人は知らず知らずのうちに「自分」というものを着こんでしまっています。
家庭、学校、会社、社会。
様々な環境に身を置きながら少しずつ染みついていったものを私たちは「自分」と思うようになっていきました。
それを自分らしさ、あるいは自分の性格と思い込んでいたりもします。
男というのは
女というのは
子供というのは
大人というのは
サラリーマンというのは
主婦というのは
夫というのは
妻というのは
人というのは
自分というのは
「こういうものだ」
親に教えられたり、本を読んだり、誰かの背中を見たりして、自分なりに取捨選択してきた寄せ集めが自分の立ち居振る舞いとなり、いつしか
それが自分らしさ、自分像となっていきました。
この世で生きていく上で自分勝手というのは不具合が生じる。そのため私たちは、まわりの空気を読もうとしたり、自我を抑えなくてはならない
と考えるようになりました。
素っ裸のままではいけない、スッピンのままでは恥ずかしい。そうして服を着たりお化粧をするようになったのでした。
そしてそんな窮屈で息苦しい状態が続くほど、私たちは自由に憧れるようになっていきました。
もともと子供の頃はそんな服など来ていませんでした。
あの頃のように自由気ままに素っ裸になれたらどんなにラクか。しかしそう思うとたちまち、社会的にも良識的にも裸になってはいけないという
自制心が働く。
そうして、自分を作らないこと、自分を縛らないことは夢物語と化すのでした。
そしてまた昨日と同じ服を着続けて、いつも同じ反応、同じ思考、同じ感情を繰り返しリピートする。
「それが私である」と思い込んで。
まわりの人に言われてではなく、私たち自身が、自分とはそういうものだと諦めてその自動反応パターンに身を預けてしまっているわけです。
私たちが性格や資質と思っているものは先天的なものだけではなく、後天的なものも多々あります。
しかしそれをごちゃ混ぜにして、自分はこういう性格だから仕方ないと信じ込んでしまったりしています。
若い頃の自分はどういう性格だったでしょうか。
高校生の頃は? 子供の頃は?
もっとハキハキしてた、もっと明るかった、もっと優しかった、もっとおおらかだった…
生活が変わったから仕方ない、歳を重ねたから仕方ない、というのは乱暴な話です。
それは性格ではなく、単にいま選り好んで着ている服に過ぎません。
いつでも脱ぎすてることができるものであるわけです。
「いったい、私とは誰なのでしょう?」
いま一度、私たちがなぜ服を着るようになったのか振り返ってみます。
私たちは生まれたままの無垢な状態から、年齢とともに自意識が芽生え、欲望は抑えねばならないという考えを抱くようになりました。
好き勝手やってしまうと他人に迷惑をかける、うまくやっていけない、恥ずかしい、野蛮だ、受け入れてもらえない…
だから、服を着ないといけない。
そうして社会へ溶け込むために自分像という服を着るようになりました。
そのことをキリスト教ではエデンの楽園追放という形で表現されています。
アダムとイブは欲望に目覚めたことで、裸を隠すようになったとあります。
そこでは、人間は我欲というドロドロしたものを抱いてしまったために楽園から追い出された罪人として描かれています。
しかし実際は楽園を追われて服を着たのではなく、服を着ようとした瞬間そこは楽園では無くなったというのが正解です。
私たちは追放されたのではなく、自ら楽園を去ったということです。
今まさに我欲を抑え込むために自分像を着込んで繕っていますが、それこそが我欲の上塗りでしかありません。
我欲まみれで追放された、だからそれを抑えるために服を着なくてはいけない、というのは全く逆の話であるわけです。
示唆に富んだ神話なのに、そこの解釈を間違えてしまうとおかしくなってしまいます。
もともと私たちの生き方を正しく導くための教義であったのに、自我と真我の区別がなされていなかったために混乱が生じてしまいました。
自我と真我がいっしょくたになってしまった結果、本能や我欲を抑えようとする規律が真我の声まで抑えこむことになってしまい、その逆に
真我を自由に発露させようとすると自我の欲望まで自由にさせることになってしまった。
そのため私たちは、服を脱いではいけないという観念を強めるようになったのでした。
ポイントは、自我と真我の切り分けにあるということです。
それさえ理解してしまえばあとは自然にコトは運びます。
自我を抑えつつ、真我は素っ裸になる。
それは当たり前に叶う話です。
矛盾するのではないか困難ではないかという疑心は、自我の仕組んだトリックに他なりません。
私たちは自我も真我もひっくるめてその上から服を着せて化粧をしている。
その服なり化粧なりを「自覚」する。
たったそれだけのことが、真我の解放への第一歩になるということです。
私たちは意識して服を着ている場合もあれば、知らず知らずのうちに服を着ている場合もあります。
その意識していない時こそが特定のパターンに身を任せている状態であり、それこそが自分像という服に身を包んだ状態であるわけです。
隣近所や会社、他人と接する時のいわゆる外ヅラであればそれが飾り物であることを私たちは自覚できています。
ただ、自分でも気がついていない自分像や自分らしさとなると、なかなか自覚することはできません。
元気ハツラツな自分
湿っぽい自分
サッパリした自分
地味な自分
強気な自分
気弱な自分
こうした自分像というのは、決して私たちそのものではないわけです。
それは、ここ最近お気に入りの服装でしかなく、私たち自身ではない。
しかしそれらに同化しすぎるあまり、私たちはそれが自分自身だと思い込んでしまっています。
そして厄介なことに、自分でないそれを自分だと思い込んでいる時、それを引き剥がして客観視するのは至難の技となります。
ではどうすればいいのか?
自力ではそうしたことが困難だとしても、この世にはその取っ掛かりとなるイベントがいくつも用意されています。
その一つが「病気」です。
体調を崩している時というのは何とも言いがたい心地になるものです。
痛みや苦しみで心に余裕がなくなり、身の回りのことも手につかなくなります。
そのうち体力が落ちてくると気力や活力が失われ、これまで当たり前にやれてたことが上手くできず、苦しさと悲しさがつのっていきます。
このペースでやれて当たり前
このボリュームをやれて当たり前
その時そこには「自分にとっての当たり前」というものが、ありありと存在しています。
目の前の景色の中に、それが出来ている自分の姿がガッチリと描き込まれています。
これが「自分像」という服であるわけです。
この自分像とは、すなわち昨日までの私たちの姿のことです。
私たちは日々、昨日と同じ服を着ている。
その姿が今この目の前の景色に刷り込まれ、そしてまだ存在しない明日の景色にも自動的に刷り込まれていきます。
普段から着ている自分という服がどういうものなのか。
体調が悪くなった時というのはそれが客観視できる瞬間だと言えます。
それは私たちや周りの人たちが抱くイメージであり、昨日の虚像でしかないわけです。
病気というのは、私たちが着ている服を気がつかせてくれるものだと言えます。
イメージや虚像も長年それと同化していると、感覚として自分そのものと認識するようになります。
それが健康な時には1ミリもズレることがないため気づくことができないだけです。
病気になるとそうしたものがたちまち分化して、本来の状態が現れる。自分像と離れた今ココの私たちが知覚されるようになります。
しかし長らく同化に慣れ親しんだ私たちにとってそれは不自然以外のなにものでもない。
むしろこれまで共にあった自分像に置いていかれると、現実から置き去りをくらってるような錯覚に襲われます。
病床に伏している時の感覚を思い返しますと、昨日までの自分との分離感というのは、この世から脱落するかのような焦りとなり、何とも言えぬ
物哀しさに包まれました。
実際、体力や活力が落ちている時、当然ながら今までと同じボリュームはこなせなくなります。
何とか気持ちだけでも元のレベルに近づこうともがいても、絶望的なほど遠く及びません。
街中を歩いていても次々と追い抜かされ、何とも情けない悲しい気持ちになります。
そしてこの分離感というのは、身体が病んだ時だけでなく、心が疲れ果てた時にも訪れます。
頭に映る自分像と今この自分との乖離を埋めようとあがくほど、ますます置いていかれる
絶望を感じながら、しかしそこで心が折れたら本当の終わりのように思う
それを認めてしまうことは、この世の現実からのドロップアウトになってしまう…
自分像からの脱落は決して現実(この世)からの脱落ではないのに、まるでそうであるかのように思い込んでしまうと、「死んではいけない」という本能と結びついて、理屈抜きに限界を超えた
無理を続けることになっていきます。
これが、現代社会に生きる私たちが陥る神経衰弱のパターンです。
自分像から脱落してはいけないという思いと、死にたくないという本能。
本来それらは全くの別物なのに、自分像が自分自身だと思い込んでしまうと、それらが一つのものとなる。
そうなると、自分像を諦めることは生きるのを諦めることと同じになってしまうわけです。
昨日まで、一年前まで、当たり前に出来ていたことが出来なくなってしまった自分というのを認めた(諦めた)瞬間、ガムシャラに生き抜こうと
する本能をも諦めた(手放す)ことになってしまう、つまり死を受け入れることになってしまう。
心を病み、心を壊し、去っていく人たちというのは、本当に純粋で真面目で頑張り屋さんだと言えます。
ただ真実はその置いていかれている自分こそが本当の私たちであるわけです。
今ココの私たちが、本当の私たちです。
身体が病んだ時や心が疲れ果てた時というのは、本当の私たちに触れる瞬間に他ならないということです。
今この世の中は、あらゆる場面での自分像が多くなり過ぎています。
会社での自分
仲間内での自分
ご近所での自分
家庭での自分
会社では優等生が当たり前
家に帰っても優等生が当たり前
外を歩いていても優等生が当たり前
いつも様々な理想像に迫られ、自分像に縛られ、そんな自分像と距離が開くと慌てて無理を重ねる…
もともと私たちは、本当の自分が「今ココに在る私たち」であることを分かっています。
しかし多忙や重責により自分像に同化しすぎてしまうと、本当の自分の感覚が薄れ、自分像に引きづられるようになっていく。
さらに言えば、これは自分では無い、これではいけないと気づいて脱却を図ろうとしても、今度はまわりの人たちが無意識のうちにそれを
許してくれなかったりします。
仕事仲間にせよ家族にせよ、みんなの頭の中には「昨日までの私たち像」が刷り込まれているためその色メガネを通した姿しか見えていません。
頭に刷り込まれた姿が正ですので、それとのギャップが生じた時には目の前の私たちの方が誤りという判断をするようになります。
何か今日のあなたはおかしいよ
今のあなた、いつもと違うよ
と。
そうしますと私たちは自分像を再現しようと無理を重ねることになります。
体にムチ打ち、昨日までの私たちに近づこうとします。
しかしそもそもが支離滅裂な話ですので、そんなことがいつまで続くものではありません。
いま一度、繰り返します。
身体が弱った時、心が疲れきった時、今この自分こそが本当の私たちです。
それにムチ打とうとすること自体が無茶苦茶であるわけです。
着古した洋服を無理やり着ようとする必要は無いのです。
まわりの色メガネも、自分自身の色メガネも気にしない。
元の自分像などサッサと手離していいのです。
まわりは勝手に期待したり、勝手に失望したり、勝手に怒ったりするかもしれません。
そこで、昔と今の自分が違うことを理解してもらおうとするのは無駄な努力でしかありません。
彼らの頭に刷り込まれた「昔の私たち」は変えられるものではないのです。
この世界というのは、他人をどうにかしようとして出来るものではありません。
なぜならばこの世界は常に私たちが中心にあるからです。
外のものを変えることはできません。
変えられるのは内のものだけです。
そもそもこの世界は私たちがどう感じるか、どう楽しむか、そのために存在しています。
他の誰かがどう感じるかということを中心に置くのは、世界の成り立ちとして無理があるわけです。
誰かに認められたいとか、期待に応えたいとか、失望されたくないとか、受け入れられたいとか、そういう思いこそが自分像にしがみつく一番の
元凶です。
たとえ相手の爆発を招くことになったとしても、私たちが自分像を捨てなければ先はありません。
まわりというのは実際それほどは私たちに期待をかけてはいません。
私たちが勝手にそう思い込んでいるだけで、そこまで他人のことなど見ていません。
みんな自分のことに必死なのです。
ですから、いざとなればまわりの目などは放っとけばいい、勝手に失望しろと思えることです。
しかし、自分自身だけはそうはいかない。
自分自身は、自分に期待をかけているため、自分を見捨てたくないと思ってしまいます。
しかもそれが無意識のうちに働いてしまうので、余計に無理を重ねることになります。
もう一度、体調が悪い時のことを思い返すとそれがよく分かります。
昨日までの自分像と今ココの自分のギャップが大きくなればなるほど、気持ちは折れることなく前へ前へと進む。
まわりなど見る余裕は無くなり、霧の中をフラフラとさまよう夢遊病者のようになっていく。
自分にとっての「当たり前の状態」。
体も心も元気で、普通に過ごしている状態。
そのような感覚とのギャップに悲しみとモヤモヤで胸がいっぱいになる。
さてそれでは、まわりの目は捨て置けばいいとして、自分自身の目はどうすればいいのか。
ここでは一つの方便を挙げたいと思います。
それというのは、今より良い時を頭に浮かべるから苦しくなるのですから、逆に今よりつらい時に思いを巡らせてみるとどうかと言うものです。
これは苦しさを手放すための方便です。
自分像を脱ぎすてるためには、もつれた糸を一つ一つ解きほぐしていく地道な作業が有効となります。
たとえば体調不良の時でしたら、その体調が一番ボトムの時を思い返してみる。
ボトムの時は、立って歩こうものなら頭に激痛が走り、胸はムカムカと気持ち悪くなり、意識が遠のくようなツラさだった。
それが今は、フラつきはするものの、あの時のような激痛までは無いし、こうやって歩くこともできる。
あの時のツラさを思えば今はこんなにもラクになっている。そう考えると先ほどまでの身体的な痛みや苦しみが、事実、半分以下に落ち着いて
いることに気がつきます。
これは決して比較しろという話ではありません。
今よりも下を見ろという話でもありません。
ただ、悪かった時を思い返した途端に痛みが和らぐという事実がそこにあるということです。
気持ちの問題などと言葉だけで安易に片付けてしまう話ではありません。
実際に痛みは無くなる、あるいは軽減してる。それが極めて重要であるわけです。
この事実を体験することで、私たちはそもそも最初の苦しみ自体も、良かった時との比較によって現実化したものだったことに気がつきます。
気分の問題にとどまらず、痛覚という実存的なものまでも私たちの意識が作り出しているのを知るということです。
責め立てると痛みや苦しみは倍増し
感謝すると痛みや苦しみは半減する
気の持ちようということではなく、それは事実としてそのような現実が顕現しているわけです。
そこに、私たちが仮初めの服を脱ぐためのヒントがあります。
それは病気という一場面に限らず、私たちが自分像を着込んでいるあらゆる場面に当てはまることだと言えます。
(つづく)
家庭、学校、会社、社会。
様々な環境に身を置きながら少しずつ染みついていったものを私たちは「自分」と思うようになっていきました。
それを自分らしさ、あるいは自分の性格と思い込んでいたりもします。
男というのは
女というのは
子供というのは
大人というのは
サラリーマンというのは
主婦というのは
夫というのは
妻というのは
人というのは
自分というのは
「こういうものだ」
親に教えられたり、本を読んだり、誰かの背中を見たりして、自分なりに取捨選択してきた寄せ集めが自分の立ち居振る舞いとなり、いつしか
それが自分らしさ、自分像となっていきました。
この世で生きていく上で自分勝手というのは不具合が生じる。そのため私たちは、まわりの空気を読もうとしたり、自我を抑えなくてはならない
と考えるようになりました。
素っ裸のままではいけない、スッピンのままでは恥ずかしい。そうして服を着たりお化粧をするようになったのでした。
そしてそんな窮屈で息苦しい状態が続くほど、私たちは自由に憧れるようになっていきました。
もともと子供の頃はそんな服など来ていませんでした。
あの頃のように自由気ままに素っ裸になれたらどんなにラクか。しかしそう思うとたちまち、社会的にも良識的にも裸になってはいけないという
自制心が働く。
そうして、自分を作らないこと、自分を縛らないことは夢物語と化すのでした。
そしてまた昨日と同じ服を着続けて、いつも同じ反応、同じ思考、同じ感情を繰り返しリピートする。
「それが私である」と思い込んで。
まわりの人に言われてではなく、私たち自身が、自分とはそういうものだと諦めてその自動反応パターンに身を預けてしまっているわけです。
私たちが性格や資質と思っているものは先天的なものだけではなく、後天的なものも多々あります。
しかしそれをごちゃ混ぜにして、自分はこういう性格だから仕方ないと信じ込んでしまったりしています。
若い頃の自分はどういう性格だったでしょうか。
高校生の頃は? 子供の頃は?
もっとハキハキしてた、もっと明るかった、もっと優しかった、もっとおおらかだった…
生活が変わったから仕方ない、歳を重ねたから仕方ない、というのは乱暴な話です。
それは性格ではなく、単にいま選り好んで着ている服に過ぎません。
いつでも脱ぎすてることができるものであるわけです。
「いったい、私とは誰なのでしょう?」
いま一度、私たちがなぜ服を着るようになったのか振り返ってみます。
私たちは生まれたままの無垢な状態から、年齢とともに自意識が芽生え、欲望は抑えねばならないという考えを抱くようになりました。
好き勝手やってしまうと他人に迷惑をかける、うまくやっていけない、恥ずかしい、野蛮だ、受け入れてもらえない…
だから、服を着ないといけない。
そうして社会へ溶け込むために自分像という服を着るようになりました。
そのことをキリスト教ではエデンの楽園追放という形で表現されています。
アダムとイブは欲望に目覚めたことで、裸を隠すようになったとあります。
そこでは、人間は我欲というドロドロしたものを抱いてしまったために楽園から追い出された罪人として描かれています。
しかし実際は楽園を追われて服を着たのではなく、服を着ようとした瞬間そこは楽園では無くなったというのが正解です。
私たちは追放されたのではなく、自ら楽園を去ったということです。
今まさに我欲を抑え込むために自分像を着込んで繕っていますが、それこそが我欲の上塗りでしかありません。
我欲まみれで追放された、だからそれを抑えるために服を着なくてはいけない、というのは全く逆の話であるわけです。
示唆に富んだ神話なのに、そこの解釈を間違えてしまうとおかしくなってしまいます。
もともと私たちの生き方を正しく導くための教義であったのに、自我と真我の区別がなされていなかったために混乱が生じてしまいました。
自我と真我がいっしょくたになってしまった結果、本能や我欲を抑えようとする規律が真我の声まで抑えこむことになってしまい、その逆に
真我を自由に発露させようとすると自我の欲望まで自由にさせることになってしまった。
そのため私たちは、服を脱いではいけないという観念を強めるようになったのでした。
ポイントは、自我と真我の切り分けにあるということです。
それさえ理解してしまえばあとは自然にコトは運びます。
自我を抑えつつ、真我は素っ裸になる。
それは当たり前に叶う話です。
矛盾するのではないか困難ではないかという疑心は、自我の仕組んだトリックに他なりません。
私たちは自我も真我もひっくるめてその上から服を着せて化粧をしている。
その服なり化粧なりを「自覚」する。
たったそれだけのことが、真我の解放への第一歩になるということです。
私たちは意識して服を着ている場合もあれば、知らず知らずのうちに服を着ている場合もあります。
その意識していない時こそが特定のパターンに身を任せている状態であり、それこそが自分像という服に身を包んだ状態であるわけです。
隣近所や会社、他人と接する時のいわゆる外ヅラであればそれが飾り物であることを私たちは自覚できています。
ただ、自分でも気がついていない自分像や自分らしさとなると、なかなか自覚することはできません。
元気ハツラツな自分
湿っぽい自分
サッパリした自分
地味な自分
強気な自分
気弱な自分
こうした自分像というのは、決して私たちそのものではないわけです。
それは、ここ最近お気に入りの服装でしかなく、私たち自身ではない。
しかしそれらに同化しすぎるあまり、私たちはそれが自分自身だと思い込んでしまっています。
そして厄介なことに、自分でないそれを自分だと思い込んでいる時、それを引き剥がして客観視するのは至難の技となります。
ではどうすればいいのか?
自力ではそうしたことが困難だとしても、この世にはその取っ掛かりとなるイベントがいくつも用意されています。
その一つが「病気」です。
体調を崩している時というのは何とも言いがたい心地になるものです。
痛みや苦しみで心に余裕がなくなり、身の回りのことも手につかなくなります。
そのうち体力が落ちてくると気力や活力が失われ、これまで当たり前にやれてたことが上手くできず、苦しさと悲しさがつのっていきます。
このペースでやれて当たり前
このボリュームをやれて当たり前
その時そこには「自分にとっての当たり前」というものが、ありありと存在しています。
目の前の景色の中に、それが出来ている自分の姿がガッチリと描き込まれています。
これが「自分像」という服であるわけです。
この自分像とは、すなわち昨日までの私たちの姿のことです。
私たちは日々、昨日と同じ服を着ている。
その姿が今この目の前の景色に刷り込まれ、そしてまだ存在しない明日の景色にも自動的に刷り込まれていきます。
普段から着ている自分という服がどういうものなのか。
体調が悪くなった時というのはそれが客観視できる瞬間だと言えます。
それは私たちや周りの人たちが抱くイメージであり、昨日の虚像でしかないわけです。
病気というのは、私たちが着ている服を気がつかせてくれるものだと言えます。
イメージや虚像も長年それと同化していると、感覚として自分そのものと認識するようになります。
それが健康な時には1ミリもズレることがないため気づくことができないだけです。
病気になるとそうしたものがたちまち分化して、本来の状態が現れる。自分像と離れた今ココの私たちが知覚されるようになります。
しかし長らく同化に慣れ親しんだ私たちにとってそれは不自然以外のなにものでもない。
むしろこれまで共にあった自分像に置いていかれると、現実から置き去りをくらってるような錯覚に襲われます。
病床に伏している時の感覚を思い返しますと、昨日までの自分との分離感というのは、この世から脱落するかのような焦りとなり、何とも言えぬ
物哀しさに包まれました。
実際、体力や活力が落ちている時、当然ながら今までと同じボリュームはこなせなくなります。
何とか気持ちだけでも元のレベルに近づこうともがいても、絶望的なほど遠く及びません。
街中を歩いていても次々と追い抜かされ、何とも情けない悲しい気持ちになります。
そしてこの分離感というのは、身体が病んだ時だけでなく、心が疲れ果てた時にも訪れます。
頭に映る自分像と今この自分との乖離を埋めようとあがくほど、ますます置いていかれる
絶望を感じながら、しかしそこで心が折れたら本当の終わりのように思う
それを認めてしまうことは、この世の現実からのドロップアウトになってしまう…
自分像からの脱落は決して現実(この世)からの脱落ではないのに、まるでそうであるかのように思い込んでしまうと、「死んではいけない」という本能と結びついて、理屈抜きに限界を超えた
無理を続けることになっていきます。
これが、現代社会に生きる私たちが陥る神経衰弱のパターンです。
自分像から脱落してはいけないという思いと、死にたくないという本能。
本来それらは全くの別物なのに、自分像が自分自身だと思い込んでしまうと、それらが一つのものとなる。
そうなると、自分像を諦めることは生きるのを諦めることと同じになってしまうわけです。
昨日まで、一年前まで、当たり前に出来ていたことが出来なくなってしまった自分というのを認めた(諦めた)瞬間、ガムシャラに生き抜こうと
する本能をも諦めた(手放す)ことになってしまう、つまり死を受け入れることになってしまう。
心を病み、心を壊し、去っていく人たちというのは、本当に純粋で真面目で頑張り屋さんだと言えます。
ただ真実はその置いていかれている自分こそが本当の私たちであるわけです。
今ココの私たちが、本当の私たちです。
身体が病んだ時や心が疲れ果てた時というのは、本当の私たちに触れる瞬間に他ならないということです。
今この世の中は、あらゆる場面での自分像が多くなり過ぎています。
会社での自分
仲間内での自分
ご近所での自分
家庭での自分
会社では優等生が当たり前
家に帰っても優等生が当たり前
外を歩いていても優等生が当たり前
いつも様々な理想像に迫られ、自分像に縛られ、そんな自分像と距離が開くと慌てて無理を重ねる…
もともと私たちは、本当の自分が「今ココに在る私たち」であることを分かっています。
しかし多忙や重責により自分像に同化しすぎてしまうと、本当の自分の感覚が薄れ、自分像に引きづられるようになっていく。
さらに言えば、これは自分では無い、これではいけないと気づいて脱却を図ろうとしても、今度はまわりの人たちが無意識のうちにそれを
許してくれなかったりします。
仕事仲間にせよ家族にせよ、みんなの頭の中には「昨日までの私たち像」が刷り込まれているためその色メガネを通した姿しか見えていません。
頭に刷り込まれた姿が正ですので、それとのギャップが生じた時には目の前の私たちの方が誤りという判断をするようになります。
何か今日のあなたはおかしいよ
今のあなた、いつもと違うよ
と。
そうしますと私たちは自分像を再現しようと無理を重ねることになります。
体にムチ打ち、昨日までの私たちに近づこうとします。
しかしそもそもが支離滅裂な話ですので、そんなことがいつまで続くものではありません。
いま一度、繰り返します。
身体が弱った時、心が疲れきった時、今この自分こそが本当の私たちです。
それにムチ打とうとすること自体が無茶苦茶であるわけです。
着古した洋服を無理やり着ようとする必要は無いのです。
まわりの色メガネも、自分自身の色メガネも気にしない。
元の自分像などサッサと手離していいのです。
まわりは勝手に期待したり、勝手に失望したり、勝手に怒ったりするかもしれません。
そこで、昔と今の自分が違うことを理解してもらおうとするのは無駄な努力でしかありません。
彼らの頭に刷り込まれた「昔の私たち」は変えられるものではないのです。
この世界というのは、他人をどうにかしようとして出来るものではありません。
なぜならばこの世界は常に私たちが中心にあるからです。
外のものを変えることはできません。
変えられるのは内のものだけです。
そもそもこの世界は私たちがどう感じるか、どう楽しむか、そのために存在しています。
他の誰かがどう感じるかということを中心に置くのは、世界の成り立ちとして無理があるわけです。
誰かに認められたいとか、期待に応えたいとか、失望されたくないとか、受け入れられたいとか、そういう思いこそが自分像にしがみつく一番の
元凶です。
たとえ相手の爆発を招くことになったとしても、私たちが自分像を捨てなければ先はありません。
まわりというのは実際それほどは私たちに期待をかけてはいません。
私たちが勝手にそう思い込んでいるだけで、そこまで他人のことなど見ていません。
みんな自分のことに必死なのです。
ですから、いざとなればまわりの目などは放っとけばいい、勝手に失望しろと思えることです。
しかし、自分自身だけはそうはいかない。
自分自身は、自分に期待をかけているため、自分を見捨てたくないと思ってしまいます。
しかもそれが無意識のうちに働いてしまうので、余計に無理を重ねることになります。
もう一度、体調が悪い時のことを思い返すとそれがよく分かります。
昨日までの自分像と今ココの自分のギャップが大きくなればなるほど、気持ちは折れることなく前へ前へと進む。
まわりなど見る余裕は無くなり、霧の中をフラフラとさまよう夢遊病者のようになっていく。
自分にとっての「当たり前の状態」。
体も心も元気で、普通に過ごしている状態。
そのような感覚とのギャップに悲しみとモヤモヤで胸がいっぱいになる。
さてそれでは、まわりの目は捨て置けばいいとして、自分自身の目はどうすればいいのか。
ここでは一つの方便を挙げたいと思います。
それというのは、今より良い時を頭に浮かべるから苦しくなるのですから、逆に今よりつらい時に思いを巡らせてみるとどうかと言うものです。
これは苦しさを手放すための方便です。
自分像を脱ぎすてるためには、もつれた糸を一つ一つ解きほぐしていく地道な作業が有効となります。
たとえば体調不良の時でしたら、その体調が一番ボトムの時を思い返してみる。
ボトムの時は、立って歩こうものなら頭に激痛が走り、胸はムカムカと気持ち悪くなり、意識が遠のくようなツラさだった。
それが今は、フラつきはするものの、あの時のような激痛までは無いし、こうやって歩くこともできる。
あの時のツラさを思えば今はこんなにもラクになっている。そう考えると先ほどまでの身体的な痛みや苦しみが、事実、半分以下に落ち着いて
いることに気がつきます。
これは決して比較しろという話ではありません。
今よりも下を見ろという話でもありません。
ただ、悪かった時を思い返した途端に痛みが和らぐという事実がそこにあるということです。
気持ちの問題などと言葉だけで安易に片付けてしまう話ではありません。
実際に痛みは無くなる、あるいは軽減してる。それが極めて重要であるわけです。
この事実を体験することで、私たちはそもそも最初の苦しみ自体も、良かった時との比較によって現実化したものだったことに気がつきます。
気分の問題にとどまらず、痛覚という実存的なものまでも私たちの意識が作り出しているのを知るということです。
責め立てると痛みや苦しみは倍増し
感謝すると痛みや苦しみは半減する
気の持ちようということではなく、それは事実としてそのような現実が顕現しているわけです。
そこに、私たちが仮初めの服を脱ぐためのヒントがあります。
それは病気という一場面に限らず、私たちが自分像を着込んでいるあらゆる場面に当てはまることだと言えます。
(つづく)