これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

ちゃんぽん

2016-05-23 22:29:17 | ひとやすみ
学生の頃に好きだったチャンポン屋へ久しぶりに行きました。

店に入った瞬間、何か白っぽいというか冷ややかな感じがして、一瞬「ん?」と思いました。

普段は気にもしませんが、飲食店にせよ販売店にせよ、小慣れた空気感というものがあります。
そのいつもなら当たり前にやってくる感覚が来なかったために何とも言えない違和感を覚えました。
ただその時は「改装したばかりなのかな」くらいにしか思わずに、すぐ忘れてしまいました。

そのあと出てきたチャンポンは、昔と変わらない味でした。
確かに変わらないのですが、でもやはり何か違和感がありました。

言葉で表現できないけど何かが違う。
のっぺりしているというか、向こうから来るものがなくてシーンと静まり返っている感じでした。

そう、この時まで気がつきませんでしたが、いつも当たり前に食べている料理というのは、実はその料理から「何か」が溢れ出ているのです。
美味しかろうとマズかろうと、味や香り以外の何かがそこから伝わってきているのです。
その何かが、この時はシーンとして居て、無反応に近い感覚だったのでした。

この不思議な感覚のわけは、後日、テレビを見て分かりました。
そのお店の厨房では、あらゆる料理が全て自動化された機械で作られていたのでした。

人は最初にビニール袋を破って具材を鍋に入れるだけ。
あとはノータッチで、炒めるも火加減も全て機械がやってくれる。
出来上がりの合図があるまでは完全に放置状態なのでした。

機械だろうと人だろうと、物理的には同じ動きです。
時間も量も熱の伝わり方も全て計算上は同じになるように設計しつくされていました。
ですから、確かに味はそこそこでした。

でも何か違う。
味ではない何かが。

世の中には美味しいお店もあれば、イマイチのお店もあります。
でもどんな料理であっても、人の手を介すことで見えない何かが加わっていることを生まれて初めて知りました。

全てがオートフォーメション化された調理場は、まるで工場か実験室のように見えました。
おそらく食中毒にならないようにピカピカに消毒もされているのでしょう。
その無機質な空気は研究所や病院にとてもよく似たものでした。

店に入った時の「おや?」という空気感はまさにそれだったわけです。

手を介すというのは、そこに心が流れるということでもあるわけです。
ボーッとしたり目を切ったりしたら、それは成りません。

「心を向ける」ことが、目に見えない結果となって現れるということです。

身近な例で言えば、自宅で入れるコーヒーにもそれを見ることができます。
お湯が減っていくのをジーッと見つめながら継ぎ足して淹れるのと、何か他のことをしながら片手間にやるのとでは、仮に全く同じタイミングでやったとしても明らかに風味が違ってきます。

香りが繊細な豆であれば、その違いは一層はっきりすることでしょう。
注ぐ量やタイミングといった物理的もの以外の「何か」がそこにあることは、コーヒー好きな方ならば経験的に分かるのではないかと思います。

同じように、適当に作った料理と真心こめて作った料理とは天地ほど違ってくるのも、単なる火加減や味付けの差だけでは無いということです。

体調が悪い時に作る料理の味はイマイチになってしまうというのも、単なる味覚不良による味付けの違いではなく、心が朦朧としていること、
心がしっかり向いていないことが大きく影響しているのかもしれません。

武道でも「心を切らない」というのは基本中の基本です。
それは「心を変えない」と表現することもできます。

投げてやろう、倒してやろう、こうしてやろうという心は天地自然に反する心であるため、相手に反発心を起こさせて逆の結果となってしまい
ます。
美味しくしてやろう、自分の腕前を見せてやろうという心もまた、天地自然に反する我執のため、逆の結果しか生まないことになるでしょう。


少し脱線しますが、20年ほど前にこんなエピソードがありました。

仲間内でワイワイと団欒している時、不思議なこと大好きオジさんが、“何も触らずにコップの水の味を変える”と言い出しました。
さすがにあまりの唐突な展開に、みんな「エッ」となりました。

少し離れたところからコップに向かって何かを込めるような眼差しで2、3秒ほど見つめて「ハイ飲んでみて下さい」となったわけですが、
それを飲んだ人たちは「??」「変わらないですけど??」という反応でした。

そんなはずはなかろうと、本人は慌ててそれを飲んで言った一言は、
「イヤ、美味しくなってるよ」

みんな、阿藤快のようにナンダカナ~という顔で苦笑いをするしかありませんでした。

話はそれで終わりなのですが、今になってみるとそれこそ間違ってはいなかったと思うのです。
つまり、心を向けることで目に見えない影響を与えるというところまでは。
ただそこで「こうしてやろう」「いいとこ見せよう」と我欲を起こしてしまったために、逆の結果になってしまっただけです。

余計なコメントなどせず、ただみんなに美味しく飲んでもらおうと思ったならば、それは叶っていたのではないかと思います。

真心というのは「誰かのために」という透明な心です。

「自分のために」というのはそこに殻を作ってしまいますが、それとは逆の方向にむかうと壁は消えて天地そのものとなっていきます。
まさしく透明な心。
幼い頃に笑顔で叫んだ「美味しくなーれ」という純粋な思いこそが、真心の原点であるわけです。

評価を期待したり不安がったりすると、たちまち違うものになってしまいます。

ただ、相手を思うだけです。

母親が作る故郷の味というものも、食べ慣れた味だからという理由だけではなく、そこに込められた真心というものを私たちは喜びとして感じて
いるのではないかと思います。

家庭料理にせよ、お店の料理にせよ、評価を得たいという思いではなく、相手が喜んでくれると嬉しいという純粋な思いが、そのまま幸せ溢れる
味わいとなっているということです。


これは料理に限らず、あらゆる物事に共通することではないかと思います。

食べるという行為は私たちの命に関わる本能的なものですから、感覚的なわずかな差でも私たちは「なんとなく」分かるわけですが、料理以外
であっても理屈は一緒です。
人が介在する行為には全てその心が映る。
料理のように敏感に感じ取れなくても万事そうなっているということです。

冷静に考えると、この世の中というのはどんな些細なことであっても、そこに人が介在しないものはありません。
商品はもちろん、仕事であっても、あるいは人づきあいであっても、あらゆる物事に人が介在しています。

人の思いというのはエネルギーそのものです。

想いを込める、気持ちを込めるということは、物理現象として確実に存在するわけです。


たとえば私たち日本人というのは昔から空間を大切にする民族でした。
広がりの中に感覚を捉え、間合いを取ったり、床の間を設けたり、花を生けたりしてきました。

あるいは、神社の本殿の空間、神棚のお札を納める空間、神輿の中の空間などもそうです。
そこへ心を向けることでエネルギーが充満し、あるいは浄められ、練られた氣が込められます。

日常生活ですら心が作用するのですから、神様に関わることとなれば尚更そうでしょう。
神棚や本殿に手を合わせる時、特別な言葉や所作が無くとも、我欲をなくした素のこころにあればそれだけで天地と溶け合い、神様の心そのもの
となって受け取って下さるということです。

「空間」というのは「空」と「間」です。
どちらも目に見えないものです。

見えるものを目にすると心に限定が生じます。
全ては逆なのです。
見えないところ、見えない状態にこそエネルギーが満ちるということです。

目に見えるから確実なのではなく、むしろ見えないからこそ、そこに確実にエネルギーが在る。

食を通じて、私たちはそのことを日々実感しているわけです。


私たちの心は、知らず知らずのうちに生活のあらゆるものに注がれていきます。
もしもそれが色として見えたならば、それはもの凄い勢いで二重三重に色付いていることでしょう。

「自分のために」と思うか「誰かのために」と思うか、それによって色合いや味わいが天地の違いとなる。

私たちの関わるあらゆるものへ味わいが付与されていきます。
綺麗な色あい、幸せな味わい、そういうものがいいと思えたならば、きっと私たちはいつでも真心を向けていられるのではないかと思います。

ただ誰だって、時にはイライラしたり我利我利したりすることもあるでしょう。
だって人間だもの、と。

でもそんなイマイチな色がついてしまったとしても、それを嫌って何も色をつけないのよりは遥かにいいと思います。

一番つらいのは、心を注がぬ無色透明な料理です。
愛の反対は憎しみではなく無関心と言われる、まさにそれです。
マイナスを嫌って、及第点狙いの無感情というのは最悪と言えます。

無関心とは全く心を向けない状態のことです。
イジメの中でも一番ツラいイジメは無視することであるように、それは、汚したり傷つけたりするよりも重いことです。
何故ならば、この世に存在するということはすなわち魂の交流であるからです。

交流できないということは、存在そのものの息の根を止めるに等しいということです。
ポジティブであろうとネガティヴであろうと交流は交流です。
人を傷つけるということも、交流の一形態であるわけです。

私たちが生きていくということは、一瞬一瞬に何かしらの色を注ぐことでもあります。
生きるというのはそういうことだと思います。

関わらずにスルーするというのは、決してニュートラルな心ではありません。
関わらない心というのは、無関心ということです。
ニュートラルというのは、見ないということではなく、見たものを止めずにそのまま通すことです。

私たちを取り囲むあらゆるものというのは、まさにご縁そのものです。
この世に存在するということは、嫌でもご縁を紡ぐことになります。
つまり、生きるというのは「あらゆるものと関わる」ということと同義なのです。

無関心や無感情というのは、生きることを放棄することに他ありません。

良くも悪くも、関心をもって生きる。
こちらから心を通わせて生きる。

多種多様な彩りに囲まれながら、私たちはそれらを味わって生きています。
息をするのが身体を生かすことになるのと同じように、味わうことが私たちをこの次元に存在させることになります。

存在するとはそういうことです。

単一的な淡白な味付けではなく、ごちゃ混ぜのチャンポン状態を噛み締め、味わっているわけです。

この世界は真っ白な実験室ではありません。
心のない無味無臭の世界など、私たちは望んでいないのです。
そこに人が介在して、様々に個性あふれる味がごちゃ混ぜになってこその「チャンポン」なのです。

私たちが普段何気なく浮かべる思いは、確実にまわりのあらゆるものへと注がれています。

それは決して襟を正して清らかな心を注がなければいけないということではありません。
なんだっていいんです。
様々な思いが幾重にも重なった方が、味わい深いチャンポンが出来あがるというものです。

とにかく心の抜けた全自動モードの調理だけは頂けないということです。
調理が下手くそだったとしても、しっかりと心だけは向ける。
無思考のままにパブロフの犬のように過ごしてしまうのは避けた方がいい。

上手か下手かではなく、また綺麗か汚いかでもなく、大切なのは「しっかりと関わる」「しっかりと心を向ける」ということです。


目の前に並んだ料理を無視したり忌避したりせず、またそれを抱え込んだりもせず、スッと口へ運んで静かに味わう。
それが苦悩を手離した生き方というやつであるのは確かです。

理想はそうなのでしょうが、それはまたそれ。
そこまでストイックを目指さなくても、ここはひとまず口に運んで美味いのマズいの騒ぎ立てる方が、人間らしくてずっとイイように思えます。

苦悩を全て無くそうとしなくとも、ほどほどならばそれはそれでいい味わいを出すものです。

五つ星の高級ホテルの美しいディナーにせよ、見た目ごちゃ混ぜC級グルメにせよ、それぞれに良さがあります。

どれが正解というのは無いわけです。

誰かが何かを美味そうに食べていようとも、自分が幸せに感じるものが今ここでのご縁です。

A級だろうとC級だろうと、美味しいものというのは例外なく様々な味が複雑に絡み合っています。

見た目が綺麗か汚いかよりも、核心はそこにあります。

せっかく味わうのならば、能面のような顔で淡々と食べるのではなく、驚き喜び、一喜一憂しながら食べた方がこの時間をずっと楽しく過ごせる
のではないかと思います。

酸いも甘いも、一言ではいえない複雑な味わいこそがこの世の醍醐味であるわけです。



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純粋な気持ちを現しましょう

2015-08-14 12:13:48 | ひとやすみ
東京に戻ってから初めての箱根に行ってきました。

ジリジリと刺すような日差しの中、高速渋滞のノロノロ運転。
エアコンも効かないような猛烈な暑さでした。

高速を抜けて少し行きますと、正面に箱根の山々が見えてきました。
太陽サンサン、目の覚めるような青空なのに、山の上にはまるで練乳のように雲がフワーッとかかっていました。

我が愛車は息も絶え絶え、箱根の急勾配は後進に譲りつつ、ようやく箱根神社へ到着。
いつもなら国内外の観光客でごった返している境内が、まるでオフシーズンの平日のようにガラーンとしていました。
ホッと息をつきつつも、噴火騒ぎの影響がここまでかと思うと少し複雑な気持ちでした。

箱根神社というのは昔からとてもご縁の深く、感覚的には氏神様に近い場所です。
そのため、もともと東京に戻ったならばすぐに御礼と報告にあがるつもりだったのですが、まさかその直前に噴火騒ぎになるとは思っても
いませんでした。

そのようなこともありまして、ダブルでドーンと来る可能性を想定しながら境内に入ったわけでしたが、そこは外の喧騒などドコ吹く風。
いつもと変わらぬ静かな空気が漂っていたのでした。

人の居ないガラーンとした景色とは裏腹に、ふんわりと落ち着いた空気感。
不安という人間考えが作り出した景色がいかに不自然であるかということです。

実際の現実とは、人の思いなどに関係なく、いつもと変わらぬ時の流れ、佇まいでした。

さて、神社というのは、その人その人のご縁がある場所です。
同じ神社で手を合わせても、バーンと来たり来なかったり。それは人それぞれであるわけです。
そこに在る何かが依り代となる場合もあれば、そのエリアにそのままドーンとおわすこともありますし、はたまた自分自身が依り代になる
ようなことだってあるかもしれません。

私たち自身の鏡に映って顕れるわけですから、人それぞれ、またその時々によって、来たり来なかったりというのも全く自然な話かと思います。

来る来ない自体もそうですし、その顕れかたにしても人の数だけあることでしょう。

言葉や文字、映像で来る場合。濃縮還元の塊がドカッと来る場合。イメージとして浮かぶ場合。

背中からブワッと全身を包むように皮膚に来ることもあるかもしれませんし、首筋の後ろからエネルギーを照射されるように来るかもしれません。

手を合わせた瞬間にフワーッと幸せな気持ちに包まれ、この世の流れからスッと抜かれ、優しい静寂に置かれるのは本当にありがたく
勿体無いことであります。

時には潜水服にくるまれて水中を歩くような、全身を薄い膜に包まれ夢心地を歩くという珍しいパターンや、たちまち圧縮濃密な空気に一変して、
四方が空間ごと別次元と化すパターンというのも全くもって言葉にはならないものであります。

時と場所、人によって現れかたは山ほど変化するでしょうが、こうしたものは単に切り口が異なるだけでどれも同じものであるわけです。
風変わりだから凄いとか、平凡だから凄くないとか、そういうことではありません。

どれも同じものです。

感じ方ではなく、ただ感じることが大切だと思います。

手を合わせてほんのりと幸せを感じる。
その瞬間、ありがたいなぁという思いがジワジワと湧き出てくる。
頭で考えて湧き上がるのではなく、幸せな感覚とともに感謝の思いが自然と出てくる。

それこそが本当に大切なことであって、その他のことは、言ってしまえばオマケに過ぎません。
派手さに浮かれてしまってそこを見落としてしまうのは本当にもったいないことです。

他の誰かが違うことを言っても、それはその人オリジナルのことですので、それはそれ。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「そうなんや」くらいで丁度いい話です。

逆に思い込みの自作自演に酔ってしまっている人を見かけても「そうなんや」で丁度いい。

万事、付かず離れず、自分の中心に柱を立てて、映し見るということです。

ハナから切り捨てるでもなく、丸っきり鵜呑みにするでもなく、淡々と眺めるわけです。

そうして、そんな世界もあるのかなぁと、実際に自分の心に耳を澄ませてみることがとても大切なことではないかと思います。

それは小さなささやきかもしれません。
でも、そこで感じたものこそが自分オリジナルの本物であるわけです。


さて、箱根神社に話を戻したいと思います。

自分の場合、いつも本殿の箱根大神様の方はサラッとしていて隣の九頭龍様に行くとフワーッと
来ていたのですが、今回は勝手が違いました。
本殿の方で手を合わせると、いきなりホワッとした田舎帰りのホッコリ感が来ました。
言葉で表現するなら「おかえり」とか「よく来たね」といった感じです。

勝手なアテレコではなく、間違いなく来てるのが面白いところです。
言葉よりも先に思いが届くということだと思います。

今回は、そのあとの九頭龍様が全く無反応だったので、アレ?と不思議に思いました。
なんかいつもと違うのかなと一瞬思いましたが、境内の緑と精妙な空気に、雑念もあっという間に消えて清らかな心地に戻るのでした。

そうして、いつものように階段を降りて芦ノ湖へ向かいました。

すると、湖は水かさが増して、強風が吹きすさび、湖面がジャブジャブと波打っていました。

空を仰ぐと、薄暗い雲が一面をおおうようにして、かなり低いところにまで下がっていました。

そのうち雲はますます近くにまで迫り降りてきて、大風が強くなり、波もジャボジャボと大きくなり、今にも竜の子太郎がザバーッと出て
きそうな雰囲気になりました。
下界は雲一つないカンカン照りだったのに、まったくここだけ異世界のようです。

お社にはおられませんでしたが、今日はこちらの方におられたのでした。


この日の箱根は目的がそれだったので、そのまま日帰りしましたが、数日前にまた思い立って再び箱根に行くことになりました。

ただ、目的は完全な骨休み。
なので温泉宿です。

宿に着くと同時に、畳で大の字になって館内図を眺めました。
チェックインしてから避難経路をチェックするのは子供の頃からの習慣です。
火事になったらどう逃げるかと複数パターンをイメージして、地震になった時は何処が危ないかとボンヤリ考えるのでした。

3・11が起きてからは、さらに宿の外から何処へ逃げるかも考えるようになり、今回に関しは、噴火が起きたらどの方向へ逃げるかを
自然と頭に浮かべていました。

こうして書き出すとやたら面倒な作業のようにも思えますが、実際はリラックスしながらボーッと考えているだけなので手間も感じません。
ガツガツするわけでなく、単に空想を楽しむようにゴロゴロしながらやる感じです。

災害が来たらどうしよう!?と不安に思ってしまうのは本末転倒で、来たら来たで、その時はその時。
ただ、そうなった時に最大限のことができるように、事前に考えられることを想定しておきます。
これは一度体を通せば十分なもの。
擬似体験というのは、色々な意味で非常に有効だと思います。

一度通しておくと、次の時には、頭を使わなくても先に通っていたりするものです。
これは武道で実証済みなので、日常においても間違いないことでしょう。

さて、そんな時フト気づいたのは、この数年、知らない土地に泊まると地震が来たらどうするか、津波が来たらどうするかと考えてたわけ
ですがら今回は噴火が来たらどうするかと自然に考えている自分が居たことでした。

そこには別に悲壮感や危機感など一切なく、淡々と思い浮かべているだけで、それはそれとして旅行を普通にエンジョイしているのでした。
つまり、何の抑揚もなくフラットな状態であったわけです。

今となっては、ごく当たり前のこととして私たちは受け入れていますが、改めて地震、津波、噴火と単語を並べますと、なんと凄まじいことか
と思うばかりです。

それなのに、実際は特段の思いも抱かずにそうしたことを淡々と想定している。
おそらく外国の人たちは、このうち一つすら身近に感じているものは無いのではないでしょうか。

私たちは、こうした自然災害を知らず知らずのうちに心の近いところにポンと置きつつ、それをストレスとも感じずに明るく日々をエンジョイ
しています。

それが無意識のうちに天地宇宙に対する畏敬となり、また自ずと自分たちの慢心や増長を抑える謙虚さへと繋がっているのではないかと
思います。


つまりは、自然のうちに情操教育がされているわけです。

日本というのは、本当に素晴らしい国です。
私たちは恵まれた環境に生まれ育っています。

そのような環境であればこそ、当たり前に天地自然の感覚が皮膚に染み付き、“神ながらの道”が
誰にとっても身近なものになっていると
いうことです。

神ながらの道とは、天地と自分が分け隔てなく一つとなることです。

天地の脅威を常に感じているということは、天地という存在が常に心に同居しているということです。

それを同居させられない人たちにとっては、もしかしたら今の日本は住むのにシンドイ国かもしれません。
でも私たちの祖先は、むしろそうした環境だからこそ、豊かな心を育んできたわけです。

実際の自然災害というのは、身内を失ったり、財産を失ったり、生活すべてを奪われてしまい本当にツラいことだと思います。
現実というのは、綺麗事だけではありません。
それでもなお、やはり私たちはこの天地宇宙の大自然に包まれて、そこに寄り添って生かされています。

天地の動きによって人生を終えるのは、文字通り、天命かもしれません。
究極的には、天寿を全うしたとも言えます。
ですから、私たち日本人は、心の奥底では誰もがそれを受け入れているのではないかと思います。

そうした上で、最後の一瞬まで、何が何でも生き抜こうと必死にあがくことが最も大事なことになるということでしょう。

天地宇宙の成り立ちを肌で感じているが故に何処かで達観している、しかし、最後まで諦めることなく必死に生きようとする。
まさしく目の前の今に、最後の最後まで「一所懸命」(一つ所に命を懸ける)。

ある高僧が臨終の間際に発した「死にとうない」というのは、まさにそのことだと思います。

最後まで諦めず、ドロ水をすすっても生き抜きぬく。

何より、私たちのご先祖様たちがそうして下さったからこそ、今の私たちが在ります。
派手な人生よりも、とにかく生き切ったこと、生き抜いたという、ただそのことが貴いわけです。

24時間チャリティーマラソンどころではありません。
つまずいたり、転んだり、立ち止まったり、諦めたり、 泣いたりわめいたりしながらも、一生涯を完走しきった。
最後はほとんど進んでいるのかも分からないほどになりながらも、最後の一瞬まで生きようとした。
別に誰に見せるわけでもありません。
ただ、目の前の今に必死に噛り付いていただけです。

震えるような感動が湧きませんでしょうか。

せっかくのお盆です。
形だけの神妙さなど必要ありません。
今のその気持ちを素直に表すだけです。

理屈など抜きにして、万感の拍手と感謝をその完走に送ってみてはいかがでしょうか。

きっと、照れながらも喜んでくれると思いますよ。



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天地の心はすぐそこに

2015-05-11 07:40:47 | ひとやすみ
先日、ゴールデンウィークを利用して職場のリニューアルがありました。
場所はそのままなのですが、回線工事にあわせて古くなった机や収納棚を一新することになりました。
たまたま私の席は一番奥なので、そこからフロア全体を見渡すことができます。
手狭なところに80人がひしめきあっているので、なかなかに濃い景色です(笑)

連休明けに朝一で出社すると、誰もいないフロアにはのっぺりした机とそれを囲むように段ボールが
山高く詰まれていました。
机の搬入は業者の方たちがやって下さったので、あとは自分たちで中身を収納するだけです。

静かなうちにサッと終わらしてつらつらメールをチェックしていましたが、30分ほどすると空気が違う
のを感じて、ふと顔をあげてみると・・・
先ほどまでとは一変して、まるで野戦場のような光景が広がっていました。
80もの人たちが一斉に段ボールを開けて、言葉を発することなく黙々と作業に集中。
ドタバタとみんな凄い気合いなのですが、全体としては声一つ立たずに静かなのです。
まるで禅寺の作務のようです。
チャイムが鳴ってからも誰一人まわりに注意を向けることなく、自分のことだけに没頭していたため、
定例ミーティングなどの日常業務が完全に吹っ飛ばされてしまいました(笑)

実際は、段ボールの一つでも出せば仕事は始められたはずですが、一気に片づけようという熱気が
フロア全体に溢れていました。
仕事を早くスタートさせるために気合いが入っていたというわけではなく、違うスイッチが入った感じ
だったわけです。
一心不乱。何かに取りつかれたかのような目でした。

その時、ふと頭の中に復興の映像が浮かびました。

空襲で焼け野原になったあとに一斉にバラック小屋が建つ様子や、自然災害で被災した土地に家が
立つ様子です。

昨日まで当たり前に過ごしていた景色が、一瞬にして何もないサラ地になった時、人間は理屈抜きに
元に戻そうというエネルギーが湧いてくるのでしょう。
それは身体に染みついた肌感覚というものが、心とリンクしているからに他なりません。

仕事で広島に出張することがよくありますが、いつも思うのが、戦争で荒野になってしまった場所が、
よくぞ西日本随一の大都市に復興したということです。
もちろん生まれた時から慣れ親しんだ場所ですから、そこで再建する人たちは多いでしょうが、あれ
ほど酷い光景を目の当たりにしたならば、かなりの人数が近くの町へ集団移住して、第二の広島の
ような発展の仕方をしてたとしても不思議はないところです。
それなのに、何もなくなってしまった場所が、他の町を上まわるような大都市になったのですから本当
に驚きです。

そのような状況に置かれた時、人は理屈を越えて全く違う本能が湧き出てくるということでしょう。

愕然とすると同時に、凄まじいエネルギーが溢れ出るわけです。
悲しみという自我の中に埋没してしまうのではなく、強靭なバネのように、グッと落ち込んだ瞬間、
バウンドの反動力で物凄いエネルギーが噴き出すのです。
それは、自我という小さな枠を吹っ飛ばして、生き物としての生命力が輝き溢れた瞬間とも言えます。
どこかに移り住んで立て直そうなどという小ざかしい理屈は吹き飛んでいるのです。
根源から溢れ出る生命エネルギーの爆発に、我を忘れて、同化しているわけです。
それが一人、二人でなく、町単位で起きているのですから、そのエネルギーは半端なものではない
でしょう。
戦災や被災の悲しみに満ちた土地の氣も、その爆発的なエネルギーが一新して、活気に溢れたまま
その後の大いなる発展に繋がったのだと思います。

ですから、今さらではありますが、東日本震災の後の復興計画は残念でなりません。
部外者が理屈であれこれ時間をかけて先延ばしになっているうちに、このエネルギーが消えてしまい
ました。
海の近くが危ないというならば、高台でもどこでも新しい場所を早くに決めれば良かったのです。
費用がどうだとか、安全性がどうだとか、細かいところまで詰めていたらキリがありません。
国民の生活が最優先で、お金はあとから考えるものです。
必要なものは、かならず回ります。
出したものは景気として返ってきます。
それよりなにより、時間こそが勝負です。
官僚や企業ならば責任を考えてキッチリ詰めようとするのは仕方ありませんが、そうした理屈を越えた
決断を下すのが政治です。
それこそが、政治家の存在意義です。
理屈のみでやるならば、この世は民間人だけで事足ります。
いちいち点数を気にしていたら、政治などやってられません。
世の中には、陰と陽があるのです。
純白を探そうとするのは、夢想家のすることです。
政治家は、毒を飲み込むのが仕事です。
批判されるのが仕事の一部なのです。

結局、1年2年と待たされた人たちは、熱が冷めて新しい環境に順応してしまいました。
当然のことです。
先祖代々の土地、長く住んでいた場所、そういうものをその人の身になって政治家たちが考えてくれて
いれば、もっと違うことが頭に浮かんだかもしれません。
遠く離れた机の上で100点の模範解答を考えているうちに、風は去ってしまいました。

残念ですが、人間の可能性というもの、生命の力強さというものを信じ切れなかったのでしょう。
というよりも、そこへ目を向けることすらなかったのかもしれません。

とはいえ、他人のマイナス部分だけをあげつらっていても何も生まれません。
昔の政治家は、国民のために正しい道だと信じていれば、何を言われようと泥をかぶって己の信念を
貫き通しました。
これは公人としてまったく正しい姿です。
しかし今の世は、ほんの少しのことでマスコミが騒ぎたて、そして何よりそのことで私たち国民が大騒ぎ
して事を荒立てて、政治家を潰してしまっています。
そんなものは勧善懲悪でもなんでもありません。
単なる子供のイジメです。
その結果が、東日本震災での政治対応となりました。
決して左巻きの政党だけの責任ではありません。

いつでも自分の目で、自分の心で、真っさらな景色を映し観るのが大切なことです。
他人の声に惑わされてはいけません。
それは、地球を助けようとか、自然を守ろうとか叫びならがら何かをやることよりも、遥かにそれらを
実践、実行、実現していることになります。

私たちは、囚われや我執を放せば、それだけでもの凄いエネルギーに溢れるのです。

自分の中心に柱を立てること、わずかな汚れにいちいち騒がず有りのままに大局を見ること、そして
そこに映るものを我が身にただそのまま流すだけ、それがあらゆることの第一歩になります。
それこそが、地球を輝かせようとか、子供たちを守ろうということへ繋がっていくのです。


ゴールデンウィーク明けの初日、大勢の人たちが誰一人ムダ口をたたくことなく、無心で段ボールを
整理していました。
1時間もすると段ボールの山はすっかり片付き、いつもの景色が戻っていました。
みんな、やっと元の世界に戻ってきたというように、ホッと息をついていました。

つい先ほどまで、目の前のことだけに一心不乱に集中してた時、この部屋は自我を離れたエネルギー
に溢れていました。
一息ついたその笑顔は、ホッと安堵の表情というだけでなく、知らずのうちに天地と一体となっていた
充実感の現われだったのかもしれません。

天地の心は、そこかしこにあります。
そしてその瞬間というのは、案外、自分自身では気がつかないものなのかもしれません。
眠い目をこすりながらアクビをしてた私も、その一人だったのでしょう。

人生というのは、瞬間瞬間で、誰もが天地と一体となっているということです。

生きることは、眉間にシワ寄せて考えるものではなく、もっとラクで、もっと自由でイイんです。



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クールジャパン

2015-04-08 07:57:28 | ひとやすみ
いま、海外から、日本のサブカルチャーやポップカルチャーが注目されています。
未知のものには好奇心がくすぐられ、憧れを抱くものです。
新しいことや知らない世界に触れると、心に爽やかな風が吹き抜けます。
そして囚われに染まった夕闇に、光が差し込むようにして、新たな景色が輝き出します。

これは私たちの日常にも言えることです。
同じ作業を繰り返していると、心や頭は硬くなりやすいものです。
会社などでは、それを避けるためローテーションで仕事を変えさせたりするほどです。
わざわざ不慣れなことをさせるよりも、同じことを続けさせたほうが効率的なのではないかと思いますが、
心が硬直してしまうリスクの方が高いと考えるわけです。
ルーチン作業でこなせるようになってくると、心や頭はラクをして、中心を通さずに反射的に処理して
しまうことがあります。
そのように半自動化してしまうと、頭や心が徐々に硬くなり、視野が狭くなってきてしまいます。
筋肉を使わないでいると、細く硬くなってしまうのと同じことです。
自分でそれと気づかず、薄暗い景色が絶対だと疑わなくなってしまうと、色々な弊害が生じてしまうのです。

一方で、一流の職人というものは、たとえ同じ作業であっても、決して機械的にこなしたりせず、真剣に
心を使います。
真っさらのクリアな状態で、心を縦横無尽に広げます。
真剣とは、新鮮と同じことなのです。
だから、同じ作業の繰り返しであっても、決して心が硬くなったり狭くなったりすることがありません。

しかし、会社の事務処理にそこまで求めるのもなかなか難しいので、企業としては硬直させないために
周辺環境の方を変えさせているわけです。
そもそも営利企業というのは、個々人の豊かさなどではなく、結果や効果の最大化を目指すものです。
そのような視点であっても、意識の硬直というものがいかに不利益であるか、明らかだということです。
発展と存続という企業の大目的は、天地自然の生き物たちと全く同じものです。
その企業というものが、感情論や理想論からではなく経験則から、ドライにそのような判断をしている
わけです。

こうしたことは、日頃の生活にも当てはまります。
いつのまにか半自動化すると、意識が散漫になって、視野が狭くなってしまいます。
そして、その景色が絶対的なものだと思い込んでしまうと、正常な状態に変化することすらも、必死に
阻むようになってしまうのです。

私たちもそうした半自動化による硬直を防ぐためには、職人のように素直な心で一つ一つに集中するか、
企業のように環境そのものを変化させるか、ということになります。
環境変化といっても、ヨソの家庭と入れ替わるわけにもいきませんので、そこは工夫次第です。
要は、心や頭が停止してしまうような状況を無くせばいいわけです。
ルーチン作業の順番を変えたり、やり方を少し変えたり、と。
もちろん今までより効率は落ちるでしょうが、それは企業でも見られることです。
企業でも、多少効率が落ちてもトータルメリットは高いと考えています。

そして、どうしてもやり方を変えられないようなものは、そこに真剣に集中するだけです。
とにかく中心を通すためには何が有効かということになります。
そうなると、凝り固まってしまった心や頭をほぐすために、全く異質の世界に触れるというのも一つの
手になるわけです。
趣味というものもそうですし、未知の世界への好奇心もそうです。

私たちの日常に当てはまることは、会社にも当てはまることですし、それはまた今日の日本ブームのような
趣味や興味にも繋がってくるものであるわけです。

それにしても異国ブームというのは、馴染みのなかった国の文化に触れた時に起きるものなのに、何故
いま日本なのかです。
たとえば、江戸時代のゴッホやモネに見られるようなジャポニズムだったり、高度成長期の日本食ブーム
にしても、未知のものへの知的好奇心があればこそ注目されたわけです。
でも今の、アイドルにしてもファッションにしても、マンガやアニメにしても、あるいは食文化や下町文化に
しても、みんな昔からあるものですし、それなりに世界にも知られてたものです。
そうなると、知的好奇心ではなく何か別の衝動がそこにあるということになります。
つまり、発信側というよりも受信側に変化が起きたということです。
今まで気にも止めずにスルーしていたものが、目に止まるようになったということです。

では、いったいそうしたものの何に惹かれたのでしょうか。

改めて比べて見ますと、過去の日本ブームが、寿司や着物、浮世絵といった見た目も特徴的なものだった
のに対し、現代のポップカルチャーは取り立てて際立ってもなく、どちらかというと日常に近いものです。
そうすると、海外の人たちは見た目の姿形ではなく、中味に惹かれているということになります。
生活に近いものというのは、私たちの素の感性が露わになっているものです。
彼らは、見た目の鮮やかさに刺激を受けたのではなく、その中身に新鮮な風を感じたわけです。

例えば、マンガには日常とは異なる世界が広がっています。
架空の世界に身を投じることによって、日頃の凝り固まった固定観念や社会通念から解放されます。
また、感情移入することで登場人物に自分を重ね、その気持ちを我がことのように感じることもできます。
いつもの自分の思考パターンから離れて、登場人物の心に沿って考えたり感じたりするのです。
映画や小説、あるいは海外のマンガと比べても、そうした感覚や感情の部分に関して日本のマンガは
際立っていると言えるかもしれません。
もともとマンガは、内面描写や感覚描写を自由自在に表現するものです。
そして日本の感性が、その部分をさらに深化させていったということでしょう。
私たちはスッと自然にその世界の中に同化し、知らないうちに深く溶け込んでいきます。
それにも増して、人物の心情や感覚が非常に細やかです。
これは特に私たち日本人が、もともと相手の気持ちを推し量って、無意識のうちに情報を補完しながら
自分の中で膨らましていることも大きいと思います。
そのような読み手の素地があって、書き手もそれを最大限に活かす表現をするわけです。
私たちは、それが当たり前になっているので気がつけませんが、実は大変に緻密なものだと言えます。

マンガを読むのは、頭ではなく、感覚です。
それをスムーズにできるための工夫が、時間をかけて作り上げられました。
実際、私たちの祖父母の世代は、マンガを読めない人が多く居ました。
それは単なる偏見というだけではなく、全く新しい表現スタイルであるために、取っ付きにくかったのだ
と思います。
感覚でもって読むということに、馴染めなかったのではないかと思います。
それほど、マンガというのは独特のスタイルであるわけです。

私たちは、マンガの中に我が身を深く投影させて味わいます。
それはCTスキャンでこの世界に我が身を投影させていることと、相似形を成しています。
このことは映画や小説でも同じことが言えます。
ただ、映画とマンガの違いは、登場人物が俳優ではなくその本人そのものであることです。
つまり、その世界がその人物にとってはリアルそのものなわけです。
喜んだり悲しんだり一喜一憂が、演技ではなく本物なのです。
生死や生活感が、登場人物にとっては本物であるわけです。
死に直面して恐怖するのも本物ですし、かろうじて生き残ってホッとするのも本物です。
だから、私たちが感情移入する場合も、映画の俳優よりもマンガの人物の方が、より深く同化し、その
体験も気持ちも肌身に感じるのです。
それは小説の登場人物でも同じなのですが、小説は周辺描写が客観的で写実的であるのに対して、
マンガは主観的で感覚的です。
そもそも登場人物に成り切る疾走感がマンガの主軸にあるため、そこの差が出てしまいます。
つまり、感覚や感性という点においては、マンガは映画や小説以上に真っさらな状態で他者の疑似
体験をしているといえます。
そのことは、私たちがこの世界に我が身を投影させていることと全く同じものです。
様々な体験をしたいという欲求があるからこそ、マンガも楽しく感じるわけです。
一方でそれは、私たちのこの世界も、頭ではなく感覚で味わうものであることも示唆しています。

疑似体験というのは、他者のことをおもんばかる心を育てることにもなります。
自分の世界だけに固執せず、他の世界に身を置き換えられる柔軟性というものが、知らず知らずの
うちに鍛えられるわけです。
つまり、相手を取り巻く環境を踏まえ、相手の立場に立って、その心情をおもんばかることができる
心です。
それは、優しさであり、寛容さであります。

逆に、ある種の固定観念を植え付けたければ、映画の疑似体験を利用することも可能なわけです。
特定の固定観念を持つ主人公や世界を設定すれば、それが刷り込まれることになります。
いずれ機会があれば触れたいと思いますが、これは大変に重要なことです。
ですから疑似体験する時は、決して中心をそこに置かないことです。
中心は今に置いたままで、心を広げましょう。

ちなみにハリウッド映画や、子ども向けカートゥーンも、現実の固定観念とは違う世界を描きますが、
代わりの固定観念を用意しています。
それはもう、道路標識のようにハッキリと表示されます。
おそらくそのようにしないと、観る側が不安になるのでしょう。
登場人物の置かれた環境設定や立ち位置、善悪などのカラー、そして人生の目的が分かりやすいほど
分かりやすくなっています。
分かりやすいぶん、安心して見ていられるわけですが、それ以外の自由度がないということになります。
観る側が感覚を膨らませるような、行間が無いわけです。
まさに、カートに乗って、ただレールを進むだけの状態です。

この差の出どころは、やはり社会規範にあるのではないかと思います。
端的に言えば、宗教観です。

世界では、まず行動規範となる金型があって、それによって自らを律するというのが大勢を占めています。
キリスト教もイスラム教も教義や経典というものがあって、それが規範となって善悪や価値観が成立して
います。
つまり、自分の外部に道路標識やマニュアルがあることが当たり前なのです。
常にそれに照らしながら、自らを正しているわけです。
それに対して日本には、教義や経典などありません。
規範はそれぞれ個々の中にあります。
お互いに相手のことをおもんばかって、言わずもがなのバランスで成り立っています。
自らの心に照らし、相手の立場に立って考えるわけです。
まさに思いやりです。
だから、教義や経典がないのです。
そんなものが無くても、自然に仲良くやってきたわけです。
日本では、自分の外部に指図書はありません。
そういう発想が無いのです。

明治時代には、そのように教義経典が無いことを、野蛮で低俗な国だとけなされました。
彼ら西洋人の常識からすれば、外部に強烈な行動規範が無ければ、人間は好き勝手をする生き物であり、
それを野放しにしている日本は野蛮で幼稚だとなるわけです。
今ならば、どちらが低俗で幼稚かは、火を見るよりも明らかです。
しかし、普通に当たり前だったことを改めて指摘された当時の人たちは、慌てふためき、無理やり
『武士道』(新渡戸稲造)のようなものを持ってきて、日本人の行動規範を説明しようとしました。
しかし、そんなものは結果としての規範でしかなく、表層的なものでしかありません。
いくら研究したところで、日本人というものを理解するには程遠いものだったわけです。

そして、こうした社会規範の差は、心の投影である文化の中にこそハッキリと現われます。
とりわけ、日々の生活により近い庶民文化の中に、色濃く現われてきます。

ですから、日本ではマンガにせよ芸術にせよ、本当に自由自在なわけです。
世界では、社会通念や固定観念のベースとなる宗教的規範があるため、観る側も作る側も、そこから自由
自在になることを無意識のうちに制限してしまっています。
それが日本では、どんな好き勝手をやっても誰にも咎められないのです。
ましてやマンガやアニメ、あるいはサブカルチャーともなると、価値観を壊すほどカッ飛んでいてこそ面白い
となるわけですから尚更です。

このボーダレスぶりを、私たち日本人は自覚なく自然に受け入れていますが、それこそが海外の人が
もっとも驚くことであり、スコーンと目が開かれる快感になるわけです。
それだけ、海外のほうが、無意識の囚われや自縛が根深いということです。
もちろん、日本人も同じく囚われや縛りの世界に浸かっています。
それでも庶民文化においては、きっちり切り替えて、好き勝手をやっているわけです。
それは、お祭りの時に、全て放りだして無邪気になる感覚と近いものかもしれません。

自分の見えない世界を体感することは、新たな景色が広がりワクワクします。
漫画のブッ飛んだ世界や、繊細な心情変化を観ると、心が洗われスッキリします。
そして、海外の人にとって、その新鮮度合いは日本人の比ではないということです。
それこそが「クール」の正体です。
目薬をさしてスコーンと突き抜ける爽快感。
視界がクリアになって世界が明るくなるようなスッキリ感です。
それはある意味、囚われの心が祓われた瞬間でもあるわけです。

漫画やアニメに限らず、ファッションでもアイドルでも庶民文化でも、そうした日本ならではの開放的な
感性に接した時、彼らは自分たちの自縛から解放されて「クール」になるのです。

また、自分の価値観や固定観念をリセットして、完全に別のものに浸ろうとする衝動の一つが、あの
コスプレなのではないかと思います。
今や日本より、海外の方が盛り上がっていると言います。
変身願望というのは、人間には昔からあるものです。
新たな景色を観たいがために、外の形を変えようとするわけです。
「目に見えない心を変えるために、まず目に見える形を変える」という理屈です。

もともとファッションというのは、そういうものでしょう。
着るものや髪型を変えて気分を変えようとするのは、自分の空気感を変えることによって心の状態も変え
ようというアプローチです。
本来は、心の状態が自分の雰囲気となって外へ現れるわけですが、そこを逆手に取っているわけです。
実際、気分が変われば、心が変わります。
ですから、感覚や感性が鋭い女性たちがそれをするわけです。
男は残念ながら理屈で考えようとする生き物なので、この点では全くかないません。
ただゴルフやスキーなど、ファッションから入ろうとするのは、ある意味、的を得ていると言えるでしょう。

そう考えると、日本のアイドルやファッションが注目されているのも、雰囲気や感覚から自分の心を
変えようとする無意識の衝動によるものなのかもしません。

そして、マンガにせよファッションにせよ、そこには日本独特の感性があります。
それは柔軟さ、寛容さ、自由さ、明るさという、母性的なものです。

海外の人が、昔のような自国の固定観念に固まったままならば、クールジャパンは絶対に起きなかった
でしょう。
自分たちの景色、感性、観念に絶対の自信を持っていたら、せいぜい軽い好奇心どまりです。
ですから、見た目に分かりやすい、歌舞伎や着物、寿司が注目されたとも言えます。

しかし今は、明らかに海外の人たちの心が変わってきました。
それは日本のことを文明的にも文化的にも自分たちと同等と見なすようになったということもあるでしょうが、
それ以上に、自分たちの観る景色に翳りを感じ、閉塞感を覚え始めたからではないかと思うのです。

彼らは、長年、父性に価値観を置いてきました。
自分の考えを先鋭化させて、他を従属させるスタイルです。
これはまさに西洋の家庭教育そのものです。
これまでは、国も経済もそのスタイルで発展を遂げてきましたので、そこに絶対の自信がありました。
しかし経済が成熟し、暮らしも安定した先に、同じやり方では心を満たすものが見つからなかったのです。
そうして、今、母性を欲する気持ちに変わってきたということではないでしょうか。

彼らは何に惹かれているのか、自分でもいまいち分かっていないかもしれません。
理屈ではなく感覚的なものですから、なおさら訳が分からないといったところだと思います。
でも彼らは、何か分からないから排除するということはもう止めて、分からないけど気持ちいいからそこに
飛びこむようになったわけです。

とはいえ、それは諸刃の剣であることも強調しておきます。
現実から離れてそっちの世界に中心を置いてしまうと、それは単なる現実逃避になってしまいます。
せっかく囚われを祓ってスッキリクールになったのに、今度はそっちに囚われてしまうのでは元の木阿弥です。
あくまで現実に中心を置いて、心を広げた自由自在だからこそ、豊かになれるのです。


日本はアマテラス様の国です。
まさに、母性の国です。
世界的に見れば、私たちの国は女神の国なのです。

ガツガツせず、フワッとした優しい感覚。
すべてを受け入れる温かさ。
そして、縦横無尽な心の自由さ。

私たちは、普段そのことを全く忘れて暮らしていますが、それは本当に凄いことです。
女神を頂く国など、世界のどこにもありません。

そして母性とは、全てをそのままで受け入れて包み込む寛容性です。
何をやってはいけないという縛りはありません。
どんなことをしても絶対に見放さない、絶対に守り続けるという心です。

そして、誤ったことに対して西洋の神のように罰をもって正すのではなく、悲しみをもって見守ります。
実際、子どもには、その方が堪えます。
頭で考える損得勘定ではなく、自分の良心が痛むからです。
良心とは、天地の心です。
だからこそダイレクトに響きます。
そのことを知っている私たち日本人は、戒律や教義などで縛ることなく、お互いを信じきれるのです。

私たちは、そうした素晴らしい環境のなかに暮らしています。
海外の人が日本に来ると、その温かい空気と優しい風に、この世の天国と見まがうかもしれません。
外国では、厳しく縛られるのが当たり前だからです。
そしてそれが紳士のたしなみ、真っ当な家庭の情操教育だったからこそ、日本をさげずんできました。
しかし事実は全く逆で、そらこそが天地の心を100%表現したものだったわけです。
我が子を信じきり、全てを本人に委ねて見守る大御心です。
その大きな愛に包まれて、私たちは、自分たちで当たり前に自らを律してきたのです。
天地が私たちを信じるままに、私たちも私たち自身を信じているのです。
クリアであるほどに、良心が響くのです。

しかしそれを、外から律してしまうと、規則や戒律にたがわなければOKという発想になってしまいます。
つまり、自分の中にはそれを律するものがないわけです。
そして、良心の響きを感じることができなくなるのです。
それが、昨今のテロに見られるように、過激な行動も正当化される原因となってしまいます。

そのような現状にあって、感性の豊かな若い世代は、父性優位の価値観に疑問や限界を感じだしたとしても
不思議ではありません。

母性の国は、人間を信じきっています。
だからこそ人々は、自分の心に中心を置いて暮らしています。
それが、正月は神社で、結婚式は教会で、葬式はお寺、というのを自然にできることに繋がります。
あくまで、自分なのです。
それぞれに我が身を置くのではなく、それぞれの大切な部分を掴んで自分の中心で楽しむのです。
どれか一つに限定して自分を縛ることはありません。
もちろん、それぞれに対しては100%の心を向けます。
楽しみきり、味わいきっています。

しかし、それが海外の人には理解できないわけです。
何故100%切り替えられるのか分からず、結局、彼らの世界観の中ではそれは単に自分というものがない
節操のない行為だと断罪するしかなくなるのです。
実際は、全く逆で、自分があればこそできることであって、それができないのは自分がないからなのです。

そして、庶民文化にはそんな自由自在が無限に広がっています。
趣味の世界というのは、私たちの心がフルオープンに解放されます。
サブカルチャーやポップカルチャーというのは、それが結実したものであるわけです。
そんな自由な心、大らかな母性に、海外の人たちは、輝き溢れる世界を見るのだと思います。

そしてそれはサブカルチャーだけでなく、カルチャーすなわち伝統文化にも現れるものであり、学問や科学、
技術といった文明の中にもシッカリと流れているわけです。

マンガやファッションといったポップカルチャーは、ともすれば表層的な軽いものだと思われがちです。
決してそれを持ち上げるつもりはありませんが、そのような思い込みがあると、世のクールジャパンも、
ただ上っ面だけの流行りものだと切り捨てられてしまいます。
しかし見方を変えれば、軽やかだからこそ、素の心が素直に出ているとも考えられるわけです。
そうすると、世界の潮目が変わってきたのではないかということが見えてくるのです。

サブカルチャーという極めて敷居の低いジャンルだからこそ、外国人も警戒することなく心の求めるまま
正直に飛び込むことができます。
素っ裸の心は、核心の部分をダイレクトに感じ取ります。
そうして母性の心に触れて、日本人の感性に浸ることで、それまで頭では理解できなかった景色を、
感覚的に感じ取れるようになってくるのではないでしょうか。
その証拠に、アニメやアイドルの歌を通して日本語を覚える外国人が非常に増えているそうです。
頭ではなく、感覚を開放して接しているから、あっという間に体得するのでしょう。
昔のような片言ガイジンではなく、流暢に喋る人が非常に多くなりました。
そして日本語を覚えていくほどに、ますます日本の感性を分かるようになるのです。
日本語というものは感性の言語であるため、これまで学ぶに難しいものだったわけです。
そうして敷居が解かれれば、あとは伝統文化や価値観へと容易く近づくことができるようになります。
サブカルチャーやポップカルチャーは、そのための入門編と言えます。


父性が幅を利かせている世界にあって、日本は数少ない母性の国です。
かたや、力で押さえつけるものであり、かたや、受け入れ調和するものです。

もしかしたらクールジャパンは、その夜明けを告げる、長鳴鶏の一声なのかもしれません。



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桜の樹の下で

2015-04-02 15:04:05 | ひとやすみ
今朝、満開の桜の下を歩いてきました。

大きな広場の桜並木です。

いつもその広場の横を通って、会社まで歩いています。

今日も遠目に桜を見ながら、広場をショートカットするつもりでいました。
フト、満開を見れるのも今日が最後かと、桜並木の方を歩こうかと思ったのですが、
そこで一瞬のためらいが生じました。
家を出たところからすでに心は会社に向けて一直線になっていたのだと思います。
ほんの少しの遠まわりに、抵抗を感じてしまいました。

いざ、桜並木の方を歩いてみますと、そこは別世界でした。
満開の桜が前後左右から押し寄せて、全身が優しい空気に包まれました。
遠目で見ていたのとは全く違った感覚です。

正直、わずかな距離の差で、体感というのはこうも違うものなのかと驚きました。
味わっているつもりでも、実際は、頭だけで分かった気になっていたのです。

これは、日常にも言えることなのでしょう。
そうして、ほんのわずかな遠まわりすらも抵抗感を覚えてしまうのです。

損得や効率で判断せず、少し足を伸ばすだけで、そこには全く違う世界が広がります。
それは遠まわりでも何でもありません。
そして、実際に身体を伴うことが大事です。
行動が、極めて重要なのです。

満開の桜の下には、静かな時間が流れていました。
毎年、毎年、同じように咲いて、同じように散ります。
普通に、当たり前に。

それこそが、この世界なのです。

普通に、当たり前に、いつもと同じように静かに流れているのです。

私たちのまわりも、そして私たち自身も。

どうか、少し足を伸ばして、自然に触れてみて下さい。
その普通であることに、自分も包まれ、溶けこみ、穏やかな気持ちになれると思います。



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