これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

来週から新たな半年のスタートです

2018-06-27 21:07:18 | 心をラクに
神社から大祓いの案内が届くと、いつもエッ?という気持ちになります。

毎度のことながら、あぁ半分終わっちゃったんだ、と少なからずショックを受けるのでした。

同じ大祓いでも年末の場合はカウントダウンがあるので、ある程度覚悟みたいなものが出来ているのですが、6月末というのは前置きもなく突然
つきつけられる感じがします。

一年の半分が過ぎた。
そうなると何となく無駄に過ごしてしまったんではないかと少し不安に駆られたりします。
でも、この半年を思い返すとそれはそれで色々やっているので、やはり半分は経ったんだなと納得したりするわけです。

年の瀬の最後に一年を振り返るよりも、半分来たところで半年を振り返るというのは、実は大変にお得な話と言えます。

年末になると「あぁ今年もあっという間に終わってしまったなぁ、来年こそはこうしよう」などと思うものですが、折り返しの半年の時点で
その気持ちを持てれば、早くも7月1日から新たなスタートを切れるからです。

まさに一年で二度おいしい。
リセット&再スタートであります。






一年の前半を振り返ってみて、もしも嫌なことがあったならばそれはフッと吹き払って、真っさらになって新たな半年をスタートする。

いま現在、嫌な状態が続いている場合も、大晦日の気持ちと同じで行けばいい。
「今年もおしまい、よーし、心機一転がんばろう」というアレです。

よし、半分終わった。
明日から新たな半分だ。
リセット&ゴー!

逆に、良い状態が続いているならば、その有りがたみを噛み締めて、また良い半年になりますようにと感謝を思う機会となります。

人生の途中途中に厄年というものを設けている理由もそこにあります。
体を壊しやすい年齢、公私で心労が増える年齢、そうした節目節目を厄年として、憂いを祓い、健康に感謝するということです。

ただダラダラと生きていくのではなく、一里塚を置いて、要所要所で我が身を振り返る。

不満をダラダラ引きずらない。
幸福を当たり前のものとしない。


一里ごとに立ち止まって景色をしっかり眺める。





過去に感謝し、思いを引きずらない。
心にこびりついたものは今ここに置いていく。
そうして素っ裸になって、どこにでも身軽に行けるようになる。

今日からの新たな一歩は、あらゆる方向に自由自在。何も邪魔するものはない。

それが大祓いの目的でもあるわけです。

身体の穢れを祓うとともに心にこびりついた思いも祓い落とす。
今ここで綺麗さっぱり洗い流すということです。





大祓いでは人形(ひとがた)で体を撫でて、穢れを写し身して禊祓い(みそぎはらい)ます。

人形で頭のてっぺんから撫でていくと、そこに次々と「存在」が現れます。
空気のようだったものが突然、実体として現れます。

髪の毛、脳、眉毛、目、耳、鼻、口、歯、舌、喉、首の後ろ、、、
ここまで来て、ようやく頭の祓いが終わるような感じです。

こうして下に行くにつれて、内臓の一つ一つ、関節の一つ一つ、指の一本一本、指先の爪の一つ一つと、次から次へと存在が現れてきます。
なかなかササッーとは先へ進めません。

これだけ多くのパーツが日頃無言でスムーズに働いているという、そのことに気がつけるのは病気になった時か、大祓いの時だけです。

どこか具合の悪い場所があればそこを熱心に祓いたくなるものですが、むしろ空気のような存在と化している部位に心を向けることこそ、大祓い
の真骨頂と言えるでしょう。


そのようにしてますと、まるで枯れた川跡にスーッと水が流れて行くように、意識を向けたところへ清らかな風が通っていきます。

まるで白黒の画像が、サーッとカラーになっていくような感じです。

それは命がイキイキと輝いていく瞬間だと言えるでしょう。

ということはつまり、それまでカラーのつもりだった自分は、実は白黒だったわけです。
そのまま過ごしていたらどのようなことになっていたかと思うとヒヤッとします。





一旦リセットすることで、たとえ状況が変わらずとも、気持ちが全く違ってきます。

人形を使って本格的にやらなくとも、まず頭のてっぺんからシャワーを浴びて、目、鼻と、少しずつ下へ移動させ、指の一本一本、爪の一つ一つ、
関節の一つ一つ、内臓の一つ一つへ心を向けて、感謝とともに温水で洗い流していく。

それによって同じ効果を得られると思います。

最後に三回、ゆっくり息を吐き切れば、心の穢れも祓われていくことでしょう。

まことに、生かして頂いてることに感謝を思う瞬間であります。

こうしてまた、キラキラと輝くカラフルな世界のスタートです。

今年はまだまだ、あと半年もあります。
なんでもかんでも、やりたい放題ですよ。

それでは皆さん、準備はいいですか?

位置について〜

よーい、、、







(つづく)



弱さこそが強さ、やさしさ、逞しさ

2018-06-24 17:54:05 | 天地の仕組み
人類の進化について特番が組まれてました。

進化の最後で二つに枝分かれしたネアンデルタール人とクロマニヨン人についての比較でした。

クロマニヨン人は我々と同じホモ・サピエンス。
DNAはほとんど同じですので見た目は全く変わりません。
一方、ネアンデルタール人は我々とは異なる亜種ということになります。

そのネアンデルタール人はこれまで知能が劣るとされていましたが、実は、最新の研究では極めて知能が高かったことが判明しているのだそうです。

いわゆる原始人というと、ウホウホやってるようなイメージでしたが、それは全くの間違い。
クロマニヨン人に全く引けを取らなかったと言います。
さらに身体能力の面では圧倒的に優っていたとも。

現代風に喩えるなら、非力なモヤシっ子に対して、IQの高いスーパーアスリートくらいの違いがあったようです。

しかし史実としてはそのスーパーアスリート集団が滅び、力の弱かったモヤシっ子軍団が生き残った。
それは何故かという内容でした。

結論は、スーパーアスリートのネアンデルタール人は小さな家族単位で暮らしていたのに対して、もやしっ子のクロマニヨン人は他の家族や仲間
と広く交流していたからというものでした。

それによって例えば、発見や発明を共有し、道具を進化させることができたとか、あるいは食糧不足に際しても相互扶助によって生き抜くことが
出来たということでした。





番組の内容は以上です。

ネットワークで可能性が広がり、集団力によって強さが増すというのはまさに理に適った話です。
とはいえ、助け合いは素晴らしい、みんな仲良くしましょう、などと薄っぺらい精神論で終わらしてしまうのはもったいない話です。

今さらそんなことは誰もが知っていることです。でも知っていながら、それがきちんと出来ないという事実がある。問題はそこです。

私たちはいま、様々なテクノロジーの発展により、超IQスーパーアスリートになっています。
助け合いの精神論は頭で分かっていても、テクノロジーの疑似能力によって大きな生存能力を獲得しているがために、本当の助け合いの必要性が
希薄になっています。

ですから、太古の二つの種から学ぶこととして、もっと根っこの部分に目を向ける必要があります。

つまり「何故クロマニヨン人は助け合いが出来たのか?」「何故ネアンデルタール人のように家族単位で暮らさなかったのか?」というところが
最大のポイントになってくるわけです。

結論を先に言ってしまうとそれは、彼らが自分たちは弱いということを自覚していたからに他なりません。

これは、それ以前の生物の歴史にも通じるところがあります。
強者は滅びて、弱い生き物の方が生き残ってきたという史実です。

強い存在というのは、今のままで十分生き抜いていけます。
ですからそれ以上の知恵を必要としません。
まさに日々安心のハッピーライフです。

しかし弱い存在は、そのままでは危ういので、生き抜こうと必死にもがいて、あらゆる知恵を使い続けます。
見ようによって、それは不安と苦しみ続きの日陰の人生と映るかもしれません。

でもそんなところに環境変化が訪れたら、後者の方が圧倒的有利となるのは明らかです。

弱い存在は、もがき苦しむ。
しかし、不断の努力をフルに発現し続ける。
それは謙虚や謙遜などではなく、己の現実をはっきりと自覚している状態であるということです。





このようにして見ると、いったい弱さとは何なのかという素朴な疑問が湧いてきます。
そして、もがき苦しむということも何なのかと。

弱さとなると、どうしてもマイナスのイメージを抱いてしまいます。

確かに「自分は強い」「自分は人より優ってる」というと、自信が湧いてくるものです。
でも、そのようにして得た自信というのは非常に脆い(もろい)ものだと言えます。

何より、弱さを排除することで自信を得ようとすると、謙虚さも失う恐れがあります。

そもそも、私たちが弱さをネガティヴなものに感じるのは「弱さによって自信を失うことを恐れているから」です。
その根っこには不安になりたくないという本能があります。

つまり、自信というのは安心感によって得られるものであるわけです。

その安心感を得るためにどのようなアプローチをするか。
その一つが、弱さを嫌い、強さを求めるというものです。

しかし「強い・弱い」という優劣意識によって得た安心感は仮りそめのものにしかなりません。
何故ならば、どこまでいってもそれは相対的なものでしかなく、鏡に映った虚像を追うようなものだからです。

鏡を挟んで分かれる虚と実。
鏡の向こうは観念の世界でしかありません。
つまり頭の中の世界でしかない。
鏡のこちら側こそが「実(じつ)」であるということです。

この場合の鏡とは何かといえば、優劣比較がそれに当たります。
比較という鏡によって優劣が映っているということです。

つまり本当の安心、本当の自信というのは、優劣比較(鏡)を手放すことで得られるのです。





「強さを求め、弱さを嫌う」
そうした優劣意識は、安心や自信を得たいがためのものでしたが、実は全く逆、追えば追うほど不安は尽きなくなるということなのでした。

ですから、まずは弱さを拒絶する心グセを捨てることが肝心要となります。

優劣比較という意味では、強さ弱さだけでなく、幸せと不幸、ラクと苦労というものについても同じことが言えます。

今の不幸は嫌だ、苦しい状況は嫌だ、幸せになりたい、ラクなりたい、と思っている間は、本当の安心を得ることはできないということです。



たとえば、病気になると誰でも弱気になります。
弱気になった時というのは、ネガティヴ思考に陥りやい反面、謙虚にもなります。

あるいは仕事でもプライベートでも、失敗をした時はガックリ落ち込みますが、同時に謙虚にもなります。

成功ばかり続いている人間は、自信家となって日陰が見えなくなります。

生きとし生けるものはすべて、日なたと日陰を有しています。

日陰を知るものは、己の本当の姿を認識することができるようになります。
日陰を知ればこそ、他の日陰もよく見えて、慈悲深くなります。

弱いからこそ、臆病になる。
弱いからこそ、もがき苦しむ。
弱いからこそ、努力を続ける。
弱いからこそ、謙虚になる。
弱いからこそ、他人を慈しめる。

これが人類の根源にあるわけです。

自分一人で生きていけると思う生物は滅びます。
「自分たちで何でも出来る」「他のことは知ったこっちゃない」という生物は滅ぶのです。

弱さを受け入れられないと、謙虚さが失われていきます。
自らの弱さを忌み嫌う人は、自己嫌悪に陥って卑屈になるか、あるいは己は強いと妄信して他の存在を軽視するようになります。
人を軽んじ、家族を軽んじ、国を軽んじ、天地を軽んじるようになります。

自尊心の強い人間ほど幼児性が際立っていきます。

己の弱さを認めたくないため、ひとたび弱みを指摘されると全身全霊で反撃を試みます。
己自身に関して全くの余裕がなくなり、安心感を得るため常に他人を責め立てるようになります。

つまり自分の弱さを受け入れないと、かえって打たれ脆い弱々しい存在になってしまうということです。

もとより、どれほど強い人間でも必ず弱さがあります。
強さを得たからといって弱さがなくなるわけではありません。


そもそも、私たちは弱さがあればこそ生き残ってこれた存在です。
そして、天地のあらゆる存在は日なたも日陰も有しているというのが真実です。

弱さを受け入れて地道に歩むか、弱さを忘れてラクさに溺れるか、そこが盛衰の分かれ目となります。

「強い弱い」というのは人間が決めた価値基準でしかありません。天地にそんなものは存在しません。
「押し引き」という言葉がありますが、押すのがプラスということではないですし、引くのがマイナスということでもありません。
押しては返す波がそうであるように、天地には自然な流れがあるだけです。

強さや押すことばかり求めるのは天地の理に反します。
一見強そうに思えても、それ一辺倒の人間は生物学的には最弱の存在ということになります。



本当に地獄を見た人、苦労人は、たとえ地位や名誉、金銭を得ようとも謙虚さを失うことはありません。

それは自分の弱さ、日陰の部分を嫌というほど知り、そしてそれを受け入れているからです。

もしもその弱さを毛嫌いしてフタしてしまうと、逆にイヤなタイプの傲慢な成金になってしまいます。
他人の弱さに寄り添うどころか、それをあげつらって非難するような輩に成り下がります。

長い人生を振り返って、常に順風満帆な人など居ないでしょう。
辛い経験というのは、日陰をしっかりと体験することに他なりません。
それによって、今の慈悲心や謙虚さが育まれたというわけです。

傷の深い人間は慈しみの深い人間と言えます。

それは日々の生活においても同じです。
ずっと晴れ続きであればハッピーかもしれませんが、現実はそうではありません。

苦労や失敗、あるいは病気というものは、私たちに弱さを思い出させてくれます。
そしてそれによって私たちは慎ましやかになり、謙虚さを取り戻します。

ほどほどの幸せと、ほどほどの不幸を繰り返すというのは、傷だらけにもならず傲慢にもならず丁度良い感じになるというわけです。

もとより、私たちは弱さを内含する存在であります。
そのことを思い出し、ありのままを受け入れる。
それは私たちが本当の私たちに合致する瞬間となります。

弱さを認めた瞬間、私たちは一番強い状態となるのです。

勝者という言葉を正しく使うなら、社会的な成功や現実的な勝ち負けなどは上っ面のものでしかなく、「己の弱さを知り、謙虚であるかどうか」
まさにそれに尽きます。
それこそが真の勝者です。

私たちの失敗や苦労や悲しみも、そのためにあると言えます。
弱さを知り謙虚になれたなら、それこそが勝者であるわけです。



日陰のありがたさ。
曇り雨のありがたさ。

人生において、雨を待ち望めとは言いませんが、晴れが少ないといって嘆く必要はないわけです。

雨模様になったら、そこであがき苦しむ。
それこそは私たちのご先祖様たちが繰り返してきた歴史そのものです。

苦しんでてイイ。
あがいててイイ。

「湿っぽいのは良くない」「ネガティヴは駄目」なんてのは幻想です。
日陰の湿っぽさこそは私たちの一部です。
青空ピーカン続きでは芽が開くことは無いのです。

晴れのち曇り、時々雨。
悲しみ、苦しみ、涙でグジュグジュ。
それが心の潤いとなって、慈愛の芽が開きます。

原始の人類が、家族単位を越えて他者と行動を共にできた最大の理由は、そこに他者を思う心が存在したからです。

弱き者、悲しみの深き者こそが他者を思いやることができた。
同じ悲しみを信じることができたわけです。

現代においても、日本というのは突き抜けて他者をおもんばかる民族と言われています。

それは、この狭い島国の中「俺が俺が」だけでは長くは続かなかったという理由もあるでしょう。
しかしそれ以上に、謙虚にならざるを得ない環境、自分たちの弱さを当たり前に受け入れざるを得ない環境だったからではないかと思います。

地震、噴火、台風、様々な自然災害を前にして、私たち人間が無力であるのは明らかです。

しかしその弱さというのは理不尽なことでも何でもなく、それが天地の当たり前の成り立ちだと私たちは理解しています。
己の弱さを悲しむでもなく卑下するでもなく、当たり前のものとして受け入れてきました。

だから、日本人は世界に類を見ない調和の民族と成ったわけです。

己の弱さを認めず天地自然に挑戦的な民族は、筋肉自慢になるだけで真の強さには程遠くなるということです。

私たちの人生は晴れっぱなしではありません。
しかし人類の歴史を見ても明らかなように、試練こそが私たちを生かしてきたわけです。

私たちは非力なモヤシっ子です。
今さら背伸びする必要などありません。

モヤシっ子だからこそ、強く生き抜いて来れたのです。

苦しみ、悲しみ、涙に暮れる日々にあろうと、己の弱さを知る者が、誰よりも強く逞ましく、優しさに満ち溢れた者になる。

遥か遠いご先祖様たちのDNAは、今この私たちにも刻まれています。





(おしまい)



天と地と

2018-06-13 08:46:42 | 日本を旅する
長野県の八ヶ岳に行きました。

このあたりは昔から宗教家が生まれ育ったり、精神世界系の人が移住してきたりと、なんとも不思議な場所です。

富士山のような分かりやすい場所なら分かるのですが、別にそこまでの場所でもありません。なのに何故なのでしょう。

八ヶ岳周辺は信州甲州の山々に囲まれています。
東は関東山地。南は南アルプス。西は中央アルプス。北西には北アルプス。北東には浅間山や志賀高原。

ですから私はてっきり、大地のエネルギーが強い神道系の場所なのだと思い込んでいました。





もともと安曇野や上高地のある北アルプスは大好きでしたが、ほんの少し離れた八ヶ岳周辺は不思議なほどにピンと来ていませんでした。
そのため、まわりの人たちが盛り上がっていても、エネルギーやご神縁の系統が違うんだろうなと思って流していたのでした。

ピンと来ないというのは、肌感としてしっくり来ないというか、裸になり切れないというか、芯が残るような感じです。

それが昨年から突然なくなりました。

そうなるとナルホドと腑に落ちたのが、「地」のエネルギーというよりも、この地はむしろ「天」の場所であったことでした。
言い換えれば、それは宇宙的とも表現できます。

それは例えばこんな感じです。

天から大地を見おろすと、意識はジェットコースターのように富士山にズドーンと吸い込まれて行きますが、地から見晴らすと八ヶ岳の辺りから
天へとスコーンと抜け通っていきます。

天地に包まれる神道的な感覚よりも、頭のてっぺんからお尻の下までスコーンと抜けていく修験道的な感覚に近い。

そういう意味では宇宙にご縁のある人向きと言えるかもしれません。
平たく言えば、神界よりも宇宙系ということです。

前者は、実家に帰って畳の上でのびのびと大の字になるような感じ。お風呂に浸かって全身が溶けていく感じです。
後者は、山の上から大自然を見わたす感じ。全身の細胞がイキイキと活性化する感じです。

休息と活動。静と動は表裏一体です。

すべてを天地に任せきって放り出すのも、はたまた、流し流して詰まりを取るのも、行き着く先は同じです。

和食好き、洋食好き、コッテリ好き、アッサリ好き。
食べ物に好みがあるように、天や地、宇宙や神道もまた、それぞれ肌にしっくり来るものがあります。

これは理屈の話ではありません。
そしてご縁によって味わいも変わっていきます。

この20年くらい八ヶ岳に来てもほんの少し翳りがかかっている感じでしたが、それが突如クリアになったのでした。



チャクラ開きを目指す人たちや、宗教的な修行者、あるいは宇宙に向かって積極的な人たちが集まるのが、この場所の特性です。

スコーンと抜けて天へと発するのですから、そりゃそうでしょう。

精神世界系だけでなく、科学的な研究者もまたこの場所に集まるというのも合点のいく話です。

空気が綺麗だとか、晴れが多いとか、電波が安定しているとか、ここが観測地に選ばれた理由は色々ありますが、そもそも天へスコーンと抜けて
いればこそ、そのような環境が発現したとも言えます。



にしても、自分の好みが変わったのかといえばそんなこともないのが面白いところです。
相変わらず、アッサリ好き、ノンビリ好き、寝て果報を待つ性格のままです。

しかし静と動は表裏一体で、寄せては返す波のように流れ流れています。

天地もまた、私たちを介して8の字に流れ流れています。
「天だけ」「地だけ」と偏食を続けてしまうとおかしくなっていくのは食事と同じです。

これはこれでオツやねぇ〜、というウェルカム心は人生の楽しさを倍加させます。

だからといって無理に逆に行こうとしても、それは大河の流れを無視したものになります。
それこそ薄いバリヤーが張ったような違和感を覚えることになります。

まわりのエネルギーの流れと、自分の流れが合っていないとそんな感覚に陥ります。

タイミングというのは人それぞれです。
自分がしっくり来てなかったとしても、まわりの人はしっくり来てるかもしれません。
その逆もまたしかりです。

しっくりきてなければ、それはまだその時ではないということ。

ご縁というのはそういうものです。

どっちが優れているとか、劣っているというものではありません。
その場その時にシンクロする人間が、引き寄せの原理によって縁づいていくだけのことです。

流れが一致している時には背中を押されるように風が吹くので、その流れに任せきるのが良い。
それは自分であって自分ではない。天地の流れそのものです。



日本列島というのは、プレートの動きによって東と西が逆回転しています。
関東人と関西人の気質が真逆なのも面白いところです。

もともと真っ直ぐだった列島が、このプレートの動きにより、クッと腰の入った今の形になりました。
(「母なる大地 日本」2017-10-2 参照)
https://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/81c3e9d94e1235fd49f650582e1eb603

その動きの中心、腰のラインにあたるのがフォッサマグナです。
糸魚川・静岡構造線という言葉は子供の頃の授業以来ですが、それのことです。

先ほどの地図ではフォッサマグナの左側が「北アルプス・中央アルプス・南アルプス」。
右側が「八ヶ岳」になります。

ジーッと見ていると、谷のようなくぼみが縦に真っ直ぐ入っているのが分かります。

東西の大地が逆回転をしてフォッサマグナでぶつかりあい、そのプレッシャーでグシャッと隆起したところが左右の山脈になったというわけです。

地図でも、山脈の形を見ると、まさにグシャグシャっと縦ジワのようになっていることがよく分かります。



私たち人間も、要となるのは「腰」です。
だから「腰」(にくづき+要)という漢字が当てられているほどです。

武道でも、仙骨(骨盤の背中側)から臍下の丹田にかけてのラインが一番の要となります。

日本列島でそれにあたるのがフォッサマグナです。
これに対して、縦のライン、人間で言えば「正中線」(頭のてっぺんからヘソの下まで真っ直ぐ降りる中心線)に当たるのが中央構造線(下図の赤線)です。



ちなみにこの場合、臍(ヘソ)は富士山で、臍下の丹田は紀伊半島になります。
恐ろしいくらいに全てが一致してきます。

私たちも、仙骨を立て、腰を落とし(膝を緩め)、丹田を静め、正中線を縦にビシッと通すことで自然な統一体となります。

自然体というのは、最も安定した状態、盤石な状態のことです。

そのような自然な状態に戻るには、まずは緊張をとって全身を弛緩させることが第一になります。
2週間前の長野県北部の大きな地震はフォッサマグナの真上でした。

人間も体の緊張を取るためには、ブラブラとあちこち揺らしたり、ゴリゴリほぐしたりします。
地震というのはまさしく肉体的アプローチに近いものだと言えます。

しかし体の緊張を取る方法は他にもあります。

その一つは「心をトコトン落ち着けること」です。
心がほぐれれば、自ずと体もほぐれていきます。

喜び。感謝。そうした感覚に芯から浸ると肉体はリラックスしていきます。
大地もまた同じであるわけです。

だからフォッサマグナや中央構造線の線上に感謝の心を置いたり、喜びを置いたりすることはとても大切なことになります。

ちなみに私たちは、穢れを祓い、詰まりを無くして、氣を通すことでも緊張が取れます。
私たちのお灸や針に相当するのが、篝火による祓いと言えるかもしれません。
修験道の護摩壇もそうですが、何と言っても火祭りの効果は凄いものがあります。

毎年夏に那智の滝で行われる火祭りは、空間そのものがピーンと清められて雑味がゼロになるほどです。





さて、せっかく八ヶ岳周辺にご縁ができたので、そこでのメッセージに触れたいと思います。



自分以外はみんな他人です。
血の繋がった家族であってもです。
その他人と100%分かり合おうとするのはそもそも無理な話です。

そうと分かっていながらも、私たちは無意識のうちにそれを期待します。

もともと、相手のことを分かろうとするのは、私たちが生きて行く上で身につけた生存本能のようなものです。
相手を知ることで自分の安全を確保できる、衝突することなく円滑にできる、そうして身につけた知恵でした。

一方でまた、頭数がそろった時に最大効果を発揮するための意識のすり合わせという意味合いもあります。

さらには、人間的な感性として、相手をおもんばかることで自らの心を豊かにしてきたという側面もありました。

ですから、相手のことを分かろうとすること、自分のことを分かってもらうことはとても大切なことだと言えます。

ただ、それはそれ。
いずれにしても、ほどほどで十分なわけです。

それが完全に100%分かり合う(相手を分かる、自分を分かってもらう)ところまで目指してしまうと、筋違いになってしまいます。
何ごとも必要以上を求めるのは欲張りというものです。

相手のことを分かりたいというのが、自分のためなのか相手のためなのか、衝動の起点がどちらなのかによって、欲張りになるのか程々で終わる
のか自ずと決まってきます。

生物的に自分の身を守るためならば、おそらく10割を目指そうとは思わないでしょう。
つまり相手のことを100パーセント分かりたいと思うのは、大概、自分のエゴに根ざしているということです。

仮に、初発の段階では、本当に相手をおもんばかって相手のことを知りたかったのだとしても、その大義に甘えすぎてタガが外れると、知らぬ間に
脱線して自らの執着を太らせることになってしまいます。

そうした状態に陥った時は、相手の本意が分からないと不安や怒りが湧き上がってまいります。
それはつまり、そもそも相手のことをおもんばかってはいなかった証拠であるわけです。

また「こちらがおもんばかってるのだから、相手も自分をおもんばかってほしい」「こちらのことを分かって欲しい」という衝動も同じです。

そうした交換条件が発動すると、それが叶わなかった時、やはり不安や怒りが生じます。

大なり小なり、無意識のうちに私たちは、そんな一人相撲にあくせくしていると言えます。

同じ人間同士でさえそうであるならば、異なる存在からすれば尚更です。
天にせよ、地にせよ、面と向かってコンタクトするのを避けざるを得なくなるのは当然でしょう。

同じ人類でも、ほんの少し価値観が違っただけで差別され、排斥され、戦争にまで発展しているのです。いわんや、ということです。

私たちとは違う世界がある、私たちの理解できない世界がある。
それを理解しようとする必要はない。
ただ、違いがあると認識するだけ。

違いを丸ごと受け入れるのが大調和。
天地自然の姿です。


これは、次元や時空をまたがる大きな話だけでなく、国と国についてもそうですし、すぐ傍に座っている人との関係性についても同じことです。

何事もほどほどが一番。
それ以上を求めると我執が芽生える。

分からないことは分からないままで丁度いい。
無理して分かろうとしなくていい。


やれることをやれば、それで十分。





ということで、今日は話があちこちに飛んでしまいましたが、八ヶ岳周辺は天地がごった煮になってるということでお許し下さいませ。笑


(おしまい)