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これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

身体は心の救世主

2016-01-31 22:18:27 | 天地の仕組み
考えごとをしていたり、心ここにあらずだったり、心がボヤけていると、私たちの全体というのはバラバラに
なってしまいます。

心身が統一して天地に任せきった状態のときは、全体は一つになります。
一つになるとは、全てが噛み合って一体となっていることです。

その状態にあると、例えば誰かにバシーンと思いっきり叩かれても、衝撃は全身の表面へ散る感じで逃げていきます。
ドツかれても全くブレることはありません。

やってみると分かりますが、まったく痛みが無くなるということは無いにせよ、体の芯まで響かずに上っ面で
拡散する感じになります。
これが全体がバラけている状態だと深部に響き、全身に広がるわけですから、バラバラになってる切れ目のところを
衝撃が一気に入り込んでいくということなのでしょう。

ここで一つ面白い発見がありました。

全体がバラバラになった状態、たとえば完全な脱力状態で、ボケーッと気の抜けた感じで立っていますと、これは
氣抜けなので押せばグニャっとよろけます。
もちろん、ドツかれれば芯まで響きます。

しかし、その状態で背中や腕をバシーンと思いっきり叩かれると、それがどんな姿勢であっても、その姿勢のままで
瞬間的に統一体になる、つまり全体が一つになるのでした。

バラけた状態にあるので叩かれた時は凄い衝撃がくるわけですが、その次の瞬間には、叩かれても衝撃が表面に
拡散する状態に一変しているということです。

これは、優しく手加減してしまうと全く成立しません。
「ウオッ」と思うくらいの衝撃でなくては成りません。

まさにバシーンという衝撃により、私たちの心の移ろいは全て吹き飛びます。

お寺なんかの坐禅の場面でも、心乱れているとお坊さんがツーッと近づいてきて、警策といって肩をピシャッと
叩かれるシーンを見たことがあると思いますが、まさにあれも同じ原理だと思います。

心があちこち移ろってしまっているところを、ピシャ!っとやってもらった瞬間、天地宇宙と一体になるという
ことです。

この時の流れをスローで振り返りますと、まず先に身体がその衝撃をキャッチして、その身体の信号によって、
心の考えごとや移ろいが強制的にシャットダウンされていることが分かります。
決して、心が主導となって自ら考えごとをやめるということではないわけです。

バシーンと衝撃が走った瞬間、全体が一つに定まる。
「今」に全てが集中する。


私たちの身体は、全く自然に、当たり前にそれをやるということです。

どんなに心がフワフワしていても、危険が迫ると心のフラつきは全てシャットアウトされて、天地宇宙と一体の
状態になるのです。

考えごとをしたり、心ここにあらずになると身体はバラバラになりますが、身体が刺激を受けるとその心の移ろいが
消し飛ぶ。
ということはつまり、迷いや悩み、苦しみを消し飛ばすには、心よりも身体を使った方が遥かに手っ取り早いと
いうことです。


天地宇宙との一体というのは、頭ではなく、感覚がフルオープンになった状態です。
感覚というのは、心でキャッチするものではなく身体でキャッチするものです。

私たちは「天地宇宙」などと壮大なスケールのものを前にすると、思わず、心や頭を使いたくなります。
想像という行為がそうさせるわけです。
しかし、真理は逆で、肌感覚こそがそれらを感得させるのです。

素直に考えれば、これは当たり前の話です。
以前、カルフォルニアの空も、いま頭の上にある空も、連続で繋がる一つのものだという表現をしました。
同じように、私たちの肌と、天地宇宙とは何一つ隔てるものがない、完全な地続きであるわけです。
何億光年離れた宇宙ともダイレクトに続いています。
わざわざ頭や心を使って感じ取ろうとするのは、遠まわり以外の何ものでもありません。

身体は天地宇宙に通じているのです。
知らず知らずのうちにバラバラになってしまっている私たち自身を、スッと一つにするためには、身体に任せきる
のが手っ取り早いのは当然であるわけです。

運動をすると心がスッキリするのもまったく同じ理屈です。

そうは言っても、悩みや悲しみが深すぎて、心ここにあらずのまま身体を動かしていたのではスッキリするはずも
ありません。
せっかく運動するのですから、身体の方に主役を譲ってしまいたいところです。
そういう意味では、本当に好きな運動だったり、筋肉や心肺に負荷のかかる激しい運動、もしくはスキーや登山、
水泳のように或る意味皮膚が本能的な危機感を抱くものなどならば、心の囚われを引きずらず、自然と身体の方に
集中できることでしょう。

そうして身体が主となり、心や頭が従となった時、悩みや苦しみは何処かへスーッと消え去っていきます。
心は身体と溶け合い、私たち全体が一つのものとなります。
そして、その身体は天地と溶け合い、天地宇宙全体が一つのものになります。
身体に任せてしまうことで、私たちは天地と一つに溶け合っていくわけです。

前回は触れませんでしたが、いのちの潤いが枯れてシンドい時の打開策として「身体を動かす」「運動をする」
というのは極めて有効な手段だと言えます。

血液が全身の隅々へと流れていくとともに、天地宇宙の「いのち」もまた、私たちの中をくまなく流れていきます。

全体が一つとなった時、自ずと中心は一ヶ所に定ります。
中心が一ヶ所に集約された時、自ずと全体は一つとなっています。

天地宇宙すべてと私たちが一つになった時、その中心の一点というのは臍(へそ)の下にきます。
まさに私たちは、天地宇宙と臍下の一点で繋がっているということです。

悶々としている時には、頭で考えたり、心で悩んだりせず、臍下の一点で感じることが自然本来の姿であり、また
バラバラになってしまった私たちが天地自然へ回帰するための道でもあるのです。

どんなにツラく、どんなに悲しく、どんなに苦しくとも、自分の中心だけは頭や心に置かず、常に臍下の一点に置く。
何故ならば、そこが私たち自身を一つにする中心であり、私たちが天地宇宙と繋がる臍の緒でもあるからです。

そして同時にまた、その一点というのは「今」この瞬間のことでもあります。

私たちは「今」の一点において天地と繋がり、宇宙全体と一つとなっています。

「臍下の一点」が私たちと天地宇宙を繋ぐ臍の緒であるように、「今」というのも、私たちが私たち自身と繋がり、
また天地宇宙とも繋がる臍の緒であるわけです。

今を悲観したり、今を絶望したり、今を悪く言ったりするというのは、今を受け入れていないことに他なりません。
それは「今」と一体となっていない、つまり天地宇宙と一体になっていないということを意味します。

たとえどんな「今」であろうと、それを受け入れないということは、天地宇宙との臍の緒が絶たれた状態になると
いうことです。

そうなるとエネルギーはますます枯れていってしまいます。
そしてバラバラの状態ですから、少しの衝撃にも大きなダメージを受けてしまいます。

全体を一つにするには、心を使うよりも身体を使う方が確実です。
ですから運動すれば、瞬時に今ここに戻ることができるということでした。
とにかくそれは散歩でも掃除でも、身体を動かすものであれば何でもいいわけです。

身体というのは、本当に凄い存在です。

肩が痛い、腰が痛い、頭が痛いと、どうしても悪いところばかりが目についてしまうかもしれません。
でも、この身体こそは、いつでも私たちの移ろう心を救ってくれる存在であるわけです。

希少価値という意味では、「身体」というのは世界中の誰もが持っているものです。
持っていない人は誰ひとり居ません。
この地球だけでも70億もあります。
あまりにも当たり前のものすぎて、全く理解できないかもしれませんが、しかしこれこそは途轍もない超高性能な
天地宇宙の最高傑作です。

この天地宇宙そのものにも等しい、この上なく貴い宝物であるのです。

私たちの心や頭ごときが、それを格下に置いてアゴで使うのはあまりにも無知に過ぎるということです。

ツラいとき、苦しいときこそ、一番身近にあるこの身体に大いに頼ってみましょう。
今まで背伸びをして頑張ってきた頭や心、自我はここらで休ませてあげて、身体の感覚にすべて任せてしまう。
そのとき、これまで全く見えなかった景色が広がってくることでしょう。


あぁ、そうか……
天地宇宙と陸続きの一つのものなんだ
この身体は、天地宇宙そのものなんだ
なんてありがたいんだろう

ここまでが自分だとか
ここから先は自分ではないとか
勝手に線引きをしていたけど
もとよりそんなものはなかったんだ。。。



身体は、私たちの一番身近にある天地宇宙です。
それは無限の広がりでもって、どこまでも私たちを受け入れてくれます。
どんな私たちだろうと、そのまま受け入れてくれます。
嫌がったりもせず、見返りも求めず、それに気づいて欲しいとも言わずに。

そう、まさに身体とは、私たちの救世主なのです。

感謝とともに、子どものように、身体のおもむくまま、自由に無邪気に走り出してみましよう。
そのときケラケラと心の底から湧き出る喜びが、天地へ解き放たれることでしょう。



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私たちは「いのち」に生かされています

2016-01-28 20:12:15 | 体をラクに
身の周りに大変な状況が続いてしまうと、身体への負担は計り知れないものになります。

心がキュウキュウになると、全身の筋肉や細胞もキュウキュウになります。
エネルギーの滞りは、酸欠と同じような息苦しい感覚となり、身体もずっしりと重くなります。

一ヶ月前の話になりますが、年末に久々の稽古に行った時のことです。

最初は、統一体になっているかどうかのチェックから始まりました。
ここでいう「統一」というのは「心と身体の統一」ではなく「天地と自分との統一」のことです。

稽古に行けてなかったということもあって、以前は当たり前に感じられた感覚が全く蘇りませんでした。
まるで石像のようなガチガチの身体を前に、悪戦苦闘でした。

感覚というのは頭ではなく身体の方でキャッチするものですから、肝心の身体が岩のようになってしまっていると
感覚に耳を澄まそうにも何も感じ取ることができません。
テクニック的なことを駆使しても、やればやるほど心の混沌は増すばかりで、感覚はますます遠ざかってしまいます。
そんな状態では、たとえ不動の姿勢が成ったとしても、氣は小さいままで開放感のカケラもありません。

そんな時、尊敬する師に、ほんの少しだけスッと正して貰いました。
その瞬間、表現しようもない感覚が全身に走りました。

喩えて言うならば、腕をキツく縛ったヒモをシュッと外した時に一気に血が流れ出すような、そんな感覚でした。
それまで全身すべてがカラッカラに渇ききってコンクリートのように固まっていたのが、髪の毛の先から足のつま先
まで、毛細血管の隅から隅へ、身体中に一斉にサーッと流れたような感じです。

いかに、それまで天地の氣が枯渇しきっていたかということです。
まさかそれほどまでにカラッカラに枯れていたとは思いもしませんでした。

全身に一気に流れたそれは、まさに「命そのもの」でした。

つまり、その瞬間まで私の体は、命の枯れた瀕死の状態だったにも関わらず、不満も悲鳴もあげずに日々を送らせて
くれていたということです。
ツラい現実を受け入れたつもりで過ごして居ましたが、身体の方は過去からの傷を背負い続けていたのでした。

その事実は本当にショックであり、また悲しみであり、申し訳なさであり、そしてその時その瞬間の喜びでもあり、
思わず涙がこぼれそうになりました。

私たちは酸素や食べ物といった栄養だけで生きているのではなく、天地のいのちによって生かされています。
「いのち」が枯渇してしまうと、身体も心も病んでいきます。

「いのち」とは、この天地に満ち溢れるエネルギーであり、私たちの本当の姿そのものです。

例えば、赤ちゃんはそれが全身から溢れ返っています。
天地自然な状態のままにあるため、そこには何一つ壁はなく、天地と同化し、天地そのものとなっています。

そこへ大人が近づけば、その心がそのまま赤児の透明な心に映ります。
不安は不安となって映り、喜びは喜びとなって映ります。
それは赤児だけでなく、動物もまた同じことでしょう。

天地との一体というのは、形やテクニックではなく、感覚を追うことでそのようになるものです。
言い換えれば、頭や理屈で追って成るものではなく、全体の感覚を追うことによって成るものです。

自らが枯れきっている時に、潤った感覚をキャッチするのは非常に困難なことです。
自分にわずかでも潤いがあれば、そこへ耳を澄ませることでそれを呼び水にすることができます。
わずかな潤いすら無い時は、何を取っ掛かりとすればいいのか呆然としてしまいます。

スッカラカンに枯れてしまった時には、自分だけで頑張ろうとしても限界があります。
それは修行不足とか、鍛錬を怠ったとか、そういう次元の話ではなく、ただ客観的事実に過ぎません。
そうした時には、自力で何とかしようとせずに、何でも頼ることが大切です。


では、「いのち」の潤いが枯れてしまった時、それを呼び戻すにはどうすればいいのでしょうか。


一つには、まず「万物と関わり合う」というのがあります。
自分以外の人や動物、自然、物事と関わることは天地との交流そのものであり、そこで生じる様々な感情が潤い
となって「いのち」の呼び水となるからです。

赤児は外界の様々なものと接して関係を作ろうとします。
そうして、よく笑います。
赤ん坊の笑顔に癒しと安らぎを感じるのは、そこに私たちの故郷である天地宇宙の温もりを見るからです。

他人というのは、自分から見れば外宇宙にあたります。
その外宇宙と交流することで、私たちの孤立という幻想、天地からの隔離は薄まります。

もともと天地宇宙とは、幸せな感覚に満ち満ちたものです。
内の世界だけで不完全燃焼したり空焚きしたりしていても、幸せは訪れません。
外と交流することで、天地宇宙の感覚が内に流れ込んでくるようになります。


また「いのち」の潤いを呼び戻すには、美しい景色、素晴らしい作品、感動的な出来事、そうした「真善美」に触れる
ことも有効かもしれません。

そうしたものに触れると、喜びが湧き上がってきます。
喜びというのは、私たちがそれを生み出しているのではなく、天地宇宙と繋がることでそれが溢れ出している
状態です。

何かの作品に触れるということに限らず、山登りやハイキングに行ったり、海や川に遊びに行ったり、あるいは
スポーツ観戦をして感動したり、あるいは静かな古刹で坐禅を組んだりと、「真善美」はあらゆるところにあります。

どこかに無いものかと探すようなものではなく、フト心が惹かれたものが、それなのです。


そして最も手軽な方法は、「笑い」です。

「笑い」は、私たちの心の壁を瞬時に無くさせます。
腹の底から笑った瞬間、私たちは透明になっています。
そこに、あれこれ考えたりする自我は存在せず、素っ裸で天地に身を投じています。
囚われやこだわりを突き抜けて、瞬時に天地と一体となっています。
体力や気力の無い時は、馬鹿笑いせずとも、ただ微笑むだけでもそのような状態になれるでしょう。

神話の「天の岩戸開き」の場面で行われていたことは、人々の宴、交流、そして最後の決め手が「笑い」でした。
「笑い」は、私たちに与えられた最強のアイテムと言えます。


「いのち」が枯れかけた時、身体は重く、具合も悪くなり、何をするにも億劫になってしまいます。
しかしそんな時こそ、大自然へと繰り出したり、「真善美」に触れたり、しがらみのない人たちと語り合ったり、
漫才や落語でバカ笑いしたりしてみてはいかがでしょうか。

そうしたことで細胞の内から「いのち」が湧き上がり、枯れた土地が水を吸うように、喜びが全身に染み渡っていく
ことでしょう。

そして実は「いのち」を呼び戻すものとして挙げたものは、どれも子供が好んで行なうことばかりです。

子どもは、大自然を走りまわり、動植物や昆虫と無邪気に触れ合います。
また、一人でいるよりもいつも誰かと関わろうとして、誰とでもすぐ友達になります。
そして心の底からキャッキャッと喜びを湧き上がらせ、いつもバカげたことや悪ふざけでゲラゲラと笑っています。

子どもたちはただ「いのち」に触れるために、ごく自然にやりたいようにやっているだけです。
そこには理由や目的など何一つありません。

私たちは、歳を重ねるごとに、大人という枠に固まっていきます。
節度は大事ですが、童心はもっと大事です。
もう少しラクに、アホになってみると、芯の底から喜びが溢れ出ることでしょう。

同窓会や同期会に行くと、瞬時にあの頃の自分に戻り、そして事実あの頃の若々しいエネルギーが蘇ってきます。
それは幻想でもなければ、思い込みでもありません。
決してハイテンションの勘違いなどではなく、それが私たちの本当の姿なのです。

私たちは誰でも、今この瞬間、若さを蘇らせられます。

ただ単にそれを望んでいなかっただけ、年相応の落ち着きやくたびれ具合こそを望んでいたというだけなのです。

もちろん、どちらが良いも悪いもありません。
どちらが好みかというだけのことです。

私たちに流れ込む、この「いのち」に変わりはなく、ただその発露のさせ方に違いがあるだけです。

疲れている時、元気な時、悲しい時、嬉しい時、どれもこれも「いのち」の輝きに違いはありません。

ただ、どうしてもシンドい時には、子供の頃にやっていたようにやってみるだけです。

何か面白そうな人と関わってみるのも、真善美に触れてみるのも、あるいはおバカなことで大笑いしてみるのも、
どれもこれもアリでしょう。

いのちの潤いは、誰にでも、今すぐに蘇ります。

私たちは、みんな若い。

枯れるには、まだまだ早すぎるのです。




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天の岩戸の開かれるまで

2016-01-25 12:52:33 | 心をラクに
具合の悪い時というのは、心身ともに鉛のように重く淀み、生き苦しくなります。
ただ、仕事や生活は待ったなしで迫ってきます。
そんな時、何もしたくないと思うのは心の正しい反応で、それは身体を休ませるための防衛本能であるわけです。

私たちを休ませるためならば、自我は手段を問わず、いわゆるネガティヴ想念を送り続けます。

そうしたものをスルーする技だけ身につけて、そのまま無理な生活を重ねてしまうと、芯の部分のエネルギーが枯渇
していき、そのうち何に対しても喜びや興味が湧かなくなってしまい、酷くなると、生きることそのものに対しても
そうなってしまいます。

その想念を私たちがキャッチした時、自我は一気に自分の方向へ引き込むため、さらに畳み掛けてきます。
たとえば、生きていくこと自体もう十分やった、これ以上新しいことも無かろう、と。
すると私たちは「本気で」そのように思えてしまいます。

元気になれば「そんな筈はない」と分かるのですが、渦中にいる時は、それ以外の考え方は実体のない綺麗事に
しか思えず、唯一それだけが実感を伴った真実に見えてしまいます。

自我が私たちを止めたり、あおったりするのは、私たちがそれ以上無理をしたら危ないからこその方便であり、
何としても身体と心を休ませるための「落ち込み」であるわけです。

本来は、ハタと立ち止まらせて、人生をしっかり味わえるようにするための措置なのに、人生そのものをリセット
させてしまいたくなってしまうのでは、それこそまさに本末転倒でしかありません。

とはいえ、それが頭で分かっていても、渦中に居る時はどうにもならないのも確かです。

ならば、例えば豪雪の続いた時に、深い積雪を背負った柳が柔らかくしなるようにして、たまに雪が滑り落ちると
フッと息をつきながら、騙し騙し春の訪れるまでしのぐしかないとも言われます。
ですが、その重荷が滑り落ちることもなく積もり積もって枝も伸びきって変形してしまうと、たとえ雪が滑り落ちて
フッと息をつこうにも曲がったまま戻ることもできず、そのうち自重で根元から折れてしまうということだって
あるわけです。

曲がったまま元に戻らない状態の時というのは、ラクになりたいという欲求ですらなく、ただもう何もしたくない
という感覚しかありません。
真っ暗の終わりでいい。
無でいい。
何にも無しでいい…と。

ラクになりたいから死を選ぶのではなく、ただ、もう、何もない真っ暗闇の無になりたいという思い。

煩悩に埋め尽くされて真理が全く見えない状態を「無明」と言いますが、明るさも無ければ、煩悩すらない、欲と
いうものがなく、ただ何も無い世界、無明そのものに自ら溶け込みたいという感覚です。
もはや理屈ではありません。
それが魂への不遜だとか、ならんものはならんのだとか、すべて頭で冷静に分かっていても、どうしようも無い
状態ですから、まさにどうしようもない。

自分でも嫌なのに、どうにもならない。

文字どおり救われない状態です。

前回、震災の地獄絵図の中で、命を輝かせる人間の逞しさ、神々しさを書きましたが、そこに至るまでの寸前は、
そんな綺麗事ではなく、このようなドロ沼の中の苦しみがあったことでしょう。

そして、震災に限らず今この瞬間も、そうした苦しみの最中にいる人たちも数多くおられることでしょう。

気力というのは、生命や魂の輝きから遠く隔たってしまうと、虚無そのものになってしまいます。
それは絶望の淵に立たされた時や、苦しみの果てに進まされた時、誰しもが陥るものです。

対岸でいくら明るい話や綺麗な話をされても、それはあまりにも遠い世界の出来事にしか映りません。

この救われない状態になってしまった時は、どんな解決策も無いという確信を抱いてしまいます。
どんな話を聞いても、それを近くに感じることができないからです。

そこまで行ってしまった時は、とにかく今すぐただちに、自分のやりたいようにやるしかありません。
「やりたいようにやる」というのは、「やりたくないことはやらない」というのもその一つです。

何もやりたくない、生きることすらもやりたくないとなってしまったら、会社に行くのもやめて、家に戻るのも
やめて、全てを放り出して、大自然の中でボーっとするのもいいでしょう。
「何かをしなくてはいけない」という思いそのものを全てやめるということです。

あるいは、本当に意味のないこと、無駄なこと、もったいないと思うようなこと、そのようなことをやってみるのも
いいかもしれません。


これはまさに子供がやる行動そのものです。

大人から抑圧された子供は、自分の内なる衝動との間に挟まれた結果、本当に意味不明なムチャをやったりします。
「なんでそんなことするの?!」と怒られた経験は誰にもあることでしょう。

会社や上司、仲間、家族から、怒られるかもしれない。
白い目で見られるかもしれない。
ごちゃごちゃ言われて、あとであれこれ説明すること自体がしんどい…

そのように様々な思いが浮かんでくるかもしれません。
それでも、とにかく今は全てを放り投げてしまう。
あらゆるしがらみを捨ててしまうことが、全てに優先されることです。

子供は本能的に天地宇宙の流れに素直に反応しています。
子供がやるように真似るのが一番です。

とにかく、死んだらおしまいです。

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遥かな昔、同じような状況に陥った神様がおられました。

国造りに共に勤しんだ少彦名命(スクナビコナ)が亡くなった時、絶望の淵に立った大国主命が膝をついて
うつ伏していますと、海の向こうから光り輝く希望が現れました。

何者かと問うと「私はおまえの幸魂、奇魂である」と答えました。

そして、「丁重に私を祀れば、国造りは上手くいくだろう」と答えたのでした。

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つまり、いま対岸に映っている絵空事のような輝きというのは、他の何でもない、私たち自身の魂そのものなのです。

今この目の前をしのげば、必ず希望の輝きが現れます。
何故ならば、希望の輝きの正体とは、私たちの魂であるからです。

私たちは、私たち自身によって救われるのです。

国造りとは、人生造りのことでもあります。
人生を造っていくためには、私たちだけではなく、私たちの魂、真我の存在が絶対だということです。

私たち自身の魂を敬い、奉ることはとても重要なことです。


岩戸の中は、漆黒の暗闇であるものです。

そして、希望の光が私たち自身の魂であるならば、それは間違いなく存在し、そして必ず現れます。

ですから、どんな手段を使っても、今この瞬間をしのぐということです。
たとえ情けなくても、卑怯でも、人間関係をぶち壊してしまっても、犯罪でない限りは、とにかくリセットせずに
今をしのぐのみです。

しのげさえすれば、どんなものも全て正当化されます。

この瞬間がもったいないとか、相手に申し訳ないことをしたとか、自分自身に対して許しがたいことをしたとか
そんなことはあとでいくらでも後悔すればいい。
あとで後悔できる話です。

とにかく、死んではいけない。
死んではいけないのです。

この一点をしのぐためなら、他のあらゆることは必要ない。

がんばれ!

がんばれ!!

希望の光は、すぐそこに、壁一枚の向こうにあるのだから!





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生きることは美しい

2016-01-17 19:39:34 | 心をラクに
今日で阪神淡路大震災から21年になります。

その間、東日本大震災もあり、ひと昔前のように感じますが、今だからこそ当時とは違った思いをもって実感できることがあります。

当時、私はまだ大学生でした。
親元に住んでいましたので、体だけ大きなヒナ鳥のようなものだったと思います。

テレビに流れる映像を見て、大変なことになった、大丈夫だろうか、可哀想にという思いはありました。
ただ、今とは比べものにならないほどあっさりした感覚というか、どこか遠い世界の出来事のように感じていました。

若い頃は、生きていることを実感する機会などほとんどありませんので、死というものは遥か彼方の話、存在しないに等しいものでした。
ましてや親に育ててもらっている立場にあれば尚更のこと。
物心ついてからそのまま同じ平和な巣の中に包まれています。

ようやく外の世界に足を出すか出さないかというところでは、いくら社会を意識しているつもりであっても、皮膚感覚の方が護られた環境に
馴染みきってしまっています。

ただそれは親の庇護というよりも、この世界の庇護を信じ切っている状態でもあります。
特に幼い子どもとなればそれそのものであって、それが剥き出しの「生」のエネルギーの正体と言えます。

生まれ出たままのエネルギー100%。
ですから、幼い子供というのは、まわりの環境がどれほど激変しても、それによって溢れ出るエネルギーがブレるようなことは無いわけです。

成長するにつれて、家族、会社、社会と、まわりの環境に自分を馴染ませながら、立ち位置を意識するようになります。
でもそれは決して悪いことではなく、それにより自分は一人で生きているのではなく数多くの御縁とお陰様の中で生きていること知るように
なっていくわけです。

その代償として、災害に限らず、まわりの環境の変化に大きなダメージを受けるようになります。
しかし反面、だからこそ他人の痛みも悲しみも我がことのように感じることが出来るようにもなると言えます。

子どもはそうした影響から完全な自由にありますので、いつ如何なる時も、明るく元気に前向きであり続けます。
戦後の焼け跡でもそうでしたし、震災後の避難生活でもそうでした。
子どもが希望の星であるのは、役割なのかもしれません。

私が学生だった当時も、そんな子どもの感覚が半分くらい残った状態だったと思います。
それはそれでいいのですが、今のこの歳になってから当時の出来事を追体験しますと、全く違ったものが流れ込んでまいります。

当時と違うのは、命に対する心の向き方です。
そこへ寄り添うことで怒涛の勢いで流れ込んでくるものがありました。

最期の最後まで必死に生きようとするその思い。
最期の最後まで死に物狂いで家族を救おうとする思い。
そして天へと召されたその思い。
家族に先立たれた思い。
何もかも失いながらも懸命に生き続ける人々の思い…

何としても生きる、生きたい、生き残るんだ、生き抜くんだという強い思い。

それは自我ではなく、まさに剥き出しの「命」そのものです。

死に物狂いという表現を突き抜けて、遥かな彼方へ広がり天地宇宙へと轟く、激しい光の慟哭。
それが最期の最後のギリギリまで、この大地のあちこちで無数に炸裂していたのです。

命とはこんなにも力強く、こんなにも貴い。
胸が張り裂けるような思いで一杯になりました。

そして生き残った人たちもまた、何もかも失った絶望の淵からその剥き出しの命を輝かせながら、逞しく「今」を生きていました。
昨日を振り返らず、明日を悩まず、ただ今この瞬間を生きることに、命のすべてをかけていました。

不遜かもしれませんが、その姿というのはあまりにも神々しく、力強く、美しく、手を合わせずにはいられませんでした。

ここに、或るミュージシャンの詩があります。
震災に焼け出された人々の魂を美しく書き表しています。


『満月の夕(ゆうべ)』
(作詞:中川敬 作曲:中川敬&山口洋)

風が吹く 港の方から
焼け跡を包むように おどす風
悲しくて すべてを笑う
乾く 冬の夕

時を超え 国境線から
幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子は鳴らす
「今」を刻むため

飼い主をなくした柴が
同胞とジャレながら 車道(みち)をゆく
解き放たれ すべてを笑う
乾く 冬の夕

ヤサホーヤ
唄が聞こえる
眠らずに 朝まで踊る

ヤサホーヤ
たき火を囲む
吐く息の白さが踊る

解き放て
いのちで笑え
満月の夕


被災地を何度も訪れ、そこで、生命の力強さと逞しさ、崇高さを目の当たりにしたと言います。
被災者の心を救済しようなどという上から目線の応援歌ではなく、その生命の力強さ素晴らしさに心打たれて、逆に自分の方が腹の底から力強い
エネルギーが湧き上がることに感謝と喜びを感じる賛美の歌となっています。

生きるということは、それだけで本当に美しい。
私たちは、ただ生きているだけで尊く、そして美しいのです。


歳を取るというのはただあれこれと余計な垢をつけてしまうことのように思ってしまいますが、その一方では、人の悲しみや苦しみを芯から深く
感じられるようになることでもあります。


亡くなられた多くの方々に、改めて合掌させて頂きます。




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三日坊主のススメ

2016-01-16 22:18:04 | 心をラクに
ブログを始めてちょうど一年が経ちました。

当時は、本当に書いても良いものか、ヤバいことにならないか、すぐにネタ切れするんではないかと、あれこれ躊躇
したことを思い出します。

何でもそうですが、知らないことを始めようとすると、何処からともなくマイナスの思いが次々と浮かんできます。
一つをスルーできても、すぐにまた次の「やめさせよう因子」が湧いてきます。
そうしたものをどんどんスルーして行っても、一度スルーしたはずの因子がまた出てきたりして、イタチごっこが
続いたりします。

そんなことをやっているうちにスッカリ疲れてしまい、最初の情熱も燃え尽きて、もういいやと諦めてしまう…
よくあるパターンですよね。

こうした一連の流れを「自我が必死に抵抗している姿だ」とか「自我の自己防衛だ」とか、そんな説明を目にする
ことがあります。

でも、この表現はとても乱暴なような気がします。
まるで、今この自分とは違う存在が勝手なことをやってるみたいです。
やらない理由や、やれない理由、リスクだ何だを耳元で囁きかけるヤツ、駄々こねる仕方のないヤツ…
そんな感じです。

「それを克服されてしまったら自我は自己存在が崩壊するので、必死に抵抗しているのダ」なんて説明まであります。
もう、ダメな存在と一刀両断です。

でもそんなアホな話ありません。
自分だけ高みに置いて“被害者だけど仕方ない”みたいなことしていると、いったい何様やねんと呆れられてしまいます。

自我は、何一つ悪くありません。
そうするように言われたからやってるだけです。
もちろん、指示しているのは私たちです。
そうしたい私たちが居るから、それを忠実に実行しているに過ぎません。

確かに、自我と魂とは別ものという認識は必要です。
でも、どちらも私たち自身です。
一方を突き放して分離させてしまえば気持ちはラクかもしれませんが、余計おかしなことになってしまいます。

話を少し戻したいと思います。

まだ見ぬ出来事に不安が生じるというのは、要は、何か想定外なことが起きるのを心配しているということです。
それは、何か起きること自体が不安なのではなく、それにより「心が波立つ」のが恐いということです。

そしてそれはつまり「自分が波立つのを信じている」ということでもあるわけです。

そのような信念を持っているのであれば、当然のように、何か起こるたびに波立つに決まっています。
なにせ、波立つことを自分で決めているのですから。

そしてその一方では、波立ちたくないと思っている自分も居ますので、余計なことはやめさせようとする抑制機能が
働いて、冒頭のような「やめさせよう因子」が湧き上がってくることになります。

ですから、自我は何も悪くありませんし、しょーもないヤツでも何でもありません。
むしろその逆で、健気なほどに献身的で尊い存在です。

過去の宗教でも精神本でも、対処療法的な方便として、本当は自我のそうした動きを認識させるだけのつもりが、
そこにネガティヴな心証を付与してしまったために、かえって煩悩を強めることになってしまいました。

まずは、それら誤解を改めることが先となります。

自我は、素晴らしい存在です。
非常にありがたい存在です。


そのように根っこの部分をクリアにしてから、改めて今日の話を進めたいと思います。

単純な話ですが「何が起きてもサラッと諦められる」ということを信じていれば、想定外なことが起きようが起きまいが、
不安は無くなります。
そのために「仕方ない」とか「諦める」といった言葉に辿り着いたわけですが、その思いをさらに確たるものに
するために、もう少し先まで掘り進めます。

そもそも、状況が波立つことで私たちの心も波立ってしまうので、新たな変化というものをネガティヴに捉えてしまう
心癖がついてしまいました。

では、なぜ波立つのは嫌なことなんでしょう?

嫌だと思う信念がそこにある限りは、いくら「しゃーない」という方便を使っても、上っ面の表面しかスルーできず
根っこの部分は悶々としたまま残ってしまいます。

ですから「別に波立ってもええやん。」と割り切れればバッチリなわけです。

波立つのが嫌なのは、ハッキリ言ってそれが心地悪いからです。
心が波立つと、安心と安定が崩れ、自分がバラバラになったように感じます。
心と身体がバラバラになり、天地と自分とがバラバラに分断されてしまう、その喪失感と孤立感に不安と悲しみを
覚えるわけです。

つまり、

「悲しくなりたくない」
→「波立ちたくない」
→「波立つようなことはしたくない」
→「余計なこと(新しいこと)はしたくない」

という流れです。

波立っても放っとけば勝手に静まるのは、誰もが分かることだと思います。
ただ、分かっちゃいるけど放っとけないというのが悩ましいわけです。

何故そうなるかと言えば、「波立つのが嫌だ」という思いが無意識の中にあるからです。
その思いがあるために、ほんのわずかな波立ちでもアリャーと思ってしまいます。
そして、そのアリャーが、その波立ちをさらに大きくさせてしまいます。

ところで、何かに直面してそれをどうにかしようとする時、同じ平面に立ったままでは無理が生じてしまいます。
事象というのは、それよりも下の部分に根が存在して、それが芽吹いたものです。
ですから、解決に窮した時には、一つ一つ掘り下げていくと全貌がよく見えてまいります。

この場合もそうです。
「ほんのわずかでも波立つのが嫌だ」という思い。
その思いを無くそうと、真正面からぶつかってしまうと解決は遠ざかってしまいます。

「これを無くそう」とか「これはダメなことだ」と決め打ちした瞬間、その対象はより頑強なものになっていきます。
拒絶したり否定したりすることは、その対象をより強く意識することにしかならないからです。

意識するということはエネルギーを注ぐということ、実体化させるということです。
つまり、その対象と、天地との間に強固な壁(断絶)を作らせるということです。

ですからそれとは逆に、対象を受け入れる、つまり「それでOKだ」と認めることが、その対象と天地との間の壁を
透明化させることになるわけです。

対象と天地とが一つに溶け合い、ガリガリと主張していた壁が無くなるということです。
(これは人間関係にも当てはまります)

「放っとけばおさまるのに放っとけない」というのも、結局は、波立つのを嫌っていること自体が根本的な原因と
なっています。
波立ってはいけない、波立つのは嫌だ、とマイナス評価で否定してしまっているのが原因なのです。

ですから、「波立っても全くOK」「そうだよね、波立つよね」と、自分自身を安心させてあげることが大事です。
ただ、本心からそう思えていないのに、そう思おうとするのはNGです。
余計に根深くなってしまいます。

「でも大丈夫」と言えるようになって初めて「そうだよね、波立つよね」と受け入れることができるようになります。

実際、生きていますとわずか1ミリも波立たないことなど不可能であるわけです。
それをゼロに近づけようとするから無理が生じます。
波立ってはいけないのではありません。
「波立つのが当たり前」なのです。
もとより当たり前すぎることですから、安心していいわけです。
そうして、少しくらい波立ったところで気にせず放っとける、ということになるのです。

そしてまた、先ほど「波立ちたくない」「心を乱されたくない」という思いを一つ掘り下げますと、「悲しくなり
たくない」というのが出てきました。
なぜ悲しいかと言えば、心が波立つと、自分が天地宇宙から分断されてバラバラになってしまうからでした。

でも本当の意味でバラバラになったりすることはありません。
そうなったように見える状態になるだけです。
本当に分断してしまったら、そもそも存在していません。
だから、孤立することなど無い、何が起きても大丈夫という安心感が、引いては「波立っても大丈夫」ということに
繋がっていきます。

ただこの恐怖感や焦燥感は、天地宇宙から一方的にシャットダウンしないための本能的なものなので、それもまた
ありがたいものであるわけです。

本能ですからそれを無くさせることは出来ません。
ですから、それを受け入れることが静まることへの近道となります。

ここまでの一連の流れは、頭で理解するだけでなく実際に行動を伴うことで現実化していきます。

つまり「ホラ大丈夫だったでしょ」となるような成功体験ならぬ安心体験を重ねていくということです。
ですから、何かの状況変化が訪れたり、新しい興味が湧いたりした時には、躊躇せず玉砕覚悟でバンバン飛び込んで
行くのがいいわけです。

気持ちとしては玉砕覚悟ですが、終わってみれば、かすり傷一つなしの無傷で終わります。
それを繰り返すうちに、条件反射的な拒絶や、いわゆる自我の抵抗行動と言われているものは薄れていくでしょう。

私たちは、自らあれこれ探し回らなくても、いつもそのような機会に恵まれています。
例えば、職場がそうです。

新しいことに対する拒絶感というのは、仕事の場面でも全く同じ形で現れます。
経験のない新しい仕事を振られますと、一瞬「面倒だなぁ」と思ったりします。
すると、次々とそれをやりたくない理由が湧いてきます。
どのあたりで引っかかりそうだとか、何が大変そうだとか、取り掛かる前からストレス箇所を想定してしまいます。

で、面倒だと思ってなかなか手をつけずに後回しにするのですが、いよいよお尻に火がついて取り掛かってみると
アレ?思ってたほどは大変じゃなかった…
となるのです。

実務に費やすエネルギーよりも、湧き出る思いとのストレスに費やすエネルギーの方が遥かに大きい。
案ずるより産むが易しという言葉のまんまです。

今の状況が嫌だと思いながら、状況が変わることで面倒が起きるかもしれないという心配から、ネガティヴなネタが
次々と浮かんできます。

「今のシンドさ」より「変化による波立ち」の方が嫌だ…

無意識のうちにそう思っていると、変化しないことを望むことになり、結局は今のシンドい状況がそのまま続く
ことになるというわけです。

仕事や生活は、流れ流れる川のようなものです。

「それらは対峙するものであり、流されないように頑張らねばならない」と考えてしまうと、自我はその思いを
キャッチして、私たちの立ち位置が1ミリも動かないように耳元で「やめさせよ因子」を必死にささやいてくれます。

私たちは「今ここ」に集中できずにいる一方で、「今ここ」というものにしがみ付こうとするあまり、結果的に
「今ここ」から離れてしまっています。

集中というのは、透明な心によって自然とそのようになった状態です。
しかし、我執に端を発して濁ってしまうと、的はずれなことになってしまいます。

いま目の前の景色というのは、刻々と新しいものに入れ替わっています。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。

ですから、その川の流れを私たちは一切止めずに、そのまま透き通るようにこの身を通させるのが、天地自然の
姿であるわけです。


もしも、いま目の前の景色を変えまいとした時、その「いま目の前の景色」はすでに過去のものとなります。
つまり、それは「もとの水」でしかないわけです。
それを変えまいという思いは、常に過去にしがみつき続けていることにしかならないということです。

言うなれば、それは川の流れに対して必死に耐える岩の姿です。
変えまいとこらえて、そこに川がぶつかりビシャビシャと激しく散っています。

私たちを包むように流れて来る、仕事や生活というものは、抗する対象ではありません。
「自分」と「自分以外」というように対峙させるものでは無いのです。

この世界というのは私たちが主役です。
この世界があってそこに私たちがいる、というものではありません。
私たちがあって、この世界があるのです。
私たちとは天地宇宙そのものです。

何から何まで揃っているところに、新参者としてあとから一人ポーンと放り出されたわけではないのです。

小さな私たちに向かって大きな川の流れが押し寄せてくるのではなく、大きな私たちの足下で優しくサラサラと
流れるせせらぎがあるのです。

思い一つで自我の反応もガラリと変わります。
とても献身的で実直な存在なのです。

冒頭で触れた、ブログを始めた時の話にしても、いま思えば、新しいことをすれば何かが変わるという期待がその
キッカケでした。
その時は、ブログに限らず、少しでも気になったことは取り敢えずバンバン手をつけていました。
そのほとんどが三日坊主に終わりましたし、中には一回だけで終わってしまったものもありました。

でも今となっては、それらを残念に思ったりせずスッキリ笑って思い返すことができます。

何十年も続けるのが正しいとか、続かないのはダメだとか、そういうことではないと思います。
何もやらなければ、それは完全にゼロでしかありません。
でも、たった一回でやめたとしても、そこには今回の人生でしか出来なかった一回があるのです。
想像の世界ではなく、現実化したリアルがあるわけです。
そこから得るものは計り知れないはずです。

たとえ三日坊主で終わっても、その三日が十分な役目を果たします。
「今の自分がそこから得るべきことは三日で完結した」「その三日のために始めた」ということだって、実際は
あるのです。

続けることは大切ですし、理想に向かって邁進するのも非常に大事なことです。
ただ、それが絶対正義だと思い過ぎてしまうと、おかしなことになってしまいます。

それはそれ、これはこれ。
何処まで行っても、すべては方便にすぎません。

私たちは早々にやめてしまうと、挫折してしまったと落ち込んでしまいがちです。
でも、始めた直後の新鮮な気持ちは、その瞬間その時の「今」においては、間違いなく本物であるわけです。

それがご縁というものです。

ご縁というのは、淡いご縁もあれば、深いご縁もあります。
しかし、それらはその瞬間の繋がりにおいては、どちらも等しいものです。
深いご縁、長いご縁というのは、その瞬間というものがたまたま幾度も訪れているだけです。
一期一会というのは、そういうことです。

ご縁というものは、何時までもしがみつくものではありません。
ご縁とは、結果に過ぎません。
「こうあるべきもの」として私たちが作為的に存続させるものは、本当の意味でのご縁とは言いません。

新しいことを始めるのもご縁ですし、新しい人たちとの出会いもご縁です。
その時間が長い短いということには、何の差もありません。
三日坊主、万歳なのです。

もしも今、少しでも気になってることがあれば、そんな気持ちで踏み出してみてはいかがでしょうか。

お金がかかる、せっかく買っても挫折してしまったらもったいない、時間が無い、家族に怒られる、体力に自信がない…
色々な思いが湧き出てくるでしょう。
そこで「来たな」とニヤリとやり過ごせばいいのです。

『これは人類にとっては小さな一歩だが、一人の人間にとっては偉大なる飛躍だ』
なのです。

他人と比べてしまうと三日坊主はみっともないように思えてしまうでしょうが、この世界というのは私たち自身が
経験するために存在しているのです。

何度も生まれ変わりを繰り返す中で、私たち自身、どんどん変わっていきます。
物事というのは、それ自体は無色透明ですから、受け手が変わることで様々な色を放っていきます。
ちょうどそれは、同じ本を読み直すと、その時々によって受け取るものが変わるのと同じです。
ですから、三日坊主だろうが一回坊主だろうが、今この人生の中で刻むその一歩というのは、今の私たちにとって
唯一無二のエッセンスとなるのです。

その一歩の大きさというのは、死んだ時になれば分かりますから、今は考えなくてもいいことです。
三日坊主で終わったら終わったで、ただ、ゲラゲラと笑い飛ばす。
それが今の私たちの成すべき役目だと思えば、肩の力を抜いてラクに飛び込めるのではないでしょうか。

一見ムダなことに、無限の価値が眠っているものです。
お金や時間がもったいないということはあり得ません。
どんな経験であろうと、それを体験したことで、すでに価値という意味では最大限で完結しています。

体験することこそが、私たちの生まれてきた目的です。
体験とは、命そのものなのです。

あらゆる経験には、それだけの価値があるということです。
経験した中身に価値が生じるのではなく、体験するということ自体が価値そのものなのです。
不真面目なことや無駄なことは価値が低いということにはならないのです。

ですから、安心して、三日坊主しましょう(笑)

そう考えると、三日坊主で終わりそうなネタを探すだけでワクワクしてきませんでしょうか。
まさに、何か悪さしようとする時の、あの懐かしい感覚に近いかもしれませんね(笑)



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