これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

未知を選ぶ

2018-04-27 08:17:56 | 天地の仕組み (Basharサポート)
シリア情勢や北朝鮮問題で世界が揺れています。

西ではロシアと欧米の睨み合いが続き、東では中国とアメリカの睨み合いが続き、冷戦時代よりもキナ臭い雰囲気が漂っています。

その一方で国内は、自己保身と自己満足的な善悪に囚われるあまり、国の安全をないがしろにしてまで政権の足を引っ張ろうとする不浄に溢れて
います。

さらに国土は沸々とうごめき始め、いつ大地震や大噴火が起きてもおかしくない状態となっています。

そのどれもがあまりに大きな話すぎて、一市民としては如何ともしがたい。成るようにしか成らない。諦めるしかない。。。
そのように思ってしまうところかもしれません。

でも少し待って下さい。

この世は、いつ何どきであろうと、あらゆる方向へと広がっています。
それは5、6本のレールが敷かれているような景色ではなく、360°満遍なく広がる大平原であるわけです。

そこには「無理」とか「大丈夫」というような色分けは何一つ存在していません。

量子力学ではパラレルワールド(多次元宇宙)の存在が予測されています。
今この世界この宇宙というのは足の裏の一点です。
そして一歩先に360°広がる平原こそが、あらゆるパラレルワールドに相当します。

つまり目の前に踏み出した一歩が、先ほどとは異なる別宇宙になるわけです。

これは物理的な一歩についても当てはまることですが、ここでは心の一歩のほうについて話を進めていきます。

色々な宇宙がどこか遠くに存在しているということではなく、目の前に存在している。
それが多次元宇宙の意味です。
目の前の景色に高次元が畳み込まれていることは数学的にも証明されています。

考えられる限りのあらゆるパターンがすでに存在しており、それらは重なり合うようにして繋がっている。バラバラの存在では無いということです。

三次元の空間が重なり合って四次元になる。
四次元の時空が重なり合って五次元になる。
それは物理的なこの世の説明にもなっていますし、同時に時間的なこの世の説明にもなっています。

空間というものを連続性として捉えればそれが時間という概念になるだけのことですから、多次元の話をする時には、時間も空間も同じものと
なります。

つまりはどういうことかというと、多次元宇宙といった場合、物理的なものが複数存在していると同時に、時間の流れとしても複数が存在して
いることを意味するわけです。





多次元宇宙を「並行宇宙」と表現してしまうと、決して交わらない別々の存在をイメージしてしまいます。
しかし実際は網の目のように重なり合っています。

電車に乗っている私たちにはひたすら真っ直ぐ進んでいるように見えますが、実際はあらゆる方向に走る網の目の上を、常に自由自在にポイント
チェンジしているわけです。

その自由自在さを許可するもしないも、全ては機関士たる私たち自身にかかっています。
私たちは決してボケーッと座るだけの乗客では無いのです。

ここが一番肝心なところです。

「列車の行く先は分からないし、自分にはどうにもならない」と思った瞬間、私たちは客席でスヤスヤ眠る一乗客と化します。

世界情勢や国内情勢、はたまた天地の災害も、それが他人事になってしまった瞬間、私たちは未だ眠り続ける家畜と化します。

この世界は常に、いつ如何なる時も、私たちを中心に回っています。

今この瞬間も、私たちが天地宇宙の中心です。


ですから意識するしないに関わらず、「どのパターンを選ぶか」「どの道を選ぶか」を、全ての瞬間で私たちは選択しているということです。

怠惰を貪っていようと、あるいは深い眠りについていようと、私たちは必ず選択を続けています。
それこそ「成るようにしか成らない」とか「諦める」という選択を、常にし続けているわけです。

「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」「諦める」…
という具合にです。

そのことが頭までいちいち上がってこないので自覚しないだけで、実際は心で毎瞬その判断が継続されています。

一瞬たりと選択のない瞬間はありません。
毎瞬毎瞬、必ず選択をしています。


この世に存在している限り、私たちは必ず何らかの選択をし続けているのです。

といって、ここで「だからこそポジティヴな選択をしよう」などと言うつもりはありません。

それがポジティヴな方向だろうが、ネガティヴな方向だろうが、実はどちらでも構わない話です。
ポジティヴでなければいけない、なんてことは有りません。

ポジティヴがいいように思われているのは、その方が変化に富んでいるからです。
そして、いわゆる苦しみや悩みから離れやすいからです。

でも悩みや苦しみをネガティヴに捉える必要はありません。
そもそもネガティヴを忌み嫌うこと自体がおかしなことなのです。

ネガティヴもポジティヴも単なる後付けの固有名詞、ただの概念でしかありません。

右寄りだろうと左寄りだろうと、私たち自身が何か変わったわけではない。
ネガティヴでもポジティヴでも本当にどっちでもいいのです。

「無限の並行宇宙が存在しているのに今はこんな苦しみの中にいる」
「嗚呼そのような選択をしてしまっている自分は何てダメなんだー」
「せっかくの今世を無駄にしてしまっている」
「申し訳ない」「もったいない」「これではいけない」


なんて考えること自体、無意味なのです。

どれでもOK。どの道でもOK。
道を変えずにそのまま行くのもOK。

大切なのは「この世界にはあらゆる選択肢がある」という事実をしっかり認識することです。

「私たちは常に選択し続けている」「今のこの状態こそが自ら選択したもの」「次の状態も自ら選択するもの」と理解することが何より大事で
あるわけです。
それ以外のことはオマケでしかありません。

中でも、ポジティヴがいいとかネガティヴが悪いとか、いちいち白黒判断して一喜一憂する心グセこそが最も余計なオマケと言えます。

それこそが、遥か手前で私たちを堂々めぐりさせて本質に辿り着かなくさせてしまっている元凶だからです。



私たちは無意識のうちに、選択肢は限られていると思い込んでいます。
内容によっては、ハナから不可能だとして、選択肢そのものが無いと自動判定してしまいます。

私一人が祈っても何も変わらないと思えば、何も変わりません。
それは変わらない世界へ参加したからです。

私一人でも祈れば変わると思えば、確実に変わります。
それは変わった世界へ参加したからです。

私たちは常に選択と参加を繰り返しています。

もちろん、一歩で完成された理想世界へ瞬間移動するなんてことは有り得ません。
私たちはそれをよく分かっています。
分かっているあまり「だから現実が変わるはずない」と無意識のうちに全否定をしてしまい、一歩目すら踏み出さなくなっています。

しかし実際は、網の目に広がる平原の「一歩」で、どちらの世界へ繋がっていくかが決まっています。

そこへ行くには自分たった一人がその一歩を選べばいいだけなのです。

その一歩を選んだとしても、そこにある景色は先ほどと何の変化もありません。
何の実感も伴いません。

そこで「やっぱり変わらないじゃないか」とガッカリするとどうなるでしょうか。

それは無意識のうちにわざわざ元の方向に引き返すことになります。
当然その先には何も変わらない世界が続くことになります。
何も変わらない道を選択し直してそこへ参加したからです。

せっかく新たな一歩を踏み出しても、私たちはそのようなことをしばしばやっています。

過度な期待をかけると、このような無意識の反動が起こります。

そのまんまでいいのです。
どうせ一歩目が変わらないのなら、そのままホッとけばいいだけのこと。
わざわざ元の方向へ戻らなくたっていいじゃないですか。
わざわざ元の心の状態に戻らなくたっていいじゃないですか。

あれ?景色かわんないなぁ、、、
でも、ま、いっか


そう。ホッとけばいいのです。



さて、夢見がちなポジティヴ思考が、逆に自分を縛ってしまうケースは他にも数多くあります。

大勢に思いが伝われば世界が変わる!
たった100人が同調すれば世界中へシンクロする!


それは「同じ思いの人が大勢集まらないと世界は変わらない」「最低100匹そろわないと変化は起きない」という思い込みを自ら刷り込むことに
なっています。
すると自分一人のたった一歩を踏み出せなくなったりします。

行動としての一歩があっても、心の一歩・思いの一歩が伴っていなければ、それは一歩も踏み出していないことになります。

大勢だとか100匹なんていうのは関係ない。
実際は「自分一人だけで全てが決まる」「すべてが変わる」のです。

その一歩を踏み出したあとの、結果として、少しずつ猿がそろって100匹になったり、世界の大勢が同じ思いになっていく。
そうした途中駅が存在しているだけのこと。
それらは単なる通過ポイントに過ぎないということです。

不安や心配を背負ったままウロウロしたところで、向こうから駅がやってくるなんてことは絶対にありません。

ただ一歩を踏み出すことが全て。

世界情勢のこと、国内情勢のこと、天災のこと。
どれも自分一人にとっては大きな話すぎると思うから、その場に猖獗(しょうけつ)してしまう。
自分一人では変わらないと思うから、一歩目を踏み出さなくなってしまう。

世界は大勢で変えるものでもなければ、他の誰かが変えるものでもない。
この自分一人が全てを変えている。

これまで生きてきて、自分が何もせずとも、勝手に世界は変化していた、と思うのは大間違いです。
世界の中心のあなたが、そのルートを選んだというのが真実です。

参加したから変わった、選択したから変わったのです。

それは無意識のうちにまわりに流されただけかもしれません。
それでも、あなたがその流れに参加した、流されるのを選択したのは間違いありません。

そうであればこそ、意識的に参加したり、意識的に選択する場合も、まったく同じ理屈になることが分かるでしょう。

今もまた、あなたはこれまでのように「このまま流れに身をまかせる」という選択と参加ができます。例えば冒頭に書いたような流れにです。

どちらに参加するのが良いという正解はありません。どの道もすべて等価です。

繰り返しになりますが、その一歩を自覚しながら参加することが大切というだけです。



陥りやすい勘違いをもう一つだけお伝えして、最後にしたいと思います。

道を選ぶといっても、それは「コレと決める」ことではありません。

決めつけというのは居着き(✳︎ある状態から別の状態へ変化するのが鈍いこと、遅れること)、つまり凝固に繋がります。

その場に停滞するということは、せっかくの一歩目でまた立ち止まってしまうことを意味します。

武道において居着きというのは、どこかに力みがあることによって生じます。
それは頭がカチコチになっている状態、つまり心身が自我に縛られている状態を指します。

「こうやるのが正解」
「こうきたらこうしよう」
「こうやりたい」
「これでいいのだろうか」

あれこれ真面目に考えすぎたり、気負いすぎたり、我執に囚われたり、心配や不安になると、滞りが生じます。

それは「既知を追っている状況」と言い換えることもできます。

知っているパターン、頭に描いていたパターンに乗っている時はスムーズに進みますが、そこから外れるとたちまち居着いてしまいます。
下手に成功体験があると、心配や不安もないまま無意識のうちに既知を追い、そのルートを強固にしてしまいます。

コンビネーション(✳︎打撃系での連続攻撃のパターン)が上手くハマっていくと安心と自信が増しますが、反面それ以外のパターンが脆くなって
いきます。

そのため、どんな攻撃、どんなシチュエーションにも対応できるようにコンビネーションを増やしていくのですが、実はその過程というのは、
既知のパターンへの依存を棄てていく過程でもあります。

これは私たちの日常にも当てはまることです。

ですから、もしも既知を追うのならば、ストイックなボクサーが黙々と練習を続けるようにどこまでも突き詰めていくことが大切になります。

自分の既知のパターンから外れるような想定外の状況が訪れた時に、逃げず慌てず、コツコツと向き合う真摯さが必要ということです。

ここで一番まずいのは、ある特定のコンビネーション(既知のパターン)だけに固執して、それが通じない状況に対しては目をつぶって部屋に
閉じこもってしまうパターンです。

決めつけというのは執着に通じます。
本来、目の前には無限の平原が広がっているのに、安心と不安によって選択肢を縛ってしまうとそこには決まり切った一本道しかなくなります。

ある形を追う、理想形に囚われる、それは武道であっても現実生活であっても共通するところでしょう。
それが悪いことではありませんが、そのルートで進む場合は、常に一つ高いところを追っていこうとする向上心が不可欠ということです。

つまり、今に固執せず、変化を求める心です。
それが欠けると、たちまちその場に居着くことになってしまいます。

つまりは「既知を辿りながら、未知を追い続ける」というのがこのルートの全貌になります。

たとえ難関なルートであろうとゴリゴリ真面目にやっていかないと安心できないというのが、地球共有の価値観になっています。

それはそれで何も問題はないのですが、途中でくじけてしまい、今に固執し変化を嫌がるケースが多くなっているのも事実です。

今日お伝えしている最も簡単なルートは、こだわらない、考えすぎない、気負わない、というただそれだけなので、これまでの価値観からすれば
ズルいと思うようなやり方かもしれません。

リラックスしている時、居着きは生じません。
自由自在な状態こそが未知に通じます。

不安や安心を手放す。
決めつけや価値観を手放す。
白黒つけない。こだわらない。

私たちはこれまで無意識のうちに、不安や安心を基準にしてルートを決めてきました。

しかし、道を選ぶというのは「未知を選ぶ」ということに他なりません。

未知を追う一歩一歩が道となります。

ですから、道開きとは未知開きのことを指します。
そして未知開きの神様とは私たち自身のことであるわけです。

そんなことが起きるはずない、そんなふうになるはずがない。
そのように思った瞬間が、未知開きのチャンスです。
なぜならその自問自答こそが未知を証明しているからです。

世界情勢、国内情勢、国土のうごめき。
この鬱屈した悶々を何とかしたいと思ったならば、未知を選ぶということです。
ゴリゴリと頭で考えすぎてはそこに居着いてしまいます。
既知にしがみつくというのはそういうことです。

天地は常に未知を求めています。

だからこそポジティヴもネガティヴも関係ないわけです。
あらかじめ決めつけられている価値観は、心の停滞しか生みません。

大事なことはただ一つ。

「いま目の前の、その一歩」

二歩目も100歩目も存在しない。
そこにあるのは常に目の前の一歩だけです。

心を止めない。放棄しない。

目を開いて進めよ、進め。
行く先には無限の未知が広がっています。



(おわり)



世界は静けさの中に

2018-04-14 23:39:53 | 国を常しえに立てます
目に映る景色というのは、もとより無色透明なもので、今そこに広がる「それそのまま」が全てです。

そこには形があるだけで、名前も、意味も、価値も、もともと存在していません。

でも名前や意味や価値が生じますと、いつしか「こうあるべき」「こうでなくてはならない」「こうあって欲しい」という囁き(ささやき)
が頭の中に流れはじめます。

これは原始的な洗脳にとてもよく似ています。

目隠しされてヘッドホンから同じことを流され続けていると、まるでそれが自分の本心であるかのような錯覚に陥っていきます。

身のまわりで何か出来事が起きたり、状況が変化したりするとカチッとそのテープが流れ出します。
あるいは、他人の言動に接した時にもスイッチが入って再生スタートとなります。





前回、この世には「これが正しい」というものは存在しないという話をしました。

そこにあるのは、ただの本人の好みだけです。

その好き嫌いというもの自体、自分の中から生じたものではなく、あとづけのものに過ぎません。
すなわち、それもまたヘッドホンから流され続けた受け売りであるわけです。

このことを知らずに、好き嫌いは自分自身が決めているものと思い込んでしまうと、それこそ底無し沼へ一直線となります。

「好き嫌いは持って生まれたものだ」「嫌なものは嫌だからどうしようもない」という信念は、そうした好き嫌いをさらに強固なものにしていきます。

「こうあるべき」「これが正しい」「こうあって欲しい」

それは正しさや善を求める心に依拠しています。

しかし実は、善を求める心根と、悪を求める心根は全く同じものです。
我欲を忌み嫌う心根と、我欲に溺れる心根が同じようにです。

どちらも出どころは同じ。その方向が違うだけに過ぎません。

価値基準というものからスタートしている限り、どちらへ向かおうとも迷宮入りのアリ地獄に変わりはありません。

そこから抜け出すためには、私たちが「良い悪い」「好き嫌い」という自動判定装置に身を預けてしまっている事実に気づくことが第一歩と
なります。

あえて過激な表現をするならば、私たちは今この瞬間も手放し暴走しているのです。



のべつまくなしに価値判断をし続けている脳内装置。プログラムソフト。
それは、この世に生まれて、家庭生活、社会生活を過ごすうちに植え付けられたものです。

もちろん集団生活において最低限のルールは必要となります。
それがなければ秩序を守ることはできません。

ただ頭ごなしに理屈で押し付けるものになると、それが脳内テープの元凶となってしまいます。

秩序を守るなら、それこそ共有感覚の相互確認という程度のものだけで十分です。

共有感覚とは、誰もが自然に受け入れられるもの、すなわち天地の道理に則したものを指します。

したがって、その根幹にあるのは理屈ではなく「道理」です。

言い方を変えれば、外からの押し付けではなく、内から生じるものということになります。

内から生じるものをみんな同じように感じる。
共有感覚とはそのことです。
それをお互いに確認し合うことで、みんなが同じ感覚のもと暮らしていける。
そうして秩序が保たれるということです。

ですから注力すべきは、心の感覚を磨くことになります。
そこで、あれはダメこれはダメと心を縛ってしまうのは、逆にそうした感覚を鈍らせることにしかなりません。まったく本末転倒です。

内なる声に耳を澄ましてそれがしっくりくるものかどうかは、幼い子供でも分かることです。
まさしく理屈などとは無縁の世界となります。

最低限のルールというのは「心が痛むかどうか、心が喜ぶかどうか」その一点に尽きます。

その感覚をどれだけクリアにキャッチできるかというのが目指すところとなります。

そうしますと自ずと「心を濁らせないようにする」ことに重きが置かれるようになります。

全てはそこから派生していく。
それこそが躾け(しつけ)であり、真の教育であるわけです。

私たちのご先祖さまが、穢れを忌み嫌い、ひたすら禊ぎ祓い、慎ましやかに過ごそうとされたのは、まさにそこに尽きます。

今というのは理屈(頭)から思考をスタートさせる社会となっているため、躾けもまた理屈で説明するようになっています。
これこそが価値判断装置に支配されてしまった最大の原因です。

理屈など要らない。
自分の胸に聞けばよい。

「弱い者をいじめない」
「好き勝手にやらない」
「年下の面倒を見る」
「困っている人は助ける」

そうしたことは小さな子供であっても、いやむしろクリアな子供だからこそスーッと自然に入ることばかりでしょう。

そしてそれを破った時には、なんとも言えないモヤモヤとしたものが心の底から湧き立ちます。
昔の人はそれを「穢れ」と表現しました。



そのような状態になった時、何とも言えぬ切ない気持ちになります。あるいは寂しい気持ち、悲しい気持ちと言ってもいいかもしれません。

何に対してかというと、それは天地に対してであり、自分自身に対してであるわけです。

それら一連を総称して「卑怯」「恥」などと表現しました。

卑怯というのは卑しく怯えること。
真っすぐお天道様を見られないこと。

お天道様というのは自分自身であるわけです。

誰かに怒られたり咎められるからルールを守るのではない。
自分が悲しくなるからそうならないようにする。

それが天地の道理ということです。

お分かりの通り、前者は罰則や戒律の世界です。

文明開化の頃、西洋では宗教の戒律によって自らを律して我欲を抑えていたため、教典の無かった日本は野蛮で遅れた国として馬鹿にされました。

新渡戸稲造は武士道という精神を持って反論しましたが、そもそもそんな型にはまったものすらも無かったというのが事実でした。

言うに及ばず、外の声ではなく内の声に耳を傾けていれば、そのような教典など不要のものだったわけです。

しかしそれからのち、特にここ最近「結果や理屈を求めるのが正しい」と教えられるにつれ、私たちの感性は少しずつ濁っていきました。

道理ではなく理屈で説明されるのが当たり前になると、私たちも自分の心ではなく頭に耳を向けるようになりました。

悪よりも善のほうがイイ。
ダメな状態よりも良い状態のほうがイイ。

何が善なのか、何が良い状態なのか。
正義だ悪だ、勝ち組だ負け組だ、それらは外からの受け売りで植え付けられていきました。

悪はダメだ。善がイイ。
劣った状態はダメだ。優った状態がイイ。

そうして他者をおもんばかることよりも、自分を持ち上げることを是とするようになりました。


頭の中には「それが正しいのだ」と証明する方程式がガッチリ植え込まれている。
そしてそこに身も心も丸っきり預けてしまったがために、心の内に湧き上がっているモヤモヤも感じ取れなくなりました。

いつでもどこでも頭の中で自動的にテープが流れ、それが自分の意見、自分の心の声だと疑わず従い続ける。

グルジェフが「人類はいまだにみな眠ってる」と言ったのは、一つにはそういうことでした。
家畜という表現をしたのも仕方のないところです。

今この時も、映画やテレビ、新聞など様々なチャンネルを通して、私たちは頭の中の善悪や良し悪しをセッセと磨いています。

それは、決して闇の組織の陰謀などではありません。
その多くは自ら望んで自給自足してしまっているというのが事実です。

子供の頃、まだ洒落っ気のない男の子は、洋服選びが面倒くさくて制服の方がラクだったかと思います。
それは「確実にOKをもらえる」「誰にも怒られない」という保証のもと「考えなくてもいい」というラクさがあったからです。

それと全く同じことが、いま目の前の日々に起きているわけです。
私たちは自ら望んでセッセと自動再生テープに身を預けています。



「間違ってる!」
「おかしい!」

今日もテレビから罵声が聞こえてきます。
双方の意見が流れるのではなく、一方の意見だけが流され続けています。

私たちに判断を任せるような状況を作ると、頭の中の自動装置が鈍ることになります。

しかしそれは、これまで私たちが望んできた結果でもあります。
開けた口にドンドン流し込んでくれるのを求めてきたのは私たちです。
必ずしもマスコミだけが悪ということではない。お互い様なのです。

「こいつは悪だ!」
「排除しなくてはいけない!」
「さもなくば大変なことになるぞ!」

反撃しないのをいいことに大勢で一人を吊るし上げる。
ありもしない難癖をつけて国民の恐怖心を煽り立てる。

それはまさしく魔女狩りの構図です。

その卑劣さと破廉恥さは、見ているだけで心が塞がり苦しくなります。

しかし、頭の理屈の世界に住んでしまうと、そんな心の痛みも全く聞こえなくなってしまいます。

正義だ悪だという価値判断に依存しすぎると、その言動自体に安心と喜びを感じるようになっていくのです。
それは当事者もそうですし、それに賛同する人にしてもそうです。

「こうあるべき」「これが正しい」「こうあって欲しい」

そんなものは初めから存在していません。
「正解」なんてものは夢物語でしかないのです。


しかし真面目な人や、区別をしたがる人は必死にそれを探します。
そこに身を預ければ、安心だし、安全だし、ラクだからです。

そうして正義やら正解やら、もともと存在しない幻想を作り上げ、そこに依存したがる人たちだけの世界を作り上げようとします。

それに当てはまらない人たちは排除する。
それが魔女狩りの構図です。

つまり全ては自分たちが安心したいがための行動であるわけです。

言い換えれば、他人をおもんばかることよりも自分の安心を優先させているということになります。
だからそれを見ていると心が塞がり息が苦しくなるのです。



この世界というのは無色透明です。
白も黒もありません。

ですから白黒つけようとする心グセを棄てることがまず第一となります。
そうなってようやく、赤児のような真っさらな状態でこの世界を見ることができるようになります。

理屈で考えたい。理屈で考えようとする。
そうした衝動がこれからもやってくるでしょう。
でもそれに流されない。
胸に手を当てて、心に耳を傾けてみる。

私たちは、一人一人が自由自在に存在しています。
天地とはもともとそういうものです。

何が嬉しいか、何が悲しいか、理屈ではなく心の声に耳を澄ませる。
それがクリアになればなるほど、天地の心と同じものになっていきます。

いま現実で繰り広げられている魔女狩りというのは、実は私たちにそれを気づかせるためのものでもあります。

私たちは大なり小なり、屁理屈を土台として生きています。

少し目覚めている人というのは、それをおかしいと感じ始め、感覚に耳を傾けるようになっています。
しかしそれでもなお、この社会の中で暮らすかぎりは屁理屈の価値判断に片足を突っ込んだままにならざるを得ません。
そうでなければ、まわりの人たちと円滑なコミニュケーションが取れなくなるからです。

誰しも皆、頭にテープの流れるまま平和に生きてきました。

いま目の前で起きている騒動は、胸の苦しみをこれでもかというほどに掻き立てるものとなっています。

無視することも出来ないほどに胸の中に響き渡る、内なる声。
堪え難いほどに心の内に充満するモヤモヤ。

それでもなお耳を塞ぎ、イジメに加担して喜びと安心を得ようとするのか。
それとも、いよいよその声に耳を傾け、何かおかしいと思い始めるのか。

今まさにそれが起きようとしています。

この世界が本当は無色透明であると気づいた時、その時こそ、ようやく真の安心感に巡り会えるでしょう。

誰もが恋い焦がれた夢の世界とは、いま目の前に在ったのでした。

(おしまい)