これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

私たちは本当に自由です。

2019-06-22 18:44:05 | 天地の仕組み (Basharサポート)
何の変化もない同じような日々が続いているようでも、私たちはいつだって選択を繰り返しています。

すべての瞬間は私たちによって選択されたものであり、その選択の積み重ねが私たちの目の前の世界を作り出しています。

世界というものが存在していてその中に私たちの選択があるのではなく、私たちの選択によって世界が出来あがっています。

何の変化も無いように見えるのなら、それは常にその選択をし続けているからと言えるでしょう。

大きな選択は目に見えるものですが、小さな選択は目には見えていません。
全ての瞬間において選択肢は五万と存在しています。
それを意識することなく自動選択する仕組みを私たちは有しています。

一瞬一瞬どれがいいかとイチイチ考えていては、そこから先に進むことが出来なくなります。
そのため自動選択装置が私たちの深層意識の浅いところに存在しています。

簡単に書くと「A(顕在意識)-B(自動運転装置)-C(深層意識)-D(私たち自身)」というような形になります。

そのうち、D(私たち自身)やC(深層意識)は、何かの選択に迷うことはありません。
天地すべてが一体であると、ただ調和に基づいた流れがあるだけで、そもそも選択という場面が存在しないからです。

しかしA(顕在意識)は道が二つ見えると一瞬身構えてしまいます。

立ち止まらず自然に進むということを私たち(A)はなかなか出来ません。
それというのも、頭の中にアタリやハズレという判断基準が刷り込まれてしまっているからです。

価値判断が存在すると、まず岐路で立ち止まってしまいます。
そして反射的にハズレは避けたいと思うようになります。

もとよりアタリやハズレというのは物差しによって作られた『概念』に過ぎません。
「そうだ、価値判断をしよう」という思いつきがあって作り出されるもの。架空のものです。

つまり、岐路で立ち止まってアタリ・ハズレ判定をしようとする度にゼロから作り出されているものであるわけです。

もともとこの世界にはアタリもハズレも存在しません。

しかし顕在意識にはそれが実在するものとして刷り込まれています。
だから迷いというものが生じることになります。

そしてアタリ・ハズレという比較から幸せや不幸という概念が生まれ、苦しむことになりました。

人間だけが悩み苦しむ生き物だと言いますが、それは嘘です。
同じ人間でも子供はどんな境遇にあろうとキラキラと目を輝かしています。
私たちも低学年の頃は自分が不幸だなんて思ったことは一度たりとありませんでした。

アタリ・ハズレという価値比較、損得勘定が後付けで刷り込まれることによって「不幸」という概念が作り出され「苦しみ」という反応が生まれた
わけです。

私たちの感情というのは、何らかの概念や観念に対する反応に過ぎません。

そしてその概念や観念は、もともと天地宇宙には存在していない架空のもの、勝手な決め事でしかありません。

「今日のゲーム(遊び)のルールはこうしよう」というのと何一つ変わらないものなのです。





さて、話を元に戻しますと「自動選択装置(B)」というのは、もともと顕在意識が一瞬一瞬に目を奪われず、大きな流れを体感できるように
するためのものでした。

映画の1コマ1コマを隅々までチェックしていては映画全体のストーリーが進みません。
ですからそのチェックを簡略化させているわけです。

この世にはもともとアタリもハズレもありませんので、当然、自動選択装置もそれが前提になっています。
もし価値というものがこの世に実在していたならば、自動選択装置もそれを踏まえたもの(つまり価値比較に左右されずに選択をできる仕組み)
になっていたでしょう。

しかし実際は、天地宇宙に価値というものは存在していないわけです。
ですから、自動選択装置もとてもシンプルに、ナビゲーターの一声だけを忠実に守るように出来あがりました。

もちろんその一声というのも、天地自然の流れを俯瞰している大きな私たち自身(D)から届くものを前提としていました。
深いところに広がる私たち自身が「天地自然の流れ」と「私たちに最適な体験」とを照らし合わせて発するものが、自動選択装置へと届く作りに
なっていました。

誤解があるといけないので少し補足しますが、そうした一声というのは決して大きな私たち自身(D)の主体的な能動的な判断によってもたら
されるものではありません。

「こっちはイマイチ」「こっちの方がいいからこっちにしよう」というような自己主導的な判断ではないということです。

自らの主導的な判断で下位を動かすものではなく、全体の調和が図られた結果そのように成るものであるわけです。

そもそも天地自然というもの自体が、大きな大きな私たちと同一のものですから、その一声というのも「同じ私たちが自然に交流したもの」、
つまりは調和の結果として発せられたものだということです。

たとえば私たちの体を見てみましても、私たちの脳は心臓や肺のことを気にかけながら能動的なジャッジで身体を動かしているのではなく、ただ
当たり前に体全体の自然な調和を図っています。
それと同じことです。

つまり自動選択装置(B)というのも、私たちの体でいうところの自律神経のような役割を成しているわけです。

話がやや脱線してしまいましたが、深層意識や高次意識から「指示が来る」となると、何か天啓のような明確な意思が存在するようなイメージを
描いてしまい、深層意識と顕在意識が別のもの(断絶がある)のような勘違いが強化されてしまうので注意が必要です。





深層意識も、今この顕在意識も、すべて同じ私たちです。

違いがあるとしたら、深層意識が「老熟した私たち」であるのに対して、顕在意識は「血気盛んな子どもの私たち」といった程度です。

それでもなお、遠いもののように感じてしまうなら、例えば「怒った私たち」も「笑った私たち」も同じ私たちですよね?という話です。

この世には私たちは体感しに来ていますので、有象無象なんでもありの仮想世界において様々な体験をするには、好奇心旺盛でヤンチャなエネル
ギーが必要です。
だからこそ、この次元においては童心の私たちが前面に出ているのです。

決して顕在意識が未熟ということではありませんし、ましてや童心の私たちが良くないなんてことはありません。

一方、老熟した私たちは悟りきった高僧のようにスーッと静かにそこに坐しています。
そしてたまに小声で大切な言葉をポツリと発します。

あの世とこの世を貫いて存在している私たちは、この老僧と子供の綱引きによってバランスを取っています。
ちょうど交感神経(興奮、活動)と副交感神経(鎮静、睡眠)の関係のようなものです。

ですから普段の私たちがどのような状態にあるかというと、例えば老僧と子供の姿を現実に照らしてみればよく分かります。

現実世界では、老僧のまわりには謙虚な弟子たちが静かにたたずんでいるものです。
耳を澄ませ、静かに語るその言葉を聞き洩らすまいとしています。

しかしその老熟した高僧のまわりにキャーキャー大声で騒ぎたててドタドタ走り回っている子どもが居たらどうなるでしょうか。

そんな中でも高僧は言葉を発するでしょう。
でも幼な子は大声をわめいてそれを掻き消してしまいます。

幼な子からすれば、高僧の声どころかその存在すら目に入らなくなっているかもしれません。

「耳に手を当ててマジメに聞きなさい!」と叱られても、そもそもワーワーと声を出してドタバタ走るのをやめずにいたら、いくら耳に手を当てて
も何も聞こえるはずがありません。

まさにこれが今の私たちと言えます。

子どもであることが悪いのではありません。
子どもでイイんです。

それを否定したり忌み嫌っても何の解決にもなりません。

本質はそこではありません。
我執に暴走してしまっていることが問題なのです。

遊ぶときは遊ぶ。
静かにするときは静かにする。


そういうことです。
まずは心を落ち着けなければ何も始まりません。

それを怠り「見えないし聞こえないから分からない」「ワーワー騒ぐ自分の声しか聞こえてこない」とイジケる。

私たちは騒々しいのが当たり前の環境で育ったため、ワーワー騒ぎたてる顕在意識しか感じられず、それが自分自身と思い込むようになりました。
そうして、それ以外は無いものとしてしまったのでした。

もともと一つのものなのにフタを閉じて好き勝手やっていますと、二重人格のようになってしまいます。

そうなると、深層意識というのは、顕在意識に反する指示ばかりする存在のように映ってしまうのでした。





さてそういうわけで、ひとまず落ち着いて座ることが出来たとしましょう。

ここで私たちは、結論を急がず静かに時間をかける必要があります。

結論を焦ってしまうと、私たちはおおよそ2つの選択を行なうことになります。

一つは、深層意識を尊重するあまり、顕在意識にフタをして無理強いするパターンです。
この場合はストレスが増大して息苦しくなって自己崩壊が起きます。

もう一つは、深層意識に耳を傾けることを諦めて、それまでの顕在意識のまま過ごしていくパターンです。

しかし本来、潜在意識や顕在意識といった区別は存在しません。すべては一つです。
それが当たり前な状態です。
そもそも雑音なしの伝導率100%が当たり前の状態であるわけです。

A、B、C、Dは全て私たちです。
それらが三位一体、四位一体になっているのが私たちです。

それが、顕在意識(A)が一人ぼっちと思い込んで断絶(という幻想)を作り出したことによって、強いノイズが生じ、大きな混乱が起きてしまい
ました。

まず必要となるのは、顕在意識が抱いている自己分離という思い込みを、静かに落ち着かせることです。

結論を急がず時間をかける必要があると言った理由はそこにあります。

子供の私たちがワーワーと騒いでいる原因は様々ですが、不安や執着がほとんどです。
そして、そうした不安や執着の根っこにあるのが、価値判断・価値比較、つまり「アタリ・ハズレ」であるわけです。

アタリやハズレというのは、私たちが好きこのんで取り入れたものではなく、価値比較に染まった社会の中で勝手に刷り込まれたものです。

自分は何も悪くありません。

そしてこの価値判断や価値比較自体も、別に良いも悪いもありません。

そこにOKを出さないと先に進むことはできません。

ダメ出しというのは、価値判断をしていることに他なりません。

わずかでもそれらを否定する思いがあるかぎり、結局は臭いものにフタをする状態から抜け出せなくなります。

アタリ・ハズレにかぎらず、あらゆる価値観、あらゆる観念は、もともと私たちの外にあったものです。
私たちが持って生まれてきたものでもありません。
ですから、必ず手放すことができます。

自分が所有するものと思うから否定したくなるわけです。
そして否定してしまうから手放せなくなるのです。







アタリ・ハズレを筆頭に、何かの固定観念をガッチリ抱えすぎていますと、ノイズが大きくなって潜在意識の方へ逆流が起こります。

三位一体、四位一体の私たちは、もともとは双方向にスムーズに流れています。

「D→C→B→A」(ナビゲーションの声)
「A→B→C→D」(体験のフィードバック)

というようにです。

しかし顕在意識(A)に激しいノイズが生じると、自動選択装置(B)は「高僧の静かな一言」ではなく「幼子の大声」を基本設定として読み
込んでしまいます。

つまりアタリ・ハズレという損得比較が、自動運転の設定になってしまうということです。

そうなると、本来は立ち止まらずスムーズに先へ進むための自動装置だったのに、逆にグルグル同じところをまわり続ける牢獄設定と化します。

顕在意識が脳で判断する前に、自動的に損得勘定でもって選択を行なってしまうということです。

私たちは、もともとこの世に存在しないもの(価値)を毎回ゼロから瞬時に作り出していたわけですが、そこをショートカットさせて「もう存在
しているものとしている」のです。


A(顕在意識)が価値判断・価値比較といった観念に浸かっているかぎりは、AからB(自動選択装置)へこの基本指示が常に流れ続けます。
そうしてAが自覚していない時にもBはその観念に従った選択を続けることになるのです。

一瞬一瞬のうちに五万とある選択肢も、知らないうちにその観念に基づいた自動選択がされるということです。

私たちは無自覚のままに設定入力を行ない、そうとは知らずに目隠し手錠で車に乗りこみ、手放しでアクセルを踏み続けているわけです。





一方で、生存本能というものがありますが、これはアタリ・ハズレの損得勘定とは似て非なるものです。

すべての動物と同じく、私たちも「より安全」を選択しようとする本能を持っています。

「まずは安全を」というのと「まずはハズレで無いものを」というのは本質的に違うものです。
ここをしっかり整理しないと、また目隠し手錠の暗闇に逆戻りになります。

結論を言えば、前者は命の存続が基準ですが、後者は価値比較が基準になっています。

例えば、選択Aも選択Bも命の危険(ないし安全)に変わりが無いならば、それらは等価です。
そうなったときに初めて、潜在意識に広がる私たちのナビゲーションシステムが作動します。

しかし価値比較というものがあまりに強く刷り込まれていると、深層の私たちの声は掻き消され、価値比較という大声が優先されることになります。

本来この世には存在しない概念がナビゲーションの基本設定になって「ハズレでは無い方を選ぼう」という自動選択がされるようになるという
ことです。

そしてその自動選択は心の奥から湧きだす形になるため、顕在意識の私たちはそれを本能だと思ってしまい、価値比較が基本設定になっている
のに気づかず、それを容認することになります。

だからこそ、しっかり整理をしないと暗闇の牢獄に逆戻りすると言ったわけです。

もともとは全ての道を自由に選ぶことができますので、私たちのハンドルは毎瞬キュッキュッと簡単に切れるようになっています。
五万とある選択肢のどれでも私たちは選ぶことができます。

しかし、強烈な設定指示を受けた自動運転装置は、私たちがハンドルを切ろうとするとその瞬間にグッと元に戻そうとします。
高性能な安全装置であるがための悲劇です。

顕在意識の私たちはそれを本能と混同して、それ以上の無理をするのは命の危険と判断します。
そうして、ハンドルを切りたくても切れない悶々とした日々が続くことになるわけです。



当たり前のことですが、ハンドルを切ると景色は変わります。
景色が変わるというのは「今まで当たり前にあったものが無くなり」「無かったものが現れる」ことでもあります。

駐車場から車を出せば、まわりに停まっていた車の景色は無くなり、道を行きかう人や車の景色になります。
そのうちビルや建物が減っていき、緑や青空が広がっていきます。

動けば景色が変わる。
あたりまえの話です。

そこで何かを失ったような不安に囚われ、ハズレの選択をしてないかと悶々とするのは、ちょっとおかしな人だと思うでしょう。

駐車場に停まっていた時は安全だった
だからその景色のままだと安全が保証される
それならなるべく車を出さないでいよう


変化を恐れて現状維持を求めるというのは、まさにそれと同じです。

自己保身の自動運転に縛られ同じ道を選び続けるというのは、右折も左折も嫌がり、ひたすら真っ直ぐ進むようなものです。

色々な景色を味わうためにドライブに出てきたはずなのに、いつの間にか、安全に走らせること自体が目的となってしまっています。

「アタリ・ハズレ」「成功・失敗」の論理がベースにあると、環境の変化が怖くなりハンドルを切ることができなくなります。
自由自在なハンドルが、自縄自縛によりとても重いものとなり動かせなくなります。

そうして行ったり来たりする自動運転が日々続くと「道というのは一つしか無い」という思いが無意識に刷り込まれて行きます。

その思いと、同じ景色が繰り返される事実とが重なることで、その思い込みはますます強化され、そうしてますます変わらぬ日々が繰り返される
ようになります。

例えば、日々繰り返される「朝起きて顔洗ってウガイをしてご飯を食べて会社に行く」というのも、無数に存在する道の中のたった一つの道です。
これしか無いと考えるのは思考停止の思い込みに過ぎず、実際は何万とあるうちの一つの選択であるわけです。

私たちは「朝起きて顔洗ってウガイをしてご飯を食べて会社に行く」という選択を常に行っているからこそ、まさしくその生活が変わらず繰り返
されているのです。

今ここで言おうとしているのは、決して一つの道を繰り返してはいけないということではありません。
無数にある選択の中から「常にそれを選んでいる」という事実を自覚する必要があるということです。


それにより手放し自動運転の自縄自縛から解かれ、自分で選択する状態に戻るようになります。

当然、同じ道を選び続けてもいい。
大切なのはそれを自覚しているかどうかです。
為すがままに翻弄されていないかです。



車に搭載されているカーナビは目的地に向かうために最適な道を指し示します。
同じ目的地を設定すれば、ほとんど同じ道を選びます。
でもそうした時、私たちは同じ道を選んでいることを認識した上で車を出発させるはずです。

日々の暮らしも、いくつもの選択肢から選び出された「たった一つ」です。
そのたった一つを私たちは毎日選択している。
ひたすら同じものを選んでいます。

無自覚で日々を過ごすのは、籠(かご)に閉じ込められた鳥のようなものです。
それを「未だ目覚めぬ状態」と言った人も居ました。

知った上でやっているか、知らずに目を閉じているか、そこが大きな違いとなります。

そうと知っていれば、自分の意思でいつでも籠から出ることができます。
「今は籠から出ないでおこう」という選択を自らしているのであれば、出る出ないはいつでも自由となります。

ですから、これまでと同じような日々を過ごすにしても、自由に選択できるという認識を持った上で過ごしている人は、ハンドルが軽い状態にあり、
それはつまりすでに目覚めた状態にあるわけです。






今この瞬間も目の前には無数の選択肢が存在しています。
そのどれでも私たちは選ぶことができます。
そして今のこれを自ら選んでいるのです。


客観的事実として見るのではなく、積極的に参加してこうなっているということを意識付けするのが非常に重要なポイントです。

これを何度も繰り返すと、常に自分にOKを出しているということが実感できるようになっていきます。

違う選択があるという事実を知ることが一歩目とするならば、次は、「自ら選択している」を意識付けしていくことが二歩目となります。

違う選択があるのを知ってるだけでは単なる傍観者のままです。

今まで真っ暗闇だったところから、一歩踏み出したことで、自動運転の車に乗っているのを自覚することが出来るようになった、しかし依然として
ハンドルに手を掛けていない状態は続いたまま、ということです。

その状態では、いざ他の選択をする時になると物怖じしてしまいます。
その段になって初めてハンドルを握るところから始めないといけないため、そのことだけで不安が一杯になってしてしまうからです。

一方、様々な選択がある中で、たとえ同じ道であっても「これを自ら率先して選んでいる」という体感を得ると、他の選択を行なうことへの
ハードルがグンと下がります。

なぜならば、普段からハンドルを持った状態がすでに当たり前になっているからです。



また、自動運転の車に目隠し手放しで乗っているのが感じられるようになると、「私たちは自由自在になることに自分でNOを出しているのだ」と
思ったりします。

しかしその捉え方は間違いです。
それでは「NOをやめればいい→でもやめられない→自分はダメな人間だ」と苦しむことになります。

そもそも私たちはNOは出していません。
やってもいないことをやめられるはずがありません。

自らの選択を許し、実際その通りに進んでいる私たちは、常にOKを出している存在です。

たとえ籠の中に居ることを自覚できずにいたとしても、その中に居ることもまた私たちの選択に他なりません。
自動運転にまかせて軟禁されて目をつぶるという選択をしているわけです。

籠から出ることにNOを出しているわけではありません。
グルグルと同じところを回ることにOKを出しているわけです。


ポジティブであろうとネガティブであろうと、私たちはOKを出しています。
決してNOは出していません。
全てのベースには「OK」があるということです。

ですから私たちがこれからすべきは、NOをやめることではなく、いつでもOKしていることを自覚することです。

選択の主導権は、いついかなる時、どんな状況であろうとも常に私たちにあります。

たとえ眠りについたまま無自覚に過ごしていたとしても、それを選択しているのは私たちであるわけです。
教えてくれなければ知りようも無いと反発しても責任回避できる話ではないのです。

変わらず同じ日々が繰り返されることに不満を覚えること自体が、この事実に気がつくためのサインです。
それにすら耳を塞いで結局同じ日々を過ごすならば、まさにそれこそ自ら選んだ道に他なりません。

私たちは間違いなく、自分自身で、今の状況を選んでいます。

このことにハッキリと目を向けることこそが、目隠し手放し自動運転の状態から、主役を自分に戻すスイッチオンになります。

すなわち、目を覚ますことになるわけです。





道を選ぶ基準というのは、理屈だったり価値観だったり感性だったり、その時その時によって様々です。

論理的に考えた判断もあれば、正義や正論といったものに頼ることもあります。
またポジティブ思考・プラス思考に任せたりすることもあります。

何に頼るかというのも自由意志による選択です。
何を信じるというのも自ら選んだ道です。

絶対的な真理というものはありません。
個々人が「正しいと信じている」ものがあるだけです。


当然、悪の組織と言われる人たちにも正義や正論はありますし、ポジティブ思考もあります。

すべては単なる指標でしかありません。
どのような正義正論であっても必ずそれを好まない人が出てきます。

特定の価値観だけが正しい、他は間違っているという思い込みは、もはや前世紀の遺物です。
自己洗脳に狂喜する姿を、すべての若者たちは冷ややかに見ています。

それぞれが信じていることに理屈などなく、実は単なる嗜好、好みでしかありません。

それは、あるスポーツチームが好きなことに論理的な理由など存在しないのと同じです。
もし他人が他のチームを好きだったとしても、それを非難して自分の好きなチームに鞍替えさせようなんてことを、大の大人が思ったりしないでしょう。

相手を従わせようとするとそこに争いが生じます。
正義や悪。正しい正しくない。
そうしたものがいかに身勝手な理屈であるかは誰もが気づいているところです。

しかし自分の中にそうした価値観がわずかでも残っている限り、分かっていても全否定しきれずズルズル引きずられてしまいます。

ポジティブやネガティブという話にしても同じことで、「ポジティブが良くてネガティブは良くない」となると、落ち込んでいる人はみんな良く
ないことになってしまいます。

実際はどちらも単なる「状態」に過ぎず、どちらが良いも悪いもありません。

落ち込むならとことん落ち込めばいい。

落ち込むのか明るくなるのか、どちらも決めきれず自分の中で綱引きを始めて悶々としている状態こそ、籠の中の鳥に他なりません。

ネガティヴもポジティブも後付けのものでしかありません。

天地の流れがそのようになっている時、そこに身を任せることこそ自然な選択です。

もしネガティブが良くないという指摘があてはまるとすれば、それは空間の流れがおさまっているにも関わらず、落ち込むことに執着してしまって
いる場合です。
そうでない限り、ネガティブにしてもポジティブにしても、道を選択する際の指標の一つに過ぎないのです。

自分の深層意識がその波に乗ろうとする流れがあるならば、そこにはプラスもマイナスもありません。
にも関わらず、心の声を無視して無理やりポジティブを選ぶというのは、逆に自己分離を招くことになりかねません。

「苦労をしたくないならポジティブの方がいい」というのは目先の景色だけに限った論法です。

天地宇宙には大きな流れがあります。
私たちの底の底に流れる大きな流れです。


その上に幾重もの流れが重なって、その一番上っ面の浅い流れがいま私たちの目に映っています。

それをどうにかこうにかしたいと思うのが人情ですが、そこに囚われているかぎりは苦しみが尽きることはありません。

なぜならそれは、大波に翻弄される木の葉という立ち位置を自らから選んでいることに他ならないからです。

大きな流れというのは上っ面の浅い流れに関係なくドーンと流れています。

この私たちがネガティブに振る舞おうがポジティブに振る舞おうが、本当にどっちでもOKなのです。






天地宇宙は三位一体となっています。

ポジティブな状態とネガティブな状態のほかに、そのどちらでもない状態というものがあります。

それこそ「どっちだっていい」状態です。
それは、どっちにも転ぶことのできる状態とも言えます。

頭で考えて打算的にクルクルと道を変えるのは風見鶏とか日和見と表現されます。
一方、風向きに従って自然な流れに乗るのはニュートラルな自然体と言えます。

前者は価値判断・価値比較をもとに顕在意識によって道を決めているのに対して、後者は天地の流れにただ乗っかった状態です。
これら二つは全く異なるものです。

ニュートラルな自然体というのは、自分の理屈で舵を切らず、流れに逆らわず、風にあがらわず、ただ船体が倒れないようにバランスさせている
状態です。

風が聞こえない、風に身を任せるのが怖い、だから損得勘定・価値比較という基準に頼り切る、それが籠の中の鳥です。

今ココは、まさにその状態から脱する原点回帰の時です。

ここで一番のポイントとなるのは、舵を手放しにしているのではなく、ちゃんと自分の手で持っているところです。

天地に任せきろうと丸っきり手放しにしてしまうと、糸の切れた凧の状態になります。
流れに流され、前も後ろもなくクルクルと目を回して、吹き溜まりに流れ着くことになります。

今までが「実利、実利、実利」「ポジティブ、ポジティブ、ポジティブ」だったからその逆を行こうと極端に振って、手放しで天地に頼りきると
いうのは最悪です。

任せきるというのと、頼りきるというのは正反対の言葉です。

流れに乗るにしても、そこには自分というものが存在します。
他力本願というのは自律というものがあって初めて成り立つものです。

手放すのはハンドルではなく「これが正しい」という決めつけです。
それさえ無くなればスーッと自然な流れに乗っかっていきます。

凧をやったことがある人なら分かると思いますが、少しでも力を入れてグイッとやってしまうと、何十メートルも先の凧がグラングランと
揺れ出します。
だからと言って完全に手放しにしたら、どこかへクルクルと墜落してしまいます。

適度な加減でもって、風に引かれるテンションとバランスを取ると、一気に舞い上がって行きます。

まさしく「いい加減」であるわけです。

その状態にあるれば、あとは天地の流れに自然に調和していきます。

そうやって進んだ道が、世間的な価値からみて、幸福な道なのか苦しい道なのか、それは分かりません。
でも私たちは世間的な価値観を満たすために生まれてきたのでは無いわけです。

そこのところを少しでも期待するかぎり、三位一体となって自然な流れに乗ることは出来ないでしょう。

右だろうと左だろうとどちらも正しいというのが、この世の成り立ちです。
だからこそ、その場その場の状況に応じて自由自在というのが自然体であるわけです。

武道の世界でも、次に何をやろうと決めてしまうと心身が一つのルートに固定された状態となってしまい、居着きが生じます。
右も左もいつでもパンチを出せる、蹴りも出せる、後ろへ下がることも左右に動くこともできる、そんな自由自在な自然体こそが最も強い
のです。

どれかが正しいとか、打算的に考えるとか、何かを「決めつけて」しまうと、目に映る景色は狭くて小さなものになってしまいます。

あらかじめ結論を持ってしまうと、自分で自分を縛ることになってしまうわけです。

どちらか一方でもなければ、どっちつかずでもない。
どちらにでも動ける状態こそが、天地自然の姿です。

この世のあらゆるものは、事象にしろ生き物にしろ、そのニュートラルな状態が基本にあります。

私たちの腸も閉鎖された一つの世界と言うことができますが、その中には善玉菌と悪玉菌のほかに日和見菌というものがあって、その日和見菌が
圧倒的に多いのが実態です。

天地自然に調和している状態というのは、天地自然の流れと一つになっていることです。

分子の世界でもプラスとマイナスを繋ぐ中間子があって、それが結びの存在となっています。

立ち位置を決めつけない状態というのは、どうにでもなれることを意味しています。
そしてそれは物事を結ぶことの出来る状態でもあるわけです。


ちょうどいい塩梅。
ちょうどいい距離感。

決めきれないのは優柔不断と他国の人たちに散々非難されてきましたが、私たち日本人はそうやって「結びの力」で調和を保ってきました。

実はそれこそが自由自在であったわけです。

これからの国際社会で、その力が大いに発揮されることでしょう。



変化というのは、それ自体がポジティブを具現化したものということができます。

ポジティブを内包しているのではなく、ポジティブの表れ方の一つが「変化」ということです。


ですからネガティヴな方向への変化が起きた場合でも、変化すること自体がポジティブそのものであるわけですから、それもまたポジティブの一つ
の形態ということになります。

ネガティヴな変化もポジティブな変化も、あらゆる変化はすべてポジティブな流れの上に乗ったものであるわけです。

ということはつまり、過去や未来が無限に分岐して交錯するという、そのこと自体も全てポジティブがベースにあるということになります。

もしネガティブな流れが天地宇宙のベースとなっていたならば分岐自体が起きておらず、この世界は原初から変化のない真っ暗な状態のままだった
でしょう。

でも天地宇宙は今のように存在しているわけですから、つまりは天地宇宙がそもそもポジティブな状態にあるということ、厳密に言えばポジティブ
に傾いているということになります。

ありとあらゆる存在は「今ここに存在している」という事実があるかぎり、ポジティブな流れに乗っています。

このことから二つのことが言えます。

一つ目は、私たちの人生はたとえどんな悲劇や不幸に見えようと、すべてがポジティブを具現化したものであるということです。

そして二つ目は、あらゆる存在は、たとえどれだけネガティヴな振動をまとおうとも、一つの例外もなく、全てポジティブな存在だということです。



天地宇宙の揺らぎがポジティブであれば、ポジティブに生きた方がスムーズに行くという表現は間違ってはいません。

ただ打算でそれをやってしまうとそこにノイズが発生してしまうのはすでにお伝えした通りです。

スムーズに行かせようとポジティブに固執してしまうと、一本道に縛られ、居つきが生じ、大河の流れから離れてしまいます。

そもそもスムーズに行くのが正解と決めつけてしまうこと自体、危険なことです。
天地宇宙に正解など存在していません。
何がいいかなど決まってはいないのです。、

どんな選択をするのも私たちの自由意志です。

以前もお伝えした通り、今この私たちがその選択をしなくても、他の私たちがちゃんと経験しています。

今ここでポジティブな選択をしたとしても、ネガティブな選択をした私たちも存在していますし、その逆もしかりです。

あらゆる私たちがオールOKなのです。
これではダメというものは何一つありません。

あれこれ難しく考える必要は全くありません。
正解を狙いに行こうとしなくていい。
自分がやりたいようにやればいいのです。




いつだって、道は一つではありません。
行った先もまた、網の目のように無限に分岐していきます。

そのどれを選んでも間違いはありません。

どっちだっていいのです。
なんだっていいのです。

無自覚のままに同じ選択を続ける自動運転というのは、自分で自分を縛っている状態に他なりません。

それはまさに籠の中の鳥です。

でも、こんな話ばかりしてるとガックリして、ガッツが無くなるかもしれません。
なので一つだけ元気になれるヒントです。

自覚せぬまま日々を過ごしていても、寝て落ちた瞬間、私たちはその籠から自由に羽ばたいています。

森を抜けた先に広がる故郷へ還り、そして明け方になるとそこからまたもとの籠に戻ってガチャンと自分でカギをかけるわけです。

自由になれない、自分はダメだ、などと嘆くまでもなく、私たちは毎日カギを外して自由に羽ばたいています。

時間と空間が限定された表層世界から、あらゆるしがらみを遥かに超えた世界へ。

心配しなくても私たちは毎日、自由になっています。
ただ、夜が明けた時になって、不自由という選択をしているだけのことです。


夜寝ている時、私たちは目覚めている。
でも朝になると、私たちは目を閉じるのです。

毎晩、目覚めることができているのだから、昼も目覚めることができるはずです。


いつでも私たちは自由自在です。
どうせダメだなどと諦めるのは、まさに一人漫才。ナンセンスギャグです。
「いやや、そこー!毎晩やっとるやんか!」って話です(笑)

氷山の一角たるこの私たちはいつだって、大きく広がる私たち自身に抱かれ、見守られています。

やりたいようにやって、景色の変化を思う存分、楽しめばいいのです。

「そうは言っても仕事ガー」「家族ガー」と湧き上がる声があるならば、それはいったい何処から来るものでしょう。

自動運転装置は、ハンドルを元に戻そうとあらゆる警告を発します。

でもその出どころが何処にあるのか、心配のもとは何なのか。
幼ない私たちがワーワー騒ぎ立てる声に心を惑わされてはいませんか。

三位一体、四位一体となった私たちは、天地の流れに調和します。
そこにはもちろん、縁ある人々も含めた大きなシンクロがあります。
自分が楽しむことによって誰かが不幸になるなんてことは無いのです。

道を見失うことは決してありません。

この私たちの後ろには、天地に広がった私たちがドーンと構えているのですから。


籠目(かごめ)、籠目
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべた
後ろの正面
だーれ






(おしまい)





『これでいいのダ』 (つづき)

2019-03-18 17:34:18 | 天地の仕組み (Basharサポート)
過去も今も未来もすでに今ここに存在しているという説明をしてきました。

続いて、未来がすでに存在しているのなら運命は変わりようがないのか、という話に触れたいと思います。

再び、一瞬一瞬というものを、無限に広がるアザラシの頭に喩えます。
その一つ一つが、一瞬という一枚絵に顔を覗かせる私たちでした。

それらを繋いでいくと、それは一直線ではなく無限に分岐した網の目になっていきます。





あらゆるバージョンの過去や未来が、すでに今、存在しており、その全てのバージョンの全ての瞬間に私たちは存在しています。

それらは分離して存在しているのではなく、水面下で一つに繋がっています。
それを感覚的に分かろうとするなら、私たちの指が無限に突き出している状態とも言えますし、腸壁の細胞がビッシリ並んでいる光景に喩えること
もできます。

そして時間の経過というのは、小指から薬指、薬指から中指と、意識の向け先をポンポンとチェンジしていくことで感じるものでした。

今ここでAとBという選択があるとします。

仮にAを選んでその先ポンポンと未来へ進んでいくとしますと、Bという選択をした先のアザラシは魂の宿らない抜け殻になるのかというとそんなことはありません。

AラインにもBラインにも私たちの魂は存在します。

魂というのは別個に分かれておらず大きな一つの塊です。
いわゆる分け御霊という表現についても、水面上だけを見たものでしかなく、水面下では一つに繋がっています。

大きな魂の表面には沢山のトゲトゲがついていてまるで金平糖のようになっています。
そのトゲの一つが水面上に飛び出して氷山の一角と成っています。

別の表現をすれば、超巨大な風船があったとしますと、その表面を電子顕微鏡で拡大するとミクロの凹凸になっています。
その出っ張っている凸の一つ一つが、水面から顔を出したアザラシということになります。

今この私たちは、一つの凸に意識をフォーカスしている状態なので、他の凸は感じ取れません。
しかし風船のほうでは他の凸のことも感じ取っているということです。

今ここで感じている意識を主体にして考えるとややこしくなります。
指先の先っちょに心を向けた状態、それが今この私たちです。
ただ手のひらあたりにも意識はありますし、腕にも胴体にも意識はあります。

何層にも意識が重なっているということです。

天地宇宙は、あらゆる体験、あらゆる見方、あらゆる角度、すなわち「あらゆる視点」というものを網羅したいがためにこのような形と成りました。

この現実世界に意識を置いたままそのことを考えようとすると、途方もない数の並行世界が存在し、それら全てに私たちが繋がっているという
ことになりますのでイメージが追いつかなくなります。

指先の皮膚のミクロの先に意識を置いていると、他の部位のことなど想像もつかないのと同じです。

ならば逆から考えた方が分かりやすいかもしれません。
まず私たちという途轍もなく大きな存在があって、それは外側へ行くほどミクロのように細分化されているという流れです。

その一番表層の電子顕微鏡で見るようなミクロの世界の凸の一つ一つが、現実世界の一瞬(一枚絵)に繋がっています。

私たちはそのような出っ張ったところに順番にフォーカスして、時間という流れを疑似体験しているのでした。





今この私たちにとって、確かにこの宇宙は無限に広がる世界で間違いありません。
ミクロの領域から宇宙の彼方まで、途方もなく大きい世界です。
それが単なる一枚絵でしかなく、しかもそのあらゆるパターンが無限に存在しているとなると、現実離れしすぎてて受け入れがたい話です。

でも、この現実世界というものは固定化したものではなく無限に微小な振動の集まりであることを思い出して下さい。
この無限に広がる宇宙全てが、分子レベルでは凄まじく活発な動的世界であるわけです。

それはつまり分子レベルよりもさらに深い、水面下の世界がいかに動的であるかを表しています。

この現実世界は、光によって照らされたフィルムの投影です。
これが実体を伴う現実であるのは間違いありませんが、それを生み出す水面下の本体というものはさらに無限の存在であるわけです。

水面下の無限の動的存在が水面に触れてこの現実世界が生じます。
だからこそ、この天地宇宙が一枚絵として存在し、それが無限に重なっているというのはごく自然なことだと言えるわけです。

それらは一個一個緻密に作り込まれるのではなく、すべて水面下の無限の動的存在の投影です。
投影だからこそ一瞬で現れます。
最初から全てが存在していて、それが見えているか見えてないかだけの違いです。

プラネタリウムの星は天井に一つ一つ描かれたものではなく、中心から照射されて浮かびあがったものです。
それらは照射する前から全てが存在しています。
少し乱暴ですがそれに近いと言えるかもしれません。

目の前に無限に分岐するレールが広がっているということは、未来は完全に私たちの自由意志によって選ばれるということです。

そしてそのどれを選ぼうとも、選ばれなかった残りも、他の私たちが必ずそれを味わっています。

全てのパターンが選ばれているのですから、そんなに悩まなくてもいいのです。
もちろん、悩むこと自体も大切な体感の一つなので大きな意味はあるのですが、種明かしをしてしまうとそういうことです。

ですから、他の道の方が良かったかもしれないなどと後悔したり不安になったりする必要などカケラも無いということです。
過去を悲しむ必要なんて微塵もないわけです。

全てのバージョンがあらゆる私たちによって味わわれるのだから、今この私は本当に好きなようにやればいいのです。

そっちの私たちは、それはそれで意識のフォーカスが働いていて大元の私たちはその体感をキャッチして観察分析しています。

ただ別の方向へフォーカスしている今この先端の私たちにはそれが感じ取れないだけのことです。

どれもが正解というのはそういうことです。

無限にあるルートの中で、このルートを味わうとどんなことを思い、どんなことを感じるのか。
それが今この私たちが存在する理由です。


ですから私たちがやることはたった一つ。
ただ「味わうだけ」です。

それによって生じたどんな思いもどんな感覚も、全てがOKであるわけです。

なぜならば、私たちの根源である大元の私たちは、ありとあらゆる感応を求めているからです。
ポジティブだけを選り好むなんてことはしません。
一つも取りこぼすことなく、すべてを均等に知りたがっています。

私たちがいちいちNGを出していても、天地はオールOKであるわけです。



さてここまでは、ひとまず自分一人のことについて書いてきましたが、これと全く同じことがまわりの他の人たちにも当てはまっています。

つまり他の人においても、未来や過去のあらゆるパターンの無限のアザラシの顔が出ている。
無限の指が水面上に出ているということです。

複雑に感じてしまわないように、異なる人同士の関係性についてシンプルに表現してみます。

Aさんにとってのアザラシ①が顔を出して覗いた世界は、BさんにとってのアザラシXが顔を出して覗いている世界です。
この一枚絵というのは、無数の人たちが顔を出して覗いている世界であるわけです。
一瞬一瞬が全てそのようになっています。

一人称として見た場合、地平線の彼方まで私たちのアザラシ頭が広がっていますが、その一つ一つにおいて他の人たちが折り重なっているという
ことです。

ですから、その一枚絵というのは自分が創造(参画)した世界であると同時に他の全ての人たちが創造(参画)した世界でもあるわけです。
共同作業によってその一枚絵が成立しているということです。

創造というのは、照射のことであり、指先の先へのフォーカスでもあります。

自分自身にとっての過去未来に広がる無限のアザラシはその根元で繋がっていました。
その根元をさらに辿っていくと、他の人たちの無限のアザラシの根元と繋がっていきます。

さらにさらに辿っていくと、もっと多くの母集団と繋がっていきます。
さらに辿っていくと、人類やあらゆる生物、天地宇宙、根源へと繋がっていきます。

天地宇宙はあらゆる体験、あらゆる見方をするため、あらゆる視点から観察を行っています。
私たちというのはその観測点の一つということです。


その時間その空間に、観測点が無限に存在しています。

自分以外にも他の人たちが沢山いて、他の生き物が沢山いて、様々な存在が沢山います。
有機物も無機物も何もかも全てが観測ポイント(視点、窓)になっています。

変わりばえのない景色でも、角度を変えれば見え方が変わってきます。
観測者そのものの形態が違えば、さらに見え方や感じ方は変わっていきます。

観測ポイントの条件を変えていけば、ありとあらゆるパターンが観測できます。

それが、様々な存在がこの世に溢れかえっている理由です。

そしてその一つ一つも、それぞれあらゆるバージョンへ分岐していきます。
全ては、観測ポイントや観測条件を埋め尽くしていくためのものです。

私たちが一つしかない観測を行なっているように、過去未来あらゆるバージョンの私たちも、そしてあらゆる他の人たちも、他の生き物たちも
全てがオンリーワンの観測を行なっている最中ということです。

いまどき「オンリーワン」などというと、思考ストップのお花畑に使い捨てされてしまって随分と安っぽくなってしまいましたが、オンリーワン
というのは極めて深い意味が込められており、本来、軽々しく使うべきものではないわけです。

あらゆる全てのパターンがオンリーワンであるというのはまさしく真実です。

だから、他の人たちに対して腹が立つことがあったとしても、それはその人の務めを果たしている最中だというのが客観的事実と言えるでしょう。

そしてそんな相手に不愉快になっているあなたも務めを果たしている最中であるわけです。



あの時ああしておけば良かった。
こうしていれば上手く行っていたのに。
今この結果は残念だ。

そう思うことがあるかもしれません。
ただ「あの時ああしていた自分」はちゃんと今も存在していて、それはその自分がしっかり経験しています。

それを今この私も経験したかったと思うのは欲張りというものです。まさに木を見て森を見ずです。
私というのはこの小さな世界だけにとどまるものではありません。
無限に存在していることを忘れてはいけません。

その中で、今この私は、今この視点からの観測をするために存在しています。
(正確に言えば「そのためにここにフォーカスしています」)

ですから、今この景色に集中すればいいのです。
それ以上もそれ以下も必要ありません。

何かに成功した自分も、失敗した自分も、観測する立場からすればどちらも必要不可欠な存在です。
「他と違う」というその一点において、全ては等しく価値があるわけです。


今の私たちが体験できなかったパターンは、必ず他の私たちが体験しています。
違うパターンについては他の私たちに任せておけばいいということです。


過去を悔やんだり引きずったりする必要は全くありません。
自分を責める必要なんて全くないのです。

あらゆるパターンあらゆる視点を天地宇宙が望んでいるのですから、どの展開であろうとすべてがそれに適っています。
むしろ今このパターンの自分を堂々と誇っていいわけです。

あらゆる選択、あらゆる展開、あらゆる結果が、全てGOOD。
すべてが天地宇宙から祝福されています。

この今がいい。
今この私たちがいいわけです。

まさにこれでイイ、これがイイのです。

信念や価値観というフィルターを通すことで見え方が歪められるという、そのこと自体すらも観測条件を変える(=観測ポイントを増やす)という
点において天地はウェルカムということになります。

信念や価値観はノイズとなって、物事がありのままに映らなくなるかもしれませんが、それすらも観測反応が変わるという観点に立てばオールOK
なわけです。

本当にすべてのあなたがオールOKなのです。

では信念や価値観への囚われを無くそうとする努力は無意味なのかというと、それをやろうとモガくこと自体が一つの体験であり、新たな知見や
気づき、感応が生じるイベントとなっていますのでもちろん意味はありますし、その苦悩はその先々の道選びに大きな影響を及ぼします。

信念や価値観も含めて、何もかも全てがオールOK。
つまり天地宇宙では、ポジティブだけでなくネガティブも等しく許容されているということです。

悪というものがなぜ潰えないのか?
天地の理に敵っていないものは淘汰されるはずではないか?
遥かに進化した存在の中にもネガティブな存在が居るのは何故か?

それは善も悪も、単なる立ち位置の違いでしかなく、どちらが良い悪いというものではないからです。
「観測点が増える」「その観測点たる個々の味わうパターンが増える」それだけが天地宇宙の望むものだからです。

もちろん、いわゆる悪の道を進んだりネガティブな選択をしていった先はそれに基づいた展開となりますので、それを良しとするか嫌だと感じる
かは個々の受け方に依るところです。

それによって苦しむ、悲しむという展開になったとしても、天地宇宙はそれもまた等しく望むべき観測として受け入れるだけです。

様々な生き方、様々な展開、それら全てが「多様な観測」というものを満たすことになります。
様々な価値観、様々な考え方にしてもそうです。

ですから、まわりの人たちが何をしようと、あるいは何を言おうと、それはその人たちが受け持ちの観測を行なっている最中ということになります。

それを羨んだり怒ったり悲しんだりすることに全く何の意味もありません。
ましてやそれと自分を比較する作業に何の意味があるでしょうか。

同じように、自分の未来や過去へ心を囚われ、そうでなかった場合の自分と比較することにも何の意味もありません。
それはそこの私たちが受け持っていますし、私たちは今この流れを受け持っているのです。

私たちは、今この瞬間に集中するだけです。
それが天地宇宙の理そのものです。

昨日のことは昨日の私たちに任せてしまっていい。
明日のことは明日の私たちに任せてしまっていい。


今の目の前だけを考え、喜び悲しみ、怒り笑い、一喜一憂することこそが私たちの役目です。

「どちらがイイかは凡夫には分からない」ではなく「どちらもイイ」。

もう何がどうなろうとも、間違いなく、今のこれが一番なのです。





(おしまい)





『これでいいのダ』

2019-03-18 17:33:02 | 天地の仕組み (Basharサポート)
年が明けて早3ヶ月が経ちました。

嵐の前の静けさと言われるように、物事というものは或るとき突然にして変わるものではなく、すでに目に見えない形で始まっているものです。

そういう意味で、私たちは激動の真っただ中にいると言えるかもしれません。

水面下には大きなうねりがあります。
しかし表の顔はいたって静かです。
ほんのわずか、変化とも言えないような変化があるだけです。
それが気がついてみればダイナミックな変化と成ります。

地球の姿こそは、まさにそれそのものです。
穏やかな地殻の下ではマントルがパワフルにうねり、時とともに海は山に、山は海に変化し、大地が海を渡っていきます。





大地が大きく変化していくのが自然の姿ならば、私たちの世界が大きく変化していくのも自然の姿と言えるでしょう。

さて今日は、年明け一発目の再出発として今一度原点に立ち返り、「今ここ」について時間・空間の話を交えながら進めていきたいと思います。

見える世界は、穏やかな静的世界。
見えない世界は、エネルギッシュな動的世界。

今年も宜しくお願い致します。





さて、この世というのはスクリーンに透過された幻影に喩えることができました。

そして一瞬というのは一枚絵そのもので、それが一枚一枚、隙間なく存在しているのがこの世の構図でした。

もちろんこれは喩え話ですから、はかない夢まぼろしだから軽んじてもいいということではありません。

そうした一枚一枚の絵画が私たちの前を次々と通り過ぎる、もしくは私たちがその一枚一枚を通り抜けて行っている。
それが「時間」という感覚になっています。

そして本当の私たちというのはスクリーンの上ではなく、もちろんフィルムの上でも、映写機の中でもなく、それら全てを俯瞰する客席に居る
のでした。

そうして、私たちの魂が映写機の光源のようにフィルムへ照射されると、その先のスクリーンに一枚絵が映し出されます。
それが今この一瞬であるわけです。

実際の映画でもスクリーンを離れてフィルムそのものを見てみますと、そこには始まりの一コマから終わりの一コマまでが存在しています。

同様に、スクリーンに映し出される私たちというのもフィルムの一コマですから、スクリーンを離れれば「過去の私たち」も「未来の私たち」も
すべて同時に存在しているということになります。

ここまではこれまでお伝えしてきたとおりです。
(※バシャール 2017『世界は見えた通りではない』参照/ヴォイス出版)

「過去も未来も今この瞬間に存在している」というのは何度聞いても感覚として理解しにくいところかもしれません。
話を先へ進める前に、まずこの部分について説明したいと思います。

今この瞬間において知覚している私たちの魂というのは氷山の一角でしかありません。
それは氷床の割れ目からアザラシがヒョコッと顔を出している姿に喩えることが出来ます。
もちろん氷の下には胴体があります。
この場合、氷から上が現実で、その下は非現実の世界ということになります。





ここまでは漠然と感じているところではないかと思います。

そこで時間の経過というものを考えると、「まずこの穴」「次はこの穴」というように順番に顔を出していく姿をイメージするかもしれません。

私たちが一枚絵を次々と通り抜ける、あるいは一枚絵が次々と私たちを通り抜ける、という表現からすればそのようなイメージになるのが当然
です。
アザラシの頭の一つに意識をフォーカス(集中)させている立場に立てば、次はこっち、その次はこっちと移動しているように感じるのが自然で
しょう。

ただ実際は「全ての穴から顔が出ている」というのが真実です。
地平線の果てまで広がる氷の世界で、見渡すかぎり無限にアザラシが顔を出しているというのがこの世の姿です。(ちょっとしたホラーですが)

そのどれもが自分であり、それぞれが今この瞬間それぞれの一枚絵を体験しているということになります。
順番に、ではなく、同時に味わっています。

そんなことがあり得るのかというと、それらのアザラシは胴体から下ですべて繋がっているので、ごく当たり前にあるということになります。
(絵的にはますますホラーですが 笑)

例えば、私たちの手には指が5本ついています。
それらはすべて私たちに間違いありませんし、もちろん何の違和感もありません。

そして小指の先へ意識を向ければそこを感じ取れます。
人差し指へ意識を向ければ人差し指を、親指に向ければ親指を感じ取れます。
そして小指を感じ取っている時、他の指の感覚は消えています。でも他の指が無くなったわけではありません。

意識は一つにしか向けられませんが、間違いなく他の指は存在していますし、それぞれ今この瞬間を体験しています。

水の中から五本の指を出しますと、水面上の世界ではそれぞれが別々の存在に見えます。

今この瞬間を体験している私たちというのは、小指に意識を向けた状態と同じということです。
他の指は未来や過去の私たちです。

先ほどの雪氷の世界で譬えるなら、無限に顔を出しているアザラシの中のアザラシAが今この瞬間の私たちということになります。

5本指も無限のアザラシも同じことを表現しています。

すべてが存在していて、その中のどこに意識をフォーカスしているかという話です。





一枚の同じ絵画だけを味わうだけではなく、次々と異なる一枚絵を味わうために、この世というのは存在します。

というより、異なる一枚絵を味わっていくという目的がまずあって、結果としてそれがこの世というものに成ったと言った方が正確でしょう。

小指だけを意識し続けるのではなく、小指の次は薬指、その次は中指、、、といったようにそれぞれを次々と味わっているということです。

何故そうなっているかといえば、新しい思い、新しい観測というのは、新しい刺激からしか生まれないからです。

私たちの根源は、まず初めに自己認識のために分化(投影)を行い、そしてさらなる分化を重ねて様々な経験を味わっていくことを目指しました。
経験によって生じる反応、感情や思い、気づきといったものを「観察」することが学び(喜び)と成っているからです。

ですから、この世は凝り固まったり止まったりすることは有り得ません。
流動こそが根源であり、根源の照射たる「一瞬」が、流動に応じて差し代わることによって、この世というものが実体化されているからです。
同じものを観察し続けてもネタに尽きてしまうだけです。

天地に停滞はない。
とどまることは無い。

「いつもと変わらぬ平穏な日々を過ごしたい」という願望は本質的に矛盾した表現だということです。

もしあなたが安定した状態を安心と感じるなら、流れ続けることが一番の安定状態ですから、流動こそが安心ということになります。
変化というのは流動の産物なので「変化こそは安定の実証」ということになります。

変化というものに不安を感じるというのは、天地の理に照らせば本末転倒であるわけです。
その不安の出どころは身のまわりの変化そのものにあるのではなく、変わることを良しとしない自身の信念体系にあるということです。





アザラシの景色に戻りますと、過去の私たちも未来の私たちも無限に存在しているわけですが、単に一つ一つを味わうだけならばその順番は
ランダムであっても何の問題もないはずです。

実は、私たちは一枚絵を一枚絵として味わうのと同時に、その一つ一つを一方向に順番に味わうことによって「変化」というものを体感しています。
つまり、一瞬と連続性、ダブルの経験を得ようと考えたわけです。

私たちは一方向の流れとして順番に味わうことを選択しました。
それが時間として今感じ取っているものです。

「時間は存在せず概念でしかない」と多くの物理学者が言っているのはそういうことです。
私たちが選択した体験方法の、その結果として生じた副産物が時間というわけです。

水面から突き出した五本指で言えば、今の自分は中指、2日前の自分が小指で、2日後の自分が親指というような話です。

全てが存在し、全てが私です。

2日前は小指に意識が向いていて、今は中指にフォーカスしていて、2日後は親指にフォーカスしている。
意識の向け先が次々と変わっているだけで、2日前の私は今この瞬間も存在しているわけです。

昨日の私も、明日の私も、今ここに居る。
言いかえれば、昨日や明日の私たちは今この瞬間においてそっちの私たちが担当しているということです。

全ての瞬間に私たちが存在していて、それはその私たちが受け持っている。
今この私たちが心配しなくても、そっちはそっちでちゃんと何かしらを味わっている。
だから、私たちは今この瞬間だけをしっかりと味わっていればいい。

「よっしゃ!こっちは任せとけ!」


それぞれの私たちにとって、それが共通して言えるわけです。

過去の後悔や未来の不安へ心を向ける必要は全くないということです。

それは、今この自分自身の存在を否定することになってしまいます。


(つづく)






生まれ直しのススメ(実践編・後編)

2018-12-12 21:25:40 | 天地の仕組み (Basharサポート)
前編では過去へ意識を向けて、自動運転がガチガチに固まる前の感覚にシンクロしました。

そこで私たちが何をやりたかったのか、どんな心地だったのかを感じ、今現在の自動運転との違い(感覚の違い)を味わいました。

あの時と今とは明らかに感覚が違っていました。

「あの時はあの時、今は今だ」などと即断してしまうと思考はストップし、この試みは無意味に終わってしまいます。

新たな観念、信念、日々のルーティン、諦め、さらには思考停止、そうしたものが積み重ねられた結果、あの時と今とは感覚も心地も変わっている。
まずはそれを感じることが初めの一歩となります。

まだ自動運転が薄い頃と比べることで、今の私たちというのがクッキリと浮かび上がってきます。

とはいえ、その違いを悲しんだり悪く捉えるのがここでの目的ではありません。
そちらに逃げてしまっては、また本質から逸らされてしまうだけです。

私たちがどんな観念、どんな信念、どんな諦めを持って、今現在の自動運転、今現在の感覚になってしまったのか、それを考えることが次の一歩
となります。

そしてこうした説明を他人から聞かされたところで、所詮、表層的なものにしかなりません。
与えられた答えを理解したとしても、それは「頭の中だけ」で終わってしまうからです。

肌で感じ取り、身をもってその違いを実感し、自分の中から答えを導き出すことで、心の底から、深層の部分から理解することになります。

そこまでして初めて、自動運転の安全抑制装置が解除されるわけです。

前回に続いて今回の内容も、なかなか先へ進まず回りくどいかもしれませんが、そのための実践編ということになります。



それでは理屈は一旦リセットしまして、また肌感覚の旅に出てみたいと思います。

今度はだいぶ先、未来の景色です。





そこは真っ白な布団の中です。
私たちは長いこと横になっていて、手や足は痩せ細っています。

重い身体は自分のものではないようです。
頭もボンヤリしてフワーッとしています。
何もかもゆっくりと流れています。

もうあと何日かの命と、それが何となく自分でも分かっています。

そんな中、ふと口をついて言葉が出てきました。
決して深い思いを馳せて出てきたものではなく、本当にサラリと出た言葉でした。

「もっと思い切って、好きにやっても良かったなぁ…」

それは過去の失敗を悔やむものではなく、ただ、今となっては心配なんかしないでエイヤーとやってしまえばもっと楽しかったろうなぁという
純粋な思いなのでした。

そうしていくつかの景色が頭に浮かんできました。

これまで気づきもしなかったことが浮かんだのなら諦めもつきますが、実際はそうではありませんでした。
それらは薄っすらと頭にあったけどもやらなかったこと、立ち止まろうとしなかったことでした。

当時思いつかなかったことならば、綺麗サッパリ、未練など残るはずもありません。

死の床で思う「あの時こうしておけばよかった」「もう一度あの時を味わいたい」は、どれもあの時わかっていたことばかりだったわけです。

ただ、今はもう、そんなことは叶うべくもない夢物語。。。

今にして思えば子供の頃や学生の頃というのは、見えている世界が限られていました。
ちょっとしたことを心配してその一歩を踏み出せず、自分が見えている世界の外なんていうものは想像もしませんでした。

そうして目の前の世界を壊さないように気をつかい、気になったことにもフタをして、そのことは考えないようにゴマかして過ごしていた…

しかし、今の景色には映らない、外の世界というものは誰にでもあります。
この世のどんな存在であっても必ずそれはあります。

何故ならば私たちはみんな、誰もが意識を持った存在だからです。

意識が無いとそもそも自覚をすることも出来ません。
ですから、私たちは誰もが意識を持っています。
そして意識を持った瞬間、それは自分の意識の中に存在することになります。
つまり囲まれた景色の中に住むことになるわけです。

ですから、我思う存在はすべて、自分の意識の外のものは見えないということになります。

誰にでも自分には見えていない世界が必ずある。
それこそが全ての存在が未知を求めようとする源泉になっています。

でもその見えていない世界というのは、ほんのわずか一歩のところにあるのでした。
それを無理だと思った瞬間、遥か何千里もの彼方へと消え去っていくことになります。

今となってはそれがよく分かります。
だから私たちは「生まれ直し」「生き直し」のストーリーに心惹かれるのです。

そして死の床に伏す今もまた、あの時やこの時のことがスーッと脳裏に浮かんでくるのでした。



人の目、会社の目、知人の目、親の目、家族の目、そんな小っさいことなんて気にせず、あの時にもっと自分の気持ちに素直になれば良かった

自分の意地、信条、生き方なんてカッコつけず、あの時やりたいようにやっとけば良かった

お金の心配、生活の心配、家族の心配、10年後20年後の心配、、、そんなことで今を縛らず、本当にやりたいことをやっとけば良かった

なぜならば、本当に自分がやりたかったことは、そうした心配の先に存在したのだから
私たちの意識の外にあったのだから
自らの縛りを解かねば見えない世界だったのだから

それは誰かに分かってもらおうなんていうものではなかった
湧き上がる衝動に理屈なんてものはない
一歩先に何があるかなんて自分でも分からない
ただこの衝動は自分にとっての真実
それは自分だけに分かるもの

それを知りながら何をウジウジすることがあったのか




当時はそのハードルがとても高く思え、結局、足を踏み出せずに過ごしてしまいました。
自分の世界は目の前に見えるものがすべて。
これを壊してはいけない、と。

中高生の頃からずっとそうであり続け、延々とそれを真面目に続けていたのでした。

それが一人相撲でしかなかったことを、死の間ぎわの私たちは知りました。
そしてボーッとする意識の中で「生まれ直し」「やり直し」の夢を描いた。。。





はい!

その結果として、奇蹟が起こり、今この瞬間に戻って来たのだとしたらどうでしょうか?



もう一度あの頃に戻りたい。
バリバリと体を動かせたあの頃に。

いや、そんな若造ではなくもっと落ち着いたあの頃のほうがいい。
金銭的にも余裕のできたあの頃が。

いやいや、会社勤めを終えてやりたいことをやれた自由なあの頃だな。
戻れるのなら、時間に縛られず何でもできたあの頃だ。

いやそれよりも、老いては居たがそのぶん仲間や孫たちに囲まれ、心から満ち足りていたあの頃。もう一度だけ味わえるならあの頃に。。。




そうした思いが叶って今ココに戻ってきたとしたら。

あの時ああしとけば良かった、そのあの時が今ココだった。
あの時こう言えば良かった、そのあの時が今ココだった。

夢にまで描いた、その時です。

「もっと思い切って好きなようにやっておけばよかった」
「意固地にならず素直に一言『ありがとう』『ごめんなさい』を言っておけば良かった」

その思いが今なら叶うわけです。

それでもなお自分の中の「頑固な自分」は邪魔をすることでしょう。
いやいや、そんなの空想の話じゃないかと。
それよりもやっぱり安全が一番、安心が一番だと。

その言葉を耳にすると、たちまちウットリと心を奪われ、そのまま流されてしまいたい欲求に駆られます。

余計なことはよそう、これまでの流れにそのまま乗っかっていよう、、、

そうした誘惑というのは実に強烈なものがあります。

でもそれこそが、暴走トラックそのものだと気づく必要があります。
ニコチン水のネズミと同じ、回転ハシゴを走るネズミと同じ、クスリに惹かれる中毒患者と同じ状態になっていると気がつく瞬間です。

なぜ今までと同じ流れに身をまかすことに、これほど強烈な誘惑があるのか、自分を突き放して今一度、冷静に見てみて下さい。

「ラクだから」というには、あまりにも異常な強さではないでしょうか。


その異常さこそが、それが普通ではないことを証明しています。

尋常ではない何かが、確実に私たちの中に存在していることを自覚する必要があります。

それは別にまがまがしい存在とかそういうものではありません。
それこそがまさしく自縄自縛の本体です。

考えなしにありとあらゆるものを自動運転へ任せきった結果の産物であり、私たちが無意識のうちに作り上げたものであるわけです。

そのまま流されてしまいたいという抗しがたい衝動。
それこそが普段は隠れてて目に見えない自縛の正体です。

ちょっとおかしいな?という疑いが、まさに今うまれました。
でも面倒がってそれを捨ててしまうと、その瞬間、私たちは再び「未だ目覚めぬ家畜」に戻ってしまいます。

当たり前の話ですが「眠っている状態」というのは目を開けて起きないかぎりは客観的に理解することはできません。
そして「起きている状態」というのは寝ている状態の外側にありますので、内側に居る人がいくら頭で想像しても理解できるものではありません。

私たちは眠った状態にあることを自覚せぬまま、目覚めた状態を知ろうとして悶々としています。

ここが一番安全だとしがみついて立ち止まったまま外の世界を見ようとしてもそれが見えるはずはありません。
それなのに私たちは、見えない分からないというのを理由に、寝ている状態と起きている状態の間には天地ほどの隔たりがあるのだと思い込んで
しまっています。

しかし実際のそれはケンケンパの次の一歩に過ぎないのです。

寝ている状態とは今のサークル(輪っか)の中の世界であり、起きている状態とは次のサークルの世界です。

いつまでも寝続けようと思わなければ私たちは必ず目がさめるのです。

一歩を踏み出すには大変な努力が必要だと思うのは大いなる誤解です。
この世界というのは、ほっておけば勝手に一歩進むように出来ています。
それなのに頑張って進まないように努力をしているというのが真実です。

怠惰に溺れて布団から起きたくないと言って、昼を過ぎてもダラダラと出てこない。それが今の私たちの姿なのです。





先ほど、死の間際に心を向けた時に、目覚めの明かりが灯もりました。
今ここに、わずかなともしびが灯ったわけです。

あれをやってみたい。
これをやってみたい。

それはフッと吹けば消えてしまうような弱々しい灯りです。

でもそのわずかな一歩にフタをしてしまったら、それは二度と届くことのない暗闇の彼方へ消えてしまいます。
「まぁいっか」と諦めた瞬間、幾千里の彼方へと飛び去り、永遠に叶わぬ夢マボロシとなってしまいます。

それこそが、死の間際の私たちが後悔したことでした。

確かにその一歩は、今の景色の中にいる親や家族、まわりの人たちをガッカリさせたり怒らせたり悲しませたりすることかもしれません。
でも、その怒りや悲しみもまた「私たちが見えている今の景色」に過ぎないのです。
今のサークルの中の話でしかないのです。

その外にも世界があります。
景色が広がっています。
それなのにフタをしてしまう。
それでは中高生の頃にやっていたことと何も変わりがありません。

この景色を守りたい、この世界を波立たせたくない、、、
クラスの友達が世界の全て、家族が世界の全て、職場が世界の全て、自分が我慢すれば世界は平和に保たれる、今は大変かもしれないけどこれ
以上ヒドくしてはいけない、、、

でもそうやって目の前の世界を大事に守った結果、何があったでしょうか。

何も考えず無邪気に楽しむはずの学校(あるいは会社)へ、溜め息つきながらトボトボ歩いていく子どもの姿を見て、親はどう思ったでしょう。

生き詰まりとは命を絶つことを指すのではなく、この人生の中で自縄自縛になることを指します。

抑圧の惰性に身を投じた結果、目隠し状態の無限ループに生きることになってしまいます。
そんな一生をすごしたあと、死の間際に心に浮かぶ思いとはどのようなものでしょう。

「もったいないことをした」
「次はもっと冒険(挑戦)しよう」

そう、まさしくその最期の願いが叶って、私たちは何度も何度も生まれ直して、この世に来ているわけです。

しかしそのことを忘れて、またも抑圧の中に縛られて同じことを繰り返してしまう。
その目隠しリピートを仏教は輪廻の牢獄と呼んだということです。

生まれ変わり自体が牢獄なのではありません。
同じサークル(輪っか)の中に閉じこもり続けていることが牢獄なのです。

たとえ今の景色の中にいる人たちが怒ったり、悲しんだりしたとしても、それは今この景色の中だけのことです。

時が変わればそれもまた変わっていきます。
何故ならば、一歩先というのは彼らにとっても自らの外の景色であるからです。

私たちが今と同じ景色の中に居続けるなら彼らもまた今と同じ景色の彼らであり続けますが、私たちが外の世界へ踏み出したならば、彼らもまた
外の世界の景色に居る彼らとなるのです。





目の前の景色を守るために自らを抑え込んでしまうと、死の間際に感じた私たちの悲しみは、その後どれだけ時間が経とうとも消えることはあり
ません。

前世の悲しみや傷が残り続けるというのは、まさにこのことを指しています。

繰り返しになりますが、この世というのはフィルムの中の世界です。
本当の私たちはフィルムの外に居ます。
スクリーンや映写機や座席がすべて見える、こちら側に居ます。
新たなフィルムが何回流されようとも「こちら側」というのは「こちら側」であり続けます。
「今ココ」は何億年たとうとも「今ココ」のままなのです。

ケンケンパの一歩とは別のフィルムへの飛翔です。

過去の傷を癒せるのは上書きしかありません。
後悔を打ち消せるのは上書きしかありません。
こちら側の私たちというのは新しいフィルムを見ることで癒されます。
だから今の人生、今の世界を生きているのです。

過去に縛られる必要なんてありません。
ましてや過去世を気にかける必要なんて無いのです。

過去世で悪いことをしたら現世でその報いを受けるというのは正しい表現ではありません。
それはただ、自ら傷つけた過去世の傷が「こちら側」の今ココの私たちに残り続けているだけの話です。
その逆に、過去世で良いことをしたから現世で良いことが起きているというのも同じ理屈です。

こちら側の私たちがその時こうむった状態のまま、今ココにある。
だから、いま目の前の世界、今ココでやり直せば、現世の過去だけでなく過去世の傷さえも癒されていくわけです。

たとえ私たちの新たな一歩によって波風が立ち、目の前の世界が大揺れに揺れたとしても、波は必ずおさまっていくものです。

さらに言えば、それは心配しないように言った表現であって、実際は目の前の世界は大揺れに揺れてなどいないのです。
外の世界(次の一歩)が見えようとしている時に今までの世界にしがみついていると、あたかも大揺れに揺れているように見えるだけのことです。

いつまで経っても波がおさまらないのは、私たち自身が波立っているからです。
まわりがギャーギャー言い続けているのもまた、私たちが波立っているからです。

それらは私たちが過去(今までの視野、世界)にしがみついている結果に他なりません。

さっさと受け入れれば波はすぐおさまります。
それどころか、後ろを振り返らずエイッと一歩を踏み出せば最初から波風も立たないのです。

その一方、まわりが波立つことを恐れてそのままその場にとどまれば平和が保たれるかというと必ずしもそうとは限らないわけです。
やりたいことをやれずに私たちの心が波立っていますと、まわりもバシャバシャと波立って行きます。

たとえこれまでと同じ生き方をキープしても、自分が波立っているならばまわりはバシャバシャと波立っていく。
要するに、進むか進まないかによって嵐が起こるのではなく、進もうが進むまいが私たち自身が波立っているかどうかによってそれは決まる
ということです。


まわりを波立てたくないがゆえに次の一歩を諦めるというのは本末転倒であるわけです。

今の平和を守りたいから余計なことはしない、まわりに迷惑かけたくないから我慢する、というのは言い訳にはならないのです。

そうとなれば、もうやることは一つしかありません。

前世の死の間際の念願が叶って、生まれ変わったのが今です。
今世の死の間際の念願が叶って、生まれ直したのが今です。

他の誰でもない、私たち自身が心の底から願ったのが、今この瞬間なのです。

悩むようなことは最初から何一つ存在していませんでした。
私たちはこれまでずっと、実体のない言い訳と一人で綱引きをしてきました。

ここでやらなかったらいつやるのか。

これからずっと後悔を押し隠して、最期にまたもその後悔と対面することにするのか。
エイヤーとチャレンジして、そのあとコケようが着地しようがゲラゲラと大笑いをするのか。

輪っかの中にとどまり続けず、あとは、ほんの目の前の一歩をポーンと跳んでしまうだけの場面です。

子どものころの感覚にスッと戻ればすぐ思い出します。
心や体に感じるものがあったはずです。
ジッとしていられない、とめどなく湧き上がる衝動を。

頭で考えているうちは何も聞こえません。

私たちが跳ぶのではなく、私たちを包む世界が流れているという、あの感覚。

私たちのまわり全体から、そして細胞の奥底から、フワーッと流れ出るこの風に乗っかって。

ピョーンと。

さぁ、今です!





(おわり)



生まれ直しのススメ(実践編・前編)

2018-12-12 21:24:35 | 天地の仕組み (Basharサポート)
日々の選択はほとんどが自動モードで行なわれています。

選択というのは、頭を介して意識的に行なうものに限らず、毎瞬毎瞬おこなわれています。

もし毎瞬すべてを自ら選択していたら、それに追われてしまってまわりを見る余裕は無くなってしまいます。
そのためあらゆる生物は大部分を自動運転に任せています。

では自動運転のプログラムはどこから来ているかというと、動物ならば本能となりますが、人間の場合それに信念、習慣、感性といったものが
加わってきます。

命を維持するための自動運転は本能が司っていますが、それ以外の選択は、信念や習慣が運転手になっているということです。

私たちはそうしたものに一日のほとんどハンドルを預け、ごくたまにハンドルを奪ってグイッと回しているということになります。

そのように、これまでの信念や習慣というものがハンドルそのものや車体全体に染み付いていますので、何か普段と違ったことをやろうとすると
不安という形になって表れ、無意識のうちに自動ブレーキがかかることになります。

ですから例えば「今ココの自分を上書きすれば過去も癒される」「その一歩はほんのわずかだ」などと言われても、いざそれをやるとなると断崖の
谷間を跳ぶがごとき一大決心を迫られることになるわけです。





今どきの車でいえば、車線変更のためハンドルを切ろうとしたら安全装置の自動制御がかかって強制的にハンドルが切れないような状態になって
いるようなものです。

それでもなお右に曲がろうとするならば、私たちはあらゆる警告アラームを無視して、力を入れてエイヤーとハンドルを回さなくてはなりません。

車体は大真面目に危険と判断しているわけです。
それを知った上で力づくでハンドルを切るとなると、やはりそれは相当な覚悟が必要となるでしょう。

これは頭で考えてどうにかなるものではありません。

「今ココを上書きするだけ」
「その一歩はほんのわずか」

そうしたものを理屈で理解できたとしても、日々の自動運転によって感覚として染み付いたものをオフにすることはできません。

結局その場でフンフン納得するだけで実際の行動まで辿り着かず終わることになってしまいます。


必要なのは、頭の理解を肌感覚に結びつけていくことです。

ということで、今回は実践編として空想ゲームをしたいと思います。

以前にも触れました、生まれ直しのドラマを題材にします。
本当に私たちが過去に戻ったとしたらどうなるのか。
疑似体験ではありますが、ある意味これはリアル体験とも言えます。

文字を追うだけでは脳内で終わってしまいます。
肌感覚が目的ですので、この空想遊びに感覚を預けることで一時的にも自動運転からスコーンと解放されることになります。

その瞬間、目の前にある断崖の谷間は消え去り、すぐその一歩が鮮やかに見えるようになるでしょう。



フラットな気持ちのまま過去へと思いを馳せてみます。
パッと浮かんだ景色へ心を向けてみます。
たとえば、

小学生の頃。
高校生の頃。
あるいは二十代の頃。

その中で何歳の頃でも構いません。
一つを具体的に思い出してみます。

漠然としたイメージで終わらせてしまうとこの遊び自体が成立しなくなります。
あせらず、ゆっくりお風呂にでも入るように、そこにひたっていきます。

昔の自分。
子どもの頃の自分。
まずはどれか一つにフォーカスしましょう。

大体このくらいの歳の自分というのが浮かんだら、その頃の自分に心を向けます。

何かのイメージが浮かびましたら、そこから次々と浮かぶにまかせて、そのままほっときます。

ポツポツと浮かんできましたら、このゲームのことは忘れて、そこにひたったまま過去の感覚を思い出してみます。

あぁ子供の頃はこういう感じだったなぁ、とか、高校生の頃はこういう感じだったなぁ、とホワーンとした心地を楽しみます。

皮膚感覚を思い出してきますと、感覚記憶がポツポツと蘇ってきます。
それに引っ張られて、心も当時のそれに戻っていきます。



気がつけば、その頃の私たちに生まれ戻っていました。

桜の舞うポカポカ暖かな陽気です。

優しい風を感じられましたら、そこから今日の生活が始まります。

さてこのあとは何でしたっけ?
学校ですか? それとも家族との食事ですか?

視界には私たちの手足が見えます。
まわりにはあの頃の家族や友達がいます。

いや、それはあの頃ではなく、今はもう目の前の家族や友達です。

その生活、その空気感を思い出しましたら、私たちはすっかり生まれ戻ったということです。

まだピンと来ないかもしれませんが、このまま過ごすうちに少しずつそれを実感していくようになります。

私たちは今から何でもできます。

もちろん、昨日と同じように学校に行って授業を受けることもできます。
いきなり休んだらまわりから心配されますしね。
懐かしさに浸ってじっくりそれを味わうのもいいですね。

今の私たちは夢の中です。
縛られず何でも出来ます。

授業は今やチンプンカンプン。
でもそれを一通り受けましたら、あとは放課後です。

心のストッパーを外して、トンデモないことをパーッとやっても全く問題ありません。

だってこれはすでに一度経験してることなんですから。
また同じように真面目にやったって、つまらないじゃないですか。

やりたいことを好きなようにやっても、誰にも咎められませんし、陰口も叩かれません。

何をしてみたいと思いますか?

心に何か浮かんで思わずニヤっとしましたか?

さすがにこれはなぁ〜と思いつつニヤけている自分がいたなら、いったいそれはどんなことでしょう?

あのときは出来ませんでしたが、今ならそれをやってしまえるんですから。。。



さて、これは失敗をやり直すという方向性のものではありません。
突如そこに放り出された時に、私たちは純粋に何をしたいか感じるのが目的です。

なかなかすぐにはイメージが湧いてこないかもしれません。

だから具体的な景色、その肌感覚を思い出すところから始めました。

たとえば高校生の自分でしたら、そこには友人が居て、学校や部活があります。
ツボに入ってゲラゲラと笑いが止まらなくなってしまうあの心地。
一緒に汗を流した時にサーッと吹き抜けた風のなんて気持ちのいいことか。

そうした感覚を思い出したところで、今そこから自分の毎日がスタートすると本気で信じるわけです。

すると、いろんなことが胸に湧き上がってきます。

楽しかった日々をもう一度嚙みしめよう
せっかくだから何か他のこともやってみよう
あ、そうだった
自分はこんなことやりたかったんだ
すっかり忘れてた


体が軽い、疲れもしない、明日も決まっていない、レールもない、何にも染まっていない、何のしがらみもない、未来は無限、何をしてもいい、
私たちはいま何でもできる!

アレしたいコレしたいと思うことがいくつも湧いてきます。

あの頃の私たちはそれをやらなかったけど、今この再スタートした私たちなら、それをやれるし、今すぐやってみたい。

三日坊主とかそんなことは気にしない。
失敗したってカッコ悪くない。
笑われたって構やしない。
転んだところで死にはしない。

頭に流れる「どうせ上手くいかないからやめよう」なんて脳内アナウンス、ちゃんちゃらおかしい。
だって結局何もやらずに今日まで来てしまったんだから。

自分を止めるものは何も無い。
とにかくやろう、やってみよう!



もう一度人生を再生リピートをした私たちは無敵の快進撃です。

何が無敵かって、上手くいっても上手くいかなくても何も気にならないからです。

他の人たちは、歳相応の不安や心配に耳を貸しています。
でも私たちはそんなこと気にするはずもなく、自由気ままに、やれなかったことをやっているのでした。




たとえば一度クリアしたテレビゲームをもう一度やる時、私たちはどんなことをするでしょう。

真面目にただゴールを目指すのではあまりにも退屈です。刺激も何もない。
なので、自ら刺激を求めてわざと馬鹿なことやったり危ないことをやったり、前回は行かなかった寄り道をしたりするでしょう。

はた目を気にすることなく、もちろん何か打算があるでもなく、ただ単純に自分が楽しむために。

それが出来るのはゴールに辿り着くことを知ってるからです。

一方、まだ見ぬゴールに向かっている時は最後まで行けるのか分からず突き進んでいきます。
ゴールに辿り着いてゲームをクリアしたい、ホッとしたいという気持ちが頭の中を占めています。
その結果、足元だけ見て黙々と山道を歩き続けるような状態になるのでした。

しかし一度ゴールしてしまうと、今度はクリアの達成感が追えなくなるので、過程そのものを楽しみたくなります。
もうゴールに着くのが目的ではなくなる。
だから顔をあげてまわりの景色を楽しんだり、あるいは脇道に逸れたりと、心は自由自在に飛びまわります。

まして、テレビゲームと違ってこのリアルゲームはそもそも決められたゴールが存在しません。

どのゴールが正解だなんてものは無い。
全てがゴールですので、ゴールに辿り着くのが目的というのは、もとより成り立たない話であるわけです。

ですからゴールした時に得られるのは達成感などでなく、そこに至るまでの満足感ということになるのです。

テレビゲームでいえば、それはまさに再プレイをする時と同じ状態だと言えます。





子供たちはわざと危ないことをやります。

真面目に型にはまることが生理的に苦痛極まりなく、なぜか危ないギリギリをやると心の底から喜びが湧き上がる。

馬鹿なことよしなさい、何でわざわざそんなことするの、と母親に怒られる。
その言葉の意味は頭で理解できるものの、奥底から湧き上がる喜びは抑えきれない。
説明はできないけれども、心から楽しいのだから仕方ない。

しかしそれが大人になるにつれ、苦痛が麻痺して退屈さに耐えられるようになっていく。
さらには理屈を重ねるほどに頭の中に住むようになり感覚受信が薄れていく。
苦労を知って損得勘定でリスクを避けるようになっていく。

先々のことなんて考えず、今この瞬間に生きていた子供の頃、わざと違ったことや危ないことをやりたくなるのが当たり前でした。

つまりそれこそが、天地宇宙と一つになった私たちの本当の心であるということです。

その結果怪我をしたからといって自分のやったことが間違いだったなんて思うことはありませんでした。
危ないギリギリをやっている時の高揚感はリアルなものだったはずです。
細胞の奥底から湧き上がる喜びだったはずです。

怪我なんていうものは単なる一つの結果に過ぎません。
いや、それどころか私たちが勝手に白黒判断をつけたものでしかないわけです。

血を流したから不幸だ失敗だ不正解だなんて誰が決めたのでしょうか。
それは単に生存本能から導き出された答えに過ぎません。
親から叱られた小言に過ぎません。

そこで得た喜びがあったのならば、それが全てなのです。





因果関係なんてものは単なる物理方程式に過ぎません。
それは白黒評価されるものではなく単なる数式です。

危ない橋を渡って怪我をしたというのは、例えば湯が冷めて水になるのと同じで、ただの現象に過ぎないわけです。

安定、安全というのは平凡、退屈と紙一重です。

何故わざわざ危ないことをしたくなるのか、それは未知に対する欲求そのものだからです。

原始人類が温暖な土地を離れ、わざわざ過酷な土地へと開拓を進めて行ったのも、それが根っこにありました。

子供の頃、危ないことの先にあった高揚感は抑えがたいものでした。
同じように、フロンティア精神に駆られて命懸けで大海原へ飛び出した先人たちの心にはキラキラと輝く虹色の景色があったわけです。

未知というのは現状維持とは真逆のものだと言えます。
つまりそれは安定安全と逆のものと言うことになります。

安定安全の中に居る人から見れば、その外というのはリスクを伴うものに映ります。
でも離れたところから眺めれば、それはリスクなどでなく単に未知という表現のほうが妥当と思うでしょう。

中に居る人にとってはその外というのはハラハラとドキドキが共存する複雑な世界であり、人によっては恐怖にも思えるわけです。

見えない先の景色というのは、ケンケンパの次の一歩、地面に描かれた次の輪っか(サークル)のようなものです。
そこに立って見える景色というのは、一歩手前では決して見えないものです。

怖がりではあればあるほど、見えない景色を必死に想像して、確実に安心できるようになるまでは踏み出せなくなります。
そのうち「足をくじいたらどうしよう」とか余計な心配が始まって、結局踏み出さないことを正当化することになっていきます。

でも、未知に対する衝動というのは誰もが必ず胸に抱いているものです。
宇宙のこと、生命の仕組み、古代の謎など、挙げればキリがありません。

既知というのはすでに今このサークルの中にあるものです。
いわば安全、安心の象徴です。

それに対して未知というのは間違いなく、今のサークル(輪っか)ではなく、次の一歩にあるものです。
それは安全安心を投げ打って飛び出した先にあるものということです。

つまり危うさと未知というのは裏表であるわけです。

身近なところでもアスレチックやジェットコースターなど、わざわざ非日常的な危うさを求めるのは、ひとえに深層意識の潜在的な衝動を満たす
ためだと言えます。

子供の頃はわざわざ危ないことを喜びました。
それは未知を求める魂の咆哮であったわけです。

それが今の私たちは危ないからといって次の一歩を踏み出せずにいる。
現状が壊されてしまうかもしれない、何かトンデモナイことが起きてしまうかもしれない…

でも危ないという気持ちこそが、その一歩が未知であることの証明に他なりません。

「危ない」と思ったならば、それが逆に正解であることを示唆しているわけです。

「危ない橋を渡りたい」

それが本当の私たちの思いなのです。





(後編につづく)