この世界は、なぜこんなにも、生命に満ち溢れているのでしょうか。
私たち人間にしてもそうです。
何十億もの命は、何のために生まれてきたのでしょうか。
小さい頃、とても不思議に思いました。
でも、なかなかその答えは見つかりませんでした。
遥か何千年も昔からその問いは繰り返され、幾通りもの解釈となり、哲学や宗教となりました。
そうしたものは非日常的なジャンルと区切られて、私たちは、問いそのものを胸の奥に押しやり、日々の現実に目を向けるのでした。
ただ、ここで少し視点を変えてみると見えてくるものがあります。
先人がこれだけ何千年も考えても分からない。
ということは、もしかしたら、それが答えなのではないか。
つまり、「答えがない」というのが答えではないかということです。
答えがないのですから「すべてが正解」と言うこともできます。
つまり、どんな生き方をしてもOKということです。
そうなると、考えることをやめたり棚上げにしてきたこと自体も正解となります。
私たちは、心のどこかに「これでいいのか?」という不安な気持ちを持ってきました。
自分の進む方向は本当にこれでいいのだろうかと。
「答えなど無い」という示唆は昔から言われてきたことです。
ただ、そう言われると私たちはかえって反発したくなります。
なぜなら、胸の内に「なにか答えがある」という感覚がしっかりとあるからです。
そのため、その正解らしき何かを求め、私たちはあちこち探し回るのでした。
それは、人生を模索する行動とも言えます。
つまり、答えが無いということが、結果として、様々な経験をする原動力になっているということです。
私たちは、大切な疑問にフタをし、宿題を棚上げにしていることに、なんとなく負い目を感じてきました。
人類は、行き先も分からず、ただ生存本能に従って無制限に増加しているだけではないか?
そのような不安が私たちの中にあったわけです。
そのため、人類自体を悪者のように感じ、地球を破壊しつくす傍若無人であるかのような自責の念にかられてきました。
そして個人レベルでは、規律や規範を求め、特に海外では宗教を日常に置くことで心の安寧を獲得してきました。
しかしそれは、己を束縛し支配されることを自ら願う行為でしかありません。
捉えどころのない負い目や自責の念から逃れるために、自らを罪深き人間とし、規律や規範に従わせることで安心感を得る。
そのように、私たちは知らず知らずのうちに自身を縛ってきました。
でも、もう大丈夫です。
今の、これでいいのです。
すでに私たちは全員、いまこの瞬間、正しい生き方をしているのです。
私たちは、これでいいのです。
なぜか。
生きること自体が、この世に生まれた目的だからです。
それは、この世を去る時に「あの世に待って帰れるものが何か」を考えてみれば明らかです。
あの世に持っていける唯一のもの。
それは「経験」です。
そして、経験とは何かと言えば、未知を味わうことに他なりません。
この世界は、刻一刻と変化しています。
私たちのまわりもそうです。
昨日と同じ朝に見えても、あらゆるものが昨日と違っています。
全く同じ環境は二度と訪れません。
いつもと同じように見えても、すべてが初めての体験となります。
未知というのは、非日常的なことや不可思議なことだけを指すものではありません。
あまりに当たり前すぎて、私たちはそれに気がつかなくなっているだけです。
他の人にとって体験済みのことであっても、自分が未体験であれば、それは未知です。
また、昨日と変わり映えの無い1日に見えても、すれ違う人も違いますし、会う人との会話の内容も違います。
時間・場所・人物といった前提条件が異なれば、それは唯一無二の初経験となるわけです。
私たち人類はもちろんのこと、この世に生命が満ち溢れているのは、あらゆる未知を体験するためだと言えます。
そもそも全ての生き物がナゼ、小さく生まれ、成長し、老いていくのか、不思議に思いませんか?
そういうものだと私たちは思っていますが、それこそは、変化が未知を生むからです。
上手く歩けない中での経験。
素早く動けるようになってからの経験。
知恵や体験を得た上で衰えていく経験。
場面場面で様々な経験をします。
すべては新たな未知を味わうためのものであるわけです。
もしもそこに変化が無ければ、いずれ全てが既知になります。
しかし、この世界は常に変化し続けています。
変化すればこそ、この世はこれからも未知であり続けます。
天地宇宙というのは存在自体が未知の塊であるわけです。
そして、未知を知ることは魂の喜びです。
未知に触れた瞬間、私たちの魂には波紋が広がります。
それは意識や感情のレベルではなく、魂レベルの話です。
私たちの魂とは、天地宇宙のひとしずくです。
つまるところ、天地宇宙が、未知に触れる喜びを求めているということです。
だから、天地宇宙は生き物に溢れている。
弱肉強食という無慈悲にも見える世界さえも、すべてはあらゆる視点からこの世界をくまなく経験するためのもの、魂の波紋を得るためのものであるわけです。
ですから、強者や弱者という発想そのものが、人間考えでしかないということです。
他者と違いがある、変化があるからこそ、未知が膨らみ経験が広がります。
真の多様性とはまさにこのことです。
なんでもかんでも平等などというセリフはこの世に唾吐く行為に他なりません。
自然界が不平等の世界であるというのに、人間界だけは平等であるべきと騒ぐのは不自然この上ありません。
「万物流転」「諸行無常」は未知を広げる要素となっています。
この世は不条理なのではなく、極めて効率的かつロジカルに成り立っているのです。
たとえば、私たちが記憶をゼロにして生まれてくるのも、一つには未知を深く味わうためのものと言えます。
予期しない物事ほど、魂の波紋は大きくなります。
あらゆる出来事、体験は無味無臭の無色透明ですが、それに触れると私たちの心に波紋が広がり、それが悲しみや喜びとして感じ取られます。
感じ方は人それぞれです。
それでイイ。それがイイのです。
それを味わうことが私たちの存在意義です。
正解が一つしか無いならば、この世には一人だけ存在すれば事足りてしまいます。
そうでは無いからこそ、これだけの人間が存在しているのです。
どのような環境、どのような人生、どのような体験であろうとすべては無色透明です。
そこに優劣はありません。
それは大自然の弱肉強食の世界を見れば明白です。
大自然ですらも、そうなのです。
いわんや人間をや、です。
他人と自分を比べることはナンセンスです。
自分の過去と比べることもナンセンスです。
隣の芝が蒼く見えても、隣は隣です。
今は彼がそれを味わう役目なのですから、勝手にやらせとけばいいのです。
あるいは、自分の過去に華やかな時期があったとしても、それもまた、その時の自分にやらせとけばいいのです。
たとえ目の前の景色が辛く苦しいものだったとしても、今はそれを味わう場面というだけです。
無駄なことは一切ありません。
異なる体験があるだけです。
そしてそれらはどれもが等しく魂の喜びであるわけです。
それでも苦しい時は弱肉強食の野生を思い出してみて下さい。
つい先ほどまで平和に草を食んでいたシマウマが、次の瞬間にライオンに襲われ食べられてしまう。
この時シマウマは、さっきまでの平和を思い今の不幸を呪うでしょうか。
いいえ、おそらく、今の瞬間だけに心を向け続けているはずです。
残酷な言い方に聞こえるかもしれませんが、シマウマは、最期のその瞬間を体験することで未知に触れているということです。
天地が無駄な仕組みを作るはずがないではないですか。
それを人間の価値観で推し量ろうとするから、誤解と苦しみが生まれるというだけです。
この世は全てが完璧です。
そこにある人生は全てが完璧です。
天地宇宙というのはそのように出来ているのだと思います。
いま目の前にある悶々とした日々にしても同じことです。
私たちは一人残らず、この世のあらゆる未知を体験しにきています。
それは分担作業と言うこともできるかもしれません。
今その時その環境を体験しきることが、私たち一人一人の存在意義です。
ポジティブな生活だけを積極的に受け入れ、ネガティブな生活は受け入れられないというのは、天地自然に反しているということです。
私たちは体験をしている時点で目的を果たしています。
生きていること自体が、私たちの生まれてきた理由です。
体感というのは常にこの瞬間です。
瞬間を体験しているという点で、全ての生き物は共通しています。
何年も土の中に暮らしてきたセミが地上で数週間しか生きられなかったとしても、あるいはウスバカゲロウが1日しか生きられなかったとしても、瞬間瞬間を体験していることに変わりありません。
長ければ幸せ、短ければかわいそうというものではないわけです。
私たちは、瞬間を味わうためにこの世に生まれてきました。
時間ではありません。
いま目の前の、この瞬間です。
不自由な日々だろうと明るい日々だろうと、それらをしっかり体験しきることが、私たちの魂の喜びであり、魂を預かった私たちの責任と言えます。
最期のときに、自分の人生を振り返り、ホッとできるのはそういうことなのではないかと思います。
そして、未知の最たるものは、人との交流です。
未知と未知の融合ですから、相乗的にハレーションを起こします。
それは、人間レベルの心としてはとてもツラい体験に感じるかもしれません。
しかし、魂レベルでは未知との触れ合いと受け取ります。
自身の人生をどの瞬間もしっかり味わい切るのと同様に、相手もその人自身の瞬間を味わいきっています。
自身のこの瞬間を大切にすることで、他人のその瞬間も尊重することが出来るようになります。
それこそが真の平等であり、多様性の尊重ではないでしょうか。
(おしまい)