これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

三つ子の心 とこしえに

2017-03-20 00:26:07 | 心をラクに
小さい頃というのは、親や教師を見ましても、みんな自分よりもずっとシッカリしていて、ずっと大きい心なんだと信じて疑いませんでした。

大人なんだから当たり前、そして自分たちは子供。そういうものだと信じ切っていました。

しかし、大人になって分かりました。

私たちは、何歳になろうと何も変わらない。

確かに年齢とともに、知識や経験を積んで、大概のことは落ち着いて対処できるようになって行きます。
そうした余裕や落ち着き、あるいは物を知っているということに対して、子供の頃の私たちは安心や信頼を感じ、「大人」というイメージを
作り上げていました。

体が大きくなっていくように、心も大きくなっていくものだ。
年を取ればみんな成長していくのだ。


その錯覚は大人になった今でも、私たち自身を包み込んでしまっています。

私たちがあの頃よりも成長していると思っているのは、実は単に知識や経験の蓄積でしかないのに、心そのものも「大人」になっている
ように思い込んでしまっているということです。

身体がドンドン大きくなって、男ならば筋肉がついてガッシリしていき、女性ならば女らしくなっていく。
見た目の映像から自分という存在そのものが変わったと判断し、その中身も変わったと無意識のうちに思ってしまう。
そして年老いて身体が衰えて行くときにもまた、同じような錯覚に陥ってしまう。

そうした見た目の変化だけでなく、世の中での立ち位置も変わると、ますます、あぁそうなんだと思ってしまう。

中学生、高校生、大学生、そして社会人。
先輩となり、上司となり、課長、部長、役員となっていきます。

子供が生まれれば親となり、その子供がまた小学生から中学生、高校生…と成長していきます。

そうした社会的な立ち位置、家庭的な立ち位置の変化により、自分の身の振りかたも変化していきます。

肩書きや立場が人を成長させると言われるように、最初はぎこちなさを感じても、そのうちその立場らしい雰囲気が醸し出されていきます。

それを成長と言えばその通りなのですが、しかし、それは心の姿勢が変わっただけで、心そのものが変わったわけではありません。
つまり「成長」の定義が違うということです。
環境への適応と、経験による学習、それにより身の振り方が変わっていくというだけです。

環境の変化や立ち位置の変化によって変わったのは、私たち自身ではなく、私たちの心構えです。

社会的な立ち位置も、家庭的な立ち位置も、単なる相対的なものでしかなく、つまりは定義付け、意味づけでしかありません。

実際、どんなに偉くなろうとも昔の上司に会えばあっという間に昔の心に戻りますし、どんなに歳を取っても親の前では子どもであります。

それは別にスイッチを切り替えているわけではないですし、猫をかぶったり、演じているわけではありません。
高校や大学の頃の同級生に会えば、それは一発で体感できるでしょう。
気づけば自然とそうなっている。
つまり、心の姿勢が変わっただけということです。

小さい頃は、もうお兄ちゃんなんだから、もう中学生なんだからと歳を重ねるたびに周りから気持ちの切り替えを促されました。

そして、高校生、大学生、社会人、先輩、上司…と社会的地位が変わるごとに、今度は自分自身に対してそれを無意識にやってきました。

小学生の時には中学生は大人に見えましたし、中学生の時は大学生なんて遥かな大人に見えました。
大学生の頃は新入社員も大人に見えましたし、会社に勤めると課長や部長は随分なおじさんに見えました。

でも自分がそうした立場や年齢になっていくと、本当のところは何も変わっていないというのが実感でしょう。
子供の頃に見上げていた大人のイメージと、今の自分というのはまったく符合しないはずです。

実際それが当然であり、ごく自然な感覚であるわけです。
何故ならば、経験や知識、身の振り方や物腰が変わったとしても、私たち自身は何も変わるものではないからです。

でも、子供の前、家族の前、後輩の前、部下の前、知人の前では年相応、立場相応の振る舞いをしている。
そしてまわりは当たり前のように、そんな私たちをそういうものとして受け入れる。

だから私たち自身もよく分からなくなってしまいます。

自分というのはそういう人間なのか、と。
何も変わってないような感じがするけど、やっぱり変わっているのか、と。
変わっていないと思うのは錯覚で、やはり自分も歳を取っているのか、と。

それはただ環境適応した結果に過ぎず、見た目のものでしかないのに、中身までもそれに順応させようとする。

モヤモヤの霧を晴らすために、自分はもういい歳になったのだ、大人になったのだ、オッさんになったのだ、ジィさんになったのだと
そっち側に着地点を見いだそうとしてしまうわけです。


振る舞いというのは社会で上手くやっていくための行為でしかありません。
そしてそれは人為的というよりも、多分に自然発生的なものです。

社会という川の流れの中で、形を変えまいと肩肘を張っていると水圧を受けてシンドくなります。
川の流れに逆らわず、自然に身を任せていけば、おのずと丁度いい場所へと転がされていき、流れをサーッと流していくようになります。

そして見た目の形が変わろうとも、石は石です。
元の石に変わりは無いということです。

それはそういうものだとハッキリと自覚していないと、自らの錯覚に陥って抜け出せなくなってしまいます。

いくら歳を取ろうとも、私たちは子供の頃と何一つ変わっていない。
それが事実です。
そしてそれは恥ずかしいことでも何でもありません。

肉体や社会的ポジションは年齢とともに変わっていくのが当たり前ですし、それに応じて心の姿勢も切り替わっていくのは自然なことです。

この世は、私という人間に成りきって楽しむアミューズメントですから、肉体の成長や老化、社会や家庭での立ち位置の変化というのは
当然のもので、それによって様々な経験を味わっていけます。

しかし、どこまでいってもそれはそれだけのことであって、私たち自身が変化するということではありません。

知識やテクニックなど数多く積み重ねてきましたが、それは私たち自身とは別のものです。
私たち自身が変わったわけではありません。

物心ついた頃の、あの純粋無垢な私たちと、今の私たちは何一つ変わっていません。

だって、どんなにカッコつけたくても、子どもの頃の自分と何も変わっていないのは自分が一番よく分かっていることでしょう。
それは、成長していないということではなく、そういうものであるわけです。

でも、こんな言葉が胸に浮かんでくるかもしれません。

世の中の色々なことを知ってしまって、よこしまな気持ちと薄ぎたない我執にまみれて身を汚してしまった…
だから子供の頃の純粋無垢なんてとっくのとうに失くなった。
いまはもう、汚れちまった悲しみしか無いんだ。



違います。


色々なことを知ったにしても、よこしまな気持ちを持ったにしても、我執まみれの行ないをしたにしても、全ては知識や経験の話であって、
私たち自身の話ではありません。

たとえ自我が増幅して、我執まみれになっても、私たちの心そのものは何ひとつ変わっていません。

まだ世の中のことも知らず、垢にまみれず、真っ白だったあの頃の自分というのは、今なお何も変わることなくココに居るということです。

これは魂のことではありません。心のことです。

我欲まみれの極悪人が虫を助ける『蜘蛛の糸』はまさしくそのことを示唆しています。
極悪人の主人公は、自分のことを救いようのない悪一色の塊だと思い込んでいますが、そうではないのです。

私たちは、行ないや思いというものが汚れることはあっても、心そのものが変わるようなことはないのです。
だから虫を助けたのも、わずかに残った良心などではなく、何ら変わることなく存在し続けている純粋無垢な心の発露だったわけです。

穢れや汚れによって見えにくくなることはあっても、純粋無垢なこころ自体が無くなることはないし、変化してしまうことも無いのです。

私たちは誰もが、あの幼い頃の純粋無垢な心を、今もそのまま持っています。
そして、それはこの先、どれだけ年老いても同じであるわけです。

見た目は大きく変わろうとも、私たちはずーっと同じままです。
素直な心のまま、永遠に生き通しです。

知識や経験というものをすべて取り払って素直になってみますと簡単にそれが分かります。

公園で無邪気に遊んでいる子供たち、簡単な読み書きに悪戦苦闘している子供たちと、イイ歳こいたオッさんの私たちとは、何一つ変わらず
全くのイーブンなのです。

それは他の誰かと比較するよりも、あの頃の自分自身と今とを照らし合わせてみれば、感覚として分かるはずです。

そしてそれというのは、自分だけでなく、他人にとっても同じ話であるわけです。

会社の社長にしても、学者の大先生にしても、立派な政治家にしても、それこそ一国のトップにしても、心そのものは3歳の心と何一つ
変わってはいないということです。

どれほと威厳がある人でも、ひと皮むけば、三つ子の心のままなのです。

もちろん、だからといって軽んじたり、安く見ていいということではありません。
そこに至るまでの経験や知識、苦労や努力、培われた人格、心構え、それらは心から敬意を払うものです。

ただ、どんな人であろうと、その人の心そのものは子どもの頃の純粋で美しいままだということです。
それは華やかな表社会の人たちだけでなく、裏社会の人たちであっても何ら変わりません。

言い換えれば、いくつになろうと誰もがみな、男の子であり女の子であるということです。

少なくとも自分自身がそうであるのは揺るぎない事実でしょう。
子どもじみたことは恥ずかしい、大人げないと、はた目を気にしてやらなくなって、そのうちそうした思いも湧かなくなってしまったかも
しれませんが、それはただ自我によって押さえつけられたものでしかありません。
それというのは単に心の姿勢であって、心そのものとは別のものです。

それを、あたかも心そのものが大人になったかのように思い込んでいますが、それは「年相応」という垢の積み重ねによって身動きが取れなく
なっているだけのことです。
垢とは、思い込みのことであり、刷り込みのことです。

確かに、子どもの頃は些細なことでも本当に喜んでいました。
そして歳とともにそのようなことはドンドン減っていきました。

そうした感動の薄れを目の当たりにすると、自分はあの頃とは違う、子どもの心ではなくなったと思ってしまうかもしれません。
しかし小さなことで喜ばなくなったのは、ただ知識や経験によるもの、つまり既知になったからであって、素直さがなくなったわけではない
のです。

私たちもそうであるように、まわりで様々な振る舞いを見せる大人たちもまた、みんなあの頃の女子であり、あの頃の男子のままです。

偉そうにしたり、嫌なことを言ったりする人が居たとしても、その人もただの女の子であり男の子なのです。

おじいちゃんだっていくつになっても男子。
おばあちゃんだっていくつになっても女子。
私たちはみんな永遠に、男子と女子なのです。

もう、そうなんだから今さら背伸びしても仕方ないということです。
完全に降参して、そのまま受け入れてしまったほうが何もかもラクになるというものです。

そうしますと、色々な悩みや苦しみ、あるいは小さなことにこだわっているのがアホらしくなってくるのではないかと思います。
だって私たちは、あの頃の小さな自分と何も変わってないのですから。

子どもの頃はどうしていたでしょう。
イヤなものはもう放っといたのではないでしょう。
いつまでも抱え込んだりはしなかったと思います。

イヤな気持ちをいつまでも持ち続けてモヤモヤを心に抱え続けているのは苦しい。
だから、すぐに謝りましたし、すぐに仲直りもしました。

悩みだってそうです。
子どもなりに悩んだり苦しんだりしましたが、楽しいことがあったら、気持ちの切り替えは早かったのではないでしょうか。

私たちはみんな、未来永劫、3歳児のように無垢な心のままです。

誰だって、親の前に出れば、みんなすぐにそうなります。
だから、人質の立てこもり犯が居れば、お母さんを呼ぶわけです。

情とは、つまり心そのもののことです。
私たちがどんなに汚したとしても、ただその表面が汚れるだけで、心そのものは絶対に汚れることはないのです。

ですから、今それが見えなくても、それは昔と変わらず綺麗なまま存在しています。
それは絶対に否定できない真実です。


そして、神社を尋ねますとそのことに気づく瞬間があります。

お社に手を合わせた時に、フワーッと心の底から幸せな気持ちに全身が包まれることがあるかと思います。
よく来たね、と頭を撫でられる感覚です。

それはまさに、子どもの頃のあの充足感そのものです。
私たちがいい歳になったところで、天地の存在は、その心だけを見ているということです。

背伸びをしてたり、肩肘を張っていたり、それどころか自分自身それが真の自分だと思い込んでいても、すべてお見通し。
ハナからそんなものを飛び越えて、素っ裸の私たちそのものを優しく撫でてくれるわけです。

社会的な立場にしても、家庭のなかでの役目にしても、それはそれで大事なことです。
でも、それはそれです。
私たちの心は、純粋無垢な3歳のままです。

それらは当たり前に両立するものです。

すでに天地がそのように見ていることからも明らかですが、それより何より、そもそも私たちの親は最初から私たちをそのようにしか見て
いないではないですか。

いつまでたっても子ども扱いされることに、参ったなぁと思うかもしれませんが、それは親の思い込みなどではなく、実は私たちの思い込み
なのです。
母や父は、私たちの純粋無垢な心を、昔と変わらず、ありのままに見ているのです。

見当違いな思い込みで自己否定することはありません。

余計な縛りを捨てれば、その心は当たり前に現れます。
あとはただ安心して、野原へと駆け出せばいいのです。



お伊勢さん

2017-03-11 08:55:55 | 国を常しえに立てます
今日は伊勢に向かっています。

何も考えずに今日というスケジュールになりましたが、昨晩、旅の準備をしていた時にフト切符の日付が目に入った瞬間、表現できないものが
ドーンと滝のように怒涛の勢いで流れ込んで来ました。

最初は心落ち着けようと踏ん張ったものの、次々と押し寄せる勢いで胸が張り裂けそうになり、堪えきれず涙が止まらなくなりました。
それは毛穴という毛穴から、あるいは口を開ければその口から、全身のすべてから溢れ出るような、歯を食いしばっていなければ嗚咽が
漏れてしまいそうなほどのエネルギーでした。

個というものはなく、幾万もの微細な集まりが、途轍もなく大きなところから流れ込んでくるような感じでした。

そして今朝は4時半に起こされました。
本当は12時すぎの出発予定でしたので、溜まった寝不足を解消するつもりだったのですが、全身の細胞が完全に覚醒してしまったので
否応もなく諦めて早出することにしました。

でも何故、今日という日がお伊勢さんなのか。
東北と伊勢の繋がりというものは、普通に過ごしているとなかなか見あたりません。
ドーンというのが来なければ、完全に切り離しているものでした。

こうなのだろうと思うことはいくつかあります。
とはいえ、そのボンヤリしたものをハッキリさせようというのは余計なことにしかなりません。
ボンヤリしたものはボンヤリしたまま放っといたほうがいい。

私たち一人一人は代表でもあり、代わり身でもあり、私たち自身でもあります。

手を合わせて一つになった時、何かが起きているわけです。
これを人間考えでアレだコレだと判断すると、事実が歪められて、本来なすべきことも為されなくなります。

私たちの自我が見える範囲というのは極めて限定的なものでしかありません。
そして、元の本の素のところから、コレだというものが溢れて来たとしても、そこについてアレコレ考えてしまうと、その瞬間ミソがついて
しまい、たちまち限定的な決めつけと化してしまいます。

世に言う、自分がドコそこへ行ったから地震がおさまったとか、天にあがったとか、護られたとか、本来そういうことは無いものでしょう。
確かにその人も、そうした一人なのでしょうが、たった一人でそのようなことは無いと思います。

それぞれ自分で気がついていなくとも、何人もの人たちが様々にそのようなことをやっています。

数多くの光がポッと灯る。
薄明かりのもと、幾万ものローソクにやわらかなともし火が揺らぐ。



それぞれにお詣りし、あるいはその地を訪れ、手を合わせ、ただ心を鎮めています。
何か大掛かりな神事をやるわけではありません。
静かに落ち着きクリアになっていることが何よりも大切となります。

ですから、地震をおさめるとか、天にあげるとか、そういう思いを持っているほうが、かえって波立ち、濁り、塩梅が良く無いわけです。

自分で何も分かっていない状態が最上と思います。

見えない世界のほうが何となく凄いように思いがちですが、どちらが上も下もありません。
実際、霊体では限界がありますが、この肉体あればこそ出来ることも山ほどあります。

結界の張られている場所や、エネルギーの強い場所、伊勢神宮のような御神域(まさしく神の領域)など、普通の霊体では入れない場所でも
それとは次元の異なるこの肉体であれば関係ないわけです。

肉体は壁を通り抜けられませんが、空間は通り抜けられます。
霊体ではその逆のことが起きているということです。

ただ、それは違う場面、たとえば危ない場所であっても平気でスイスイ入れてしまうことも意味しますので、注意は必要です。
封じている場所や結界には絶対近づいてはいけません。

とにかくこの世に生きている私たちだからこそ出来ることがあるということです。

「意味」などというものは必要のないことですし、余計な味噌をつけるだけで何の役にもたちません。

分からないことは、分からなくてもいいことです。

ただ楽しみ、喜んでいればいい。

私たちは誰もがみんな天地を貫く柱です。

それは、お役目でもおつとめでもなく、営みと言えるものではないかと思います。


大草原の小さな私

2017-03-11 07:59:00 | 心をラクに
人生は、よく登山に喩えられたりします。
そして頂上へ向かう道は一つではなく、いくつもあるのだと聞くと、うんナルホドと思うものです。

ただ、この喩えというのは誤解を招く恐れがあります。
それは、頂上という目的地に向かって様々な道を引いてしまうからです。

また、頂上というイメージも良くありません。
例えばそこに辿り着いたあとを想像しますと、さて次はどうしようと思った時、もう歳も歳だと自分の体力や気力に限界を感じてしまって
次なる登山、つまり新しいことへの一歩をとてもハードルの高いものに思い込んでしまいます。

「上に登っていく」というイメージがハードさを想起させてしまうわけです。

登山という譬えから脱しないまま話を進めていきますと、残りの余生はただ山をおりる道になりかねません。

確かに、下山というものも、それはそれで大きな意識変化をもたらすものではあります。
頂上を目指していた時には見えなかった足下の花や眼下に広がる街並み、人の営みが、下山の時にはとてもよく感じられます。

その謙虚さが老年の真骨頂であり、新たな味わいを生むというのもまた事実です。

でもそれ以前に、登りだとか、下りだとか、登山という観念から離れてしまった方が、年齢や状況に関係なく心は軽やかなままとなるのでは
ないでしょうか。

そこには、行きだ帰りだという考え自体が存在しなくなります。
さらには、頂上なるものもありませんから、何歳になろうとも体力気力に関係なく、今すぐ新しいことに心を向けられます。

そもそも私たちは、いくつになっても私たちのままです。

歳を取るというのはあくまで肉体の話でしかないのですから、身体を使う登山に喩えるのは初めから限界があると言えます。


さて、実際の登山を見ますと、下山の喜びというのは、登頂という目的から解放されてホッとし、パーっと世界が広がるところにあります。

何かに囚われ黙々と歩いている時というのは、目に入るものが限られ、心に映るものはわずかとなります。
特に一本道を歩いている時ほど、そうなりがちです。
それが黙々と作務のような集中であればいいのですが、自動的な惰性になってしまうと心は雑念に埋め尽くされてしまいます。

ということは、登りだろうと下りだろうと、目的に囚われず、道に縛られずにいれば、青い空や野に咲く花、広大な大自然を満喫できると
いうことになります。

それはもはや登山ではなく、単なる散策と何ら変わりません。
こっちに行こうと思ったけど、こっちの方が気持ち良さそう。
そんな感じです。

そうなると、登山でなくて平地でも同じということになります。
登るという概念もさる事ながら、行く先へと道が引かれてしまうところに縛りが生じるわけです。

実際、人生を歩んでいく時、私たちは知らず知らずに自分の道を引いています。
すると、いつしかその道そのものが主となり、私たちはただそれに沿って進むだけの存在と化してしまいます。
それはまさしく、道というものに私たちが隷属している状態であるわけです。

未来に向けて引いた道。
そこから外れないようにする一歩一歩。

自分でハンドルを握っていると思っていても、実際はゴルフ場のカートと同じ、自動運転のゴーカートと変わらないということです。

道というのは自ら作り出した虚構、幻想の縛りでしかありません。

そもそも頂上とは、今ココにはない何処かです。
今ココには存在しない未来と、今ココとを繋ごうとするから、そこに一本道が出来てしまいます。

そうして“この道しか無い”と頑なになってしまうと、見えるものも見えなくなって、心も苦しくなっていきます。

もちろん、その道にも野の花は咲いているでしょう。
そうした花に目をやる心があれば、その道にも多くの喜びがあるはずです。

どのような一歩であろうとも、それが今ココであるのは絶対の真理です。

ですから、どんなにツラく暗い一歩であろうともそれをしっかりと味わいきることが大事だというのはこれまでも書いて来たとおりです。

それ自体は変わることのない話ですが、今日はそこからさらに少し視野を広げた話をしています。
それは、道というものに知らず知らずのうちに囚われてしまってはいないか、ということです。

一本道に囚われている苦しみは、野の花だけで癒されるものではありません。
黙々と一歩一歩を踏みしめていくのはとても大事なことですが、囚われをなくし視野を広げたならば、その一歩一歩は真に自由な一歩になる
でしょう。

頂上を目指すこと自体はいけないことではありません。
ただ、道そのものに囚われてしまうと、これは苦しみの世界でしかなくなります。

夢や目的にしてもそこに囚われず、行く先を遠目に仰ぎ見て、ホォホォいいねぇと思ったら、あとは気にせず放っておいたほうが、今ココの
景色を堪能できるというものです。

そうすることで、道に囚われること無しに進めるようになります。

そしてその時、私たちは、道そのものが存在しなくなっていることに気がつくのです。


まだ小さな子供が学校生活に悩み苦しむ姿を見ますと、私たちは「学校だけがこの世の全てじゃないんだよ」「今の友だちだけが全てじゃ
ないんだよ」と声をかけたくなります。

狭い世界に自ら追い込むその姿を痛ましく思い、もっと大きな世界があることや、新しく何でも出来ることを教えてあげたくなるでしょう。

でも、その小学生や中学生の姿というのは、まさしく今の私たちの姿だと言えるかもしれません。

思い込み。
それは広大なこの天地宇宙を、わずかひとすくいの狭い世界に変えてしまいます。

ただ、小学校にしろ中学校にしろ、単に嫌だから行かないというのでは擁護することはできません。
面倒だったり、つまらなかったりするくらいで行かないのは単なる登校拒否です。
一本道だ何だという以前に、まずは歩かないと話にならない。
それは今の私たちにも言えることであります。

しかし、この世に絶望して死んでしまいたいと思うくらい学校がツラい、あるいは面白くないとなれば、話は別です。
本当に死んでしまうくらいならば、学校を辞めたり転校したりするほうがいいに決まっています。

これもまた今の私たちにも当てはまることであるわけです。

根本的な話としてまず、学校が嫌だったとしてもそれに耐えて通うことに大きな意味があります。
ただ、うつむいて自分の足しか映らずにそれをやるのと、正面を向いてやるのとでは雲泥の差があるということです。

いつでも新しいことは始められるという感覚を持ち、無限の選択肢が目の前にあると理解しておくことは、逆に、目の前の一歩一歩を
味わいきるコツにもなっていきます。


まわりの環境やまわりの人たちは、そうした気持ちを折るようなことを畳み掛けてくるかもしれません。
しかし、どのような一歩であろうとも、それは決してまわりが決めたものではなく、どこまでいっても私たちが選択しているものだと理解する
ことです。

たとえまわりからの要望に迫られて選んだのだとしても、それは他の選択を諦めて仕方なしにそれにしたわけではなく、自分が「積極的に」
それを選んだということなのです。

私たちは、常に、自分で、今この一歩を選んでいます。
そうでなければこの世に生きていられません。
受け身の選択などは、生涯、一度もないのです。

まわりが何と言おうと、いくつもの選択肢があると知った上で目の前の一歩をあゆむことがとても大きな意味となります。
しかし、自分までも選択肢は一つしかないと思った瞬間、本当にそこには他に何も無くなってしまうということです。

そして実は、いくつもの可能性があるとただ知っているだけで、そのあと選択や決定をしなくとも、いやむしろ選択や決定をしない方が、
新しい何かに向かっていくことになるというのがこの世の真実ではないかと思います。

ネガティヴな選択であろうとポジティブな選択であろうと、そこに我執があるかどうかが分かれ目になります。
そして、目的へ向かって引かれた道は、その我執を強化するものになりかねないのでありました。

つまり、選択そのものは間違いなく自分がやっていることですが、その判断が我執に因って決まる。
しかも、そうなっていることを自分で認識せずに、自動モードでやってしまうということです。

これまでと同じ職場、同じ家庭という「一歩」にしても、まったく異なる「一歩」にしても、どちらもイーブンです。
その一歩をまったく異なるものだと捉えてしまうと、レールの切り替えという大決断が必要になります。

私たちは、目の前に道が続いていると思い込んでいます。
実際はそんなものは存在しないのに、何故か私たちの頭にはそれがハッキリと存在しています。

定年まで働いて家のローンを返すという道。
子供が大学を出るまで給料を稼ぎ続けるという道。
仕事仲間や友人、家族と生涯仲良くやっていくという道。
いつまでも健康に暮らして平和な老後を過ごすという道。

それらはどれも自分の中の幻想でしかなく、そんな道など、もともと存在しません。
どれもが結果としてそのようになっただけで、終わってみるまでは、道などは存在しないのです。

ですから逆に「仕事を辞めて稼ぎが無くなり、家を差し押さえられ、寒風に吹かれながら余生を過ごす道」というものも当然存在しません。

そこにあるのは常に、今ココの一歩だけです。

道から外れたとか、道をつけたとか、そのような「道」というものは、どこにも存在しないのです。

いま歩いている「道」。
それとは違う、どこかへと続く「道」。

そんなものは無いのです。

ですから一歩一歩において「コレもしくはアレ」という選択は存在しないということです。
そこの意識をクリアにする必要があります。
あえて言うならば、すべて目の前にある「コレ」「コレ」「コレ」であるわけです。

あらゆる可能性はいつもすぐ目の前にあります。
その中の一つを私たちは、毎瞬、選び続けているのです。


その結果として、会社勤めも満期終了となっているかもしれませんし、まったく違う展開となっているかもしれません。

でもそれはあくまで結果に過ぎないということです。
どんなものであっても、今の目の前の一歩一歩を歩んだものでしかないのです。

人生を賭けたような一大決心といっても、バーンと切り替えたと思っているのは自分だけで、それは昨日の一歩と何も変わらないのです。

大決断にしてもそこでまた新たな道を作ってしまうと、またそこに縛られ、昨日と同じ苦しみを続けることになります。

いつだって決めつけや思い込みは、数ある選択を消し去ってしまい、一本道しか無いという幻想に苦しむことになるのです。

幾万の道を遠のけてしまう言い訳は沢山あるかもしれません。
経済的事情、人間関係、家族関係…
確かにそれらは一つの事実です。
でも、それはそれ、これはこれです。

事実から目を背けるということではなく、事実は事実として受け入れます。
決して軽んじたり否定したりするものではありません。
でも、それと同じように、幾万もの一歩が目の前に存在することも消し去ることのない事実であって、それもまた受け入れなくてはおかしい
わけです。

積極的に異なる選択をする必要はないかもしれませんが、積極的に異なる選択を消していく必要もないのです。


知らず知らずのうちに引かれた道というのは、延々と続く一本道になりがちです。
それはまた、限られた一歩を無意識のうちに選択し続けることを意味します。

露頭に迷うという不安が、私たちに道を作らせました。
しかし何のことはない、そこにあるのは一面に広がる大平原であるわけです。

道などありません。
どこへ踏み出すのも全てイーブンです。
そもそもコレとかアレとか選ぶ場面など存在しないわけです。

それを「路頭に迷う」と捉えるのは物凄い屁理屈でして、普通はそれを自由というのではないかと思います。

そして、その景色をいま一度想像して見てください。

見渡すかぎり広がる大平原を前にした時、子どもの頃の私たちは、理屈ぬきに全身喜びに溢れながらキャッキャッと走りだしたでしょう。
その記憶は今もハッキリ残っているはずです。

まさしく世界はキラキラと輝いていたわけです。

そして、今だって広々とした景色を前にすると同じ気持ちになのではないでしょうか。

なぜ子供の頃は世界がキラキラしていたのか。
つまりは、そういうことなのです。



自分の描いた一本道は安全な道だと、なぜか私たちは確信しています。
そこから外れることは危険を伴い、既知こそが安全の保証だと信じきっています。

でも、どれほど頑張っても私たちはほとんど何も知らない存在です。
そして、そもそも知らないことに喜びを感じるからこそ、知らない状態で生まれて来ているわけです。

自分が何も知らないということ。
この世は無限の未知に溢れているということ。
そして道など存在しないということ。

それがキラキラの正体です。

仕事にしろ、趣味にしろ、人生にしろ、その道の熟練者に成ったり、事を成したり、形を残したりというのはどれも結果に過ぎません。
「未知に触れて、それを受け入れていく」
その繰り返しが、結果として何かの形となるだけであって、結果を築きあげるところに私たちの人生があるわけではありません。

私たちの生きる核心は、未知に触れることにあります。

知らないことは恥ではありません。
それは喜びです。


ですから、何歳になろうとも、またどんな状況に置かれていようとも、何かを始めることに遅いということは絶対に無いわけです。
どの一歩であろうと間違いということは絶対に有り得ないわけです。

目の前に延びる道。
そんなものはどこにも存在しない幻想です。

道開きの神様という存在にしましても、私たちは何か新しい道をスーッと引いてもらえるものと考えがちですが、そうではないわけです。

実際は、いまの幻想を少し霧散させるだけです。
夢遊病者やロボットのように機械的に進もうとする私たちの一歩を解いて、ほんの少し自由にさせるということです。

振り返れば、歩んで来た景色を「道」と言うことができるかもしれません。
ただ、それはどこまでいっても便宜上のものでしかないわけです。

私たちはいつだって360°全方位に広がる大草原に居ます。
キラキラと輝くその世界で、今も、いつでも自由自在にあるのです。

(おわり)

キラリキラ

2017-03-05 13:04:58 | 心をラクに
子供の頃、どうして世界はあんなにキラキラしていたのでしょうか。

私たちにとって大人になっていくというのは成長していくことであったわけですが、ではその成長というのが何を指すのか、実はとても曖昧な
ものでしかありません。

物事をたくさん知ること、色々な経験をして学習していくこと、落ち着いていくこと…
それはこの世界を安心無事に生きられるようになることだったと言えるかもしれません。

実際、私たちは年とともに冷静にあれこれ対処できるようになりましたし、年相応に落ち着いてもいきました。
それこそは子供の頃に見上げた、いわゆる大人の姿だと言えるでしょう。

ただその結果として、自分はそこそこ知っていると思うようになり、気づいてみれば世界は輝きを無くしていました。

しかし、本当に世界は私たちの知っていることばかりなのでしょうか。
私たちはそれほど知っている状態にあるのでしょうか。

単に安心して生きていくための知識や経験を得ただけで、この世界に対して勝手な線引きをしては居ないでしょうか。

私たちは「ただ生きるために生きている」のではありません。
安心して生きられることが目的になってしまうと、世界はたちまち狭いものとなり、途端に目新しいものはなくなってしまいます。

この世界というのは知らないことだらけです。

生きるために必要か必要でないか、そんなつまらない線引きを解いた瞬間、膨大な未知に満ち溢れた世界が目の前に現れます。
そのスケールは、私たちはほとんど何も知っていなかったと言いたくなるくらいのものでしょう。

私たちは、ただ「自分たちが知っていない」ということを知っていないだけなのです。

世界は知らないことに溢れています。
知っていることの何億倍もの未知に満ち満ちています。


子どもの頃のキラキラは、今でも初めての土地へ旅行する時のワクワクに近いかもしれません。
それはそこに未知が広がっているという事実と、受け手の私たちの認識とがピタリと合致したことによって現れるものです。
未知を味わえることを「知っている」がゆえのワクワク感であるわけです。

逆に、内的な認識がズレてしまっている場面、例えば「未知の経験なんて期待できない」と思い込んでしまうと、そこにいくら外的な事実が
存在していようとも、キラキラもウキウキも現れることはないということです。

自分はかなり知っているなどと思い込んでしまうと、そこにあるものが何も目に入らず何も聞こえなくなってしまいます。

これは身近なところでもある話で、習い事ひとつ取っても、いくら師範が多くのことを伝えようとしても弟子が勝手な一人ガッテンをして
しまうと、事実の10分の1も伝わらないのも同じ理屈です。

結局は私たち一人一人が、何を見ようとしているか、どこに心が広がっているか、外に向いてるか内に向いているかということで決まって
しまうわけです。

伝統の世界では師匠が弟子に物を教える時、全てが空っぽになるまでは何も教えないと言います。
親方は言葉で何かを説明したり教えるようなことはしない、何年も黙って雑用だけを命じる。

というのも、私たちというのは知らず知らずのうちに、自分の経験や知識、価値観を軸に置いて、目の前の物事を理解しようとするからです。

新しい情報に触れると、自分の中からそれに近いものを引き合いに出して、そこに新たに肉付けしたり比較したりする方が効率的だからです。

進化の歴史の中で、日ごろから私たちは本能的にそのような選択をするようになりました。
しかしその結果が、事実の10分の1の理解だったり、あるいは思い込みにより明後日の方向に行ってしまい全く誤った理解になってしまう
こともあるということです。

ですから、伝統の世界では物凄く効率の悪いことを大事にしています。
何も考えず愚直にゼロから積み上げていくのは時間も手間もかかって極めて非効率なことです。
でも、空っぽにしないと10の事実が10として伝わらないのです。

そして私たちが子供の頃はまさしく、この空っぽの状態でした。

自分は何も知らない。
そのことを当たり前に、素直に、受け入れていました。


この世は、私たちの知らないことが詰まり詰まっているのが真実です。
自分が何も知らないということを受け入れた瞬間、この世界はキラキラとした輝きに満ち溢れるでしょう。

子供の頃は無邪気で良かったなぁと遠くを見るのは間違いです。

私たちは、今だって何も知らないのです。

それは謙遜でもなければ謙虚さでもありません。
単なる事実です。

子供の心は今ココにあります。
どこか遠くへ行ってしまったというのは、単なる思い込みでしかありません。

汚れちまった悲しみも、私たちがそうだと決めつけたものでしかありません。
何一つ汚れることなく、その心は同じまま今ココに在り続けているのです。



(つづく)