これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

未来は僕等の手の中

2017-11-23 10:49:59 | 天地の仕組み
子供のころ、先っぽが吸盤になっている弓矢でよく遊びました。
それを打ちますとその矢は窓ガラスにピタッと貼り付いていました。

シュッ、ポン。
シュッ、ポン。

私たちも、未来の景色に心を広げることでシュッと矢が放たれポンとそこへ貼りつきます。

すると不思議なもので、あれやこれやあるにせよ、結局その結果に合うように上手く調整されていきます。

賽(サイ)が投げられれば、まるでその投げた先から私たちの手元まで目に見えない糸でも繋がっているかのように、知らず知らずのうちに
私たち自身は投げられた先へと着実に歩んでいきます。

ただそれはフェロモンの道を辿るアリの行列や、重りに引かれるカタカタ人形とは似て非なるものです。
それらは自分の意思や選択のないままヒモにただ引っ張られるだけですが、このシュッ、ポンにはそうした強制力は何も働きません。

決して、一方的に引っ張られているものではない。むしろその逆。

それは他力の風ではなく、天地の流れと一つになった私たち自身の風であるわけです。


このことを別の角度から説明したいと思います。

戦前、弓の神様と言われた達人が居ました。
阿波研造範士です。

全国大会では四日連続で全射的中という常人離れの記録で優勝して弓聖とも称されましたが、特に有名なのは二矢の話です。

それは真夜中の道場で、ほとんど何も見えない暗闇の中、一射目を的の中心に的中させた後、続いて放った二射目が、第一の矢の最後尾に当たり、
さらにそれを引き裂いて中心に当たったというものです。

そんな漫画のような作り話があるかとハナから疑ってしまうところですが、しかし理屈としてこれは確実にある話だと言えます。




私たちは、私たちという意識によって自分の範囲を決めて生きて居ます。
その意識の広がりがそのまま私たち自身になっているということです。
そして普段は、肉体という物理的な存在感により、そこまでが私たち自身と成っています。

しかし、本当の私たちは制限がない存在です。
つまり天地宇宙が私たち自身であるということです。

これを単なる観念論ではなく、現実的な感覚として話を進めていきます。

例えば、人里離れた高台に登って、緑あふれる自然を眺めているところを想像します。
空は青く晴れ渡り、心地よい風がサーッと吹き抜けます。
目の前に広がる美しい景色を見れば、誰もが清々しい気持ちになります。

この時、私たちの意識はどうなっているでしょうか。

今ここに自分が居るということも忘れ、その景色にすべてを放り出しているのではないでしょうか。

あるいは、ヒノキ造りの趣きある温泉の湯舟に、一人で静かに浸かっているところを想像します。
肌を包む温かさ、柔らかさ、鼻孔から入る湯気の香り、そのどれもがちょうどいい塩梅です。
そしてサラサラと注がれるお湯の音だけが静かに耳に入ってきます。

この時、私たちの意識はどうなっているでしょうか。

はたまた、明かりの消えた山奥で、満天の星空の下で大の字になり、空一面に天の川が鮮やかに輝いている時、私たちの意識はどうなっている
でしょうか。

体の緊張など無くなり、自分の実体も忘れ、景色の中へと溶け込んでいるのではないでしょうか。

これが本来の私たちの状態であるわけです。

もともと天地宇宙と私たちの間に境界は何もありません。
ただ、私たちが自我の思いに着地した瞬間、そこに線引きが生じているだけのことです。

もう一度、先ほどのように、山の高台から大自然を見おろす場面に心を置いてみます。
あるいは温泉の湯舟の中でもいいですし、満天の星空の下でもいいです。
今ここの自分を忘れて、天地自然にすべてを開け放している状態です。

そこでフト、仕事のことや家のことを考えると、どうなるか。

たちまち私たちの意識は普段の大きさに戻ってきます。
そして景色は同じように目に映っていながらも、心には届いていないことが分かります。

これが、線引きが作り出された瞬間です。

赤ん坊というのはその線引きがないため、広がったままの状態です。すべてを開け放しています。
私たちも、大自然の中や温泉の中ではその状態に戻ります。

広がったままにある時、私たちは天地と一つになっています。
そこには自我の壁はありません。
景色のすべてが私たちの中にあります。

物理的には離れていようとも全面一体となっています。
それはすべてが繋がっている状態と表現することもできます。



これを、弓の話に繋げていきます。

山の高台から大自然を眺望している時のフルオープンな状態。
満天の星空の下、すべてが溶け出している状態。

その感覚のまま弓を持って立ちます。
弓を持っている感触もなく、自分という存在も意識しない状態です。

そのままの状態を変えることなく弓を引き、的に心を向けます。

この時、弓を引く動作に意識を向けた途端、心は自我に戻り、天地は分離します。
あるいは「的に当てよう」と考えた瞬間、やはりそのようになります。

弓を引く時も、そして的に心を向けた時も、天地自然と溶け合い、天地が我か、我が天地か、そこに何の区切りもない感覚のまま景色は全天に
広がっています。

その広がりの中に、的も在ります。

その時点ですでに、的も、その的の中心も、私たちと一つになっています。
なぜならば弓も矢も私たちも一つに溶け合っているからです。

その状態の時というのは、広がった私たちの中に存在するあらゆるものが、一体になっています。
私たちの体に喩えるなら、腕も足も内臓もすべてが一体になっているのと同じ感覚です。

その感覚を一切変えずに、その状態のままにあれば、矢はすでに的の中心と一つになっているわけです。

しかしそこで心を少しでも変化させると、たちまち全てはかげろうの如く霧散します。
当てようという思いが生じた瞬間、心は変わります。
あるいはまた、指から矢を放つ動作を自ら起こしただけでも(矢を放そうと思っただけでも)、私たちは途端にこの肉体へと戻ってしまい、
天地自然へ溶け込んでいた一体感は露と消えます。

広がった感覚のままに、ほっておく、ホットケ、ホットケ、仏の境地が大事ということです。

私たちと、矢と、的の中心とが一つになっている時、そのままホットケば、そのあとの途中は自ずと成るように成って、的の中心に矢は突き刺さる
ということです。
積み上げ式で結果に辿り着くのではなく、まず結果があって、そこへ至る道程は上手いこと調整されていくわけです。

あらためて阿波範士の言葉を読むと、非常に明快に真実を表していることが分かります。


「腕の力で弓を引くな。心で引け。」

「引いた弓を自らの意志で放すな。『それ』が放すまで待て。」

「的を見るな。狙うな。矢は『それ』が当ててくれる。」



『それ』とは、天地宇宙へと広がっているもの、つまり本来の自分自身のことでしょう。
それに任せなさい、と。

天地宇宙に広がっている感覚へ微細にまで溶け込んでいく、一切の穢れなく一つになる。あとはそれに任せなさい。ほっときなさい。


「私は的が次第にボヤけて見えるほど目を閉じる。すると的は私に近づいてくるように思われる。そうして、それは私と一体になる。
的が私と一体になるならば、それは私が仏と一体となることを意味する。」

(弓聖 阿波研造)

今や分かると思います。
それは抽象的な禅問答などでは決して無いのです。


そしてここで今一度、冒頭の話に戻ります。
これと全く同じ話であることが分かると思います。

私たちの頭上には無限の未来が降り注いでいます。
いつ何時でもそれは変わらない真実です。

私たちが未来に向かって近づいているように見えるのは、私たちの目線から見ればそうですが、未来の方から見れば、未来そのものが私たちに
近づいていくことになります。

先ほどの話では、天地と一つになった弓聖は、その無限に広がる感覚のままにあれば、あらゆるものに心を向けることもできるし、もちろん
的の中心へ心を向けることもできました。

つまり、私たちに注ぐ数多の未来のうち、私たちも選択的にどれかに心を向けることができるということです。

そして天地宇宙に広がった感覚のまま、その未来に執着せず、心を向けたままその広がりに任せておけば、あとは何もしなくともそれは勝手に
やってくる、勝手に降り注いでくるわけです。

その途中の過程は関係ない。
的の中心と私たちがすでに一つになっていれば、あとは上手いこと調整されて、そう成っていくということなのです。

大切なのは、ただ心を向けるということでした。
あとは、ほっとくだけ。
弓でもそうであったように、心を向けた先に執着しますとその瞬間、全ては泡となって消えてしまいます。

ただ心を向ける。
その時、距離も時間も、そしてその途中の過程も突き抜けて、的の中心はすでに私たちの中にあるのです。


(つづく)





意識の大きさが世界の大きさ

2017-11-08 19:28:01 | 天地の仕組み
日々の生活が窮々(きゅうきゅう)になると、私たちの意識はどんどん小さくなっていきます。

それは誰が悪いでもなく、自分ではどうしようもない底なし沼のようなものです。


会社では次々と押し寄せる仕事に追われ、終わることのない詰め込みの中を走り続け、夜には酸欠になって倒れてしまう。

家では山積みの家事に追われ、ゴールの見えない一本道をうなだれながら黙々と進み続ける。

外でも内でも「休みたいがために走る」という矛盾の中であがき続ける。



何かに追われてしまうと、心はギュウギュウに小さく押し潰されてしまいます。

たとえ心配ごとが無くとも、次々と降り注ぐ仕事を片っ端からやっつけているうちに、私たちの意識は机の上という小さい世界の中でどんどん
狭(せば)まっていきます。

世の中がどうだとか、天地宇宙がどうだとか、そんな遠くのことまで気が回らないほどにギュウギュウに圧縮されていくと、ついには日々の生活
や人生へと心が行き届かなくなり、そうしたことがどうでも良くなっていきます。

これは学校生活に絶望して追い込まれる中高生たちにも当てはまる流れです。
意識の広がりが教室や部活という狭いエリアで止まってしまっている。世界というものが小さくなってしまっている。そうして心が窮して、
世界に絶望してしまうという流れです。

「ガムシャラに走り続ける」
「身を粉にして働く」

そうしたものは昔からあったことです。
にも関わらず、今それと同じようにしても、心や体を壊す人があとを絶ちません。

でもそれは決して個々の強さ弱さによるものではありません。
そこにはただ、意識の違いがあるだけです。

目の前のことに集中している。
ムチ打ってバリバリ働く。
それは今も昔も同じ。
ただ昔は、家電や車、マイホーム、豊かな生活といった夢や希望があり、国や我が家がどんどん幸せに溢れるという感覚がありました。

別に欲得のことを言っているのではありません。
これは、心の景色の広さのことです。

しかしそんな景色が最初から身近にそろってしまっている現代では、輝くような夢や希望は無くなり、ただ生きていくために働くという状態に
なりました。

気持ちを大きくもってバリバリやるのと、何もないままバリバリやるのとでは、疲れ方が全く違うのは知っての通りです。

必死のパッチや「今に集中」というのが大事だと以前から書いておりますが、勘違いしやすいのは、心や意識が閉じたままガリガリやるのは
「今に集中」という状態では無いということです。

それはただガス欠にムチ打つ、不完全燃焼での、やっつけ作業でしかありません。

何故そのようになってしまうかというと、目の前に映る一つ一つに心がクローズされて(閉じられて)しまうからです。

それが単発のものであれば、心はすぐ元の「開かれた状態」へと戻ります。
ですから、たまに忙しい分には、私たちはすぐに正常な状態に戻れるわけです。

しかしそうしたものが立て続けにやってくると、一つ一つの物事にフォーカスする心が常態化してしまい、たとえ仕事から解放されても、心は
窮したままとなってしまいます。

これは私たちが悪いのではなく、そのような環境に置かれれば誰だってそうなるのも仕方ないことだと言えます。

そして真面目な人ほど、その苦境をさらにドロ沼化させることになります。

不満を思ってはいけない、逃げてはいけない、耐えねばいけない、黙々と「今に集中」だ、グルジェフワークだ、ストレスこそが覚醒への道だ…
と。

しかし一歩間違えるとそれは、やって来るものをただ機械的にこなし、流れて来るものを口を開けて無理やり飲み込むだけの状態になる恐れが
あります。

ツラくともシンドくとも耐え続けてただ飲み込んでいればいつか道は開ける、いつか解放される、、、
そのような考えはとても危険なものです。

受け身であり続ける限り、意識はどんどん小さくなっていきます。
それは「今に集中」などではなく、萎縮そのものです。

そして改めて言わなくてはならないのが、クローズ、収斂、萎縮、閉塞というのは「ネガティヴな流動」の特性であるということです。




ここからは、オープン・開放を特性とする「ポジティブな流動」について触れていきたいと思います。

(本来ポジティブやネガティヴにどちらが良い悪いというものはありませんが、今日は一つの方便としてお伝えします)


「今に集中」というのは、意識の広さがあって初めて成立します。

ひとつ例をあげてみます。
いま、ドイツの物価が高くなっているのだそうです。

え?そんなこと私たちにとって何の関係もないことじゃないか?
普通なら、そう思って気にもとめないところです。

確かにそのこと自体に、今ココとの関係性は何もありません。

でも物理的、構造的に繋がっているかどうかなど実はどうでもいいことで、それよりも意識として繋がっているかどうかの方が遥かに重要な
ことだと言えます。

私たちの意識が遠くドイツまで広がっているということが大きいわけです。

へぇー、どうしてなんだろう。
フト思う、たったそれだけのことがとても大きなことに成ります。

同じようにまた、大宇宙の果ての出来事に好奇心を持ったり、極小のミクロの世界に興味を持つということも、やはり意識の拡大そのものだと
言うことができます。

ソツなく生きていくには、自分に関係性がある事柄だけ気を止めていればいいように思えます。
でも関係性のある事柄というのは、私たちの生活範囲のすぐ近くにある、ある意味とても狭い世界の中のことです。

そうした利害関係を抜きにして、自分に関係あろうが無かろうが、フト関心を持つ、興味を持つ、心を向ける。
それが、世界の大きさとなり、日々幾万ものストレスに押し潰されている私たちにとって極めて大切なことになります。

もし、そんなことはどうでもいい、となってしまうと私たちの意識は本当に小さいものとなってしまいます。

そして意識が小さくなると目の前のゴチャゴチャしたことにいちいち振り回されてしまい、そのつど心は閉ざされていきます。
それがひどくなりますと、天地宇宙からの隔絶が深まっていき、ついには生きることがツラくなっていきます。

誤解があるといけないので補足しますが、全く興味もないのに宇宙のことやミクロの世界のこと、海外のことに無理して心を向けろと言って
いるのではありません。

ここで言っているのは、意識の大きさというのは、私たちの関心がどこまで広がっているかに関係してくるということです。

先の選挙にしても無投票というのは無関心そのものであり、私たちの意識はこの小さな殻に閉じこもったままということになります。

本当に一つ一つの些細な出来事が、私たちの意識の広がりに直結していきます。

意識の広がりとは「私たちの」世界そのものです。
意識が小さくなることは、私たちの世界が小さくなることに他ならないということです。



当然それは空間的なものに限らず、時間的なものについても同じことが言えます。

将来に対して何のイメージも抱かず、ただ足下の一歩一歩だけを見て進む。あるいは足元も見ずにただ進む。
これもまた「今に集中」などではなく、ただ目をつぶってやたらめったらアクセルを踏んでいるようなものです。

「目の前の一歩しか見えない」のと「目の前の一歩だけ見る」というのは似て非なるものです。

前者は無意識のうちに、今への固執を強めることになります。
未来は変わるどころか、むしろ変わらないように頑張ってしまっている。
今がツラく苦しかったとするならば、5年後も10年後も今のままということになります。

未来に対して何かしらのイメージを抱く、夢を思い描く、そうした心の広がりを持ってから足元の一歩一歩を進む。
それこそが、時間的な意識の広がりです。
昭和のガムシャラと平成のガムシャラの差はそこにあります。

といって、常に将来を描きつづける必要などはありません。
はるか遠くばかり見ながら歩いたら、足元お留守で蹴つまずくだけ。登山であれば滑落するでしょう。

「ふと立ち止まって遠くをサーッと眺める。そうしたあとは一歩一歩、足元だけに集中する」
まさに人生は登山と同じです。

自分ではなかなか気がつきにくいことですが、心を閉じたまま黙々と進むのは、決して、天地に任せた状態ではありません。
それはただ波風に翻弄される落ち葉でしかありません。

そんな状態で、天地が私たちをベストな道へ導いてくれるなんていうのは単なるファンタジーです。

しかし真面目に過ぎると、行く先を一瞥(いちべつ)することもせず、下だけを見て延々と一歩一歩を進み続けてしまいます。
どこに向かっているのか、どこを歩いているのか分からぬまま、この世は他力の風が吹いているのだと信じて。

天地に任せた状態と、無責任な放任の状態は全くの別物です。
自我に流されないことを履き違えて、自らを放棄してしまいますとトンデモないことになります。

「天地宇宙に任せる」という時に、天地宇宙を自分の外にあるものとして相対化してしまうのは誤ったイメージです。

私たちは天地宇宙の中の小さな点ではありません。
天地宇宙に大きく広がっているのが本当の私たちであり、結果として中心の一点が今ココに定まっているというのが真実です。

私たちが天地宇宙へと意識を大きく広げて初めて、天地の風や波に乗ることが出来ます。

閉じたままの状態では、私たちは天地宇宙から隔絶してしまいます。
そこに天地の波風は存在しないということです。




意識の大きさというのは、武道などの身体操作においてハッキリと違いが現れます。

自分の肉体へと心を集中させると、身体機能は途端に脆くなります。
それは心がその狭さへとクローズ(閉じて)してしまうからです。
それは集中などではなく執着に他なりません。

簡単な例では、片足立ちでその違いを感じることができます。

たとえば「左足を上げてバランスを取って」と左足に意識を向けながらやると大抵はグラつくものです。
しかし、ただ遠くを眺めてそのまま片足をあげると誰でもスンナリあがります。

それは意識が遠くへと広がっている状態だからです。
心が広がれば広がるほど、自ずと中心がビシッと定まっていきます。

これは、やじろべえが長い両腕でバランスを取るのと同じ原理です。
まさにそれこそが集約であり、集中であるわけです。

あるいは、相手を投げる場面でも同じことが起きます。
その相手に集中しようとすると、たちまち相手は重くなります。
それは集中ではなく執着ということです。

相手ではなく、遠くの景色まで心を広げますと、そこに居る相手はラクラク投げることができます。これが本当の集中であるわけです。

心が広がれば中心が定まります。

私たちがこの世界に心を広げ、過去未来へと心を広げた状態にあれば、自ずと今ココに心は集約されていきます。

まずはそうした心の状態にあって、それから押し寄せて来る仕事をバシバシ片付けていくというのが、今ココへの集中であり、必死のパッチと
なるわけです。

小さな意識に閉じたまま一つ一つをやっつけていく、という受け身の状態では、私たちの心はどんどん押し潰されていきます。

空間も時間も大きく広げた感覚のままで目の前の一つ一つをやっつけていく時、私たちはあらゆるものを私たちの中に包み込んだ状態
なっています。


怒涛のように押し寄せる仕事も家事も、外から来るのではなく、私たちの内にある状態となります。

意識の大きさというのは、その場その時になって急ごしらえにイメージするような付け焼き刃では、すぐに立ち消えてしまいます。

常日頃からどれだけ開いているか、どれだけ自分への執着を手放しているか、ということに尽きます。

言い方を変えれば、自分以外のことにどれだけ接しているか、どれだけ関心を持っているか。
自分に関係のないことや他者に対してどれだけ心を向けているか。

意識の大きさというのは、その積み重ねによって自然のうちに成っていく状態であるわけです。

ですから、仕事や家事で窮々(きゅうきゅう)に成ってしまった時には、大自然に触れたり、仕事とは全く関係のない人たちと会話したり、
海外で起きていることに耳を傾けたり、過去の日本の歴史を紐解いてみたり、将来やってみたいことに思いを馳せたり、あるいは宇宙のことや
ミクロの世界に想像を膨らましてみるのがいいということです。

今ココと掛け離れれば掛け離れているほどイイ。距離があるほどイイ。
心が広がるほどに今ココはビシッと定まっていきます。


そこでまた誤解しがちなのが、そのようにして定まった今ココが「不動」のものだと捉えてしまうことです。

今の瞬間がビシッと固まったものだとイメージしてしまうと、それだけで心は不自由な重さに縛られてしまいます。

今の一片を切り出しても、それは常に躍動に溢れています。
今という瞬間は、止まった状態などではなく、大きく流動している状態にあります。

何故ならば、そもそもこの天地宇宙というのが躍動そのものだからです。

時間や空間、物質、あらゆる存在は「流動」が姿形となって顕現したものです。
無限の流動こそが、この天地宇宙の時空の実体です。
止まったものは実体として存在できていないということです。

この世とは躍動そのもの。
今ココというのは躍動そのもの。


何かをしている最中(〜ing)というのが今ココそのものであり、それを神道では今中と呼んでいるわけです。

今ココというのは常に何かをしている真ん中にあります。
過去から未来、ミクロから大宇宙へ、時間も空間も大きく広がった状態にあって、そのド真ん中が私たちであり、それがまさしく「今中」で
あるわけです。

閉じた状態というのは天地宇宙の理に反します。
この世の存在とは躍動そのものであり、すべからく開いた状態にあります。

閉じた状態に押し込められると、生きているのもツラくなるのは自然の摂理であるわけです。

意識の広がりというのは、心の開き度合いに比例します。
だから、私たちが何かに関心を持つことが意識の広がりに繋がっていきます。

自分のことだけに心が向いている限りは、私たちの天地宇宙はそれだけのものにしかなりません。
それは早々にガス欠を起こしてしまうことを意味します。

“自分のことしか考えないのは良くない、他人のことを思いやりましょう、親身になりましょう”
というのは綺麗事でも何でもなく、この世の真理だったということです。

そもそも天地宇宙とはフルオープンに開かれた流動体です。
その無限に吹き抜けるエネルギーが、天地宇宙を今のような形でもって存在たらしめています。

私たちもまた天地宇宙そのものです。

フルオープンに開かれた流動体というのが私たちの実体であり、無限に吹き抜けるエネルギーが私たちそのものであるわけです。

天地宇宙と同じように、自分以外の「人・モノ・こと」に対して心を向ける。自分自身のこと以上に心を開く。手を差し出す。


それが、私たちという存在の、本来の姿なのです。