長野県の八ヶ岳に行きました。
このあたりは昔から宗教家が生まれ育ったり、精神世界系の人が移住してきたりと、なんとも不思議な場所です。
富士山のような分かりやすい場所なら分かるのですが、別にそこまでの場所でもありません。なのに何故なのでしょう。
八ヶ岳周辺は信州甲州の山々に囲まれています。
東は関東山地。南は南アルプス。西は中央アルプス。北西には北アルプス。北東には浅間山や志賀高原。
ですから私はてっきり、大地のエネルギーが強い神道系の場所なのだと思い込んでいました。
もともと安曇野や上高地のある北アルプスは大好きでしたが、ほんの少し離れた八ヶ岳周辺は不思議なほどにピンと来ていませんでした。
そのため、まわりの人たちが盛り上がっていても、エネルギーやご神縁の系統が違うんだろうなと思って流していたのでした。
ピンと来ないというのは、肌感としてしっくり来ないというか、裸になり切れないというか、芯が残るような感じです。
それが昨年から突然なくなりました。
そうなるとナルホドと腑に落ちたのが、「地」のエネルギーというよりも、この地はむしろ「天」の場所であったことでした。
言い換えれば、それは宇宙的とも表現できます。
それは例えばこんな感じです。
天から大地を見おろすと、意識はジェットコースターのように富士山にズドーンと吸い込まれて行きますが、地から見晴らすと八ヶ岳の辺りから
天へとスコーンと抜け通っていきます。
天地に包まれる神道的な感覚よりも、頭のてっぺんからお尻の下までスコーンと抜けていく修験道的な感覚に近い。
そういう意味では宇宙にご縁のある人向きと言えるかもしれません。
平たく言えば、神界よりも宇宙系ということです。
前者は、実家に帰って畳の上でのびのびと大の字になるような感じ。お風呂に浸かって全身が溶けていく感じです。
後者は、山の上から大自然を見わたす感じ。全身の細胞がイキイキと活性化する感じです。
休息と活動。静と動は表裏一体です。
すべてを天地に任せきって放り出すのも、はたまた、流し流して詰まりを取るのも、行き着く先は同じです。
和食好き、洋食好き、コッテリ好き、アッサリ好き。
食べ物に好みがあるように、天や地、宇宙や神道もまた、それぞれ肌にしっくり来るものがあります。
これは理屈の話ではありません。
そしてご縁によって味わいも変わっていきます。
この20年くらい八ヶ岳に来てもほんの少し翳りがかかっている感じでしたが、それが突如クリアになったのでした。
チャクラ開きを目指す人たちや、宗教的な修行者、あるいは宇宙に向かって積極的な人たちが集まるのが、この場所の特性です。
スコーンと抜けて天へと発するのですから、そりゃそうでしょう。
精神世界系だけでなく、科学的な研究者もまたこの場所に集まるというのも合点のいく話です。
空気が綺麗だとか、晴れが多いとか、電波が安定しているとか、ここが観測地に選ばれた理由は色々ありますが、そもそも天へスコーンと抜けて
いればこそ、そのような環境が発現したとも言えます。
にしても、自分の好みが変わったのかといえばそんなこともないのが面白いところです。
相変わらず、アッサリ好き、ノンビリ好き、寝て果報を待つ性格のままです。
しかし静と動は表裏一体で、寄せては返す波のように流れ流れています。
天地もまた、私たちを介して8の字に流れ流れています。
「天だけ」「地だけ」と偏食を続けてしまうとおかしくなっていくのは食事と同じです。
これはこれでオツやねぇ〜、というウェルカム心は人生の楽しさを倍加させます。
だからといって無理に逆に行こうとしても、それは大河の流れを無視したものになります。
それこそ薄いバリヤーが張ったような違和感を覚えることになります。
まわりのエネルギーの流れと、自分の流れが合っていないとそんな感覚に陥ります。
タイミングというのは人それぞれです。
自分がしっくり来てなかったとしても、まわりの人はしっくり来てるかもしれません。
その逆もまたしかりです。
しっくりきてなければ、それはまだその時ではないということ。
ご縁というのはそういうものです。
どっちが優れているとか、劣っているというものではありません。
その場その時にシンクロする人間が、引き寄せの原理によって縁づいていくだけのことです。
流れが一致している時には背中を押されるように風が吹くので、その流れに任せきるのが良い。
それは自分であって自分ではない。天地の流れそのものです。
日本列島というのは、プレートの動きによって東と西が逆回転しています。
関東人と関西人の気質が真逆なのも面白いところです。
もともと真っ直ぐだった列島が、このプレートの動きにより、クッと腰の入った今の形になりました。
(「母なる大地 日本」2017-10-2 参照)
https://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/81c3e9d94e1235fd49f650582e1eb603
その動きの中心、腰のラインにあたるのがフォッサマグナです。
糸魚川・静岡構造線という言葉は子供の頃の授業以来ですが、それのことです。
先ほどの地図ではフォッサマグナの左側が「北アルプス・中央アルプス・南アルプス」。
右側が「八ヶ岳」になります。
ジーッと見ていると、谷のようなくぼみが縦に真っ直ぐ入っているのが分かります。
東西の大地が逆回転をしてフォッサマグナでぶつかりあい、そのプレッシャーでグシャッと隆起したところが左右の山脈になったというわけです。
地図でも、山脈の形を見ると、まさにグシャグシャっと縦ジワのようになっていることがよく分かります。
私たち人間も、要となるのは「腰」です。
だから「腰」(にくづき+要)という漢字が当てられているほどです。
武道でも、仙骨(骨盤の背中側)から臍下の丹田にかけてのラインが一番の要となります。
日本列島でそれにあたるのがフォッサマグナです。
これに対して、縦のライン、人間で言えば「正中線」(頭のてっぺんからヘソの下まで真っ直ぐ降りる中心線)に当たるのが中央構造線(下図の赤線)です。
ちなみにこの場合、臍(ヘソ)は富士山で、臍下の丹田は紀伊半島になります。
恐ろしいくらいに全てが一致してきます。
私たちも、仙骨を立て、腰を落とし(膝を緩め)、丹田を静め、正中線を縦にビシッと通すことで自然な統一体となります。
自然体というのは、最も安定した状態、盤石な状態のことです。
そのような自然な状態に戻るには、まずは緊張をとって全身を弛緩させることが第一になります。
2週間前の長野県北部の大きな地震はフォッサマグナの真上でした。
人間も体の緊張を取るためには、ブラブラとあちこち揺らしたり、ゴリゴリほぐしたりします。
地震というのはまさしく肉体的アプローチに近いものだと言えます。
しかし体の緊張を取る方法は他にもあります。
その一つは「心をトコトン落ち着けること」です。
心がほぐれれば、自ずと体もほぐれていきます。
喜び。感謝。そうした感覚に芯から浸ると肉体はリラックスしていきます。
大地もまた同じであるわけです。
だからフォッサマグナや中央構造線の線上に感謝の心を置いたり、喜びを置いたりすることはとても大切なことになります。
ちなみに私たちは、穢れを祓い、詰まりを無くして、氣を通すことでも緊張が取れます。
私たちのお灸や針に相当するのが、篝火による祓いと言えるかもしれません。
修験道の護摩壇もそうですが、何と言っても火祭りの効果は凄いものがあります。
毎年夏に那智の滝で行われる火祭りは、空間そのものがピーンと清められて雑味がゼロになるほどです。
さて、せっかく八ヶ岳周辺にご縁ができたので、そこでのメッセージに触れたいと思います。
自分以外はみんな他人です。
血の繋がった家族であってもです。
その他人と100%分かり合おうとするのはそもそも無理な話です。
そうと分かっていながらも、私たちは無意識のうちにそれを期待します。
もともと、相手のことを分かろうとするのは、私たちが生きて行く上で身につけた生存本能のようなものです。
相手を知ることで自分の安全を確保できる、衝突することなく円滑にできる、そうして身につけた知恵でした。
一方でまた、頭数がそろった時に最大効果を発揮するための意識のすり合わせという意味合いもあります。
さらには、人間的な感性として、相手をおもんばかることで自らの心を豊かにしてきたという側面もありました。
ですから、相手のことを分かろうとすること、自分のことを分かってもらうことはとても大切なことだと言えます。
ただ、それはそれ。
いずれにしても、ほどほどで十分なわけです。
それが完全に100%分かり合う(相手を分かる、自分を分かってもらう)ところまで目指してしまうと、筋違いになってしまいます。
何ごとも必要以上を求めるのは欲張りというものです。
相手のことを分かりたいというのが、自分のためなのか相手のためなのか、衝動の起点がどちらなのかによって、欲張りになるのか程々で終わる
のか自ずと決まってきます。
生物的に自分の身を守るためならば、おそらく10割を目指そうとは思わないでしょう。
つまり相手のことを100パーセント分かりたいと思うのは、大概、自分のエゴに根ざしているということです。
仮に、初発の段階では、本当に相手をおもんばかって相手のことを知りたかったのだとしても、その大義に甘えすぎてタガが外れると、知らぬ間に
脱線して自らの執着を太らせることになってしまいます。
そうした状態に陥った時は、相手の本意が分からないと不安や怒りが湧き上がってまいります。
それはつまり、そもそも相手のことをおもんばかってはいなかった証拠であるわけです。
また「こちらがおもんばかってるのだから、相手も自分をおもんばかってほしい」「こちらのことを分かって欲しい」という衝動も同じです。
そうした交換条件が発動すると、それが叶わなかった時、やはり不安や怒りが生じます。
大なり小なり、無意識のうちに私たちは、そんな一人相撲にあくせくしていると言えます。
同じ人間同士でさえそうであるならば、異なる存在からすれば尚更です。
天にせよ、地にせよ、面と向かってコンタクトするのを避けざるを得なくなるのは当然でしょう。
同じ人類でも、ほんの少し価値観が違っただけで差別され、排斥され、戦争にまで発展しているのです。いわんや、ということです。
私たちとは違う世界がある、私たちの理解できない世界がある。
それを理解しようとする必要はない。
ただ、違いがあると認識するだけ。
違いを丸ごと受け入れるのが大調和。
天地自然の姿です。
これは、次元や時空をまたがる大きな話だけでなく、国と国についてもそうですし、すぐ傍に座っている人との関係性についても同じことです。
何事もほどほどが一番。
それ以上を求めると我執が芽生える。
分からないことは分からないままで丁度いい。
無理して分かろうとしなくていい。
やれることをやれば、それで十分。
ということで、今日は話があちこちに飛んでしまいましたが、八ヶ岳周辺は天地がごった煮になってるということでお許し下さいませ。笑
(おしまい)
このあたりは昔から宗教家が生まれ育ったり、精神世界系の人が移住してきたりと、なんとも不思議な場所です。
富士山のような分かりやすい場所なら分かるのですが、別にそこまでの場所でもありません。なのに何故なのでしょう。
八ヶ岳周辺は信州甲州の山々に囲まれています。
東は関東山地。南は南アルプス。西は中央アルプス。北西には北アルプス。北東には浅間山や志賀高原。
ですから私はてっきり、大地のエネルギーが強い神道系の場所なのだと思い込んでいました。
もともと安曇野や上高地のある北アルプスは大好きでしたが、ほんの少し離れた八ヶ岳周辺は不思議なほどにピンと来ていませんでした。
そのため、まわりの人たちが盛り上がっていても、エネルギーやご神縁の系統が違うんだろうなと思って流していたのでした。
ピンと来ないというのは、肌感としてしっくり来ないというか、裸になり切れないというか、芯が残るような感じです。
それが昨年から突然なくなりました。
そうなるとナルホドと腑に落ちたのが、「地」のエネルギーというよりも、この地はむしろ「天」の場所であったことでした。
言い換えれば、それは宇宙的とも表現できます。
それは例えばこんな感じです。
天から大地を見おろすと、意識はジェットコースターのように富士山にズドーンと吸い込まれて行きますが、地から見晴らすと八ヶ岳の辺りから
天へとスコーンと抜け通っていきます。
天地に包まれる神道的な感覚よりも、頭のてっぺんからお尻の下までスコーンと抜けていく修験道的な感覚に近い。
そういう意味では宇宙にご縁のある人向きと言えるかもしれません。
平たく言えば、神界よりも宇宙系ということです。
前者は、実家に帰って畳の上でのびのびと大の字になるような感じ。お風呂に浸かって全身が溶けていく感じです。
後者は、山の上から大自然を見わたす感じ。全身の細胞がイキイキと活性化する感じです。
休息と活動。静と動は表裏一体です。
すべてを天地に任せきって放り出すのも、はたまた、流し流して詰まりを取るのも、行き着く先は同じです。
和食好き、洋食好き、コッテリ好き、アッサリ好き。
食べ物に好みがあるように、天や地、宇宙や神道もまた、それぞれ肌にしっくり来るものがあります。
これは理屈の話ではありません。
そしてご縁によって味わいも変わっていきます。
この20年くらい八ヶ岳に来てもほんの少し翳りがかかっている感じでしたが、それが突如クリアになったのでした。
チャクラ開きを目指す人たちや、宗教的な修行者、あるいは宇宙に向かって積極的な人たちが集まるのが、この場所の特性です。
スコーンと抜けて天へと発するのですから、そりゃそうでしょう。
精神世界系だけでなく、科学的な研究者もまたこの場所に集まるというのも合点のいく話です。
空気が綺麗だとか、晴れが多いとか、電波が安定しているとか、ここが観測地に選ばれた理由は色々ありますが、そもそも天へスコーンと抜けて
いればこそ、そのような環境が発現したとも言えます。
にしても、自分の好みが変わったのかといえばそんなこともないのが面白いところです。
相変わらず、アッサリ好き、ノンビリ好き、寝て果報を待つ性格のままです。
しかし静と動は表裏一体で、寄せては返す波のように流れ流れています。
天地もまた、私たちを介して8の字に流れ流れています。
「天だけ」「地だけ」と偏食を続けてしまうとおかしくなっていくのは食事と同じです。
これはこれでオツやねぇ〜、というウェルカム心は人生の楽しさを倍加させます。
だからといって無理に逆に行こうとしても、それは大河の流れを無視したものになります。
それこそ薄いバリヤーが張ったような違和感を覚えることになります。
まわりのエネルギーの流れと、自分の流れが合っていないとそんな感覚に陥ります。
タイミングというのは人それぞれです。
自分がしっくり来てなかったとしても、まわりの人はしっくり来てるかもしれません。
その逆もまたしかりです。
しっくりきてなければ、それはまだその時ではないということ。
ご縁というのはそういうものです。
どっちが優れているとか、劣っているというものではありません。
その場その時にシンクロする人間が、引き寄せの原理によって縁づいていくだけのことです。
流れが一致している時には背中を押されるように風が吹くので、その流れに任せきるのが良い。
それは自分であって自分ではない。天地の流れそのものです。
日本列島というのは、プレートの動きによって東と西が逆回転しています。
関東人と関西人の気質が真逆なのも面白いところです。
もともと真っ直ぐだった列島が、このプレートの動きにより、クッと腰の入った今の形になりました。
(「母なる大地 日本」2017-10-2 参照)
https://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/81c3e9d94e1235fd49f650582e1eb603
その動きの中心、腰のラインにあたるのがフォッサマグナです。
糸魚川・静岡構造線という言葉は子供の頃の授業以来ですが、それのことです。
先ほどの地図ではフォッサマグナの左側が「北アルプス・中央アルプス・南アルプス」。
右側が「八ヶ岳」になります。
ジーッと見ていると、谷のようなくぼみが縦に真っ直ぐ入っているのが分かります。
東西の大地が逆回転をしてフォッサマグナでぶつかりあい、そのプレッシャーでグシャッと隆起したところが左右の山脈になったというわけです。
地図でも、山脈の形を見ると、まさにグシャグシャっと縦ジワのようになっていることがよく分かります。
私たち人間も、要となるのは「腰」です。
だから「腰」(にくづき+要)という漢字が当てられているほどです。
武道でも、仙骨(骨盤の背中側)から臍下の丹田にかけてのラインが一番の要となります。
日本列島でそれにあたるのがフォッサマグナです。
これに対して、縦のライン、人間で言えば「正中線」(頭のてっぺんからヘソの下まで真っ直ぐ降りる中心線)に当たるのが中央構造線(下図の赤線)です。
ちなみにこの場合、臍(ヘソ)は富士山で、臍下の丹田は紀伊半島になります。
恐ろしいくらいに全てが一致してきます。
私たちも、仙骨を立て、腰を落とし(膝を緩め)、丹田を静め、正中線を縦にビシッと通すことで自然な統一体となります。
自然体というのは、最も安定した状態、盤石な状態のことです。
そのような自然な状態に戻るには、まずは緊張をとって全身を弛緩させることが第一になります。
2週間前の長野県北部の大きな地震はフォッサマグナの真上でした。
人間も体の緊張を取るためには、ブラブラとあちこち揺らしたり、ゴリゴリほぐしたりします。
地震というのはまさしく肉体的アプローチに近いものだと言えます。
しかし体の緊張を取る方法は他にもあります。
その一つは「心をトコトン落ち着けること」です。
心がほぐれれば、自ずと体もほぐれていきます。
喜び。感謝。そうした感覚に芯から浸ると肉体はリラックスしていきます。
大地もまた同じであるわけです。
だからフォッサマグナや中央構造線の線上に感謝の心を置いたり、喜びを置いたりすることはとても大切なことになります。
ちなみに私たちは、穢れを祓い、詰まりを無くして、氣を通すことでも緊張が取れます。
私たちのお灸や針に相当するのが、篝火による祓いと言えるかもしれません。
修験道の護摩壇もそうですが、何と言っても火祭りの効果は凄いものがあります。
毎年夏に那智の滝で行われる火祭りは、空間そのものがピーンと清められて雑味がゼロになるほどです。
さて、せっかく八ヶ岳周辺にご縁ができたので、そこでのメッセージに触れたいと思います。
自分以外はみんな他人です。
血の繋がった家族であってもです。
その他人と100%分かり合おうとするのはそもそも無理な話です。
そうと分かっていながらも、私たちは無意識のうちにそれを期待します。
もともと、相手のことを分かろうとするのは、私たちが生きて行く上で身につけた生存本能のようなものです。
相手を知ることで自分の安全を確保できる、衝突することなく円滑にできる、そうして身につけた知恵でした。
一方でまた、頭数がそろった時に最大効果を発揮するための意識のすり合わせという意味合いもあります。
さらには、人間的な感性として、相手をおもんばかることで自らの心を豊かにしてきたという側面もありました。
ですから、相手のことを分かろうとすること、自分のことを分かってもらうことはとても大切なことだと言えます。
ただ、それはそれ。
いずれにしても、ほどほどで十分なわけです。
それが完全に100%分かり合う(相手を分かる、自分を分かってもらう)ところまで目指してしまうと、筋違いになってしまいます。
何ごとも必要以上を求めるのは欲張りというものです。
相手のことを分かりたいというのが、自分のためなのか相手のためなのか、衝動の起点がどちらなのかによって、欲張りになるのか程々で終わる
のか自ずと決まってきます。
生物的に自分の身を守るためならば、おそらく10割を目指そうとは思わないでしょう。
つまり相手のことを100パーセント分かりたいと思うのは、大概、自分のエゴに根ざしているということです。
仮に、初発の段階では、本当に相手をおもんばかって相手のことを知りたかったのだとしても、その大義に甘えすぎてタガが外れると、知らぬ間に
脱線して自らの執着を太らせることになってしまいます。
そうした状態に陥った時は、相手の本意が分からないと不安や怒りが湧き上がってまいります。
それはつまり、そもそも相手のことをおもんばかってはいなかった証拠であるわけです。
また「こちらがおもんばかってるのだから、相手も自分をおもんばかってほしい」「こちらのことを分かって欲しい」という衝動も同じです。
そうした交換条件が発動すると、それが叶わなかった時、やはり不安や怒りが生じます。
大なり小なり、無意識のうちに私たちは、そんな一人相撲にあくせくしていると言えます。
同じ人間同士でさえそうであるならば、異なる存在からすれば尚更です。
天にせよ、地にせよ、面と向かってコンタクトするのを避けざるを得なくなるのは当然でしょう。
同じ人類でも、ほんの少し価値観が違っただけで差別され、排斥され、戦争にまで発展しているのです。いわんや、ということです。
私たちとは違う世界がある、私たちの理解できない世界がある。
それを理解しようとする必要はない。
ただ、違いがあると認識するだけ。
違いを丸ごと受け入れるのが大調和。
天地自然の姿です。
これは、次元や時空をまたがる大きな話だけでなく、国と国についてもそうですし、すぐ傍に座っている人との関係性についても同じことです。
何事もほどほどが一番。
それ以上を求めると我執が芽生える。
分からないことは分からないままで丁度いい。
無理して分かろうとしなくていい。
やれることをやれば、それで十分。
ということで、今日は話があちこちに飛んでしまいましたが、八ヶ岳周辺は天地がごった煮になってるということでお許し下さいませ。笑
(おしまい)