これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

一年の計は大晦日にあり

2015-12-31 15:47:07 | 体をラクに
今年もいよいよ今日で最後となりました。

この一年、皆様も色々なことがあったと思いますが、今この時を迎えられたということがオールOKの証です。
一年の出来事に対して、また御縁のあった人たちに対して、そして何より自分自身に対して、素直に感謝したいところです。

さて、今日は一年の総ざらいの日、大祓いの日です。

大祓いをする時は形代で身体を撫でていきますが、それは身体の掃除というよりも、心の大掃除と言った方がいいかも
しれません。

身体というのは、普段はその存在を全く意識させません。
病気や怪我をした時になって初めて、その部分の存在を私たちはハッキリと認識するようになります。

天地宇宙のエネルギーが滞ると、身体は衰弱していきます。
エネルギーが滞るというのは、心が詰まっている状態とも言えます。
ということは、病気や怪我は、心の詰まっていることに意識を向けさせるためのシグナルであるとも言えます。

病気というのは、具合の悪くなった部位の流れが詰まっている場合もあれば、心の囚われやシコリ、悩みやストレスなど
が、結果的に肉体の不調として顕現してしまう場合もあります。

夏越しの時にも書きましたが、大祓いでは人型の形代に穢れを移し(映し)ます。

その時、私たちは普段は意識をしない身体の各所一つ一つにハッキリと心を向けます。
表面だけではなく、五臓六腑の一つ一つにも瞬間的に心が向きます。

心を向けるということは、天地のエネルギーがそこへ通るということになります。

すると、病気や怪我をしなくともその部位へ心を向けることになりますので「病気や怪我が発現しない」ということへ
繋がっていきます。

詰まっていたところを未然に通してしまうことによって、要は先物買いをしているわけです。

そして、それと同じように、この一年のあいだに知らず知らずのうちに詰まらしてしまった人間関係、あるいは天地との
交流も、そこへ心を向けることで全てにエネルギーが流れてリセットされることになります。

大晦日というと、何とは無しに神妙というか、特別な心持ちになります。

「何はともあれ、一年ありがとうございました」

そのように、今日は照れることなく、思える日ではないでしょうか。

私たちは、死ぬ間際にその一生を振り返り、そして様々な人、様々な出来事に心を通すことで、すべてを清算します。
そうやってオールOKになるわけです。

一年の最後というのはまさにその縮小版だと言えます。
やらかしてしまったこと、嫌な思いをしたこと、申し訳ない思い、怒りや悲しみ…
そうしたもろもろ全てに対して、一年の最後の今日にサーッと心を通すことで、みんなOKになるのです。

大祓いというのは、大掃除というよりも、心をスッキリ爽やかにするものです。

どうぞ、この一年を振り返って、頭にポンポーンと浮かんでくる様々なことに心を向けてみて下さい。
なーんも考えずに、ただ素直に気持ちを通してみて下さい。
無理やり感謝する必要はありません。
ただ、心を向けるだけで大丈夫です。

そうして最後は、自分自身に「何はともあれご苦労さん」で(笑)


みなさま、今年も一年ありがとうございました…!



(箱根神社の茅の輪です。朝方は雪が散らついていましたが、昼前には晴れ上がりました。)


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私たち自身に還る

2015-12-29 18:22:07 | 天地の仕組み
松江出張のあと、久しぶりの稽古に出ることが出来ました。

私の通っている流派では「統一体」というものをとても大切にしています。
厳密に言えば、それは心身が統一している状態のことを指します。
自我に囚われることなく、心うつろわず「今ここ」に在る状態です。
別の表現をすれば、天地と一つになっている状態となります。

心と身体が一致しているというのは結果に過ぎず、あくまで天地と一体になっていることが主であるわけです。

そのように心の波立ちや移ろいがなく、天地との壁が無い状態にあれば、天地に充満するエネルギーと一つに溶け合い、
結果としてその天地の下に居る相手とも断絶なく交流することになり、何ら抵抗なくフンワリ投げることが出来るように
なります。

その時に肉体を意識したり、投げようという思いが起きたり、些細な雑念が湧いてしまうと、途端に意識の壁が生じて
しまい、自ら相手との交流を断つこととなり、単なる物理の力学的な投げ合いかヤラセとなってしまいます。
肉体を意識せず天地と溶け合った感覚のまま心を乱さずフンワリとやる…
そこに難しさがあり、また喜びがあります。

この感覚にある時は、とても心地よい開放感、透明感にあります。
坐禅をしている時や温泉に浸かっている時、大自然に包まれた時のようなリラックス状態にとてもよく似ています。

そこには、相手を投げてやろうなどという我欲は一切生じず、とても大きな優しい心のままに、結果として投げています。

もともとは相手を倒そう、相手より強くなろうとして始めた修行のはずなのに、そうした我欲こそが己を一番弱らしめて
いるというのが、いかにも真理めいてますが、実際それが身をもって分かるのですから本当に面白い限りです。

投げようという気持ちを捨てることで、初めて投げられる。
投げようとさえしなければ、結果として投げることができる。
といって、そこに投げる心がなければ、そもそも投げるという動作すら起こせない。

何ごとも最初に必ず「方向づけ」というものが必要で、ただしそこに我欲を注いだり、自我を波立たせたりしてはいけない
ということです。


まるで、私たちの人生そのものです。

自我を全開にして進んでしまうとガチガチの物理的・力学的なガチンコになってしまいますが、さりとて、自分をすべて
捨てて何も無いまま天地へ丸投げするのでは、海に漂う流木と何も変わりありません。

そこに「いま」という自分が在ることが天地自然な姿であり、その状態のままでスッと方向づけをして、あとは天地に
任せきる(=天地に溶けあったままでいる)ことで、初めて天地のエネルギーで相手を投げられる、つまり日常に
当てはめるなら「現実が変化していく」ということになるわけです。

日常での変化や結果というのは、ゆっくりとした時間の経過ののちに現れてくるため、自分の心の在り方が波立っていた
のか、囚われていたのか自覚するのはとても難しいことです。
ただ、武道であればそれが目に見えてすぐに結果として現れるため、その直前の自分の心癖や囚われを見直すことが
出来ます。
ほんのわずか心が変化しただけで全くダメになってしまうことを目の当たりにします。

とりわけ、次にやる動作のことを考えると、途端に天地との融合は途切れて、相手との交流も途絶え、突如重くなって
ガチッと止まってしまいます。
「今ここ」から、ほんの僅かでも心が離れると、いきなり無に帰してしまうわけです。
それはまさに孤立・孤独を実感する瞬間です。

また、次の動作だけでなく、何かしら些細な思いを頭に浮かべただけでも同じようにガチッと止まってしまいます。
邪欲は言うに及ばず、「余計なことを考えない」とか「今に集中」とか「天地と一体」とか、そうしたポジディブ思考や
プラス思考であってもアウトです。
何故ならば、それらも、自分の心が今ここから離れてしまっているからです。

「今ここ」というのは、完全な自然体のことです。
今の、ありのままを、そのままに受け入れている状態です。
今に集中していない自分も、天地と一体になっていない自分も、いっさいがっさい白黒判断せず、そのまま受け入れる。
その瞬間、天地と溶け合い一つとなり、今だけに集中した状態になるわけです。

ということは、日常や人生であってもそれは同じであるということです。
ただ、時間の流れ方がゆっくりしているため、結果が現れるのが遅いだけのことです。

ですから、現実での結果が伴わないのは心が波立っているからであり、些細な我欲を起こすから天地自然なエネルギーがシャット
ダウンされてしまうということです。
そしてその状態から脱するには、「今ここ」以外に心をうつろわせないということになります、
決して、何とかの法則に心を使ったり、ポジティブ思考をすれば良いということではないわけです。
あらゆる雑念は天地との断絶にしかなりません。

さて、そうなると「今ここ」に心を向けた波立ちの無い感覚というのは、どのようなものなのか、どうすれば得られる
のかということになってきます。

これは様々な場面で誰もが体感していることです。

例えば、温泉などは分かりやすいかもしれません。
湯に浸かった直後は、まだ意識が日常を引きずっているためアレコレ考えごとが湧いてきます。
しかし、そのまま長いこと浸かっているとそのうち何も考えない空っぽの状態になっていきます。

ガチャガチャと色々なことが浮かんできても、そのまま放ったらかしておけば、自ずと自然本来の状態に回帰していく
ということです。

あの感覚こそが目指す境地です。

つまり、どれだけ放ったらかしに出来るか、湧き出る雑念すらもハイハイと受け入れてあげられるかということです。
ここでは温泉を一例としましたが、それは日常のどんなことであっても同じであるわけです。

湯船に浸かって何も考えない空っぽの状態になると、仮に心配事が浮かんでもそこへ心を向けること自体が嫌になります。
ボーッと幸せな心地に身をまかせきっていますので、その感覚を止めることが嫌なのです。
つまり、本当にリラックスし切ると、ほんのわずかなことにエネルギーを注ぐこと自体が、非常に煩雑なことに感じて
しまうわけです。


しかしリラックスが浅いと、そうはなりません。

日常では波立ちのキッカケがあれば、どんなことであろうと瞬時にそこへエネルギーを注いでしまいます。
むしろ、それを止めることの方が困難であるわけです。
そして、それを必死にスルーし続けようとしても、少しでも気を抜くと心がざわついてしまうため、イタチごっこを
続けているうちに疲れ果てて挫けてしまいます。

天地と一体で無くなることなら私たちは幾らでも出来るのに、天地と一体となることは極めて困難に感じてしまいます。

これでは、いかにも私たちがダメ人間のようで、悲しくなってしまいます。
でも、それは悲観するようなことでは全くありません。
そのようになってしまう理屈はハッキリしているのです。

それは、小さな鍋に張った水と、数キロ四方の巨大なプールを比べてみれば明らかです。

膨大な体積の水を、たとえわずかでも波立たせるには途轍もないエネルギーが必要となります。
逆に言えば、ほんの少しの刺激くらいでは、全体の重みや存在感がそれを瞬時に霧散させてしまうということです。

しかし、小さな鍋の方は、わずかな刺激で簡単に波立ちます。
そしてひとたび波立つと、それが収まるまでかなりの時間を必要とします。
その静まりを待つまでもなく、さらに次の波立ちが来ることもしょっちゅうです。
すると「コッチだ!あ、今度はコッチ!」と、波立ちというものに対して、条件反射的に反応する(=エネルギーを注ぐ)
ようになってしまいます。

日常という覚醒状態は、天地宇宙と意図的に隔離された状態です。
それは、個という疑似体験を芯から味わい尽くすためには必要なことであるわけです。
しかしそうなると、どうしても大海を小さな鍋で囲ったような状態に陥りやすくなります。

それが、些細なことに心が囚われてしまう原因であり、逆にそれこそが些細なことにも波立たないための糸口になります。

まずは、そのような理屈なのだから、私たちは駄目な人間などではなく、仕方がないのだと諦めきることです。
私たちは、コレでいいのです。

その上で、大海を囲む壁を無くすことが、波立ちを無くすことになります。

それでは話が元に戻ってしまうように思ってしまいますが、実はそこがカギなのです。
そもそもそれを目指せばこそ苦労しているわけですが、苦労するものだという思い込みが私たちにあることこそが、
余計にそれを難しくさせてしまっています。

例えば、波立ちを無くしていけば大海に溶け合う
とはいえ、波立ちに心を奪われてしまう条件反射を無くしていくには
根気のいる反復訓練が必要となります。
しかも下手するとゴールを目指して旅立っていながら、そのまま迷宮をグルグル回ることにもなりかねません。

ゴールは、常に目の前にあります。
次の一歩がそこです。
しかし、その次の一歩こそは、今、今、今が重なった結果なのです。
つまり、ゴールは「今」にあるのです。

波立ちに心奪われないための修行というものも、結局は、今に集中するためのものであるわけです。

天地との分断というのは、ちょっとした考えごとや欲だけでなく、体調不良や過労、ストレスや悲しみ苦しみ痛みでも
起きてしまいます。
そして実は、そのような天地との分断を無くそうとする気持ちこそが、その一番の障害となってしまいます。

結論を言ってしまえば、どうでもエエワイという捨て鉢が近道となります。

ただ、最初から捨て鉢になってしまうと、単なる気抜けになってしまいます。
やはり、そこを目指そうとする方向付けが初めにあって、そこへ心を向けた上での、どうでもええわいという諦めが、
パズルの最後の1ピースになるのです。

また、あらゆる我欲や我執を忌み嫌うのも誤りです。
例えば、我欲や我執を手放さなければ相手を投げられない(現実を変えられない)と言うと、我欲や我執を否定する気持ち
が生じてしまうものです。
しかし、それでは逆に我欲や我執の存在をより明確に意識することにしかなりません。

さらに言えば、自我というものがあればこそ、私たちはこの世で今ここに定着できています。
自我は、現実世界に根を下ろすためのアンカーであるわけです。
そして我欲も我執も、その自我から生じるものです。
それらを全否定してしまうと、その大本の自我を否定することにもなってしまいます。

それに対して、自我が猛然と反発するのは当然です。
私たちは、自我のおかげで今ここに生きています。
ですから、否定ではなく感謝とともに受け入れるのが、人として当然の道です。
自我に叫ばせるようなことをするのは間違いです。

話を戻しますと、何をするにしても最初に方向付けというものが無ければ、私たちというのは、ただボーッと突っ立った
ままのマネキンでしかありません。
そして最初の方向付けというのは、スッと心を向けるというものです。

それこそが、最初の出力として必要なものです。
ただ、二段目のロケットに移ったあとは、今度は一切余計なことはせず、まかせきることで天地のエネルギーに乗ることが
できるわけです。

我執や我欲を忌み嫌うと、この最初の方向付けすらも否定しかねないので注意が必要です。

そしてその方向付けは、心を「今」に置いてあればこそ可能となります。
向けた先へと心を飛ばしてしまうと「今ここ」から離れてしまいます。
心はあくまで今に置いたまま、スッとその向きを明確にさせる。
それは広がっていると言ってもいいかもしれません。

ここでまた「広げよう」と考えてしまうと、これもまたすべて振り出しに戻ってしまいます。
向けるだけで勝手に広がっているので大丈夫です。

そもそも私たちは、もとより「今ここ」に在ります。

何故ならば、天地宇宙も「今ここ」にしか無いからです。
つまり「今ここ」だけが、唯一の実在なのです。
だからこそ、「今ここ」こそが天地宇宙と一つに溶け合う唯一のポイントなのです。
他の言い方をすれば、「今ここ」が天地宇宙の全てということです。
それ以外のところに心を置いた瞬間、私たちは天地宇宙から分離しているということになります。

ただ、ここまで来たらタネを明かしてしまいますが、実はこれもまた単なる幻想に過ぎません。

私たちは、もともと天地宇宙そのものです。

「今ここ」から離れることなど、実際は有り得ないのです。
言うなれば、身体は此処に置いたままで、そこから離れたことにしようとしているだけです。
意識だけ、幻想の世界へトリップさせているようなものです。
はたからみれば、実際「今ここ」に突っ立っては居るけれど、心ここにあらずでボーッとしているような状態です。

つまり「今ここ」に集中したいという思い自体が、実は、もとより幻想そのものであるというわけです。

最初から、私たちは「今ここ」に居ます。

私たちが私たち自身に在る時、それは「いま」に在るということです。
「いま」というのは、私たち自身であるのです。

ですから、あらゆる不安、あらゆる思いは必要ありません。
「今ここに集中しよう」というのは幻想に過ぎないのです。
何をするまでもなく、それは不可分のものです。

不安も、希望も、何もかも手放した瞬間、私たちは「今ここ」に還ってくることでしょう。





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陰極まって陽となる

2015-12-22 21:01:24 | 日本を旅する
今年も残すところ、あと1週間余りとなりました。
来週の金曜はもう正月です。
本当に早いものです。

7月に東京に移ってからは生活が一変し、嵐のような忙しさとなりましたが、数ヶ月かけてようやく心を落ち着けられるようになりました。
...と思っていたら、勝手に終わらすんじゃないとばかりに、最後の最後まで息もつかせぬ展開が待ってました。

本来ならば、今日は会社のカレンダーを沢山抱えて都内のお客さんのところを駆けまわっているはずでした。
そして夜には資料作りで悶々と残業しているはずでしたが、昨晩の急展開で、何故か松江に居るのでした。

体がいくつあっても足りない年末に、まさか日帰り出張が入るとは思いませんでした。
もとより松江は大阪支社の管轄。
普通だったら有り得ないのに、その有り得ないことが起きたのにはわけがありました。

競合他社が立て続けに二社も事業撤退するという、うちの業界としては戦後初の出来事が起きたのでした。

東京に来てから慌ただしいことだらけでしたが、ようやっと諦めきって受け入れたところで、そこからさらに畳み掛けてくるというのは本当に
ヒドい話です 笑
しかも、休み前日のせいか、丁度いい時間帯の飛行機はソールドアウト。
早朝の飛行機で行って、最終の飛行機で帰って来る羽目になりました。

といって、会社の仕事は山積み。
朝でも夜でも、どちらかだけでも東京で仕事を片付けたいところだったのですが、完全に丸一日拘束されることになってしまいました。
(実際には拘束ではなくて、隔離だったわけですが)

ここで、必然という言葉を使うつもりはありません 笑
ただ、やはりこの世というのはサプライズに満ちたアトラクションなんだなぁと思うばかりです。

さて、全く頭にありませんでしたが、今日は冬至です。
ご存知の通り、一年のうち最も夜が長い日です。

このことから、冬至は別名「一陽来復」とも言われます。
これはもともと易の言葉で、陰暦十月に陰が極まって十一月に陽が現れる、という意味なのだそうです。

そんなことから、

「陰極まって陽となる」
「冬が終わって春となる」
「悪い状態から脱して良い状態となる」

そんな意味に使われます。

夜が一番長い日、それをもって陰極まるとはよく言ったものです。
とはいえ、陰は暗くて悪いものツラいものだという決めつけは如何なものか。

さて、そんな冬至だったわけですが、今日の松江は驚くような暖かさでした。

これまで何度か来ていますが、この時期いつもなら日本海独特の厚い雲に覆われドンヨリと重い空気が漂っているところです。
なのに、今日は青空に小さな雲がチョコチョコとあって、いったいこれは何処の空?というような晴天。
まさかこの季節にコート要らずで出歩けるとは思いもしませんでした。

仕事が早めに終われば空港に行ってキャンセル待ちで早めに帰るつもりだったのですが、お客さんの会議が伸びたため、面談もスライド遅れで、
あえなく断念となりました。

時間だけは余るほどあるのに、仕事をしようにも資料やら何やら全て会社に山積みされたままで遠隔作業も叶わず。
もちろんそれを持って出張に出て来れるようなものでも無かったので、完全にお手上げ状態です。

となると、あとは割り切って遊んで帰るしかありませんが、松江には何度も来ていますので、お城もお堀も、屋敷も蕎麦も、史跡や神社に
しても行き尽くしていました。

次の便まで6時間近く、何もすることがありません。

しかもポカポカ陽気。

レンタカーを借りて神社巡りでもしたかったのですが、勤務時間中に何かあったらそれこそクビになってしまいますので、そこはグッと
こらえて、結局一番時間が費やせる出雲大社に電車で行くことにしました。

あと、温泉というのもチラッと頭をよぎりましたが、さすがにコラッと怒られそうだったのでそこは諦めました。

大社はこれで何回目になるか覚えていないくらいですが、ヨシ行くぞと思って行ったことは最初の一回だけだったような気がします。

行ったら行ったでジンワリ来るのですが、といって積極的に計画することはなくて、気づけば行っていたというのがとても不思議に思います。

よく、アマテラス系とかスサノオ系とか、人それぞれ感覚的な落ち着き感があると言いますが、これは事実だと思います。
それは勝手な思い込みで自己満足に浸るような類いのものではなく、芯の部分と全身の皮膚とでスッと感じるものです。

そういう意味では、自分はアマテラス様の御縁の神社の方はジンワリきまして、そちらは積極的に計画してお詣りするのですが、スサノオ様の
御縁の神社は緊張感というか、よそ行きの心になってしまいなかなか進んで行こうという気にはなれないのでした。

昔は、みんなそんなもんだろうと思っていましたが、逆にスサノオ様の系統の方が落ち着くという人が結構おられることに、己の視野の狭さを
思い知らされたものでした。
この世は、バラエティ豊かな多様性に富む、本当に奥深い世界です。

そんなわけで私にとっての出雲大社は、喜び勇んで飛んで行こうという心地にはなれないというか、生半可な気持ちでお邪魔してはいけない
という感覚の特別な場所なのでありました。

ただ、今日に関しては自分の我で押し進めているのでなく、もうそれしか無いというほどの追い込まれかただったので逆に気がラクというか、
大河が支流へ枝分かれしていくように否応もなくボヘーっと、居直りというのでは無いのですが、緊張することなくリラックスしてその流れに
乗らさせて頂きました。


それにしても、まさかここで出雲大社とは、それが自我によるものだったら僭越すぎるというか、畏れ多くて描けない展開だったろうと
思います。

出雲大社と伊勢神宮とは、太陽のラインで結ばれています。
日出ずる伊勢に対して、日暮れる西方の出雲です。
伊勢を陽とすれば、まさに出雲は陰であるわけです。

毎年11月の新嘗祭には伊勢神宮に行っていたのですが、今年は激しい忙しさで諦めざるを得ませんでした。
それが、まさか一年の締めに出雲大社に行くことになるとは、未だしっくり来ないというか、不思議な感覚この上なしです。
それは例えるなら、和服と洋服ほど趣きの異なる一張羅を着させられて、晴れ舞台でご挨拶をさせられたような、そんな場違い感でした(笑)

趣きが異なるという感覚は、要は、自分の趣味に合う合わないということです。
趣味というのは、感覚だけでなく、自分のこだわりや好みにも影響されます。

スサノオ様の系統は、正しく、陰陽で言うところの「陰」です。
それを辛気くさいとか、暗いとかいう価値判断は人間の勝手な思い込みでしかありません。
自分もまた、それを趣きとして、距離を置いてしまっていたのだと思います。

陰にせよ陽にせよ、元ひとつの同じものです。
別に、裏だ表だというものですらありません。
そうした理屈こそが真実を遠ざけてしまいます。

スサノオ様は、黄泉(見)も司る、陰の象徴です。
一方のアマテラス様は、太陽を司る、陽の象徴です。
それは裏でも表でもなく、全く同じものです。

まさに「陰極まって陽となる」です。

黄泉の国も、高天原も、中つ国も、そこに何ら違いは無いのです。

帰りのタクシーで運転手さんが、こんな暑いのは今日だけだと笑っていましたが、そのあと出雲大社宮司家である千家国麿さんと高円宮典子様
の御結婚のことを嬉しそうに話していました。

それは、何千年も続いたスサノオ様とアマテラス様の住み分け、陰陽の切り分けが無くなりこの時代に一つになったことを示すもの
でもあります。


今日は冬至です。
一年の中で、最も陰が極まる日であり、陰と陽が重なる日です。

高円宮典子様のお輿入れにより、陰陽天地が溶け合い一つになったように、今日という日を境に、この世の陰陽が溶け合い一つになると
いうことなのかもしれません。

私もまた、今朝まで抱いていた陰陽の切り分けが、今日の御参りを境に、溶けて一つになっていくようでした。

冬なのに、春のようなポカポカ陽気。
日本海なのに、太平洋のような広い青空。

今日という日は、あらゆるものが一つであることを示された日だったのかもしれません。



(おわり)





(本殿の真裏にあるスサノオ様のお社です。式年で綺麗になっていました。出雲で一番好きな場所です。)


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信じるものは救われる

2015-12-20 17:15:40 | ショートコント
ーーー にしても、止まったバスに乗ってビビってるって、そんな話あるかぁ??それって、デパートの屋上の10円いれたらその場でウィンウィン動くやつと変わらんゾ。

『そうやで。変わらへんでー』

ーーー えぇ!?

『ほんでもってハリボテの看板見て、ウヒャーどないしよー、ってなもんや。』

ーーー ....…………アホまる出しじゃないすか。

『ガッハッハ!まぁそういうこっちゃ!』

ーーー いやや、そういうこっちゃって…それが本当ならさすがに痛すぎですって。

『そんなことないで。そんだけ素直っちゅーこっちゃ。』

ーーー フォローにも何にもなってないっすよ...第一、そんなハリボテとか言われても全然ピンときませんし。

『アホー、そんなんやからアカン言うとんねん。ハリボテの看板や思うとけば、現実を自分で作る言うのがスーッと入ってくるやろ?』

ーーー まぁ、確かに。それくらいだったら自分でも作れるって思えるかも…

『せやろ?どエライもんやと思ってまうからでけへんねん。』

ーーー いや…でも実際、宇宙は精密で完璧な調和で成り立ってますし…

『何いうとんねん。それこそ自分でわざわざややこしくしてストップかけとるだけやないか。ざっくりしたイメージだけで、かまへんねや。』

ーーー えぇ!?...でもそんないい加減だと全然実現しなそうなんですけど...

『アホ、わざわざ敷居高くして、自分の手ぇ届かんくしたら元も子もないやろ。ハリボテ思うとれば、上手くいくかどうかなんて気にもならんとイケるもんや。』

ーーー まぁ、確かに…

『大体こんな感じ、くらいでエエねん。あとは、ほっとけば勝手に付け足してくれる。余計なことしよ思うから無茶苦茶になってまうんや。』

ーーー いやぁ、それがホントだったら超ラクだな~。きっちりリアルにイメージしないといけないとかだとメチャメチャ疲れるし、確実に三日坊主だもんな。

『せやな。シンドくなってくうちに不安やら欲やら出てきてまうから、全然ちゃうもんが出来てまうねんな。「頑張ろ」いうのんも我執やからな。なんで頑張る必要があんねん?おかしいやろ?学園祭の立て看板作るくらいのお気楽気分でちょうどええのんや。おかしなのが出来てもうても、それはそれでゲラゲラ笑えるしな。その余裕が大事っちゅーこっちゃ。

ーーー ははぁ…何だか分かったような分からんような。

『難しく考えんこっちゃなー。この世界っちゅうんは、無茶無茶シンプルにできとるんやから。』

ーーー ははは、最後に何かちょっとイイ言葉?(笑)ま、いっか。嘘も方便って言うし。信じるものは救われるってことで!

『せやでー、「真・知る者は救われる」や』

ーーー ゲゲッ、まさかのダジャレですか?

『「知る知る満ちる」いうのもあんねんけどなー』

ーー うわちゃー、まだ続ける気?!もう今日はこれまで!(笑)ありがとうございました!


(おわり)




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安全な『この世の旅』をどうぞお楽しみ下さい。

2015-12-19 12:24:10 | 天地の仕組み
登山やハイキングでは、ストック(杖)を使うと全身のバランスが安定して疲れが少なくなります。

理屈を言えば、棒の先まで心が通りますと、いわゆる氣が通った状態となるため、必然的に四肢の先端まで氣が通います。
そして、緊張が緩和されて片寄りが無くなり、心が大きな状態にキープされるようになります。
それを全身力と言ってもいいでしょうが、この場合はどちらかといえば「全体」力、あるいは「一体」力と言った方が
適切かもしれません。

頑張ろう踏ん張ろうとすると、我を張ってしまい、天地との間に壁を作るだけでなく、自分の体ともブツブツと
分断された状態になってしまいます。


心がリラックスすれば、自ずと肉体とも一体となりますし、また天地との壁も薄らいでいきます。
それこそ自分の全体で歩むことになり、さらには天地と一つになった全体で歩むことになります。

ちなみに富士山では登山の補助具として、六角の棍棒「金剛杖」というものが売られてます。
まさに六根清浄。
一歩一歩、我執を祓いながら、天地と一つに溶けあっていくということです。

この世の旅もまた、足場の悪いところは方便を杖として歩くと、全体でラクに進めます。
ただ、杖に頼りすぎると足の筋力が落ちて自力で歩けなくなってしまいますので、時が来れば手放します。

それさえ心掛けていれば、色々な方便(杖)を試して、いま一番フィットするものを選んでみるのがイイということです。

例えば、「宿命」という言葉があります。
これは杖としてピカイチですが、そうであるだけに囚われやすい言葉でもあります。

俗に、生まれながらにして決められていることが「宿命」で、変えられるものが「運命」とも言われます。
言い換えれば、生まれる前に決めてきた「宿命」に対して、自分で作り上げていく「運命」ということになります。
ただ、ここではあまり細かい話はやめておきたいと思います。
というのも、あれこれ定義してしまうと、知らず知らずのうちに言葉自体に囚われてしまうからです。

何か嫌なことや、とてもいいことが起きたとします。
その時、コレは生まれる前から決まっていたこと?自ら招いたもの?という迷いや決めつけは、目の前の景色を狭める
ことにしかなりません。
それはポジティブに使おうがネガティヴに使おうが同じことです。

因果応報という言葉に囚われすぎてもおかしなことになりますし、必然という言葉に囚われすぎてもおかしくなって
しまいます。
いつも自分自身の顔色を窺いながら生きていくのは勿体ない話ですし、逆に、特別なことでもあるかのように自己満足に
浸って、せっかくひらけた景色をパタンと閉じてしまうのも勿体ない話です。

この世界は、あらゆるものが因果応報の結果であり、同時にまたあらゆるものが生まれる前から決まっていたものです。
それらはどちらも正しい。
それでいいのです。

実際、大変な状況が訪れた時、それは自ら蒔いた種であると同時に、生前から計画してきたプランであるのです。

そもそも私たちは、様々な疑似体験をするためにこの世のツアーに参加しました。
それはディズニーランドやUSJといったアミューズメントパークへ行くのと同じ感覚かもしれません。
まさに笑いあり、涙あり、苦悩ありのテンコ盛りテーマパークです。

そうなると「変化」というものも、アトラクションをさらに楽しむための仕込みであることが分かります。

本物のディズニーランドでは、客を飽きさせないようにパレードやイベントなどのソフトをリニューアルしながら
新しい刺激を提供し続けます。
私たちのこの世界にしてもソフトが頻繁に刷新されますが、さらには施設やテーマ館などにあたるハードも次々と
様変わりしていきます。

至れり尽くせり、常に新鮮。
しかもどれ一つとして同じものがない、完全個人仕様の刺激たっぷりアミューズメントというわけです。

そういう意味では、私たちは現世にまさに「遊びに」来ているわけです。
刺激を味わいに来ている、とも言えます。
それは、自我が喜ぶような即物的な満足とは違い、天地と同一の私たち自身が喜ぶような満足ということです。

幸せな状況だけでなく、大変な状況に置かれた日々であっても、それに飽きるなんてことは絶対にありません。
嫌だと思うことや疲れてしまうことはあっても、本当の意味で飽きてしまうことはないのです。
良くも悪くも、毎日が一杯一杯です。

ロシアの神秘家グルジェフが「ハードワークであるほど良い」と言っていたのも、魂が喜ぶという意味です。
もちろん、禁欲的でストイックな行動によって我執を断つことができるという考え方もあったでしょうが、それ以上に、自覚するしないに関わらず「大変な経験ほど
食後感は大きい」
ということを言っているわけです。
つまり、今わからなくとも、死んで天地と一体となった時には、シミジミと感じ入るような幸せが訪れる、という
理屈なしのシンプルなものなのです。

これは想像すれば、なんとなく分かる話です。

絶叫マシンに乗る前は、ハラハラドキドキしながらも好奇心に勝てず、やはり乗ってしまいます。
そして乗ってる最中は、やっちまった感マックスのストレスの時間を過ごさざるを得なくなります。
しかし「生きて」帰ってきた時には、憑き物でも取れたようにスッキリ爽快です。
そして次には、さらにその上を行く鬼のような絶叫マシンを選んでしまうわけです。

しかし、天地から分断されている自我の目線でこれを見れば、シンドいことこの上なしです。
何故ならば、絶叫マシンに乗る前と、乗った後の記憶が削ぎ落とされてしまって、意識としては単に乗ってる最中しか
存在しないからです。

そうなってしまうと、右へ左へ、時にひっくり返ったりと、いつ死ぬか分からぬ恐怖とストレスの連続です。
さらにはゴールはスタート地点であることも分からないため、ゴールすることすら恐怖とストレスに感じてしまいます。

この世のアトラクションは、事故って死ぬようなことは絶対にありません。
自ら望まない限りは、途中でコースターが止まったり、投げ出されて地面に叩きつけられるようなことはないのです。
100%全員、乗り場まで戻って来れます。

どんなに死にそうな思いをしても、死なないのです。
何故かと言えば、それはバーチャルでしかないからです。
ゴーグルを通して観ている映像の世界だからです。
そして、ジェットコースターがスタート地点に戻った時に安全ベルトを外すように、私たちもそこでゴーグルを外します。
バーチャルの疑似体験が終わって、普通の、もとの「現実」世界に戻るだけです。

ゲームオーバーは死ではなく、ハッと我に帰ることです。
バーチャルから覚めて、「生」に気づくことであるわけです。
グルジェフが、人類は未だ寝ている、と言ったのはそういうことです。

だから、この世に居ながら目が覚めたらば、バーチャルの世界であることや、ジェットコースターに乗っていることを
自覚しながら楽しめるようになります。
ジェットコースターに乗る前や降りた後が、断絶されることなく全てが一つになります。

大きな食後感を得られるのが死んでからというのではあんまりですので、生きてる間にそれが味わえるようにと、死んだ
後と同じ状態、つまりは天地に溶け合って一体となりましょうというのがグルジェフの言わんとした「目を覚ます」という
ことであるわけです。

あるいは、これをバスツアーに喩えてもいいでしょう。
私たちは、このバスに乗る前と降りた後のことを知らずに、ただバス旅行だけが天地宇宙の全てだと思い込んでいます。
しかも何処に行くかも分からないミステリーツアーなので、曲がるたびにドキドキ、停車するたびビクビクです。

でも、実はこのバス。
それ自体は動いておらず、まわりの景色にしてもそこに壁紙のように置いてあるだけです。
ただ、その壁紙が一回一回交換されて、ストロボのように切り替わっているので、まるで変化して流れているように
見える、つまりバス自体が動いているように感じているだけなのです。
ですから、そもそも絶対に交通事故は無いわけです。
そしてまた、そのことから分かるように、常に「今」しか存在していないというのは、そういうことなのです。

さらにその壁紙は、自分が選んだり、描いたりしたものということになります。
だから、それが必然なのか因果応報なのかなど、どちらでもいい話なのです。

ただ、そんな子供騙しが最初からネタバレしてしまっては、何の刺激もありません。
シーン...と無反応、無感情です。
なので、わざわざ私たちはそのタネ明かしを忘れて、おまけにバスに乗る前の記憶も消して、ハラハラドキドキしたくて
乗り込んだのでした。

キツい経験や、とんでもない展開を、私たちの芯の部分は、それを知っていながら知らないフリをして楽しんでいます。

ギャッと叫んだりブルブル震えてる私たちの姿というのは、例えば自分の影に驚いてビクッとなる猫や、自分の尻尾を
クルクル追いかける犬の姿と同じようなものです。
そうした姿を見ていると、誰しもホッコリした気分になるでしょう。
そして、決してそれをやめさせようなどとは思わないはずです。

ですから、私たちが神様に助けを求めても、ただ温かく見守るだけで何もしてくれないのです。
何故ならば、私たちがギャッとなっている姿にホッコリしているのは、他ならぬ私たち自身であるからです。

そう、つまりは、私たちはビクビクしてたりギャッと叫んだりしてて、全然イイということなのです。



とは言いながらも、ボロ切れようにズタボロになってしまって、立ち上がる気力も失っている時に、今こうしたことを
受け入れろというのは酷な話かと思います。

「人類はまだ眠ったままだ」と言われても、あぁそうかよ、と言い返したくなるでしょう。

いくら犬や猫が可愛い仕草をしているからといって、当の本人がそのままストレス死してしまっては何の意味もありません。

本当は、今のこれでイイのですが、潰れてしまっては生けませんので、やはり難所を越える時には杖を使いましょう。

そこで改めて「宿命」の登場です。

私たちは、この世に旅行をしに来ています。
自宅はあの世で、旅先がこの世ということです。

ただ、旅の前後の記憶が欠落していて、旅の最中しか存在しないため、来し方や行く末が不安になって自分探しをしたり
心の故郷を探したりしてしまいます。
しかし、それでは旅そのものを楽しんだり今の景色を味わうことなど無く、ただ当てもなくさまよう流浪の日々になって
しまいます。

私たちの旅というのは、風が吹きすさぶススけた灰色のものではなく、もっとお気軽でお花畑なツアー旅行です。

さらに、このツアーが一味も二味も違っているのは、参加している私たち自身がもはや平凡なツアーに飽きてしまった
ツワモノぞろいであるというところです。

遥か昔の話ですが、平和な景色の続く一本道を、ただスーッと行くだけの初心者ツアーに、皆さんも参加したことがある
はずですが、その時は十二分でも、今それでは本当に退屈でツラい旅に思うところでしょう。

そうして何千回、何万回も色々なツアーに参加してきました。

ビクビクわくわく本当に楽しく、病みつきになって、すぐまた次の旅行を組むのです。

時には、せっかく楽しめる行程を立てたにも関わらず、そうとも知らず逃げ回って全然楽しめなかったことを悔やみ、
すぐにまたドッキリびっくりツアーを組んだこともあったでしょう。

実際の旅行でも、事前に色々なイベントを計画したり、行き先を決めたり、あれこれ楽しみながらスケジュールを組む
ものです。
そして、ビッチリと予定を決める場合もあれば、いくつか候補を挙げておいてあとは成り行きまかせで選んでいく場合も
あります。

それと同じように、この世に旅立つ前に、私たちは多くのことをあれこれスケジューリングしました。
さらに、自分で何を計画してきたのかスッカリ忘れるようにするという憎い演出付きです。

一寸先は闇。
まさに「箱の中身は何じゃろな?」です。

手探りのまま、中身を分からずにサボテンやカエルなど触ると、ギャーッと叫びます。
それを単なる意地悪と見るか、ドキドキハラハラ、腹を抱えて笑える演出と見るか、結局は私たちの心一つでしか
ありません。
ただそれを客席から観ている私たち自身は、その中身が見えていますので、大爆笑していることだけは間違いありません。

そんな場面で、演者がド真面目にクールに振る舞うことほど、つまらない話はありません。
寒ッ!というやつです。
罪を償うために生まれてきたとか、これは試練だとか、ビビらないようにしようとか考えたら全てが台無しです。

今となっては、どれが計画してきたイベントなのか分からないわけですが、思いのほか数多くの出来事が自分で決めて
いたことが「あとになって」分かるものです。

楽しさだけでなく、苦しさやツラさもまた、ネタバレしていないからこそ味わえる新鮮なリアクションです。

人生というのは、ラクありゃ苦もあるさです。

つい数ヶ月前までは明るく自由に溢れていた環境が、一転して、トンでもなく不自由この上ない苦境に変わることも
あります。
そして、当然その逆もあるわけです。

そんな時「何故なんだろう?」「何の意味があるんだろう?」「どうすればいいんだろう?」と様々なことが頭に
浮かびます。
それを、山あれば谷あり、正負の法則などと納得して受け入れるのもいいでしょう。
ただ、そこで「これからやって来るだろう山やプラスを待ちながら今を耐えしのぐ」というのでは、明らかに違う話に
なってしまいます。
あくまで、今を踏み締めていくことで初めて見えてくるものであって、今をおざなりにして将来ばかり見ているのでは、
景色が変わることなどないのです。

私たちがまだ天地の大きな一つであった頃、これから飛び込んで行こうとする、今この苦労この時を、胸がキューッと
なるほど幸せに感じていたのです。

それは、ちょうど小学生や中学生、高校生の頃を思い返すと、幸せな時期だったなとジンワリ感じる、あの感覚と同じ
ようなものです。
当時その時には、嫌で嫌でしょうがなかった期末テストや、シンドいだけの部活練習も、そうしたものこそが今となっては
微笑ましい思い出となっています。

渦中に居るときはただシンドかっただけの経験も、そこを離れて見てみると、どれも懐かしく代えがたい思い出と
なります。

“そうした子供の頃の状況と今の状況とは違う”、などと比較をしたところで何も生まれません。
ラクチンだった頃の自分と大変な時期の自分を比べることに何の意味もありませんし、平和に見える他人と自分を比べる
ことにも何の意味もありません。

此処に来る前は、どちらの景色も同じ感覚で見ていたわけですし、此処を去ったあともまた、同じ感覚でそれを見るのです。

私たちが再び天地の大きな一つに戻り溶け合った時には、振り返ってみて、大変であればあるほどにその時の苦労が
味わい深い幸福感となるでしょう。
実際、生きている今でさえ、危機一髪で何かを成し遂げた経験というのは、何度でも振り返り嚙み締めるものです。

そう、いま目の前の状況は、もしかしたら生まれる前からスケジューリングしてきた観光スポットかもしれないのです。
「え?!こんなことがまさか?」と思うかもしれませんが、意外とそんなものです。

「これこそをやりたかった」

そのように考えれば、どんなことでも諦めがつくのではないでしょうか。
それなら仕方がない、しゃーない、と。

楽しむというのは、私たちが考えるような形だけではありません。
必ずしもワクワク楽しくなければいけない、ということではないのです。
物凄いピンチ、物凄い緊張感、物凄い苦しさ、それらは終わって見れば、のちのち何度でも口にしたくなるような
思い出になるものです。
これもまた「楽しさ」の一つの形であるわけです。

つまりは、大変な時は大変なのですから、無理に楽しもうとする必要はないのです。
そこから何かの気づきを見つけ出そうとしたり、ポジティブに考えようとしなくてもいいのです。

そしてまた、ワクワクしないからコレは違うだとか、ワクワク感じるものこそ天職・天命だとか、そういう決めつけも
間違いのもとになりかねないということです。

そうしたところに自我は巧妙に入り込んで来ます。
大義名分に飛びついてしまうと、気づかないまま自分で自分を騙し続けることにもなってしまいます。

呪文を繰り返すことで自己暗示にかかってしまうのは非常に危険です。
特に、そこに真実が含まれる時には、私たちはそれを言い訳にして、無意識のうちに自我の暴走を許してしまいます。

私たちの人生に、どの道が正しい正しくないなどありません。
諦めきった先にこそ、新しい景色が自然に現れます。
それがツアーの醍醐味であるわけです。

私たちは、今まさに80年泊の長~いツアーに参加してる真っ最中です。
そして、自分たちで作ったスケジュールを上手い具合にスッカリ忘れてしまい、いったい何が出てくるのか分からぬまま
サプライズにハラハラしています。

全くもって、してやったりでしょう(笑)

厳しい現実が押し寄せてきた時、すぐにそれを受け入れることは、なかなか出来ないものです。
そこでガックリきてしまうのは当然です。
でも、それすらも織り込み済みのことなのですから、気にせず素直に落ち込んでイイのです。

そして、ひとしきりうなだれた後には、“もしかするとこれは生前に決めてきたイベントかも”と考えてみることで、少しは
心がラクになるのではないかと思います。

そうして、仕方がないと思えた瞬間、目の前の現実をそのまま受け入れる状態へと変化します。
そこからが、イベントにしっかり参加することになるのです。

この世ツアーの旅はまだまだ続きます。

そして最期の最後には、“嗚呼もう終わってしまう...”と、それまで歩んだ旅の喜びを反芻しながや、旅の終わりを惜しむ
ことでしょう。

ですから、無理して今を変えようなどと思わずに、今をそのまま素直に過ごしてみましょう。

変えようとすれば変わらない。
まぁいっかと思った瞬間、変わる。

我執とは、この世とは、そういうものなのです。


(おわり)


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