これでいいのダ

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私たちの本当の故郷

2018-10-28 20:06:06 | 天地の仕組み (Basharサポート)
映画や小説などで、過去に戻って人生をもう一度やり直すというストーリーがあります。

あの時こうしておけば良かった、あの時あんなこと言わなければ良かった、と過去の失敗を挽回する内容です。

こうした作品は、形を変えて繰り返し何度も作られています。
それがウケるというのは、単なるエンターテイメントとしてだけではなく「他の選択をしていたらどうなっていただろうか」という思いを抱いて
いるからなのかもしれません。


「あの時の選択が違えば、まわりの景色も違うものになっていただろう」
「もっと華やかな景色に囲まれていたかも」
「もっと幸せになっていたかも」



そうした思いは純粋なものです。
今と違うものを求める思いは、変化を求めて行動を起こすための原動力になるからです。

とはいえそれは、目の前の今に対して向けられるものであって、過去に向けてしまいますと少し話がおかしくなってしまいます。

確かに昔の選択が違っていれば、まわりの景色も違うものになっていたでしょう。
ただそれは客観的な事実(つまり横並びに飾られている異なる絵画を見ているだけ)でしかなく、目に映るものが違ったからといって今より幸せ
だったかというと、それはまた別の話になります。

ここでの「華やかな景色」「今よりいい景色」というのは、たいていは仕事や家庭や人間関係といったものが明るく楽しく幸せに溢れていたり、
衣食住が充分に満ち足りている状態のことを指します。
そうなれば心おだやかにニコニコ過ごせるという論法です。

瞬間的な現象面だけ見ればそれは正しいと思えますが、私たちの心そのものが心底おだやかになったかというと必ずしもそうとは言えません。

華やかな現実に囲まれている時というのは、私たちが心の底から聖人君子になったわけではなく、単にイライラしたり悲しんだりするようなネタ
が無いだけのことです。

根本的な心の在り方というのは、まわりの景色によって変わるものではないということです。

仮に「食べ物を粗末にするのはいけない、感謝しながら汁の一滴まで残さない」という自分なりの信念があったとします。
その願いは、好きな食べ物に対してはラクラクと達成できるでしょう。
でも嫌いなものが入っていたら素直に喜べるかどうか極めて怪しくなります。

「イヤだ、いつも心から感謝していたい、だから好きな物だけ食べよう!」
そんなのは単なる偏食家、単なるお子様ランチでしょう。
いいから、体壊さないように嫌いなものでも少しは食べとけよと思うはずです。

でも、美味しい景色ばかり求めるというのはそれと同じことです。

フワフワとシャボン玉に囲まれた優しい世界。
ニコニコと喜び、感謝している自分。

それはそれで素晴らしいものかもしれません。
ただ、感謝できていることを目的化させてしまうと本末転倒になってしまいます。

どんなに景色が良くなろうとも、私たちの心そのものが今と変わることはありません。

私たちはどうしても目先の誘惑に駆られてしまいます。
仕事も家庭も苦労知らずで順風満帆になれば、自分もニコニコ温厚になれるはず、と。

繰り返しになりますが、それは心そのものが変化したのではなく、単にプラス反応を生むような刺激だけを選り好みしている状態です。
条件反射のいいとこ取りをしただけ。
お子様ランチだけ食べていれば幸せだと言っているようなものです。

いい景色になれば心も穏やかになれるという期待は、小手先の誤魔化しや単なる自己満足、果ては偽善にもなり兼ねないということです。



景色が変わることと、私たちが変わることは文字通り別次元の話です。

あの時どのような選択をしようと、私たちが今ここに居続けていること自体は変わるものではありません。
どんな選択をしようとも私たちは今ココに居るということです。

今この景色というのはたしかに、過去の原因によって顕れた結果です。(仏教でいうところの「因果」)
ですから、あの時に別の選択をしていれば確かに景色も変わったことでしょう。
でもそれは私たちの外の世界の話に過ぎません。





カタカタと映写機が一コマ一コマを写していく。
それを操作技術者が冷静に眺めている。

時にフィルムをテープで繋ぎ。
時に何もせずジーッと眺め。

しかしどんなにテープを繋いでも、コマの中に彼自身の姿が写り込むことはありません。



だからこの世界は自分で自分の姿が見えないのです。

あまりにも当たり前だと思ってスルーしていることですが改めて言います。
この世では私たちは決して自分のことを見ることが出来ません。

それは私たちは「こちら側」で、それ以外はすべて「あちら側」だからです。

それこそ当たり前と思うかもしれません。

「自分」と「自分以外」。
「内側」と「外側」という感覚。
「こちら側」と「あちら側」という感覚。


その感覚が当たり前であるならば、この先の話も当たり前だと思えるはずです。

それは「どんなに景色が変わろうとも、私たちは今ココから一ミリも動いていない」「動けないということです。

常に、今ココの自分しか存在していない。
あの時もこの時も、そして今も、ココに居る自分はこのままずっと変わっていない。

ココに居る自分があの時の景色を見ている、そへが「あの時の体験」であり、私たちの脳が「過去」として認識しているものです。

今ココに在るこの自分は、はるか何万年何億年の昔から、そしてこのさき何万年何億年たとうとも、変わらずココに在り続けている。

最初も終わりもなく、私たちというのは今ココにしか居ない。
そうしてただただ、まわりに流れる立体映像を眺めている。

死の瞬間にしても、そこにオン・オフやリセットといった断絶はありません。
まわりの景色が変わるだけのこと。
今ココの私たちは何も変わらない。

もちろん何万年何億年の時が経つにつれて、こちら側の感覚や意識はドンドン広がり深まるかもしれません。
個も全もすべて溶け合っているかもしれません。
それでも、今ココという私たちは何も変わっていないということです。

何万年何億年の昔にしても、その逆で、こちら側の感覚や意識の広がった状態からスーッと小さな点へとフォーカスしていって、その点から
広い世界を逆側から見るという流れがあったかもしれません。
それでも、今ココという私たちは何も変わっていないということです。

今ココにしか居ない自分。
ココから一歩も動かない自分。
それが目の前に映る景色から刺激を受けて、様々な反応を「内から」(=こちら側で)発生させる。

それが「この世で生きる」の全体像であるわけです。

「幸せな反応しかできない景色だけを望む」というのが、いかにナンセンスかよく分かるところです。

過去に自分は居ないし、未来に自分は居ません。
自分というのは常に「今この自分」しか居ません。

時がどれだけ経とうとも、まわりの景色がどんなに変化しようとも、私たちは一ミリも変わりません。

「今ココに生きるぞ!」なんて肩ひじ張らなくとも、そもそも私たちはそれしか出来ないのです。

今ココに集中するというのは、要は、この事実に気がつくことです。

フィルムのコマの中に自分を貼り付けず、本来の状態に素直になる。
私たちはどうあがいてもコマの中に映らないし、もうそれはそのまま受け入れてしまう。

それを別の表現で言えば、天地宇宙と一体の状態となり、心身一如となります。

天地宇宙とはフィルムのコマ全部であり、その外にある会場や映写機の全部、この空間全部のことです。
もうお分かりかと思いますが、これらは次元を一つずつ落とした表現になっています。

フィルムのコマの中に自分を意識しようとすると、他のすべてから分離して、それ以外がシャットダウンしたように真っ暗になってしまいます。

他のコマが今ココから分離して存在しているという感覚を抱いてしまうのはそのためです。
天地宇宙が大きすぎて捉えどころのない存在に感じてしまうのも、またスクリーンの外の世界が無になってしまうのも、すべてはそのためです。

そのフィルムは今ココにあります。
他のコマもすべてココにあります。
過去も未来も、すべて今ココにある。

スクリーンの1ヶ所だけに心を押し込めず、スクリーン全体を見る、全体をそのまま受け入れる。

私たちはこちら側に在り続けています。

私たちはそれしか出来ないし、この世はそういう仕組みになっている。
自然な姿、自然体とはそういうことです。

それを知れば、今ココしか無いということが、本当の意味で分かるはずです。

天地宇宙が分離する前(正しくは「分離したと仮想する前」)の、たった一つだった時というのは、今ココのこの自分だけが全てで、まわりに
流れるものは何も無い状態だったわけです。

退屈この上ないどころか、そのことすらも気がつけない状態だったと言えます。

それがあるときフト気がついた。

声とは意識。
光とは感覚。
声と光と分離は同時に起き、「今」が生まれました。


私たちのまわりに流れる景色というものが、いかにありがたいものか、尊いものか、カッコつけやフワフワした気持ちなんかではなく、心から
そう感じることができると思います。

たかだか自分一人の人生だろう、なんてちっぽけなものではないのです。

天地宇宙も、あの世も、大いなる一つも、すべては今ココにあります。




(つづく)