私たちは年齢とともに様々な経験を積んでいきます。
そうして何が起きても大抵のことは大丈夫になってまいります。
歳を取るというのは、図太くなるとも言えますし、平常心が養われるとも言えます。
思い返して見ますと、小さい頃はほんのちょっとしたことでも人生の一大事に思えて慌てふためいたものでした。
そうして知識や経験を重ねるにつれて、オロオロすることも少なくなっていきました。
大人になってもそれは同じで、会社に入ったばかりの頃はハラハラドキドキすることや、失敗してガックリすることが
山ほどありましたが、今となってはあの頃のように波に呑まれてバタバタすることも少なくなりました。
この今においては一大事に見えることでも、学年が上がっていくと笑ってこなせるようになるのでしょう。
そして、そこでまた新たなことに出くわしてハラハラする。
人生というのはその連続であるわけです。
ということは、目の前のシンドい状況が、出口の見えない永遠の苦しみに見えたとしても、それは子供の頃と同じように
ただ、今の学年にとっての一大事に過ぎないということになります。
「いやいや、こんなシンドい状況、たとえ時間が経っても変わるもんではナイ」と思っているうちは本当に変わらない
でしょう。
精魂尽き果てて自ら手放さない限り、それこそ永遠に変わらないということです。
いま一度、先ほどの話に戻ってみます。
学年があがるにつれて大抵のことは平気になっていくわけですが、それは、経験済みのパターンが増えて安全運転が
出来るようになったとも言えます。
その一方で「何でもそれなりにこなせる」という思いは、知らず知らずのうちに慢心を招くことにもなります。
それは明らさまな形で表に現れる場合もあれば、ほんのわずかな心の淀みとなって静かに沈殿していく場合もあります。
たとえば、この歳になって何かしくじってしまった時、若い頃よりもガックリと落ち込むようなことがあります。
それ自体は些細な落ち度であっても、そこから会社へのダメージや関係者への迷惑などがパーッと浮かんでしまい、
ズドーンと落ち込みが加速していくようなケースです。
それは良く言えば、若い頃よりも責任範囲が広まって色々なことが見えるようになり、個人ではなく組織の痛みを感じる
ようになったということになります。
これは見るからに正論なだけに、落ち込みは歯止めをかけられることなく増幅されていきます。
しかしここでは、その大義を隠れ蓑として、別の思惑がありはしないかという観察が必要となります。
つまり、これまでの豊富な経験により自信過剰となって、何処か増長していなかったかということです。
仕事が上手く行かなかった時、醜態をさらしたと恥じたり、「何十年もやっているのにこのザマか」と自我の囁きが
聞こえたら注意が必要です。
一見するとカッコいいセリフなだけに、自ら騙されてますますエネルギーを注いでしまうところですが、その実体と
いうのは、“情けない、みっともない、カッコ悪い…”という感情でしかありません。
つまりは自己愛(我ヨシ)であり、自我と同一平面に囚われた状態であるわけです。
あたかも会社組織をおもんばかったかのような連帯意識や利他行為を装い、さらには自分の立場を全うしようという
責任感の強さをも装ってしまうと、スッカリ騙され自己愛へエネルギーを注ぎ続けることになってしまいます。
もちろん一番最初には、連帯意識や利他行為、責任意識という実体がそこにありました。
ただ、それらは闘牛の赤い布のようなもので、私たちがそこに向けて突進すると、触れるか触れないかのところで
ヒラリとかわされてしまい、それに気づかないまま明後日の方向へ突進し続けてしまうということです。
その時というのは、私たちの猛進は、内向きの煩悩へと向けられてしまっています。
私たちが責任意識や利他行為といった「いわゆる正義」に向けて走れば走るほど、自我の自己愛(我ヨシ)に向かって
いるのですから、終わることのない苦悩が続くのは当然と言えます。
しかし、ひるがえってみて、若手の頃にそれと同じミスを犯したとしたら、そこまでドツボにハマっていたかどうか。
おそらくそこまでドロドロした底無し沼のようなことにはならず、もっと純粋な落ち込み方をしていたのではないかと
思うのです。
年齢や経験を重ねていくと、有るべき理想に囚われてしまい、それが無意識のうちに格好つけとなって私たちを
縛ってしまいます。
それというのは、まさに謙虚さを欠いた状態であるわけです。
若い頃は、経験も知識も不足していますので増長しようがありません。
結果としては、謙虚な状態と言えます。
ですから、ドロドロと自己増幅するようなことはなく、単に「嗚呼、俺ってまだまだ未熟だな」と素直な落ち込み方で
終わるわけです。
歳を重ねるにつれて自信が増していくのは良いことなのですが、そこに優劣意識や我執が加わると、自信は単なる
増長慢へと変化(へんげ)してしまい、謙虚さが失われていくことになります。
自信に満ちた姿と、増長した姿というのは紙一重の世界です。
謙虚さの欠落というのは、見るからにエラそうにするというような分かりやすい形だけではありません。
それは自分でも気づかないうちに心の底へジンワリと浸透していきます。
そして普段は隠れて見えなくなっていますが、何かのきっかけで突如、表に現れます。
まさに冒頭のように何かのヘマをしてしまったケースなどがそうです。
すると、ただ単に謙虚さを欠いているだけなのに、見た目にはショックを受けて落ち込むという形が現れますので
本性はその陰に隠され、自分自身でもすっかり騙されてしまいます。
ガックリと肩を落として膝をついて落ち込む姿というのは自分としても気の毒に見え、真面目で誠実そうに映るものです。
でもそれが慢心の裏返しということもあるのです。
カッコつけであればあるほど、行き詰まった時や失敗した時のショックは大きくなります。
実際、私たちの自我というものは、自分自身に対して、知らず知らずのうちに高い値付けをするものです。
それは会社の中での役職だったり年次だったり、家庭の中での立場だったり、あるいは趣味や習い事での上達度合いだったり、
自分を取り囲む環境によって自然と吊り上げられていきます。
そうなると、その高く吊り上げられた自己評価を守ろうとより一層強い自己愛が働くようになります。
見るからに慢心となって現れれば手放しようもあるのですが、それが役職や立場というものによって責任感という形で
巧妙に隠されてしまうと、何を手放せばいいのかも分からなくなってしまいます。
そうして、評価を引きずり下ろすような人たちや出来事に出会うと、怒ったり抵抗したり落ち込んだりするのです。
しかし若い頃の自分にしろ、今の自分にしろ、実際のところは何一つ変わっちゃいません。
50歳だろうが60歳だろうが、この自分というのは、あの若造だった頃の自分と何も変わっていない。
それは、今この自分が一番分かっていることでしょう。
世間体というものや年齢や立場というものがあるため、みんなそれに見合ったオモテづらをしているに過ぎません。
その証拠に、中学や高校の同級生が集まるとあっという間に全部脱ぎ捨てて、一瞬であの頃に戻ります。
まわりに合わせて作り上げたオモテづらでしかないのに、それを忘れて押しつぶされ苦しむなんてナンセンスなのです。
「おのれがナンボのもんじゃい」
そんなことは自分自身が一番知っていることです。
今さら取り繕わなくても大丈夫です。
自分をゴマかしたところで何も生まれません。
もちろん、それは自分を卑下することとは全く違います。
決してマイナスの色を塗ることを言っているのではありません。
ここで言っているのは、無駄にプラスの色を塗っていないかということです。
そして、自分自身それにスッカリ騙されてしまっていないかということです。
傷つきガックリと落ち込む姿は、気の毒で可哀想なことだと誰もが思い込んでしまいます。
でも、それこそが全世界が引っ掛けられたトリック、大いなる幻想だとしたらどうでしょうか。
人は誰しも、他人から認められたいと思うものです。
自分以外の存在に認められることで、自分の存在を確認できる。
それによって安心感を得られるという構図です。
しかし、誰かに認められようが認められまいが、私たちは生まれる前から、今この瞬間も、そしてこれからも、天地宇宙に
包まれています。
自分がここに居るという事実が、天地宇宙のあらゆる存在から自分が認められている完全無欠な証拠になるのです。
必要十二分な条件として、証明は完全にして完璧に終わりです。
認められたい思いというのは、この世だけの幻想に過ぎません。
認められていない、受け入れられていないという設定を作って言葉遊びしているだけです。
もちろん、だからといって「人から認められるなんてクソ食らえ」と反発することではありません。
ただ、一休さんが狂気を演じてまで伝えようとしたのはそういうことなのです。
認められることの対義語は、失望されることです。
ガッカリされるというのは、自分の目線に置き換えると「カッコ悪い」ということになります。
まさに私たちの自我はカッコをつけようと必死になっているのです。
ミスして落ち込んだにしても、何故ここまで落ち込んでしまうのか分からない時というのは、単にカッコ悪い状況を
受け入れまいとしているだけかもしれません。
立派な人、信頼される人、尊敬される人、讃えられる人…
そんなものは全て仮初めのものに過ぎません。
それらを得たからといって、自分のいったい何が変わるのでしょう。
それを失ったからといって、自分のいったい何が変わるのでしょう。
私たちは、50歳だろうと70歳だろうと、本当は10代の頃と何も変わっていないことを知っています。
歳とともに変わるだろうと思っていたのは、若かりし日の幻想に過ぎません。
そうした思い込みをこれからも後生大事に抱え続ける必要などありません。
今のこの感覚に素直になるだけです。
歳を取ろうが、役職が上がろうが、知識が増えようが、成功を重ねようが、賞賛を浴びようが、私たちは何一つ変わって
いません。
逆に、役職を失おうが、失敗しようが、失望されようが、罵倒されようが、私たちというのは何一つ変わっていません。
初めから何も変わっていないのです。
プラスの塗り重ねによって自分が変わったと思い違いしてしまうと、マイナスの出来事に遭遇した時にズドーンと落ち込む
ことになります。
私たちは最初から増えもしなければ減りもしません。
それを思い出せば、たちまち今の苦悩から抜け出せます。
他の誰かが、勝手なプラスや勝手なマイナスをつけても、放っておけばいいだけなのです。
私たちは、誰かに認められなくても、天地宇宙から完全に認められています。
何かやらかしてしまっても、一滴も取りこぼすことなく100%受け止められています。
この世に存在するというのは、そういうことです。
こんな自分はイヤだと、自分自身を受け入れられずに居ても、そんなことなどお構いなく天地宇宙は完全に私たちを
受け入れています。
誰かにどのように思われたって、どうでもいいことなのです。
良く思われればアンガトサンですし、悪く思われればソウデッカです。
大事なことは、相手がどう思うかではなく、自分がどう思うかです。
もともと私たちは他人とは異なる形で生まれてきました。
似たような形だったら生まれてくる意味がありません。
理想像に窮屈に押し込めるなんて、全く馬鹿げた話なのです。
そんなところに上手いことおさまったとしても、そんなのは単なる器用者でしかないわけです。
たまたまそのゾーンに入ったら、それはそれ。
そのゾーンから外れたところで、それが当たり前というものです。
他人がどのように考えるかは、その人の自由です。
やりたいようにやらせればいい。
勝手にやらせとけばいいのです。
自分もやりたいようにやればいい。
好きにやればいいのです。
他人にそれを理解してもらおうと思う必要なんてありません。
孤独という幻想が嫌ならば、設定を変えればいいだけです。
自分がラクに自然体でやっているかどうか、それを知っているのは自分だけです。
自分が分かっていれば、誰が何と言おうと、それが正解です。
他人のお墨付きなんて要りません。
安心を求める思い自体が、仮初めの幻想に過ぎないのです。
謙虚なこころとは、素直なこころのことです。
たとえお爺ちゃんお婆ちゃんになっても、少年の心や少女の可憐さが色あせることはありません。
男はいくつになっても男子ですし、女性もいくつになっても女子のままです。
イタズラっぽく目を輝かせるお爺ちゃんや、可愛らしく笑うお婆ちゃんは本当に素敵です。
私たちは、いくつになっても変わらないのです。
素直さを包み隠す虚構に押し潰されそうになったら、サッサと脱ぎ捨ててしまうだけのことです。
まわりが何と言おうが、ハッハッハーです。
リタイアしたら第二の人生を楽しもうなんて言わずに、今、ラクになってしまえばいいのです。
何も失うものなんてありません。
なんせ最初から何も獲得してないのですから。
自我が騒ぎ立てる言葉に、何一つ真実なんてありません。
何故なら、それは「今ここ」ではない世界を叫ぶものだからです。
幻想世界の妄想でしかないわけです。
人生なんて、あっという間。
人間どんなに食べたくても、大福3個が限界なんです。
何があっても、何が起きても、まさに「だいじょ~ぶ」。
そう思えるように、私たちはこうして歳を重ねているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/80/106fc4bdee648b3469803d1a3c366b47.jpg)
※「だいじょ~ぶ」
『仮面の忍者赤影』の青影の決めゼリフ。古いか~
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そうして何が起きても大抵のことは大丈夫になってまいります。
歳を取るというのは、図太くなるとも言えますし、平常心が養われるとも言えます。
思い返して見ますと、小さい頃はほんのちょっとしたことでも人生の一大事に思えて慌てふためいたものでした。
そうして知識や経験を重ねるにつれて、オロオロすることも少なくなっていきました。
大人になってもそれは同じで、会社に入ったばかりの頃はハラハラドキドキすることや、失敗してガックリすることが
山ほどありましたが、今となってはあの頃のように波に呑まれてバタバタすることも少なくなりました。
この今においては一大事に見えることでも、学年が上がっていくと笑ってこなせるようになるのでしょう。
そして、そこでまた新たなことに出くわしてハラハラする。
人生というのはその連続であるわけです。
ということは、目の前のシンドい状況が、出口の見えない永遠の苦しみに見えたとしても、それは子供の頃と同じように
ただ、今の学年にとっての一大事に過ぎないということになります。
「いやいや、こんなシンドい状況、たとえ時間が経っても変わるもんではナイ」と思っているうちは本当に変わらない
でしょう。
精魂尽き果てて自ら手放さない限り、それこそ永遠に変わらないということです。
いま一度、先ほどの話に戻ってみます。
学年があがるにつれて大抵のことは平気になっていくわけですが、それは、経験済みのパターンが増えて安全運転が
出来るようになったとも言えます。
その一方で「何でもそれなりにこなせる」という思いは、知らず知らずのうちに慢心を招くことにもなります。
それは明らさまな形で表に現れる場合もあれば、ほんのわずかな心の淀みとなって静かに沈殿していく場合もあります。
たとえば、この歳になって何かしくじってしまった時、若い頃よりもガックリと落ち込むようなことがあります。
それ自体は些細な落ち度であっても、そこから会社へのダメージや関係者への迷惑などがパーッと浮かんでしまい、
ズドーンと落ち込みが加速していくようなケースです。
それは良く言えば、若い頃よりも責任範囲が広まって色々なことが見えるようになり、個人ではなく組織の痛みを感じる
ようになったということになります。
これは見るからに正論なだけに、落ち込みは歯止めをかけられることなく増幅されていきます。
しかしここでは、その大義を隠れ蓑として、別の思惑がありはしないかという観察が必要となります。
つまり、これまでの豊富な経験により自信過剰となって、何処か増長していなかったかということです。
仕事が上手く行かなかった時、醜態をさらしたと恥じたり、「何十年もやっているのにこのザマか」と自我の囁きが
聞こえたら注意が必要です。
一見するとカッコいいセリフなだけに、自ら騙されてますますエネルギーを注いでしまうところですが、その実体と
いうのは、“情けない、みっともない、カッコ悪い…”という感情でしかありません。
つまりは自己愛(我ヨシ)であり、自我と同一平面に囚われた状態であるわけです。
あたかも会社組織をおもんばかったかのような連帯意識や利他行為を装い、さらには自分の立場を全うしようという
責任感の強さをも装ってしまうと、スッカリ騙され自己愛へエネルギーを注ぎ続けることになってしまいます。
もちろん一番最初には、連帯意識や利他行為、責任意識という実体がそこにありました。
ただ、それらは闘牛の赤い布のようなもので、私たちがそこに向けて突進すると、触れるか触れないかのところで
ヒラリとかわされてしまい、それに気づかないまま明後日の方向へ突進し続けてしまうということです。
その時というのは、私たちの猛進は、内向きの煩悩へと向けられてしまっています。
私たちが責任意識や利他行為といった「いわゆる正義」に向けて走れば走るほど、自我の自己愛(我ヨシ)に向かって
いるのですから、終わることのない苦悩が続くのは当然と言えます。
しかし、ひるがえってみて、若手の頃にそれと同じミスを犯したとしたら、そこまでドツボにハマっていたかどうか。
おそらくそこまでドロドロした底無し沼のようなことにはならず、もっと純粋な落ち込み方をしていたのではないかと
思うのです。
年齢や経験を重ねていくと、有るべき理想に囚われてしまい、それが無意識のうちに格好つけとなって私たちを
縛ってしまいます。
それというのは、まさに謙虚さを欠いた状態であるわけです。
若い頃は、経験も知識も不足していますので増長しようがありません。
結果としては、謙虚な状態と言えます。
ですから、ドロドロと自己増幅するようなことはなく、単に「嗚呼、俺ってまだまだ未熟だな」と素直な落ち込み方で
終わるわけです。
歳を重ねるにつれて自信が増していくのは良いことなのですが、そこに優劣意識や我執が加わると、自信は単なる
増長慢へと変化(へんげ)してしまい、謙虚さが失われていくことになります。
自信に満ちた姿と、増長した姿というのは紙一重の世界です。
謙虚さの欠落というのは、見るからにエラそうにするというような分かりやすい形だけではありません。
それは自分でも気づかないうちに心の底へジンワリと浸透していきます。
そして普段は隠れて見えなくなっていますが、何かのきっかけで突如、表に現れます。
まさに冒頭のように何かのヘマをしてしまったケースなどがそうです。
すると、ただ単に謙虚さを欠いているだけなのに、見た目にはショックを受けて落ち込むという形が現れますので
本性はその陰に隠され、自分自身でもすっかり騙されてしまいます。
ガックリと肩を落として膝をついて落ち込む姿というのは自分としても気の毒に見え、真面目で誠実そうに映るものです。
でもそれが慢心の裏返しということもあるのです。
カッコつけであればあるほど、行き詰まった時や失敗した時のショックは大きくなります。
実際、私たちの自我というものは、自分自身に対して、知らず知らずのうちに高い値付けをするものです。
それは会社の中での役職だったり年次だったり、家庭の中での立場だったり、あるいは趣味や習い事での上達度合いだったり、
自分を取り囲む環境によって自然と吊り上げられていきます。
そうなると、その高く吊り上げられた自己評価を守ろうとより一層強い自己愛が働くようになります。
見るからに慢心となって現れれば手放しようもあるのですが、それが役職や立場というものによって責任感という形で
巧妙に隠されてしまうと、何を手放せばいいのかも分からなくなってしまいます。
そうして、評価を引きずり下ろすような人たちや出来事に出会うと、怒ったり抵抗したり落ち込んだりするのです。
しかし若い頃の自分にしろ、今の自分にしろ、実際のところは何一つ変わっちゃいません。
50歳だろうが60歳だろうが、この自分というのは、あの若造だった頃の自分と何も変わっていない。
それは、今この自分が一番分かっていることでしょう。
世間体というものや年齢や立場というものがあるため、みんなそれに見合ったオモテづらをしているに過ぎません。
その証拠に、中学や高校の同級生が集まるとあっという間に全部脱ぎ捨てて、一瞬であの頃に戻ります。
まわりに合わせて作り上げたオモテづらでしかないのに、それを忘れて押しつぶされ苦しむなんてナンセンスなのです。
「おのれがナンボのもんじゃい」
そんなことは自分自身が一番知っていることです。
今さら取り繕わなくても大丈夫です。
自分をゴマかしたところで何も生まれません。
もちろん、それは自分を卑下することとは全く違います。
決してマイナスの色を塗ることを言っているのではありません。
ここで言っているのは、無駄にプラスの色を塗っていないかということです。
そして、自分自身それにスッカリ騙されてしまっていないかということです。
傷つきガックリと落ち込む姿は、気の毒で可哀想なことだと誰もが思い込んでしまいます。
でも、それこそが全世界が引っ掛けられたトリック、大いなる幻想だとしたらどうでしょうか。
人は誰しも、他人から認められたいと思うものです。
自分以外の存在に認められることで、自分の存在を確認できる。
それによって安心感を得られるという構図です。
しかし、誰かに認められようが認められまいが、私たちは生まれる前から、今この瞬間も、そしてこれからも、天地宇宙に
包まれています。
自分がここに居るという事実が、天地宇宙のあらゆる存在から自分が認められている完全無欠な証拠になるのです。
必要十二分な条件として、証明は完全にして完璧に終わりです。
認められたい思いというのは、この世だけの幻想に過ぎません。
認められていない、受け入れられていないという設定を作って言葉遊びしているだけです。
もちろん、だからといって「人から認められるなんてクソ食らえ」と反発することではありません。
ただ、一休さんが狂気を演じてまで伝えようとしたのはそういうことなのです。
認められることの対義語は、失望されることです。
ガッカリされるというのは、自分の目線に置き換えると「カッコ悪い」ということになります。
まさに私たちの自我はカッコをつけようと必死になっているのです。
ミスして落ち込んだにしても、何故ここまで落ち込んでしまうのか分からない時というのは、単にカッコ悪い状況を
受け入れまいとしているだけかもしれません。
立派な人、信頼される人、尊敬される人、讃えられる人…
そんなものは全て仮初めのものに過ぎません。
それらを得たからといって、自分のいったい何が変わるのでしょう。
それを失ったからといって、自分のいったい何が変わるのでしょう。
私たちは、50歳だろうと70歳だろうと、本当は10代の頃と何も変わっていないことを知っています。
歳とともに変わるだろうと思っていたのは、若かりし日の幻想に過ぎません。
そうした思い込みをこれからも後生大事に抱え続ける必要などありません。
今のこの感覚に素直になるだけです。
歳を取ろうが、役職が上がろうが、知識が増えようが、成功を重ねようが、賞賛を浴びようが、私たちは何一つ変わって
いません。
逆に、役職を失おうが、失敗しようが、失望されようが、罵倒されようが、私たちというのは何一つ変わっていません。
初めから何も変わっていないのです。
プラスの塗り重ねによって自分が変わったと思い違いしてしまうと、マイナスの出来事に遭遇した時にズドーンと落ち込む
ことになります。
私たちは最初から増えもしなければ減りもしません。
それを思い出せば、たちまち今の苦悩から抜け出せます。
他の誰かが、勝手なプラスや勝手なマイナスをつけても、放っておけばいいだけなのです。
私たちは、誰かに認められなくても、天地宇宙から完全に認められています。
何かやらかしてしまっても、一滴も取りこぼすことなく100%受け止められています。
この世に存在するというのは、そういうことです。
こんな自分はイヤだと、自分自身を受け入れられずに居ても、そんなことなどお構いなく天地宇宙は完全に私たちを
受け入れています。
誰かにどのように思われたって、どうでもいいことなのです。
良く思われればアンガトサンですし、悪く思われればソウデッカです。
大事なことは、相手がどう思うかではなく、自分がどう思うかです。
もともと私たちは他人とは異なる形で生まれてきました。
似たような形だったら生まれてくる意味がありません。
理想像に窮屈に押し込めるなんて、全く馬鹿げた話なのです。
そんなところに上手いことおさまったとしても、そんなのは単なる器用者でしかないわけです。
たまたまそのゾーンに入ったら、それはそれ。
そのゾーンから外れたところで、それが当たり前というものです。
他人がどのように考えるかは、その人の自由です。
やりたいようにやらせればいい。
勝手にやらせとけばいいのです。
自分もやりたいようにやればいい。
好きにやればいいのです。
他人にそれを理解してもらおうと思う必要なんてありません。
孤独という幻想が嫌ならば、設定を変えればいいだけです。
自分がラクに自然体でやっているかどうか、それを知っているのは自分だけです。
自分が分かっていれば、誰が何と言おうと、それが正解です。
他人のお墨付きなんて要りません。
安心を求める思い自体が、仮初めの幻想に過ぎないのです。
謙虚なこころとは、素直なこころのことです。
たとえお爺ちゃんお婆ちゃんになっても、少年の心や少女の可憐さが色あせることはありません。
男はいくつになっても男子ですし、女性もいくつになっても女子のままです。
イタズラっぽく目を輝かせるお爺ちゃんや、可愛らしく笑うお婆ちゃんは本当に素敵です。
私たちは、いくつになっても変わらないのです。
素直さを包み隠す虚構に押し潰されそうになったら、サッサと脱ぎ捨ててしまうだけのことです。
まわりが何と言おうが、ハッハッハーです。
リタイアしたら第二の人生を楽しもうなんて言わずに、今、ラクになってしまえばいいのです。
何も失うものなんてありません。
なんせ最初から何も獲得してないのですから。
自我が騒ぎ立てる言葉に、何一つ真実なんてありません。
何故なら、それは「今ここ」ではない世界を叫ぶものだからです。
幻想世界の妄想でしかないわけです。
人生なんて、あっという間。
人間どんなに食べたくても、大福3個が限界なんです。
何があっても、何が起きても、まさに「だいじょ~ぶ」。
そう思えるように、私たちはこうして歳を重ねているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/80/106fc4bdee648b3469803d1a3c366b47.jpg)
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『仮面の忍者赤影』の青影の決めゼリフ。古いか~
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はじめまして
ブログ見させていただきました。
「私たちは、いくつになっても変らない」とありましたが、
同感ですね。心は歳をとらないということでしょうか。
読者登録ありがとうございました。
最近の私のブログは少し政治的発言が多かったので
訪問される方が少なくなっていましたが、勇気を頂きました。これからもヤングパワーで頑張っていきます。
よろしくお願いします。