考えごとをしていたり、心ここにあらずだったり、心がボヤけていると、私たちの全体というのはバラバラに
なってしまいます。
心身が統一して天地に任せきった状態のときは、全体は一つになります。
一つになるとは、全てが噛み合って一体となっていることです。
その状態にあると、例えば誰かにバシーンと思いっきり叩かれても、衝撃は全身の表面へ散る感じで逃げていきます。
ドツかれても全くブレることはありません。
やってみると分かりますが、まったく痛みが無くなるということは無いにせよ、体の芯まで響かずに上っ面で
拡散する感じになります。
これが全体がバラけている状態だと深部に響き、全身に広がるわけですから、バラバラになってる切れ目のところを
衝撃が一気に入り込んでいくということなのでしょう。
ここで一つ面白い発見がありました。
全体がバラバラになった状態、たとえば完全な脱力状態で、ボケーッと気の抜けた感じで立っていますと、これは
氣抜けなので押せばグニャっとよろけます。
もちろん、ドツかれれば芯まで響きます。
しかし、その状態で背中や腕をバシーンと思いっきり叩かれると、それがどんな姿勢であっても、その姿勢のままで
瞬間的に統一体になる、つまり全体が一つになるのでした。
バラけた状態にあるので叩かれた時は凄い衝撃がくるわけですが、その次の瞬間には、叩かれても衝撃が表面に
拡散する状態に一変しているということです。
これは、優しく手加減してしまうと全く成立しません。
「ウオッ」と思うくらいの衝撃でなくては成りません。
まさにバシーンという衝撃により、私たちの心の移ろいは全て吹き飛びます。
お寺なんかの坐禅の場面でも、心乱れているとお坊さんがツーッと近づいてきて、警策といって肩をピシャッと
叩かれるシーンを見たことがあると思いますが、まさにあれも同じ原理だと思います。
心があちこち移ろってしまっているところを、ピシャ!っとやってもらった瞬間、天地宇宙と一体になるという
ことです。
この時の流れをスローで振り返りますと、まず先に身体がその衝撃をキャッチして、その身体の信号によって、
心の考えごとや移ろいが強制的にシャットダウンされていることが分かります。
決して、心が主導となって自ら考えごとをやめるということではないわけです。
バシーンと衝撃が走った瞬間、全体が一つに定まる。
「今」に全てが集中する。
私たちの身体は、全く自然に、当たり前にそれをやるということです。
どんなに心がフワフワしていても、危険が迫ると心のフラつきは全てシャットアウトされて、天地宇宙と一体の
状態になるのです。
考えごとをしたり、心ここにあらずになると身体はバラバラになりますが、身体が刺激を受けるとその心の移ろいが
消し飛ぶ。
ということはつまり、迷いや悩み、苦しみを消し飛ばすには、心よりも身体を使った方が遥かに手っ取り早いと
いうことです。
天地宇宙との一体というのは、頭ではなく、感覚がフルオープンになった状態です。
感覚というのは、心でキャッチするものではなく身体でキャッチするものです。
私たちは「天地宇宙」などと壮大なスケールのものを前にすると、思わず、心や頭を使いたくなります。
想像という行為がそうさせるわけです。
しかし、真理は逆で、肌感覚こそがそれらを感得させるのです。
素直に考えれば、これは当たり前の話です。
以前、カルフォルニアの空も、いま頭の上にある空も、連続で繋がる一つのものだという表現をしました。
同じように、私たちの肌と、天地宇宙とは何一つ隔てるものがない、完全な地続きであるわけです。
何億光年離れた宇宙ともダイレクトに続いています。
わざわざ頭や心を使って感じ取ろうとするのは、遠まわり以外の何ものでもありません。
身体は天地宇宙に通じているのです。
知らず知らずのうちにバラバラになってしまっている私たち自身を、スッと一つにするためには、身体に任せきる
のが手っ取り早いのは当然であるわけです。
運動をすると心がスッキリするのもまったく同じ理屈です。
そうは言っても、悩みや悲しみが深すぎて、心ここにあらずのまま身体を動かしていたのではスッキリするはずも
ありません。
せっかく運動するのですから、身体の方に主役を譲ってしまいたいところです。
そういう意味では、本当に好きな運動だったり、筋肉や心肺に負荷のかかる激しい運動、もしくはスキーや登山、
水泳のように或る意味皮膚が本能的な危機感を抱くものなどならば、心の囚われを引きずらず、自然と身体の方に
集中できることでしょう。
そうして身体が主となり、心や頭が従となった時、悩みや苦しみは何処かへスーッと消え去っていきます。
心は身体と溶け合い、私たち全体が一つのものとなります。
そして、その身体は天地と溶け合い、天地宇宙全体が一つのものになります。
身体に任せてしまうことで、私たちは天地と一つに溶け合っていくわけです。
前回は触れませんでしたが、いのちの潤いが枯れてシンドい時の打開策として「身体を動かす」「運動をする」
というのは極めて有効な手段だと言えます。
血液が全身の隅々へと流れていくとともに、天地宇宙の「いのち」もまた、私たちの中をくまなく流れていきます。
全体が一つとなった時、自ずと中心は一ヶ所に定ります。
中心が一ヶ所に集約された時、自ずと全体は一つとなっています。
天地宇宙すべてと私たちが一つになった時、その中心の一点というのは臍(へそ)の下にきます。
まさに私たちは、天地宇宙と臍下の一点で繋がっているということです。
悶々としている時には、頭で考えたり、心で悩んだりせず、臍下の一点で感じることが自然本来の姿であり、また
バラバラになってしまった私たちが天地自然へ回帰するための道でもあるのです。
どんなにツラく、どんなに悲しく、どんなに苦しくとも、自分の中心だけは頭や心に置かず、常に臍下の一点に置く。
何故ならば、そこが私たち自身を一つにする中心であり、私たちが天地宇宙と繋がる臍の緒でもあるからです。
そして同時にまた、その一点というのは「今」この瞬間のことでもあります。
私たちは「今」の一点において天地と繋がり、宇宙全体と一つとなっています。
「臍下の一点」が私たちと天地宇宙を繋ぐ臍の緒であるように、「今」というのも、私たちが私たち自身と繋がり、
また天地宇宙とも繋がる臍の緒であるわけです。
今を悲観したり、今を絶望したり、今を悪く言ったりするというのは、今を受け入れていないことに他なりません。
それは「今」と一体となっていない、つまり天地宇宙と一体になっていないということを意味します。
たとえどんな「今」であろうと、それを受け入れないということは、天地宇宙との臍の緒が絶たれた状態になると
いうことです。
そうなるとエネルギーはますます枯れていってしまいます。
そしてバラバラの状態ですから、少しの衝撃にも大きなダメージを受けてしまいます。
全体を一つにするには、心を使うよりも身体を使う方が確実です。
ですから運動すれば、瞬時に今ここに戻ることができるということでした。
とにかくそれは散歩でも掃除でも、身体を動かすものであれば何でもいいわけです。
身体というのは、本当に凄い存在です。
肩が痛い、腰が痛い、頭が痛いと、どうしても悪いところばかりが目についてしまうかもしれません。
でも、この身体こそは、いつでも私たちの移ろう心を救ってくれる存在であるわけです。
希少価値という意味では、「身体」というのは世界中の誰もが持っているものです。
持っていない人は誰ひとり居ません。
この地球だけでも70億もあります。
あまりにも当たり前のものすぎて、全く理解できないかもしれませんが、しかしこれこそは途轍もない超高性能な
天地宇宙の最高傑作です。
この天地宇宙そのものにも等しい、この上なく貴い宝物であるのです。
私たちの心や頭ごときが、それを格下に置いてアゴで使うのはあまりにも無知に過ぎるということです。
ツラいとき、苦しいときこそ、一番身近にあるこの身体に大いに頼ってみましょう。
今まで背伸びをして頑張ってきた頭や心、自我はここらで休ませてあげて、身体の感覚にすべて任せてしまう。
そのとき、これまで全く見えなかった景色が広がってくることでしょう。
あぁ、そうか……
天地宇宙と陸続きの一つのものなんだ
この身体は、天地宇宙そのものなんだ
なんてありがたいんだろう
ここまでが自分だとか
ここから先は自分ではないとか
勝手に線引きをしていたけど
もとよりそんなものはなかったんだ。。。
身体は、私たちの一番身近にある天地宇宙です。
それは無限の広がりでもって、どこまでも私たちを受け入れてくれます。
どんな私たちだろうと、そのまま受け入れてくれます。
嫌がったりもせず、見返りも求めず、それに気づいて欲しいとも言わずに。
そう、まさに身体とは、私たちの救世主なのです。
感謝とともに、子どものように、身体のおもむくまま、自由に無邪気に走り出してみましよう。
そのときケラケラと心の底から湧き出る喜びが、天地へ解き放たれることでしょう。

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なってしまいます。
心身が統一して天地に任せきった状態のときは、全体は一つになります。
一つになるとは、全てが噛み合って一体となっていることです。
その状態にあると、例えば誰かにバシーンと思いっきり叩かれても、衝撃は全身の表面へ散る感じで逃げていきます。
ドツかれても全くブレることはありません。
やってみると分かりますが、まったく痛みが無くなるということは無いにせよ、体の芯まで響かずに上っ面で
拡散する感じになります。
これが全体がバラけている状態だと深部に響き、全身に広がるわけですから、バラバラになってる切れ目のところを
衝撃が一気に入り込んでいくということなのでしょう。
ここで一つ面白い発見がありました。
全体がバラバラになった状態、たとえば完全な脱力状態で、ボケーッと気の抜けた感じで立っていますと、これは
氣抜けなので押せばグニャっとよろけます。
もちろん、ドツかれれば芯まで響きます。
しかし、その状態で背中や腕をバシーンと思いっきり叩かれると、それがどんな姿勢であっても、その姿勢のままで
瞬間的に統一体になる、つまり全体が一つになるのでした。
バラけた状態にあるので叩かれた時は凄い衝撃がくるわけですが、その次の瞬間には、叩かれても衝撃が表面に
拡散する状態に一変しているということです。
これは、優しく手加減してしまうと全く成立しません。
「ウオッ」と思うくらいの衝撃でなくては成りません。
まさにバシーンという衝撃により、私たちの心の移ろいは全て吹き飛びます。
お寺なんかの坐禅の場面でも、心乱れているとお坊さんがツーッと近づいてきて、警策といって肩をピシャッと
叩かれるシーンを見たことがあると思いますが、まさにあれも同じ原理だと思います。
心があちこち移ろってしまっているところを、ピシャ!っとやってもらった瞬間、天地宇宙と一体になるという
ことです。
この時の流れをスローで振り返りますと、まず先に身体がその衝撃をキャッチして、その身体の信号によって、
心の考えごとや移ろいが強制的にシャットダウンされていることが分かります。
決して、心が主導となって自ら考えごとをやめるということではないわけです。
バシーンと衝撃が走った瞬間、全体が一つに定まる。
「今」に全てが集中する。
私たちの身体は、全く自然に、当たり前にそれをやるということです。
どんなに心がフワフワしていても、危険が迫ると心のフラつきは全てシャットアウトされて、天地宇宙と一体の
状態になるのです。
考えごとをしたり、心ここにあらずになると身体はバラバラになりますが、身体が刺激を受けるとその心の移ろいが
消し飛ぶ。
ということはつまり、迷いや悩み、苦しみを消し飛ばすには、心よりも身体を使った方が遥かに手っ取り早いと
いうことです。
天地宇宙との一体というのは、頭ではなく、感覚がフルオープンになった状態です。
感覚というのは、心でキャッチするものではなく身体でキャッチするものです。
私たちは「天地宇宙」などと壮大なスケールのものを前にすると、思わず、心や頭を使いたくなります。
想像という行為がそうさせるわけです。
しかし、真理は逆で、肌感覚こそがそれらを感得させるのです。
素直に考えれば、これは当たり前の話です。
以前、カルフォルニアの空も、いま頭の上にある空も、連続で繋がる一つのものだという表現をしました。
同じように、私たちの肌と、天地宇宙とは何一つ隔てるものがない、完全な地続きであるわけです。
何億光年離れた宇宙ともダイレクトに続いています。
わざわざ頭や心を使って感じ取ろうとするのは、遠まわり以外の何ものでもありません。
身体は天地宇宙に通じているのです。
知らず知らずのうちにバラバラになってしまっている私たち自身を、スッと一つにするためには、身体に任せきる
のが手っ取り早いのは当然であるわけです。
運動をすると心がスッキリするのもまったく同じ理屈です。
そうは言っても、悩みや悲しみが深すぎて、心ここにあらずのまま身体を動かしていたのではスッキリするはずも
ありません。
せっかく運動するのですから、身体の方に主役を譲ってしまいたいところです。
そういう意味では、本当に好きな運動だったり、筋肉や心肺に負荷のかかる激しい運動、もしくはスキーや登山、
水泳のように或る意味皮膚が本能的な危機感を抱くものなどならば、心の囚われを引きずらず、自然と身体の方に
集中できることでしょう。
そうして身体が主となり、心や頭が従となった時、悩みや苦しみは何処かへスーッと消え去っていきます。
心は身体と溶け合い、私たち全体が一つのものとなります。
そして、その身体は天地と溶け合い、天地宇宙全体が一つのものになります。
身体に任せてしまうことで、私たちは天地と一つに溶け合っていくわけです。
前回は触れませんでしたが、いのちの潤いが枯れてシンドい時の打開策として「身体を動かす」「運動をする」
というのは極めて有効な手段だと言えます。
血液が全身の隅々へと流れていくとともに、天地宇宙の「いのち」もまた、私たちの中をくまなく流れていきます。
全体が一つとなった時、自ずと中心は一ヶ所に定ります。
中心が一ヶ所に集約された時、自ずと全体は一つとなっています。
天地宇宙すべてと私たちが一つになった時、その中心の一点というのは臍(へそ)の下にきます。
まさに私たちは、天地宇宙と臍下の一点で繋がっているということです。
悶々としている時には、頭で考えたり、心で悩んだりせず、臍下の一点で感じることが自然本来の姿であり、また
バラバラになってしまった私たちが天地自然へ回帰するための道でもあるのです。
どんなにツラく、どんなに悲しく、どんなに苦しくとも、自分の中心だけは頭や心に置かず、常に臍下の一点に置く。
何故ならば、そこが私たち自身を一つにする中心であり、私たちが天地宇宙と繋がる臍の緒でもあるからです。
そして同時にまた、その一点というのは「今」この瞬間のことでもあります。
私たちは「今」の一点において天地と繋がり、宇宙全体と一つとなっています。
「臍下の一点」が私たちと天地宇宙を繋ぐ臍の緒であるように、「今」というのも、私たちが私たち自身と繋がり、
また天地宇宙とも繋がる臍の緒であるわけです。
今を悲観したり、今を絶望したり、今を悪く言ったりするというのは、今を受け入れていないことに他なりません。
それは「今」と一体となっていない、つまり天地宇宙と一体になっていないということを意味します。
たとえどんな「今」であろうと、それを受け入れないということは、天地宇宙との臍の緒が絶たれた状態になると
いうことです。
そうなるとエネルギーはますます枯れていってしまいます。
そしてバラバラの状態ですから、少しの衝撃にも大きなダメージを受けてしまいます。
全体を一つにするには、心を使うよりも身体を使う方が確実です。
ですから運動すれば、瞬時に今ここに戻ることができるということでした。
とにかくそれは散歩でも掃除でも、身体を動かすものであれば何でもいいわけです。
身体というのは、本当に凄い存在です。
肩が痛い、腰が痛い、頭が痛いと、どうしても悪いところばかりが目についてしまうかもしれません。
でも、この身体こそは、いつでも私たちの移ろう心を救ってくれる存在であるわけです。
希少価値という意味では、「身体」というのは世界中の誰もが持っているものです。
持っていない人は誰ひとり居ません。
この地球だけでも70億もあります。
あまりにも当たり前のものすぎて、全く理解できないかもしれませんが、しかしこれこそは途轍もない超高性能な
天地宇宙の最高傑作です。
この天地宇宙そのものにも等しい、この上なく貴い宝物であるのです。
私たちの心や頭ごときが、それを格下に置いてアゴで使うのはあまりにも無知に過ぎるということです。
ツラいとき、苦しいときこそ、一番身近にあるこの身体に大いに頼ってみましょう。
今まで背伸びをして頑張ってきた頭や心、自我はここらで休ませてあげて、身体の感覚にすべて任せてしまう。
そのとき、これまで全く見えなかった景色が広がってくることでしょう。
あぁ、そうか……
天地宇宙と陸続きの一つのものなんだ
この身体は、天地宇宙そのものなんだ
なんてありがたいんだろう
ここまでが自分だとか
ここから先は自分ではないとか
勝手に線引きをしていたけど
もとよりそんなものはなかったんだ。。。
身体は、私たちの一番身近にある天地宇宙です。
それは無限の広がりでもって、どこまでも私たちを受け入れてくれます。
どんな私たちだろうと、そのまま受け入れてくれます。
嫌がったりもせず、見返りも求めず、それに気づいて欲しいとも言わずに。
そう、まさに身体とは、私たちの救世主なのです。
感謝とともに、子どものように、身体のおもむくまま、自由に無邪気に走り出してみましよう。
そのときケラケラと心の底から湧き出る喜びが、天地へ解き放たれることでしょう。

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