戸隠・諏訪の旅では、日なたというのは、幾千万の日蔭の結晶だということを知りました。
〜 目に見えるものは、目に映らないものによって支えられている。
日蔭のかがやきが詰まり詰まって、ついに飽和しきったときに現実という結晶が現れる 〜
では、その現実、いま私たちの目に映る景色とはどんなものでしょうか。
いくつか幸せはあるけど、それより多くの不幸や苦しみを山ほど感じてしまったら、どうすればいいのでしょう。
幸せがあるならそこに心を向けて感謝すればいいと簡単に言いますが、不幸な出来事や苦しい状況自体が無くなることはありません。
たとえ幻想であったとしても、それは今そこに確実に在るからです。
そして私たちは、気にしないようにしようと思うほど、余計に気にしてしまいます。
見ないようにするのは解決にはならないわけです。
不幸にしても不満にしても確かに私たちが作り出したものですから、そんなものはレッテルでしかないというのは事実でしょう。
でも一度作られた概念というのは理屈なんかで簡単に消えるものではありません。
ならば諦めてしまえばいい、受け入れてしまえばいいとなりますが、嫌なものはやっぱり嫌なのです。
頭で考えて割り切れるようなものではないわけです。
それでも力づくでやろうとしてしまうと、最悪なスパイラルに落ち込んでしまいます。
上っ面の我慢というのは沸々と空焚きの不完全燃焼を起こして、黒煙が身体のあちこちへモクモクと漏れ出すことになって
しまいます。
私たちが表層意識のところで何かをしようとしても、その遥か深部で、パブロフの条件反射が働いて、悶々としたエネルギーが
不満・不幸へと注がれてしまいます。
元栓が出っぱなしなのですから、ひとたび出てしまったものを抑えつけてたところで苦しみにしかならないのは当然の話です。
出ているものは、今さら引っ込めようがない。
しかも「いま」というのは、「いま」この瞬間に出ているものを見ることができません。
すでに出てしまっているものを自覚するだけなので、常に後追いの連続になってしまいますので、止めようがない。
出るのは出るにまかせるしかない。
つまり、嫌なものは嫌でイイのです。
それを「嫌に思ってはいけない」と考えるからややこしくなるわけです。
要は、その行き先、方向を変えてしまえばいい。
日蔭が積もり積もって、日なたとなって表れると言いました。
そのように結実した「現実」というのが日なたでありました。
しかし、その現実が光り輝かず灰色であるために
私たちはガックリしたり、悲しみ苦しみを感じてしまっています。
でも、現実が明るく輝いてなくてはいけないなんて、誰が決めたのでしょう。
実際、いま灰色に感じているものを、本当は光り輝くものなんだと頭で考えても、現実の画像変換を起こすのは、まず無理に近い
ことです。
そりゃ結果的にそのようになることはあるでしょうが、それは根っこの部分が激変した時に起きることで、表層からのアプローチで
それを夢見るのはイチローに憧れて今からメジャーを目指すようなものです。
つまり、本気で信じきれば実現するにしても、では今から本気でメジャーに行けると信じきれる人がどれだけ居るかということです。
続ければ叶う、信じれば叶う、と唱え続けているうちはどこかに疑いがあります。
それもかなり深いところにです。
それは苦しみでしかないでしょう。
「明るいはずのものが暗い」と思うから、不幸を感じたり、不満が生じます。
最初から、灰色は灰色なのです。
この世の現実とは、目には見えない日蔭が無限に集まって結実したもの、いわば日なたでありますが、その日なたの中にもさらに
日なたと日蔭があるわけです。
ありとあらゆる不幸や苦しみ。
そうしたものを、悪いものだとか、無くしたいと思うからシンドくなる。
でも、それもまた無限の日蔭の一つでしかないとすればどうでしょう。
そう、目の前の灰色の現実は、日蔭そのものであるのです。
日なたというのは、日蔭が詰まり詰まってこれ以上ないというくらいになって初めて結実するものでした。
まさしく詰まり詰まっていく過程が今この時であるわけです。
不幸や苦しみ、それが詰まり詰まって、幸福や喜びが結晶化する。
不幸や苦しみとは、幸福や喜びの素材だったわけです。
変換したり反作用が働いたりして全く違うものになるのではなく、それそのままで集まり集まると幸福や喜びと成る。
いま不幸や苦しみだらけで、それが一向に減らない。
それどころかますます増えていく…
それでイイということです。
いまシンドいのは、それが詰まり詰まっていく過程なわけです。
「今までもずっとそうだった、明日も明後日もずっと灰色だ」と思ってしまってイイのです。
だってガンガン詰まり詰まんないと日なたにならないんですから。
不幸も苦しみも、日なたが現れるための、素材、ひとかけら。
そう考えると、もう諦めの極致です。
期待など無い。
それが、受け入れるということです。
ずーっと日なたを歩きたいと思うのは、無い物ねだりというものです。
それが当たり前だなんていうのは大いなる勘違い。
それはこの天地自然の半分、いや、億万分の1を歩くことにしかなりません。
日なたばかりを見ようとするのは、実は、足元を見ないことに他なりません。
「今」というのが日蔭であるならば、その日蔭を見ることが「今」に生きることです。
決して精神論や綺麗事なんかでなく、不幸も不満も、幸福のための材料。
反動によってとか、考え方次第とかではなく、それがそのまま幸福を形成する素材。
わざわざ変換させる必要などなく、見たまんま、灰色のままで、そうであるわけです。
それは新星が生まれるためのガスやチリと同じものかもしれません。
この宇宙では、モヤモヤとしたガスとチリが高圧の状態で詰まり詰まったところに新星というひときわ明るい輝きが生まれます。
不幸や苦しみのモヤモヤが詰まり詰まって幸福と成る。
まさしく陰極まって陽となる。
そのことを理解して初めて、不幸や苦しみを諦められる。
もう、しゃーないと思える。
つまり、そのままの姿を受け入れるようになるということです。

目の前のモヤモヤや悶々というのが日蔭であるならば、それは取りも直さず、おかげさまということになります。
といって、それを今すぐ感謝するというのは無茶な話です。
もしそれが出来てしまったら、それは自己暗示の洗脳か、優等生的なカッコつけでしかありません。
ですから、そんな感謝を追う必要はありません。
ただ、この目の前のモヤモヤが、新しい星の輝きを生み出すための材料なのだと考えてみるだけならできるはずです。
そのように思うことが、モヤモヤをそのまま受け入れることになります。
それだけで十二分ということです。
嘘偽りのない、今できる全てがそれであるわけです。
不幸だと思っていい、苦しいと思っていい、悲しいと思っていい。
今の自分に100パーセント素直になることが、何よりも大切なことです。
今の自分を否定するから余計苦しくなる、非難するから居たたまれなくなる。
それが目の前の現実を嫌うことになって、ますますシンドくなる。
目の前の不幸や苦しみはすべて、日なたの生まれる材料そのものです。
そして、今の自分もまた、積もり積もって日なたが生まれるための材料なのです。
決して後退などしていないし、何も失ってなどいません。
むしろ詰まり詰まっていく過程であって、今これが無ければ、日なたの輝きは生まれはしない、今この日蔭の自分が居なければ
明日の自分は生まれてこないのです。
今この現実は、今のままでいい。
今この私たちは、今のままでいい。
日陰は日陰のままで、かがやきそのものなのです。


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〜 目に見えるものは、目に映らないものによって支えられている。
日蔭のかがやきが詰まり詰まって、ついに飽和しきったときに現実という結晶が現れる 〜
では、その現実、いま私たちの目に映る景色とはどんなものでしょうか。
いくつか幸せはあるけど、それより多くの不幸や苦しみを山ほど感じてしまったら、どうすればいいのでしょう。
幸せがあるならそこに心を向けて感謝すればいいと簡単に言いますが、不幸な出来事や苦しい状況自体が無くなることはありません。
たとえ幻想であったとしても、それは今そこに確実に在るからです。
そして私たちは、気にしないようにしようと思うほど、余計に気にしてしまいます。
見ないようにするのは解決にはならないわけです。
不幸にしても不満にしても確かに私たちが作り出したものですから、そんなものはレッテルでしかないというのは事実でしょう。
でも一度作られた概念というのは理屈なんかで簡単に消えるものではありません。
ならば諦めてしまえばいい、受け入れてしまえばいいとなりますが、嫌なものはやっぱり嫌なのです。
頭で考えて割り切れるようなものではないわけです。
それでも力づくでやろうとしてしまうと、最悪なスパイラルに落ち込んでしまいます。
上っ面の我慢というのは沸々と空焚きの不完全燃焼を起こして、黒煙が身体のあちこちへモクモクと漏れ出すことになって
しまいます。
私たちが表層意識のところで何かをしようとしても、その遥か深部で、パブロフの条件反射が働いて、悶々としたエネルギーが
不満・不幸へと注がれてしまいます。
元栓が出っぱなしなのですから、ひとたび出てしまったものを抑えつけてたところで苦しみにしかならないのは当然の話です。
出ているものは、今さら引っ込めようがない。
しかも「いま」というのは、「いま」この瞬間に出ているものを見ることができません。
すでに出てしまっているものを自覚するだけなので、常に後追いの連続になってしまいますので、止めようがない。
出るのは出るにまかせるしかない。
つまり、嫌なものは嫌でイイのです。
それを「嫌に思ってはいけない」と考えるからややこしくなるわけです。
要は、その行き先、方向を変えてしまえばいい。
日蔭が積もり積もって、日なたとなって表れると言いました。
そのように結実した「現実」というのが日なたでありました。
しかし、その現実が光り輝かず灰色であるために
私たちはガックリしたり、悲しみ苦しみを感じてしまっています。
でも、現実が明るく輝いてなくてはいけないなんて、誰が決めたのでしょう。
実際、いま灰色に感じているものを、本当は光り輝くものなんだと頭で考えても、現実の画像変換を起こすのは、まず無理に近い
ことです。
そりゃ結果的にそのようになることはあるでしょうが、それは根っこの部分が激変した時に起きることで、表層からのアプローチで
それを夢見るのはイチローに憧れて今からメジャーを目指すようなものです。
つまり、本気で信じきれば実現するにしても、では今から本気でメジャーに行けると信じきれる人がどれだけ居るかということです。
続ければ叶う、信じれば叶う、と唱え続けているうちはどこかに疑いがあります。
それもかなり深いところにです。
それは苦しみでしかないでしょう。
「明るいはずのものが暗い」と思うから、不幸を感じたり、不満が生じます。
最初から、灰色は灰色なのです。
この世の現実とは、目には見えない日蔭が無限に集まって結実したもの、いわば日なたでありますが、その日なたの中にもさらに
日なたと日蔭があるわけです。
ありとあらゆる不幸や苦しみ。
そうしたものを、悪いものだとか、無くしたいと思うからシンドくなる。
でも、それもまた無限の日蔭の一つでしかないとすればどうでしょう。
そう、目の前の灰色の現実は、日蔭そのものであるのです。
日なたというのは、日蔭が詰まり詰まってこれ以上ないというくらいになって初めて結実するものでした。
まさしく詰まり詰まっていく過程が今この時であるわけです。
不幸や苦しみ、それが詰まり詰まって、幸福や喜びが結晶化する。
不幸や苦しみとは、幸福や喜びの素材だったわけです。
変換したり反作用が働いたりして全く違うものになるのではなく、それそのままで集まり集まると幸福や喜びと成る。
いま不幸や苦しみだらけで、それが一向に減らない。
それどころかますます増えていく…
それでイイということです。
いまシンドいのは、それが詰まり詰まっていく過程なわけです。
「今までもずっとそうだった、明日も明後日もずっと灰色だ」と思ってしまってイイのです。
だってガンガン詰まり詰まんないと日なたにならないんですから。
不幸も苦しみも、日なたが現れるための、素材、ひとかけら。
そう考えると、もう諦めの極致です。
期待など無い。
それが、受け入れるということです。
ずーっと日なたを歩きたいと思うのは、無い物ねだりというものです。
それが当たり前だなんていうのは大いなる勘違い。
それはこの天地自然の半分、いや、億万分の1を歩くことにしかなりません。
日なたばかりを見ようとするのは、実は、足元を見ないことに他なりません。
「今」というのが日蔭であるならば、その日蔭を見ることが「今」に生きることです。
決して精神論や綺麗事なんかでなく、不幸も不満も、幸福のための材料。
反動によってとか、考え方次第とかではなく、それがそのまま幸福を形成する素材。
わざわざ変換させる必要などなく、見たまんま、灰色のままで、そうであるわけです。
それは新星が生まれるためのガスやチリと同じものかもしれません。
この宇宙では、モヤモヤとしたガスとチリが高圧の状態で詰まり詰まったところに新星というひときわ明るい輝きが生まれます。
不幸や苦しみのモヤモヤが詰まり詰まって幸福と成る。
まさしく陰極まって陽となる。
そのことを理解して初めて、不幸や苦しみを諦められる。
もう、しゃーないと思える。
つまり、そのままの姿を受け入れるようになるということです。

目の前のモヤモヤや悶々というのが日蔭であるならば、それは取りも直さず、おかげさまということになります。
といって、それを今すぐ感謝するというのは無茶な話です。
もしそれが出来てしまったら、それは自己暗示の洗脳か、優等生的なカッコつけでしかありません。
ですから、そんな感謝を追う必要はありません。
ただ、この目の前のモヤモヤが、新しい星の輝きを生み出すための材料なのだと考えてみるだけならできるはずです。
そのように思うことが、モヤモヤをそのまま受け入れることになります。
それだけで十二分ということです。
嘘偽りのない、今できる全てがそれであるわけです。
不幸だと思っていい、苦しいと思っていい、悲しいと思っていい。
今の自分に100パーセント素直になることが、何よりも大切なことです。
今の自分を否定するから余計苦しくなる、非難するから居たたまれなくなる。
それが目の前の現実を嫌うことになって、ますますシンドくなる。
目の前の不幸や苦しみはすべて、日なたの生まれる材料そのものです。
そして、今の自分もまた、積もり積もって日なたが生まれるための材料なのです。
決して後退などしていないし、何も失ってなどいません。
むしろ詰まり詰まっていく過程であって、今これが無ければ、日なたの輝きは生まれはしない、今この日蔭の自分が居なければ
明日の自分は生まれてこないのです。
今この現実は、今のままでいい。
今この私たちは、今のままでいい。
日陰は日陰のままで、かがやきそのものなのです。


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