今日は小難しい話が続きますが、難解なところは読み流して、最後までお付き合い頂ければ幸いです。
量子力学の世界では、何もない真空の状態であっても、そこにエネルギーが集中すると物質(素粒子)が現れることが分かっています。
そしてその際は必ず、粒子と反粒子という相反する二つのものが出現します。
一つではなく二つが対になって現れることから、これを「対生成」と呼びます。
そして、その二つの素粒子が再び出会うと、その存在は物質的にはこの世から消え去り、エネルギーという形に変化します。
これを「対消滅」と言います。
要は、何も存在しないところに突如物質が現れることが物理の世界でも証明されているということです。
このことは、違う形でも確認することができます。
もともと素粒子は波という状態で存在しているのですが、観測されることによって粒子という形に変化する性質を持っています。
それは、私たちの可視領域においては「観測する前はそこには何もなかったのに、観測することによって現実が現れた」と言うことが出来ます。
あるいは「観測する前はフラットな状態であったところに、観測という行為によってイベント(出来事)が現れた」と表現することも出来ます。
素粒子は、私たちが観測することによって波から粒子へと形を変え、その姿をこの世(物理世界、三次元世界、可視領域)に現す。
その現実化において「観測する時々によって出現する場所が変わる」という現象があります。
これは「不確定性原理」と言われるものです。
このことは、粒子としてこの世に現れる以前は、それが空間のどこかしこにも存在していることを示しています。
たとえば水面上を可視領域、水面下を不可視領域と見なした場合、水面下では波という形で広がっているということができます。
つまり「形」ではなく「状態」である時は、空間すべてに広がっているということです。
だからこそ空間のどこにでも出現する可能性があるわけです。
そうして観測が向いた瞬間にエネルギーが集中して、水面上で物質の現実化が起きる。
目には見えないけども、宇宙というのはもともと変幻自在な万能細胞の種(ソース)に満ち満ちた状態にあるわけです。
それが私たちの行為によって、ポンと目に見える形となって現実に姿を現すということです。
この不確定性原理は、未来というのが常に不確定であることを証明するものとなっています。
水面下からポンと現実が結晶化する時、それが現れる場所は等しいわけではなくそこには偏りがあります。
というのも、水面下に満ち満ちているとはいえ、それ自体は流動しているからです。
動いているということは、どこに現れるか確率的に高いところと低いところが生じるということです。
たとえば川の流れや風の流れでも、それが流れている限りわずかに速いところと緩やかなところが生じます。
それと同じことが起きているわけです。
流動性こそが未来の不確定性を生み出しています。
具現化する場所が常に確定的だったならば、この世はあらゆるイベントやゴールが全て決まったものとなってしまい、単調なゲーム世界でしか
なくなります。
とはいえそんな世界というのは、万能ソースが等しく満遍している状態、つまり流れることなく停止していることが前提となります。
でも、その前提ではそもそも天地は存在できませんので、世界が存在しているかぎり未来の不確定性は必然であったと言えます。
(おさらいになりますが、全ての存在は流動するものであり「流動=存在」であります)
それにしても、観測者の期待や意図とは関係ないところで現実化する、というのは本当によく出来た仕組みです。
あらゆるものは意図したものと違う形で現れる上に、現れる場所も不確定。おまけにいつ出会えるかも分からない。
この先に何が起きるのか、何が待っているのか、誰にも分からないし、まだ決まっても居ない。
これでもかというほど、想定外のことばかりが発生するように出来ています。
しかも、これから先も意図せず無限に発生する仕組みになっている。
「未知」を体験するゲーム世界を考えた場合、これほど神がかり的な仕掛けはないでしょう。
「思い」というのはエネルギーです。
そして「観測」というのは実際の行為です。
思うこと、行なうこと、この2つの重要性については遥か昔から繰り返し言われ続けていますが、実に科学的な根拠に基づいていたと言えます。
冒頭の「対生成」にしても、エネルギーが向くことによって、何もないところに突如物質があらわれました。
エネルギーが集中すると「対生成」が起きるというのは、私たちが思いを発すると宇宙のどこかで対生成が起きることを示唆しています。
整理するとこうなります。
■思いが起きた瞬間、それはこの世の何処かで現実化している。
「こうなる」という思いと「こうなった」という現実が、対生成されるわけです。
それはつまり、何も考えず過ごしているだけでは夢のような出来事はやってこないことを意味します。
黙っていて、向こうから何かのイベントが訪れるようなことは無いということです。
なぜなら、本当にしたいことや本当に望むものが自分で何か分からないうちは、それはこの世にまだ存在しないからです。
あらゆる可能性が水面下に無限に存在しています。しかし水面の上で結晶化して実存とならなければそれに出会うことはできない。
ですから、フト立ち止まって、自分は本当は何がしたいのか、本当は何を望んでいるのか、何が幸せなのか、我欲に根ざしたものではなく
客観的に淡々と自己観察することがとても重要ということになります。
ハタッとそれが何なのか気づいた瞬間、それはこの世に発生する。対生成が起きるわけです。
思いついた瞬間それはこの世に発生しています。
信じるとか疑うとかそういう次元の話ではなく、物理法則としてそうなっています。
そして疑いや恐れといった、よそ見やシャットアウトをせずほっとけばプラスとマイナスの引き合いによりそれらは必ず巡り会う。
これもまた物理法則の一つです。
対生成によって生じる粒子と反粒子は、見事に正反対のプラスとマイナスとなっています。
信じるとか信じないとかではなく、それが事実です。
そもそも天地宇宙というのは、対生成と対消滅の繰り返しで生成発展しています。
まず初めに、気づくこと。
それがエネルギーとなります。
そしてそのエネルギーによってこの世にあらわれたものは、私たちの思いと対を成しているため、必ず巡り会うようになっている。
自分が創造したものには必ずあえる(合える、会える)ようになっている。
対を成すものは、ムスビの力、結合力によって繋がってます。
違う見方をすれば私たちは自ら創造したものにしか逢えないと表現することもできます。
そしてこのことは「まわりへ発したものが自分に返ってくる」という現象そのものの説明にもなっています。
優しさを出せば優しさが返ってくる。
それを鏡の反射と表現したりしますが、それは単に、自らの思いによって対生成したものに巡り合った瞬間でしかないわけです。
祈りもまた同じ仕組みです。
ですから、神社に行ったり仏壇を前にしたり、あるいは日常において、感謝を思うという行為は量子力学的にも最善にして最強であるわけです。
「感謝というエネルギーが生じた瞬間、その感謝の具現化が起き、それが私たちの目の前に現れることになる。」
この仕組みに例外はありません。
たとえ表面上で感謝を謳ったとしても、芯の部分に打算があれば、そちらが対生成(具現化)します。
いわゆる引き寄せの法則にしても、鏡の法則にしても、見返りの思いを発した場合には、その思いと対を成すものが発生するわけです。
そしてムスビの力で固く繋がりますので、私たちは必ずそれと出逢うことになります。
同様に、妬み(ねたみ)や怒り、憎しみの思いを持った瞬間、その思いと共に対発生するものが、ムスビの力によって私たちの目の前に現れる
ことになります。
別に自業自得というような懲罰的な仕掛けではありません。
あるいは、自らを正すための教科書的なド真面目マトリックスが仕込まれているというわけでもありません。
(ここが大きなポイントです。理解したつもりになってそこで満足してしまうと、またグルグルと迷宮をさまようことになります)
この世は、善とか悪とかそんな窮屈な価値観に支配されていません。
単に「無意識の思い」×「不確定性」=「表層意識にとって最もサプライズなイベント発生」という公式が存在しているだけです。
天地宇宙は、とにかく未知を求めている。
それが最大限に極まっていればいるほど、プレイヤーの仰天リアクションは最大化します。
つまり、天地宇宙(=私たち)はビックリ仰天したいわけです。
そしてそこには価値判断など存在しません。
「ポジティブな(幸福な)」ビックリ仰天とか「ネガティヴな(不幸な)」ビックリ仰天とか、そんな枕詞は存在しないわけです。
私たちの価値判断に関係なく、天地宇宙にとってはビックリ仰天という体験が全てです。
その見た目が幸福であろうと不幸であろうと、そこはどちらでも構わない。
表層がどうであるかはどうでもよくて、ただその衝撃だけを求めている。
偏屈な美食家が、見た目の華やかさや残念さなどに左右されず、その味わい深さだけを求めるようなものです。
だからこそこの世は、ビックリ仰天を最大化する仕掛けになっているわけです。
「私たちにとってそれがどれほどの悲劇・不幸であっても、それを味わっている天地宇宙は最大限に喜んでいる」
…なんだそりゃ。そんなことは到底受け入れられんし、理解したくもない。
それで正解。それが普通の反応です。
別にそこで優等生になる必要なんてありません。
天地は天地、私たちは私たちです。
同じ感性になろうとする必要なんかありません。
理解者ヅラなんてまったく不要です。
それぞれに感じ方が違うこともまた、あれこれ味わいたがりの天地宇宙の望むところであるわけです。
あとはただ、ポジティブな方とネガティヴな方と、私たちがどちらを望むか。それだけです。
でも今のこの世界では、ポジティブを望むことで逆にそれを遠ざける現象が起きています。
それはポジティブな願いがどれも「間違えるのは嫌だ(ダメだ)」「貧乏は嫌だ」「平凡は嫌だ」などと、拒絶や否定がスタートとなっている
ことが原因となっています。
ネガティヴなことに焦点が当たった状態にある限り、ポジティブな現実化は起こりません。
つまり、まず最初に必要なことは「正しい正しくない」といった決めつけ、価値判断、心グセを手放すことであるわけです。
先ほど「バチが当たる」「正さなくてはいけない」という思考が迷宮入りの元凶となると言ったのはそのためです。
天地宇宙(私たち)は私たちに完璧人間など求めていません。
そもそも何をもって完璧とするのか、その時点ですでに価値判断の世界から抜け出せていない証拠です。
「正しい・正しくない」など、天地宇宙には存在しません。
そんなものは私たちが決めたものに過ぎません。
「与えたものが与えられる」
私たちにそれを与えているのは誰なのか。
まさしくそれは私たち自身です。
スイッチを押すのは、神様ではありませんし、ハイヤー何とかでもありません。
ましてや、それ以外の何者かであるはずがありません。
世界がこうだからダメなのだ。社会がこうだからダメなのだ。生活がこうだからダメなのだ。家庭がこうだからダメなのだ。人生がこうだから
ダメなのだ。自分がこうだからダメなのだ…
残念。すべて不正解。
私たちの外のものが、そこに勝手に現れることは出来ません。
外のものが外のものを生むことは出来ないのです。
内が外に出る。
それがこの世の仕組みなのです。
(つづく)