子供のころ、先っぽが吸盤になっている弓矢でよく遊びました。
それを打ちますとその矢は窓ガラスにピタッと貼り付いていました。
シュッ、ポン。
シュッ、ポン。
私たちも、未来の景色に心を広げることでシュッと矢が放たれポンとそこへ貼りつきます。
すると不思議なもので、あれやこれやあるにせよ、結局その結果に合うように上手く調整されていきます。
賽(サイ)が投げられれば、まるでその投げた先から私たちの手元まで目に見えない糸でも繋がっているかのように、知らず知らずのうちに
私たち自身は投げられた先へと着実に歩んでいきます。
ただそれはフェロモンの道を辿るアリの行列や、重りに引かれるカタカタ人形とは似て非なるものです。
それらは自分の意思や選択のないままヒモにただ引っ張られるだけですが、このシュッ、ポンにはそうした強制力は何も働きません。
決して、一方的に引っ張られているものではない。むしろその逆。
それは他力の風ではなく、天地の流れと一つになった私たち自身の風であるわけです。
このことを別の角度から説明したいと思います。
戦前、弓の神様と言われた達人が居ました。
阿波研造範士です。
全国大会では四日連続で全射的中という常人離れの記録で優勝して弓聖とも称されましたが、特に有名なのは二矢の話です。
それは真夜中の道場で、ほとんど何も見えない暗闇の中、一射目を的の中心に的中させた後、続いて放った二射目が、第一の矢の最後尾に当たり、
さらにそれを引き裂いて中心に当たったというものです。
そんな漫画のような作り話があるかとハナから疑ってしまうところですが、しかし理屈としてこれは確実にある話だと言えます。
私たちは、私たちという意識によって自分の範囲を決めて生きて居ます。
その意識の広がりがそのまま私たち自身になっているということです。
そして普段は、肉体という物理的な存在感により、そこまでが私たち自身と成っています。
しかし、本当の私たちは制限がない存在です。
つまり天地宇宙が私たち自身であるということです。
これを単なる観念論ではなく、現実的な感覚として話を進めていきます。
例えば、人里離れた高台に登って、緑あふれる自然を眺めているところを想像します。
空は青く晴れ渡り、心地よい風がサーッと吹き抜けます。
目の前に広がる美しい景色を見れば、誰もが清々しい気持ちになります。
この時、私たちの意識はどうなっているでしょうか。
今ここに自分が居るということも忘れ、その景色にすべてを放り出しているのではないでしょうか。
あるいは、ヒノキ造りの趣きある温泉の湯舟に、一人で静かに浸かっているところを想像します。
肌を包む温かさ、柔らかさ、鼻孔から入る湯気の香り、そのどれもがちょうどいい塩梅です。
そしてサラサラと注がれるお湯の音だけが静かに耳に入ってきます。
この時、私たちの意識はどうなっているでしょうか。
はたまた、明かりの消えた山奥で、満天の星空の下で大の字になり、空一面に天の川が鮮やかに輝いている時、私たちの意識はどうなっている
でしょうか。
体の緊張など無くなり、自分の実体も忘れ、景色の中へと溶け込んでいるのではないでしょうか。
これが本来の私たちの状態であるわけです。
もともと天地宇宙と私たちの間に境界は何もありません。
ただ、私たちが自我の思いに着地した瞬間、そこに線引きが生じているだけのことです。
もう一度、先ほどのように、山の高台から大自然を見おろす場面に心を置いてみます。
あるいは温泉の湯舟の中でもいいですし、満天の星空の下でもいいです。
今ここの自分を忘れて、天地自然にすべてを開け放している状態です。
そこでフト、仕事のことや家のことを考えると、どうなるか。
たちまち私たちの意識は普段の大きさに戻ってきます。
そして景色は同じように目に映っていながらも、心には届いていないことが分かります。
これが、線引きが作り出された瞬間です。
赤ん坊というのはその線引きがないため、広がったままの状態です。すべてを開け放しています。
私たちも、大自然の中や温泉の中ではその状態に戻ります。
広がったままにある時、私たちは天地と一つになっています。
そこには自我の壁はありません。
景色のすべてが私たちの中にあります。
物理的には離れていようとも全面一体となっています。
それはすべてが繋がっている状態と表現することもできます。
これを、弓の話に繋げていきます。
山の高台から大自然を眺望している時のフルオープンな状態。
満天の星空の下、すべてが溶け出している状態。
その感覚のまま弓を持って立ちます。
弓を持っている感触もなく、自分という存在も意識しない状態です。
そのままの状態を変えることなく弓を引き、的に心を向けます。
この時、弓を引く動作に意識を向けた途端、心は自我に戻り、天地は分離します。
あるいは「的に当てよう」と考えた瞬間、やはりそのようになります。
弓を引く時も、そして的に心を向けた時も、天地自然と溶け合い、天地が我か、我が天地か、そこに何の区切りもない感覚のまま景色は全天に
広がっています。
その広がりの中に、的も在ります。
その時点ですでに、的も、その的の中心も、私たちと一つになっています。
なぜならば弓も矢も私たちも一つに溶け合っているからです。
その状態の時というのは、広がった私たちの中に存在するあらゆるものが、一体になっています。
私たちの体に喩えるなら、腕も足も内臓もすべてが一体になっているのと同じ感覚です。
その感覚を一切変えずに、その状態のままにあれば、矢はすでに的の中心と一つになっているわけです。
しかしそこで心を少しでも変化させると、たちまち全てはかげろうの如く霧散します。
当てようという思いが生じた瞬間、心は変わります。
あるいはまた、指から矢を放つ動作を自ら起こしただけでも(矢を放そうと思っただけでも)、私たちは途端にこの肉体へと戻ってしまい、
天地自然へ溶け込んでいた一体感は露と消えます。
広がった感覚のままに、ほっておく、ホットケ、ホットケ、仏の境地が大事ということです。
私たちと、矢と、的の中心とが一つになっている時、そのままホットケば、そのあとの途中は自ずと成るように成って、的の中心に矢は突き刺さる
ということです。
積み上げ式で結果に辿り着くのではなく、まず結果があって、そこへ至る道程は上手いこと調整されていくわけです。
あらためて阿波範士の言葉を読むと、非常に明快に真実を表していることが分かります。
「腕の力で弓を引くな。心で引け。」
「引いた弓を自らの意志で放すな。『それ』が放すまで待て。」
「的を見るな。狙うな。矢は『それ』が当ててくれる。」
『それ』とは、天地宇宙へと広がっているもの、つまり本来の自分自身のことでしょう。
それに任せなさい、と。
天地宇宙に広がっている感覚へ微細にまで溶け込んでいく、一切の穢れなく一つになる。あとはそれに任せなさい。ほっときなさい。
「私は的が次第にボヤけて見えるほど目を閉じる。すると的は私に近づいてくるように思われる。そうして、それは私と一体になる。
的が私と一体になるならば、それは私が仏と一体となることを意味する。」
(弓聖 阿波研造)
今や分かると思います。
それは抽象的な禅問答などでは決して無いのです。
そしてここで今一度、冒頭の話に戻ります。
これと全く同じ話であることが分かると思います。
私たちの頭上には無限の未来が降り注いでいます。
いつ何時でもそれは変わらない真実です。
私たちが未来に向かって近づいているように見えるのは、私たちの目線から見ればそうですが、未来の方から見れば、未来そのものが私たちに
近づいていくことになります。
先ほどの話では、天地と一つになった弓聖は、その無限に広がる感覚のままにあれば、あらゆるものに心を向けることもできるし、もちろん
的の中心へ心を向けることもできました。
つまり、私たちに注ぐ数多の未来のうち、私たちも選択的にどれかに心を向けることができるということです。
そして天地宇宙に広がった感覚のまま、その未来に執着せず、心を向けたままその広がりに任せておけば、あとは何もしなくともそれは勝手に
やってくる、勝手に降り注いでくるわけです。
その途中の過程は関係ない。
的の中心と私たちがすでに一つになっていれば、あとは上手いこと調整されて、そう成っていくということなのです。
大切なのは、ただ心を向けるということでした。
あとは、ほっとくだけ。
弓でもそうであったように、心を向けた先に執着しますとその瞬間、全ては泡となって消えてしまいます。
ただ心を向ける。
その時、距離も時間も、そしてその途中の過程も突き抜けて、的の中心はすでに私たちの中にあるのです。
(つづく)
それを打ちますとその矢は窓ガラスにピタッと貼り付いていました。
シュッ、ポン。
シュッ、ポン。
私たちも、未来の景色に心を広げることでシュッと矢が放たれポンとそこへ貼りつきます。
すると不思議なもので、あれやこれやあるにせよ、結局その結果に合うように上手く調整されていきます。
賽(サイ)が投げられれば、まるでその投げた先から私たちの手元まで目に見えない糸でも繋がっているかのように、知らず知らずのうちに
私たち自身は投げられた先へと着実に歩んでいきます。
ただそれはフェロモンの道を辿るアリの行列や、重りに引かれるカタカタ人形とは似て非なるものです。
それらは自分の意思や選択のないままヒモにただ引っ張られるだけですが、このシュッ、ポンにはそうした強制力は何も働きません。
決して、一方的に引っ張られているものではない。むしろその逆。
それは他力の風ではなく、天地の流れと一つになった私たち自身の風であるわけです。
このことを別の角度から説明したいと思います。
戦前、弓の神様と言われた達人が居ました。
阿波研造範士です。
全国大会では四日連続で全射的中という常人離れの記録で優勝して弓聖とも称されましたが、特に有名なのは二矢の話です。
それは真夜中の道場で、ほとんど何も見えない暗闇の中、一射目を的の中心に的中させた後、続いて放った二射目が、第一の矢の最後尾に当たり、
さらにそれを引き裂いて中心に当たったというものです。
そんな漫画のような作り話があるかとハナから疑ってしまうところですが、しかし理屈としてこれは確実にある話だと言えます。
私たちは、私たちという意識によって自分の範囲を決めて生きて居ます。
その意識の広がりがそのまま私たち自身になっているということです。
そして普段は、肉体という物理的な存在感により、そこまでが私たち自身と成っています。
しかし、本当の私たちは制限がない存在です。
つまり天地宇宙が私たち自身であるということです。
これを単なる観念論ではなく、現実的な感覚として話を進めていきます。
例えば、人里離れた高台に登って、緑あふれる自然を眺めているところを想像します。
空は青く晴れ渡り、心地よい風がサーッと吹き抜けます。
目の前に広がる美しい景色を見れば、誰もが清々しい気持ちになります。
この時、私たちの意識はどうなっているでしょうか。
今ここに自分が居るということも忘れ、その景色にすべてを放り出しているのではないでしょうか。
あるいは、ヒノキ造りの趣きある温泉の湯舟に、一人で静かに浸かっているところを想像します。
肌を包む温かさ、柔らかさ、鼻孔から入る湯気の香り、そのどれもがちょうどいい塩梅です。
そしてサラサラと注がれるお湯の音だけが静かに耳に入ってきます。
この時、私たちの意識はどうなっているでしょうか。
はたまた、明かりの消えた山奥で、満天の星空の下で大の字になり、空一面に天の川が鮮やかに輝いている時、私たちの意識はどうなっている
でしょうか。
体の緊張など無くなり、自分の実体も忘れ、景色の中へと溶け込んでいるのではないでしょうか。
これが本来の私たちの状態であるわけです。
もともと天地宇宙と私たちの間に境界は何もありません。
ただ、私たちが自我の思いに着地した瞬間、そこに線引きが生じているだけのことです。
もう一度、先ほどのように、山の高台から大自然を見おろす場面に心を置いてみます。
あるいは温泉の湯舟の中でもいいですし、満天の星空の下でもいいです。
今ここの自分を忘れて、天地自然にすべてを開け放している状態です。
そこでフト、仕事のことや家のことを考えると、どうなるか。
たちまち私たちの意識は普段の大きさに戻ってきます。
そして景色は同じように目に映っていながらも、心には届いていないことが分かります。
これが、線引きが作り出された瞬間です。
赤ん坊というのはその線引きがないため、広がったままの状態です。すべてを開け放しています。
私たちも、大自然の中や温泉の中ではその状態に戻ります。
広がったままにある時、私たちは天地と一つになっています。
そこには自我の壁はありません。
景色のすべてが私たちの中にあります。
物理的には離れていようとも全面一体となっています。
それはすべてが繋がっている状態と表現することもできます。
これを、弓の話に繋げていきます。
山の高台から大自然を眺望している時のフルオープンな状態。
満天の星空の下、すべてが溶け出している状態。
その感覚のまま弓を持って立ちます。
弓を持っている感触もなく、自分という存在も意識しない状態です。
そのままの状態を変えることなく弓を引き、的に心を向けます。
この時、弓を引く動作に意識を向けた途端、心は自我に戻り、天地は分離します。
あるいは「的に当てよう」と考えた瞬間、やはりそのようになります。
弓を引く時も、そして的に心を向けた時も、天地自然と溶け合い、天地が我か、我が天地か、そこに何の区切りもない感覚のまま景色は全天に
広がっています。
その広がりの中に、的も在ります。
その時点ですでに、的も、その的の中心も、私たちと一つになっています。
なぜならば弓も矢も私たちも一つに溶け合っているからです。
その状態の時というのは、広がった私たちの中に存在するあらゆるものが、一体になっています。
私たちの体に喩えるなら、腕も足も内臓もすべてが一体になっているのと同じ感覚です。
その感覚を一切変えずに、その状態のままにあれば、矢はすでに的の中心と一つになっているわけです。
しかしそこで心を少しでも変化させると、たちまち全てはかげろうの如く霧散します。
当てようという思いが生じた瞬間、心は変わります。
あるいはまた、指から矢を放つ動作を自ら起こしただけでも(矢を放そうと思っただけでも)、私たちは途端にこの肉体へと戻ってしまい、
天地自然へ溶け込んでいた一体感は露と消えます。
広がった感覚のままに、ほっておく、ホットケ、ホットケ、仏の境地が大事ということです。
私たちと、矢と、的の中心とが一つになっている時、そのままホットケば、そのあとの途中は自ずと成るように成って、的の中心に矢は突き刺さる
ということです。
積み上げ式で結果に辿り着くのではなく、まず結果があって、そこへ至る道程は上手いこと調整されていくわけです。
あらためて阿波範士の言葉を読むと、非常に明快に真実を表していることが分かります。
「腕の力で弓を引くな。心で引け。」
「引いた弓を自らの意志で放すな。『それ』が放すまで待て。」
「的を見るな。狙うな。矢は『それ』が当ててくれる。」
『それ』とは、天地宇宙へと広がっているもの、つまり本来の自分自身のことでしょう。
それに任せなさい、と。
天地宇宙に広がっている感覚へ微細にまで溶け込んでいく、一切の穢れなく一つになる。あとはそれに任せなさい。ほっときなさい。
「私は的が次第にボヤけて見えるほど目を閉じる。すると的は私に近づいてくるように思われる。そうして、それは私と一体になる。
的が私と一体になるならば、それは私が仏と一体となることを意味する。」
(弓聖 阿波研造)
今や分かると思います。
それは抽象的な禅問答などでは決して無いのです。
そしてここで今一度、冒頭の話に戻ります。
これと全く同じ話であることが分かると思います。
私たちの頭上には無限の未来が降り注いでいます。
いつ何時でもそれは変わらない真実です。
私たちが未来に向かって近づいているように見えるのは、私たちの目線から見ればそうですが、未来の方から見れば、未来そのものが私たちに
近づいていくことになります。
先ほどの話では、天地と一つになった弓聖は、その無限に広がる感覚のままにあれば、あらゆるものに心を向けることもできるし、もちろん
的の中心へ心を向けることもできました。
つまり、私たちに注ぐ数多の未来のうち、私たちも選択的にどれかに心を向けることができるということです。
そして天地宇宙に広がった感覚のまま、その未来に執着せず、心を向けたままその広がりに任せておけば、あとは何もしなくともそれは勝手に
やってくる、勝手に降り注いでくるわけです。
その途中の過程は関係ない。
的の中心と私たちがすでに一つになっていれば、あとは上手いこと調整されて、そう成っていくということなのです。
大切なのは、ただ心を向けるということでした。
あとは、ほっとくだけ。
弓でもそうであったように、心を向けた先に執着しますとその瞬間、全ては泡となって消えてしまいます。
ただ心を向ける。
その時、距離も時間も、そしてその途中の過程も突き抜けて、的の中心はすでに私たちの中にあるのです。
(つづく)