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これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

裏・イマジン

2017-10-18 20:02:07 | 感謝のこころ
想像してごらん
仕事がなくなり 明日をも知れぬ日々を過ごすことを

想像してごらん
不況がひどくなって 収入が半分以下になることを

想像してごらん
中学も高校も 選ばれた人しか教育を受けられなくなることを




海外ではそんなこと当たり前という国がたくさんあります。
私たちの国は、求人倍率は1.0を超え、経済もなだらかなプラス成長を続け、学校も何とか通わせることが出来ています。

実感が伴わないとか、もっと楽になりたいとか、恩恵を受けたいとか、不足感にばかり目を向けていると、今のありがたさを本当に忘れてしまい
ます。

平和ボケよりもさらに深刻な、幸福ボケ。
今がいかに幸福であるか忘れ、本当の不幸を想像することもできない。
それこそが、不満だらけの世の中の正体です。

もちろん、世の中をもっと良くしようと思うのは自然な感覚です。そのようにして私たちは文明文化を築いてきました。
しかしその大義名分に寄りかかって、今ココに対して不平不満の限りを尽くすのは全くもってのほかです。

その先は、夢の国を語り合うお友達同士が集まって今の恩恵を全てちゃぶ台返しにしてしまい、ついには今の当たり前の全てが失われることに
なります。

今のこの当たり前が何とありがたいことだったのか、それを失って初めて気づくことが出来た。
そのようなことが実際に起きます。

この世というのは、そのありがたさに気づかないならば何としても気づかせてくれる仕組みがあります。
たとえ不幸になろうとも、生きているうちに気がつかせてくれるというのは、天の優しさ、母心であるわけです。



想像してごらん
話の通じない人が 目の前にいるところを

想像してごらん
その人が突然おそってくることを

想像してごらん
自分ではなく 家族が傷つけられることを




「戦争反対、暴力反対、話し合いで解決しよう」
そんなのは誰だって当たり前に願うことです。
我慢して嵐が去るならば、耐え続けるのがいいに決まっています。

でもそれはギリギリのところまでの話です。
問題はその先です。

相手の側に、殴っただけで終わらせる気なんて全く無かった場合、どうしますか?
嵐が去ることなど無い、あとは死あるのみ。
それを知った時にどうするか。

「それでも耐え続ける、反撃したらケモノと同じだ」
もちろんそう思うのは自由です。
でもその場合、それが人間の尊厳などではなく、単なるポリシー、こだわりでしかないことをハッキリ自覚する必要があります。

信念・信条に殉じたいということであれば、まわりが止めるものでありません。
それはそれで一つの生き方だからです。

ただ、そこに家族が居た場合、その家族までも自己満足に付き合わせて死なせるという事実を直視しなくてはなりません。
決して目を背けてはいけない。
言い訳に逃げてはいけない。

この世に絶対の正義などありません。
すべては単なる選択でしかないわけです。

無抵抗というのが人間らしさや寛容であると考えるのは一つの判断、一つの価値観でしかないということです。

もしも本当の意味で人間らしく生きたいというならば、
「死にたくない」
「何としても生き抜く」
というのが自然体であるはずです。

心の声とは真実そのもの。
ドロ水をすすってでも生きようとする、それこそが人間の尊厳であるわけです。

カッコよかったりスマートなのが人間の尊厳ではありません。
みっともないとかカッコ悪いなどという発想自体が自我の囚われでしかない。背伸びしようとする子供でしかないということです。

想像したならば分かるはずです。
最後の最後に死を覚悟した時、そこは石に齧りついてでも生きる。家族を守る。
そうなるのが自然体です。

そうであれぱ、最後まで生き抜くために日頃からコツコツと努力をするのが人間らしさであり、その反撃の手があればこそ、いざとなったら家族を守れるわけで、だからこそギリギリ死の間際まで我慢し続けるという構図が成立するわけです。

そこに人としての誇りと気高さが生まれるということです。

何もせず怠惰に過ごし、綺麗事だけ並べて、いざという時には相手の温情にすがる。
全てが他人事。自分は何もジャッジしない。
それのどこに人間の尊厳などあるのでしょうか。

この世が様々なことを楽しむためのアミューズメントであるのは事実です。
だからといって、自分の命を軽んじていいはずが無い。
それでは安っぽいバーチャルゲームと何も変わりません。

この世を薄っぺらなアミューズメントにするのも、重厚なアミューズメントにするのも自分の心次第です。

最後の最後まで石にかじりついても生き抜こうとする真剣味があってこそ、この世は詰まり詰まった真実と化し、その結果、私たちの味わいも
途轍もない深みを持つようになるわけです。


天地は初めから定まっているのではなく、私たちがそれを決定しています。
文句を言う時点で本末転倒なのです。




ジョンレノンは『イマジン』により私たちの意識を、愛と平和に向けさせました。

それというのは当時が、目の前のことに囚われすぎて物欲と本能の暴走に満ちた世の中だったからです。
他人を蹴落としたり、いがみ合ったり、ドロドロの戦争に突入したり。
だから本当の幸せとは何かを想像(イマジン)させたのでした。

地に足つけずにフワフワと夢見心地に酔うことを謳ったのものでは決してありません。
ドロ沼の現実にドップリ浸かりすぎて動けなくなっている人たちに送ったメッセージだったということです。

そこを履き違え、ラブ&ピースを免罪符にして、目の前の現実を拒絶して現実逃避に身を投じるというのでは、駄々をこねる子供と何も変わり
ません。

そもそも地に足つけずして、愛や平和を語ることなどできるものではありません。

何よりもまず今この目の前の現実を受け入れ、今ココを感謝するところからスタートしなければ、その先などあるはずがないということです。

私たちは生かして頂いている。
そのことに感謝を思えば、誰かが叫ぶ美辞麗句を耳にしても、すぐに不自然な引っかかりを感じ取ることでしょう。

不満からは不満しか生まれません。
疑心では真実は見えません。

自我に囚われない。執着に走らない。
不安も不満も自我の囚われでしかありません。
森の中の、葉の一枚に注意を向けさせて不平不満を煽るのは彼らの常套手段です。

感謝の心、謙虚な心は、すべてを真っさらに清らかに見通します。

本当に大事な場面では、頭でっかちにゴリゴリ考えたりせず、全てを手放して「今に感謝」という原点に帰るのみです。

今回の選挙は、私たちがどれだけ今に感謝できているかを現すものだと言えるかもしれません。


(『国を護るのは私たちです』2015-7-13)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/67198a7fb3479515861eda7890ce2144



(おわり)



強い人にはNOしたい

2017-10-08 22:11:07 | 国を常しえに立てます
何でもスマートにやる人を目にした時、素敵だなぁ凄いなぁと感じる人もいれば、なんだコンチクショウと思う人もいます。

相手は落ち着いて話しているのに、何だか分からないモヤモヤが胸に湧き上がる。
それが何なのか分からないまま、スッキリしたいがために相手のアラ探しをして非難する。
すると何故か、先ほどのモヤモヤは消えてラクになる…

スッキリしたいという思いは、もともとは清らかになりたいという衝動によるものです。
なんだかモヤモヤして汚れたような感じがするのは全く正しい反応と言えます。
しかしそれを取り除くための行動を間違えてしまうと、清らかさとは程遠い結果と成ってしまいます。

そのモヤモヤというのは、比較意識と優劣意識そのものであり、劣等感に他なりません。

相手はそんなつもりカケラも無いのに、そのサクサクこなしている姿を見ると、何だか自分が劣っているような気がしてくる。何とは無しに
悲しさや空しさ、腹立たしさを感じる。

これは自我の作り出す一人相撲に他なりません。
それが汚れの正体です。

ですからモヤモヤとした思いを取り除こうとするならば、まずはこの我執を白日のもとに晒して丸裸にしてしまうのが正しいわけです。

しかし悶々やモヤモヤの正体が分からないまま、とにかく早くスッキリさせたいと思ってしまうと、それこそ自我の思うツボになってしまいます。

相手にケチをつけることで自分よりも下に落とす。すると劣等感は解消されますのでモヤモヤは消えます。
しかしこんなことは禊祓いでも何でも無い。
逆に悶々やモヤモヤの発生源にますますエネルギーを注いで肥大させることにしかなっていません。

それでもモヤモヤが消えるという成功体験がありますと、このパターンが条件反射として刷り込まれていくことになります。
そうしてそれ以降、無思考のままそれが繰り返される。

強い人には無条件にNOしたい衝動というのは、そういうことです。

たとえば子供の時は、親や家族、学校などに守られているのが当たり前の状態にあります。
義務教育という言葉もありますので、まわりが自分を生かそうとするのは「当たり前」だと勘違いしがちです。

そうなると、どうなるか。

自分が一番でないと嫌だ、自分の思いどおりにならないと嫌だと自我の肥大が止まらなくなる。
そうしてワガママや反抗が始まります。

子供が親に激しく当たるのは、甘え以外の何ものでもありません。
それは自分は守られているのが当たり前だという慢心であり増長であったわけです。

それが成長していくにつれて、私たちは自分の足で生きていかなくてはならないようになります。
まわりが自分のために何かするのが当たり前ではなくなると、自我の肥大はおさまり、謙虚に成っていきます。

ところが、大人になってもなお自分が守られているのが当たり前のままに自己肥大のおさまらないケースがあります。

家族が自分を守っているのは当たり前。自分のことを立てるのは当たり前。
国が自分を守っているのは当たり前。経済が安定しているのは当たり前。
天地が自分を守っているのは当たり前。空気があり水があり食べ物があり、乱れず安定しているのは当たり前…

天地は何も語らず私たちを護り、生かしています。
国家も何も語らず私たちを護り、生かしています。

そうした事実に目をふさぎ、目の前の平和を当たり前のものとする。

そうして天地に向かって感謝の気持ちを忘れる。
国家に対しても感謝の気持ちを忘れる。

あまつさえ、その大恩人に向かって非難や文句ばかりを叫び、自らのモヤモヤを解消して満足する。

これが、親に楯突くワガママな子供で無くして何なのか。

絶対的に守られていること、生かしてもらっていることを本当に知らず、知ろうとせず、あるいはそれを知った上で逆に相手の足元を見て、
甘え、幼稚園程度の知識を振りかざして自分が賢人でもあるような増長満で大恩人を貶める。

平穏で平和な日々に感謝をすることなく、その偉大さ、ありがたさに気がつくこともなく、訳のわからない上っ面だけ派手なお囃子(おはやし)
に新鮮味を感じてフラフラと流される。

日々の食事に感謝せず、流行りの外食に浮かれる。

これが子供で無くして何なのか。

いま私たちの頭の中に存在する理屈も、心の中にあるプライドも、何もかもすべては自我を正当化させるための虚構に過ぎません。

唯一確実なこと、それは、
今ココに存在している。
今こうして生かしてもらっている。


その事実に勝るものなど何一つ無いのです。

生かしてもらえていることに感謝あるのみ。
それこそがモヤモヤも悶々もサラサラと流すことになります。

今ココに在ればこそ、私たちは天地の中心となります。
今ココに在るというのは、私たちが感謝に包まれていることに他なりません。

家族しかり、国家しかり。
身のまわりのお陰さまに気づかずして、天地のお陰さまに感謝できるはずがありません。

今回の選挙もまた同じです。

フワフワと浮ついた心を鎮めて、心から感謝を思えば、自ずと感じるものがあるでしょう。

たかが国政選挙と思うなかれ。

私たちは天地の中心です。
すべては繋がっています。

身のまわりの些細なお陰さまに気がつけるかどうか。それが日本の未来、世界の未来、そして天地の未来へと繋がっていきます。

少しでも何かを感じたならば、投票という実行動を刻む。
それが、私たちがこの世に生きている証となります。




(「この世に清き一票を」2017-4-24)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/9cbbe4ee71bc3ab46c0487cb9839a26a



(おわり)





母なる大地 日本

2017-10-02 23:30:52 | 国を常しえに立てます
前回は中央構造線の話をしましたが、そもそも中央構造線はどのようにして出来たのでしょうか。

実はそれをひも解くことは、そのまま私たちの故郷・日本の誕生を辿ることにもなります。

少し堅い話になりますが出来るだけ簡潔にまとめたいと思います。




今から1億年以上前、ユーラシア大陸の東端に私たちの故郷の一部がありました。
一方、残り半分はイザナギプレートに乗ってはるばる南方から北上して来ました。

何千万年もかけて半分ずつが重なり合い、陰陽合一の結果、日本列島の土台が出来あがりました。
このときの合一の名残りが中央構造線であったわけです。

断層というと大地が裂けて出来たものを想像しますが、中央構造線は実はとんでもないスケールの、地球規模の大流動の末に生まれたものなの
でした。




中央構造線こそは、日本誕生の御印(みしるし)そのものだと言えます。

母なる大地が生まれた証(あかし)、それがこうして私たちの目の前に残っているということです。

そしてまたイザナギプレートとはよくぞ名付けたもので、そのプレートは日本列島を作り終わると消失したのでした。
(「イザナギ・イザナミの国生み」参照)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/国産み




母なる大地誕生のドラマはまだまだ続きます。

その頃、東日本はまだ一面の海でした。
それが西日本の陰陽(山陰・山陽)が合一した頃、突如、太平洋プレートが日本列島側へ向きを変えて流れ出し、その沈み込みにより東日本
の海底が次々と隆起をし出したのでした。

こうして日本列島の原型が出そろったわけですが、その当時はまだ大陸のすぐ近くにあって、さらに今とは逆向きに日本海側へカーブした形を
していました。

それはまさに胎児が背中を丸めているような格好だったと言えます。

それが驚くべきことに、北米プレートとフィリピン海プレートの移動により「西日本は右回りに45°」「東日本は左回りに20°」の大回転を
始めました。


母なる大地は大陸から離れ、ついに今のようにクッと背筋の通った堂々たる日本列島と成ったのでした。

この大反転の名残りが、富山から富士川を貫くフォッサマグナだと言われています。




これほど広大な面積の土地が、しかもそれぞれ逆回転の大移動をしたという信じがたい事実。
つまりそこにもまた右回りと左回りの陰陽の理が働いたのでありました。

この大反転はわずか一千万年の期間で完了しました。
これを神業と言わずして何と言うかです。

私たちの故郷、母なる大地は、たまたま出来たのではなく、全方位から天地宇宙のエネルギーが流れ込むようにして、これでもかと言わんばかり
のおかげさまによって生まれました。

この大地はとてつもないスケールの奇跡の結晶として今ココに在るわけです。

わずか数千万年のうちに起きたこの大変動を考えれば、今の中央構造線で起きる揺れを忌み嫌うのはどうなのかという気持ちになってきます。

むしろその振動によって、数千万年にわたって繰り広げられた日本(=地球)のダイナミックな生命の脈動が、今でもココに流れていることを
強く感じられるのではないかと思います。

そうした数千万年を知らずして今しか見えていないと、私たちはわずかな振動も恐怖に感じてしまいます。
地球や大地を無視して自分しか見えていないと、今の生活が当たり前になってしまい、わずかな変化も嫌なことに思えてしまうものです。

しかしこうして広く大きく物事を見てみますと、そこには全く違った景色が広がってまいります。

大断層こそは天地に流れる生命の現われであり、母なる大地に脈々と流れている生命の証(あかし)であるわけです。
そのエネルギーあればこそ、この大地は大地と成り、私たちはここに生まれ出ることができ、そして今こうして生きることができている。


まさしく感謝そのものではないでしょうか。

そしてそこに流れるエネルギーとは、まさに私たちに流れる生命と同じものであります。
だからこそ、私たちが感謝を思うことはそのまま大地の詰まりを通すことにも成るのでありました。

「大断層」=「地震」=「命の危険」「生活の危機」
そう考えてしまうと怖くなったり忌み嫌ってしまいます。

「大断層」=「生命の息吹き」=「母なる大地のルーツ」「生かして頂いている感謝」
このように考えれば、たちまちイメージが変わるはずです。

それでもなお、死の恐怖が頭にチラつくのであればこのように考えてみます。

私たちは、自分の力だけで生まれ出たのでもなければ、自分の力だけで生きているのでもありません。
私たちは母なる大地あればこそこの地に生まれることができ、そしてこうして生きてこれた。

生まれた瞬間から死ぬ時まで、私たちは母なる天地に包まれ、その腕の中に抱かれ続けています。
そして万が一にも天地によって召されたとしても、天命というものを考えるならば何も理不尽なことはなく、事件や事故で亡くなるよりも
ずっと納得がいきます。
病気で死ぬよりも遥かに自然死です。

命を奪われるのではなく、天から召されるのです。

自分の人生というものを「自分でコントロールして全てを握っている」と思うから、自分以外の存在によって運命づけられることに無念さと
怒りと恐怖を感じてしまうのです。

自我の我執に囚われることは多くの苦悩を生む全ての原因です。
思うようにならない。ままならない。
そんなのは当たり前すぎる話です。

もとより私たちは、私たちを大きく包む数多くのお陰さまによって生かして頂いています。
私たちの自我の思うままに成るはずがないし、そんな安っぽいものではないわけです。

私たちというのは天地を繋ぐ柱です。
そこに流れる「無限の8の字」の中心です。
自分ひとり独立した存在などではないのです。

自分だけで生きているなどトンデモナイ。
私たちは、生かし、生かされています。

大地に思いを向けるのは私たちにしか出来ないことであり、だからこそこうして我執に振り回されてしまっている現実に気がつくことが本当に
重要になるのです。

自分のことしか見えていないと、恐怖は恐怖のまま増幅されていきます。
明日のことはどうでもいい。
私たちが今この瞬間ココに生きていられているという、ただそのことに思いを馳せたときにフッと心に浮かぶものがあるでしょう。

それを大切にすくいとって、素直に表にあらわすということです。




いま一度、大地のことへ話を戻します。

凝りや緊張が取れて流れが良くなりましても、少しずつ凝りや緊張は積もっていくものです。
ですから大地への感謝というのは、いつでも大切な意味を持ちます。

私たちも疲れや凝りが溜まり、知らず知らずのうちに体の節々が緊張していくものです。
たまに伸びやアクビをしたり、適度に体を動かしたりします。

この大地もまた同じです。

詰まり詰まって大きな塊にならないためには私たちの思いがとても重要になります。
天地人の感謝の流れというのは、私たちを生かすものであり、天地を生かすものです。

特別なことではなく、ごく普通の状態にあるだけでいい。
我欲に染められず、ホットケの境地にあればいい。

地震は嫌だから抑えようとか、生活を壊されたくないから祓おうとか、そういう我執は一切無用。
大断層だから怖いとか嫌だとかいう我心は逆効果でしかありません。

地震が起きるとか起きないとか、そういう些細な次元の思いは捨て去る。
そうではなくて、ただただ、私たちが存在できている事実、そこにある母なる大地の存在、そうしたことに対しての純粋な思いだけでいい。

そうして私たち一人一人が、何かの縁で降り立った土地で、あぁ気持ちがいいなぁと喜びに浸る。ありがたいなぁと素直に思う。

それが幾千万の柱と成って、天地宇宙へサラサラと流れていくことになるでしょう。





(おわり)