これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

中心の力を抜く

2017-09-17 13:24:31 | 武道のはなし
肩の力を抜くという言葉があります。

私たちは緊張したりストレスを感じると、知らず知らずのうちに身体のどこかにグッと力を入れています。

頭にきている時は歯を食いしばり、ストレスで心が固くなっている時は肩に力が入っています。

こうした身体の力みを抜こうとしても、根っこが変わらなければすぐにまた同じ状態になってしまいます。
心の状態が身体に現れているのですから、心の力みを取らなければ身体の力みも取ることはできません。

武道においても身体の力みを抜くことは非常に重要な要素となります。

この世というのは自我を強めるほどに心がギューッと凝縮していき、実体が濃密になっていきます。
実体がガッチガチになると氣の通りも悪くなり、氣の欠乏により病氣が現れます。

また、かたくなな自我と自我が触れ合うとガツンとぶつかり合うことになります。
これは武道の組手だけでなく、対人関係にも当てはまります。

一方、心がリラックスすると自我が薄まり、実体も薄まっていきます。
すると氣の流れも良くなり、天地宇宙との隔たりが薄まっていくことになります。

そのようにして腕の力が抜ければ、相手の自我が触れようともそれは私たちの中心へ通り抜けていき、ぶつかることなく流れ去って行きます。
まるで大祓詞のようにです。
また、足の力が抜ければ、その場に居着くことがなくなり前後左右あらゆる方向と一体となります。
そうして四肢の力が抜けて壁がなくなると、相手を投げ飛ばすことが出来るようになります。

さて今日はその先の話です。

その手足の力を抜けたとしても、そこで終わりにしてしまうと肝心要(かんじんかなめ)のものを見落とすことになってしまいます。

確かに四肢の力が抜ければある程度ぶつかることなく相手を投げられますが、そこで謙虚に耳を澄ますと肚下でわずかにぶつかっていることが
感じ取れます。

四肢の力が抜けていても、自我の芯が残っていると肚(はら)の下にそれが残るわけです。

腕や足の力が抜ければ相手から受けたものが自分の本体の中心線を通って、肚の下に来ます。
その状態で相手が腕力で来たならばそれを肚の下でグッと受けることになり、こちらは全身力で相手を投げることが出来ます。

しかしそれというのはどこまで行っても自我と自我の衝突であって、わずかなリラックスの差による自我の濃淡で投げ勝っているに過ぎず、
要するに物理的な理屈でしかないわけです。

肚(はら)で受ける。
その感覚で良しとするか、それではいけないとするか、まさにそこが大きな分かれ目となります。

日常生活、職場や家庭、人間関係においても様々な意見やものごとが四方八方からやってきます。
肩や手足の力を抜くというのは、表面的にニコやかに柔らかく受け応えることに通じます。
それはガチガチに跳ね返す状態に比べれば遥かに安心安定の状態であるのは間違いありません。

たださらに突き詰めると、自分の中心が頑な(かたくな)になっているとそこでぶつかる、跳ね返っているという事実が顕れてきます。

頭に来るようなこと、多大なストレスを感じるようなことが外から入ってきた時に、表面上は柔らかく受け流して事態の落ち着きが見られた
としても、肚(はら)の下でその全てをグッと受けてしまっていたならば、それは心や身体へと跳ね返り、何だか分からぬイライラや不安が
募り、シンドくなったり病気になったりしてしまいます。

あるいは、事態の落ち着きも中途半端で止まってしまい、再び同じような事象が私たちを襲ってくることになったりもします。

武道においてもそうであるように、この世においても重要となるのが中心の力を抜くということです。

手足のような表面的なものはむしろ放っておいてもいい。
そっちではなく、こっちということです。

厳密に言えば、肚下の力みが抜けていないうちは四肢の力も完全に抜け切っては居ないということになります。

ただ肚下の力みを抜くといっても、決してそれは虚脱状態を指すものではありません。

虚脱と脱力の差は、私たちが中心で一つになっているか否かです。

虚脱とは四方八方に放置している状態です。
それはバラバラになっている状態です。
中心で一つになっている状態、それが脱力です。
それは無限小に中心が集約しているがゆえに四方八方に無限に広がっている状態です。

自我の芽が残ってしまうとそれは成りません。
ですから脱力というのは「脱力しよう」と思ってそうなるものでなく、心が集約されると勝手にそのように成るものです。
中心がボヤけると四方への広がりも寸詰まったものとなってしまいます。

中心で天地宇宙と溶け合って一つになっていると、私たちは天地宇宙そのものとなります。
天地宇宙が私たちとなります。
手足どころか私たちの存在そのものが透き通った状態となり、何ものともぶつからない状態となります。

相手の力を肚(はら)の下でグッと受けることもなく、どこにもぶつからず全てが透明にサーッと消えていきます。

統一の状態とは、天地と同化し、四方八方の空間と溶け合っている状態に他なりません。

相手の怒りや悲しみが流れ込んで来ても、それを受けまいとは思わず、さりとて受け入れようとも思わず、ただ天地宇宙と一体のままにある。

白も黒もつけず、ただ私たちは天地宇宙そのものであるだけ。

そうしますと相手も天地宇宙とともに在りますので、私たちが平穏平和の境地にあれば、相手も平穏平和に成っていきます。
逆に、私たちが良くも悪くも自我を発現させて不統一になっていますと、相手もまた不統一になっていきます。
自我をぶつけるとお互いどんどんヒートアップしていくというのはその一例です。

合気道を創設した植芝盛平翁は、天地宇宙と一つになることを修行の眼目としました。
ある空間において翁が天地宇宙そのものとなれば、その場に居るものたちはその内にあることになりますので、何をせずともすでに技に
かかってしまったわけです。

仮に相手もまた天地宇宙と一つになっていた場合、ともに天地宇宙そのものでありますのでそこには技をかける掛けられるというものは
存在しなくなります。

すなわち和合そのものとなり、どちらが上どちらが下というもの自体が無くなる。
それこそは天地宇宙の姿そのものであるわけです。



力を抜くというのは突き詰めていくと、力が抜けるという表現に辿り着きます。

力を入れているのは私たちであり、自我であります。
力を抜くという動作も、そこに自我が存在します。

だからこそ、中心の力みには自分でなかなか気がつけないわけです。
腕や足、肩の力みというのは自分で気がつけますが、中心の力みは最後まで気がつけない。
何故ならば自我がハンドルを強く握っているうちは私たちは自我に同化してしまっているからです。

自我としてはそれが普通の状態であるため、中心が力んでいる状態もまた普通の感覚に成ってしまい気がつけないということです。
そして、中心でガシッと受けてしまうこともまた普通の感覚と成ってしまっているわけです。

力は抜くものでなく、抜けるもの。
それは、天地にまかせきった時に勝手に成る状態です。

そもそも私たちは天地宇宙そのものです。
ですから、外に任せきると表現しても、内に任せきると表現してもどちらも同じことです。

とにかく、自我のざわめきをほっておく。

ほっとく。

それが仏(ホットケ)の境地であり、詰まり詰まったものをサラサラと流す無二の方法となるのでした。






心変わりは秋の空

2015-06-22 16:59:05 | 武道のはなし
日本の武道は、技術や体力以上に気力(氣力、心)というものを大事にします。

「氣」というと何やら得体の知れないものを想像しがちですが、そんな怪しいものではありません。
まったく身近なもので、別の言い方をすれば「感覚」と表現してもいいかもしれません。

誰かの視線を感じたり、何かの気配を感じたりと、そういった感覚です。
雰囲気や邪気という言葉もあるように、私たちは昔から当たり前に色々なものを肌で感じています。

そうした氣というのは自ら出したり誰かに貰ったりするものではなく、天地に普通に満ちているものです。
それは天地のエネルギーと言ってもいいですし、ご神気と言ってもいいかもしれません。

私たちもこの天地の中に存在しているかぎり、そよ風のようにそれが全身を通り抜けています。
内から外へ、外から内へと、呼吸をするように天地と交流しています。

余計なことをしなければ、私たちは天地そのものであり、天地と一体です。

ただ、その余計なことをしてしまうのが私たち人間です。
心や意識、こだわりや囚われ、我欲や不安が雑味となって、その流れを滞らせてしまいます。

そのため、あらゆる武道が、技術やスピード、勝ち負け以上に、心の持ち方を重視します。
それは決して精神論や美意識によるものではありません。
心の乱れは弱さを生み、その逆に、天地と一つになった状態は最も盤石だと知ったからです。

だからこそ歴史上の剣豪はみな、最終的に山ごもりや坐禅といった心の鍛錬へと行きつくわけです。
さらに、そうした我執のない状態には自ずと天地自然の美しさが伴うことから、それが美意識へと繋がったのだと
思います。

これもまた、真善美であるわけです。

実は私たちは誰もが、わずか一瞬ではありますが、その境地に達していることがしばしばあります。
ただ、心があちこちへ動きまわるためその感覚を継続できず、自覚ができないだけです。
武道にせよ、神道・仏教にせよ、道を極めんとする人たちはみな、その感覚に同化するために日々修行に
励んでいるといえます。

天地へ心が開いている状態を感じるには、たとえば見晴らしのいい高台から景色を見渡してみるのも
一つの方法です。
遠くまで心が広がっているとき、無意識のうちに全身の力みが抜けています。

あるいは、大自然の中を散策している時も同じ状態になっていることでしょう。
満天の星空の下にいる時など、それこそ天地宇宙へと無限に心が広がって、まさに世界に溶け込んで一つに
なっているはずです。

ただ実際そのような時は、そのような微細な感覚を自己観察しようという気は起きていないものです。
我執から開放されていますと余計なことへは心は向かず、ただ気持ちよさに浸りきるのが自然なことだと思います。

ただそうなると、その感覚をあとになって再現しようとしてもなかなか難しいというのも事実です。
しかも、そのようなオールフリーな感覚を欲するのは、大抵は心が疲れている時です。

頭の記憶をたどって心の方からアプローチしようとしても、心が弱っているとガッツが湧かず、上手く
いかないものです。
芯から疲れ切ってる時に大自然に囲まれた開放感を思い出そうとしても薄っすらとした記憶が浮かぶ
ことはあっても、その時の感覚まで蘇らせるのは厳しいわけです。

ですが、身体の記憶であればそれが可能となります。
身体の記憶とは、感覚記憶のことです。
ですから、開放感に浸っている時の身体の状態を記憶しておくことがとても大事になってきます。

そのためには、変化を感じることが一番分かりやすいアプローチと言えます。

高台にのぼった時や自然の中を散策している時というのは、その前からすでに心が開放されている
ものです。
そして心が広がるという事前の予告もないまま、気づいてみたらその状態になっています。

ですから、あらかじめ変化することを分かった上で、変化の違いを比較してみることができれば、より
ハッキリとその感覚を認識できるということになります。

たとえば目の前10mくらい障害物がない場所に立って、まずは下を向いた状態になってから自然に
顔をあげてみます。
前の視界が開けると、自分の心がサッと変わることに気づきます。
視界が広がるとともに、首から背中にかけての緊張がスッと取れます。

大自然の中にいる時や、見晴らしのいい景色の中にいる時も、よく観察してみるとやはり首から背中
にかけての力が抜けてスーッとラクに通っていることが分かります。

この後頭部から背中にかけてフッと力が抜けると、途端に頭のギューッとなっていた力みも消えます。
そして心のこわばりもスーッと無くなっていきます。

このように心がラクになると、身体感覚は全方位へと広がった感じになります。

心が伸び伸びと大きくなると、感覚もブワーッと広がります。
そして空間というお風呂に自らが浸っているような感じになります。
天地と溶けあって、とても気持ちがいいわけです。

この状態になると、対峙する相手に対しても自ずと心優しい感覚になります。
たとえば、小さな子供を目の前にした時のようにです。

天地と交流し、相手とも交流している状態では、お互いに幸せな気持ちになります。
天地に対してフルオープンになっている状態ですから、母に包まれるような幸福を感じるわけです。

我執の壁がなく、透明のままに天地と溶けあっていると、気持ちがいいのです。

これが本来の私たちの自然な姿です。


ただこの状態というのは、ほんの少し余計な欲得が頭をよぎった瞬間に、跡形も無く消えてしまいます。
どんな形であれ、自我に心が向いた瞬間、天地との交流は途切れて、全方位へ広がった感覚は霧散します。

我欲というほどのものでなく、ほんの少しの考えごとであったとしても、心が自己へと向いた瞬間、
広がった感覚は消えます。

でも本当は、私たちは広がった感覚へ身をまかせつつ、考えることができます。

ここでは「考える」ということと、「囚われる」ということを厳密に分ける必要があります。

考えるというのと、考えごととは違うものです。

考えごとというのは、正しくは「考えに囚われている状態」です。
ですから、ほんのささいなことであっても考えごとに心が奪われた瞬間、天地との交流が絶たれ、
広がった感覚が消えてしまうわけです。

これに対して「考える」というのは、自分から切り離して淡々としている状態のことを言います。

ドップリと身を浸けてしまうと「考えごと」になってしまいますが、今が去ればもうそこから離れているのが
「考える」です。

心が100%向けば、ほんの一瞬にして、その深部にまで私たちの全身全霊が届きます。
それほどに、心が集中すると瞬時で変わるのです。

ハシャいでいる時は外向きの開放的な方向へ100%になりますが、我執が生じた瞬間、内向きの
排他的な方向へ100%になります。
前者は融合と交流、後者は断絶と分離と言えます。


合気道というものは、投げと受けの二人一組の武道です。

審査会や大会では、競技中はもとより、まずは場内に入ってから開始線へ着くまでの心の状態と、さらには
技が終わった後に場外へ出るまでの心の状態こそ重視します。
弓道や茶道なども、前後の所作をとても大事にします。

競技中に自然な交流が成されるには、その競技の前後からその状態になくては成りませんし、その前後から
成るためには、前後どころか場内に入る前や場外に出たあとも同じままに在り続けていることが前提となります。

ある瞬間だけ心を律してかしこまってもそれは本当の天地一体には成らないわけです。

さて、心がリラックスして全身がフルオープンの状態になっていると、目に映る景色は広がり、肌の感覚も
四方へと広がります。
するとその感覚の広がりは、離れて歩く演武相手にまで届きます。

横を見なくとも、感覚として相手のことが分かります。
その時にフトなにか「考えごと」をしてしまうと、たとえそれがポジティヴなことであろうとも、
広がりの感覚かまプツンと切れてしまい、途端に視野が狭くなります。

しかも厄介なことに、そういう時というのは、視野が狭くなったことに自分では気がつくことができません。
なぜならば、心はその「考えごと」の方に向かって100%の出力を維持し続けているからです。

私たちは心の向いた先へと意識が集中しますので、その出力量が変わらないかぎり、感覚が
変わったことになかなか気がつけません。


ターゲットが瞬時にすり替わると、そのことに自体に気がつけないということです。

普段ならば心は分散しがちなのに、私たちは不安や恐れ、期待など執着が起きた時は皮肉なことにしっかり
そこへ100%集中してしまいます。
他のことは何も見えずに、そこに囚われてしまいます。

「人のことはよく見えるけど自分のことは一番見えない」というのはまさにこのことです。

とりわけ、日常的に心が広がっていない状態に馴れてしまっていると、なおのこと変化には気がつけません。

このため、心が広がっている状態に皮膚感覚を馴染ませておくことが、解決の糸口となります。

一番見えにくい自分を見るためには、感覚をもって変化に気がつくしか方法はありません。
そして変化したあとに原状回復する方法も、感覚をもって行なうしかないと言えます。

心が変わって一度切れてしまった感覚をふたたび戻そうとすると、我執が起きやすいものです。
感覚を広げよう、心を広げよう、囚われをなくそうという思い自体が、内向きの世界であるわけです。

そうしたことは静かに稽古を重ねようという万全な状況にあっても難しいのですから、いざという本番の場面
ではなおさらでしょう。

すでに相手が攻撃を仕掛けてきている最中に、心を落ち着けようと理屈を追ってもまず無理であるわけです。
だからこそ、頭ではなく感覚からのアプローチが必須となります。

自然な状態というのは、頭ではなく感覚として追わないと辿り着けません。
そして皮膚感覚を追えば、それは一瞬にしてかないます。

審査や演武の時に入退場が重要視されるのは、本来は常日頃から天地に壁を作らず一つになって
いるのが自然なことであり、いざ始め!というその時になって初めて切り替えるというのは不自然で
あるというのが一つの理由です。

そもそもスイッチを切り替えること自体が我執の一端ですから、そんなことで得られた状態は本当の
自然体には程遠いわけです。

そしてまた、せっかく自然体になっているのに入退場の際にフト心が切れてしまうのは、自分のことを
考えてしまうからです。

「上手くやろう」「落ち着こう」「心を広げよう」、、、どれも自分のことを考える我欲です。
その瞬間、魔がさすわけです。

だからこそ、入退場こそが重要視されるのです。
そこで心が切れるのであれば、競技中あるいは実戦など、言わずもがなということになります。

広がった感覚の時は、天地と溶けあって交流している状態です。
しかしフト自分の世界に入ってしまった瞬間に、それは切れてしまいます。
ほんの些細なことであってもそれはハッキリしています。

たとえば、互いにお辞儀をして下を向いた時、視界が狭まって心がわずかに変化しますと、その
瞬間、天地との交流もスッと小さくなります。
すると顔を上げた瞬間には、もう相手の氣に差し込まれてしまいます。

相手が落ち着きはらって天地に身をまかせきっていると、それだけ氣が広がっているため、自然に
スッと入られてしまうのです。

一度その状態になってしまうと、どんな技も決まりません。
あわてて自分も心を広げようとか、相手と交流させようとかすると、我がまさって余計におかしくなって
しまいます。

しかし、こちらも乱れることなく泰然自若として天地と一つになったままお辞儀をすると、たとえ相手が
天地に心を広げていたとしても、その相手とも交流した状態が切れないため全く差し込まれることなく、
フワーッと互いに気持ちよく投げられます。
技の威力としてはズシンと強烈なものになりますが、心はフワーッと気持ちがいいのです。

これと同じ理屈が、入退場にも当てはまるということです。

精神論などではなく、物理のように明らかなわけです。
最初の入場がダメなら、いくら途中から見た目をそれらしくカッコつけようとしても、それは体裁づくりで
しかないというのが明らかになります。

また、終わりの退場がダメなら、いくらそれまでが良さそうに見えてても、所詮は繕っていただけでしか
なかったということがバレバレになります。
つまり、どちらも見せかけだけのハリボテでしかなく、ヤラセの投げでしかないということが誰の目にも明らか
となるわけです。

といって、「心を変えまい」とするのも囚われの我執になってしまいます。
それを思った瞬間、天地との交流は途切れます。

我(が)ではなく天地自然に溶け込んでいれば、自ずと心が変わらず最後までスーッと行きます。
ですから、入場の前からすでに始まっているわけです。

心が変わるというのは、目の前の「今」をそのままに受け入れていないということでもあります。


もっと上手くやろう、投げてやろう
心を相手に向けて、投げ方はこうやって
みんなが見ている、失敗したらカッコ悪い
心を静めよう、落ち着こう
心を広げよう
何も考えないようにしよう
力を抜こう、氣を通そう
天地と一体となろう
心を変えないようにしよう...



あらゆる考えごとや心の変化は、すべてが、「今」のありのままを受け入れられていないということ、
つまり、信じきれていないということの現れです。


受け入れられないがゆえに、それが不安や囚われ、こだわり、執着となって、様々な考えごとが
生じるわけです。

そしてこれらは、日常的に私たちが知らず知らずのうちにやってしまっていることでもあります。
たまたま武道ではそれが目に見える形として現れますが、日常ではそれと気がつけないままに自動的に
継続されてしまっているということです。

もちろんこれは、何も考えるなということではありません。

「考える」ということと「考えごと」というのは全く異なるものです。
スッと浮かんだことを認識はしますが、そこにとどまらないということです。

「こうする」「ああする」という方向づけ(=考える)はしますが、それで綺麗サッパリおしまい。
そこに悶々と身を浸からせない、固執しないということです。
ですから我執を嫌うあまり、何も考えないというのでは全くの本末転倒となります。

日ごろの生活においては、あまりに馴染みすぎてしまって感覚が麻痺して、意識にあがってこなくなって
いるものが数多くあります。

たとえば、会社に着くまでは無色透明なニュートラルな感覚だったのに、職場に入った瞬間、心がギュッと
小さくなってしまうということも挙げられます。

それは一種の防御本能のようなもので、心にバリアーを張っているとも言えます。
ただ、職場での緊張感が心グセになってしまい、条件反射でスイッチが入ってしまっているという要因の
方が大きいかもしれません。

そうした感覚の変化を気づけた時はまだいい方で、普通はそれに気づけないまま1日が始まって、
そのまま夜まで過ごしてしまったりしてしまいます。

すると当然ですが、夜になるとグッタリと疲れ果ててしまいます。
でもその疲れすらも「それが当たり前」「そういうものだ」と思ってしまうと、ますます無限ループに
ハマってしまうわけです。

心をギュッと萎縮させた酸欠状態のままにアドレナリンだけで空焚きすると、心身は弱っていきます。
これは真面目な人や頑張り屋さんが陥りやすいパターンです。

ズルい人やいい加減な人であれば、無責任や逃げの姿勢でプレッシャーなど感じませんし、心も
萎縮しません。
また、空焚きするほど頑張るようなこともありません。

その点、明るい人やポジティヴな人は理想的です。
心が萎縮せずリラックスして広がっているため、自然とエネルギーが補充されます。

だからといって、真面目な人や頑張り屋さんが「ならばポジティヴになろう」「明るくなろう」と頑張る
(我を張る)と、結局は不自然な無理押しにしかならないため、結果としては同じことになってしまいます。

何でもプラスに考えればいいということではないわけです。

こうした時の解決法の一つとして、先ほどの、武道においての入退場がヒントとなります。

朝起きて会社へ向かう時に心が変わって重くなりますと、ギリギリまで会社に行かないようにしようと
時間を引っ張ってしまうものです。
でも、それでは全くの逆効果にしかなりません。
となれば、そこは思い切って、早く家を出てみるというのが手かもしれません。

積極的に出社する。
みんなが出そろった遅い時間に行くのではなく、誰も来ていない時間に出社するわけです。

誰もいない職場は、嵐の前の静けさで広々としています。
そこで席についたら、静かに顔をあげて視線を開放するのです。

ひとたび心を広げたら、あとはそのことは忘れて、心が乱れないように落ち着きを追います。
雑念の騒音に耳を貸さず、静けさに心を向けます。

そして、あとから会社に出てきた人たちを受け入れるくらいの気持ちで、見て流すわけです。

以前に書いた、職場の模様替えの場面では、朝の誰もいない職場でリラックスしていたからこそ、
心を開いた状態のまま色々なことを感じられたと言えます。

たとえば、稽古に遅れてあとから道場に入ったりしますと、その熱気に飲まれてしまうものです。
気負ってテンションを上げようとすると、かえって心が変わって不自然な感覚になってしまいます。

あるいは、飲み会に遅れて合流した時なども、雰囲気についていけず違和感のなかに身を置くことに
なったりします。
そうなると、時間が経つのもやたら長く感じて、疲れも倍増します。

場に馴染むには、自分を素っ裸にして、目の前のすべてをありのままに受け入れることです。

ですから、その場の空気が変わる前から、先んじてそこに身を置いて自分がそこの空間に溶け込んで
しまうことが非常に有効だと言えます。

職場にかぎらず、ここぞという場面ではとにかく早めに行って心を静かにしておくのがいいと思います。
まさに早起きは三文の得です。

苦手な場面や、気おくれする場面ならば、なおさら早めに行くのがいいでしょう。
誰もいない空間を味わうというのは、今をそのまま受け入れるということであり、自分を開放している
ということでもあります。


「早く着きすぎるとアレコレ考えてしまって緊張するかもしれない」と心配になるというなら、それは
遅れて行ったのなら、その何十倍も気おくれしてしまうと考えて間違いないでしょう。
案ずるより産むが易しなのです。

会社も嫌だと思えばこそ、早めに行って心を広げ、その感覚を肌に染み込ませてみてはどうでしょうか。

同様に、嫌な人間がいるからギリギリまで顔を合わせたくないと思うなら、その人間よりも先に会社に
行って空間と一体となってしまうということです。

心をリラックスさせていつもと変わらない状態でいれば、その相手が来ても余裕をもって見流せている
ことに我ながら驚くでしょう。

心が変わってしまうのは、目の前の今をそのままで受け入れられないからです。

まだ起きてもいない将来に対して不安を持ったり、期待を抱いたりするのは、これから現れる「今」を
値踏みしようとする行為です。

どんな「今」がやってこようが、そのままストレートに受け入れられるかどうかです。
それは言い方を変えれば、未来に対しても心が開いている状態、感覚が広がっている状態です。

どんなものが現れてもプラスもマイナスも採点しないという絶対的な自信。
それは日頃の心グセの積み重ねにかかっています。

こうなったら嫌だと思ってしまうことが、心変わりの根本原因です。

なんでもエエジャナイカ。
コレでいいのダ。
それが心を変えないコツです。

どうしてもネガティヴ思考の癖が抜けない時は、「あれこれ悩んだところでどうせ失敗するんだから」と
達観して、考えごとをやめるのがいいかもしれません。

マイナス思考が癖になっている自我に対して、逆方向に無理強いをしても反発するだけ。
ならば同じマイナス方向に導いて満足させることも一つの方便ということです。

「考えごと」という我執へ100%になってしまっているロック状態を解く。
昇華させて消し去るのです。

「心を変えてはいけない」のではありません。
心は変わるものです。

ただ、心が変わった時にそれに気づかずそのままドップリになってしまってはいけないということです。

今このあとに何が起きてもオールOKなのです。
この世に失敗というものは存在しません。
誰かが決めた評価など、何の価値もありません。
自分の評価にしがみ付く必要もありません。

人間が決めた身勝手な判断などよりも、今この瞬間をそのままに受け入れることの方が、明らかに
天地の理にかなった正道です。

たとえ失敗しようとも、たとえ上手くいかなくとも、不安や恐れや我執に囚われず、ありのままの自分
を受け入れたのならば、それこそが天地そのものの本来の姿であるわけです。
天地自然の100点満点なのです。


人間の価値判断に囚われてはいけない。
天地に優しく褒められることを追いかければいいのです。
結果として、それは心からハシャぐことになっていくでしょう。

そして、その時まわりがみれば、私たちは間違いなく光輝いているのです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 自然哲学へにほんブログ村


隙の無い状態

2015-03-03 23:51:27 | 武道のはなし
達人の佇まいとは、空気のように透明なものです。
しかし、そこに隙はありません。

若い頃は、筋肉をガンガン鍛えて腕力をつけたりスピードを磨いたりするものです。
相手と対峙をした時は、隙を作るまい、絶対に入らせまいと全身からブワーッと気合いを出していたかと
思います。
覇気とかオーラとかいうやつですね(笑)
全身ハリネズミのようになって、寄らば斬るゾの気迫です。

今日は武道の話ですが、心の持ち方についての比喩にもなっていますので、オーバーラップさせて読んで
頂けると幸いです。

全身クマなく針を出し続けるのは、心がとても疲れます。
そして、ふと心が緩んだところに隙が出来てしまいます。
心を緩めまいと必死に頑張っても、自分の観えているところしか針を出せていないと、頭隠して尻隠さず
で、他のところが隙だらけになります。
ならば、それも無くそうと、またガンガン鍛えてさらに気合いを出していくわけです。

それはまるで炎の鎧を着ているようなイメージです。
相手に入らせまいという気持ち、斬られる前に斬ってやるという気持ち、それら我欲が燃えたぎって
います。
炎の鎧は、執念の心です。
確かにそれは強いものではありますが、長くは持ちません。
少しずつ心が疲弊してきます。
外向けの炎は、内をも焼き尽くすのです。
努力の人は、折れそうな心すらバネにしてさらに炎を燃やしますが、それは内には健康問題として、
外には家庭問題や人間関係として、様々な形で表に現れるようになります。

ただ、年齢とともに体力が落ちていくと、拠り所を無くした心は気迫を失っていきます。
自信過剰な慢心が薄れ、弱気の虫が出てきます。
本来はそれこそが、執着や囚われを薄めるための、天地自然の計らいなのですが、それまでの生き方に
自分の存在を投影させてしまっている人は、それを失うことが自分を失うことに思えてしまいます。
それがアンチエイジングとなり、度を過ぎると老醜となってしまいます。
なぜならば、それは本当の自分を弱々しいものだと思い込んでいる状態、本当の自分を受け入れて
いない状態だからです。
本当は誰よりも自分を受け入れるべき「自分」が、他の誰よりも自分を受け入れていないわけです。
天地の全てが嘆き悲しむ事態です。

武道の話に戻りますと、我欲の炎をバチバチぶつけあっている試合は、観ていて気持ちいいものでは
ありません。
見た目が分かりやすいので、外国人はそちらを好む傾向にあるようですが、私たち日本人は、やはり
シーンと心が落ち着いた者同士が全力でぶつかり合っている試合の方を好みます。
それは我欲のぶつけ合いではなく、それまで研鑽してきた自分の「今」を、互いに混じり気なしに
出している姿だからです。
勝ち負けの結果などはどうでもよくなり、ただ、その姿に心奪われます。
観ている人たちの心は洗われ、澄んだ状態になります。

武道で礼節を重んじる理由や、 勝敗よりも心の在り方を重視する理由も、そこにあります。

ガッツポーズや相手への不敬など、醜悪の極みです。
相手より上だ下だという幼稚な優越感や、勝った負けたと見た目に囚われるさもしさ、自分こそが
強いという自己顕示と自己満足・・・
それらは全て上っ面の価値観でしかありません。

スポーツは純粋な娯楽や運動として楽しむだけならば何の問題もありませんが、それが勝ち負けに
重きを置くようになってしまうと、少々キナ臭くなってまいります。
もちろん勝ち負け自体は何も悪いものでありません。
それはただ、結果を表現したものです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
そして、目指す先があればこそ、過程がより充実します。
そういう意味での勝敗が無ければ、面白さも半減してしまいます。
ですから、それは遊びをより充実させるためのスパイス、方便であればいいのです。
いけないことは、それに囚われてしまうことだけです。

勝つためにお互い頑張る。
その過程を楽しむ。
勝負が終われば、即ノーサイドです。
しかし、勝ち負けに囚われてしまうとあちこちギクシャクしてきます。
遊ぶ楽しさだけに向いていた心が、他へ分散してしまい、楽しさそのものが薄まっていくきます。
知らず知らずのうちに、上っ面の価値観や囚われを強化していくことに全力疾走していたりします。
そうなると”健全な精神は健全な身体に宿る”どころではなくなります。
社会に出てからも、勝ち負けの囚われに縛られ続け、苦しみの元となってしまいます。
本来スポーツ自体は何も悪くないのに、それへの関わる姿勢で全く別物になってしまうわけです。

子供の頃は、結果など気にせず、ただ遊んでいるのが楽しくて仕方なかったはずです。
楽しいという感覚に全身を投じていたわけです。
でもそれが、勝ち負けに大人が一喜一憂する姿を見ているうちに、心の向きがブレ始め、純粋な喜びが
徐々に薄れていってしまったのです。

スポーツは、もちろん健全な精神を育みます。
ただ、スポーツの場合は初めから勝ち負けを目的としており、勝敗の大義のもと優越感や自己満足の
高揚を肯定してしまっているのが危険なところです。
ただ一方で、「今」だけに集中しきることの充実感を体験できるという素晴らしい部分もあります。
勝ち負けをニンジンとして鼻の先にぶら下げることで、苦しいトレーニングにも正面から向き合い、
「今」に集中しきることができる、そして気づけば上達という形をともなって自分の視野も変わる。
落とし穴と純粋性は紙一重です。
勝敗というものをあくまで方便として割り切れるかどうかが、天と地ほどの違いになると言えます。

それらをうまいことやってる例としては、中年オジさんの草野球があげられるかもしれません。
勝ち負けに嬉しがったり悔しがったりするわけですが、この場合は悔しさも本当に楽しんでいます。
体力の限界を知ればこそ、楽しみの向きが、勝敗よりもプレーそのもの、つまり遊びそのものに集中して
いるわけです。
我欲に囚われないスポーツであれば、これほど心に良いものはありません。
すべては私たちの心次第ということです。

武道も、結果よりも心の在り方を重視します。
本当の喜び、本当の美しさとはどこにあるのかを導き示します。
見た目の囚われを無くし、凝り固まった視界を開かせることに重きを置きます。
そして、我欲を払った心の清涼感と、穏やかな広がりの中にある幸福感に気づかせます。
それらを刻んでいる過程に喜びを見いだして、その後の結果は付け足しと見なします。

ガッツポーズを唾棄したり、敗者に敬意を表するというのも、決して綺麗事からではないのです。
それは相手に失礼だとか、惻隠の情だとか、そのような浅い理由ではありません。
そこで分かったつもりになって思考停止させてしまうと、かえって危険です。

子どもの頃を思い出すと、遊んでいる最中の喜びに身を投じていれば、終わったあとにも幸福の余韻が
残ったものです。
勝ち負けの結果は、それはそれとして理解するのですが、喜びの対象はむしろ過去にあるわけです。
「いやぁ、ホントに面白かったなぁ」と。
そして、その喜びの瞬間を共に分かち合った相手には肩を叩いて親愛の情を示すのです。

それが、形としては敗者への敬意に見えていたりするだけです。
過程を楽しみ尽くせば、結果などオマケでしかないのです。
ガッツポーズを諌めるのも、”いったいオマエは何処を見ていたのか””何を楽しんでいたのか”という
だけのことです。

しかし、それが外国人には分かりにくいようです。
目に見えないものを深く味わうことが、習慣として馴れていないのかもしれません。
ですから、一部の武道は方便として勝敗を設けられているだけなのに、それがスポーツと味噌クソ一緒に
なってしまったりするのです。
その過程や心の在り方などスッ飛ばして、見た目に分かりやすい勝ち負けへフォーカスしてしまうのです。
残念ながら、オリンピックの柔道は完全にスポーツと化してしまいました。
武道の本質は、囚われやすい心や固定観念をクリアにするところにあると思います。
私たちの視野の外に、幸せや喜びがあることを気づかせるものです。
ですから自分自身を磨くということに繋がってくるわけです。
何としても、この日本の中だけでも、武道としての柔道を遺して欲しいと切に願うばかりです。


武道であっても、スポーツ同様、自分の心次第で毒にも薬にもなります。
上手くなりたい、結果を残したい、という気持ちがあまりに強すぎてそれに囚われてしまうと、自分の
中心から外れていってしまい、出口のない迷宮へ迷い込んでしまいます。
しかし、その気持ちを上手に使って、厳しい稽古へ心を向けるためのモチベーションにするならば、
一転して「今」に集中した過程を刻むことになります。
染み付いた心癖を取り払わない限りは、武道も諸刃の剣であるわけです。

冒頭に書いたハリネズミのような姿なども、外から来るものを弾き返そうとする心の現れです。
自分のまわりに壁を作って相手を入れさせまいとしているわけです。
表現を変えれば、それは固定観念の強化、自分の世界の強化です。
そして勝ち負け意識が強いと、その壁を強固なものにしようとさらにガチガチにしていってしまいます。
これではお互い、どこまでいっても我執の背比べになるだけです。
第三者としては、そんな雰囲気には近づきたくもないですし、観ていて何一つ心は動きません。

しかしながら、達人の佇まいはこれとは全く異なるものです。

そもそもが、柔らかい空気、透明な雰囲気です。
そこに壁はありません。
つまり、心のガチガチが無いのです。
囚われや執着がないため、天地に溶け合った状態です。
それは、ただ観ているだけで何故か幸せな気持ちになってきます。
でも、ホッコリしているからといって小さく観えるわけではありません。
むしろ、天地宇宙と隔たりがなくなっていますので、果てしない大きさを感じます。
そして、どこにも隙がないのです。
打とうにも打てない。
打ち込めないのです。

相手に飲まれて動けないということではありません。
それ以前に、見えない何かのせいで物理的に入れない感覚です。
打つ前から制されているというか、入ろうという気持ちがゼロにされてしまうわけです。
そのくせ、達人の方は、何かを作為しているようなことはありません。
相手を無効化しようとか、制止しようとかは一切考えてません。
ただ、そこに居るだけです。

つまり、それが「今」に中心を置いている状態ということなのです。

「今」にビシッと自分の全てを置いている。柱を立てている。
まさに、心御柱(しんのみはしら)です。
天地宇宙に自分の御柱を立てる。
そこに、圧倒的な存在感とともに、微動だにしない「今」が現れているのです。
その揺るぐことのない感覚を、私たちは隙がないと感じるのです。
何か仕掛けようとする思いが霧散するわけです。
その一方で、もしもこちらが親愛の心であれば、まるで磁石が惹かれるようにスーッとその間合いの中へ
吸い寄せられるのです。

天地宇宙に溶け合ったフルオープンの感覚のまま、「今」の一点に自分を100%置いた状態。
それこそが、達人の姿です。

そして、自分がそこに入れるか入れないかは、こちらの心の持ち方次第で180度変わってくるのです。
決して、達人自身が心を切り替えているわけではない。
天地宇宙と一体になっている時点で、むしろ全てを受け入れている状態です。
こちらの心次第で、勝手に跳ね返ってしまっているだけなのです。
これは、まさに天地宇宙というものがそうであることを示しています。
「神よ、何て無慈悲なんだ」と嘆くのは、お門違いなのです。

入るも相手次第、入らぬも相手次第。
全てを受け入れる心とは、物事がなるようになるのを見守る心でもあるのです。


天地宇宙へフルオープンになるのと同じく大事なのが、自分の中心をしっかりと立てることです。
それが欠けたままで、ただ天地宇宙へ溶け込んでいくのは、フワフワ流されるクラゲ状態です。
これは、風呂に入ってボーッとしている状態と同じです。
あれはあれで、雑味を無くして心を解放させた感覚を掴むのに最高のものですが、だからといって
あの状態のままで日常生活に出るのは危なっかしくて仕方ないでしょう。
湯船のあのボーッとした状態で街中を歩いたらどうなるか、考えればすぐ分かると思います。
数メートル以内でチャリに引かれます(笑)
ですから、心を広げるためにはあの開放感は絶対に必要なのですが、視界をシャキッと鮮明にさせること、
つまり「今」に焦点を合わせることがセットになって初めてバランスが取れるのです。

例えば、カメラも絞ってピントを合わせることで目の前の全景が鮮明に写ります。
瞳孔が開いたままではボヤけた景色しか見えません。
光を集中させること、焦点を合わせることが大切なわけです。
といって、心をギュッと締めるということでは決してありません。
単に、心を向けるだけでいいのです。
明確に向けるということが、集中することになっているのです。

自分を自分の「今」に立てること、つまり「今」に心を向けることが、天地の中心の「今」を鮮明に
させることになります。
それは、外に向けてエネルギーを出すものではなく、ただそこに在る状態です。
但し、これ以上ないほど「明確に」在る状態です。

一方で、天地宇宙と隔たりなく広がった感覚にあることが、エネルギーに満ち溢れ状態となります。
これも内から外へ流れるものではなく、天地宇宙に偏在した状態です。
外から来るものに対してぶつかるのではなく、全てを受け入れる状態であるのです。


そのような状態を目指すために武道では、基本稽古を重視しています。
移ろう心をシュッと集中させるために、反復動作を行ないます。
余計なことを何も考えず、ひたすらその動きだけに100%集中するのです。

「ヒゲ剃りに集中、ドライヤーに集中、着替えに集中」と今までシツコク言ってきたのは、そうした
稽古や訓練と同じものと言ってもいいかもしれません。
集中しようと漠然と思いながらやっていると、すぐに何か他のことを考えてしまうものです。
ですから、そうなった時は「今のこういう心癖を無くしていくための稽古なんだ。訓練なんだ。」と
割り切った方が、囚われに惑わされず集中しやすくなるかもしれません。

こうした一つ一つの積み重ねが、他の場面での条件反射へなっていきます。
逆を言えば、そういう小さな場面で心が散漫になってしまっているということは、散漫になる稽古を
いつも繰り返していることになります。
それが日常のあらゆる場面での、知らず知らずの散漫になってしまうわけです。
小さなことに集中できなかったら、大きな場面で集中することは不可能です。
ましてや、散漫になっていることにすら気がつけないとなると、集中しようとするキッカケすら失って
しまうことになります。

歯磨きや着替えなど、小さなこと一つ一つに集中していると、ハッと散漫になっている自分に気づきます。
これが大事なのです。
気がついて、それを正そうと思うことができるのです。
他の場面で散漫になっている状態にもハッと気がつくことができるようになるのです。
しかしそうした散漫が当たり前になってしまうと、最早それに気がつくことができません。
麻痺した状態になってしまうわけです。
ですから、そうしたものをリセットする場面が大切になってくるのです。

どんな大きな場面に観えようと、どんな小さな場面に観えようと、等しく価値ある「今」に変わりありません。
ヒゲ剃りでもドライヤーでも、その「今」を安く見ずに、きっちり集中していくことが、結局は全ての「今」を
等しく集中していくことへと繋がっていくのです。

この場面は重要だから集中しようとか、ここは手を抜こうとか、そういうことではなくなるのです。
だから心癖の訓練が大事なのです。

一つだけ細かい例をあげてみます。
着替えている途中や、ドライヤーで髪を乾かしている最中に、ハタと何か思いついた時には、「あと少し
だから」と、考えごとをしながら続けてしまいます。
でもそういう時は、その作業をやめて思いついたことを先にやるか、あるいは忘れてもいいと割り切って
元の作業に集中するか、どちらかです。
忘れたら困ることであるならば、なおさら意識は散漫になりますので、それはメモに書くなり何なりして
一旦リセットさせて、スッキリした状態で元の作業に集中するのがいいと思います。
ですから、洗面所や居間などにポストイットのような手軽なメモ紙とペンを置いておくといいかもしれません。
ただ、風呂で思いついた時は、もう諦めるしかないですね(笑)


四六時中、気を張ったままでいますと、心は本当にグッタリ疲れます。
あれこれ忙しくなると、どうしても頭の芯の部分がキュッと締まって緊張状態となります。
仕事でトラブルが続いたり、家の家事に追われたり、通勤ラッシュにもまれたり、おかしな人が近くにいたり
すると、グッと気を張って心を硬くしてしまいます。
それは、全身ハリネズミのようにしてエネルギーを放出している状態です。
疲れるだけでなく、気力も枯れてしまいます。

ですから、そういう時は毛穴の緊張を解いて、天地に向けて感覚をフルオープンに開き、頭の芯の部分と
後頭部あたりでギュッとなっている締まりをスッと緩めてみるのです。
それから自分の中心の一点にストンと心を置いて、そして目の前の「今」に気持ちを向けましょう。
ただ、そこに在るだけです。
一切余計なことをする必要はありません。

そうすると、何もしなくとも、変なものは入ってこなくなります。
逆に、それ以外のものは全て入ってきます。
そして自家発電ではありませんので、疲れ果てることもありません。
むしろ元気になります。

なぜならば、それが天地の姿だからです。

両手で囲わず、大海に溶けて一つとなった状態。
天地宇宙の中心が「今」に定まった状態。
この天地の姿は、文字通りの「自然体」です。

そしてその、天地の神氣に満ち満ちて、天地宇宙の中心が在る状態。
それこそが「隙のない状態」なのです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 自然哲学へにほんブログ村

透明なちから

2015-02-06 20:56:18 | 武道のはなし
以前に書いた『お手軽な呪文』の中で、「心はものすごいエネルギー」という表現をしました。

そのエネルギーの正体とは、心そのものではなく、まさしく根源から湧き出る生命エネルギーであると言うことができます。

それというのは、私たちのまわり、この天地宇宙に充満しているものであり、氣とかご神気とか呼ばれるものと同じものであるわけです。

ですから、雑念が消えることで私たちも天地宇宙の物凄いエネルギーへ純化していく、というような話になってまいります。

さて今日のタイトルですが、これは『透明な力』(木村達雄著、講談社刊)からお借りしたものです。

この本には、大東流合気武術の佐川幸義先生のことが記されていまして、そのなかには「触れた瞬間に動けなくなってしまう」とか「大勢で
かかっても一瞬で吹っ飛ばされてしまう」という話が残されています。
超能力というと安っぽくなってしまいますが、要するに、物理の原理原則を超越した見えない何かが働いているということであります。

技は今も伝承されているそうですが、その仕組みについてははっきりとは解明できてないようです。
こういうものは感覚の問題なので、理詰めで解くことはなかなか難しいのではないかと思います。

ただ、ご本人の言葉の中に数多くのヒントが隠されています。

佐川先生は日課として、ひたすら重い棒を振ったり、四股を踏んだり、様々な基本稽古をなんと千回単位でもって繰り返していたそうです。
また、身体だけでなく頭のほうでも、夜も寝ずに四六時中とことん合気のことだけを考え抜いていたと言います。

まさに、合気という一つのことに己の全存在をかけておられたわけです。
そのことをご本人は「執念」という表現をされていますが、そこに囚われというものは一切感じられませんので、これは「極限までの集中」
という意味になるかと思います。

筋肉やスピードという物理的な鍛錬成果ではなく、「今」への極限の集中と我執の透明化により、見えない何かに繋がった。
ですから、根性論だけで同じ形を何千回やったところで、決してその境地には達しないということになります。

やり方を誤ると執着を鍛えることにしかならず、むしろ逆方向の努力になってしまう恐れがあります。
これは私たちの日常においても、起こしやすい間違いと言えるかもしれません。

目的が何であれ、少しでも欲得が混じってしまうと、頑張れば頑張るほど囚われが強化されてしまうということです。

逆に、何千回もの厳しい反復というのは、頑張りを越えて無心に至らないと達成できないような異常な回数を課すことによって、心に囚われず
ひたすら「今」だけに集中することを目指したものであったのではないかと思います。

そうやって我執を無くしていくことで、天地との壁がなくなり、天地そのものとなって、天地のエネルギーと一つになっていった。

佐川先生自身、技そのものよりも、そうした凄まじいルーチンこそが絶対に必要だと仰られ、老齢になられてからも、それを
怠らなかったと言います。

凡人としてはそこまでやりこめば少しくらい数を減らしても大丈夫そうなものと考えてしまいますが、心というものはそれほどまでに移ろい
やすいものなのでしょう。
だからこそ物理的鍛錬としてではなく、身体感覚を刷り込むための作業として、感覚優位の状態を
維持しようとされたわけです。

それは、頭では心を抑えることはできないが、感覚を追えば囚われが薄まることを示しています。

それは私たちも経験していることです。

温泉にじんわりと浸かった時や、ポカポカした春の陽射しにあたった時、あるいは森林の空気や滝のマイナスイオンに触れた時、瞬間的に全ての
囚われが消えて無くなります。

感覚を追えば執着が薄まるということは、執着が薄まれば感覚が広がるということでもあります。

つまりは「透明なこころ」こそが「透明なちから」の正体だといえるわけです。

武道に限らず、一つの道に身を投じた求道者、武骨な職人、あるいは真面目に生きてきた普通の会社員や主婦であっても、「透明なこころ」を
体現している人であれば、同じように「透明なちから」を発しているに違いありません。

先日も書きましたが、包容力のある人物や、高僧と言われるような方たちと同席しますと、それだけでホンワカした心地になります。
それを「徳がある」と表現することもあります。
この温かくて気持ちの良い雰囲気、空気感というものこそ「透明なちから」と言えるわけです。

佐川先生は武道家だったので、それが人を投げ飛ばすという、誰の目にも見える形になりましたが、それと同じ空気感を他の分野の方たちも
発しているのではないかと思います。

そしてこの「透明なちから」こそが、天地のエネルギーでありご神気であり生命を生かしてくれるものであり、表現を変えれば、寛容さであり
愛というものなのではないかと思います。

佐川先生以外にも武道の世界でこの天地の力を体現された方として、同じく合氣道の藤平光一先生がいらっしゃいます。
藤平先生は、若いころに不治の病といわれた肋膜炎にかかり、必死の修行を経てそれを治されたそうです。
また、その師である中村天風先生も当時不治の病だった肺結核にかかって、命がけの修行でそれを治しています。

いずれの場合も、命に関わる大病によって我欲や我執に向き合い、天地の理に氣づき、道を極める
に至りました。

佐川先生は、透明なちからのことを「合気」と表現し、自分の生きているうちにそれを弟子たちが掴まないと、絶対に分からないと断言されて
いました。
理屈を教わって分かるものではない、言葉で説明されて分かるものでもないとして、「やられた感じをもとに自分のものとしていくべきもの」
と仰いました。

まさにそれと同じことが職人の世界にも見られます。

口で教えたりせず、道具を触らせることもさせず、師匠を黙って近くで見ているだけということを何年も続けさせるというものです。

場合によってそれは、職場だけでなく24時間、寝食までも共にさせたりします。
つまりは師匠から溢れる見えないもの、雰囲気、すなわち「透明なちから」を感覚で掴む、写し取る、それに染まるということなのだと思います。

初めから理詰めで入ってしまうと、一生その感覚を体得することはできません。

なぜ師匠のようにできないのか?何が違うのか?などと頭で考えれば考えるほど囚われが強まってしまい、毛穴が閉じて、感覚をキャッチする
ことができなくなります。
昔の人はそれが分かっていたから、理屈ではなく感覚の方から伝えようとしたのでしょう。
テクニックなどは、あとからいくらでも教えられるものであるということです。

もし最初から技に走ってしまうと、確かにある程度までは急速に伸びるでしょうが、そこから先はどうにも進めなくなります。
見た目だけに走る限界です。

そして一度そうなってしまうと、余計な知識や観念が邪魔してしまい、感覚からの吸収が困難になってしまうというわけです。

現代社会はまさにこのパターンに陥っているといえます。
できるだけ時間も労力も削り、結果だけを求め、理屈やテクニックに走る姿をいたるところで見かけます。

それを効率的と呼ぶのは簡単ですが、それではいったい何のための結果か?ということです。

刻むべき日々は使い捨てにされ、あとに残るはスカスカの張りぼてだけ。
出来た瞬間に用無しになってしまい、また次の張りぼてを作らなくてはいけない。
明らかに行く先が窮してしまっています。
自分が何をしているかなど関係ない、まさにまわりが見えていない状態と言えます。

理屈に走るというのは、目の前の「今」から離れてしまっている状態です。

その証拠に、考え事をしている時は自分のまわりが何も見えなくなります。
つまり、存在していない状態となります。
心も意識も感覚も「今」に全く向いていない状態になるわけです。

逆に囚われがなくなっている時は、まわりの全てを感じています。
「今」に生きるとはそういうことだと思います。

フットワークが軽い器用さよりも、融通のきかない武骨さの方が、天地においては健全な姿であるわけです。

佐川先生のように一日何千回も鍛錬を積むことは出来ないかもしれませんが、日常の生活一つ一つに心を向けるくらいならば、私たちにもできる
ことです。
それは言い変えれば、その一つ一つがすべて、囚われを無くす稽古になっていくということでもあります。

「天地と一体となる」と言うとハードルが高すぎて気負ってしまうところですが、「徳のある雰囲気」「ほっこりとした空気感」と言い換えれば、
なんとも身近に感じて、俄然、魅力が増してきます。

そして日常生活の一つ一つというのは、食事や掃除、洗濯、ドライヤーやヒゲ剃り、そうした他愛もないことを指します。

そうした一つ一つのことを、その時だけは集中してやる。
他のことは一切考えない。

なーんだ、たったそれだけ。
簡単なことじゃないかって思われるのでないでしょうか。

そう、たったそれだけなのです。
それだけのことで私たちも天地と一体となり、天地そのものになり、透明な力に包まれるのです。

その時その時、一つ一つのことに心を向ける。

そうしていくことで徳のあるホッコリした雰囲気が出来あがっていくわけです。