これまで「今に生きましょう」「寛容さです」「オールOKです」など、サラっと言ってきましたが、人生そんな
簡単なもんじゃないと思います。
「囚われてもイイんデス」とも書きました。
私も、長いことヒドい固定観念に囚われていました。
強い観念にとらわれてしまうと、自分が観念にとらわれていること自体に気がつけなくなります。
特に、正論や正義というものは一番厄介です。
たとえば世間や周囲から賞賛されるような「こういう人間が素晴らしい」という観念などは、最たるものかもしれません。
その観念自体は何の害も無いものなのですが、「そうならなくてはいけない」という強い思いが「執着」を生んで
しまうのです。
そうなると優等生発言や行動というものを取るようになるわけですが、それを褒められる成功体験を得てしまうと
その正当性が強化されてしまい、また同じことを繰り返してしまいます。
まさに負のスパイラルの完成です。
こうなると、その道から外れることが怖くて出来なくなっていきます。
自分で自分を縛る状態に陥ってしまうわけです。
そして、周囲の目を気にしながら褒められようとする生き方だけでなく、実は「世間などクソくらえだ」と叫んで
己の生きざまを貫こうとする生き方も、やはり先ほどの優等生発言と本質的には同じであることは、なかなか気が
つけません。
己の信条や生きざまを掲げて、常に自分にそれを問うような人生とは、結局は「自分」自身に褒められようとしての
行動であるわけで、結局は優等生を目指そうとしていることに他ならないわけです。
私の場合は「生まれたからにはしっかり生きねば」「お天道さまに恥じないようにしよう」「男らしくありたい」と
いった感じでした。
今こうして見てみても、もっともらしい口上です(笑)
もちろん、そうした生きざまでも一切のウソが無くイキイキしてたら、話は別です。
その場合は、結果としての生きざまであって、自然な行動によって創り出されたものだからです。
要は、生きざまを守ろうとして、自分の本当の気持ちを曲げるようなことをしていないか、ということです。
「生きざまありき」になっていないか、ということです。
自分を縛ってレールに乗せている時点で、それは囚われということになります。
とはいえ「誰が何と言おうとこれこそ正しい姿なのだ」というのは、それこそ自分だけの世界に入ってしまっている
状態であるわけですから、他の誰よりも、自分こそが聞く耳を持たないということになります。
囚われという点では、なまじっかな優等生よりもタチが悪いかもしれません。
私はまさにそれでした。
「かくあるべき」というのは明らかにがんじがらめの世界ですが、自分はそれを信じきっていましたので、全く
苦しくありませんでした。
むしろ、自信に溢れてイキイキしているように感じていました。
それほどに、渦中にいる時というのは自分が見えないものです。
誰の声も聞こうとしない、自分の信じた道しか行かない。
こうなると、内側から氷解していくしか道はありません。
まさに、天は自ら助くるものを助くなのです。
さて、当時はそれとは知らずに私は通っていたのでしたが、良縁の御利益で有名な神社がありました。
それを求める女性たちが、観光気分まる出しでキャーキャーと押し寄せていました。
当時の私は、寛容性のカケラもなく、むしろ攻撃的・排他的で、ダメなものは全否定するような性格でした。
ですから、そのように何かに依存しようとする姿に正直嫌悪感を覚えましたし、また、観光気分で我欲のお願い事を
しようとする不敬不遜ぶりを不快に感じていました。
そこには「自分は正しい」という思いと同時に、「彼女たちはダメな人たちだ」という思い上がりがあったわけです。
とはいえ、その時はそういうこと以上に、彼女たちの行ないは、世間の常識からしても明らかに失礼なこと、いけないこと
をしているようにしか見えないものでした。
しかし、神様は『それでいい』の一言でした。
まさに、すべてを受け入れる大きな心がそこにはありました。
きちんとやっている人だけに心を開くのものだと思い込んでいた当時の私にとって、それは衝撃的なものでした。
相手がチャランポランな人であろうと何だろうと、何も変わることなくそのままを受け入れる心がそこにあった
のです。
それでもなお、「かくあるべき」だった自分はそれを消化することが出来ませんでした。
きちんとやっていない人までも等しく扱われるということに、激しい抵抗感を覚えました。
当時の私は、世の中の即物的な価値観を拒絶し、天地の真理・天地の大道に沿った生き方を目指そうとしていました。
でも結局は、天地というものをまったく分かっていなかったということです。
境内を出てから何度も自問自答を繰り返し、そしてついに、自分の姿がはっきりと映りました。
人間風情で神様の気持ちを分かったような顔して理解者を気取り、自分だけイイ子チャンになって認めてもらおうと
していた、その姿が。
他人から褒めてもらおうとする生き方には白い目を向けていながら、実際のところは、自分以外の存在(天地)に認めて
もらおうとしていたのです。
誰よりも優等生たろうとしていたわけです。
そこに思い当たった時、とてつもないほど恥ずかしい気持ちになりました。
観光気分の彼女たちは褒めてもらえない存在で、自分は褒めてもらえる存在だと、無意識のうちに優越感に浸っていた
のですから。
その瞬間、それまでのすべての価値観、固定観念が粉々に崩れ落ちました。
価値観や固定観念というのは自分の存在そのものの投影でしたから、まさに自分自身が音を立てて崩れるような感覚でした。
一瞬にして30年間のすべてが壊れたのですから、なんとも酷い話です(笑)
「すべてを認める」「すべてを受け入れる」という寛容さや包容力は、ある意味、母性的なものです。
いわば父性的なものを追い続けていた自分からすれば、それはヤワで軟弱で、到底受け入れがたいものに感じていました。
ただ人間というのは、誰もが母性と父性の両方を持っています。
そして母性と父性は切り分けられるものでなく、陰陽のマーク(太陰大極図)のように、お互いの中にそれぞれを内含
しているものです。
今だから分かりますが、男らしい潔さや度量、利他行為というのものは、自分の中の母性を否定し排除することで
磨かれるものではなく、むしろ全てを受け入れる母性あればこそ発露するものだったわけです。
今日はすっかり話が脱線してしまいましたが、一つ一つの言葉はすべて自分自身へのメッセージであり、それを反芻する
作業だと思って書いています。
過ぎ去った昔のことで「あれで良かったのか」と迷いが生じることや、他の誰かの言動でムカッとしてしまうことは
多々ありますが、そんな時こそ「それでもやっぱり『コレでいいのダ』」と、安心の境地で言うように心がけています。
それでも、なかなか、そうしたがらない自分がいるのも確かですが…
そんな自分もまた「これでいいのダ」ということで(笑)
チャンチャン
簡単なもんじゃないと思います。
「囚われてもイイんデス」とも書きました。
私も、長いことヒドい固定観念に囚われていました。
強い観念にとらわれてしまうと、自分が観念にとらわれていること自体に気がつけなくなります。
特に、正論や正義というものは一番厄介です。
たとえば世間や周囲から賞賛されるような「こういう人間が素晴らしい」という観念などは、最たるものかもしれません。
その観念自体は何の害も無いものなのですが、「そうならなくてはいけない」という強い思いが「執着」を生んで
しまうのです。
そうなると優等生発言や行動というものを取るようになるわけですが、それを褒められる成功体験を得てしまうと
その正当性が強化されてしまい、また同じことを繰り返してしまいます。
まさに負のスパイラルの完成です。
こうなると、その道から外れることが怖くて出来なくなっていきます。
自分で自分を縛る状態に陥ってしまうわけです。
そして、周囲の目を気にしながら褒められようとする生き方だけでなく、実は「世間などクソくらえだ」と叫んで
己の生きざまを貫こうとする生き方も、やはり先ほどの優等生発言と本質的には同じであることは、なかなか気が
つけません。
己の信条や生きざまを掲げて、常に自分にそれを問うような人生とは、結局は「自分」自身に褒められようとしての
行動であるわけで、結局は優等生を目指そうとしていることに他ならないわけです。
私の場合は「生まれたからにはしっかり生きねば」「お天道さまに恥じないようにしよう」「男らしくありたい」と
いった感じでした。
今こうして見てみても、もっともらしい口上です(笑)
もちろん、そうした生きざまでも一切のウソが無くイキイキしてたら、話は別です。
その場合は、結果としての生きざまであって、自然な行動によって創り出されたものだからです。
要は、生きざまを守ろうとして、自分の本当の気持ちを曲げるようなことをしていないか、ということです。
「生きざまありき」になっていないか、ということです。
自分を縛ってレールに乗せている時点で、それは囚われということになります。
とはいえ「誰が何と言おうとこれこそ正しい姿なのだ」というのは、それこそ自分だけの世界に入ってしまっている
状態であるわけですから、他の誰よりも、自分こそが聞く耳を持たないということになります。
囚われという点では、なまじっかな優等生よりもタチが悪いかもしれません。
私はまさにそれでした。
「かくあるべき」というのは明らかにがんじがらめの世界ですが、自分はそれを信じきっていましたので、全く
苦しくありませんでした。
むしろ、自信に溢れてイキイキしているように感じていました。
それほどに、渦中にいる時というのは自分が見えないものです。
誰の声も聞こうとしない、自分の信じた道しか行かない。
こうなると、内側から氷解していくしか道はありません。
まさに、天は自ら助くるものを助くなのです。
さて、当時はそれとは知らずに私は通っていたのでしたが、良縁の御利益で有名な神社がありました。
それを求める女性たちが、観光気分まる出しでキャーキャーと押し寄せていました。
当時の私は、寛容性のカケラもなく、むしろ攻撃的・排他的で、ダメなものは全否定するような性格でした。
ですから、そのように何かに依存しようとする姿に正直嫌悪感を覚えましたし、また、観光気分で我欲のお願い事を
しようとする不敬不遜ぶりを不快に感じていました。
そこには「自分は正しい」という思いと同時に、「彼女たちはダメな人たちだ」という思い上がりがあったわけです。
とはいえ、その時はそういうこと以上に、彼女たちの行ないは、世間の常識からしても明らかに失礼なこと、いけないこと
をしているようにしか見えないものでした。
しかし、神様は『それでいい』の一言でした。
まさに、すべてを受け入れる大きな心がそこにはありました。
きちんとやっている人だけに心を開くのものだと思い込んでいた当時の私にとって、それは衝撃的なものでした。
相手がチャランポランな人であろうと何だろうと、何も変わることなくそのままを受け入れる心がそこにあった
のです。
それでもなお、「かくあるべき」だった自分はそれを消化することが出来ませんでした。
きちんとやっていない人までも等しく扱われるということに、激しい抵抗感を覚えました。
当時の私は、世の中の即物的な価値観を拒絶し、天地の真理・天地の大道に沿った生き方を目指そうとしていました。
でも結局は、天地というものをまったく分かっていなかったということです。
境内を出てから何度も自問自答を繰り返し、そしてついに、自分の姿がはっきりと映りました。
人間風情で神様の気持ちを分かったような顔して理解者を気取り、自分だけイイ子チャンになって認めてもらおうと
していた、その姿が。
他人から褒めてもらおうとする生き方には白い目を向けていながら、実際のところは、自分以外の存在(天地)に認めて
もらおうとしていたのです。
誰よりも優等生たろうとしていたわけです。
そこに思い当たった時、とてつもないほど恥ずかしい気持ちになりました。
観光気分の彼女たちは褒めてもらえない存在で、自分は褒めてもらえる存在だと、無意識のうちに優越感に浸っていた
のですから。
その瞬間、それまでのすべての価値観、固定観念が粉々に崩れ落ちました。
価値観や固定観念というのは自分の存在そのものの投影でしたから、まさに自分自身が音を立てて崩れるような感覚でした。
一瞬にして30年間のすべてが壊れたのですから、なんとも酷い話です(笑)
「すべてを認める」「すべてを受け入れる」という寛容さや包容力は、ある意味、母性的なものです。
いわば父性的なものを追い続けていた自分からすれば、それはヤワで軟弱で、到底受け入れがたいものに感じていました。
ただ人間というのは、誰もが母性と父性の両方を持っています。
そして母性と父性は切り分けられるものでなく、陰陽のマーク(太陰大極図)のように、お互いの中にそれぞれを内含
しているものです。
今だから分かりますが、男らしい潔さや度量、利他行為というのものは、自分の中の母性を否定し排除することで
磨かれるものではなく、むしろ全てを受け入れる母性あればこそ発露するものだったわけです。
今日はすっかり話が脱線してしまいましたが、一つ一つの言葉はすべて自分自身へのメッセージであり、それを反芻する
作業だと思って書いています。
過ぎ去った昔のことで「あれで良かったのか」と迷いが生じることや、他の誰かの言動でムカッとしてしまうことは
多々ありますが、そんな時こそ「それでもやっぱり『コレでいいのダ』」と、安心の境地で言うように心がけています。
それでも、なかなか、そうしたがらない自分がいるのも確かですが…
そんな自分もまた「これでいいのダ」ということで(笑)
チャンチャン