これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

食う、寝る、遊ぶ (2)

2019-05-14 14:31:23 | 天地の仕組み
私たちは根源から突き抜けて今ここに存在しています。
それは下へ行くほど山の裾野のように広がっていき、他の存在と溶け合っていきます。

これを逆の方向から見ると、海底の大陸棚で一つだったものが上に行くにつれて分岐して、海面に顔を出して色々な島になっているようなものです。

そうした島の一つ一つが、現世の他人であり、過去や未来の他人であり、そのどれもが同時に私たち自身ということです。

根っこでは繋がっていますが先端は別々になっています。

過去世や未来世の生まれ変わりというのもこの先端の一つ一つです。
そのため、関係の濃い薄いはあったとしても純度100%の転生は無いということになります。

「一本柱の深みへ降りて行くと、数多くの私たちと一つに溶け合っていく」
つまり海面の上に顔を出している島から見える景色というものが一人一人の存在意義であり、それらを私たちは共有しているということです。

寝ている時だけでなく、起きている時も、深いところで私たちは過去生や未来世、異なる座標世とお互いを共有し合っているわけです。

寝て起きて、起きて寝て。
目が覚めて自分の島へと戻っていき日々のノンフィクション取材を行ない、それをまた持ち帰って共有し合っているということです。

たとえば素潜りをする時、私たちは大きく息を吸ってから潜ります。
ちょうどそれと同じように、寝ている間に私たちは広い世界で全身大きく息を吸い、そこから現実世界へとザブンと潜っていると言えます。

あっちの世界でのびのび大きく吸って、潜水服を着て、こっちの世界に来ている。

眠りが浅いと疲れが取れないのは、この深呼吸が足りないからです。
海からあがってフルオープンになれないと酸欠状態のエネルギー不足となってしまいます。

逆に、複数層までフルオープンになれれば、目が覚めていても深くまで全身呼吸が出来ている状態になるため、寝ること自体があまり必要でなく
なっていきます。
ただこれは結果としてそうなるものなので、それを追うことに何の意味もありません。

生きとし生けるものすべて必ず寝ます。
命の危険を考えるならば、寝ない進化を遂げる生物が出てもおかしくありません。
しかしそれが無いのは、理屈として有り得ないからです。

そもそも大きく広がる世界があってこそ表層の世界があるわけですから、表層の世界だけで完結させられる話ではないということです。

潜水服を脱いだ状態が本来の姿なので、潜水服を着続けるということは本末転倒でしょう。

現実世界という海の中から、光差しこむ世界へ還る。
それはすべての生き物に共通する帰巣本能であるわけです。





ただ現実世界に縛られすぎるとそこにロックがかかってしまい、戻ることが困難になります。

過度のストレスや疲労、そうしたものが強くなるとそれが重しやアンカー(いかり)となってしまい、そこから脱せなくなる。
つまり眠りが浅くなり、ついには不眠症になってしまいます。

ならばストレスの原因を除けばいいということになりますが、それが日常の家事や仕事、あるいは人間関係である場合それらを排除することは
現実的には難しいでしょう。

そもそも現実世界に自分を縛っているのは深層意識の自分です。
深層意識といっても現実世界の範囲における意識なので、それよりさらに深いところの自分は如何ともしがたい状況となっています。

深層意識が現実世界に向いたままテコでも動かない状態では、いくら表層意識が寝たいと思っても、要は右手と左手で互いに綱引きをしている
ような状態ですから眠れるはずがありません。

これまでお伝えしてきた「囚われずに受け入れる」という方便は、この深層意識に「そこまで必死にしがみつかなくても大丈夫だよ」とOKサイン
を送るものです。
それによって苦しみも薄れていきます。

しかしロックが掛かってがんじがらめになった状態では、囚われずに受け入れるというアプローチはむしろ逆効果になってしまいます。

完全にロックがかかってしまった時には、視線や意識の切り替えが必要となります。

現実世界そのものを変化させてしまう。
深層意識の向け先を変えてしまうということです。

その一番は強制的に長期間休むことです。
向け先が無くなれば深層意識のロッキングは外れていきます。

真面目な人ほど現実に全身全霊を投じてしまい、その次元に自縄自縛となって抜け出せなくなります。
統合失調症や鬱病というのはエネルギー欠乏を解消させるためのごく自然な反応であり、生きるための本能です。
極めて健全な反応であって、それを不健全と卑下するのは全く逆です。

またロックがかかる前であっても、視線や意識の切り替えは非常に有効です。

つまりは、一日のうち何度でも気分転換の一服を挟む習慣をつけるということです。
家事や仕事の合間に、それまでとは連続性がないことを挟むということです。

深層意識の向きを変えれば、右手と左手で綱引きをするようなことが無くなります。

同じ意識、同じモードのままで一気にガーッとやるのは危険です。

スイッチを入れっぱなしにするとスイッチが戻らなくなります。
深層意識が現実世界に向いたまま戻らなくなる状態です。

「集中」という言葉がありますが、その意味を履き違えると大変なことになります。

それが内的衝動によるものであれば、多次元に広がった状態となっていますので活動エネルギーは湯水のように湧いてきます。
現実世界に磔(はりつけ)になるようなこともありません。

しかし他層からエネルギーが入ってこない状態ですと、義務感に駆られアドレナリンで無理に力技でやろうとしてしまいます。
そもそも無理やり捻り出した動力ですから、生存のためのエネルギーすらも使いきってしまいエネルギー欠乏となります。

勿論、生活する上ではイヤでもやらなくてはならないことはあります。
ですから力技で空焚きするのもやむを得ない場面はあります。

その頻度を抑えていれば、合間合間に修復と充電が行われますのでエネルギー欠乏は解消されます。
しかしメンテナンスが追いつく前に空焚きを続けてしまうと、釜が耐えきれなくなり危険な状態となります。

釜が壊れないためにはクールダウンが必要です。
つまり、定期的な視線の切り替え、意識の切り替えです。

具体的には、1時間や2時間と決めたらそれ以上やりすぎず、とにかく一回リセットを挟む。
全部終わるまで休まない、というような設定は最悪です。
遅くなってしまうと思ってもそこで休憩を入れる勇気。「損して得取れ」「急がば回れ」です。

一服いれるタイムロスは無駄にしか映らないかもしれません。
もう一度エンジンをかけ直すガッツもシンドイ。
とりわけスイッチが入ってる時など、休もうなんて言われると、アー!となるでしょう。

でも数ヶ月単位で見ればその道草のある無しでボロボロになるか否かが大きな差となります。

アドレナリンが出た状態だとダンプカーのごとく一気呵成に物事が片付きます。
しかしそこをグッと堪えて、こまめにクールダウンを挟む。

アドレナリンでガーッとやり続けるとそれだけ現実世界に全身ロックオンとなり、そこから抜け出せなくなります。





体を動かして汗を流したとしても、意識が同じままでは何の意味もありません。
頭のヒートアップが解除できなければ、結局は現実世界に磔されたロックオン状態のままになってしまいます。

何をやっても切り替わらない時は、全く新しい世界、違ったことに飛び込むのがいいでしょう。

たとえば、行ったこともない国にいきなり行ってしまう。
国内でもいいと思います。
夜行列車に乗ってみるとか、単線の旅とか。
とにかく非日常的なことに身を投じる。

ずっと気になっていたお店に遠出する。
電車を乗り継いで行ってしまう。
テレビや雑誌で見ているだけだったお店に行ってしまう。

あるいは突然、山キャンプする。
今どき機材なんか持ってなくても全部貸してくれます。

何十年ぶりかにライブに行ってみるのもいい。
激しいロックでも、静かなクラシックでも。

座学として何かのセミナーに参加してみるというのもありでしょう。
あるいは、新しい趣味の世界に体験参加してみる。
やったこともない楽器。絵画。園芸。ダンス。フラメンコ。

なんだっていいんです。
まったく今と接点がないことの方がいい。

続けることなんて前提にする必要はありません。
つまり「三日坊主のススメ」です。

いつも同じものに意識を向け続けるから固定化してしまう。それなら全く違うことをやればよい。

そこで、お金や時間がもったいないと思いとどまってしまうことこそ、現実世界に縛られている最たるものです。
何か新しいことが目に止まるというのは、この地上とは違うところの私たちが信号を送っていることに他なりません。

その理由は、本当に新しい道への導きかもしれませんし、単に今の目の前の囚われから目をそらすためのものかもしれません。

後者であるならば、なおさら火急の事態ということです。
深層意識の暴走をひっぺはがすためには、向け先を変えないといけないと。

そうなると気分転換ができるならば、その対象は何でもいいということになります。
つまり最初から三日坊主と決まってることだってあるということです。

だったら、やらなきゃ損です。
悩むだけアホくさい話です。

お金をドブに捨てるようなものだー、なんて先っぽ世界の思考はよしましょう。
続かなかったらみっともないなどと臆することもありません。

やったほうがいいから目の前にあるのです。

やりたいようにやっちゃえばいいんです。

「あー、私なにやってんだろー、こんなことやっちゃったよー」
と自分でも意味わからないけど、笑けてくるほどカッ飛んだことをやれたら大成功です。




そもそも私たちは何のために生きているのでしょう。

肉体を存続させるためだけに私たちは生きているのではありません。
もちろん体を大切にすることは大事です。
しかしそれは別の目的を遂行するためのものであって、決して第一義ではありません。

私たちは「体験」をするために生きています。

体験をするためには肉体を生き長らえさせることが必要になります。
それだから、お金や時間が大切なものとなるわけです。

体験をすることが主です。

言うまでもなく生活維持が大前提ですから何でもかんでも無計画にやっていいという話ではありませんが、どこまでいっても優先されるべきは体験
することにあります。

だからこそ、三日坊主で終わってもいいのです。

たとえ一回であってもそれは体験になります。
何もしないゼロというのが最悪です。
根源にとって、お金だ時間だというのは何の言い訳にもなりません。

故郷に戻った時に、あんなことした、こんなことしたと振り返られることこそ喜びなのです。

この先っぽに縛られ振り回されるのは本末転倒でしかありません。
この世の下に広がっているのが本当の私たちです。
広大な私たちが求めているのは、この先っぽでの「体験」です。


出来ることがあるならそれをやればいい。
出来ない理由を探すことはありません。

よく遊び、よく学べとはそういうことです。

私たちは夜な夜な故郷に帰り、そこで伸び伸びと全身を広げて深呼吸しながら、あんなことしたこんなことしたと喜びに浸ります。

そして夜が明けるとまたこの平面世界へ戻り、あんなことやこんなことを満喫するわけです。

この世界はあくまで外出先です。

苦しい仕事、苦しい生活、苦しい人間関係、それらは全て「体験」として昼間の世界で味わっているものです。

それが私たちの全てではありません。
この世とは私たちのほんの先っぽに過ぎません。
それが全てだと思うと、全身がそこにロックされてしまいます。

真面目に生きるのは大事なことですが、それは程度問題です。
真面目に生きることが第一義になってしまうと、それはナビの壊れた迷走車と化してしまいます。

どう転んだところで私たちは故郷に戻るだけなのです。
この先っぽというのはいずれは失うものです。

だったら、やりたいようにやればいいじゃないですか。





幾重にも重なる世界といってもそこに区切りがあるわけではありません。

それらは同時に存在していますし、同じ場所に存在しています。
意識がそこへ向くことで瞬時に繋がることができます。

階層というと高低差を浮かべがちですが、実際はより微細になっていくだけのものです。

意識を向けるというのも、心に思い浮かべたり向きを合わせるということではなく、自身も同じ微細さになるということです。

ラジオも周波数を合わせていくと徐々にノイズが減っていきピッタリ同じになった瞬間スーっと晴れ渡ります。
波と波が同じ波形になると同調してクリアになります。

ここでの周波数とは振動数のことであり、つまりエネルギーのことを意味しています。

雑味が多いとエネルギーは小さくなってしまいますが、より微細になるほどエネルギーは本来の大きさを取り戻して行きます。

他の階層というのは、振動数が違う世界と言うことができます。
つまりそれぞれが違うエネルギーに満ちた世界ということです。


田舎に帰ると故郷の空気にホッとするのは、地上だけでなくいくつもの層でシンクロするからです。
普段は感じませんが、海外から日本に戻った時もやはり芯の部分でジンワリと感じるものがあります。
また、きちんとした神社の境内に行くと何とも言えぬフワーッとした心地になります。

みんな同じことです。

どれも私たちの深いところに満ち満ちているエネルギーにシンクロしたという点で共通しています。

様々な神様というのは個としての存在ではなく、状態、次元そのもの、つまりエネルギーということです。
私たちの、芯の芯の芯に広がる次元なのです。

粗々しい心がスーッと落ち着いて微細になると、まわりの壁が祓われていきます。
そうしてその次元へ同化した瞬間、何かに優しく包まれたような感覚になります。

数多の神様の中で天照大御神は皇祖神であり、私たち日本人にとって極めて縁深い神様でいらっしゃいます。

伊雑宮を訪れた時に、懐かしいという言葉の何十乗倍もの感覚に包まれ、全身の細胞が芯から震えて涙が溢れだしました。

感応するというのは、個としての存在に対峙することではなく、私たちがそのままその次元にシンクロすることです。
そのエネルギーに満ち満ちた次元があるわけです。

その存在が近くにお見えになるのではなく、次元すべてが天照大御神様という世界、すなわちそのエネルギーに満ち溢れた世界へ、私たちが赴く
ということです。


誰もが、もともとそこに居た
そこから今この現実に来ている
いや、今もそこに繋がっている
繋がったまま、今ここがある
そのエネルギーは私たちそのもの
私たちの奥底にはそのエネルギーが広がっている



それは何も特別なことではありません。
誰か特定の人に限った話などではないわけです。
感応するしないというのは表面的なことに過ぎません。
この世がそのような成り立ちになっているという事実は、私たちすべてに共通することです。

あらゆる次元が織り重なって今ここがあります。

それぞれの次元は各層のエネルギーに満ち溢れています。
天照大御神のエネルギーに満ちた世界があるように、別のエネルギーに満ちた世界もあります。
どの次元がどれより上という話ではありません。
上も下も、縦も横もなく、同時に存在しています。

微細さと感性によって縁付き、受け手の状態によって感じ方も変わります。
色として感じたり、肌感覚として感じたり、人のイメージとして感じたりします。
もとよりエネルギーですから形というものはありません。

個ないし人の形として感応したエネルギーというのは、その次元から湧き出した湧出口のようなものです。
ポコっと突き出した窓や扉のようなものです。

実際のエネルギーは遥かな次元に広大に満ち満ちています。

神様とは遥か高みにあられる外の存在ではなく、私たちの内にあられる存在です。
私たちの深い深いところにそのエネルギーが満ち満ちています。

深い深いところで私たちは何万ものエネルギーに守られています。

私たちは無限の深みの上に立つ氷山の一角なのです。

「天上天下唯我独尊」とは私たち一人一人のことを言っています。
一本柱が貫くすべての次元において、私たち一人一人が尊い存在なのです。

この世界というのは、たかが氷山の一角です。
しかしながら、されど氷山の一角でもあります。

毎朝毎晩、私たちは生まれ戻っています。

「ここだけしか無い」と思うとしんどくなります。
それは小学生や中学生にとっての学校生活のようなものです。
そこが人生のすべて、世界の全てと思うと、些細なことでも絶望的な苦しみと化します。

学校だけがすべてではないように、この世界だけがすべてではありません。


「子供らよ、世界は広い
学校だけが全てではない
苦しみに目をつぶれとは言わないが
必要以上に大きくすることはない
一度でいい、広い外へ目を向ければ
その傷が限定された世界のものと知るだろう」


学校に苦しむ子供が目の前に居れば、そのような言葉で励まそうとするでしょう。
そしてそれは、私たちに対して向けられた言葉でもあるわけです。

この世とは、たかが氷山の一角での出来事です。
もっと気持ちをラクに、もっと大きな心で、今日という日を過ごす。
そして夜になればまた故郷に戻ってリセット充電です。

ですから、どんなにツラい状況にあったとしても今日の一日だけを考えればいい。
今日さえ終われば、完走おめでとうです。

日々が連続しているなんていうのは、体験のためのただの方便に過ぎません。
明日のことは明日に任せていい。
いま考える必要はまったくないのです。

この世界というのは、砂漠の中のケシ粒のようなものです。
そして今日というのは、今日限定の体験ワールドです。
仕事も家事も生活も遊びも、全部、遊びなんです。

だから、何度でも繰り返します。

やりたいようにやればいい。

誰にも怒られたりしません。
ガッカリされたりもしません。
むしろ、みんな大ハシャギで手を叩いて喜ぶでしょう。





(おしまい)



食う、寝る、遊ぶ

2019-05-12 20:42:01 | 天地の仕組み
今ココというのは様々な世界が折り重なって成り立っています。

この世というのもその一つですし、あの世もそうです。
私たちの肉体、私たちの心、私たちの魂も、それぞれ別の次元にあって、今ここで一つに繋がっています。

スクリーンに映された映像も、それを映す映写機も、それを見る観客も、それぞれ異なる次元、異なる層にあります。

そしてそれら全ての層を貫く一本柱、それが私たちです。
天の御柱とはまさに私たちのことを言っています。

あらためて、魂と心と肉体について考えれば「違う次元のものが一つに繋がっている」ということは感覚的に分かります。

私たちというのは、今ここにポツンと存在しているのではありません。

私たちは根源からこの世に至るまですべてを貫いています。
つまり、そのすべてに同時に存在しているわけです。

実際、この世で活動している時は地上にいますが、寝ている時は深みへ降りていく感じ、あるいは天高くへ上がっていくような感覚を持つところ
でしょう。

寝ている時というのは、私たちは一本柱の中でも普段とは違うポイントに行きます。

布団で落ちる時の感覚を今一度振り返ると、意識が薄れるというのは雑味がなくなって薄まっていくような感じになります。

微細になるということは、よりミクロな世界へ行くということです。
ミクロの世界というのは障害物のない状態ですから、天地の果てまで突き抜けた感覚に成ります。

ですから、より深みへ深まっていくとともに、天高くへ上がって行く感覚になっていくわけです。

起きている時、私たちは一本柱の突き出した地に足を着けて、平面方向に360度見渡すような状態になっています。
逆に言えば、そこだけにロックされた状態になります。

これはその階層に在る肉体というものに私たちが意識をロックしているからです。

寝ることによってそのロックが解除され、他の階層へ自由に行くことが出来るようになります。





この地上に様々な人たちが居るように、別のフロアにも様々な存在が居ます。

別次元の存在というと何だか怖い感じもしますが、それはこの世界でも他の大陸に行けば肌や髪色の異なる人たちが居るのと何ら変わりありません。

幕末の庶民はいまだ見ぬ異人の姿を妖怪や化け物のように描きましたが、もし異次元の存在へ恐怖心を抱くとしたらそれと同じ話であるわけです。

異国の人たちが根っこで繋がった「私たち」であったように、別の次元の存在たちもまた根っこで繋がった「私たち」です。

スクリーン映像を観覧する席へ行くと、そのような私たちがズラッと座っています。
それらは他人であって他人ではない、すなわち私たち自身です。

寝ている時の私たちは一本柱の深みへと静まっていき、自由自在に様々な交流をしていますが、そうした観客席に座ってスクリーンを観覧すると
いうのもその一つであるわけです。

このような話をしますと、時節柄、大嘗祭という神事が頭に浮かんでまいります。

大嘗祭とは新たに即位された天皇陛下の初めての新嘗祭、つまり初めて新米を神へ捧げる儀式とされます。

新嘗祭については初穂の実りを感謝する収穫祭としての意味合いが強いところですが、そもそも御饌(みけ:神に供える食べ物)というのは直会
(なおらい:神饌を食す行事)とセットのものです。
大嘗祭に関しては、むしろこの直会にこそ主眼があると言えます。

すなわち、神へ捧げた食事を共に食し、そして共に寝ることで神と一体となるというものです。

そう聞くと、古くさい迷信や単なる宗教儀式、伝統行事と思って即刻スルーしてしまいがちですが、その中身はとても先進的で科学的なものだと言えます。

共に食すことで物質を取り巻く次元でシンクロし、共に寝ることでさらに深みの次元でシンクロします。

みんなで鍋をつつくと心の距離が近づいて仲間意識が高まりますが、これも直会の原理が働いています。

同じ空間で、同じ時に、同じ鍋から、同じものを食す。

野性においても食事という行為は、睡眠に次いで生物が無警戒になっている時です。
そこに100%集中するということは、壁を無くした丸裸の状態になるということです。

壁を無くしてフルオープンの状態で味わっている時、私たちはロックが外れて物理次元だけでなく他の層まで開いた状態になっています。

つまり誰かと向かい合って同じものを食べると、複数の層でシンクロした状態になるということです。
同じ釜の飯を食べた仲という戦友同士の言葉がありますが、もう理屈抜きで仲間意識が深まりお互い強い絆で結ばれるわけです。

貴族社会のパーティーやサラリーマン社会の接待なども同じ理屈によるものです。
食べるという行為はリラックスそのものであり、胸襟を開くことになります。

そもそも、全ての生き物にとって食事というものが単なる生命維持のための行為であるならば、無防備になるという生命の危険を冒すようなことは
やらないはずです。

味わうことなく乱暴に短時間で終わらせるように私たちも含めて進化していたでしょう。
そうではないということは、ただ物質的な栄養を摂るだけでなく、他の理由もあったということです。
つまりは他の層における交流、すなわち自分の中での循環であり、天地との交流であり、そこには捕食仲間だけでなく被食者すら含まれるという
わけです。

食べ物に感謝をして、しっかり味わうということは全ての生き物に共通する基本です。
味わわずにかっこんだり、テレビを見ながら食べるというのはこの基本に反してしまいます。

同じお店の料理を、仕事の接待などのかしこまった席で食べるのと、気心の知れた身内で食べるのとでは本当に美味しさが変わるはずです。

食べるという行為は、この次元だけで完結しているものではないわけです。

ちなみに、正月おせち料理というのも歳神様と食を共にする神事です。
祝い箸が上下両方とも使えるようになっているのは神様と自分でそれぞれ使うためのものです。

そうと知らなくとも私たち日本人はみんな、毎年、神人一体を経験しているということです。





大嘗祭においてはそうした「共に食べる」という行為に加えて、さらに「共に寝る」ということが大切な要素となります。

歴代天皇も、大嘗宮に入られて(そこで寝て起きて)出てこられた時には本当に異なるたたずまいに成られたと言います。

寝るという行為は、より深い次元でのシンクロを意味します。

ですから大嘗祭における変化というのは、決して別の存在が乗り移ったということではなく、高次の存在にシンクロして振動数が変わったことに
よるものと言えます。

そういう意味では神事の前と後でも、同じ個であることに変わりないと言えますし、しかしながら異なる存在になったと表現することもできる
わけです。

大嘗祭が一代一度限りであるのはそういう理由からです。

なお、新嘗祭が宮中三殿で行われるのに対して、大嘗祭が大嘗宮という大規模な祭場を新設して行われるのは最上の客をお迎えするためのもの
だからです。

これを天皇陛下のため、あるいは単なる儀式のためと考えると、贅沢だの華美だのという損得論が始まってしまいます。

例えば人間社会においても、外国から大切な方が来日した時には国賓として最上級のおもてなしをします。
それを贅沢ではないかとケチつけて安くあげるのは野暮というものです。

もちろん、お金をかければいいというものでもありません。

私たち個人に当てはめても、本当に大切な人を迎える時は、まず喜んでもらいたいという気持ちが先にあります。
お金にモノを言わせて豪華にすればいいということではなく、相手のことを本当に敬うなら自分のできる精一杯をやろうと考えるわけです。

それは理屈などではなく、そうせずにはいられないものです。

人間相手でさえそうなのですから、ましてや相手が神様となれば尚更です。
誠意の問題ですから、豪華にしようとか安く済ませようとかそういう発想にはなりません。

こうした論議は、そもそも大嘗祭が何のためのものであるかを前提にしなければ成り立たないものです。
つまりは宗教的儀式であることを前提にしなければ成立しないものです。

しかし政教分離の観点から、国事行為としてはそれを認めることができません。
結果、分からない人には余計分からなくなってしまい、無駄遣いだ何だという話になってしまいます。

そういう意味では、これが国事行為ではなく身内の私的行為であれば、宗教的儀式であることを公にすることができ、誠意を尽くしていれば対応
可能な範囲に縮小されても失礼にはあたりません。

ただ繰り返しになりますが、ひとたび国事行為と決めたなら、これは誠心誠意できるかぎりのおもてなしでお迎えすることが必要となります。
金額の問題ではありません。今さらあれこれケチをつけることは無礼の上塗りになるだけです。

そうして、客人(神)が帰られれば、建物は素に戻ります。
他のことに使いまわすのは尊い存在を貶めることになるからです。

日本は遥か太古から千年二千年とこうした神事を引き継ぐことによって守られてきました。
今こうして国が平和に続いていることが証拠です。

それに対して今の憲法というのは、わずか70〜80年前に占領軍がたったの9日で急ごしらえした寄せ集めに過ぎません。
全否定するつもりはありませんが、全肯定してしまっては国を危うくするだけです。

歴史という側面からしても、今この時というのは氷山の一角です。
今の私たちが自分たちの力だけで生きていると思うのは愚かしいことです。

私たちは誰もが先人たちの叡智によって生かされています。

そのことに対して謙虚になるのが私たちが第一に為すべきことでしょう。





さてだいぶ脱線してしまいましたので、もう一度話を戻したいと思います。

私たちは毎晩寝て落ちますと、深い次元でシンクロ状態となります。
譬え話として挙げた一つに、大型スクリーンの客席というものがありました。

客席の面々は、過去の私たちであったり未来の私たちであったり、あるいは遠い地の私たちであったり、座標と時間軸の異なる様々なパターンの
私たちであったりします。

はなっから一つの心ですから、スクリーンを観る時は、まさに心が一つになっています。

一緒に泣き笑い、拍手し、ブーイングをする。
これを画面の自分に浴びせられたものと捉えると地獄のような恥ずかしさに思うでしょう。
死後の閻魔様とはまさにこの状態を指しています。

でもそれは決して自分一人をあげつらって非難するようなものではなく、共に参加する仲間たちがそれぞれ自分自身を応援する姿であるわけです。

我がこととして厳しい言葉を投げかけもしますが、誰にも負けない一番の応援団です。

それは故郷の仲間たち、故郷の家族たちそのものです。

故郷というものを今一度考えますと、それは現実の物理世界だけでなく、それよりも深い次元まで広がって繋がっているものです。
私たちが故郷に帰るとホッとするのは、雑味が無いまま幾つもの階層までフルオープンで広がるからです。

スクリーンをみる観客席というのもまさにそれと同じ状態と言えます。
ハラハラドキドキしながら眺めている。
勝とうが負けようがどっちでもいい。
プレーを見ているだけで嬉しい。

その繋がりというのは現実世界の故郷よりもさらに深く幾層にも渡っています。
ですからそこに行った瞬間、私たちは本当の故郷を感じるのです。

スクリーンの上で私たちはバラバラの存在を演じていますが、幾層も降りていけばみな一つとなります。

「私たち」というのは複数名詞ではありません。
「私たち」という一人称であるわけです。






(つづく)