昔からマスコミというのは、出来事や発言の一部を切り取って、自作自演の大騒ぎをしてきました。
戦後、自由が叫ばれるようになってからは、何かと言論統制だと騒ぎ立て、報道の世界は治外法権となりました。
ただ、それでも戦前から受け継いできた良識のおかげで、今日まで大なり小なり自制心が働いてきていました。
それというのは、理屈以前にさすがにこれ以上は恥ずかしいという思いであり、自ら蔑めることのツラさだったのではないかと思います。
それにしても、テレビ報道というものは本当に脆いと言わざるをえません。
視聴率の低迷という緊急事態にさらされると、その重圧に耐えかねて、人として当たりまえの感性すら捨ててしまったのではないかと思う
ほどです。
つい先日も、首相発言の捏造は本当に酷いものでした。
すでに語り尽くされたネタですが、少しだけ触れさせて頂きます。
「選挙のためだったら何でもする無責任な勢力に負けるわけにはいかない」
これがもともとの発言でした。
もちろん、それは民主党と共産党が手を組んだことを指してのものです。
これに対する日本テレビのニューステロップがこうだったわけです。
「安倍首相『選挙のためだったら何でもする』」
こうなると間違いや勘違いなどではなく、もはや確信犯です。
しかも一人や二人の見落としでスルーしてしまったという次元のものではありません。
この件に限らず、多くの報道で同じようなことが繰り返されてしまっているように感じます。
その裏には思想的な使命感のようなものもあるのかもしれませんが、それよりも、ただ単に注目されたいがために悪さをする子供と変わらぬ
自己顕示も見え隠れします。
日本が危ういから嘘をついてでも止めなければいけない。
悪い印象を国民に刷り込むことが先決。
センセーショナルな響きにすれば、みんなの感情に火がつく。
盛り上がればOK。
もしも確信犯的な誤報や情報操作があるならば、それはジャーナリズムの自殺と言わざるをえません。
大義や正義を隠れ蓑にすれば何でも許されるという発想は、それこそ彼らが最も嫌う軍国主義やファシズムと何ら変わりありません。
それが一度や二度ならばたまたまということもありますが、枚挙に暇が無いとなると同情の余地もありません。
少し前の丸山和也議員の黒人大統領発言にしても、むしろアメリカを讃える内容だったものを、コメントの切り取りによって完全に差別発言
に作り変えてしまいました。
そうやって海外の怒りを煽り、それに乗じて虎の威を借る狐となって、魔女狩りの如く一議員を血祭りにあげようとするえげつなさは、
かつての従軍慰安婦騒動を彷彿させるものがありました。
政治というのは、国民を護ること、国を発展させることがその本分です。
それを芸能ニュースじみた騒ぎ方で低俗な次元に引きずりおろし、国民の感情を煽ることによって、マスコミ報道の方へ注意を向けさせよう
というのは姑息以外の何ものでもありません。
そもそも完璧な人間など、この世のどこにも居ません。
だからこそ、それぞれが得意な分野を手分けしているのです。
人は、その為すべき仕事をすればいい。
しかるにその本業のことは一切報じず、全く関係のないところばかり揚げ足取って叩くことに何の意味があるのか。
そんなものは正義をかたったリンチ行為でしかありません。
聖人君子でなくては政治家が務まらないなどファンタジーにも程があります。
人間社会というのは清流だけではなく、むしろ濁った泥だらけです。
自分の胸に手を当てれば誰だって分かることです。
そうした世界をまとめあげていくには、その泥も進んで飲み込めねば務まりません。
むしろ、汚れ仕事だらけと言ってもいいくらいでしょう。
そんなこと、シミ一つない人間に務まるはずがない。
聖職者のような清廉潔白さを求めるなんて勘違いも甚だしいことです。
政治家に最も必要なのは、批判や汚名もかえりみず、本当に国や国民のためになることをやり遂げる気概です。
それさえあれば、他のことは致命的なものにはなり得ません。
むしろ、肝心なその気概が無くて、批判や汚名を受けないようにと身辺を綺麗にすることだけに注力している政治家なんていうのは、もはや
自己存在を否定しているとしか言いようがありません。
マスコミのおかしな幻想のせいでそのような代議士ばかり増えてきているのは、国家の危機でしかありません。
PTAレベルの正論を良しとするような感覚では国を滅ぼし兼ねません。
何となれば、正論のためなら国が滅んでも仕方がないとすら思っている輩に、この国を預けてはいけません。
本分をおざなりにするような良識を欠いた代議士は叩かれるべきですが、そうでもない議員を無理やり叩いてホコリを散らして、正義の名の下、
袋叩きにするのは異常そのものでしょう。
そして何よりタチが悪いのは、感情のまま暴走するように視聴者を扇動していることです。
彼らは支配だとか洗脳だとか、そんな高邁な目的で私たちを猪突猛進の闘牛へと肥やしているのではなく、ただ私たちを走らせたいだけであり、
自分はその中心に居たいだけなのです。
彼らの言動で私たちが一喜一憂すれば、それで満たされるのです。
本来のジャーナリズムとは、切り絵の平面に張り付いている私たちの頬を引っ叩いて、広い視野へと目を覚まさせるのが使命でしたが、
今では全くその逆になってしまいました。
もちろん、真面目なジャーナリストも大勢います。
ただ、感情的な報道姿勢の方が圧倒的に目立ってしまっているのです。
今回のブログで言いたかったのは、単なるマスコミ批判ではなく、ボーッと過ごすことの危うさです。
与えられる情報が純度100パーセントのものだと決めつけてしまうと、無思考のまま自我の自動運転を加速させるだけになってしまい、
結局その心癖は私たちの苦しみをより一層深めることになっていきます。
現実をしっかりと理解することで、煩悩を冷静に流すことができるようになります。
ですから改めて注意すべきは、こうした酷い捏造報道に「けしからん」と怒り心頭になってしまうところですが、それこそが自我の自動暴走へ
身を預けることになってしまう点です。
今この瞬間こそ、冷静に淡々と現実を見渡すことが大切となってきます。
さて、私たちは、長い間この切り絵の世界に一心同体となって張り付いてきたため、もとより無意識のまま自動モードにエネルギーを注ぐのが
当たり前になっていました。
さらには、サッカーのようなアッパーなスポーツ観戦や、ジェットコースター的なハリウッド映画など、私たちのまわりには無意識の感情
暴走を強化させてしまう媒体が山ほど存在しています。
観戦や鑑賞という大義名分によって自制心をはずして身を預けきってしまうと、感情のトップとボトムが目まぐるしく入れ替わることで、
その振り幅に酔っていくことになります。
そうして、脳の中では古い脳(動物脳)が優位な状態となってしまうのです。
しかし同じサッカー観戦にしても、違う態度で接すれば全く異なるものとなります。
普通のエキサイトで盛り上がる程度ならば何の問題もなくスカッと爽やかとなるわけです。
それが、理性を失うほどの狂気じみた乱痴気騒ぎへと身を投じてしまうと、これは本当に危ない。
よく言われる愚民化政策の3S(Sports、Screen、Sex)とは、詰まりそういうことなのです。
彼らからすれば、私たちに切り絵の平面から離れて天地の視点に立たれてしまうと、アッサリと見透かされてしまいますので、気付かせない
ように感情や欲望の暴走癖をつけさせて、切り絵の平面から逃れられないようにしているわけです。
感情にまかせている時というのは自我100パーセントの状態ですから、つまりは切り絵の平面にベッタリ張り付いている状態です。
それを繰り返させることにより、ベタつきが常態化してそうでない状態の方が気持ち悪くなるという仕掛けです。
それは言い換えれば、目を覚まさないように寝かせたままにさせておくということになります。
マスコミの煽情的な報道姿勢というものも、結果としてはこれと同じ効果を生んでしまっています。
でもタネあかしをしてしまえば、安っぽい手品に引っかかることもなくなるでしょう。
マスコミがやる手法として、まず誰が見てもフォローしようがないと思うような絶対悪を作り上げます。
それにより私たちは他の誰かと意見が分かれたり反論されたりする心配がなくなり、安心して非難できるようになります。
さらに、まわりのみんなと同じ方向へ一緒に走るのはシンクロ体験となって気持ちいいものに感じるという要素もそこに加わってきます。
天地宇宙の協調感覚を私たちは無意識のうちに知っています。
全体主義、同調意識、ミーハー意識といったものは実際は表層部分だけがそれと似ているだけに過ぎないのですが、そこはかとなく天地宇宙の
協調感覚を思い起こさせるために、やればやるほど安心が深まってきてしまうのです。
普段であれば理性が歯止めとなりますが、その自制心を外してしまうのがこの大義名分や正義というものであるわけです。
もう一度マスコミの手法をおさらいします。
・まずは感情の暴走が許されるような環境、空気感を作り出す。
・私たちの鼻面に餌をぶら下げて、衝動を喚起する。
・そうして私たちはまわりの目を気にすることなく怒りの感情をさらけ出す。
そういった流れです。
こうした誘導というのは、こちらのガードが甘ければ甘いほど容易になります。
まさしく手品と同じです。
テレビを見てお分かりのように、バラエティーでもニュースでも、出演者の言葉をそのまま文字にして流す手法が定着しています。
実際の目的が何であれ、あれこそは結果的には視聴者の思考を深めさせないための落とし穴となっています。
例えば音声だけだったならば、一度自分の中に落とし込んで反芻する作業が生じます。
ですから、もしも内容が浅かったり、つまらなかったりすると、すぐさまそれが露呈します。
しかしそこに文字も一緒に流すと、私たちはそれをサッと読むことで内容をいち早く理解したつもりになって、落とし込みの作業を省略して
しまいます。
つまり、自分の中での咀嚼が発生しないということです。
そして、そこに音響の笑い声が流れると、爆笑とまではいかないにせよ、何となく面白いような錯覚を感じてしまうのです。
物事に浅く接していると、雰囲気に簡単に流されてしまいます。
これは決して、うがった見方などではありません。
試しに画面の下方を隠して番組を見てみれば一目瞭然です。
薄っぺらい話でしかないのに、そこにゲラゲラと笑い声が流れてくると、とても違和感を覚えることでしょう。
高校生の頃、テスト前に教科書を斜め読みするとスッカリ分かったつもりになったのに、実際は殆んど記憶に残っていなかったという経験が
あるかと思います。
当たり前のことですが、それはただ教科書の言葉をなぞっただけでしかなく、自分の言葉ではなかったからです。
しかし、教科書を読んでいる時は自分の中に落とし込まれたような錯覚に陥ってしまう。
まさに、自分の言葉になったように感じてしまうわけです。
テレビで流れる文字にも本当に注意が必要です。
気を抜いてボーッとなぞっていると、その内容を自分も共有しているかのように感じてしまいます。
つまり、自分もそのように考えたように錯覚してしまうということです。
本にしてもセリフを読んでいると、登場人物に自分を重ねて、その考えや感情を身近に感じます。
耳だけで聞いてる時は、相手と自分を切り分けていますが、文字を読むとその距離が一気に縮まります。
冒頭の日本テレビの誤報などは、まさにそれを狙ったものと言っていいでしょう。
テレビや新聞、ネットを見ること自体は何の問題もありませんが、そこに寄りかかりすぎると非常に危険ということです。
分析や判断はすべて彼らのものなのに、スッカリ自分でそれをしたような気になってしまう。
自らを洗脳する事態となってしまいます。
一歩さがって眺めるように見てみると、アレ?と思うことが沢山あるはずです。
それは決して疑心暗鬼で物事を見るということではありません。
もともと彼らの姿勢とはそういうものだという理解のもと、自分の感性に絶対的な信頼を置くということです。
感性というのは、物事に囚われないことによって現れます。
この切り絵の平面からスッと離れることで、霧が晴れ上がっていきます。
とりわけ「善悪」や「正しい・正しくない」という言葉にはよくよく気をつける必要があります。
今の世の中、それを大義名分として感情の暴走を許してしまうような、お決まりのパターンが蔓延しています。
そうしたパターンを繰り返せば繰り返すほど、私たちは切り絵の平面にへばりついて離れられなくなります。
良い悪いなどという価値判断はひとまず置いておいて、まずは天地宇宙という本来の私たち自身に戻ることが先決です。
肝心なことは「良い、悪い」ではなく「囚われているか、囚われていないか」です。
つまり、切り絵の平面にしがみついているかどうか。
その一点に尽きるのです。
自由とは、何をやってもいいということではありません。
それは単なる「好き勝手な状態」でしかありません。
囚われまくっている状態です。
そこを間違えてしまうと、「誰かの自由は他の誰かの不自由」という誤った解釈に辿り着いてしまいます。
真の自由とは、「何にも囚われていない状態」のことです。
テレビやマスコミが誤った自由を繰り返すほどに、それを鵜呑みにした視聴者はますます囚われていくことになります。
それはまさに、自由を奪われていくということに他ならないのです。
ニュースでセンセーショナルな言い回しを耳にした時は、簡単にそれに流されないのが賢明です。
「ああ、またいつもの手法か」とサラリと流し、真っさらな目で原文を検索してみるのが、本当の自由というものではないかと思います。
そして、これまでのことは日頃の私たちの人間関係に当てはまる話でもあります。
誰かに何かをされたり、何かを言われたりした時に、私たちはカチンときた部分だけをクローズアップしてしまいます。
時に、前後の文章はカットしてその部分だけを切り取って、心の中で大騒ぎが始まったりします。
ムカッとした瞬間、今さっきの場面をさかのぼって、その起因となった言葉や事象のごく一部にだけキューっと焦点を当ててしまいます。
そして相手は実際そこまで言っていなくても、こちらの怒りによって脚色されて強いニュアンスに変わってしまいます。
あるいは、それが人物ではなく、生活の上での出来事だった場合でも同じです。
そこまで大したことでもなかったのに、自分の中ではトンデモナイ出来事へと塗り替えられてしまいます。
自分なりの正義や大義名分に乗っかって感情の暴走を許してしまうのは、不自由への道でしかありません。
私たちは、もともと自分の番組を自作自演しているプロデューサーです。
どんな人生にするのかは、まさに自分のサジ加減一つであるわけです。
そうであればこそ、これ以上は胸が痛むという感覚がとても大事になります。
何故ならばそれは、私たち自身、つまり魂の痛みに他ならないからです。
しかしそれに耳を貸さずに、信条や大義名分にこだわっていると、いつしか痛みすらも感じなくなってしまいます。
それは、魂の出す信号が届かなくなっていくということ。
そうやって自分で気付かぬまま人生を捻じ曲げていると、日々が出口の見えない苦悩と化し、生きるとは苦しみとなり、この世は抜け出すこと
の出来ないツラい世界だと諦めるようになってしまいます。
気持ちのいい番組というのは、素直なこころ、清らかな感性によって作り上げられます。
どんな理由であろうとも、感情の暴走を正当化するものにはなりません。
切り絵の平面から離れて、サラリと流すことこそ、真に自由な状態であるからです。
これから選挙が近づくにつれて、マスコミが活気づくとともに、まるで与党が悪の権化であるような報道がなされていくでしょう。
前回の政権交代の時は、完全にそれに踊らされ、大震災を挟んで国家存亡の危機を招いてしまいました。
それにも関わらず、懲りずに彼らはまた私たちに揺動を仕掛けてくるでしょう。
その理由は前半に書いた通りです。
国の政治というのは綺麗事では絶対に成り立ちません。
それは私たち自身の生き方にも通じることであるわけです。
理想や綺麗事にこだわりすぎると、まわりだけでなく私たち自身に対しても、許容できないことだらけになっていきます。
そして耳ざわりのいい言葉に囚われてしまうと、それだけの世界になってしまい、本当に大事なことが見えなくなってしまいます。
精神の熟した知的な人たちだ、平和を愛する進歩人だとおだてられ、その気になってエネルギーを注ぐほどに、実際は囚われが強まり、
つまりは眠らされることになっていきます。
相手に正義や善を求めるのでは無く、私たちが寛容になることがまず第一番目に必要なことです。
それが相手を活かすことになり、この国を護ることになり、ひいては私たち自身を目覚めさせることになります。
本当の自由というのは、まわりに奪われるものではなく、私たち自身が奪っているものなのです。
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戦後、自由が叫ばれるようになってからは、何かと言論統制だと騒ぎ立て、報道の世界は治外法権となりました。
ただ、それでも戦前から受け継いできた良識のおかげで、今日まで大なり小なり自制心が働いてきていました。
それというのは、理屈以前にさすがにこれ以上は恥ずかしいという思いであり、自ら蔑めることのツラさだったのではないかと思います。
それにしても、テレビ報道というものは本当に脆いと言わざるをえません。
視聴率の低迷という緊急事態にさらされると、その重圧に耐えかねて、人として当たりまえの感性すら捨ててしまったのではないかと思う
ほどです。
つい先日も、首相発言の捏造は本当に酷いものでした。
すでに語り尽くされたネタですが、少しだけ触れさせて頂きます。
「選挙のためだったら何でもする無責任な勢力に負けるわけにはいかない」
これがもともとの発言でした。
もちろん、それは民主党と共産党が手を組んだことを指してのものです。
これに対する日本テレビのニューステロップがこうだったわけです。
「安倍首相『選挙のためだったら何でもする』」
こうなると間違いや勘違いなどではなく、もはや確信犯です。
しかも一人や二人の見落としでスルーしてしまったという次元のものではありません。
この件に限らず、多くの報道で同じようなことが繰り返されてしまっているように感じます。
その裏には思想的な使命感のようなものもあるのかもしれませんが、それよりも、ただ単に注目されたいがために悪さをする子供と変わらぬ
自己顕示も見え隠れします。
日本が危ういから嘘をついてでも止めなければいけない。
悪い印象を国民に刷り込むことが先決。
センセーショナルな響きにすれば、みんなの感情に火がつく。
盛り上がればOK。
もしも確信犯的な誤報や情報操作があるならば、それはジャーナリズムの自殺と言わざるをえません。
大義や正義を隠れ蓑にすれば何でも許されるという発想は、それこそ彼らが最も嫌う軍国主義やファシズムと何ら変わりありません。
それが一度や二度ならばたまたまということもありますが、枚挙に暇が無いとなると同情の余地もありません。
少し前の丸山和也議員の黒人大統領発言にしても、むしろアメリカを讃える内容だったものを、コメントの切り取りによって完全に差別発言
に作り変えてしまいました。
そうやって海外の怒りを煽り、それに乗じて虎の威を借る狐となって、魔女狩りの如く一議員を血祭りにあげようとするえげつなさは、
かつての従軍慰安婦騒動を彷彿させるものがありました。
政治というのは、国民を護ること、国を発展させることがその本分です。
それを芸能ニュースじみた騒ぎ方で低俗な次元に引きずりおろし、国民の感情を煽ることによって、マスコミ報道の方へ注意を向けさせよう
というのは姑息以外の何ものでもありません。
そもそも完璧な人間など、この世のどこにも居ません。
だからこそ、それぞれが得意な分野を手分けしているのです。
人は、その為すべき仕事をすればいい。
しかるにその本業のことは一切報じず、全く関係のないところばかり揚げ足取って叩くことに何の意味があるのか。
そんなものは正義をかたったリンチ行為でしかありません。
聖人君子でなくては政治家が務まらないなどファンタジーにも程があります。
人間社会というのは清流だけではなく、むしろ濁った泥だらけです。
自分の胸に手を当てれば誰だって分かることです。
そうした世界をまとめあげていくには、その泥も進んで飲み込めねば務まりません。
むしろ、汚れ仕事だらけと言ってもいいくらいでしょう。
そんなこと、シミ一つない人間に務まるはずがない。
聖職者のような清廉潔白さを求めるなんて勘違いも甚だしいことです。
政治家に最も必要なのは、批判や汚名もかえりみず、本当に国や国民のためになることをやり遂げる気概です。
それさえあれば、他のことは致命的なものにはなり得ません。
むしろ、肝心なその気概が無くて、批判や汚名を受けないようにと身辺を綺麗にすることだけに注力している政治家なんていうのは、もはや
自己存在を否定しているとしか言いようがありません。
マスコミのおかしな幻想のせいでそのような代議士ばかり増えてきているのは、国家の危機でしかありません。
PTAレベルの正論を良しとするような感覚では国を滅ぼし兼ねません。
何となれば、正論のためなら国が滅んでも仕方がないとすら思っている輩に、この国を預けてはいけません。
本分をおざなりにするような良識を欠いた代議士は叩かれるべきですが、そうでもない議員を無理やり叩いてホコリを散らして、正義の名の下、
袋叩きにするのは異常そのものでしょう。
そして何よりタチが悪いのは、感情のまま暴走するように視聴者を扇動していることです。
彼らは支配だとか洗脳だとか、そんな高邁な目的で私たちを猪突猛進の闘牛へと肥やしているのではなく、ただ私たちを走らせたいだけであり、
自分はその中心に居たいだけなのです。
彼らの言動で私たちが一喜一憂すれば、それで満たされるのです。
本来のジャーナリズムとは、切り絵の平面に張り付いている私たちの頬を引っ叩いて、広い視野へと目を覚まさせるのが使命でしたが、
今では全くその逆になってしまいました。
もちろん、真面目なジャーナリストも大勢います。
ただ、感情的な報道姿勢の方が圧倒的に目立ってしまっているのです。
今回のブログで言いたかったのは、単なるマスコミ批判ではなく、ボーッと過ごすことの危うさです。
与えられる情報が純度100パーセントのものだと決めつけてしまうと、無思考のまま自我の自動運転を加速させるだけになってしまい、
結局その心癖は私たちの苦しみをより一層深めることになっていきます。
現実をしっかりと理解することで、煩悩を冷静に流すことができるようになります。
ですから改めて注意すべきは、こうした酷い捏造報道に「けしからん」と怒り心頭になってしまうところですが、それこそが自我の自動暴走へ
身を預けることになってしまう点です。
今この瞬間こそ、冷静に淡々と現実を見渡すことが大切となってきます。
さて、私たちは、長い間この切り絵の世界に一心同体となって張り付いてきたため、もとより無意識のまま自動モードにエネルギーを注ぐのが
当たり前になっていました。
さらには、サッカーのようなアッパーなスポーツ観戦や、ジェットコースター的なハリウッド映画など、私たちのまわりには無意識の感情
暴走を強化させてしまう媒体が山ほど存在しています。
観戦や鑑賞という大義名分によって自制心をはずして身を預けきってしまうと、感情のトップとボトムが目まぐるしく入れ替わることで、
その振り幅に酔っていくことになります。
そうして、脳の中では古い脳(動物脳)が優位な状態となってしまうのです。
しかし同じサッカー観戦にしても、違う態度で接すれば全く異なるものとなります。
普通のエキサイトで盛り上がる程度ならば何の問題もなくスカッと爽やかとなるわけです。
それが、理性を失うほどの狂気じみた乱痴気騒ぎへと身を投じてしまうと、これは本当に危ない。
よく言われる愚民化政策の3S(Sports、Screen、Sex)とは、詰まりそういうことなのです。
彼らからすれば、私たちに切り絵の平面から離れて天地の視点に立たれてしまうと、アッサリと見透かされてしまいますので、気付かせない
ように感情や欲望の暴走癖をつけさせて、切り絵の平面から逃れられないようにしているわけです。
感情にまかせている時というのは自我100パーセントの状態ですから、つまりは切り絵の平面にベッタリ張り付いている状態です。
それを繰り返させることにより、ベタつきが常態化してそうでない状態の方が気持ち悪くなるという仕掛けです。
それは言い換えれば、目を覚まさないように寝かせたままにさせておくということになります。
マスコミの煽情的な報道姿勢というものも、結果としてはこれと同じ効果を生んでしまっています。
でもタネあかしをしてしまえば、安っぽい手品に引っかかることもなくなるでしょう。
マスコミがやる手法として、まず誰が見てもフォローしようがないと思うような絶対悪を作り上げます。
それにより私たちは他の誰かと意見が分かれたり反論されたりする心配がなくなり、安心して非難できるようになります。
さらに、まわりのみんなと同じ方向へ一緒に走るのはシンクロ体験となって気持ちいいものに感じるという要素もそこに加わってきます。
天地宇宙の協調感覚を私たちは無意識のうちに知っています。
全体主義、同調意識、ミーハー意識といったものは実際は表層部分だけがそれと似ているだけに過ぎないのですが、そこはかとなく天地宇宙の
協調感覚を思い起こさせるために、やればやるほど安心が深まってきてしまうのです。
普段であれば理性が歯止めとなりますが、その自制心を外してしまうのがこの大義名分や正義というものであるわけです。
もう一度マスコミの手法をおさらいします。
・まずは感情の暴走が許されるような環境、空気感を作り出す。
・私たちの鼻面に餌をぶら下げて、衝動を喚起する。
・そうして私たちはまわりの目を気にすることなく怒りの感情をさらけ出す。
そういった流れです。
こうした誘導というのは、こちらのガードが甘ければ甘いほど容易になります。
まさしく手品と同じです。
テレビを見てお分かりのように、バラエティーでもニュースでも、出演者の言葉をそのまま文字にして流す手法が定着しています。
実際の目的が何であれ、あれこそは結果的には視聴者の思考を深めさせないための落とし穴となっています。
例えば音声だけだったならば、一度自分の中に落とし込んで反芻する作業が生じます。
ですから、もしも内容が浅かったり、つまらなかったりすると、すぐさまそれが露呈します。
しかしそこに文字も一緒に流すと、私たちはそれをサッと読むことで内容をいち早く理解したつもりになって、落とし込みの作業を省略して
しまいます。
つまり、自分の中での咀嚼が発生しないということです。
そして、そこに音響の笑い声が流れると、爆笑とまではいかないにせよ、何となく面白いような錯覚を感じてしまうのです。
物事に浅く接していると、雰囲気に簡単に流されてしまいます。
これは決して、うがった見方などではありません。
試しに画面の下方を隠して番組を見てみれば一目瞭然です。
薄っぺらい話でしかないのに、そこにゲラゲラと笑い声が流れてくると、とても違和感を覚えることでしょう。
高校生の頃、テスト前に教科書を斜め読みするとスッカリ分かったつもりになったのに、実際は殆んど記憶に残っていなかったという経験が
あるかと思います。
当たり前のことですが、それはただ教科書の言葉をなぞっただけでしかなく、自分の言葉ではなかったからです。
しかし、教科書を読んでいる時は自分の中に落とし込まれたような錯覚に陥ってしまう。
まさに、自分の言葉になったように感じてしまうわけです。
テレビで流れる文字にも本当に注意が必要です。
気を抜いてボーッとなぞっていると、その内容を自分も共有しているかのように感じてしまいます。
つまり、自分もそのように考えたように錯覚してしまうということです。
本にしてもセリフを読んでいると、登場人物に自分を重ねて、その考えや感情を身近に感じます。
耳だけで聞いてる時は、相手と自分を切り分けていますが、文字を読むとその距離が一気に縮まります。
冒頭の日本テレビの誤報などは、まさにそれを狙ったものと言っていいでしょう。
テレビや新聞、ネットを見ること自体は何の問題もありませんが、そこに寄りかかりすぎると非常に危険ということです。
分析や判断はすべて彼らのものなのに、スッカリ自分でそれをしたような気になってしまう。
自らを洗脳する事態となってしまいます。
一歩さがって眺めるように見てみると、アレ?と思うことが沢山あるはずです。
それは決して疑心暗鬼で物事を見るということではありません。
もともと彼らの姿勢とはそういうものだという理解のもと、自分の感性に絶対的な信頼を置くということです。
感性というのは、物事に囚われないことによって現れます。
この切り絵の平面からスッと離れることで、霧が晴れ上がっていきます。
とりわけ「善悪」や「正しい・正しくない」という言葉にはよくよく気をつける必要があります。
今の世の中、それを大義名分として感情の暴走を許してしまうような、お決まりのパターンが蔓延しています。
そうしたパターンを繰り返せば繰り返すほど、私たちは切り絵の平面にへばりついて離れられなくなります。
良い悪いなどという価値判断はひとまず置いておいて、まずは天地宇宙という本来の私たち自身に戻ることが先決です。
肝心なことは「良い、悪い」ではなく「囚われているか、囚われていないか」です。
つまり、切り絵の平面にしがみついているかどうか。
その一点に尽きるのです。
自由とは、何をやってもいいということではありません。
それは単なる「好き勝手な状態」でしかありません。
囚われまくっている状態です。
そこを間違えてしまうと、「誰かの自由は他の誰かの不自由」という誤った解釈に辿り着いてしまいます。
真の自由とは、「何にも囚われていない状態」のことです。
テレビやマスコミが誤った自由を繰り返すほどに、それを鵜呑みにした視聴者はますます囚われていくことになります。
それはまさに、自由を奪われていくということに他ならないのです。
ニュースでセンセーショナルな言い回しを耳にした時は、簡単にそれに流されないのが賢明です。
「ああ、またいつもの手法か」とサラリと流し、真っさらな目で原文を検索してみるのが、本当の自由というものではないかと思います。
そして、これまでのことは日頃の私たちの人間関係に当てはまる話でもあります。
誰かに何かをされたり、何かを言われたりした時に、私たちはカチンときた部分だけをクローズアップしてしまいます。
時に、前後の文章はカットしてその部分だけを切り取って、心の中で大騒ぎが始まったりします。
ムカッとした瞬間、今さっきの場面をさかのぼって、その起因となった言葉や事象のごく一部にだけキューっと焦点を当ててしまいます。
そして相手は実際そこまで言っていなくても、こちらの怒りによって脚色されて強いニュアンスに変わってしまいます。
あるいは、それが人物ではなく、生活の上での出来事だった場合でも同じです。
そこまで大したことでもなかったのに、自分の中ではトンデモナイ出来事へと塗り替えられてしまいます。
自分なりの正義や大義名分に乗っかって感情の暴走を許してしまうのは、不自由への道でしかありません。
私たちは、もともと自分の番組を自作自演しているプロデューサーです。
どんな人生にするのかは、まさに自分のサジ加減一つであるわけです。
そうであればこそ、これ以上は胸が痛むという感覚がとても大事になります。
何故ならばそれは、私たち自身、つまり魂の痛みに他ならないからです。
しかしそれに耳を貸さずに、信条や大義名分にこだわっていると、いつしか痛みすらも感じなくなってしまいます。
それは、魂の出す信号が届かなくなっていくということ。
そうやって自分で気付かぬまま人生を捻じ曲げていると、日々が出口の見えない苦悩と化し、生きるとは苦しみとなり、この世は抜け出すこと
の出来ないツラい世界だと諦めるようになってしまいます。
気持ちのいい番組というのは、素直なこころ、清らかな感性によって作り上げられます。
どんな理由であろうとも、感情の暴走を正当化するものにはなりません。
切り絵の平面から離れて、サラリと流すことこそ、真に自由な状態であるからです。
これから選挙が近づくにつれて、マスコミが活気づくとともに、まるで与党が悪の権化であるような報道がなされていくでしょう。
前回の政権交代の時は、完全にそれに踊らされ、大震災を挟んで国家存亡の危機を招いてしまいました。
それにも関わらず、懲りずに彼らはまた私たちに揺動を仕掛けてくるでしょう。
その理由は前半に書いた通りです。
国の政治というのは綺麗事では絶対に成り立ちません。
それは私たち自身の生き方にも通じることであるわけです。
理想や綺麗事にこだわりすぎると、まわりだけでなく私たち自身に対しても、許容できないことだらけになっていきます。
そして耳ざわりのいい言葉に囚われてしまうと、それだけの世界になってしまい、本当に大事なことが見えなくなってしまいます。
精神の熟した知的な人たちだ、平和を愛する進歩人だとおだてられ、その気になってエネルギーを注ぐほどに、実際は囚われが強まり、
つまりは眠らされることになっていきます。
相手に正義や善を求めるのでは無く、私たちが寛容になることがまず第一番目に必要なことです。
それが相手を活かすことになり、この国を護ることになり、ひいては私たち自身を目覚めさせることになります。
本当の自由というのは、まわりに奪われるものではなく、私たち自身が奪っているものなのです。
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一言、「素晴らしいブログ」です。
日本人が有していた一元論的思考を、感じます。
とても勉強になりました。
有難うございます。
こちらこそ、このような長文にお付き合い下さいまして本当にありがとうございます。
読んで下さる方がいらっしゃるというのは大変に有り難いことで、心から感謝でございます。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。