登山やハイキングでは、ストック(杖)を使うと全身のバランスが安定して疲れが少なくなります。
理屈を言えば、棒の先まで心が通りますと、いわゆる氣が通った状態となるため、必然的に四肢の先端まで氣が通います。
そして、緊張が緩和されて片寄りが無くなり、心が大きな状態にキープされるようになります。
それを全身力と言ってもいいでしょうが、この場合はどちらかといえば「全体」力、あるいは「一体」力と言った方が
適切かもしれません。
頑張ろう踏ん張ろうとすると、我を張ってしまい、天地との間に壁を作るだけでなく、自分の体ともブツブツと
分断された状態になってしまいます。
心がリラックスすれば、自ずと肉体とも一体となりますし、また天地との壁も薄らいでいきます。
それこそ自分の全体で歩むことになり、さらには天地と一つになった全体で歩むことになります。
ちなみに富士山では登山の補助具として、六角の棍棒「金剛杖」というものが売られてます。
まさに六根清浄。
一歩一歩、我執を祓いながら、天地と一つに溶けあっていくということです。
この世の旅もまた、足場の悪いところは方便を杖として歩くと、全体でラクに進めます。
ただ、杖に頼りすぎると足の筋力が落ちて自力で歩けなくなってしまいますので、時が来れば手放します。
それさえ心掛けていれば、色々な方便(杖)を試して、いま一番フィットするものを選んでみるのがイイということです。
例えば、「宿命」という言葉があります。
これは杖としてピカイチですが、そうであるだけに囚われやすい言葉でもあります。
俗に、生まれながらにして決められていることが「宿命」で、変えられるものが「運命」とも言われます。
言い換えれば、生まれる前に決めてきた「宿命」に対して、自分で作り上げていく「運命」ということになります。
ただ、ここではあまり細かい話はやめておきたいと思います。
というのも、あれこれ定義してしまうと、知らず知らずのうちに言葉自体に囚われてしまうからです。
何か嫌なことや、とてもいいことが起きたとします。
その時、コレは生まれる前から決まっていたこと?自ら招いたもの?という迷いや決めつけは、目の前の景色を狭める
ことにしかなりません。
それはポジティブに使おうがネガティヴに使おうが同じことです。
因果応報という言葉に囚われすぎてもおかしなことになりますし、必然という言葉に囚われすぎてもおかしくなって
しまいます。
いつも自分自身の顔色を窺いながら生きていくのは勿体ない話ですし、逆に、特別なことでもあるかのように自己満足に
浸って、せっかくひらけた景色をパタンと閉じてしまうのも勿体ない話です。
この世界は、あらゆるものが因果応報の結果であり、同時にまたあらゆるものが生まれる前から決まっていたものです。
それらはどちらも正しい。
それでいいのです。
実際、大変な状況が訪れた時、それは自ら蒔いた種であると同時に、生前から計画してきたプランであるのです。
そもそも私たちは、様々な疑似体験をするためにこの世のツアーに参加しました。
それはディズニーランドやUSJといったアミューズメントパークへ行くのと同じ感覚かもしれません。
まさに笑いあり、涙あり、苦悩ありのテンコ盛りテーマパークです。
そうなると「変化」というものも、アトラクションをさらに楽しむための仕込みであることが分かります。
本物のディズニーランドでは、客を飽きさせないようにパレードやイベントなどのソフトをリニューアルしながら
新しい刺激を提供し続けます。
私たちのこの世界にしてもソフトが頻繁に刷新されますが、さらには施設やテーマ館などにあたるハードも次々と
様変わりしていきます。
至れり尽くせり、常に新鮮。
しかもどれ一つとして同じものがない、完全個人仕様の刺激たっぷりアミューズメントというわけです。
そういう意味では、私たちは現世にまさに「遊びに」来ているわけです。
刺激を味わいに来ている、とも言えます。
それは、自我が喜ぶような即物的な満足とは違い、天地と同一の私たち自身が喜ぶような満足ということです。
幸せな状況だけでなく、大変な状況に置かれた日々であっても、それに飽きるなんてことは絶対にありません。
嫌だと思うことや疲れてしまうことはあっても、本当の意味で飽きてしまうことはないのです。
良くも悪くも、毎日が一杯一杯です。
ロシアの神秘家グルジェフが「ハードワークであるほど良い」と言っていたのも、魂が喜ぶという意味です。
もちろん、禁欲的でストイックな行動によって我執を断つことができるという考え方もあったでしょうが、それ以上に、自覚するしないに関わらず
「大変な経験ほど
食後感は大きい」ということを言っているわけです。
つまり、今わからなくとも、死んで天地と一体となった時には、シミジミと感じ入るような幸せが訪れる、という
理屈なしのシンプルなものなのです。
これは想像すれば、なんとなく分かる話です。
絶叫マシンに乗る前は、ハラハラドキドキしながらも好奇心に勝てず、やはり乗ってしまいます。
そして乗ってる最中は、やっちまった感マックスのストレスの時間を過ごさざるを得なくなります。
しかし「生きて」帰ってきた時には、憑き物でも取れたようにスッキリ爽快です。
そして次には、さらにその上を行く鬼のような絶叫マシンを選んでしまうわけです。
しかし、天地から分断されている自我の目線でこれを見れば、シンドいことこの上なしです。
何故ならば、絶叫マシンに乗る前と、乗った後の記憶が削ぎ落とされてしまって、意識としては単に乗ってる最中しか
存在しないからです。
そうなってしまうと、右へ左へ、時にひっくり返ったりと、いつ死ぬか分からぬ恐怖とストレスの連続です。
さらにはゴールはスタート地点であることも分からないため、ゴールすることすら恐怖とストレスに感じてしまいます。
この世のアトラクションは、事故って死ぬようなことは絶対にありません。
自ら望まない限りは、途中でコースターが止まったり、投げ出されて地面に叩きつけられるようなことはないのです。
100%全員、乗り場まで戻って来れます。
どんなに死にそうな思いをしても、死なないのです。
何故かと言えば、それはバーチャルでしかないからです。
ゴーグルを通して観ている映像の世界だからです。
そして、ジェットコースターがスタート地点に戻った時に安全ベルトを外すように、私たちもそこでゴーグルを外します。
バーチャルの疑似体験が終わって、普通の、もとの「現実」世界に戻るだけです。
ゲームオーバーは死ではなく、ハッと我に帰ることです。
バーチャルから覚めて、「生」に気づくことであるわけです。
グルジェフが、人類は未だ寝ている、と言ったのはそういうことです。
だから、この世に居ながら目が覚めたらば、バーチャルの世界であることや、ジェットコースターに乗っていることを
自覚しながら楽しめるようになります。
ジェットコースターに乗る前や降りた後が、断絶されることなく全てが一つになります。
大きな食後感を得られるのが死んでからというのではあんまりですので、生きてる間にそれが味わえるようにと、死んだ
後と同じ状態、つまりは天地に溶け合って一体となりましょうというのがグルジェフの言わんとした「目を覚ます」という
ことであるわけです。
あるいは、これをバスツアーに喩えてもいいでしょう。
私たちは、このバスに乗る前と降りた後のことを知らずに、ただバス旅行だけが天地宇宙の全てだと思い込んでいます。
しかも何処に行くかも分からないミステリーツアーなので、曲がるたびにドキドキ、停車するたびビクビクです。
でも、実はこのバス。
それ自体は動いておらず、まわりの景色にしてもそこに壁紙のように置いてあるだけです。
ただ、その壁紙が一回一回交換されて、ストロボのように切り替わっているので、まるで変化して流れているように
見える、つまりバス自体が動いているように感じているだけなのです。
ですから、そもそも絶対に交通事故は無いわけです。
そしてまた、そのことから分かるように、常に「今」しか存在していないというのは、そういうことなのです。
さらにその壁紙は、自分が選んだり、描いたりしたものということになります。
だから、それが必然なのか因果応報なのかなど、どちらでもいい話なのです。
ただ、そんな子供騙しが最初からネタバレしてしまっては、何の刺激もありません。
シーン...と無反応、無感情です。
なので、わざわざ私たちはそのタネ明かしを忘れて、おまけにバスに乗る前の記憶も消して、ハラハラドキドキしたくて
乗り込んだのでした。
キツい経験や、とんでもない展開を、私たちの芯の部分は、それを知っていながら知らないフリをして楽しんでいます。
ギャッと叫んだりブルブル震えてる私たちの姿というのは、例えば自分の影に驚いてビクッとなる猫や、自分の尻尾を
クルクル追いかける犬の姿と同じようなものです。
そうした姿を見ていると、誰しもホッコリした気分になるでしょう。
そして、決してそれをやめさせようなどとは思わないはずです。
ですから、私たちが神様に助けを求めても、ただ温かく見守るだけで何もしてくれないのです。
何故ならば、私たちがギャッとなっている姿にホッコリしているのは、他ならぬ私たち自身であるからです。
そう、つまりは、私たちはビクビクしてたりギャッと叫んだりしてて、全然イイということなのです。
とは言いながらも、ボロ切れようにズタボロになってしまって、立ち上がる気力も失っている時に、今こうしたことを
受け入れろというのは酷な話かと思います。
「人類はまだ眠ったままだ」と言われても、あぁそうかよ、と言い返したくなるでしょう。
いくら犬や猫が可愛い仕草をしているからといって、当の本人がそのままストレス死してしまっては何の意味もありません。
本当は、今のこれでイイのですが、潰れてしまっては生けませんので、やはり難所を越える時には杖を使いましょう。
そこで改めて「宿命」の登場です。
私たちは、この世に旅行をしに来ています。
自宅はあの世で、旅先がこの世ということです。
ただ、旅の前後の記憶が欠落していて、旅の最中しか存在しないため、来し方や行く末が不安になって自分探しをしたり
心の故郷を探したりしてしまいます。
しかし、それでは旅そのものを楽しんだり今の景色を味わうことなど無く、ただ当てもなくさまよう流浪の日々になって
しまいます。
私たちの旅というのは、風が吹きすさぶススけた灰色のものではなく、もっとお気軽でお花畑なツアー旅行です。
さらに、このツアーが一味も二味も違っているのは、参加している私たち自身がもはや平凡なツアーに飽きてしまった
ツワモノぞろいであるというところです。
遥か昔の話ですが、平和な景色の続く一本道を、ただスーッと行くだけの初心者ツアーに、皆さんも参加したことがある
はずですが、その時は十二分でも、今それでは本当に退屈でツラい旅に思うところでしょう。
そうして何千回、何万回も色々なツアーに参加してきました。
ビクビクわくわく本当に楽しく、病みつきになって、すぐまた次の旅行を組むのです。
時には、せっかく楽しめる行程を立てたにも関わらず、そうとも知らず逃げ回って全然楽しめなかったことを悔やみ、
すぐにまたドッキリびっくりツアーを組んだこともあったでしょう。
実際の旅行でも、事前に色々なイベントを計画したり、行き先を決めたり、あれこれ楽しみながらスケジュールを組む
ものです。
そして、ビッチリと予定を決める場合もあれば、いくつか候補を挙げておいてあとは成り行きまかせで選んでいく場合も
あります。
それと同じように、この世に旅立つ前に、私たちは多くのことをあれこれスケジューリングしました。
さらに、自分で何を計画してきたのかスッカリ忘れるようにするという憎い演出付きです。
一寸先は闇。
まさに「箱の中身は何じゃろな?」です。
手探りのまま、中身を分からずにサボテンやカエルなど触ると、ギャーッと叫びます。
それを単なる意地悪と見るか、ドキドキハラハラ、腹を抱えて笑える演出と見るか、結局は私たちの心一つでしか
ありません。
ただそれを客席から観ている私たち自身は、その中身が見えていますので、大爆笑していることだけは間違いありません。
そんな場面で、演者がド真面目にクールに振る舞うことほど、つまらない話はありません。
寒ッ!というやつです。
罪を償うために生まれてきたとか、これは試練だとか、ビビらないようにしようとか考えたら全てが台無しです。
今となっては、どれが計画してきたイベントなのか分からないわけですが、思いのほか数多くの出来事が自分で決めて
いたことが「あとになって」分かるものです。
楽しさだけでなく、苦しさやツラさもまた、ネタバレしていないからこそ味わえる新鮮なリアクションです。
人生というのは、ラクありゃ苦もあるさです。
つい数ヶ月前までは明るく自由に溢れていた環境が、一転して、トンでもなく不自由この上ない苦境に変わることも
あります。
そして、当然その逆もあるわけです。
そんな時「何故なんだろう?」「何の意味があるんだろう?」「どうすればいいんだろう?」と様々なことが頭に
浮かびます。
それを、山あれば谷あり、正負の法則などと納得して受け入れるのもいいでしょう。
ただ、そこで「これからやって来るだろう山やプラスを待ちながら今を耐えしのぐ」というのでは、明らかに違う話に
なってしまいます。
あくまで、今を踏み締めていくことで初めて見えてくるものであって、今をおざなりにして将来ばかり見ているのでは、
景色が変わることなどないのです。
私たちがまだ天地の大きな一つであった頃、これから飛び込んで行こうとする、今この苦労この時を、胸がキューッと
なるほど幸せに感じていたのです。
それは、ちょうど小学生や中学生、高校生の頃を思い返すと、幸せな時期だったなとジンワリ感じる、あの感覚と同じ
ようなものです。
当時その時には、嫌で嫌でしょうがなかった期末テストや、シンドいだけの部活練習も、そうしたものこそが今となっては
微笑ましい思い出となっています。
渦中に居るときはただシンドかっただけの経験も、そこを離れて見てみると、どれも懐かしく代えがたい思い出と
なります。
“そうした子供の頃の状況と今の状況とは違う”、などと比較をしたところで何も生まれません。
ラクチンだった頃の自分と大変な時期の自分を比べることに何の意味もありませんし、平和に見える他人と自分を比べる
ことにも何の意味もありません。
此処に来る前は、どちらの景色も同じ感覚で見ていたわけですし、此処を去ったあともまた、同じ感覚でそれを見るのです。
私たちが再び天地の大きな一つに戻り溶け合った時には、振り返ってみて、大変であればあるほどにその時の苦労が
味わい深い幸福感となるでしょう。
実際、生きている今でさえ、危機一髪で何かを成し遂げた経験というのは、何度でも振り返り嚙み締めるものです。
そう、いま目の前の状況は、もしかしたら生まれる前からスケジューリングしてきた観光スポットかもしれないのです。
「え?!こんなことがまさか?」と思うかもしれませんが、意外とそんなものです。
「これこそをやりたかった」
そのように考えれば、どんなことでも諦めがつくのではないでしょうか。
それなら仕方がない、しゃーない、と。
楽しむというのは、私たちが考えるような形だけではありません。
必ずしもワクワク楽しくなければいけない、ということではないのです。
物凄いピンチ、物凄い緊張感、物凄い苦しさ、それらは終わって見れば、のちのち何度でも口にしたくなるような
思い出になるものです。
これもまた「楽しさ」の一つの形であるわけです。
つまりは、大変な時は大変なのですから、無理に楽しもうとする必要はないのです。
そこから何かの気づきを見つけ出そうとしたり、ポジティブに考えようとしなくてもいいのです。
そしてまた、ワクワクしないからコレは違うだとか、ワクワク感じるものこそ天職・天命だとか、そういう決めつけも
間違いのもとになりかねないということです。
そうしたところに自我は巧妙に入り込んで来ます。
大義名分に飛びついてしまうと、気づかないまま自分で自分を騙し続けることにもなってしまいます。
呪文を繰り返すことで自己暗示にかかってしまうのは非常に危険です。
特に、そこに真実が含まれる時には、私たちはそれを言い訳にして、無意識のうちに自我の暴走を許してしまいます。
私たちの人生に、どの道が正しい正しくないなどありません。
諦めきった先にこそ、新しい景色が自然に現れます。
それがツアーの醍醐味であるわけです。
私たちは、今まさに80年泊の長~いツアーに参加してる真っ最中です。
そして、自分たちで作ったスケジュールを上手い具合にスッカリ忘れてしまい、いったい何が出てくるのか分からぬまま
サプライズにハラハラしています。
全くもって、してやったりでしょう(笑)
厳しい現実が押し寄せてきた時、すぐにそれを受け入れることは、なかなか出来ないものです。
そこでガックリきてしまうのは当然です。
でも、それすらも織り込み済みのことなのですから、気にせず素直に落ち込んでイイのです。
そして、ひとしきりうなだれた後には、“もしかするとこれは生前に決めてきたイベントかも”と考えてみることで、少しは
心がラクになるのではないかと思います。
そうして、仕方がないと思えた瞬間、目の前の現実をそのまま受け入れる状態へと変化します。
そこからが、イベントにしっかり参加することになるのです。
この世ツアーの旅はまだまだ続きます。
そして最期の最後には、“嗚呼もう終わってしまう...”と、それまで歩んだ旅の喜びを反芻しながや、旅の終わりを惜しむ
ことでしょう。
ですから、無理して今を変えようなどと思わずに、今をそのまま素直に過ごしてみましょう。
変えようとすれば変わらない。
まぁいっかと思った瞬間、変わる。
我執とは、この世とは、そういうものなのです。
(おわり)