私たちは誰しも、自分のことを少しでも分かって欲しいという思いを抱いています。
そこに自我が入り込むことで、分かって当たり前という勘違いが生まれてしまいます。
なんでこんなことが分からないのか。
これくらいのこと分かって当然だろう。
そのように初めから決めつけてしまうと、現実とのギャップに怒りがどんどんとエスカレートしていくことになります。
これは誰か相手に対してだけでなく、目の前の出来事に対しても同じことで、「こうなるのが当たり前」と知らず知らずのうちに決めつけて
いると「そうならなかった現実」が現れた時にムカッとなってしまいます。
どちらも理屈は同じです。
そしてそうしたことが習慣になってしまうと我執にエネルギーが注がれっぱなしになって、常にイライラの状態になってしまいます。
そしてそのイライラを発散するために怒りをどこかにぶつけてスッキリしようとしてしまう。
しかしそんなものは仮初めの発散でしかないので、すぐにまたイライラが溜まっていくわけです。
これは隣国との関係性にも現れていることです。
そのような負のスパイラルを断ち切るためには、「期待しない」「諦める」というリセットが有効となります。
もし自分勝手な期待が心に浮かんでも、それは自我の生み出したものであって自分の生み出したものではありません。
自分のものだと思い込んでそれと心中することはありません。
これが引っ張られないためのポイントとなります。
ポッと浮かんでも、乗せられず、慌てず、自己嫌悪にも陥らず、そのまま冷めた目で静かに流していく。
期待しない。諦める。放っておく。
波が立ってもその静まっていくのを眺めていく。
その上で「いや、こういう絵を描こうとしているんだけど」と自分に浮かんでいる景色を伝えてみるのもいいかもしれません。
相手は他人。自分ではありません。
一を伝えて十の同じ景色を期待するのはもとより無理な話。
それが面倒であるならば、そもそも理想を押し付けない。やり方や結果がズレたとしてもムカッとしない。
どちらかであるわけです。
これは相手方にも当てはまりますし、こちら方にも当てはまります。
そうすることによって充電が絶たれてエネルギーが枯渇し、我執は少しずつ痩せ細っていきます。
そして特に何をするでもなく、気づけば「受け入れる」世界に居るでしょう。
これをいきなり国家レベルで語ると話が大きくなりすぎますので、まずは身近なところで年を重ねた夫婦を例にあげたいと思います。
恋人や夫婦というのは、一緒になってしばらくは仲良くやっていたはずが、何年も暮らしていくうちに何かと口論を交わすようになったり
します。
それが耐え切れずに別れるケースもありますが、期待しない、諦めるという流れに入ると、見返りを求める自我が自然に薄まっていきます。
その結果として、相手との壁も薄まっていき、いつしか受け入れている状態になります。
そうして、激しい衝突を重ねながらも老年に入ると、それまでが嘘のような平穏が訪れるという驚きの展開と成っていきます。
少しクドい話になりますが大切なことなので丁寧に進めたいと思います。
当初こそラブラブパワーによって怒りの種もすぐ摘み取られ、あるいは、嫌われたくないがため自らを抑えて相手を気遣ったりと、色々ある
わけです。
そのうち恋人なんだから夫婦なんだから自分の気持ちを分かって欲しい、分かってもらえて当たり前となってまいります。
おまけに以心伝心、言わなくても分かることが増えてきますと、他のことに対しても同じ期待が広がっていくものです。
ただ、基本は他人ですので、分かり合えない部分があるのが当たり前です。
しかしすでに期待値が上がりきって、分かって貰えるのが当たり前になってしまうと、分かって貰えない時のショックもそれだけ大きく
なっていきます。
それが怒りや悲しみという形になって現れるわけです。
そして、ここが本当の分かれ目。正念場となります。
ここで耐えきれずに離れ離れとなるか、ここを耐え忍びその先に行くか。
まさに今の国家関係を見ているようです。
すぐ傍らにいる人も、すぐ隣にある国も、やってることは何も変わりません。
とにかくココがてっぺんであるわけです。
ココを耐え忍んで歳を重ねていきますと、そうした反動や喧嘩をしないようになっていきます。
このことは先人たちが示してくれている通りです。
分かり合えない部分があってもそこは諦めて(=受け入れて)、目くじら立てずに放っておく。
自分の怒りの原因を諦める。
キーキー騒ぐことを諦める。
相手の怒りの原因を諦める。
キーキー騒がれるのを諦める。
それはもちろん相手を無視するということではありません。
心は相手に向けつつも、自らは波立たずに落ち着いていくということです。
これまでも隣国に対して冷静に振る舞っているといっても、それは相手の存在を無視してのものだったかもしれません。
だからそんな姿を見て、相手はこちらを波立たせようとトンデモナイ行動に出てきました。
人は皆、相手には自分と同じ土俵に居て欲しいということです。
そうでないと相撲が取れないからです。
しかしそうした時こそ、こちらは相手を大きく包みつつ土俵から降りるということです。
こちらの落ち着きというのは、必ず相手にも伝わっていきます。
こちらが静まっていると不思議なことに相手も少しずつ静まっていくのです。
最初のうちは騒ぎ立てたとしても、そのうち必ず静まっていきます。
深い森の中や、古い神社仏閣の境内に居ると、我知れず静まっていくのと同じです。
それは自我の土俵から降りていく過程であるわけです。
天地宇宙はもとより波立ちなど無い世界ですから、自我から離れれば誰もが素の状態に戻ります。
目の前にいる相手はこちらと綱引きをしているのではなく、自分自身、さらには天地宇宙と綱引きをしているのです。
こちらが落ち着きさえすれば初めから結果は明らかということです。
ただし、相手がその土俵から降りるまではそれなりの時間がかかります。
それを待ちきれずにこちらが少しでも波立ってしまうと、たちまち相手と同じ自我の世界に逆戻りですから、また振り出しから始めなくては
いけなくなります。
静まりというものが相手に伝わるように、波立ちというものもまた相手に伝わっていきます。
仮に相手が落ち着いていたとしても、こちらが波立っていますと、相手もその影響を受けて波立ってしまうのです。
例えば学芸会やプレゼンなどでも極端に緊張している人が居ると、それが伝染してまわりも緊張してしまうことがあると思います。
ましてや、相手がもともと波立っていた(怒っていた)ならば、こちらの波立ち(怒り)は相手をさらに波立たせることになるでしょう。
つまりは相手が良い悪いではなく、すべてはこちら次第、自分の気持ち次第であるということです。
そのようにしてお互い干渉せずに居りますと、自ずと静まった水面のように自我が薄まり、自他の別が無くなっていきます。
いつも大ゲンカしていた二人が老年に入ると謎めいた穏やな境地に入っていくのは、そこに理由があるのではないかと思います。
そして夫婦が長年一緒に暮らしていると何となく顔まで似かよってくるというのも、同じ理由からなのでしょう。
ですから隣国でエスカレートしている騒ぎにしても全く同じ話なのです。
何故そこまで挑発して来るのか、厳しく当たってくるのか。
それは自分のことを分かって欲しいという以上に、とにかく自分を見て欲しいからです。
好きな相手にわざと悪さをする子供と同じようなものです。
大国に接した小国というのは、どうしても親の目を気にしながら暮らすことになります。
それは卑屈とかそういうことではなく、生き残るための処世術であり天地自然にたがわない自然体であります。
ただ、そのような人生を長いこと歩まされると、親ないし誰かの目というものが自分に向いていないと、どこか落ち着かなくなってしまいます。
自分だけで一人生きていくということがおぼつかない。
そのため、歓心を買おうとしてしまうのです。
自分は一人前の大人である、一人でやっていける、という自信を持つためには必要以上に自画自賛をしてしまい、それでも足りない時は
誰かに認めてもらいたくて、ほら!ほら!と大声を出してしまう。
そうしたものはすべて地政的な不幸の裏返しであるわけです。
しかし、私たちの中学や高校の頃を思い出してみれば分かることですが、そのような心境の時に果たして親や大人たちがどのようにしてくれる
のが嬉しかったでしょうか。
それがまだ小学生の頃ならば、痛かったネ、凄いネと近くに寄り添ってくれるのが一番嬉しかったかもしれません。
ただ、もう少し大きくなった時にそんなことをされたら、子ども扱いするなーと叫んだことでしょう。
そんな15の夜の私たちがもっとも嬉しかったのは、一人の大人として真剣に接してくれることだったのではないでしょうか。
猫なで声でなだめられることでもなければ、謝られることでもなく、ましてや怒られたりすることでもなかったはずです。
子どもから大人になる途上というのは、分かって欲しいという甘え、構って欲しいという甘えと自ら戦っている時期でもありました。
前回に書きましたが、自分のことを「すべて」分かって欲しいというのはエゴですし、相手のことを「すべて」分かってあげたいというのも
エゴです。
思春期における親との関係を思い出してみますと、大国に寄り添う小国の潜在的な感情が垣間見えるのではないかと思います。
まだ小さい頃は、親子でぶつかり合っても「根っこでは分かり合っている」「同じ感覚を有しているはず」という幻想が存在しました。
しかしその事実を認めざるを得ないと感じることが、ほぼ思春期のあたりのタイミングにやってきました。
まさに自我が確立される時期でありました。
分かり合えない部分が存在するという事実は、子供の側にとっては非常なショックで、なかなか認めたくないものでした。
それを認めることが、何だか親を断罪したり見限ったりするようで、そんな酷いことはしたくないと思ったりしました。
それというのは裏を返せば、自分のことをすべて分かってくれていると思っていた存在が失われることへの恐怖でもあったわけです。
そんな自分勝手な期待を叶えて欲しいという思いを捨てられずにいるところで、それをあっさり否定するような現実を見せつけられてしまうと
ドカーンと爆発したくなるのでした。
「そうじゃない、そんなはずは無い、幻滅させないでくれ」とコチラの理想を勝手に押し付ける。
それは、自我と真我が重なり合って、自分のふるさとを失いたくないという我執が爆発した瞬間だったと言えるかもしれません。
しかし私たちはその中心に自我を置くかぎり、たとえ親であろうともその全てを分かり合えることは無理だと言わざるを得ません。
何故ならば、この世に生まれ出てきた時点で、私たちは分離という仮想現実を味わいに来ているからです。
私たちは自立とともに親離れの過程を経て、分離というものを自然に受け入れていきました。
そこに至る直前の悶々とした気持ちというのは表現しようのないものでした。
隣国はまさにその状態にあると言えます。
いや、本来ならばとっくにひとり立ちをして誰の庇護もなく歩けていたはずが、体の成長に心が追いつかず、いい歳をしてまわりの大人に
騒ぎ立てることでしか自己の存在確認を出来ない、あの成人式の暴れん坊たちの心境なのかもしれません。
そこに共通するのは、世に認められることがなかった孤独感と寂しさ、そして自己の居場所を探しあぐねている不安と苛立ちです。
自分を見てくれ、自分はここに居る、と。
実の親であっても分かり合えない部分は存在します。
それこそがむしろ相手の存在に敬意を払うことに他なりません。
そのようにして自他の別を受け入れた時に、ようやくお互いをありのままに認め合うことができるようになります。
それは「分かり合えるはずだ」という我執を手離した瞬間でもあります。
分かり合えない部分があろうが無かろうが、相手を思う気持ちは変わるはずがありません。
それこそが相手を尊重し、受け入れることに他ならないわけです。
私たちが何をしようが、天地自然はそれをそのまま尊重します。
私たちが天地自然の心を分かろうが分かるまいが、たとえ天に唾を吐くような真似をしようとも、褒めもせずけなしもせず、ただ
受け入れます。
何をしようとも、私たちを思う心は何一つ変わることがありません。
波ひとつ立たず、何の壁も作らず。
私たちのことを分かるとか分からないとか、そのようなことは全く何の意味もないこと。
私たちを思う心は1ミリもブレることがない、それだけは絶対であるからこそ、他のどんなこともそれを揺るがすことはない。
そしてそれが絶対であればこそ、私たちのことを理解しようとか、全てを分かろうとか、そんな判断めいた気持ちなど起こりようもない
わけです。
私たちもまた天地自然の心のように、その深い部分が揺らぐことなく相手をそのまま受け入れるのであれば、白黒つけるような判断材料など
どこ吹く風となるでしょう。
それこそが、自他の壁が薄まった瞬間ということです。
さて、ここで一つの疑問が沸きあがるかもしれません。
「自他の別」を味わいにこの世に来ているのに矛盾するのではないかと。
それはこういうことではないかと思います。
私たちは「自他の別」を味わいながら、他方で「自他の別のない」状態を味わうことで、この世をより深く味わえるようになる、と。
つまり、ごく近しい人たちとの壁が薄まる一方で、それ以外の人たちとはなお自他の別が存在するということです。
私たちは、もともと「一つ海」の状態からわざわざ自他の別を擬似体験するためにこの世に生まれてきました。
そうして歳を追って少しずつ壁が薄まり両極を味わえるようになると、これまで以上に他極の味わいも広がってまいります。
そして、死してのちまた自他の別の無い一つ海に戻るということです。
「私たちは分かり合えない」
でも、その先には分かりあっている状態へと自然と成っていくのでしょう。
すべては段階です。
言葉だけを見れば、その時その時によって180°反対になっていきます。
一方向だけのレールでは私たちの視界は一本調子なものとなってしまいます。
版図を広げるためにはダーッと進むだけ進んだのち、また別の方向へと進む必要があります。
とはいえ目標に向かってそれまで全力疾走していたのを急に方向転換するというのは至難の技です。
とりわけ、自我がそれを許しません。
だからこその方便であるわけです。
「分かり合えないのが当たり前」
それが今ここでの方便となります。
さて、本来ならばこの辺りで一旦区切って、次回の仕切り直しにするところなのですが、あちこちへ話が広がってしまっていますので
このまま続けさせて頂きたいと思います。
もう少しだけお付き合いの程お願い致します。
欧米に目を移してみますと、こちらでは移民が深刻な問題となっています。
もともと移民の受け入れというのは、寛大な心、慈悲の思い、大人の対応、そうしたものからスタートしています。
しかし「心を開いて受け入れよう」というスローガンは、言葉そのものが自身を自己否定してしまっていることを認めなくてはいけません。
「〜しよう」という表現は後付けの理屈です。
私たち自身の中に反発心や不安が1ミリでも生じた時点で、どうしても上塗りになってしまうというのが事実です。
にも関わらず、それをお題目のように唱えてのべつまくなしやってしまうと、上塗りに上塗りを重ねて、いつしか雪崩れのように一気に
崩れてしまうことになります。
決して、目標や理想が無意味ということではありません。
そこに我執が生じてしまったり、反発心や不安に目をつぶって無理をするのが良くないということです。
しかしながら、難しい問題ほど無理をしてでも克服しようとしてしまうものです。
それが自分自身のことであれば尚更そうですし、実際それで何とかなったりするので、余計ややこしくなってしまいます。
自分の理想や目標というのは、努力や根性、あるいは忍耐により実現していきます。
それは自分の世界だからです。
しかしその成功体験をもとに、他人が関わる物事まで同じようにやってしまうと、なかなか上手く行かず事態を難しくすることになります。
それでもまだ、他者が自分と同じ世界に居る状況ならばそれは実現しやすいと言えるでしょう。
例えば、同じ部活、同じ会社、同じグループなどがそうです。
しかし、範囲が広がれば広がるほどそこには色々な人が関わってきます。
そうなると、少し違う世界に居る人達を、自分と同じ世界に引き込もうとしてしまいます。
同じ世界に立っていないと理想が実現しないことを私たちは知っているからです。
同じ世界に引き込むという行為は、自分のことを分かって欲しいという行為と同じです。
同化したいという願望がそこにはあります。
しかし、それこそが我執であり、実現を遠ざけるものであり、さらには衝突やいがみ合いを生み、怒りや苦しみを生んでしまうものである
わけです。
人間関係というのは古今東西この世で最も困難な問題だと言えるでしょう。
ただ、それこそがこの世でしか味わえないものであり、最上の料理ともなっています。
理想というのは「今ここ」ではない「何処か」にあるものです。
しかし、過去未来のあらゆる現実は、紙一重で今ここの裏表にあります。
私たちの思いは天地の風となり、私たちの「今」はそこへと流れていきます。
そして、波立ちと落ち着きの話と同じように、それが「今」へ伝わっていくには時間がかかります。
そこで無理押しをするとその我執が風を妨げてしまうことになります。
「今」を無理やり「何処か」に合わせこもうとしたところで、成らぬものは成らない。
無理押しは我慢との闘いとなり、我執は不満や苛立ちという現実を招きます。
つまり、成らないものはもの成らないという「達観」がここでもまたキーとなってくるということです。
理想。目標。それを描いて歩き出したら、あとは
その一歩一歩にだけ心を向ける。
理想や目標に囚われてしまわない。
心に余裕がある時は、波立つことなく現実を淡々と受け入れることができます。
しかし自分の本心を押さえつけて無理をしているかぎり、わずかでも余裕がなくなった途端、砂の城のように脆く崩れ去っていきます。
移民の受け入れというのは、中身が追いついていないままに三段跳びで引き寄せた理想です。
色々な思いを噛み殺して、大きな心で受け入れられていたものが、仕事を奪われたり治安が悪化したりして余裕がなくなると一気に崩壊して
しまいました。
秩序というのは調和があって成るものです。
そして調和とは、作為的な理屈によって作り上げられるものではなく、自然な流れの結果生じるものです。
「かくあるべきだ」「こうありたい」という理念は、度が過ぎると混乱を生じさせることにしかならないわけです。
心のどこかにヤセ我慢を含んだまま理想を達成しようとしてもそれは砂上の楼閣にしかなりません。
中身の追いついていない背伸びというのは、かえって大きな崩壊を招くことになってしまいます。
「自分たちは成熟した社会人であるのだから、弱者を助けなければいけない」というのは立派な考えですが、そこに優等生たろうとする
我執が入ってしまうと無理強いにしかならなくなります。
「歴史的な義務」という贖罪意識でさらに痩せ我慢を重ねてしまったドイツは本当に痛ましい状況に追い込まれています。
結果として、ドイツ国民は言うに及ばず、移り住んだ移民までも不幸となり、これまで以上に根深い軋轢を生み出してしまいました。
いま一度、なぜ国境というものが生じたのかというところに立ち返りますと、それは私たちの心の在り方へとそのまま繋がってきます。
ここで一旦、原点に戻って考えてみます。
日常生活において己の「自我」にどのように接していくか…
何千年、何万年の人類史というのはまさにその成長の歴史だったと言えます。
我執に振り回されるか、そこから距離を置くのか、そうした心の在りようが形となって現実が作り出され、それが歴史となりました。
その一方で、この世という大河は秩序に向かって流れています。
小さい範囲だけを見れば混沌に見えても、極限まで広げて見れば、全ては秩序の中にあります。
私たちの心が反映された現実もまた秩序へと向かっているものであり、そうしたなかで国というものが生まれました。
私たちの心の在りよう、それを前提とした秩序が今の形であるわけです。
専制君主にしても、独裁政権にしても、その時その場に住む人たちの心の在りようから生み出された秩序だったということです。
秩序にも段階があり、調和にも段階があります。
理想がどうであろうと、その時その場の条件に見合ったバランスが保たれていくわけです。
アラブの春が訪れる以前の国々にせよ、未だに独裁の国にせよ、機というものがあります。
住まう人たちの我執が変化した時に、現実も形を大きく変わっていくということです。
そしてそれには相当数が世界観を共有することが必要であり、さらにまた大きなタイムラグもあるわけです。
秩序へ向かう大河は天地宇宙に流れ続けています。
私たちの心が変化すれば、必ず現実は変わっていきます。
しかしその流れや風を無視してゴリ押しで変えてしまうと、風は止み、混乱を招くことになってしまいます。
いま私たちが心に思う「国境なんて無いのだ」「無くていいのだ」というのは確かにその通りなのですが、それが秩序とともに成立する
のはあくまで私たち自身が己の自我に対して冷静になれていることが前提であるわけです。
今この段階においては、まず「私たちは違うのが当たり前」「お互いに分かり合えないのが当たり前」という割り切り方ができるように
なって初めて、国境がなくなったり移民を受け入れたりするための第一歩が進むということです。
それはまだ前段でしかないわけです。
それなくして結論だけ焦ってヤセ我慢をし、優等生発言を重ねるのは、かえってエゴを太らせる
ことにしかなりません。
そしてそうした状況に警鐘を鳴らすかのように、私たちの理解や行動よりも先に、現実の方が舵を切り戻しているというのが今なのではないか
と思います。
イギリスを筆頭としたEU問題もそうですし、アメリカの大統領選もそうです。
そして私たちの隣国の騒ぎも根っこは同じであったわけです。
和合というものは、違いを認めることから生まれます。
違うのが当たり前。
その違いを認めることが差別になると考えて蓋をしているうちは、ヤセ我慢の受け入れでしかありません。
和合には程遠く、お互いストレスに耐え忍ぶ状態そのものです。
天地自然を仰ぎ見れば、多種多様な生き物が存在しています。
様々な動物や植物が自由に生きています。
天地に広がる空間の中で、私たちが他の生き物のことを必要以上に意識するようなことはありません。
それこそは、あらゆる存在に対して白黒判断つけずにそのまま受け入れている状態であるわけです。
天地自然。それが和合の姿です。
大地の木々や動物たちは私たちと異種だから気にならないだけなのでしょうか?
身近な人や隣近所の人、あるいは異国民というのは、私たちと同種であるから気にしてしまうのでしょうか?
もしもそうだとすれば、私たちは自分に近ければ近いほどに、何か甘えようとして、何かに期待をしてしまっているということが浮き彫りに
なってまいります。
自分をすべて分かって欲しいという思いと、相手をすべて分かりたいという思いは、どちらも同じものです。
つまり、あなたと私、同じ世界に同化したいというものです。
動物や植物というのはあまりにもかけ離れているためにハナから同じ心を共有することなど無理だと決めつけています。
逆に、近い人たちほどそれは叶うものだという幻想を抱いてしまっています。
しかしそれこそが民族主義となり差別主義ともなっているわけです。
心が同化できるはずだという無意識の期待は、相手が近いほどに膨らみます。
それゆえに、それが叶わなかった時は最も憎らしい相手にもなってしまいます。
同じ宗教であっても、わずかな解釈の違いだけで激しい衝突が起きています。
同じイスラム教の中での派閥闘争は凄まじいものですし、キリスト教もまたそうでした。
そしてそのイスラム教やキリスト教にしてもその出所は同じものだったわけです。
逆に仏教やその他宗教のように全く違うものに対しては、あまりに遠すぎるが故にぶつかることもないというのが事実です。
それは、全てを分かり合うことなど無理だとお互いに達観しているということでもあります。
親族や家族、夫婦など、近しいほどに自我が剥き出しとなり、そこへのエネルギー注入が垂れ流しになっていく。
ブレーキが甘くなってしまう。
幻想に対する過度な期待が、叶わぬ現実への怒りとなる。
どれもみな同じ構図です。
いま一度振り返ってみましょう。
「動物や植物は私たちとあまりにもかけ離れているためにハナから同じ心を共有することなど無理だという達観」
「仏教やその他宗教のように全く違うものに対しては、遠すぎるが故に期待も生じずそのまま流してぶつからない」
そこにこそ、天地自然の調和が生まれていることに気がつくのではないでしょうか。
あらゆる存在は、この天地自然の中で、どんな相手に対してもこだわりを抱いたりしていません。
それが大自然の調和であるわけです。
それというのは、まさに私たちが他の動植物に対して抱いている感覚に他なりません。
そこには差別も拒絶もありませんし、期待も不安もないはずです。
それ以前の、無の感覚であると思います。
それが天地自然の感覚です。
それが無我です。
それを自我の視点で表現するならば、期待しない、分からないのが当たり前ということになります。
異種だから、同種だから、血縁者だからと、スイッチをオンオフすることから全ては始まっていたわけです。
天地自然の無我のままに、理想や目標を掲げたならば、こんなに心がラクなことはないのではないでしょうか。
私たちの心が揺れれば揺れるほど、寄せては返す波のように現実もまた揺れ動きます。
夢が現実に近づいたと思ってもすぐ遠ざかり、もうダメだと思ったらまた近づいてくる。
その繰り返しを経ていくうちに反復は小さくなって、いつしか静まっていきます。
波立ちというのはすぐにおさまるものではありません。
ましてや私たちがそれをおさめることなどできるはずがありません。
私たちが出来るのは、ただそのままに放っておいて、静かにジッと待つことだけです。
世界が突如としてあちこち波立ち始めたのは、さらに大きな調和に向かうための「ふるい」のようなものではないかと思います。
今この時こそ、成るように成るという達観と、何があっても信じきる心、そして全てを受け入れる穏やかさが大切になってきます。
それというのは我が子に対する親心と同じものであり、そしてまた私たちに対する天地の大御心と同じものであるわけです。
そこで、それを他の誰かに向けようなどと聖人君子ぶることは自我に寄り添う行為にしかなりません。
私たちは、それを他の誰でもない私たち自身に向けるということがまず初めにやることであり、また実のところはそれが全てなのです。
私たちは、私たちをそのまま受け入れていいのです。
まさしく、それこそが和合の道に他ならないのではないかと思います。
(おわり)
そこに自我が入り込むことで、分かって当たり前という勘違いが生まれてしまいます。
なんでこんなことが分からないのか。
これくらいのこと分かって当然だろう。
そのように初めから決めつけてしまうと、現実とのギャップに怒りがどんどんとエスカレートしていくことになります。
これは誰か相手に対してだけでなく、目の前の出来事に対しても同じことで、「こうなるのが当たり前」と知らず知らずのうちに決めつけて
いると「そうならなかった現実」が現れた時にムカッとなってしまいます。
どちらも理屈は同じです。
そしてそうしたことが習慣になってしまうと我執にエネルギーが注がれっぱなしになって、常にイライラの状態になってしまいます。
そしてそのイライラを発散するために怒りをどこかにぶつけてスッキリしようとしてしまう。
しかしそんなものは仮初めの発散でしかないので、すぐにまたイライラが溜まっていくわけです。
これは隣国との関係性にも現れていることです。
そのような負のスパイラルを断ち切るためには、「期待しない」「諦める」というリセットが有効となります。
もし自分勝手な期待が心に浮かんでも、それは自我の生み出したものであって自分の生み出したものではありません。
自分のものだと思い込んでそれと心中することはありません。
これが引っ張られないためのポイントとなります。
ポッと浮かんでも、乗せられず、慌てず、自己嫌悪にも陥らず、そのまま冷めた目で静かに流していく。
期待しない。諦める。放っておく。
波が立ってもその静まっていくのを眺めていく。
その上で「いや、こういう絵を描こうとしているんだけど」と自分に浮かんでいる景色を伝えてみるのもいいかもしれません。
相手は他人。自分ではありません。
一を伝えて十の同じ景色を期待するのはもとより無理な話。
それが面倒であるならば、そもそも理想を押し付けない。やり方や結果がズレたとしてもムカッとしない。
どちらかであるわけです。
これは相手方にも当てはまりますし、こちら方にも当てはまります。
そうすることによって充電が絶たれてエネルギーが枯渇し、我執は少しずつ痩せ細っていきます。
そして特に何をするでもなく、気づけば「受け入れる」世界に居るでしょう。
これをいきなり国家レベルで語ると話が大きくなりすぎますので、まずは身近なところで年を重ねた夫婦を例にあげたいと思います。
恋人や夫婦というのは、一緒になってしばらくは仲良くやっていたはずが、何年も暮らしていくうちに何かと口論を交わすようになったり
します。
それが耐え切れずに別れるケースもありますが、期待しない、諦めるという流れに入ると、見返りを求める自我が自然に薄まっていきます。
その結果として、相手との壁も薄まっていき、いつしか受け入れている状態になります。
そうして、激しい衝突を重ねながらも老年に入ると、それまでが嘘のような平穏が訪れるという驚きの展開と成っていきます。
少しクドい話になりますが大切なことなので丁寧に進めたいと思います。
当初こそラブラブパワーによって怒りの種もすぐ摘み取られ、あるいは、嫌われたくないがため自らを抑えて相手を気遣ったりと、色々ある
わけです。
そのうち恋人なんだから夫婦なんだから自分の気持ちを分かって欲しい、分かってもらえて当たり前となってまいります。
おまけに以心伝心、言わなくても分かることが増えてきますと、他のことに対しても同じ期待が広がっていくものです。
ただ、基本は他人ですので、分かり合えない部分があるのが当たり前です。
しかしすでに期待値が上がりきって、分かって貰えるのが当たり前になってしまうと、分かって貰えない時のショックもそれだけ大きく
なっていきます。
それが怒りや悲しみという形になって現れるわけです。
そして、ここが本当の分かれ目。正念場となります。
ここで耐えきれずに離れ離れとなるか、ここを耐え忍びその先に行くか。
まさに今の国家関係を見ているようです。
すぐ傍らにいる人も、すぐ隣にある国も、やってることは何も変わりません。
とにかくココがてっぺんであるわけです。
ココを耐え忍んで歳を重ねていきますと、そうした反動や喧嘩をしないようになっていきます。
このことは先人たちが示してくれている通りです。
分かり合えない部分があってもそこは諦めて(=受け入れて)、目くじら立てずに放っておく。
自分の怒りの原因を諦める。
キーキー騒ぐことを諦める。
相手の怒りの原因を諦める。
キーキー騒がれるのを諦める。
それはもちろん相手を無視するということではありません。
心は相手に向けつつも、自らは波立たずに落ち着いていくということです。
これまでも隣国に対して冷静に振る舞っているといっても、それは相手の存在を無視してのものだったかもしれません。
だからそんな姿を見て、相手はこちらを波立たせようとトンデモナイ行動に出てきました。
人は皆、相手には自分と同じ土俵に居て欲しいということです。
そうでないと相撲が取れないからです。
しかしそうした時こそ、こちらは相手を大きく包みつつ土俵から降りるということです。
こちらの落ち着きというのは、必ず相手にも伝わっていきます。
こちらが静まっていると不思議なことに相手も少しずつ静まっていくのです。
最初のうちは騒ぎ立てたとしても、そのうち必ず静まっていきます。
深い森の中や、古い神社仏閣の境内に居ると、我知れず静まっていくのと同じです。
それは自我の土俵から降りていく過程であるわけです。
天地宇宙はもとより波立ちなど無い世界ですから、自我から離れれば誰もが素の状態に戻ります。
目の前にいる相手はこちらと綱引きをしているのではなく、自分自身、さらには天地宇宙と綱引きをしているのです。
こちらが落ち着きさえすれば初めから結果は明らかということです。
ただし、相手がその土俵から降りるまではそれなりの時間がかかります。
それを待ちきれずにこちらが少しでも波立ってしまうと、たちまち相手と同じ自我の世界に逆戻りですから、また振り出しから始めなくては
いけなくなります。
静まりというものが相手に伝わるように、波立ちというものもまた相手に伝わっていきます。
仮に相手が落ち着いていたとしても、こちらが波立っていますと、相手もその影響を受けて波立ってしまうのです。
例えば学芸会やプレゼンなどでも極端に緊張している人が居ると、それが伝染してまわりも緊張してしまうことがあると思います。
ましてや、相手がもともと波立っていた(怒っていた)ならば、こちらの波立ち(怒り)は相手をさらに波立たせることになるでしょう。
つまりは相手が良い悪いではなく、すべてはこちら次第、自分の気持ち次第であるということです。
そのようにしてお互い干渉せずに居りますと、自ずと静まった水面のように自我が薄まり、自他の別が無くなっていきます。
いつも大ゲンカしていた二人が老年に入ると謎めいた穏やな境地に入っていくのは、そこに理由があるのではないかと思います。
そして夫婦が長年一緒に暮らしていると何となく顔まで似かよってくるというのも、同じ理由からなのでしょう。
ですから隣国でエスカレートしている騒ぎにしても全く同じ話なのです。
何故そこまで挑発して来るのか、厳しく当たってくるのか。
それは自分のことを分かって欲しいという以上に、とにかく自分を見て欲しいからです。
好きな相手にわざと悪さをする子供と同じようなものです。
大国に接した小国というのは、どうしても親の目を気にしながら暮らすことになります。
それは卑屈とかそういうことではなく、生き残るための処世術であり天地自然にたがわない自然体であります。
ただ、そのような人生を長いこと歩まされると、親ないし誰かの目というものが自分に向いていないと、どこか落ち着かなくなってしまいます。
自分だけで一人生きていくということがおぼつかない。
そのため、歓心を買おうとしてしまうのです。
自分は一人前の大人である、一人でやっていける、という自信を持つためには必要以上に自画自賛をしてしまい、それでも足りない時は
誰かに認めてもらいたくて、ほら!ほら!と大声を出してしまう。
そうしたものはすべて地政的な不幸の裏返しであるわけです。
しかし、私たちの中学や高校の頃を思い出してみれば分かることですが、そのような心境の時に果たして親や大人たちがどのようにしてくれる
のが嬉しかったでしょうか。
それがまだ小学生の頃ならば、痛かったネ、凄いネと近くに寄り添ってくれるのが一番嬉しかったかもしれません。
ただ、もう少し大きくなった時にそんなことをされたら、子ども扱いするなーと叫んだことでしょう。
そんな15の夜の私たちがもっとも嬉しかったのは、一人の大人として真剣に接してくれることだったのではないでしょうか。
猫なで声でなだめられることでもなければ、謝られることでもなく、ましてや怒られたりすることでもなかったはずです。
子どもから大人になる途上というのは、分かって欲しいという甘え、構って欲しいという甘えと自ら戦っている時期でもありました。
前回に書きましたが、自分のことを「すべて」分かって欲しいというのはエゴですし、相手のことを「すべて」分かってあげたいというのも
エゴです。
思春期における親との関係を思い出してみますと、大国に寄り添う小国の潜在的な感情が垣間見えるのではないかと思います。
まだ小さい頃は、親子でぶつかり合っても「根っこでは分かり合っている」「同じ感覚を有しているはず」という幻想が存在しました。
しかしその事実を認めざるを得ないと感じることが、ほぼ思春期のあたりのタイミングにやってきました。
まさに自我が確立される時期でありました。
分かり合えない部分が存在するという事実は、子供の側にとっては非常なショックで、なかなか認めたくないものでした。
それを認めることが、何だか親を断罪したり見限ったりするようで、そんな酷いことはしたくないと思ったりしました。
それというのは裏を返せば、自分のことをすべて分かってくれていると思っていた存在が失われることへの恐怖でもあったわけです。
そんな自分勝手な期待を叶えて欲しいという思いを捨てられずにいるところで、それをあっさり否定するような現実を見せつけられてしまうと
ドカーンと爆発したくなるのでした。
「そうじゃない、そんなはずは無い、幻滅させないでくれ」とコチラの理想を勝手に押し付ける。
それは、自我と真我が重なり合って、自分のふるさとを失いたくないという我執が爆発した瞬間だったと言えるかもしれません。
しかし私たちはその中心に自我を置くかぎり、たとえ親であろうともその全てを分かり合えることは無理だと言わざるを得ません。
何故ならば、この世に生まれ出てきた時点で、私たちは分離という仮想現実を味わいに来ているからです。
私たちは自立とともに親離れの過程を経て、分離というものを自然に受け入れていきました。
そこに至る直前の悶々とした気持ちというのは表現しようのないものでした。
隣国はまさにその状態にあると言えます。
いや、本来ならばとっくにひとり立ちをして誰の庇護もなく歩けていたはずが、体の成長に心が追いつかず、いい歳をしてまわりの大人に
騒ぎ立てることでしか自己の存在確認を出来ない、あの成人式の暴れん坊たちの心境なのかもしれません。
そこに共通するのは、世に認められることがなかった孤独感と寂しさ、そして自己の居場所を探しあぐねている不安と苛立ちです。
自分を見てくれ、自分はここに居る、と。
実の親であっても分かり合えない部分は存在します。
それこそがむしろ相手の存在に敬意を払うことに他なりません。
そのようにして自他の別を受け入れた時に、ようやくお互いをありのままに認め合うことができるようになります。
それは「分かり合えるはずだ」という我執を手離した瞬間でもあります。
分かり合えない部分があろうが無かろうが、相手を思う気持ちは変わるはずがありません。
それこそが相手を尊重し、受け入れることに他ならないわけです。
私たちが何をしようが、天地自然はそれをそのまま尊重します。
私たちが天地自然の心を分かろうが分かるまいが、たとえ天に唾を吐くような真似をしようとも、褒めもせずけなしもせず、ただ
受け入れます。
何をしようとも、私たちを思う心は何一つ変わることがありません。
波ひとつ立たず、何の壁も作らず。
私たちのことを分かるとか分からないとか、そのようなことは全く何の意味もないこと。
私たちを思う心は1ミリもブレることがない、それだけは絶対であるからこそ、他のどんなこともそれを揺るがすことはない。
そしてそれが絶対であればこそ、私たちのことを理解しようとか、全てを分かろうとか、そんな判断めいた気持ちなど起こりようもない
わけです。
私たちもまた天地自然の心のように、その深い部分が揺らぐことなく相手をそのまま受け入れるのであれば、白黒つけるような判断材料など
どこ吹く風となるでしょう。
それこそが、自他の壁が薄まった瞬間ということです。
さて、ここで一つの疑問が沸きあがるかもしれません。
「自他の別」を味わいにこの世に来ているのに矛盾するのではないかと。
それはこういうことではないかと思います。
私たちは「自他の別」を味わいながら、他方で「自他の別のない」状態を味わうことで、この世をより深く味わえるようになる、と。
つまり、ごく近しい人たちとの壁が薄まる一方で、それ以外の人たちとはなお自他の別が存在するということです。
私たちは、もともと「一つ海」の状態からわざわざ自他の別を擬似体験するためにこの世に生まれてきました。
そうして歳を追って少しずつ壁が薄まり両極を味わえるようになると、これまで以上に他極の味わいも広がってまいります。
そして、死してのちまた自他の別の無い一つ海に戻るということです。
「私たちは分かり合えない」
でも、その先には分かりあっている状態へと自然と成っていくのでしょう。
すべては段階です。
言葉だけを見れば、その時その時によって180°反対になっていきます。
一方向だけのレールでは私たちの視界は一本調子なものとなってしまいます。
版図を広げるためにはダーッと進むだけ進んだのち、また別の方向へと進む必要があります。
とはいえ目標に向かってそれまで全力疾走していたのを急に方向転換するというのは至難の技です。
とりわけ、自我がそれを許しません。
だからこその方便であるわけです。
「分かり合えないのが当たり前」
それが今ここでの方便となります。
さて、本来ならばこの辺りで一旦区切って、次回の仕切り直しにするところなのですが、あちこちへ話が広がってしまっていますので
このまま続けさせて頂きたいと思います。
もう少しだけお付き合いの程お願い致します。
欧米に目を移してみますと、こちらでは移民が深刻な問題となっています。
もともと移民の受け入れというのは、寛大な心、慈悲の思い、大人の対応、そうしたものからスタートしています。
しかし「心を開いて受け入れよう」というスローガンは、言葉そのものが自身を自己否定してしまっていることを認めなくてはいけません。
「〜しよう」という表現は後付けの理屈です。
私たち自身の中に反発心や不安が1ミリでも生じた時点で、どうしても上塗りになってしまうというのが事実です。
にも関わらず、それをお題目のように唱えてのべつまくなしやってしまうと、上塗りに上塗りを重ねて、いつしか雪崩れのように一気に
崩れてしまうことになります。
決して、目標や理想が無意味ということではありません。
そこに我執が生じてしまったり、反発心や不安に目をつぶって無理をするのが良くないということです。
しかしながら、難しい問題ほど無理をしてでも克服しようとしてしまうものです。
それが自分自身のことであれば尚更そうですし、実際それで何とかなったりするので、余計ややこしくなってしまいます。
自分の理想や目標というのは、努力や根性、あるいは忍耐により実現していきます。
それは自分の世界だからです。
しかしその成功体験をもとに、他人が関わる物事まで同じようにやってしまうと、なかなか上手く行かず事態を難しくすることになります。
それでもまだ、他者が自分と同じ世界に居る状況ならばそれは実現しやすいと言えるでしょう。
例えば、同じ部活、同じ会社、同じグループなどがそうです。
しかし、範囲が広がれば広がるほどそこには色々な人が関わってきます。
そうなると、少し違う世界に居る人達を、自分と同じ世界に引き込もうとしてしまいます。
同じ世界に立っていないと理想が実現しないことを私たちは知っているからです。
同じ世界に引き込むという行為は、自分のことを分かって欲しいという行為と同じです。
同化したいという願望がそこにはあります。
しかし、それこそが我執であり、実現を遠ざけるものであり、さらには衝突やいがみ合いを生み、怒りや苦しみを生んでしまうものである
わけです。
人間関係というのは古今東西この世で最も困難な問題だと言えるでしょう。
ただ、それこそがこの世でしか味わえないものであり、最上の料理ともなっています。
理想というのは「今ここ」ではない「何処か」にあるものです。
しかし、過去未来のあらゆる現実は、紙一重で今ここの裏表にあります。
私たちの思いは天地の風となり、私たちの「今」はそこへと流れていきます。
そして、波立ちと落ち着きの話と同じように、それが「今」へ伝わっていくには時間がかかります。
そこで無理押しをするとその我執が風を妨げてしまうことになります。
「今」を無理やり「何処か」に合わせこもうとしたところで、成らぬものは成らない。
無理押しは我慢との闘いとなり、我執は不満や苛立ちという現実を招きます。
つまり、成らないものはもの成らないという「達観」がここでもまたキーとなってくるということです。
理想。目標。それを描いて歩き出したら、あとは
その一歩一歩にだけ心を向ける。
理想や目標に囚われてしまわない。
心に余裕がある時は、波立つことなく現実を淡々と受け入れることができます。
しかし自分の本心を押さえつけて無理をしているかぎり、わずかでも余裕がなくなった途端、砂の城のように脆く崩れ去っていきます。
移民の受け入れというのは、中身が追いついていないままに三段跳びで引き寄せた理想です。
色々な思いを噛み殺して、大きな心で受け入れられていたものが、仕事を奪われたり治安が悪化したりして余裕がなくなると一気に崩壊して
しまいました。
秩序というのは調和があって成るものです。
そして調和とは、作為的な理屈によって作り上げられるものではなく、自然な流れの結果生じるものです。
「かくあるべきだ」「こうありたい」という理念は、度が過ぎると混乱を生じさせることにしかならないわけです。
心のどこかにヤセ我慢を含んだまま理想を達成しようとしてもそれは砂上の楼閣にしかなりません。
中身の追いついていない背伸びというのは、かえって大きな崩壊を招くことになってしまいます。
「自分たちは成熟した社会人であるのだから、弱者を助けなければいけない」というのは立派な考えですが、そこに優等生たろうとする
我執が入ってしまうと無理強いにしかならなくなります。
「歴史的な義務」という贖罪意識でさらに痩せ我慢を重ねてしまったドイツは本当に痛ましい状況に追い込まれています。
結果として、ドイツ国民は言うに及ばず、移り住んだ移民までも不幸となり、これまで以上に根深い軋轢を生み出してしまいました。
いま一度、なぜ国境というものが生じたのかというところに立ち返りますと、それは私たちの心の在り方へとそのまま繋がってきます。
ここで一旦、原点に戻って考えてみます。
日常生活において己の「自我」にどのように接していくか…
何千年、何万年の人類史というのはまさにその成長の歴史だったと言えます。
我執に振り回されるか、そこから距離を置くのか、そうした心の在りようが形となって現実が作り出され、それが歴史となりました。
その一方で、この世という大河は秩序に向かって流れています。
小さい範囲だけを見れば混沌に見えても、極限まで広げて見れば、全ては秩序の中にあります。
私たちの心が反映された現実もまた秩序へと向かっているものであり、そうしたなかで国というものが生まれました。
私たちの心の在りよう、それを前提とした秩序が今の形であるわけです。
専制君主にしても、独裁政権にしても、その時その場に住む人たちの心の在りようから生み出された秩序だったということです。
秩序にも段階があり、調和にも段階があります。
理想がどうであろうと、その時その場の条件に見合ったバランスが保たれていくわけです。
アラブの春が訪れる以前の国々にせよ、未だに独裁の国にせよ、機というものがあります。
住まう人たちの我執が変化した時に、現実も形を大きく変わっていくということです。
そしてそれには相当数が世界観を共有することが必要であり、さらにまた大きなタイムラグもあるわけです。
秩序へ向かう大河は天地宇宙に流れ続けています。
私たちの心が変化すれば、必ず現実は変わっていきます。
しかしその流れや風を無視してゴリ押しで変えてしまうと、風は止み、混乱を招くことになってしまいます。
いま私たちが心に思う「国境なんて無いのだ」「無くていいのだ」というのは確かにその通りなのですが、それが秩序とともに成立する
のはあくまで私たち自身が己の自我に対して冷静になれていることが前提であるわけです。
今この段階においては、まず「私たちは違うのが当たり前」「お互いに分かり合えないのが当たり前」という割り切り方ができるように
なって初めて、国境がなくなったり移民を受け入れたりするための第一歩が進むということです。
それはまだ前段でしかないわけです。
それなくして結論だけ焦ってヤセ我慢をし、優等生発言を重ねるのは、かえってエゴを太らせる
ことにしかなりません。
そしてそうした状況に警鐘を鳴らすかのように、私たちの理解や行動よりも先に、現実の方が舵を切り戻しているというのが今なのではないか
と思います。
イギリスを筆頭としたEU問題もそうですし、アメリカの大統領選もそうです。
そして私たちの隣国の騒ぎも根っこは同じであったわけです。
和合というものは、違いを認めることから生まれます。
違うのが当たり前。
その違いを認めることが差別になると考えて蓋をしているうちは、ヤセ我慢の受け入れでしかありません。
和合には程遠く、お互いストレスに耐え忍ぶ状態そのものです。
天地自然を仰ぎ見れば、多種多様な生き物が存在しています。
様々な動物や植物が自由に生きています。
天地に広がる空間の中で、私たちが他の生き物のことを必要以上に意識するようなことはありません。
それこそは、あらゆる存在に対して白黒判断つけずにそのまま受け入れている状態であるわけです。
天地自然。それが和合の姿です。
大地の木々や動物たちは私たちと異種だから気にならないだけなのでしょうか?
身近な人や隣近所の人、あるいは異国民というのは、私たちと同種であるから気にしてしまうのでしょうか?
もしもそうだとすれば、私たちは自分に近ければ近いほどに、何か甘えようとして、何かに期待をしてしまっているということが浮き彫りに
なってまいります。
自分をすべて分かって欲しいという思いと、相手をすべて分かりたいという思いは、どちらも同じものです。
つまり、あなたと私、同じ世界に同化したいというものです。
動物や植物というのはあまりにもかけ離れているためにハナから同じ心を共有することなど無理だと決めつけています。
逆に、近い人たちほどそれは叶うものだという幻想を抱いてしまっています。
しかしそれこそが民族主義となり差別主義ともなっているわけです。
心が同化できるはずだという無意識の期待は、相手が近いほどに膨らみます。
それゆえに、それが叶わなかった時は最も憎らしい相手にもなってしまいます。
同じ宗教であっても、わずかな解釈の違いだけで激しい衝突が起きています。
同じイスラム教の中での派閥闘争は凄まじいものですし、キリスト教もまたそうでした。
そしてそのイスラム教やキリスト教にしてもその出所は同じものだったわけです。
逆に仏教やその他宗教のように全く違うものに対しては、あまりに遠すぎるが故にぶつかることもないというのが事実です。
それは、全てを分かり合うことなど無理だとお互いに達観しているということでもあります。
親族や家族、夫婦など、近しいほどに自我が剥き出しとなり、そこへのエネルギー注入が垂れ流しになっていく。
ブレーキが甘くなってしまう。
幻想に対する過度な期待が、叶わぬ現実への怒りとなる。
どれもみな同じ構図です。
いま一度振り返ってみましょう。
「動物や植物は私たちとあまりにもかけ離れているためにハナから同じ心を共有することなど無理だという達観」
「仏教やその他宗教のように全く違うものに対しては、遠すぎるが故に期待も生じずそのまま流してぶつからない」
そこにこそ、天地自然の調和が生まれていることに気がつくのではないでしょうか。
あらゆる存在は、この天地自然の中で、どんな相手に対してもこだわりを抱いたりしていません。
それが大自然の調和であるわけです。
それというのは、まさに私たちが他の動植物に対して抱いている感覚に他なりません。
そこには差別も拒絶もありませんし、期待も不安もないはずです。
それ以前の、無の感覚であると思います。
それが天地自然の感覚です。
それが無我です。
それを自我の視点で表現するならば、期待しない、分からないのが当たり前ということになります。
異種だから、同種だから、血縁者だからと、スイッチをオンオフすることから全ては始まっていたわけです。
天地自然の無我のままに、理想や目標を掲げたならば、こんなに心がラクなことはないのではないでしょうか。
私たちの心が揺れれば揺れるほど、寄せては返す波のように現実もまた揺れ動きます。
夢が現実に近づいたと思ってもすぐ遠ざかり、もうダメだと思ったらまた近づいてくる。
その繰り返しを経ていくうちに反復は小さくなって、いつしか静まっていきます。
波立ちというのはすぐにおさまるものではありません。
ましてや私たちがそれをおさめることなどできるはずがありません。
私たちが出来るのは、ただそのままに放っておいて、静かにジッと待つことだけです。
世界が突如としてあちこち波立ち始めたのは、さらに大きな調和に向かうための「ふるい」のようなものではないかと思います。
今この時こそ、成るように成るという達観と、何があっても信じきる心、そして全てを受け入れる穏やかさが大切になってきます。
それというのは我が子に対する親心と同じものであり、そしてまた私たちに対する天地の大御心と同じものであるわけです。
そこで、それを他の誰かに向けようなどと聖人君子ぶることは自我に寄り添う行為にしかなりません。
私たちは、それを他の誰でもない私たち自身に向けるということがまず初めにやることであり、また実のところはそれが全てなのです。
私たちは、私たちをそのまま受け入れていいのです。
まさしく、それこそが和合の道に他ならないのではないかと思います。
(おわり)