子供の頃というのは、自分のすぐ近くしか見えていませんでした。
心の届く範囲は家族や友達までがいいところ。
学校のクラスにしましても目に映っていたのは半分くらいですし、隣近所もせいぜい100mほどだったのではないでしょうか。
あとは、よく行く店や駅前といったピンポイントの景色が飛び飛びに存在している状態だったと思います。
まさに自分の心の届く先が、私たちにとっては世界の果てだったと言えます。
特に子供の頃は、頭から入る情報よりも身体を通して得る情報が主ですから、行動範囲イコール認識範囲となります。
そのうち成長するとともに知識や経験が増えていきますと、認識範囲というものは広がっていきます。
そして酸いも甘いも味わっていくうちに、他人の心情も推し量れるようになっていくわけです。
子供の頃はその部分がどうしても弱いのは止むを得えないということです。
自分の体験が深まることで心が広がり、他人に思いを向けることで、さらに世界は広がります。
ただ、それは紙一重でもあるわけです。
いわば諸刃の剣のようなものと言えます。
子供の頃の行動範囲は狭かったとはいえ、その景色はとても鮮やかなものでした。
道端の草に虫を見つければ飽きることなく遊べました。
一歩進むごとにそこには新しい何かがありました。
透き通った心と好奇心があいまって、世界はとても広く、そして輝いていました。
子供の頃の世界は、空間としては狭かったかもしれませんが、平米あたりは非常に濃密だったと言うことができます。
それが知識や経験によって世界を見るようになりますと、認識範囲は広がる一方で、その色彩は薄まっていくことになりました。
それは、体を使った体験知識から、頭を使った情報知識への変化が原因だったというよりも、そうした情報が唯一絶対のものだと思い込んで
しまうことに原因があったと言えます。
ものごとの一面性しか見ないのは、いわば平面観察なわけです。
情報知識というのはどうしても一面的なものになりがちです。
しかしこの世の物事は、多面的で立体的なものです。
その厚みというのが、彩りの鮮やかさとなって現れてくるわけです。
身体を通した知識や経験は、その厚みをそのままキャッチするため、彩りも豊かになります。
ただ実際の行動範囲にも限界があるため、身体を通すことだけに固執すると、世界も限定的になってしまう側面もあります。
もちろん、様行動範囲の中でも天地宇宙の全てを感じて一生を過ごすこともできます。
ほんの一昔前までは、一生涯その町から出なかった人たちも数多くいました。
その人たちの人生が厚みで劣っていたということではないわけです。
一方、他人の情報によってフィールド(観察対象、認識範囲)を広げるというのも、人生の厚みに繋がる手段となります。
どちらも人生の厚みに変わりはありません。
いまの私たちは、生まれながらにして後者の環境に置かれました。
ですから、行動範囲が狭くとも、広い世界を縦横無尽に認識できるという恩恵を預かっています。
ただ、借り物の情報には、借り物の価値観や固定観念がついているものです。
これがクセものです。
本当ならば厚く味わえるはずの世界が、浅くしか味わえなくなってしまっています。
それに慣らされてしまつと、身近なものですらも浅くしか味わえなくなってしまいます。
他人の情報というのは、対象物の一面性しか現していません。
身体から入るものが様々な情報の折り重なった立体的なものであるのに対して、頭から入る情報は
一方向から見た平面的なものでしかないわけです。
ですから、世界を広く厚く味わうためには、観念に染まった濁りを濾過するとともに、その平面的な姿を立体にすることが必要になってきます。
このように書くと何やら大変な作業に聞こえますが、実はまったく簡単なものです。
思い込みや囚われを捨てて、ただそのままを全身に通せば、フィルターで濾過されたように清らかな風が吹き抜けて、中心から真実が滲み出て
きます。
そして、一方向だけでなく、様々な角度から光を当てることで物事は立体的になります。
つまり、情報を鵜呑みにせず、また自らも思い込みを無くし、中心から再び照らし観るということです。
喩えるならば、私たちをチェス盤に置かれた一つのコマとしますと、他人や自分のまわりで起きる事象はまわりのコマということになります。
子どものころはすぐ隣のコマしか見えませんでしたが、大人になると他のコマを遠望できるようになります。
直接そこへ近づくこともあれば、写真や言葉で人づてにその容貌を伝え聞くこともあります。
そうした時に、大部分の情報が抜け落ちてしまったり、思い込みで捻じ曲がったり、他人の価値観が混ざり込んでしまったりするわけです。
しかし今一度、この世界がチェス盤であることを思い出しますと、実際はどのコマもそのチェス盤を介して足元で繋がっていることに
気がつきます。
これまではチェス盤の上から他のコマを観ようとしていましたが、それを腹下から感じようとすれば、足元から直通で繋がってありのままの
姿が自分の中心から湧き出てきます。
自分自身に100%同化して、囚われを無くし、クリアになって心を広げれば、ジンワリと映りあがってくるのです。
しかし他人の情報をそのまま鵜呑みにしてしまいますと、あたかも自分の身体を通したような錯覚に陥って、その思い込みや固定観念の色が
ついた情報が、真実として私たちに刷り込まれてしまいます。
大人になるにつれて「こういうものだ」という観念が、何かにつけて自動的な価値判断を下すようになりました。
同じものを観るにしても、ガチガチに囚われている人と、多面的に見えている人では、心に映る姿
は全く違うものになります。
見えているものが違うのですから、お互い会話は成立しなくなります。
ものごとは本来、中立で無色透明です。
どの角度で見るかによって、無限パターンの姿を見せます。
ありのままに見るというのは、その多面性を自由自在に感じとれる状態です。
決めつけたり、拒絶したりしないということです。
世界観が狭いというのは、ものごとの一面しか見えてない状態です。
それを二面、三面と切り口を増やしていくことで、決めつけや思い込みを薄めていくことになります。
多面的に見るほどに、世界はより鮮やかに広がっていきます。
これからの時代、これは本当に大切なことになってきます。
なぜならば、この世界の柱、この国の柱は、私たち一人一人の柱にかかっているからです。
話を戻しますと、一つのことを多様に映し出すというのは、例えばこういうことです。
総理大臣が何かのコメントをしたり、決断をしたとします。
そこで、世界のことや国のことなんて知ったこっちゃないというように自分のまわりしか見えてない人は、それをどのように感じるかという
ことです。
物価が上がるとか、物騒な世の中になったら嫌だなとか、自分の日常生活範囲のアプローチや感情でしか世界は映らないかもしれません。
これが、事象の一面しか見ていない状態であるわけです。
あるいは、隣国までしか見えない人ならばどうでしょう。
アメリカのことはよく分からないけど、韓国や中国が気分を悪くするから余計なことしないで欲しいと、ことなかれ発想になるかもしれません。
これもまた、一面でしかないわけです。
そして、そもそもの元ネタの情報自体が、誰かの片寄った価値観に染まったものだったとしたら、根本から話が変わってきてしまうわけです。
新聞やテレビ、教科書にしっかりと印刷されていたり、大学教授や評論家のお墨付きがあると、そのままスーッと、真実であるかのような
暗示をかけられてしまいます。
しかし結局はそうしたどれもが、たった一つの方向から見ただけの平面観察でしかないのです。
この世に正しいものは一つしかないと決めつけてしまうと、話がややこしくなってしまいます。
確かに、事象は一つです。
しかしそれは無限の多面体なのです。
ですから、見え方は何通りもあるのです。
それを「真実が一つならば、見え方もただ一つだ」と思い込んでしまうと、大本の真実までが歪められてしまいます。
相手がどのような見方をしようとも、こちらが相手に合わせる必要もないですし、相手をこちらに
合わさせる必要もありません。
一つに決めつけようとするから、無理が生じて衝突が起こります。
世界の紛争の原因はすべてこれです。
価値観の相違なんていうのは、あって当たり前。
多面性(多様性)を認め、どれもアリとして受け入れることが、天地自然の姿です。
過去の歴史やご先祖様に対しても同じことです。
当時の世界情勢や社会通念、国の状況も振り返らず、教科書に書かれた言葉の羅列や学者の思い込みを鵜呑みにするのでは、どれだけ真面目に
勉強したところで、ものごとの一面しか見えていないことになります。
むしろ一次元思考が厚塗りされて、より強化されることになっていきます。
その時代の生活、その時代の世界を、自分の肌に感じようと毛孔を開けば、チェス盤を通して幾万もの感覚がスーッと流れ込んできます。
そうでなくとも私たちの祖父母が、生きるために必死だったことくらい分かるわけですし、どのようなケチをつけたところで、その純粋な
想いには心からの感謝の気持ちが湧いてくるのが、人として自然なことだと思います。
感謝の心に、理屈など不要のことです。
外野がケチをつけたところで変わるものではありません。
チェス盤だ何だと言いましたが、結局は、ただ自分の中心から湧き出てくる心に素直になるということに尽きるのです。
誰からもケチつけられたくないと「民衆はみんな騙されていたのだ、被害者だ、可哀想に」と言うのは思考の放棄でしかありません。
それは占領国のプロパガンダを鵜呑みにした状態です。
百歩譲って、仮に軍に騙されていたとしても、そのことと、必死に生きて家族を守ろうとしたことはまったく次元の違う話です。
それがどれほど透き通った心だったか、必死の思いだったか、誰にだって分かるはずです。
命がけで家の留守を守ろうとした祖母たちに心からの感謝ですし、命がけで国や家族を守ろうとした祖父たちに心から感謝です。
戦争だ何だというのは、それはそれ、これはこれでしょう。
それが多面的に物事を見るということです。
ご先祖に感謝の心を捧げることが、軍国賛美になるなんてことは有り得ません。
たった一つの価値判断にまとめてしまえば自分としてはラクかもしれません。
しかし、色々なものを受け入れる心がなければ、この世は単色モノトーンの薄暗い世界になってしまいます。
自分だけはイイ子で居たい、自分の安全のためならば祖父母たちのことは見て見ぬふりでいいというのは、あまりにも薄情すぎる話です。
思想やイデオロギーが何であれ、むしろ周囲からのそしりを受けてでも、祖父母の肩を持とうとするのが、人というものではないでしょうか。
この国に住む人は、そのような心根の優しさを持っていると、私は強く信じています。
国や先祖、隣人など、自分以外の存在を非難したり嫌ったりする人は、実は自分自身を許容できていない人ではないかと思います。
自分に関して嫌いに思っている部分を、他の誰よりも強烈に嫌って許せないわけです。
ただそれでは生きるに苦しすぎるので、自分の嫌な部分にはフタをして、それ以外の部分を過大評価することでバランスを保つようになります。
結局それは自己尊大となり、他人の他愛もない一言を侮辱と感じて、過剰反応を示すことになってしまいます。
それは個人にかぎらず、民族や国という集合体にもあてはまるものです。
他国を許容できないとするならば、それは自国を許容できていないということになります。
つまりは、自国の嫌な部分を受け入れられていないということになってしまうわけです。
誰だって自分の国を嫌いにはなりたくないですから、好きになれる要素を見つけてそれを膨らまし誤魔化すようになります。
そして他国を非難することで、相対的に自国の評価をあげて、自分の中心を安定させるようなことをしてしまいます。
そうなると、その対象国が反発した時には、自分自身の中心を揺るがされることになるので、ビックリするほどの過剰反応を示すことになって
しまいます。
実はこの構図は、そのまま私たちの国の自虐思考にも当てはまるものです。
全く正反対に見える「自尊」と「自虐」ですが、根っこは同じところに繋がっていきます。
自分たちの国のことを嫌い、けなしている人たちは、やはり自分自身のことを許容しきれていない
人たちです。
今の自分を安心できていない人たちです。
そして、自分自身の闇に光をあてるのではなく、そのはけ口として自国をサンドバッグ代わりにするのです。
ありとあらゆる固定観念をぶつけ続けているうちに、その国のイメージは酷いものへ塗り替わっていきます。
それは本来の姿とは似ても似つかぬものです。
でも、当人の目にはそれが実際の姿として映ってしまっています。
過剰なほどに一面しか見ようとしなかった結果がそれであるわけです。
自尊であろうと自虐であろうと、根っこは自分自身を受け入れられないところにあります。
自分自身を受け入れられない人は、他人を受け入れられません。
とりわけ固定概念や価値基準のように、自分の外にあるものに中心を置いてしまうと、ますます拍車がかかってしまいます。
なぜならば、自分のありのままの姿というのは、誰かの決めた固定基準とはズレるものだからです。
そんなズレなど気にせず放っておければいいのですが、大概はストレスに感じるものです。
そしてそのズレを許せなくなります。
その時もしも中心をキチンと自分に置いているならば、そうした外の価値基準の方がおかしいとなるのですが、中心を外に置いてしまって
いると、ズレた方(自分、他人)がおかしいとなってしまいます。
真面目な人やインテリな人、カッコつけな人ほどそうなりやすいと言えます。
固定概念や価値基準というのは、仮空のものです。
文字通り、仮りそめで空虚なものです。
それはそれで一つの目安として意味があるにすぎないもので、その了解のもとで利用するものです。
真面目で素直な人ほど、一度間違ってしまうと延々と迷宮の中を疾走してしまいます。
ここで視点をかえて、別の側面から今の世界情勢を見てみたいと思います。
かつて一大強国だったアメリカは以前のような元気はなくなってしまっています。
マッチポンプで戦争特需を作り出す余力すらなくなりつつあります。
ましてや、国中に厭戦ムードが蔓延している状況ですからもはや八方塞りです。
やるだけ自らの首を絞めることになります。
一方では中国が一気に軍事力をあげ、国際的なパワーバランスは過去とまったく変わってきています。
しかし、自国の衰弱をアメリカが公に認めるはずがありません。
日本も分かっていてもそれを口には出せません。
だから表現を変えたコメントしか出しません。
いったいどのようなことが起こりうるか、私たちが真っさらな心で冷静に、広く深くイメージすることが大切になります。
決して、途中で思考放棄してはいけません。
固定観念や思い込みによって、適当なところで終わりにしてしまっては生けないわけです。
浅い切り口に自らをフォーカスさせてしまうと、戦争の片棒をかついで巻き込まれるという程度の景色しか映らなくなってしまいます。
昔のようにアメリカが睨みを利かせられていた時代は、私たちも呑気に平和に暮らせていました。
ただそれはパワーバランスが保たれていたからです。
あくまで力の均衡が、安定に繋がっていただけです。
そのバランスが崩れたら、あっという間に平和は去ります。
アメリカが弱まったのなら、他の形でそれを補わないとバランスは取れません。
もちろん、安倍さんが色々と動いたのには、これ以外にも理由があります。
ただ、このパワーバランス一つとっても、子どもでも十分わかる理屈のはずです。
戦争をしたい首相なんて居ません。
まさか、昨日までが平和だったから、明日も平和が約束されてると信じる人はいないでしょう。
東日本大震災を見て、まだそんな幻想を抱ける人がいるとしたらよっぽどのことです。
もし攻められる危機を承知の上で、理想を語る快感に酔いしれて叫んでいるというならば、その人は、国や子孫のことよりも、自己満足の
ほうを優先させていることになります。
だとすれば、日本を守ろうと身を粉にしている人たちを罵倒するのも理解できます。
非難すべきは政治家ではなく、一面しか見ずに騒ぎ立てようとする浮わついた心の方です。
正義や善悪なんてものは、風向きが変わればすぐさま一変します。
そのようなものに乗っかって、安全な場所から気持ちよく叫んでいる人たちというのは、風向きが
変わっても同じことをするものです。
戦前や戦中に主戦を叫んでいた人たちが、今では不戦を叫んでいます。
正義や正論によって不戦を訴えているのであれば、その人は将来、主戦を最も叫ぶ人になる恐れがあるわけです。
もちろん、戦争は避けるべきです。
そのために今の総理大臣は命懸けで頑張っています。
このまま何もせずにいれば、間違いなく戦争の危機に直面します。
喧嘩できないように自分の手を縛ったところで、相手が殴りかかってくることは止められません。
相手はそれをよく見ています。
今こそ多面性が重要になります。
相手のことを冷静に観察して、素のままに相手の動向を推測するだけです。
そこには相手をけなす意図など何もありません。
それはそれ、これはこれだからです。
悪意をもって想定するのではありません。
そのようなニュートラルな見方ができず、何かにつけて価値判断をセットにして見る癖が染み付いていると、物事を切り分けて見ることが
できなくなってしまいます。
すると、他国をけなしたくないがために、善意をもった想定をしようとする人が出てきます。
つまり「戦争を仕掛けてくる可能性があると考えてしまうと相手を悪者と決めつけることになるから、それは良くない。だから相手は戦争
なんて仕掛けてこない」という論理展開です。
論理が破綻していることなど、この際重要ではないわけです。
あくまで、相手を悪者と決めつけないことが最重要になってしまっているということです。
そもそも悪者ということと、戦争の想定とは、全くの別物であるのに、それが一つになってしまうのです。
そういう人たちにとっては、私のような想定は、相手をけなすものだと映るのかもしれません。
しかし、全ての物事は、本来中立なものですから、けなすものでも褒めるものでもありません。
単なる、一つの事実があるだけです。
意味付けは、自分たちが勝手にしてるものにすぎません。
騒ぎ立てる人たちは「戦争=悪者」という条件反射ゆえ、簡単な想定を考えるだけでも論理破綻してしまいます。
確かに、戦争は悪いことです。
そして、人間には本当に悪い人など居ません。
でも戦争は起きるのです。
価値観は、無限に存在します。
どれがいい悪いというものではありません。
ただ、自分の考え方がすべてに当てはまると思うのは奢りであり怠慢でしかありません。
価値判断などというのは、個人の思い込みでしかないのです。
そういった短絡的なレッテル貼りに縛られてしまうと、客観的に景色を見ることができなくなってしまいます。
一面性が先鋭化されてしまうと、認識範囲が狭くなり、決めつけや思い込みに曇って、ありのままが見えなくなります。
こちらが素っ裸であれば相手は何もしてこないはずだというのは、単なる妄想、願望です。
過去は何一つ未来への保証になりません。
未来は、常にあらゆる可能性が広がっています。
今までのアタリマエは、お蔭さまの積み重ねで成り立っていただけで、明日の保証にはなりません。
第9条があったから平和だったのではなく、平和だった期間に第9条というものがあっただけです。
こちらが良い人だから、戦争がなかったのではありません。
相手に力がなかったら、やってこなかっただけです。
そんなこと、昨今の出来事を見れば子供にも分かることです。
新たなバランス、新たな均衡に向けて物事が動くのは、自然の摂理です。
過去と比較することには、何の意味もありません。
私たちの国の中にも血気盛んな人間は居ます。
それは右寄りでも左寄りでも同じことです。
そこをクローズアップして全否定するというのは、あまりにも短絡的すぎます。
全体を真っさらな心で見られるようにならなくてはいけません。
非戦を叫ぶ人たちは、戦争を美化するような好戦的な人に対してだけ騒ぐべきです。
国を守ろうとする人にまで口撃するのはおかしなことです。
誰彼かまわず口撃してまわる非戦論者が、将来、最も危険な主戦論者にならないように祈ります。
私たち国民は、今こそ、自分の中に心柱を立てなくてはいけません。
社会通念や善悪、固定観念に中心を置いてはいけないのです。
自分一人が気にかけたところで国がどうなるものでもないと考えるのは間違いです。
何十万票のうちのわずか一票という、カタチに囚われてはいけません。
それはチェス盤の上部の世界でしかありません。
下ではすべてが繋がっています。
自分自身が変わることは、途轍もなく大きい変化となります。
それは単に、百匹目のサルのような話とは違います。
一人の中心に柱が立った瞬間、ビシッと世界は変わります。
我々はCTスキャンで世界を見る観察者です。
意識が変われば、全てが本当に変わります。
最初からダメだと決め付けずに、意識を変えるという実際のアクションが、現実に影響します。
どのようなこと、どのような人でも、無限通りの多面性を有しています。
相手がどの面を出しているかではなく、私たちがどの面を見るかです。
一つの面に固執せず、心やわらかく数多くの面を見ることで、この世界は驚くほど広がります。
カットの数を増やせば増やすほど、自分の囚われは薄まっていきます。
そして宝石がカット面を増やすほどにその輝きを増していくように、この世もまた、私たちが多面性を許容することによってキラキラと輝きを
増していくのです。
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心の届く範囲は家族や友達までがいいところ。
学校のクラスにしましても目に映っていたのは半分くらいですし、隣近所もせいぜい100mほどだったのではないでしょうか。
あとは、よく行く店や駅前といったピンポイントの景色が飛び飛びに存在している状態だったと思います。
まさに自分の心の届く先が、私たちにとっては世界の果てだったと言えます。
特に子供の頃は、頭から入る情報よりも身体を通して得る情報が主ですから、行動範囲イコール認識範囲となります。
そのうち成長するとともに知識や経験が増えていきますと、認識範囲というものは広がっていきます。
そして酸いも甘いも味わっていくうちに、他人の心情も推し量れるようになっていくわけです。
子供の頃はその部分がどうしても弱いのは止むを得えないということです。
自分の体験が深まることで心が広がり、他人に思いを向けることで、さらに世界は広がります。
ただ、それは紙一重でもあるわけです。
いわば諸刃の剣のようなものと言えます。
子供の頃の行動範囲は狭かったとはいえ、その景色はとても鮮やかなものでした。
道端の草に虫を見つければ飽きることなく遊べました。
一歩進むごとにそこには新しい何かがありました。
透き通った心と好奇心があいまって、世界はとても広く、そして輝いていました。
子供の頃の世界は、空間としては狭かったかもしれませんが、平米あたりは非常に濃密だったと言うことができます。
それが知識や経験によって世界を見るようになりますと、認識範囲は広がる一方で、その色彩は薄まっていくことになりました。
それは、体を使った体験知識から、頭を使った情報知識への変化が原因だったというよりも、そうした情報が唯一絶対のものだと思い込んで
しまうことに原因があったと言えます。
ものごとの一面性しか見ないのは、いわば平面観察なわけです。
情報知識というのはどうしても一面的なものになりがちです。
しかしこの世の物事は、多面的で立体的なものです。
その厚みというのが、彩りの鮮やかさとなって現れてくるわけです。
身体を通した知識や経験は、その厚みをそのままキャッチするため、彩りも豊かになります。
ただ実際の行動範囲にも限界があるため、身体を通すことだけに固執すると、世界も限定的になってしまう側面もあります。
もちろん、様行動範囲の中でも天地宇宙の全てを感じて一生を過ごすこともできます。
ほんの一昔前までは、一生涯その町から出なかった人たちも数多くいました。
その人たちの人生が厚みで劣っていたということではないわけです。
一方、他人の情報によってフィールド(観察対象、認識範囲)を広げるというのも、人生の厚みに繋がる手段となります。
どちらも人生の厚みに変わりはありません。
いまの私たちは、生まれながらにして後者の環境に置かれました。
ですから、行動範囲が狭くとも、広い世界を縦横無尽に認識できるという恩恵を預かっています。
ただ、借り物の情報には、借り物の価値観や固定観念がついているものです。
これがクセものです。
本当ならば厚く味わえるはずの世界が、浅くしか味わえなくなってしまっています。
それに慣らされてしまつと、身近なものですらも浅くしか味わえなくなってしまいます。
他人の情報というのは、対象物の一面性しか現していません。
身体から入るものが様々な情報の折り重なった立体的なものであるのに対して、頭から入る情報は
一方向から見た平面的なものでしかないわけです。
ですから、世界を広く厚く味わうためには、観念に染まった濁りを濾過するとともに、その平面的な姿を立体にすることが必要になってきます。
このように書くと何やら大変な作業に聞こえますが、実はまったく簡単なものです。
思い込みや囚われを捨てて、ただそのままを全身に通せば、フィルターで濾過されたように清らかな風が吹き抜けて、中心から真実が滲み出て
きます。
そして、一方向だけでなく、様々な角度から光を当てることで物事は立体的になります。
つまり、情報を鵜呑みにせず、また自らも思い込みを無くし、中心から再び照らし観るということです。
喩えるならば、私たちをチェス盤に置かれた一つのコマとしますと、他人や自分のまわりで起きる事象はまわりのコマということになります。
子どものころはすぐ隣のコマしか見えませんでしたが、大人になると他のコマを遠望できるようになります。
直接そこへ近づくこともあれば、写真や言葉で人づてにその容貌を伝え聞くこともあります。
そうした時に、大部分の情報が抜け落ちてしまったり、思い込みで捻じ曲がったり、他人の価値観が混ざり込んでしまったりするわけです。
しかし今一度、この世界がチェス盤であることを思い出しますと、実際はどのコマもそのチェス盤を介して足元で繋がっていることに
気がつきます。
これまではチェス盤の上から他のコマを観ようとしていましたが、それを腹下から感じようとすれば、足元から直通で繋がってありのままの
姿が自分の中心から湧き出てきます。
自分自身に100%同化して、囚われを無くし、クリアになって心を広げれば、ジンワリと映りあがってくるのです。
しかし他人の情報をそのまま鵜呑みにしてしまいますと、あたかも自分の身体を通したような錯覚に陥って、その思い込みや固定観念の色が
ついた情報が、真実として私たちに刷り込まれてしまいます。
大人になるにつれて「こういうものだ」という観念が、何かにつけて自動的な価値判断を下すようになりました。
同じものを観るにしても、ガチガチに囚われている人と、多面的に見えている人では、心に映る姿
は全く違うものになります。
見えているものが違うのですから、お互い会話は成立しなくなります。
ものごとは本来、中立で無色透明です。
どの角度で見るかによって、無限パターンの姿を見せます。
ありのままに見るというのは、その多面性を自由自在に感じとれる状態です。
決めつけたり、拒絶したりしないということです。
世界観が狭いというのは、ものごとの一面しか見えてない状態です。
それを二面、三面と切り口を増やしていくことで、決めつけや思い込みを薄めていくことになります。
多面的に見るほどに、世界はより鮮やかに広がっていきます。
これからの時代、これは本当に大切なことになってきます。
なぜならば、この世界の柱、この国の柱は、私たち一人一人の柱にかかっているからです。
話を戻しますと、一つのことを多様に映し出すというのは、例えばこういうことです。
総理大臣が何かのコメントをしたり、決断をしたとします。
そこで、世界のことや国のことなんて知ったこっちゃないというように自分のまわりしか見えてない人は、それをどのように感じるかという
ことです。
物価が上がるとか、物騒な世の中になったら嫌だなとか、自分の日常生活範囲のアプローチや感情でしか世界は映らないかもしれません。
これが、事象の一面しか見ていない状態であるわけです。
あるいは、隣国までしか見えない人ならばどうでしょう。
アメリカのことはよく分からないけど、韓国や中国が気分を悪くするから余計なことしないで欲しいと、ことなかれ発想になるかもしれません。
これもまた、一面でしかないわけです。
そして、そもそもの元ネタの情報自体が、誰かの片寄った価値観に染まったものだったとしたら、根本から話が変わってきてしまうわけです。
新聞やテレビ、教科書にしっかりと印刷されていたり、大学教授や評論家のお墨付きがあると、そのままスーッと、真実であるかのような
暗示をかけられてしまいます。
しかし結局はそうしたどれもが、たった一つの方向から見ただけの平面観察でしかないのです。
この世に正しいものは一つしかないと決めつけてしまうと、話がややこしくなってしまいます。
確かに、事象は一つです。
しかしそれは無限の多面体なのです。
ですから、見え方は何通りもあるのです。
それを「真実が一つならば、見え方もただ一つだ」と思い込んでしまうと、大本の真実までが歪められてしまいます。
相手がどのような見方をしようとも、こちらが相手に合わせる必要もないですし、相手をこちらに
合わさせる必要もありません。
一つに決めつけようとするから、無理が生じて衝突が起こります。
世界の紛争の原因はすべてこれです。
価値観の相違なんていうのは、あって当たり前。
多面性(多様性)を認め、どれもアリとして受け入れることが、天地自然の姿です。
過去の歴史やご先祖様に対しても同じことです。
当時の世界情勢や社会通念、国の状況も振り返らず、教科書に書かれた言葉の羅列や学者の思い込みを鵜呑みにするのでは、どれだけ真面目に
勉強したところで、ものごとの一面しか見えていないことになります。
むしろ一次元思考が厚塗りされて、より強化されることになっていきます。
その時代の生活、その時代の世界を、自分の肌に感じようと毛孔を開けば、チェス盤を通して幾万もの感覚がスーッと流れ込んできます。
そうでなくとも私たちの祖父母が、生きるために必死だったことくらい分かるわけですし、どのようなケチをつけたところで、その純粋な
想いには心からの感謝の気持ちが湧いてくるのが、人として自然なことだと思います。
感謝の心に、理屈など不要のことです。
外野がケチをつけたところで変わるものではありません。
チェス盤だ何だと言いましたが、結局は、ただ自分の中心から湧き出てくる心に素直になるということに尽きるのです。
誰からもケチつけられたくないと「民衆はみんな騙されていたのだ、被害者だ、可哀想に」と言うのは思考の放棄でしかありません。
それは占領国のプロパガンダを鵜呑みにした状態です。
百歩譲って、仮に軍に騙されていたとしても、そのことと、必死に生きて家族を守ろうとしたことはまったく次元の違う話です。
それがどれほど透き通った心だったか、必死の思いだったか、誰にだって分かるはずです。
命がけで家の留守を守ろうとした祖母たちに心からの感謝ですし、命がけで国や家族を守ろうとした祖父たちに心から感謝です。
戦争だ何だというのは、それはそれ、これはこれでしょう。
それが多面的に物事を見るということです。
ご先祖に感謝の心を捧げることが、軍国賛美になるなんてことは有り得ません。
たった一つの価値判断にまとめてしまえば自分としてはラクかもしれません。
しかし、色々なものを受け入れる心がなければ、この世は単色モノトーンの薄暗い世界になってしまいます。
自分だけはイイ子で居たい、自分の安全のためならば祖父母たちのことは見て見ぬふりでいいというのは、あまりにも薄情すぎる話です。
思想やイデオロギーが何であれ、むしろ周囲からのそしりを受けてでも、祖父母の肩を持とうとするのが、人というものではないでしょうか。
この国に住む人は、そのような心根の優しさを持っていると、私は強く信じています。
国や先祖、隣人など、自分以外の存在を非難したり嫌ったりする人は、実は自分自身を許容できていない人ではないかと思います。
自分に関して嫌いに思っている部分を、他の誰よりも強烈に嫌って許せないわけです。
ただそれでは生きるに苦しすぎるので、自分の嫌な部分にはフタをして、それ以外の部分を過大評価することでバランスを保つようになります。
結局それは自己尊大となり、他人の他愛もない一言を侮辱と感じて、過剰反応を示すことになってしまいます。
それは個人にかぎらず、民族や国という集合体にもあてはまるものです。
他国を許容できないとするならば、それは自国を許容できていないということになります。
つまりは、自国の嫌な部分を受け入れられていないということになってしまうわけです。
誰だって自分の国を嫌いにはなりたくないですから、好きになれる要素を見つけてそれを膨らまし誤魔化すようになります。
そして他国を非難することで、相対的に自国の評価をあげて、自分の中心を安定させるようなことをしてしまいます。
そうなると、その対象国が反発した時には、自分自身の中心を揺るがされることになるので、ビックリするほどの過剰反応を示すことになって
しまいます。
実はこの構図は、そのまま私たちの国の自虐思考にも当てはまるものです。
全く正反対に見える「自尊」と「自虐」ですが、根っこは同じところに繋がっていきます。
自分たちの国のことを嫌い、けなしている人たちは、やはり自分自身のことを許容しきれていない
人たちです。
今の自分を安心できていない人たちです。
そして、自分自身の闇に光をあてるのではなく、そのはけ口として自国をサンドバッグ代わりにするのです。
ありとあらゆる固定観念をぶつけ続けているうちに、その国のイメージは酷いものへ塗り替わっていきます。
それは本来の姿とは似ても似つかぬものです。
でも、当人の目にはそれが実際の姿として映ってしまっています。
過剰なほどに一面しか見ようとしなかった結果がそれであるわけです。
自尊であろうと自虐であろうと、根っこは自分自身を受け入れられないところにあります。
自分自身を受け入れられない人は、他人を受け入れられません。
とりわけ固定概念や価値基準のように、自分の外にあるものに中心を置いてしまうと、ますます拍車がかかってしまいます。
なぜならば、自分のありのままの姿というのは、誰かの決めた固定基準とはズレるものだからです。
そんなズレなど気にせず放っておければいいのですが、大概はストレスに感じるものです。
そしてそのズレを許せなくなります。
その時もしも中心をキチンと自分に置いているならば、そうした外の価値基準の方がおかしいとなるのですが、中心を外に置いてしまって
いると、ズレた方(自分、他人)がおかしいとなってしまいます。
真面目な人やインテリな人、カッコつけな人ほどそうなりやすいと言えます。
固定概念や価値基準というのは、仮空のものです。
文字通り、仮りそめで空虚なものです。
それはそれで一つの目安として意味があるにすぎないもので、その了解のもとで利用するものです。
真面目で素直な人ほど、一度間違ってしまうと延々と迷宮の中を疾走してしまいます。
ここで視点をかえて、別の側面から今の世界情勢を見てみたいと思います。
かつて一大強国だったアメリカは以前のような元気はなくなってしまっています。
マッチポンプで戦争特需を作り出す余力すらなくなりつつあります。
ましてや、国中に厭戦ムードが蔓延している状況ですからもはや八方塞りです。
やるだけ自らの首を絞めることになります。
一方では中国が一気に軍事力をあげ、国際的なパワーバランスは過去とまったく変わってきています。
しかし、自国の衰弱をアメリカが公に認めるはずがありません。
日本も分かっていてもそれを口には出せません。
だから表現を変えたコメントしか出しません。
いったいどのようなことが起こりうるか、私たちが真っさらな心で冷静に、広く深くイメージすることが大切になります。
決して、途中で思考放棄してはいけません。
固定観念や思い込みによって、適当なところで終わりにしてしまっては生けないわけです。
浅い切り口に自らをフォーカスさせてしまうと、戦争の片棒をかついで巻き込まれるという程度の景色しか映らなくなってしまいます。
昔のようにアメリカが睨みを利かせられていた時代は、私たちも呑気に平和に暮らせていました。
ただそれはパワーバランスが保たれていたからです。
あくまで力の均衡が、安定に繋がっていただけです。
そのバランスが崩れたら、あっという間に平和は去ります。
アメリカが弱まったのなら、他の形でそれを補わないとバランスは取れません。
もちろん、安倍さんが色々と動いたのには、これ以外にも理由があります。
ただ、このパワーバランス一つとっても、子どもでも十分わかる理屈のはずです。
戦争をしたい首相なんて居ません。
まさか、昨日までが平和だったから、明日も平和が約束されてると信じる人はいないでしょう。
東日本大震災を見て、まだそんな幻想を抱ける人がいるとしたらよっぽどのことです。
もし攻められる危機を承知の上で、理想を語る快感に酔いしれて叫んでいるというならば、その人は、国や子孫のことよりも、自己満足の
ほうを優先させていることになります。
だとすれば、日本を守ろうと身を粉にしている人たちを罵倒するのも理解できます。
非難すべきは政治家ではなく、一面しか見ずに騒ぎ立てようとする浮わついた心の方です。
正義や善悪なんてものは、風向きが変わればすぐさま一変します。
そのようなものに乗っかって、安全な場所から気持ちよく叫んでいる人たちというのは、風向きが
変わっても同じことをするものです。
戦前や戦中に主戦を叫んでいた人たちが、今では不戦を叫んでいます。
正義や正論によって不戦を訴えているのであれば、その人は将来、主戦を最も叫ぶ人になる恐れがあるわけです。
もちろん、戦争は避けるべきです。
そのために今の総理大臣は命懸けで頑張っています。
このまま何もせずにいれば、間違いなく戦争の危機に直面します。
喧嘩できないように自分の手を縛ったところで、相手が殴りかかってくることは止められません。
相手はそれをよく見ています。
今こそ多面性が重要になります。
相手のことを冷静に観察して、素のままに相手の動向を推測するだけです。
そこには相手をけなす意図など何もありません。
それはそれ、これはこれだからです。
悪意をもって想定するのではありません。
そのようなニュートラルな見方ができず、何かにつけて価値判断をセットにして見る癖が染み付いていると、物事を切り分けて見ることが
できなくなってしまいます。
すると、他国をけなしたくないがために、善意をもった想定をしようとする人が出てきます。
つまり「戦争を仕掛けてくる可能性があると考えてしまうと相手を悪者と決めつけることになるから、それは良くない。だから相手は戦争
なんて仕掛けてこない」という論理展開です。
論理が破綻していることなど、この際重要ではないわけです。
あくまで、相手を悪者と決めつけないことが最重要になってしまっているということです。
そもそも悪者ということと、戦争の想定とは、全くの別物であるのに、それが一つになってしまうのです。
そういう人たちにとっては、私のような想定は、相手をけなすものだと映るのかもしれません。
しかし、全ての物事は、本来中立なものですから、けなすものでも褒めるものでもありません。
単なる、一つの事実があるだけです。
意味付けは、自分たちが勝手にしてるものにすぎません。
騒ぎ立てる人たちは「戦争=悪者」という条件反射ゆえ、簡単な想定を考えるだけでも論理破綻してしまいます。
確かに、戦争は悪いことです。
そして、人間には本当に悪い人など居ません。
でも戦争は起きるのです。
価値観は、無限に存在します。
どれがいい悪いというものではありません。
ただ、自分の考え方がすべてに当てはまると思うのは奢りであり怠慢でしかありません。
価値判断などというのは、個人の思い込みでしかないのです。
そういった短絡的なレッテル貼りに縛られてしまうと、客観的に景色を見ることができなくなってしまいます。
一面性が先鋭化されてしまうと、認識範囲が狭くなり、決めつけや思い込みに曇って、ありのままが見えなくなります。
こちらが素っ裸であれば相手は何もしてこないはずだというのは、単なる妄想、願望です。
過去は何一つ未来への保証になりません。
未来は、常にあらゆる可能性が広がっています。
今までのアタリマエは、お蔭さまの積み重ねで成り立っていただけで、明日の保証にはなりません。
第9条があったから平和だったのではなく、平和だった期間に第9条というものがあっただけです。
こちらが良い人だから、戦争がなかったのではありません。
相手に力がなかったら、やってこなかっただけです。
そんなこと、昨今の出来事を見れば子供にも分かることです。
新たなバランス、新たな均衡に向けて物事が動くのは、自然の摂理です。
過去と比較することには、何の意味もありません。
私たちの国の中にも血気盛んな人間は居ます。
それは右寄りでも左寄りでも同じことです。
そこをクローズアップして全否定するというのは、あまりにも短絡的すぎます。
全体を真っさらな心で見られるようにならなくてはいけません。
非戦を叫ぶ人たちは、戦争を美化するような好戦的な人に対してだけ騒ぐべきです。
国を守ろうとする人にまで口撃するのはおかしなことです。
誰彼かまわず口撃してまわる非戦論者が、将来、最も危険な主戦論者にならないように祈ります。
私たち国民は、今こそ、自分の中に心柱を立てなくてはいけません。
社会通念や善悪、固定観念に中心を置いてはいけないのです。
自分一人が気にかけたところで国がどうなるものでもないと考えるのは間違いです。
何十万票のうちのわずか一票という、カタチに囚われてはいけません。
それはチェス盤の上部の世界でしかありません。
下ではすべてが繋がっています。
自分自身が変わることは、途轍もなく大きい変化となります。
それは単に、百匹目のサルのような話とは違います。
一人の中心に柱が立った瞬間、ビシッと世界は変わります。
我々はCTスキャンで世界を見る観察者です。
意識が変われば、全てが本当に変わります。
最初からダメだと決め付けずに、意識を変えるという実際のアクションが、現実に影響します。
どのようなこと、どのような人でも、無限通りの多面性を有しています。
相手がどの面を出しているかではなく、私たちがどの面を見るかです。
一つの面に固執せず、心やわらかく数多くの面を見ることで、この世界は驚くほど広がります。
カットの数を増やせば増やすほど、自分の囚われは薄まっていきます。
そして宝石がカット面を増やすほどにその輝きを増していくように、この世もまた、私たちが多面性を許容することによってキラキラと輝きを
増していくのです。
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