これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

ちゃんぽん

2016-05-23 22:29:17 | ひとやすみ
学生の頃に好きだったチャンポン屋へ久しぶりに行きました。

店に入った瞬間、何か白っぽいというか冷ややかな感じがして、一瞬「ん?」と思いました。

普段は気にもしませんが、飲食店にせよ販売店にせよ、小慣れた空気感というものがあります。
そのいつもなら当たり前にやってくる感覚が来なかったために何とも言えない違和感を覚えました。
ただその時は「改装したばかりなのかな」くらいにしか思わずに、すぐ忘れてしまいました。

そのあと出てきたチャンポンは、昔と変わらない味でした。
確かに変わらないのですが、でもやはり何か違和感がありました。

言葉で表現できないけど何かが違う。
のっぺりしているというか、向こうから来るものがなくてシーンと静まり返っている感じでした。

そう、この時まで気がつきませんでしたが、いつも当たり前に食べている料理というのは、実はその料理から「何か」が溢れ出ているのです。
美味しかろうとマズかろうと、味や香り以外の何かがそこから伝わってきているのです。
その何かが、この時はシーンとして居て、無反応に近い感覚だったのでした。

この不思議な感覚のわけは、後日、テレビを見て分かりました。
そのお店の厨房では、あらゆる料理が全て自動化された機械で作られていたのでした。

人は最初にビニール袋を破って具材を鍋に入れるだけ。
あとはノータッチで、炒めるも火加減も全て機械がやってくれる。
出来上がりの合図があるまでは完全に放置状態なのでした。

機械だろうと人だろうと、物理的には同じ動きです。
時間も量も熱の伝わり方も全て計算上は同じになるように設計しつくされていました。
ですから、確かに味はそこそこでした。

でも何か違う。
味ではない何かが。

世の中には美味しいお店もあれば、イマイチのお店もあります。
でもどんな料理であっても、人の手を介すことで見えない何かが加わっていることを生まれて初めて知りました。

全てがオートフォーメション化された調理場は、まるで工場か実験室のように見えました。
おそらく食中毒にならないようにピカピカに消毒もされているのでしょう。
その無機質な空気は研究所や病院にとてもよく似たものでした。

店に入った時の「おや?」という空気感はまさにそれだったわけです。

手を介すというのは、そこに心が流れるということでもあるわけです。
ボーッとしたり目を切ったりしたら、それは成りません。

「心を向ける」ことが、目に見えない結果となって現れるということです。

身近な例で言えば、自宅で入れるコーヒーにもそれを見ることができます。
お湯が減っていくのをジーッと見つめながら継ぎ足して淹れるのと、何か他のことをしながら片手間にやるのとでは、仮に全く同じタイミングでやったとしても明らかに風味が違ってきます。

香りが繊細な豆であれば、その違いは一層はっきりすることでしょう。
注ぐ量やタイミングといった物理的もの以外の「何か」がそこにあることは、コーヒー好きな方ならば経験的に分かるのではないかと思います。

同じように、適当に作った料理と真心こめて作った料理とは天地ほど違ってくるのも、単なる火加減や味付けの差だけでは無いということです。

体調が悪い時に作る料理の味はイマイチになってしまうというのも、単なる味覚不良による味付けの違いではなく、心が朦朧としていること、
心がしっかり向いていないことが大きく影響しているのかもしれません。

武道でも「心を切らない」というのは基本中の基本です。
それは「心を変えない」と表現することもできます。

投げてやろう、倒してやろう、こうしてやろうという心は天地自然に反する心であるため、相手に反発心を起こさせて逆の結果となってしまい
ます。
美味しくしてやろう、自分の腕前を見せてやろうという心もまた、天地自然に反する我執のため、逆の結果しか生まないことになるでしょう。


少し脱線しますが、20年ほど前にこんなエピソードがありました。

仲間内でワイワイと団欒している時、不思議なこと大好きオジさんが、“何も触らずにコップの水の味を変える”と言い出しました。
さすがにあまりの唐突な展開に、みんな「エッ」となりました。

少し離れたところからコップに向かって何かを込めるような眼差しで2、3秒ほど見つめて「ハイ飲んでみて下さい」となったわけですが、
それを飲んだ人たちは「??」「変わらないですけど??」という反応でした。

そんなはずはなかろうと、本人は慌ててそれを飲んで言った一言は、
「イヤ、美味しくなってるよ」

みんな、阿藤快のようにナンダカナ~という顔で苦笑いをするしかありませんでした。

話はそれで終わりなのですが、今になってみるとそれこそ間違ってはいなかったと思うのです。
つまり、心を向けることで目に見えない影響を与えるというところまでは。
ただそこで「こうしてやろう」「いいとこ見せよう」と我欲を起こしてしまったために、逆の結果になってしまっただけです。

余計なコメントなどせず、ただみんなに美味しく飲んでもらおうと思ったならば、それは叶っていたのではないかと思います。

真心というのは「誰かのために」という透明な心です。

「自分のために」というのはそこに殻を作ってしまいますが、それとは逆の方向にむかうと壁は消えて天地そのものとなっていきます。
まさしく透明な心。
幼い頃に笑顔で叫んだ「美味しくなーれ」という純粋な思いこそが、真心の原点であるわけです。

評価を期待したり不安がったりすると、たちまち違うものになってしまいます。

ただ、相手を思うだけです。

母親が作る故郷の味というものも、食べ慣れた味だからという理由だけではなく、そこに込められた真心というものを私たちは喜びとして感じて
いるのではないかと思います。

家庭料理にせよ、お店の料理にせよ、評価を得たいという思いではなく、相手が喜んでくれると嬉しいという純粋な思いが、そのまま幸せ溢れる
味わいとなっているということです。


これは料理に限らず、あらゆる物事に共通することではないかと思います。

食べるという行為は私たちの命に関わる本能的なものですから、感覚的なわずかな差でも私たちは「なんとなく」分かるわけですが、料理以外
であっても理屈は一緒です。
人が介在する行為には全てその心が映る。
料理のように敏感に感じ取れなくても万事そうなっているということです。

冷静に考えると、この世の中というのはどんな些細なことであっても、そこに人が介在しないものはありません。
商品はもちろん、仕事であっても、あるいは人づきあいであっても、あらゆる物事に人が介在しています。

人の思いというのはエネルギーそのものです。

想いを込める、気持ちを込めるということは、物理現象として確実に存在するわけです。


たとえば私たち日本人というのは昔から空間を大切にする民族でした。
広がりの中に感覚を捉え、間合いを取ったり、床の間を設けたり、花を生けたりしてきました。

あるいは、神社の本殿の空間、神棚のお札を納める空間、神輿の中の空間などもそうです。
そこへ心を向けることでエネルギーが充満し、あるいは浄められ、練られた氣が込められます。

日常生活ですら心が作用するのですから、神様に関わることとなれば尚更そうでしょう。
神棚や本殿に手を合わせる時、特別な言葉や所作が無くとも、我欲をなくした素のこころにあればそれだけで天地と溶け合い、神様の心そのもの
となって受け取って下さるということです。

「空間」というのは「空」と「間」です。
どちらも目に見えないものです。

見えるものを目にすると心に限定が生じます。
全ては逆なのです。
見えないところ、見えない状態にこそエネルギーが満ちるということです。

目に見えるから確実なのではなく、むしろ見えないからこそ、そこに確実にエネルギーが在る。

食を通じて、私たちはそのことを日々実感しているわけです。


私たちの心は、知らず知らずのうちに生活のあらゆるものに注がれていきます。
もしもそれが色として見えたならば、それはもの凄い勢いで二重三重に色付いていることでしょう。

「自分のために」と思うか「誰かのために」と思うか、それによって色合いや味わいが天地の違いとなる。

私たちの関わるあらゆるものへ味わいが付与されていきます。
綺麗な色あい、幸せな味わい、そういうものがいいと思えたならば、きっと私たちはいつでも真心を向けていられるのではないかと思います。

ただ誰だって、時にはイライラしたり我利我利したりすることもあるでしょう。
だって人間だもの、と。

でもそんなイマイチな色がついてしまったとしても、それを嫌って何も色をつけないのよりは遥かにいいと思います。

一番つらいのは、心を注がぬ無色透明な料理です。
愛の反対は憎しみではなく無関心と言われる、まさにそれです。
マイナスを嫌って、及第点狙いの無感情というのは最悪と言えます。

無関心とは全く心を向けない状態のことです。
イジメの中でも一番ツラいイジメは無視することであるように、それは、汚したり傷つけたりするよりも重いことです。
何故ならば、この世に存在するということはすなわち魂の交流であるからです。

交流できないということは、存在そのものの息の根を止めるに等しいということです。
ポジティブであろうとネガティヴであろうと交流は交流です。
人を傷つけるということも、交流の一形態であるわけです。

私たちが生きていくということは、一瞬一瞬に何かしらの色を注ぐことでもあります。
生きるというのはそういうことだと思います。

関わらずにスルーするというのは、決してニュートラルな心ではありません。
関わらない心というのは、無関心ということです。
ニュートラルというのは、見ないということではなく、見たものを止めずにそのまま通すことです。

私たちを取り囲むあらゆるものというのは、まさにご縁そのものです。
この世に存在するということは、嫌でもご縁を紡ぐことになります。
つまり、生きるというのは「あらゆるものと関わる」ということと同義なのです。

無関心や無感情というのは、生きることを放棄することに他ありません。

良くも悪くも、関心をもって生きる。
こちらから心を通わせて生きる。

多種多様な彩りに囲まれながら、私たちはそれらを味わって生きています。
息をするのが身体を生かすことになるのと同じように、味わうことが私たちをこの次元に存在させることになります。

存在するとはそういうことです。

単一的な淡白な味付けではなく、ごちゃ混ぜのチャンポン状態を噛み締め、味わっているわけです。

この世界は真っ白な実験室ではありません。
心のない無味無臭の世界など、私たちは望んでいないのです。
そこに人が介在して、様々に個性あふれる味がごちゃ混ぜになってこその「チャンポン」なのです。

私たちが普段何気なく浮かべる思いは、確実にまわりのあらゆるものへと注がれています。

それは決して襟を正して清らかな心を注がなければいけないということではありません。
なんだっていいんです。
様々な思いが幾重にも重なった方が、味わい深いチャンポンが出来あがるというものです。

とにかく心の抜けた全自動モードの調理だけは頂けないということです。
調理が下手くそだったとしても、しっかりと心だけは向ける。
無思考のままにパブロフの犬のように過ごしてしまうのは避けた方がいい。

上手か下手かではなく、また綺麗か汚いかでもなく、大切なのは「しっかりと関わる」「しっかりと心を向ける」ということです。


目の前に並んだ料理を無視したり忌避したりせず、またそれを抱え込んだりもせず、スッと口へ運んで静かに味わう。
それが苦悩を手離した生き方というやつであるのは確かです。

理想はそうなのでしょうが、それはまたそれ。
そこまでストイックを目指さなくても、ここはひとまず口に運んで美味いのマズいの騒ぎ立てる方が、人間らしくてずっとイイように思えます。

苦悩を全て無くそうとしなくとも、ほどほどならばそれはそれでいい味わいを出すものです。

五つ星の高級ホテルの美しいディナーにせよ、見た目ごちゃ混ぜC級グルメにせよ、それぞれに良さがあります。

どれが正解というのは無いわけです。

誰かが何かを美味そうに食べていようとも、自分が幸せに感じるものが今ここでのご縁です。

A級だろうとC級だろうと、美味しいものというのは例外なく様々な味が複雑に絡み合っています。

見た目が綺麗か汚いかよりも、核心はそこにあります。

せっかく味わうのならば、能面のような顔で淡々と食べるのではなく、驚き喜び、一喜一憂しながら食べた方がこの時間をずっと楽しく過ごせる
のではないかと思います。

酸いも甘いも、一言ではいえない複雑な味わいこそがこの世の醍醐味であるわけです。



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この世界は美しい。

2016-05-14 23:46:40 | 心をラクに
景色の見え方というのは、人それぞれ千差万別です。

彫刻のような虚像だけの世界ならば、見え方もあまり変わらなかったかもしれません。
しかし、この世というのは生命に溢れた世界です。
生きとし生けるものは、見た目の切り絵だけではなく、その向こうに遥かなる広がりを持っています。

それを人は無意識のうちに透き通して、重ね見ています。
その奥行きも、人それぞれにピントが異なりますので、観え方も異なってくるというわけです。

ある人にとっては、相手の人柄や雰囲気が前面に映るかもしれませんし、また別の人にとっては目鼻立ちや体形が前面に
映るかもしれません。

つまり、私たちは見ようとしたようにしか見えないということです。

昔から、アバタもエクボと言われますように、心がそうなっている時というのは実際に目に映る映像が本当にそうなって
います。
モヤモヤと何となくそうなっているのではなく、ハッキリとそのような画像になっているわけです。

これはプラスの心の場合だけでなく、マイナスの心の場合でも同じです。
つまり、エクボがアバタにもなるということです。

勝手な思い込みがあるとそれに似通った部分だけが浮き上がり、そこに無意識の補正がかかるため、当人にとっては
真実の映像と化します。

俗な話ですが、例えば安保論争一つ取っても「アメリカに脅されてやっている」「戦争法案だ」「我が子が徴兵される」
と考えてしまうと、まさにそれに合致する部分が全景を占めるようになります。
「ワイマール憲法がナチスを生んだ」と信じると、どのような憲法であろうと独裁政権の道にしか映らなくなります。

ひとたび本人にとってそれが真実となると、それ以外の見方ができなくなってしまいます。
他人が何を言っても、それは単なる詭弁か妄想、思い込みとしか映らないわけです。

この世の景色というのは本来ニュートラルなものです。
しかし切り絵のどこかに焦点が片寄ると、途端に全景がゆがみ収縮してしまいます。

これが正しい、こうに違いない、こうあるべき、という考え方をしていると平面上の切り絵の世界だけでなく、その
向こうの奥行きに対しても片寄りを起こすことになります。
それは、どこかに絶対正義や絶対真実があるに違いないと探している時も同じです。

そうしたことは、まさしく信仰の世界で見られることですし、「~の法則」といった精神世界にも見られることです。

ニュートラルとは、平面だけでなく奥行きに関してもオールフリーな状態です。

ただニュートラルというものに何らかのイメージを持つと、その時点で最早ニュートラルでは無くなってしまいます。

あらゆる出来事の奥に広がる、遥か深遠な景色。
それを「こういうものに違いない」と決めつけると、その通りにフリーズした世界と化します。
プラス思考にせよ、必然性にせよ、言葉に縛られた瞬間、底浅い狭量なフォーカスになってしまうわけです。


自分の見ている景色が正しいと思い込むと、自分の目に映ったものが真実となって、それ以外は間違ったものなります。

子どもの頃、母親がこの身を案じて叱る姿も、単にガミガミとヒステリーに怒りまくる景色にしか映らなかったでしょう。
それと同じことが、今この目の前の景色でも繰り返されているのです。

これも天地宇宙の一面である。
あれも天地宇宙の一面である。
これやアレとも違う景色もある。
どれもこれもがこの世界を現すものだ。


そうした心が、今の思い込みとは違う景色を映していくことになります。

景色というのは、心によってコロコロと変わっていきます。
実際、良くも悪くも、心一つで景色が一変するということは誰しも経験
あることだと思います。

たとえば、仕事で大きな成果を上げた時、多くの人から称賛された時、あるいは誰かに恋した時、私たちの景色はどう
なっているか。
たとえ暑さ寒さ雨風があろうと、何も気にならず空高く明るい世界に過ごしているのではないでしょうか。
しかしそれが一転、仕事で大失敗をしたり、白い眼を向けられたり、失望されたりすると、先ほどまで明るく輝いていた
景色は、暗く陰鬱とした景色へと一変することでしょう。

世界は何一つ変わっていないのに、私たちのフォーカス次第で天地がひっくり返る。

一枚絵の何処にフォーカスさせるか、奥行きをどれほど深くに感じるか、それによって目に映る現実が実際に変化する
ということです。

そして、この自由自在なフォーカス機能こそは、この世界をより変化豊かに味わうものでもあるわけです。

ニュートラルというのは、不干渉ということではなく、自分がどのように見ているか、それを自覚できている状態です。
まさにTVのチャンネルを変えるようにです。

ありのままに受け入れるというのは、そこに自分が不在ということではなく、無限の見方ができる状態にあるということです。

そもそも万物は無限に広がるものであり、それを見る自分もまた無限に広がるものです。
互いの無限が溶け合った時、私たちはありのままに受け入れるニュートラルな状態となっているわけです。


うららかな春のひととき。
庭先へ足を放り出しながら、暖かい陽射しを心地よく感じていた時でした。
突如、目に映る全てが自分自身になったことがありました。

それを何と表現すればいいのか分かりませんが、すぐ手前の草花も、庭の向こうに生い茂っている木々も、まったくもって
自分の指先のようになって、すべて自身であるような感覚になったのでした。

景色のすべてが区切りなく『マトリックス』のように不可分の唯一無二となり、淡い黄色とも金色とも言えるような
ほんのりと輝く温かみに満ち満ちました。

とても満たされた、心地よい世界。
その時、心の底から「世界は美しい」と感じてました。

全身を包まれるというか、むしろ自分から全体へ溢れ出ているというか、どちらともつかない感覚の中、ただ「愛おしい」
という思いで一杯になりました。

「自分」というものも「まわり」というものもない。
自分以外という感覚がない。

何のために生きているとか、存在意義だとか、そうした発想そのものがあまりにも砂つぶのようなちっぽけに感じて、
「存在している」というただそれだけで、途轍もなく温かく、優しく、愛おしい。


目に映るすべて、心に感じるすべてが心の底から愛おしく、思考というものも消えて、ただその状態に溶け込み、幸せな
心地となりました。


しかしその一方で、そこまでの経験をしても、次の日にはいつもの自分なのでした。

つまらないことに囚われ、哀しみ喜び、笑って怒る。

宇宙から還った宇宙飛行士は人間が変わったようになると言いますが、本当に偉いと思います。
私たちはどんな体験をしても、その時が過ぎればまた元の自分に戻ってしまっています。

でも、それはそれでイイのだと思います。

どれが特別な経験ということではなく、どれもこれもが、その時その瞬間をしっかりと味わい尽くしています。
その時の感覚や心はウソ偽りのないものです。

だから、それでイイのです。

あの時はあの時。この時はこの時。
無理に襟を正そうとすると、おかしな話になってしまいます。

白隠禅師も「大悟十八度、小悟数知れず」と言われています。

それまで思いもしなかった大きな気づきをしたからといって、たちまち人格者になるというわけではありません。
悟りというものに過大な妄想を抱くのは、謙虚さに欠けるというものです。

何が変わったのかというと、何も変わりません。
自分は、前の自分のままです。
逆に言えば、前のままの自分は既にそれで何も過不足ない姿だったということにもなります。

聖人君子になれずにガックリくることではないのです。

悟りというのは、それで自分の何かが変わるということではありません。
それは経験の一つであり、感動の一つです。
それを噛み締める。それで十分なわけです。

そして私たちは生きている限り、それまで味わったことのない新しい気づきというものに何度も出会います。

「気づき」と言っても、人々を感嘆させるような派手なものということではありません。
その言葉に酔いしれたらアウトです。
気づきとは、それまで思いもしなかったことにフト気づくことです。
ですから、他人から見ればごく当たり前のことだって山ほどあるでしょう。
でも、それが私たちにとっては悟りなのです。

思い込んでいる時というのは、それが思い込みであると自覚することはできません。
目をつぶっている時には光が見えないのと同じです。

それがフトした時に、まぶたの隙間から木漏れ陽が注ぎこむことがあります。
そのとき初めて、それまでの世界が自分の思い込みの景色だったと知るのです。

私たちは生きていくなかで数多の悟りを繰り返していきます。

泣いたと思たら、もう笑っている。
悟ったと思たら、もう忘れている。

それでイイということです。

そもそも私たちは、見ようとしたようにしか見えないものなのです。

悟りは凄いものだと考えているかぎり、新たな景色はやってきません。
「囚われない、オールフリー、ニュートラルというのはこういうことではないだろうか」と勝手な想像をした時点で
それらは全く異なるものと化します。

これもアリ。あれもアリ。
また別の何かもアリ。
自分からウロウロ探しに出歩くのでなく、何でも来い来いと、来るもの拒まず楽しもうとするウェルカム姿勢こそが
この世というアミューズメントを楽しむもっとも自然な姿かもしれません。

ちゃらんぽらんな感じもしますが、もとよりそうした気質こそが日本人の真骨頂なのではないでしょうか。

私たちは、もともと何もかも知っていましたが、何も知らないように望んで成って、そして一つ一つ新しく景色が広がる
その喜びを味わいに来ました。

小悟は無数。

一度悟ったはずなのにまた同じ自分になっているというのは、それこそラッキーというものです。
落ち込むようなことではありません。
一粒で二度おいしい、その喜びを噛み締められるのは幸せです。

取るに足らないような些細なことでも、悟りは悟りです。
そのように気楽に考えていけば、悟りは加速します。

いま目の前に映る景色は、この世界のすべてでは無い。
これから小悟無数にして、薄皮を剥がすように、思い込みが晴れて、明るさが増していく。


生きていくと、様々な思い込みに気づきます。

生きているということは、それだけで新しい景色が広がっていくということです。

何も変わらないと思うとその通りに映るだけです。
でも、ウェルカム姿勢になれば、何も特別な修行などしなくとも自然と世界は晴れあがっていきます。

生きる喜びとは、まさにその一点に尽きるのではないでしょうか。


『この世界は美しい。そして人生とは甘美である。』

それは決して、安っぽい綺麗事なんかでは無いということです。



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