今回は武道的な話を交えながら進めたいと思います。
日本というのは奇跡的なほどに平和で安全な国と言われますが、そのことは海外に出ると骨身に染みて感じるものです。
先進国であろうと、都会の駅前であろうと、とにかく海外は物騒な雰囲気が当たり前に漂っています。
そしてイタリアというのはとにかくスリが多くて有名な国です。
日本でスリと言えば手練れな単独犯を想像しますが、海外では複数犯で連携するのがオーソドックスなんだそうです。
そのやり方はとても巧妙で、たとえば昔よくあったアイスを服に付けるという手法は今ではオイルやインキを使ったものへ代わっている
と言います。
このタイプのスリというのは、ターゲットを慌てさせたり怒らせたりして注意を逸らそうとします。
アイスがあまりに有名になりすぎたというのもあるでしょうが、ターゲットの冷静さを奪うのならば、よりショックを受けて激怒する
ような内容に変わっていくのは自然な流れと言えるかもしれません。
私たちは誰しも、動揺したり怒ったりすると、瞬時に落ち着きが消えて、囚われの世界に入ってしまいます。
「どうしようどうしよう」と頭がぐるぐる回ってしまったり、カーッと怒髪天を衝いて周囲が何も見えなくなってしまったりです。
全身が感情に染まると、心は分厚い暗雲に覆いかぶされて、岩戸の奥深くへと追いやられてしまいます。
すると、目に映る景色というのは頭だけの世界になってしまいます。
パニックで頭がぐるぐる回っている時は、目に映る景色も焦点が定まらずぐるぐる回ってしまいますし、怒りに我を忘れている時は、世界は
怒り(=怒りの対象)しか存在しなくなります。
実際、観光地の綺麗な景色や建物などを前にして晴れやかな気分に浸っている時に突然オイルやインキをつけられてしまうなんて、もう
想像しただけでも頭に来てしまいます。
まわりが見えなくなっている人間など、スリからすれば赤子の手をひねるようなものでしょう。
スリの手口というのは他にも様々あるようで、例えばそうした観光地で「写真を撮りましょうか?」と親切に声をかけてきて、
ご機嫌な気分でカメラの方に意識を向けていると、その隙に仲間が背後からスってしまうというのもあるそうですし、また小銭や荷物を
ワザと近くで落として、人のいい我ら日本人がそれを拾っている隙にこれまた背後から仲間がスってしまうというのもあるそうです。
いずれもターゲットが「心ここにあらず」になってしまっている点が共通しています。
心が何か一つのことに囚われてしまっている時、目に映るのはその景色だけになってしまいます。
自我が意識したものだけしか映らなくなる、自我の外のものは映らなくなる、ということです。
逆を言えば、心が今ココにある時は、天地の景色はすべて映り込んでくるということになります。
スリにせよ、犯罪者にせよ、ターゲットに選ぶのは、見るからに「心ココに非ず」になっている人間です。
普段から心が散漫な人間なほど、当然、先ほどのようなトリックには引っかかりやすいわけです。
つまり、ボーッとしていたり、何かに心が奪われているような姿を見つけたら、それこそ格好の獲物ということです。
それは言葉を変えれば「スキがある」ということになります。
スリにしても、あるいはそれ以外の犯罪にしても、そもそもターゲットにされた時点でアウトです。
隙を作った人間が、いくらその時その場で速やかに心を切り替えても、ほとんど手遅れです。
武道においてもそれは同じで、組手をする際に互いに礼をしてからスイッチを入れるのでは遅すぎます。
何故なら、オンとオフという切り替えを行なう時点ですでに自我の作為が入り込んでしまっており、天地からは断絶してしまっている
からです。
さらには、最初にオン・オフという「上げ下げの波」を生じさせてしまっていること自体、その後の波立ちの因子となります。
上げっぱなしをキープするというのは、要は、気が張った状態を保つことであり、それはつまりプツリと切れたらお仕舞いということ
でもあります。
そして、仮にそれが切れなかったとしても人為的に支えてるという不自然な状態には必ず緩みが生じます。
それがすなわち隙となるわけです。
オン・オフのスイッチを握った状態というのは、言い換えれば、我の張った状態であり、それは相手と接触した時に「力対力」の世界
になるということでもあります。
相手という我と、自分という我のぶつかり合いは、刀と刀が一点でぶつかり合っている状態と同じですから、結局は筋力が強い方が
勝つという論理になってしまいます。
人を襲おうなんて考えている連中は、もとより腕力に自信のある人間ばかりです。
あるいは武器を使ってその腕力をさらに強めようとすら考えることでしょう。
そんなのと同じ土俵に立ってしまうのはリスキーでしかありません。
いつも一対一になるとは限らず、また素手とも限らないのですから尚更です。
相手と違う土俵、つまりオン・オフの無い状態、最初からスーッと広がっている状態、つまりス(素)の状態というのが大切になるわけです。
それは相手から見れば、捉えどころの無い状態。
引っかからない状態。接点の無い状態。
すなわち、隙の無い状態に映ります。
そして、オフを無くすためには、そもそもオンが無ければ良い。
逆にオンを無くすためには、オフが無ければ良いということになります。
つまり、気張らなければ気が抜けることもないわけですし、逆に気の抜けた状態が無ければ、気が張った状態というものも起きないと
いうことです。
そうした気の抜けた状態や、気が張った状態、そのどちらの状態とも対極にあるのが、落ち着いた状態です。
言い換えれば、リラックスした状態こそが、争いとは無縁の土俵となります。
赤ん坊を見て、攻撃しようという気が起きないのもそうした理由によるものでしょう。
決して、か弱いからやってはいけないという理性だけによるものではありません。
それは人間以外の動物であっても、人間の赤ん坊を前にして攻撃しないことでも証明されています。
赤ん坊にせよ、高僧にせよ、天地と一体になっている存在を前にすると、あらゆる存在は心が穏やかになっていきます。
まるで、ポカポカ陽気の日なたに触れたように。
何故ならば、あらゆる存在も、そもそも天地そのものだからです。
オン・オフというのは、自我がスイッチを入れることで発生するものです。
すなわち、オンないしオフというのは、自我の現われということです。
天地に溶け込んでいく状態というのは、自我が薄まっていくことと同意です。
そして自我の濃淡というのは、心の波立ちによって知ることができます。
波立ちが無くなれば、それだけ天地に近づいた状態になっていくということです。
ですから、心が落ち着いていれば、オン・オフとは異なる次元に身を置くことになります。
スリや暴漢のように我欲が全身に溢れている人たちは当然スイッチがオンの状態になっていますので、そんな人たちと同じ空間の中に
オフの状態の人間が居ようものなら、彼らは肌ですぐその存在を感じ取り、カモとしてその目に映りこむことになります。
それは空間の歪みというか、揺らぎというか、空気の波立ちとして、スッと感じ取られることでしょう。
まさしく蜘蛛の巣のようにです。
目で追って探そうとしなくとも、その違和感、その揺らぎを皮膚でキャッチする。
そして目に映り込んだ時にハッキリとターゲットとして確認されることになります。
しかし、こちらが心の落ち着いた人間であれば、その自我の網とは違う次元に居るために、目に止まることもなくターゲットになる
ことも無くなるでしょう。
つまり、事が起こる前の状態というのが、全てを決めることになってくるわけです。
静かな状態を求めるなら、その状態を追うよりもまず先に、波立ちそうな様々な状態をあらかじめ身体に通しておくことが有効となります。
例えていうならば、力みを手放すためには、最初に思いっきり力を入れれば、そのあとスーッと力みが消えていくのと同じ原理です。
力みを遠ざけようとすればするほど力みを意識してしまうように、波立ちを遠ざけようとすればするほど波立ちは心の中でその存在感を
増します。
静けさばかりを追っても、いざ事態が波立った時には頭や身体はその波に引っ張られやすくなってしまうということです。
ですから、事前に体験済みとなれば、実際にコトが起きても心は波立ちに影響されず、落ち着いて対処できるようになります。
何事もそうですが、あらかじめ酷い状況を様々にシュミレーションして、キチンとその解決法までを心に落とし込むことは実際に危機を
招かないコツとなります。

さて防犯の話に戻りますと、その場合の最悪想定というのは「こちらが隙を作ってしまい、気の緩んだ状態からスイッチをオンして
対処せざるを得ないような状況」となります。
それは、力対力になってしまい、相手と力がぶつかってしまった時でもあります。
そんな時は、力を外すか、その力を利用することになります。
つまり相手の力に対して技術でしのぐということです。
いなす、と言っても良いかもしれません。
ちなみに合気道というのは相手の力を利用する武道と思われていますが、この場合の「相手の力」というのは、いわゆる筋力的な力や
物理的な勢いを指す流派もあれば、目に見えない氣を指す流派もあります。
後者に関しては自分が氣の抜けた状態にあると全く技が掛かりませんので、先ほどの最悪想定の場合は前者のやり方を使うことになります。
柔道も高段者になると前者と後者の両方を合わせた形になりますが、ここではあくまで前者の方を使うことになります。
四つ相撲からのドタドタした崩し方になってしまいますが、心が相手と同じ土俵に居るのですからそれが当たり前となります。
子供の喧嘩状態です。
そしてここでの落とし所としては、スマートさは必要なく、最後に逃げられればOKということになります。
相手を制圧することなど考えたら絶対にアウトでしょう。
取り分け、拳で殴るというのは最悪の対処法と言わざるを得ません。
本能的に、やられたことをやり返すのが人間です。
自らドロ沼を呼び込むことはありません。
ここでは相手を崩してその隙に逃げるというのが、相手の土俵から降りる最上の道となります。
そのようなわけで、出国前は忙しさと体調不良とでほとんど旅行支度はやれなかったのですが、唯一、有事の備えとしての心の準備だけは
しっかりやることにしました。

それは具体的には、襲われるパターンをいくつも想定し、長くやってきた流派だけでなく他の技術もおさらいして身体を通すというもの
でした。
一つのやり方だけにこだわると、いざという時に技が掛からないと頭が真っ白になってしまいます。
頭の中に道が一つしかないとそのまま進もうとしてしまい、我執の世界にズブズブと沈んでいって絶対に掛かることはなくなります。
この技を掛けよう!これしか無い!
と頭の中がそれ一色になってしまっている時というのは、相手にもその心が伝わり、それとは正反対のベクトルに全力で抵抗されてしまいます。
無意識のうちに本能的にそう動くように私たちの身体は出来ています。
バックドロップをかけられそうになったら前屈みになって堪えますし、払い腰をかけられそうになったら後ろに重心を移して堪えようと
します。
これは子供であろうと女性であろうと同じです。
そのような状態から、ぶっこ抜きのジャーマンをかけるというのは、よっぽどの実力差、筋力差が無ければ出来ません。
ですから、いつでもいくらでも切り替えが出来るという心の冷静さが必要になります。
そしてその冷静さというのは、日ごろの心構えによるところが大きいと言えます。
普段から「正解はコレしかない」という一本気な考え方をしていたり、「何としてもこれをやりたい」「こうでないと嫌だ」と固執しがち
な性格ですと、瞬時の切り替えというのは難しくなるでしょう。
道というこはこれ一本だけではなくいくつもあるもんだ、という気持ちにあれば、いざという時にも落ち着き保つことができます。
ですから、それを護身に当てはめるならば、実際に引き出しが多ければ多いほどパニックにならないということになります。
押さえ込まれた時の対処、複数相手、長物の対処、ナイフや拳銃まで想定しました。
もちろん本当にそれが必要な場面に出くわしたら、そんな付け焼き刃は役には立たないと思います。
ただ何も知らないよりはマシで、大難を小難で済ませられる可能性は確実に増します。
何より、そのような最悪想定をすることで心が落ち着き、実際にそうした事態を招かないことになるというのが一番大きいわけです。
喧嘩に巻き込まれる人というのは、心の中でそういうことを求めていて自ら招き寄せていると言えます。
それが喧嘩自慢でなくて心配性の人だったとしても、心の奥底でそれを思い続けることで逆に現実化させることになってしまいます。
やれることはやったと達観できたらば、心配というのは手放せるものです。
だから、様々な想定とその対処というのは有効であるわけです。
これは学校のテストなとで経験していることではないかと思います。
何が出てくるか分からないという意味では、テストもまた状況は同じと言えます。
そしてしっかりと事前準備をした時ほど、焦らず落ち着いてそれに臨めたのではないでしょうか。
あとの結果はともかく、現場のその瞬間の心の状態こそが大事です。
私たちは海外に行けば、完全に外国人です。
一人一人が自国の代表として見られます。
日本というのは、温かくて優しい国です。
しかしそれは、ひ弱な謙虚さとは違います。
天地のように大らかな優しさであり、それこそが本当の強さでもあるわけです。
心に笑顔を。暴漢が来ても心に笑顔を失わずに居れば、それはそのまま相手に返っていきます。
これは日ごろの人間関係にも言えることです。
天地の理とは「自らの与えたものが自らに与えられる(返ってくる)」でした。
有事にあっても、カッとせずハラハラしたりもせず、心変わらず天地とともにあれば「我、鏡と化す」です。
「寄らば斬る」の心とは、波静まった水面のごとき自我の消えた穏やかな心のことだと言えます。
己の刀が相手を斬るのではなく、鏡と化した水面に映る相手の刀が、そのまま相手自身を斬ることになるのです。
そのような状態にある時、そもそも相手は斬りこめなくなります。
つまり、スリや犯罪のターゲットにされることも無くなるということです。
戦わずして勝つというのは、気迫がみなぎった状態などではなく、むしろ全く逆の、心が静かに落ち着きはらった状態だったわけです。
そして、その鏡というのは天照様そのものでもあるのでした。
(つづく)


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日本というのは奇跡的なほどに平和で安全な国と言われますが、そのことは海外に出ると骨身に染みて感じるものです。
先進国であろうと、都会の駅前であろうと、とにかく海外は物騒な雰囲気が当たり前に漂っています。
そしてイタリアというのはとにかくスリが多くて有名な国です。
日本でスリと言えば手練れな単独犯を想像しますが、海外では複数犯で連携するのがオーソドックスなんだそうです。
そのやり方はとても巧妙で、たとえば昔よくあったアイスを服に付けるという手法は今ではオイルやインキを使ったものへ代わっている
と言います。
このタイプのスリというのは、ターゲットを慌てさせたり怒らせたりして注意を逸らそうとします。
アイスがあまりに有名になりすぎたというのもあるでしょうが、ターゲットの冷静さを奪うのならば、よりショックを受けて激怒する
ような内容に変わっていくのは自然な流れと言えるかもしれません。
私たちは誰しも、動揺したり怒ったりすると、瞬時に落ち着きが消えて、囚われの世界に入ってしまいます。
「どうしようどうしよう」と頭がぐるぐる回ってしまったり、カーッと怒髪天を衝いて周囲が何も見えなくなってしまったりです。
全身が感情に染まると、心は分厚い暗雲に覆いかぶされて、岩戸の奥深くへと追いやられてしまいます。
すると、目に映る景色というのは頭だけの世界になってしまいます。
パニックで頭がぐるぐる回っている時は、目に映る景色も焦点が定まらずぐるぐる回ってしまいますし、怒りに我を忘れている時は、世界は
怒り(=怒りの対象)しか存在しなくなります。
実際、観光地の綺麗な景色や建物などを前にして晴れやかな気分に浸っている時に突然オイルやインキをつけられてしまうなんて、もう
想像しただけでも頭に来てしまいます。
まわりが見えなくなっている人間など、スリからすれば赤子の手をひねるようなものでしょう。
スリの手口というのは他にも様々あるようで、例えばそうした観光地で「写真を撮りましょうか?」と親切に声をかけてきて、
ご機嫌な気分でカメラの方に意識を向けていると、その隙に仲間が背後からスってしまうというのもあるそうですし、また小銭や荷物を
ワザと近くで落として、人のいい我ら日本人がそれを拾っている隙にこれまた背後から仲間がスってしまうというのもあるそうです。
いずれもターゲットが「心ここにあらず」になってしまっている点が共通しています。
心が何か一つのことに囚われてしまっている時、目に映るのはその景色だけになってしまいます。
自我が意識したものだけしか映らなくなる、自我の外のものは映らなくなる、ということです。
逆を言えば、心が今ココにある時は、天地の景色はすべて映り込んでくるということになります。
スリにせよ、犯罪者にせよ、ターゲットに選ぶのは、見るからに「心ココに非ず」になっている人間です。
普段から心が散漫な人間なほど、当然、先ほどのようなトリックには引っかかりやすいわけです。
つまり、ボーッとしていたり、何かに心が奪われているような姿を見つけたら、それこそ格好の獲物ということです。
それは言葉を変えれば「スキがある」ということになります。
スリにしても、あるいはそれ以外の犯罪にしても、そもそもターゲットにされた時点でアウトです。
隙を作った人間が、いくらその時その場で速やかに心を切り替えても、ほとんど手遅れです。
武道においてもそれは同じで、組手をする際に互いに礼をしてからスイッチを入れるのでは遅すぎます。
何故なら、オンとオフという切り替えを行なう時点ですでに自我の作為が入り込んでしまっており、天地からは断絶してしまっている
からです。
さらには、最初にオン・オフという「上げ下げの波」を生じさせてしまっていること自体、その後の波立ちの因子となります。
上げっぱなしをキープするというのは、要は、気が張った状態を保つことであり、それはつまりプツリと切れたらお仕舞いということ
でもあります。
そして、仮にそれが切れなかったとしても人為的に支えてるという不自然な状態には必ず緩みが生じます。
それがすなわち隙となるわけです。
オン・オフのスイッチを握った状態というのは、言い換えれば、我の張った状態であり、それは相手と接触した時に「力対力」の世界
になるということでもあります。
相手という我と、自分という我のぶつかり合いは、刀と刀が一点でぶつかり合っている状態と同じですから、結局は筋力が強い方が
勝つという論理になってしまいます。
人を襲おうなんて考えている連中は、もとより腕力に自信のある人間ばかりです。
あるいは武器を使ってその腕力をさらに強めようとすら考えることでしょう。
そんなのと同じ土俵に立ってしまうのはリスキーでしかありません。
いつも一対一になるとは限らず、また素手とも限らないのですから尚更です。
相手と違う土俵、つまりオン・オフの無い状態、最初からスーッと広がっている状態、つまりス(素)の状態というのが大切になるわけです。
それは相手から見れば、捉えどころの無い状態。
引っかからない状態。接点の無い状態。
すなわち、隙の無い状態に映ります。
そして、オフを無くすためには、そもそもオンが無ければ良い。
逆にオンを無くすためには、オフが無ければ良いということになります。
つまり、気張らなければ気が抜けることもないわけですし、逆に気の抜けた状態が無ければ、気が張った状態というものも起きないと
いうことです。
そうした気の抜けた状態や、気が張った状態、そのどちらの状態とも対極にあるのが、落ち着いた状態です。
言い換えれば、リラックスした状態こそが、争いとは無縁の土俵となります。
赤ん坊を見て、攻撃しようという気が起きないのもそうした理由によるものでしょう。
決して、か弱いからやってはいけないという理性だけによるものではありません。
それは人間以外の動物であっても、人間の赤ん坊を前にして攻撃しないことでも証明されています。
赤ん坊にせよ、高僧にせよ、天地と一体になっている存在を前にすると、あらゆる存在は心が穏やかになっていきます。
まるで、ポカポカ陽気の日なたに触れたように。
何故ならば、あらゆる存在も、そもそも天地そのものだからです。
オン・オフというのは、自我がスイッチを入れることで発生するものです。
すなわち、オンないしオフというのは、自我の現われということです。
天地に溶け込んでいく状態というのは、自我が薄まっていくことと同意です。
そして自我の濃淡というのは、心の波立ちによって知ることができます。
波立ちが無くなれば、それだけ天地に近づいた状態になっていくということです。
ですから、心が落ち着いていれば、オン・オフとは異なる次元に身を置くことになります。
スリや暴漢のように我欲が全身に溢れている人たちは当然スイッチがオンの状態になっていますので、そんな人たちと同じ空間の中に
オフの状態の人間が居ようものなら、彼らは肌ですぐその存在を感じ取り、カモとしてその目に映りこむことになります。
それは空間の歪みというか、揺らぎというか、空気の波立ちとして、スッと感じ取られることでしょう。
まさしく蜘蛛の巣のようにです。
目で追って探そうとしなくとも、その違和感、その揺らぎを皮膚でキャッチする。
そして目に映り込んだ時にハッキリとターゲットとして確認されることになります。
しかし、こちらが心の落ち着いた人間であれば、その自我の網とは違う次元に居るために、目に止まることもなくターゲットになる
ことも無くなるでしょう。
つまり、事が起こる前の状態というのが、全てを決めることになってくるわけです。
静かな状態を求めるなら、その状態を追うよりもまず先に、波立ちそうな様々な状態をあらかじめ身体に通しておくことが有効となります。
例えていうならば、力みを手放すためには、最初に思いっきり力を入れれば、そのあとスーッと力みが消えていくのと同じ原理です。
力みを遠ざけようとすればするほど力みを意識してしまうように、波立ちを遠ざけようとすればするほど波立ちは心の中でその存在感を
増します。
静けさばかりを追っても、いざ事態が波立った時には頭や身体はその波に引っ張られやすくなってしまうということです。
ですから、事前に体験済みとなれば、実際にコトが起きても心は波立ちに影響されず、落ち着いて対処できるようになります。
何事もそうですが、あらかじめ酷い状況を様々にシュミレーションして、キチンとその解決法までを心に落とし込むことは実際に危機を
招かないコツとなります。

さて防犯の話に戻りますと、その場合の最悪想定というのは「こちらが隙を作ってしまい、気の緩んだ状態からスイッチをオンして
対処せざるを得ないような状況」となります。
それは、力対力になってしまい、相手と力がぶつかってしまった時でもあります。
そんな時は、力を外すか、その力を利用することになります。
つまり相手の力に対して技術でしのぐということです。
いなす、と言っても良いかもしれません。
ちなみに合気道というのは相手の力を利用する武道と思われていますが、この場合の「相手の力」というのは、いわゆる筋力的な力や
物理的な勢いを指す流派もあれば、目に見えない氣を指す流派もあります。
後者に関しては自分が氣の抜けた状態にあると全く技が掛かりませんので、先ほどの最悪想定の場合は前者のやり方を使うことになります。
柔道も高段者になると前者と後者の両方を合わせた形になりますが、ここではあくまで前者の方を使うことになります。
四つ相撲からのドタドタした崩し方になってしまいますが、心が相手と同じ土俵に居るのですからそれが当たり前となります。
子供の喧嘩状態です。
そしてここでの落とし所としては、スマートさは必要なく、最後に逃げられればOKということになります。
相手を制圧することなど考えたら絶対にアウトでしょう。
取り分け、拳で殴るというのは最悪の対処法と言わざるを得ません。
本能的に、やられたことをやり返すのが人間です。
自らドロ沼を呼び込むことはありません。
ここでは相手を崩してその隙に逃げるというのが、相手の土俵から降りる最上の道となります。
そのようなわけで、出国前は忙しさと体調不良とでほとんど旅行支度はやれなかったのですが、唯一、有事の備えとしての心の準備だけは
しっかりやることにしました。

それは具体的には、襲われるパターンをいくつも想定し、長くやってきた流派だけでなく他の技術もおさらいして身体を通すというもの
でした。
一つのやり方だけにこだわると、いざという時に技が掛からないと頭が真っ白になってしまいます。
頭の中に道が一つしかないとそのまま進もうとしてしまい、我執の世界にズブズブと沈んでいって絶対に掛かることはなくなります。
この技を掛けよう!これしか無い!
と頭の中がそれ一色になってしまっている時というのは、相手にもその心が伝わり、それとは正反対のベクトルに全力で抵抗されてしまいます。
無意識のうちに本能的にそう動くように私たちの身体は出来ています。
バックドロップをかけられそうになったら前屈みになって堪えますし、払い腰をかけられそうになったら後ろに重心を移して堪えようと
します。
これは子供であろうと女性であろうと同じです。
そのような状態から、ぶっこ抜きのジャーマンをかけるというのは、よっぽどの実力差、筋力差が無ければ出来ません。
ですから、いつでもいくらでも切り替えが出来るという心の冷静さが必要になります。
そしてその冷静さというのは、日ごろの心構えによるところが大きいと言えます。
普段から「正解はコレしかない」という一本気な考え方をしていたり、「何としてもこれをやりたい」「こうでないと嫌だ」と固執しがち
な性格ですと、瞬時の切り替えというのは難しくなるでしょう。
道というこはこれ一本だけではなくいくつもあるもんだ、という気持ちにあれば、いざという時にも落ち着き保つことができます。
ですから、それを護身に当てはめるならば、実際に引き出しが多ければ多いほどパニックにならないということになります。
押さえ込まれた時の対処、複数相手、長物の対処、ナイフや拳銃まで想定しました。
もちろん本当にそれが必要な場面に出くわしたら、そんな付け焼き刃は役には立たないと思います。
ただ何も知らないよりはマシで、大難を小難で済ませられる可能性は確実に増します。
何より、そのような最悪想定をすることで心が落ち着き、実際にそうした事態を招かないことになるというのが一番大きいわけです。
喧嘩に巻き込まれる人というのは、心の中でそういうことを求めていて自ら招き寄せていると言えます。
それが喧嘩自慢でなくて心配性の人だったとしても、心の奥底でそれを思い続けることで逆に現実化させることになってしまいます。
やれることはやったと達観できたらば、心配というのは手放せるものです。
だから、様々な想定とその対処というのは有効であるわけです。
これは学校のテストなとで経験していることではないかと思います。
何が出てくるか分からないという意味では、テストもまた状況は同じと言えます。
そしてしっかりと事前準備をした時ほど、焦らず落ち着いてそれに臨めたのではないでしょうか。
あとの結果はともかく、現場のその瞬間の心の状態こそが大事です。
私たちは海外に行けば、完全に外国人です。
一人一人が自国の代表として見られます。
日本というのは、温かくて優しい国です。
しかしそれは、ひ弱な謙虚さとは違います。
天地のように大らかな優しさであり、それこそが本当の強さでもあるわけです。
心に笑顔を。暴漢が来ても心に笑顔を失わずに居れば、それはそのまま相手に返っていきます。
これは日ごろの人間関係にも言えることです。
天地の理とは「自らの与えたものが自らに与えられる(返ってくる)」でした。
有事にあっても、カッとせずハラハラしたりもせず、心変わらず天地とともにあれば「我、鏡と化す」です。
「寄らば斬る」の心とは、波静まった水面のごとき自我の消えた穏やかな心のことだと言えます。
己の刀が相手を斬るのではなく、鏡と化した水面に映る相手の刀が、そのまま相手自身を斬ることになるのです。
そのような状態にある時、そもそも相手は斬りこめなくなります。
つまり、スリや犯罪のターゲットにされることも無くなるということです。
戦わずして勝つというのは、気迫がみなぎった状態などではなく、むしろ全く逆の、心が静かに落ち着きはらった状態だったわけです。
そして、その鏡というのは天照様そのものでもあるのでした。
(つづく)


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