学生の頃に好きだったチャンポン屋へ久しぶりに行きました。
店に入った瞬間、何か白っぽいというか冷ややかな感じがして、一瞬「ん?」と思いました。
普段は気にもしませんが、飲食店にせよ販売店にせよ、小慣れた空気感というものがあります。
そのいつもなら当たり前にやってくる感覚が来なかったために何とも言えない違和感を覚えました。
ただその時は「改装したばかりなのかな」くらいにしか思わずに、すぐ忘れてしまいました。
そのあと出てきたチャンポンは、昔と変わらない味でした。
確かに変わらないのですが、でもやはり何か違和感がありました。
言葉で表現できないけど何かが違う。
のっぺりしているというか、向こうから来るものがなくてシーンと静まり返っている感じでした。
そう、この時まで気がつきませんでしたが、いつも当たり前に食べている料理というのは、実はその料理から「何か」が溢れ出ているのです。
美味しかろうとマズかろうと、味や香り以外の何かがそこから伝わってきているのです。
その何かが、この時はシーンとして居て、無反応に近い感覚だったのでした。
この不思議な感覚のわけは、後日、テレビを見て分かりました。
そのお店の厨房では、あらゆる料理が全て自動化された機械で作られていたのでした。
人は最初にビニール袋を破って具材を鍋に入れるだけ。
あとはノータッチで、炒めるも火加減も全て機械がやってくれる。
出来上がりの合図があるまでは完全に放置状態なのでした。
機械だろうと人だろうと、物理的には同じ動きです。
時間も量も熱の伝わり方も全て計算上は同じになるように設計しつくされていました。
ですから、確かに味はそこそこでした。
でも何か違う。
味ではない何かが。
世の中には美味しいお店もあれば、イマイチのお店もあります。
でもどんな料理であっても、人の手を介すことで見えない何かが加わっていることを生まれて初めて知りました。
全てがオートフォーメション化された調理場は、まるで工場か実験室のように見えました。
おそらく食中毒にならないようにピカピカに消毒もされているのでしょう。
その無機質な空気は研究所や病院にとてもよく似たものでした。
店に入った時の「おや?」という空気感はまさにそれだったわけです。
手を介すというのは、そこに心が流れるということでもあるわけです。
ボーッとしたり目を切ったりしたら、それは成りません。
「心を向ける」ことが、目に見えない結果となって現れるということです。
身近な例で言えば、自宅で入れるコーヒーにもそれを見ることができます。
お湯が減っていくのをジーッと見つめながら継ぎ足して淹れるのと、何か他のことをしながら片手間にやるのとでは、仮に全く同じタイミングでやったとしても明らかに風味が違ってきます。
香りが繊細な豆であれば、その違いは一層はっきりすることでしょう。
注ぐ量やタイミングといった物理的もの以外の「何か」がそこにあることは、コーヒー好きな方ならば経験的に分かるのではないかと思います。
同じように、適当に作った料理と真心こめて作った料理とは天地ほど違ってくるのも、単なる火加減や味付けの差だけでは無いということです。
体調が悪い時に作る料理の味はイマイチになってしまうというのも、単なる味覚不良による味付けの違いではなく、心が朦朧としていること、
心がしっかり向いていないことが大きく影響しているのかもしれません。
武道でも「心を切らない」というのは基本中の基本です。
それは「心を変えない」と表現することもできます。
投げてやろう、倒してやろう、こうしてやろうという心は天地自然に反する心であるため、相手に反発心を起こさせて逆の結果となってしまい
ます。
美味しくしてやろう、自分の腕前を見せてやろうという心もまた、天地自然に反する我執のため、逆の結果しか生まないことになるでしょう。
少し脱線しますが、20年ほど前にこんなエピソードがありました。
仲間内でワイワイと団欒している時、不思議なこと大好きオジさんが、“何も触らずにコップの水の味を変える”と言い出しました。
さすがにあまりの唐突な展開に、みんな「エッ」となりました。
少し離れたところからコップに向かって何かを込めるような眼差しで2、3秒ほど見つめて「ハイ飲んでみて下さい」となったわけですが、
それを飲んだ人たちは「??」「変わらないですけど??」という反応でした。
そんなはずはなかろうと、本人は慌ててそれを飲んで言った一言は、
「イヤ、美味しくなってるよ」
みんな、阿藤快のようにナンダカナ~という顔で苦笑いをするしかありませんでした。
話はそれで終わりなのですが、今になってみるとそれこそ間違ってはいなかったと思うのです。
つまり、心を向けることで目に見えない影響を与えるというところまでは。
ただそこで「こうしてやろう」「いいとこ見せよう」と我欲を起こしてしまったために、逆の結果になってしまっただけです。
余計なコメントなどせず、ただみんなに美味しく飲んでもらおうと思ったならば、それは叶っていたのではないかと思います。
真心というのは「誰かのために」という透明な心です。
「自分のために」というのはそこに殻を作ってしまいますが、それとは逆の方向にむかうと壁は消えて天地そのものとなっていきます。
まさしく透明な心。
幼い頃に笑顔で叫んだ「美味しくなーれ」という純粋な思いこそが、真心の原点であるわけです。
評価を期待したり不安がったりすると、たちまち違うものになってしまいます。
ただ、相手を思うだけです。
母親が作る故郷の味というものも、食べ慣れた味だからという理由だけではなく、そこに込められた真心というものを私たちは喜びとして感じて
いるのではないかと思います。
家庭料理にせよ、お店の料理にせよ、評価を得たいという思いではなく、相手が喜んでくれると嬉しいという純粋な思いが、そのまま幸せ溢れる
味わいとなっているということです。
これは料理に限らず、あらゆる物事に共通することではないかと思います。
食べるという行為は私たちの命に関わる本能的なものですから、感覚的なわずかな差でも私たちは「なんとなく」分かるわけですが、料理以外
であっても理屈は一緒です。
人が介在する行為には全てその心が映る。
料理のように敏感に感じ取れなくても万事そうなっているということです。
冷静に考えると、この世の中というのはどんな些細なことであっても、そこに人が介在しないものはありません。
商品はもちろん、仕事であっても、あるいは人づきあいであっても、あらゆる物事に人が介在しています。
人の思いというのはエネルギーそのものです。
想いを込める、気持ちを込めるということは、物理現象として確実に存在するわけです。
たとえば私たち日本人というのは昔から空間を大切にする民族でした。
広がりの中に感覚を捉え、間合いを取ったり、床の間を設けたり、花を生けたりしてきました。
あるいは、神社の本殿の空間、神棚のお札を納める空間、神輿の中の空間などもそうです。
そこへ心を向けることでエネルギーが充満し、あるいは浄められ、練られた氣が込められます。
日常生活ですら心が作用するのですから、神様に関わることとなれば尚更そうでしょう。
神棚や本殿に手を合わせる時、特別な言葉や所作が無くとも、我欲をなくした素のこころにあればそれだけで天地と溶け合い、神様の心そのもの
となって受け取って下さるということです。
「空間」というのは「空」と「間」です。
どちらも目に見えないものです。
見えるものを目にすると心に限定が生じます。
全ては逆なのです。
見えないところ、見えない状態にこそエネルギーが満ちるということです。
目に見えるから確実なのではなく、むしろ見えないからこそ、そこに確実にエネルギーが在る。
食を通じて、私たちはそのことを日々実感しているわけです。
私たちの心は、知らず知らずのうちに生活のあらゆるものに注がれていきます。
もしもそれが色として見えたならば、それはもの凄い勢いで二重三重に色付いていることでしょう。
「自分のために」と思うか「誰かのために」と思うか、それによって色合いや味わいが天地の違いとなる。
私たちの関わるあらゆるものへ味わいが付与されていきます。
綺麗な色あい、幸せな味わい、そういうものがいいと思えたならば、きっと私たちはいつでも真心を向けていられるのではないかと思います。
ただ誰だって、時にはイライラしたり我利我利したりすることもあるでしょう。
だって人間だもの、と。
でもそんなイマイチな色がついてしまったとしても、それを嫌って何も色をつけないのよりは遥かにいいと思います。
一番つらいのは、心を注がぬ無色透明な料理です。
愛の反対は憎しみではなく無関心と言われる、まさにそれです。
マイナスを嫌って、及第点狙いの無感情というのは最悪と言えます。
無関心とは全く心を向けない状態のことです。
イジメの中でも一番ツラいイジメは無視することであるように、それは、汚したり傷つけたりするよりも重いことです。
何故ならば、この世に存在するということはすなわち魂の交流であるからです。
交流できないということは、存在そのものの息の根を止めるに等しいということです。
ポジティブであろうとネガティヴであろうと交流は交流です。
人を傷つけるということも、交流の一形態であるわけです。
私たちが生きていくということは、一瞬一瞬に何かしらの色を注ぐことでもあります。
生きるというのはそういうことだと思います。
関わらずにスルーするというのは、決してニュートラルな心ではありません。
関わらない心というのは、無関心ということです。
ニュートラルというのは、見ないということではなく、見たものを止めずにそのまま通すことです。
私たちを取り囲むあらゆるものというのは、まさにご縁そのものです。
この世に存在するということは、嫌でもご縁を紡ぐことになります。
つまり、生きるというのは「あらゆるものと関わる」ということと同義なのです。
無関心や無感情というのは、生きることを放棄することに他ありません。
良くも悪くも、関心をもって生きる。
こちらから心を通わせて生きる。
多種多様な彩りに囲まれながら、私たちはそれらを味わって生きています。
息をするのが身体を生かすことになるのと同じように、味わうことが私たちをこの次元に存在させることになります。
存在するとはそういうことです。
単一的な淡白な味付けではなく、ごちゃ混ぜのチャンポン状態を噛み締め、味わっているわけです。
この世界は真っ白な実験室ではありません。
心のない無味無臭の世界など、私たちは望んでいないのです。
そこに人が介在して、様々に個性あふれる味がごちゃ混ぜになってこその「チャンポン」なのです。
私たちが普段何気なく浮かべる思いは、確実にまわりのあらゆるものへと注がれています。
それは決して襟を正して清らかな心を注がなければいけないということではありません。
なんだっていいんです。
様々な思いが幾重にも重なった方が、味わい深いチャンポンが出来あがるというものです。
とにかく心の抜けた全自動モードの調理だけは頂けないということです。
調理が下手くそだったとしても、しっかりと心だけは向ける。
無思考のままにパブロフの犬のように過ごしてしまうのは避けた方がいい。
上手か下手かではなく、また綺麗か汚いかでもなく、大切なのは「しっかりと関わる」「しっかりと心を向ける」ということです。
目の前に並んだ料理を無視したり忌避したりせず、またそれを抱え込んだりもせず、スッと口へ運んで静かに味わう。
それが苦悩を手離した生き方というやつであるのは確かです。
理想はそうなのでしょうが、それはまたそれ。
そこまでストイックを目指さなくても、ここはひとまず口に運んで美味いのマズいの騒ぎ立てる方が、人間らしくてずっとイイように思えます。
苦悩を全て無くそうとしなくとも、ほどほどならばそれはそれでいい味わいを出すものです。
五つ星の高級ホテルの美しいディナーにせよ、見た目ごちゃ混ぜC級グルメにせよ、それぞれに良さがあります。
どれが正解というのは無いわけです。
誰かが何かを美味そうに食べていようとも、自分が幸せに感じるものが今ここでのご縁です。
A級だろうとC級だろうと、美味しいものというのは例外なく様々な味が複雑に絡み合っています。
見た目が綺麗か汚いかよりも、核心はそこにあります。
せっかく味わうのならば、能面のような顔で淡々と食べるのではなく、驚き喜び、一喜一憂しながら食べた方がこの時間をずっと楽しく過ごせる
のではないかと思います。
酸いも甘いも、一言ではいえない複雑な味わいこそがこの世の醍醐味であるわけです。
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店に入った瞬間、何か白っぽいというか冷ややかな感じがして、一瞬「ん?」と思いました。
普段は気にもしませんが、飲食店にせよ販売店にせよ、小慣れた空気感というものがあります。
そのいつもなら当たり前にやってくる感覚が来なかったために何とも言えない違和感を覚えました。
ただその時は「改装したばかりなのかな」くらいにしか思わずに、すぐ忘れてしまいました。
そのあと出てきたチャンポンは、昔と変わらない味でした。
確かに変わらないのですが、でもやはり何か違和感がありました。
言葉で表現できないけど何かが違う。
のっぺりしているというか、向こうから来るものがなくてシーンと静まり返っている感じでした。
そう、この時まで気がつきませんでしたが、いつも当たり前に食べている料理というのは、実はその料理から「何か」が溢れ出ているのです。
美味しかろうとマズかろうと、味や香り以外の何かがそこから伝わってきているのです。
その何かが、この時はシーンとして居て、無反応に近い感覚だったのでした。
この不思議な感覚のわけは、後日、テレビを見て分かりました。
そのお店の厨房では、あらゆる料理が全て自動化された機械で作られていたのでした。
人は最初にビニール袋を破って具材を鍋に入れるだけ。
あとはノータッチで、炒めるも火加減も全て機械がやってくれる。
出来上がりの合図があるまでは完全に放置状態なのでした。
機械だろうと人だろうと、物理的には同じ動きです。
時間も量も熱の伝わり方も全て計算上は同じになるように設計しつくされていました。
ですから、確かに味はそこそこでした。
でも何か違う。
味ではない何かが。
世の中には美味しいお店もあれば、イマイチのお店もあります。
でもどんな料理であっても、人の手を介すことで見えない何かが加わっていることを生まれて初めて知りました。
全てがオートフォーメション化された調理場は、まるで工場か実験室のように見えました。
おそらく食中毒にならないようにピカピカに消毒もされているのでしょう。
その無機質な空気は研究所や病院にとてもよく似たものでした。
店に入った時の「おや?」という空気感はまさにそれだったわけです。
手を介すというのは、そこに心が流れるということでもあるわけです。
ボーッとしたり目を切ったりしたら、それは成りません。
「心を向ける」ことが、目に見えない結果となって現れるということです。
身近な例で言えば、自宅で入れるコーヒーにもそれを見ることができます。
お湯が減っていくのをジーッと見つめながら継ぎ足して淹れるのと、何か他のことをしながら片手間にやるのとでは、仮に全く同じタイミングでやったとしても明らかに風味が違ってきます。
香りが繊細な豆であれば、その違いは一層はっきりすることでしょう。
注ぐ量やタイミングといった物理的もの以外の「何か」がそこにあることは、コーヒー好きな方ならば経験的に分かるのではないかと思います。
同じように、適当に作った料理と真心こめて作った料理とは天地ほど違ってくるのも、単なる火加減や味付けの差だけでは無いということです。
体調が悪い時に作る料理の味はイマイチになってしまうというのも、単なる味覚不良による味付けの違いではなく、心が朦朧としていること、
心がしっかり向いていないことが大きく影響しているのかもしれません。
武道でも「心を切らない」というのは基本中の基本です。
それは「心を変えない」と表現することもできます。
投げてやろう、倒してやろう、こうしてやろうという心は天地自然に反する心であるため、相手に反発心を起こさせて逆の結果となってしまい
ます。
美味しくしてやろう、自分の腕前を見せてやろうという心もまた、天地自然に反する我執のため、逆の結果しか生まないことになるでしょう。
少し脱線しますが、20年ほど前にこんなエピソードがありました。
仲間内でワイワイと団欒している時、不思議なこと大好きオジさんが、“何も触らずにコップの水の味を変える”と言い出しました。
さすがにあまりの唐突な展開に、みんな「エッ」となりました。
少し離れたところからコップに向かって何かを込めるような眼差しで2、3秒ほど見つめて「ハイ飲んでみて下さい」となったわけですが、
それを飲んだ人たちは「??」「変わらないですけど??」という反応でした。
そんなはずはなかろうと、本人は慌ててそれを飲んで言った一言は、
「イヤ、美味しくなってるよ」
みんな、阿藤快のようにナンダカナ~という顔で苦笑いをするしかありませんでした。
話はそれで終わりなのですが、今になってみるとそれこそ間違ってはいなかったと思うのです。
つまり、心を向けることで目に見えない影響を与えるというところまでは。
ただそこで「こうしてやろう」「いいとこ見せよう」と我欲を起こしてしまったために、逆の結果になってしまっただけです。
余計なコメントなどせず、ただみんなに美味しく飲んでもらおうと思ったならば、それは叶っていたのではないかと思います。
真心というのは「誰かのために」という透明な心です。
「自分のために」というのはそこに殻を作ってしまいますが、それとは逆の方向にむかうと壁は消えて天地そのものとなっていきます。
まさしく透明な心。
幼い頃に笑顔で叫んだ「美味しくなーれ」という純粋な思いこそが、真心の原点であるわけです。
評価を期待したり不安がったりすると、たちまち違うものになってしまいます。
ただ、相手を思うだけです。
母親が作る故郷の味というものも、食べ慣れた味だからという理由だけではなく、そこに込められた真心というものを私たちは喜びとして感じて
いるのではないかと思います。
家庭料理にせよ、お店の料理にせよ、評価を得たいという思いではなく、相手が喜んでくれると嬉しいという純粋な思いが、そのまま幸せ溢れる
味わいとなっているということです。
これは料理に限らず、あらゆる物事に共通することではないかと思います。
食べるという行為は私たちの命に関わる本能的なものですから、感覚的なわずかな差でも私たちは「なんとなく」分かるわけですが、料理以外
であっても理屈は一緒です。
人が介在する行為には全てその心が映る。
料理のように敏感に感じ取れなくても万事そうなっているということです。
冷静に考えると、この世の中というのはどんな些細なことであっても、そこに人が介在しないものはありません。
商品はもちろん、仕事であっても、あるいは人づきあいであっても、あらゆる物事に人が介在しています。
人の思いというのはエネルギーそのものです。
想いを込める、気持ちを込めるということは、物理現象として確実に存在するわけです。
たとえば私たち日本人というのは昔から空間を大切にする民族でした。
広がりの中に感覚を捉え、間合いを取ったり、床の間を設けたり、花を生けたりしてきました。
あるいは、神社の本殿の空間、神棚のお札を納める空間、神輿の中の空間などもそうです。
そこへ心を向けることでエネルギーが充満し、あるいは浄められ、練られた氣が込められます。
日常生活ですら心が作用するのですから、神様に関わることとなれば尚更そうでしょう。
神棚や本殿に手を合わせる時、特別な言葉や所作が無くとも、我欲をなくした素のこころにあればそれだけで天地と溶け合い、神様の心そのもの
となって受け取って下さるということです。
「空間」というのは「空」と「間」です。
どちらも目に見えないものです。
見えるものを目にすると心に限定が生じます。
全ては逆なのです。
見えないところ、見えない状態にこそエネルギーが満ちるということです。
目に見えるから確実なのではなく、むしろ見えないからこそ、そこに確実にエネルギーが在る。
食を通じて、私たちはそのことを日々実感しているわけです。
私たちの心は、知らず知らずのうちに生活のあらゆるものに注がれていきます。
もしもそれが色として見えたならば、それはもの凄い勢いで二重三重に色付いていることでしょう。
「自分のために」と思うか「誰かのために」と思うか、それによって色合いや味わいが天地の違いとなる。
私たちの関わるあらゆるものへ味わいが付与されていきます。
綺麗な色あい、幸せな味わい、そういうものがいいと思えたならば、きっと私たちはいつでも真心を向けていられるのではないかと思います。
ただ誰だって、時にはイライラしたり我利我利したりすることもあるでしょう。
だって人間だもの、と。
でもそんなイマイチな色がついてしまったとしても、それを嫌って何も色をつけないのよりは遥かにいいと思います。
一番つらいのは、心を注がぬ無色透明な料理です。
愛の反対は憎しみではなく無関心と言われる、まさにそれです。
マイナスを嫌って、及第点狙いの無感情というのは最悪と言えます。
無関心とは全く心を向けない状態のことです。
イジメの中でも一番ツラいイジメは無視することであるように、それは、汚したり傷つけたりするよりも重いことです。
何故ならば、この世に存在するということはすなわち魂の交流であるからです。
交流できないということは、存在そのものの息の根を止めるに等しいということです。
ポジティブであろうとネガティヴであろうと交流は交流です。
人を傷つけるということも、交流の一形態であるわけです。
私たちが生きていくということは、一瞬一瞬に何かしらの色を注ぐことでもあります。
生きるというのはそういうことだと思います。
関わらずにスルーするというのは、決してニュートラルな心ではありません。
関わらない心というのは、無関心ということです。
ニュートラルというのは、見ないということではなく、見たものを止めずにそのまま通すことです。
私たちを取り囲むあらゆるものというのは、まさにご縁そのものです。
この世に存在するということは、嫌でもご縁を紡ぐことになります。
つまり、生きるというのは「あらゆるものと関わる」ということと同義なのです。
無関心や無感情というのは、生きることを放棄することに他ありません。
良くも悪くも、関心をもって生きる。
こちらから心を通わせて生きる。
多種多様な彩りに囲まれながら、私たちはそれらを味わって生きています。
息をするのが身体を生かすことになるのと同じように、味わうことが私たちをこの次元に存在させることになります。
存在するとはそういうことです。
単一的な淡白な味付けではなく、ごちゃ混ぜのチャンポン状態を噛み締め、味わっているわけです。
この世界は真っ白な実験室ではありません。
心のない無味無臭の世界など、私たちは望んでいないのです。
そこに人が介在して、様々に個性あふれる味がごちゃ混ぜになってこその「チャンポン」なのです。
私たちが普段何気なく浮かべる思いは、確実にまわりのあらゆるものへと注がれています。
それは決して襟を正して清らかな心を注がなければいけないということではありません。
なんだっていいんです。
様々な思いが幾重にも重なった方が、味わい深いチャンポンが出来あがるというものです。
とにかく心の抜けた全自動モードの調理だけは頂けないということです。
調理が下手くそだったとしても、しっかりと心だけは向ける。
無思考のままにパブロフの犬のように過ごしてしまうのは避けた方がいい。
上手か下手かではなく、また綺麗か汚いかでもなく、大切なのは「しっかりと関わる」「しっかりと心を向ける」ということです。
目の前に並んだ料理を無視したり忌避したりせず、またそれを抱え込んだりもせず、スッと口へ運んで静かに味わう。
それが苦悩を手離した生き方というやつであるのは確かです。
理想はそうなのでしょうが、それはまたそれ。
そこまでストイックを目指さなくても、ここはひとまず口に運んで美味いのマズいの騒ぎ立てる方が、人間らしくてずっとイイように思えます。
苦悩を全て無くそうとしなくとも、ほどほどならばそれはそれでいい味わいを出すものです。
五つ星の高級ホテルの美しいディナーにせよ、見た目ごちゃ混ぜC級グルメにせよ、それぞれに良さがあります。
どれが正解というのは無いわけです。
誰かが何かを美味そうに食べていようとも、自分が幸せに感じるものが今ここでのご縁です。
A級だろうとC級だろうと、美味しいものというのは例外なく様々な味が複雑に絡み合っています。
見た目が綺麗か汚いかよりも、核心はそこにあります。
せっかく味わうのならば、能面のような顔で淡々と食べるのではなく、驚き喜び、一喜一憂しながら食べた方がこの時間をずっと楽しく過ごせる
のではないかと思います。
酸いも甘いも、一言ではいえない複雑な味わいこそがこの世の醍醐味であるわけです。
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