが、いま知能だと思いこんでいるものは、実は知能ではなく、先人たちが積み上げてきた
膨大な知識や情報でしかありません。
もしも身のまわりのものが、知識も含めて全て無くなったら、イチから作り出せるものは何一つ
ないのです。
ましてや技術者や学者でもない一般人であれば、そんな仮説など立てるまでもなく、すでに今
この時点で、自分が何もできないことに気づくはずです。

今こうして科学文明の中で、不自由のない生活を送れるのも、すべてご先祖さまたちが遺した
財産のおかげです。
まさにそうしたお陰さまによって、私たちは当たり前の日々を過ごしています。
どれ一つとして自分のものなど無いのです。
ですが、それを当たり前なものとして、思考停止のままスルーさせてしまい、感謝もせず平和に
暮らしています。

たとえば、莫大な財産を相続した放蕩息子を想像してみて下さい。
本人はそれを当たり前と思って、贅沢三昧に暮らしています。
数十年間やりたい放題やった結果、一文無しになってしまいました。
そして路頭に迷い、嘆き悲しんでいます。
それを見て、どのように感じるでしょうか。
そんなのは、もとより自分で汗水流すのが当然だと思うのではないでしょうか?
財産があるのが当たり前なのではなく、無いのが当たり前だと。
恵まれた境遇に感謝もせず、アグラをかいていたのだから、そりゃ自業自得だろうと。

それと同じことです。

私たちも、自然災害や天変地異で、身ぐるみ剥がされたらイヤだと思う前に、そもそもそれが
いったい誰のおかげのものなのか、まずそれを噛みしめる方が先なのではないでしょうか。

この街のビルも家も、電気や水道も、電化製品も家具も、洋服や靴すらも、あらゆるものは、
すべて幾千億のご先祖さまたちが積み上げてきたものなのです。
あって当たり前ではなく、それがこうして身のまわりにあることが奇跡なのです。

もしも、あるのが当然だと思いこんで感謝を忘れると、それは目の前から無くなっていきます。
そして無くなってから、その有りがたさを知ります。
遅まきながら、感謝の心が芽生えます。
この世界はそういうものです。
そういう仕組みになっています。
別に嫌がらせではありません。
勘違いや無思考は慢心を生み、自我を増長させてしまうからです。
要は、感謝の心だけです。
モノ自体は、感謝の心を輝かせるための方便でしかありません。
モノが有ろうが無くなろうが、それは大して重要なことではなく、ただ感謝の心が輝けばOKと
いうことになっているのです。
だからこそ今、一つ一つに心を向けた感謝が大事なのです。

天変地異を不安に思うのは当然ですが、その不安の出どころが、文明という「モノ」を失うこと
への憂いにあるならば、起きる可能性は高いと言わざるをえません。
放蕩息子が親の遺産にしがみついているのですから、それが道理です。
しかし実際は、それでもなお天地やご先祖様たちが、そんな子供たちでも文無しにはさせまいと、
必死に汗をかいておられるのです。

繰り返しになりますが、私たちは、もともと自分たちのものではないものを、自分たちのものと
思いこんで、当たり前に日々を過ごしています。

世界のすべての人たちが、世界中のご先祖さまたちの遺した財産によって、生かされています。

それは目に見えないものなどではありません。
むしろ、私たちの目に入る全てのものが、そうなのです。
もっともらしいものを世界遺産として有りがたがる前に、当たり前に日々スルーさせてしまって
いるものにこそ、心からの感謝を思いましょう。
もちろん、いちいち手を合わせる必要はありません。
そんなことをしてたら、まともに生活できません。
ただそういうものだと意識を変えるだけで十分です。

いま目に入るものは、製造会社が作ったものだとか建築会社が作ったものだとか、そういう次元
のものではありません。
それはほんの氷山の一角。上っ面の薄皮一枚でしかありません。
すべては先人の知恵と知識の集積なのです。
この瞬間、目にとまったものに思いを巡らせてみて下さい。
ほんの少しだけ、その奥にまで心を向けてみて下さい。
目に映るものが、どんな些細なものでも、すべてがご先祖さまたちの遺した結晶であることを
感じられるはずです。
それは、今こうして使っている言語もそうですし、そもそもこの私たちの身体自体もそうなのです。

私たちが、当たり前と思って見過ごしているものは、何一つ、自分のモノではないわけです。
だからといって、決して自分たちが弱々しい小さい存在だということではありません。
むしろ「何も無い」というところに私たちの無限性があるわけです。
そのことを芯から受け入れて、初めて、本当の謙虚さが芽生えます。
そして、そうであればこそ、あらゆるものが有りがたく感じられるようになります。
感謝というものは、謙虚さから生じます。
囚われた心からは、かりそめの感謝しか生まれません。

この世界は、先人の遺産そのものです。
私たちは、先人たちの「おかげさま」の中で、こうして生かして頂いています。

それは、もともと無くて当たり前のものかもしれません。
だからこそ、あらためて、本当にありがたいと感じるのです。
無くて当たり前のものが、こうして世界中に何千年も残り続けていること自体が、「有り難い」
ことなのです。
当たり前のことだと流せてしまうほどに、自然であるということが、本当に凄いことなのです。

私たちは、数限りないお蔭さまに包まれています。
そして絶え間なく、温かい心に見守られています。

失うことを心配するよりも、まずは、今この恩恵を心から噛みしめてみませんか?

シミジミとありがたさを感じたあとに、フワーッと幸せな気持ちがやってくると思いますよ。




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