これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

生きてるだけで丸もうけ

2017-05-29 22:06:40 | 天地の仕組み
引き寄せの法則というものが少し前に流行りました。
一つの方便としてはアリかもしれませんが、どうも好きになれませんでした。

それはそれとしまして、それのベースとなっているものが「思いが創造される」という原則です。

世の中にこれだけ知られてもなお多くの人が上手いことコントロールできないのは、いくつか大きな誤解があるからではないかと思います。

今日はそのことに触れていきたいと思います。

この原則は、噛み砕いて言えば、身のまわりに起きることは無意識下の確信が現実化したもので、現実を見れば私たちの信念を知ることが出来る
というものです。

しかし、頭で分かってもなかなか上手いこと行かない。
大事に抱えこむ信念。
分かっちゃいるけど手放せない。

そうすると「それは深掘りが足りないから」ということになるわけですが、そこまでストイックに突き詰めるガッツもないですし、それ以前に
あまりの障害の多さに正直ヘトヘトになってしまいます。

筋トレやれば筋肉つきますよー、ランニングすれば体を絞れますよーと言われて、そりゃそうだと分かっていながら続けられないのと同じことです。

ただそうであれば、トレーニングを継続するコツがそのまま囚われを手放すヒントになるとも言えます。

トレーニングというものは楽しければ続けるものですし、心の抵抗が無くなれば続けられるようになるものです。
前者についてはこれまでも触れてきたアプローチなので、今日は後者のアプローチで進めていきたいと思います。

では、自分の信念を深掘りしていく時に私たちが心のストレスに感じてしまうものは何なのでしょうか。

自分のネガティヴな信念というのは、直視しようにも溜め息ばかり出てしまうものです。
胸が痛くなり、あまり触れたくないという気持ちになるのが普通ではないかと思います。

そこをさらに深掘りしていくのは傷を広げるようで大変な苦痛が伴いますしハードワークすぎます。
根性のある無しではなく、それが普通の反応です。
それでも挫けずコツコツとやれる人も居ます。
すると、私たちは「そういうのは限られた人たちだ」と考えるようになります。
筋トレやランニングを続けられるのは頑張り屋さんだけだと考えるようになるわけです。

そうやって私たちは挫折してしまいます。

しかしそれというのは、実はスタートのところからすでにトリックが仕掛けられているのでありました。

「いま抱え込んでいるネガティヴな信念は私たち自身が作り出したものでその責任は私たちに帰結する」という思い込みがそれです。

それこそが引っ掛けであるわけです。

直視したくない、深掘りしたくない、これ以上自分の情けないところ惨めなところを見るのは耐えられない…

そのように仕向けられて直視できないようにされているということです。

しかし考えれば分かることですが、ネガティヴな信念は世にある様々な信念や価値観の一つに過ぎず、そもそもは自我から反射的に生じたもの
ですから、その責任は私たち自身にはありません。

ネガティヴな信念は、私たちが生み出したものではないのです。

だからそれを自分の傷のように感じる必要はないということです。

しかも、ここでは便宜上「ネガティヴな」信念という表現をしていますが、実際のところそれ自体はプラスでもマイナスでもありません。
それこそは無色透明、ニュートラルな存在であるわけです。

ですから「ネガティヴ観念」という表現に構えたりせずに、淡々と、あくまで他人事として眺めていくのが正しいやり方ということになります。

さらにもう一つあります。
それは「ネガティヴ観念に囚われたのは自分であり、手放せなかったのも自分の責任だ」という罠です。

自責の念に耐えかねて直視を断念させるという仕掛け。
真面目で誠実な人ほど、これに引っ掛かってしまいます。

それでも私たちに余裕がある状況、たとえば幸せで平穏な心地にある時ならばそうしたものも直視して受け流すこともできますが、囚われに
縛られてしまって心に余裕が無くなっている時は、自分のダメさぶりを直視することなど出来なくなります。

それというのは、自分の存在を自己否定したくないという生存本能によるものですから何もおかしなことではありません。

平和で余裕のある時なんて自分を直視する必要など無いわけでして、苦しんでいる時だからこそ直視したいというのに、それが本能的に叶わなく
なっている。
このため堂々巡りとなってしまい、ますます解決困難となる。

これがトリックに引っ掛かったパターンであるわけです

「◯◯は嫌だ」
「◯◯でなければいけない」
そういったネガティヴな信念は自分が生み出したものだと思い込んでしまうことで、私たちはそれが自分の一部だと信じ込んで手放せなく
なります。

自分の一部だと思い込まされているので、それを白日の下にさらすことは、自分自身が非難されるように感じてしまいます。

自分自身と信念とか不可分のものだという思い込み、すなわち最初のトリックが根っこにあって、さらにその上に様々なトリックが仕掛けられて
いったということです。

繰り返しになりますが、この最初の罠に引っかかったこと自体、私たちには何の落ち度もありません。
社会通念やら躾や教育やら、自我が自動的に反応したものであって、私たち自身には何の責任もないということを強調しておきます。

そもそも私たちというのは一点の曇りもない存在なのです。

思い上がりではなく、それが事実です。
謙虚になれば分かることです。
私たちが考えているところの自分とは何なのか。
私たちが自分のものと思っている自分とは何なのか。

所有欲は無くすことです。
そして自我と、私たち自身とを切り分けて捉えます。

そのように謙虚な心になって、私たちには一点の曇りもないことを知る。
自分に非があると考えてしまうこと自体、囚われであるわけです。

こうして自分の立ち位置をニュートラルに置いて何にも惑わされなくなってから、どんなトリックにがんじがらめになってしまってるかを
一つひとつ紐解いてみるということです。

そうしますと、私たち自身がそうであるように、他の人たちも全く同じであることに気がつきます。
誰一人として、自らネガティヴな観念に飛びついている人など居ないわけです。

自分がそうではないことを知れば、自ずと他の人たちもそうではないことが分かり、怒りや憎しみも霧散していくことでしょう。




さてここで今一度、思いが実現するということに立ち返りますと、その原理をイマイチ受け入れられなくさせている仕掛けがもう一つあります。

それは、思いが実現するまでに時間がかかり過ぎているということです。

今日のブログはココからが本題になります。

もともと世界というのはとてもシンプルなものであるはずです。
しかしそれにしては時間もかかるし、さらに形まで全然変わってしまっている。
蒔いた種をさかのぼるにはあまりにも遠くなりすぎてます。

次の瞬間とは言わないまでも、せめて翌日くらいに現象化したならば、思いや言動との因果関係を誰だってハッキリ自覚できますし、そうなれば
イヤでも自分の信念や囚われをすぐに知り、即座に手放すことができます。
焼け石に触ったら、たとえそれが輝いていようともすぐ手を離すようにです。

そうなれば誰かが誰かを傷つけることもないし、自分で自分を苦しめることもなくなります。

しかし現実は、時間差と現象差により、前も後ろも分からずに五里霧中を走り続けるようになっています。
そのような中でいくら「思いが創造する」と種明かしをされましても、身が入らないのが当然でしょう。

おまけに、天地の仕組みなど壮大すぎるという思いがありますので、この世はそういうものだから考えても仕方ないとますます諦めてしまう。

しかし先ほども言ったように、天地宇宙というのはもっとシンプルに出来ているはずです。

となりますと、これは私たちの理解を超えているということではなく、私たちのアプローチが間違っていると考えたほうが自然です。
手品のトリックというのも、まさにそうしたアプローチの間違いを利用したものに他なりません。

そして、シンプルなことをそのまま受け取るには、頭をシンプルにするだけです。

「思いは創造する」という話を知るまでは、この世は、私たちとは無縁に勝手に生々流転しているのだと信じて疑いませんでした。
疑問すらも浮かばない。
我知れず刻々と変化する日々に一喜一憂する。

それこそが、この世がまどろっこしく出来ている理由ということです。

世の成り立ちが分からないうちは、この世は理不尽なのだとか、修行のためだとか、カルマのためだとか、自分たちを無理やり納得させてきました。
でも、この世がわざわざ苦しみを与えるために作られたはずがないわけです。

この世がまどろっこしく出来ている理由は、逆のパターン、つまり本心がすぐさま現実化する世界を想像すればさらに見えてくるものがあります。

その世界では、先ほど書いた通りの展開になると考えられます。
つまり、私たちはすぐさま現実を見せつけられ自業自得や自作自演を理解し、しがみ付いていた観念を手放すことでしょう。
そうして囚われから解放されて心もラクになり、日々訪れるイベントも明るく受け入れられるようになる。
まさに私たちの求めている世界そのままです。

ただ、そうなるとここで新たな疑問が湧きます。

では、この世とは何なのか?
私たちはいったい何のための生まれてきたのか?


私たちは我執を無くして優等生になるために存在しているのではありませんし、生きやすい人生を創造するために生まれたわけでもありません。
そんな目的なら、そもそも生まれてこなくてもいいからです。

昔はその整合性を取るために「この世は苦しみの世界だ」とか「成長するための苦行だ」とか「我々は罪人だ」とか言って思考をストップ
させてきましたが、それこそ二重三重の履き違えでしかないわけです。

すぐ現象化する世界というものを想像すると、そこは自作自演の感覚100パーセントの世界となっています。
全てが自分の思うがまま。
それ以外のことは絶対に起きない。
そんな毎日です。

でも1人でやる麻雀やトランプが楽しいはずがありません。
自分が当たり牌を振って、自分でそれをロンする。
自分がジョーカーを抜いて、自分が先に上がる。
自作自演とはそういうことです。

全部が丸見え。全部が筒抜け。
思ったことが時間を置かずにすぐに現象化するというのはそういうことであるわけです。

そしてそれというのはまさに、あの世のことに他なりません。
生きやすい日々、平和で平穏でそして退屈な世界、それがあの世です。

ゲームというのは不確定要素が増えるほど面白くなり、参加者が多いほど楽しくなるものです。
映画でもゲームでも、どうなるか先が見えない展開のほうが盛り上がることを私たちはよく知っています。

そのようなわけで、この世というものを作る時に時間が設けられました。

時間というのは流れとして存在しているのではなく、変化の積み重ねとして現れるものです。
つまり、時間とは過程のことであるわけです。

物理法則が設けられることにより、一つ一つは見えるか見えないかのわずかな変化しか積み重ねられないようになりました。
次の瞬間に突如変わるということは、この土俵では出来なくなったということです。

瞬間変幻が出来なくなったことで「過程」が生まれ、さらに自分以外の様々な人や物事がそこに関われるようにもなりました。
時間差の存在により、確定要素やご縁が絡み合えるようになり、開けてビックリ玉手箱という仕組みが出来上がりました。

分からないようにして楽しめるようにした。
それがこの世であるわけです。

私たちは、分からないことで不安になったり苛立ったりしていますが、これはゲームなのです。
どうやったらより楽しめるか考え抜かれたゲームなのです。

ですから、そもそも結果が伴わないと不幸だと思い込んでいることこそ問題であると言えるわけです。

ゲームは、勝つのが目的ではありません。
そこに向かってあれこれと一喜一憂しながら盛り上がる、その過程を楽しむことが目的です。

思いの実現やら引き寄せの法則やら、とにかく私たちは「ハッピーな現実を創り出すにはどうすれば良いか」ということばかりに興味を持って
しまいます。

違うのです。

いわゆるハッピーな現実などというのは、生まれる前に散々ひたってきているわけです。

この世とは、過程の世界です。
過程を味わうために私たちはこの世に存在しているのです。

つまりは、こういうことです。

成功だろが失敗だろうが、そんなことはどうでもいい。
現実化しようがしまいが、そんなことはどうでもいい。
どれがいいとか悪いとかではなくて、私たちはそうなる過程こそ味わっているということです。

ハッピーな現実というものにしても、それら「結果」というのはあくまで釣り餌でしかなく、言ってしまえば方便のようなもの。
実はそこに行くまでの過程こそが、この世の全てであったということです。

私たちは、何かを成し遂げるために生きているわけではないのです。
私たちは、日々の変化を味わうために生きているのです。


ですから、志半ばにして斃れても別に何の無念も無いということですし、一生かけて何も成し得なかったとしても、別に良いも悪いも無いと
いうことです。

結果というのはいわば残骸のようなもので、過程のあとに残ったものでしかないわけです。

つまりどんな人生であろうとも、ただ生きているだけ、ただ存在しているだけで満願成就であるということです。

この世とは過程の世界です。
日々というのはつねに過程の途上です。

ですからこの世の全ての存在はこの世に存在しているだけですでに目的を達し続けているということになります。

この世を去った時に多くの人が一番に思うのは、こんなことならもう少しチャレンジしておけば良かった、ということだと言います。

それは決して「失うことを恐れるな」とか「所詮はロールプレイングだ」とか、そういう精神論を言っているのではなく「結果自体には何の価値
もなく過程こそが全て」という事実を示しているのではないかと思います。

結果を心配してやれなかったけど、そもそも結果なんてどうでもいいものだった。
そこにはこの世の価値は何もなかった、そんなものはハリボテでしかなかった。
「やる」ということに全ての意味があった。


だから、何でもいいからとにかくやっておけば良かった、となるわけです。

この「今」というのがこの世の全てであり、「やる」ということがこの世そのものだったのでした。




山登りでは、目的地である山頂に辿りつくことで達成感を得ることができます。
しかしそれは自分の中で決めていたゴールに着いたことの喜びであって、実は山頂はただの方便でしかなかったことをあとになって知ります。

山頂の景色も綺麗ですが途中途中のハプニングや苦労、景色というものを、あとになってとても楽しく振り返ります。

頂上という目的地に向けて進んでいたとしても、実際はそれを含む一歩一歩が新鮮な喜びであり、それこそが山そのものの存在理由であった
わけです。


そしてこの場合の山とは、もちろんこの世のことを指します。

何かの結果を残すために生まれて来たのではなくこの一歩一歩こそが生まれて来た理由ということは、言い換えれば、頂上が目的地なのでは
なく一歩一歩が常に目的地であるということになります。

つまり
今この一瞬一瞬というのが、この世に生まれて来た目的の全てであったとなるわけです。

時間があるからこそ経過があり、経過があればこそ一瞬一瞬があります。
現実化するまでに時間差があるというのは、要するにその一瞬一瞬を味わえるようにしたということです。

そのおかげで、私たちは今この時も、常に目的地に達し続けているということです。

「思いが創造する」という原理がピンと来なくなっている理由の一つとして、時間差の話をしてきました。

ただ、こうして一つ一つ紐解きますと、もう理想の世界を現実化させようとか、引き寄せようだとか、そんなこと自体がアホらしくなってきた
のではないかと思います。

そしてこれまでも繰り返してきた「今ココに生きる」というセリフのイメージも変わったのではないかと思います。
それは堅苦しい話でもストイックな話でもなく、ただただ幸せハッピーな話であったわけです。

私たちはただ生きているだけで、何度も何度も目的地に到着し続けている。

「今ココ」というのは、今だけに集中するということではなく、ただ生きているだけでオールOKということだったわけです。

過去や未来を気にする必要なんてない。
この世に生まれた目的は、生きているだけで成し遂げられている。
結果や形など何も要りません。

今ココを得ただけで生まれた目的を成し遂げている。
そして次の今ココもまた新たな達成となる。

私たちが生まれてきた理由とは、今を刻むこの一歩のためなのでありました。








ごった煮ワンダーランド

2017-05-11 08:49:24 | 心をラクに
この世というのは本当に様々な人たちに溢れています。

それぞれに経験や知識、境遇が違いますので考え方や価値観も違ってくるのは当たり前でして、そういう意味では、むしろ違う人間が作られる
ようにこの世は出来ているとも言えます。

それなのに私たちは同化を求め、相手を自分寄りに変えようとしたり、あるいは自分を相手寄りに変えようとしたり、さもなくば異質を忌み嫌い
排除しようとしたりします。

確かに、違いというものは様々な軋轢を生む要因になっています。
日常レベルであれば人間関係の摩擦となり、民族・国家となると戦争やテロまで発展することさえあります。

しかし本来そうした軋轢の解決法というのは、違いそのものを無くすことではなく、違いを諦めること、認めることにあります。

そもそも、違いというものがあればこそ、それに触れた私たちの心に波紋が広がり、新しい気づきが生まれます。
これが似たもの同士であれば波紋は起こりません。

実はこれがこの世の成り立ちにもなっています。
あの世ではどこまで行ってもシーンとした水面しかありません。

無音、無風に飽き飽きしてようやくこの世に来たのに、いざ待ち望んだ音や風に触れると、それを忌み嫌い、無音や無風を求めるというのでは
丸っきりコントでしかありません。

私たちが異質なものに触れて苛立ちや衝突を起こす原因は、違いという事実にあるのではなく、単に私たちの受け取り方にあるわけです。

ですから、違いそのものを無くすのではなく、受け取り方を変えてみるというのが理に適っているということになります。
解決へのアプローチは、相手を変えさせようとしたり、自分を相手に合わせようとすることではないわけです。

とはいえ、それを精神論的に、たとえば自我を抑えたり煩悩を昇華させたり、寛容さや慈愛をもって受け入れましょうというのでは、やはり
現実的とは言えません。
あるいは、意識を切り替えて世界平和や人類発展など壮大なことへ突っ走ったところで、現実が追いつかなければ何の意味もないことです。

現実問題として、自分の目の前の今が成らずして世界が成ることなどありません。

世界や人類のこと以前に、一番苦しくまた一番楽しいのは、やはり自分の今であるわけです。

一般的に小欲は卑しいものであって、煩悩とは小欲をなくし大欲を得ることによって昇華できると考えられます。
しかし、あらゆる方便と同じく、そこにこそ大きな落とし穴があります。

世界や人類などといった遠くの景色へ心を向けていれば、道ばたの煩悩に目を止めることは少なくなるでしょう。
しかしだからといって遠くばかり見ているのでは、肝心の「今」を無視することになってしまいます。

それというのは、現実から目を背けてフワフワと夢遊している状態でしかないわけです。

この世や人類が清らかになって、争いの無い調和の取れた世界になることは至福の喜びかもしれません。
ただそれはあくまで結果であって、私たちの今を無視して成立するものではないのです。

天地宇宙が変わったとしても、それは自分自身が変わることとは別ものですし、天地宇宙が変わらなくとも自分自身は変わることができます。

そして、そもそも天地宇宙というのは、私たち自身が変わらずして変わることは有り得ません。
この世の変化を、まわりに求めるのは本末転倒ということです。

この世界がどうなるかではなく、私たち自身がどうなるかがすべて。
だからこそ、この「今」目の前の囚われを直視して、苦しみ悲しむことが絶対に必要であるわけです。

苦しみや悲しみというのはまさしく私たちの鏡であり、それによって私たちは身なりを整えることができるようになります。

入ってくる現実を変えようとするのではなく、その現実の受け取り方を変える。
つまり、鏡の向こうを変えようとするのではなく、鏡のこちらを変える。
すると、結果として現実があとから変わっていくということです。

そもそも結果というものは求めた瞬間、叶わなくなります。

今、今、今の連続がただ成るように成ったのが結果であり、今なくして結果など生じ得ません。

結果を遠望した瞬間、私たちは今から離れてしまいます。
結果とは、求めないところに生じるものです。

実際、結果を不安視しながら物事に当たると、その心は今から離れてしまって、成るものも成らなくなります。
しかし、結果は捨て置いてとにかくこれしかないと信じきりますと、今だけに集中することとなり、結果も成るように成っていきます。

結果を捨て置くというのは、ネガティヴ観念だけでなくポジティブ観念も指します。
不安を抱かないだけでなく、期待もしないということです。
プラスだろうとマイナスだろうと、そこに白黒つけた時点でたちまち今から離れてしまいます。

良いも悪いも判断しない。
ただ、やる。
白黒つけず黙ってやる。


まさしく、来たもの拒まず。
そのままを味わう状態となるわけです。


日常生活において、嫌がらせをされたり陰口を叩かれたり、意見がふつかったり、話が平行線になったり、いくら誠意を尽くしても相手に通じず
嫌な思いをするようなことがあるかもしれません。

そんな時、お互い同じ価値観、同じ感性であったなら、軋轢や摩擦など起こらず誰も心を痛めず済むのにと思ったりするでしょう。

しかしそんな時こそ、人それぞれの「違い」というものを考え直す機会であるわけです。

人は育った環境によってまず感覚や感性が養われ、感覚や感性のもと歳を重ねるにつれ、嗜好、信条、良識、常識が形成されていきます。

そしてそれとは逆の順番、つまり外側から、常識、信条そして感性という順に、人は人に対して共感したり、心を許していきます。

より芯に近い部分はなかなかシンクロしないものだという経験則がありますので、感性や嗜好が違う程度なら気にせず放っとけますが、
信念、信条となると心が波立ち始め、さらに常識や良識の違いになりますと苛立ちや嫌悪すら抱くようになっていきます。

しかしそもそもの育ちが異なりますので、世代の違い、国の違い、はたまた性別の違いにより全く違っていくのが全く自然な話であるわけです。

これらは、自分が複雑な感情を抱く相手を思い浮かべてみるとよく分かるかもしれません。

会社の上司や同僚、取引相手、お店の店員さん、通勤電車で見かける人たち、ご近所さん、趣味やスポーツの知り合い、そして親や家族…

ムカッとなった時に再び原点に戻ってみるということです。

いったい私たちは何に対してムカッとなっているのか。
そして、そもそもこの世とは何のために存在するのか、と。


あの世というのは、初めから同じ感性の者同士しか会えないわけです。
それは面倒の起きない、まさしく私たちの待ち望んだ世界と言えるかもしれません。
しかし同時に大変退屈な、お花畑の世界ということなのです。
刺激を受けたくても何の変化もない。
見渡すかぎり、波一つない真っ平らな海面のような世界です。

そこでは見た目だけでなく中身もみんな同じですから、どこまでも平和であり、平穏であり、平凡であるわけです。

それに対してこの世の人々というのは、見た目は同じであっても、その中身はバラエティに富んでいます。
あの世では決して触れ合うことのできない、アミューズメントに溢れています。

みんな一般人の姿をしていますが、一皮剥けば、まるでファンタジー小説やロールプレイングゲームのように、様々なキャラクターがごった煮
の世界であるということです。

あの世は中身が表に現れてしまう世界ですが、この世は中身が隠されてしまう世界です。
そのためみんな同じ一般人、同じサラリーマン、同じ主婦に映ります。

でもみんな庶民Aは仮の姿。
その実体は、風貌も能力も種属も生物も丸っきり違う、まさに異世界のキャラクターであるわけです。
それは自分にとってもそうですし、相手にとってもそう。
それを生き地獄と見るか、ワンダーランドと見るかということなのです。

あの世では絶対に会話することもできない人たち、接触することもできない人たち、そういう人たちに溢れた世界がこの世です。
とにかく、とてもでないけど会うこともできないような人たちばかりだということです。

それはすぐ隣の人こそが、そうなのです。

あの世に行ったら会いたくても会えない。
違うということ、合わないということはそういうことなのです。

当たり前に思っているこの世界というのは、実は誰もが憧れる稀有な異世界だったわけです。

子供の頃のゲームやマンガを思い出せばすぐに感覚がよみがえることでしょう。
それは、それぞれのキャラクターの違いに苦しむ世界などではなく、それぞれの違いを楽しむ世界でありました。


安心安全のために波立って欲しくないというのは、根本から天地がひっくり返っています。

自分に合わせて欲しいとか、自分をまわりに合わせようとか、そのこと自体が全くのナンセンスということです。

違いがあっていい。
いや、違いがあるからいいわけです。

ごった煮は、色々な味があるから美味しい。
似たような味ばかりだったら何の喜びもない。
違えば違うほど、それぞれの味わいがキュッと引き立ちます。

誰がいけないとか間違ってるというような話は、そもそもの論点がズレていることがよく分かります。

みんな正解であるわけです。
だからこそ、みんながこの世に存在している。

あぁ、あなたはそうなんだね。
あぁ、きみはそうなんだね。

他の人と違うからこそ、存在している。
それは私たち自身もそうですし、私たちのまわりの人たちもそうだということです。

同じであることを求める必要などありません。
波立ちを恐れる必要はないのです。

似た者同士の楽園探しはやめましょう。
せちがらい俗世こそがワンダーランド。

まわりと違うということが、私たちがこの世に存在している意味なのですから。