これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

天・地・人

2015-05-31 11:11:44 | 国を常しえに立てます
近畿というのは、兎にも角にも、盛り沢山な場所です。

人の営みが積み重ねられた街の文化も素晴らしいのですが、大地から醸し出される風土というのも
また格別なものです。
これは実際に肌で触れてみて、全身の毛穴で感じられるものです。
知らない土地でそうしたものがスーッと入ってくると本当にワクワクします。

近畿には、大阪や京都、奈良といった有名どころもありますが、土地としての凄いエネルギーを感じる
場所が数多くあります。
琵琶湖周辺や淡路島もそうですが、何より紀伊半島が群を抜いてます。
行政上は奈良や和歌山あるいは三重というような分け方をされていますが、そうではなく地理的に見て
の紀伊半島です。
奈良の南部、和歌山、三重の一部を含むあたりのエリアになります。
なかでも紀伊の真ん中あたりとなると、もはや破壊力抜群としか言えません。

近畿は文化の面だけでなく、土地的に本当に奥深いところです。
いや、地理的風土が濃厚であればこそ、文化も深まったということなのでしょう。
何故これほど近い距離に、これだけのものが密集しているのか驚くばかりです。

近畿というエリアは、この国の端から端、北方領土から八重山まで結んだ真ん中に位置しています。
この列島を一つの体として見た時の中心です。
人間でいう丹田。腹。肚。
その日本全体をドームのように包む、白く透明な霧状のモヤモヤを感じますが、これがこの国の氣なの
でしょう。
その国魂のエネルギーを強く感じるのが紀伊半島です。
ちなみに、ヘソは富士山ということになります。
地球の大地のエネルギーが天に向けて、そして天の宇宙のエネルギーが地に向けて、繋がっていると
感じます。

大阪に来る前は、漠然と東京が日本の中心だと思っていましたが、それは経済の流れや人の心の向き
がそうだというだけで、国土の氣としてはそうではなかったということでしょう。
身体に喩えるなら、東京は頭ということになるのかもしれません。
あれこれ考える、思考の中心ということです。
そして近畿が肚。
魂の収まるところです。

タツノオトシゴのお腹を想像して頂くと分かりやすいかもしれません。
ウロコがザラザラしてプックリと膨らんでいる、あれです。
紀伊半島は、海岸線から一気に吹き上げるように険しい山々が連なっています。
半島そのものがプックリしてて、ツンツン、トゲトゲしてます。
これは龍体の肚。ウロコ腹です。

それは見た目とか、理屈の話ではありません。
その肚の中に入れば、どなたでも分かる(=感じる)と思います。
そうした感覚が、全身の皮膚から白い霧のように入り込んできます。

最初にネタばらしをしてしまったので説得力が乏しくなりますが、実際は何も考えずにアチコチ歩いて
いたわけでして、その最中はビシバシ全身逆立つ感覚に包まれ続けて、そちらで手一杯でした。
ホウホウのていで逃げ帰りながら、その途中ハタと、龍の腹と感じたのでした。

もともと畏れ多い場所だとビビって避けてきたわけですが、国土の雷同とともに縁あって今年になって
初めて入らせて頂きました。

そういう意味では、熊野三山は身体もリラックスできて平和な場所でしたが、玉置神社周辺や天川村の
洞川近辺になると全くの異次元でした。
言葉で表現するならば、冷たく透明な霧というか、ピリピリと張り詰めるような空気感です。
この世の感覚ではなく、狭間の世界です。
それは荘厳な山の氣とも言えますし、大地の本来の姿が剥き出しになった姿とも言えますし、列島大地
の清浄かつパワフルなエネルギーだとも言えます。
弘法大師があの時代、わざわざ京から遠く離れた高野山の下賜を天皇に請願されたのもそうした理由
にあったのかもしれません。

玉置山、大峰山、高野山、これら三ヶ所はまさに紀伊半島の真ん中にあります。
そして熊野古道の奥駈け道は、その肚のド真ん中を貫く道です。
その道の途中には、本当に恐ろしい蔵王権現が鎮座しておられます。
恐ろしいというのは、畏れ(おそれ)という意味での怖さです。
蔵王権現は国常立様の化身と感じていましたが、地球の化身と聞いて大納得です。
そもそも紀伊半島や熊野一体が「ジ・アース」なのですから。
その中心に真っ青な憤怒の姿が顕現するというのは、当然すぎるほどに当然のことだと思います。
腹の底から突き上げるような超弩級のエネルギーというのが、憤怒の姿で表現されるのも納得です。
紀伊の奥山のビシビシとくる氣に溢れた中に身を置き続けると、そうそう!まさにこれ!と、誰しも
思うことでしょう。

何年か前に初めて紀伊半島の海岸を走った時には、数十億年前の生命誕生前の地球の姿が脳裏に
浮かびました。
太古の地球。創成期の地球のフツフツと煮えたぎる大地のエネルギーがそこにありました。
その時は畏れ多くて、肚のほうは避けながら海岸線だけを走り抜けましたが、今回そこから内の方へ
入ってみますと、パワースポットなどという表現がいかに平和かと思うほどに、シャレのなさを感じる
わけです。
決して興味本位で行ってはいけない場所だと思います。
ピリピリするほど命の緊張を感じました。

その激烈エリアを駆け抜けようと古人が思ったのも、それだけ決死の覚悟があったからです。
この天地のなかに生きることに真剣だったのです。
それは「天地人」という生き方です。
その三位一体を求めて、自らの感性と衝動に忠実だったということだと思います。
そうして、その延長に都が造られました。
飛鳥から藤原京、平城京、平安京と、全てがこの奥駈け道の縦のラインに繋がっています。
国の魂がおさまる肚から、ヘソの緒で繋がっている感じです。

日本の国の魂は、大地の魂、地球の魂と繋がっています。
ここは「天・地」の「地」であるわけです。

そうなると、やはり天皇陛下は、ここにおさまるのが自然ということでしょう。
天地人のバランスからして、間違いなくここで国が定まり、世界が定まると思います。
国民の中心が、国土の中心におさまるのです。
あるがままのバランスにより自ずと中心が決まってくることことを「鎮まる」といいます。

文明開化以降、これまで私たちは頭で生きる時代を過ごしてきましたが、これからは思考や価値
判断に囚われず、心と身体を臍下で一致させ、自分の中心を通して天地自然に心を広げる時代に
なることでしょう。
そうだとすれば、同じようにこの国の中心となる場所もまた、頭から臍下へと移り変わっていくの
かもしれません。

ところで面白いことに、同じ紀伊半島なのに、その内側と外側では山の様相が全く異なります。
海岸側から走っていきますと、それまで見なれた山の景色が続いていたのに、その山を越えると
いきなり豹変します。
肚の内に入ると、空気が一変するだけでなく、山そのものの形まで変わるのです。

この肚があればこそ、国は永久(とこしえ)に立てられるわけです。
古人が、この地に国常立様を感得したのは全く自然なことです。

いま地球の雷同が、この列島の雷同となって現れています。
国常立様は地球神であり、大地の神様であります。
そして、そこへと連なる、土地土地の神様として氏神様がいらっしゃいます。
そして私たち人間は、天と地の中心点です。
囚われやこだわり、思い込みを霧散させて、天地の循環をスムーズにするのが私たちの存在理由
です。
そのためには、謙虚に素直になって、天と地へ感謝のこころを向けるのみです。

聖書には、私たちの身体は土から創られたと書かれていますが、これは霊的には正しいと思います。
私たちがこの世に存在させて頂いている借り物は、大地・地球の分身です。
私たちとは、天の分け御魂であり、地の分け御身なのです。
そこに自らを投影させて私たちは日々を、文字通り、「体験」しています。

私たちの中心に心柱が立つというのは、その柱によって天地と直結するということです。
私たちが自身に柱を立てることと、国が常しえに立てられることと、地球に心柱が通ることは、全て
同じ一つのことです。


天地とは、私たち自身です。
心を広げて重なり合わされば、自ずと手を合わせる気持ちになるのではないかと思います。
そのことが分かれば、何が起きようとも感謝の心は変わらないはずです。

決して辛気くさい話ではなく、浮わついた綺麗ごとでもなく、太古の昔から私たち日本人は自然なことを
自然にやってきました。
天地が雷同しようとも穏やかであろうとも、私たちが為すべきは、変わりなく一つです。


今この瞬間を、心清らかに、明るく、楽しく、無邪気に楽しみましょう。

そして日々の当たり前とお蔭さまに感謝をして、ご先祖様と氏神様に手を合わせましょう。




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みんなで一緒に踊りましょ

2015-05-27 00:07:41 | 関西おそるべし
関西と言いますと、皆さんどんなイメージを浮かべるでしょうか。

京都ですと、はんなりと落ち着いたイメージかもしれません。
大阪なんかは、何となくドぎついイメージでしょうか。
ドぎついなんて言いかたは失礼でしたね。すいません。濃いと言い直します。
(変わらんか(笑))

でも実際のところは、見るのと聞くので大違いです。
大阪に住んで5年になりますが、いかに世間の情報や思い込みに曇らされていたかを実感する
ことばかりです。
やはり、何ごとも自分の肌で感じてみないと分かりません。

たとえば、現地の人はエセ関西弁を使われるとムカムカすると聞いていましたので、ことさら
標準語を使っていたのですが、地元の人たちと交流していますと、逆に「気に入らん」と、無理
やり関西弁に矯正させられました(笑)

あの話は、ヨソから来た人間が元の殻をかぶったままでやろうとしたから、イラっとされたという
ことなのではないかと思います。
外づけファッションのように自分たちの言葉を扱われてしまうと、バカにすんなと思うものです。
それに対して、素っ裸になって心からハシャいでいますと、全く逆に、東京弁に違和感を覚える
ようになって、直さずにはいられなくなるということなのかもしれません。

あるいはまた、大阪と言えばドカドカと土足で入り込んでくるとか、押しが強いとか、何かと我の
強いイメージがあります。
おそらく全国の人たちが、そのようなイメージを持っているのではないでしょうか。

ただこれも、あくまで吉本などのお笑いや大阪のおばちゃんキャラのイメージであって、それで
全員がそうだと決めつけられてしまうのは、ちょっと気の毒に思います。
確かに東京に比べたら、そうした人たちが多いのかもしれませんが、それでも大半は普通の人
たちです。
「普通の人たち」というのも失礼な話ですが(笑)

でも、大阪の人たちはフレンドリーだというイメージについては、これは事実だと思います。
フレンドリーというのは、心の敷居が低いことの現れです。
つまり、壁を作らない。
心が大きいということでもあります。

たとえば東京というのは、今も昔も地方から人が集まる場所です。
一般的に、新参者というのは、まわりに対して適度な間合いで接したり、気をつかったりする
ものです。
東京というのは、一世代前や二世代前からそういう人たちがたくさん移り住んできましたし、
それが今でも続いています。
そうしたものが五月雨式に折り重なってきたため、いつしかそれが東京の空気感となったので
はないかと思うのです。

その証拠として、下町育ちの江戸っ子はズカズカと人の内に入り込んでくるお節介の塊です。
べらんめぇ調なんかはスゴいものがあります。
それは下町というのが、土着の人たちばかり住む町だからです。
生まれながらにして、オープンな環境に囲まれているということです。
その結果、誰にも壁を作らず心を広げて、相手を我がことのように感じているわけです。
人のウチの縁台に好きに座って、プライベートの垣根など無く、隣近所で交流している姿が昔は
当たり前だったのですが、そうしたものが圧倒的少数になってしまったことで昔の江戸の雰囲気
は薄まっていったのかもしれません。

大阪の気風というのは、まさにコレです。
東京の下町とまったく同じ空気感です。
つまり、それが歴史ある町の自然な姿なのでしょう。
皮肉ですが、今の東京の大勢を占めてしまっている空気感の方が、野暮ったい田舎モンという
ことです。
隔絶や断絶というのは無関心の現れでしかなく、それはスマートでも何でもないわけです。
都会には、互いに不可侵条約を結んで遠巻きに接するような、よそよそしさがあります。
他者に関わるまい(関わられるまい)とするのは、自分が守ろうとする部分や隠したい部分が
あるということです。
それは信条かもしれませんし、弱さかもしれませんし、あるいは表に出している姿とは違う自分、
つまり素の自分かもしれません。
そこに触れられることは痛みだったり、苦しみだったり、不安だったりするわけです。
お互いそこは波立たせないようにしようという、その距離感が、淡白さや冷たさとなって現われて
しまいます。

しかし、大阪ではそこが大きく違ってきます。
もしも相手に踏み入れさせまいと頑なになると、もう完全にシラケてしまいます。
それは「貴方には全部は見せられません」「自分は取り繕っているところがありますよ」と言って
いるようなものだからです。
それでも東京ならばそのまま放っておくところですが、大阪では違います。

なんやそれ?
オモロないやっちゃなぁ!
と、優しい愛のムチが容赦なくふってきます(笑)
不可侵領域などおかまいなしにズンズン入ってきます。

自分も裸になってるんだから、お前も裸になれ、と。
裸の付き合いをしようや、と。
そういうことです。

ここで大阪らしい大切なキーワードが「面白い」です。

面白がらせることに幸せを感じるというのは、単なるサービス精神ではなく、自他同一の一体感
というものが根本にあります。
心の壁を作らず、まわりとフルオープンに交流していればこそ「相手を楽しませたい」「人の喜び
は自分の喜び」となるわけです。
肌を通して風が吹き抜ける気持ち良さに慣れていると、あれこれと着飾って素の自分を隠すと
いうことに気持ち悪さを感じるようになります。
それは自分自身に対してもそうですし、それをしている他人に対してもそうです。
断絶をなくして同体感を蘇らせたい。
それが、東京の人たちの誤解を招くような言動の出処であるわけです。

実際、私たちは色々と自分を着飾って日々を生きています。
そうした窮屈なものを見ると、純粋に息苦しくなるというのが大阪の感性なのです。
今こうして真面目に分析していること自体も、堅苦しく野暮ったいわけで「アホう、そんな大層な
もんちゃうわ」と茶化されてしまいます(笑)

窮屈なのは落ち着かない。
堅苦しくて真面目なのはシンドイ。
そうしたことをまとめて、一言「オモロない」というわけです。

もちろん大阪の人たちだって人間ですから囚われもあるでしょうし、自分を繕ったりもしている
でしょう。
それでも、誰かが自分の内側にスッと入ってきた時には、それを拒絶せず瞬時に素っ裸に
なれる感性を子供の頃から磨いているわけです。
胸襟を開くというと少し仰々しいですが、でもそういうことです。
それがお互いの信頼関係を保つことになっています。

オモロいかどうかの基本は、自我を脱ぎ捨てることにあります。
自分が守っているものを捨てるということです。
アホというのは、その究極の形かもしれません。
だから関西では、自分を捨てきるようなアホ芸が受けているのです。
その突き抜けぶりに、時として、一種の敬意すら抱いているのではないかと感じるほどです。

これは東京にいると、なかなか分からない感覚かもしれません。
自我を脱がずガッツリ脇を固めるのが、スマートだと思われているからです。
だから、大阪の人は東京の人を敬遠するのでしょう。
自分自身はTシャツ短パン姿でくつろいでいるのに、その隣で、ビシッとスーツ姿を決められて
いるようなものですから。

私も、自分ではかなり毒のある方だと思っていたのですが、大阪の人たちに比べたらまだまだ
ヒヨっこでした(笑)
おかげさまで、以前よりも自分を捨てられるようになりましたし、脇のガードもユルユルに甘く
なりました。
大阪の皆さんに本当に感謝です。
突っ込まれてナンボ。イジられてナンボというのは全くその通りです。
自分をフルオープンにすることで、その場のみんなもフルオープンになるのです。

イジりについていえば、仕手と受け手の連携プレーによって成立するため片方が守りに入って
しまったらお終いです。
お互いの信頼関係も崩れ去ります。
細かいことを気にしないという部分については、ガサツと紙一重なところもありますが、それは
決して我欲ではないわけです。
仕手は、子どものように無邪気に入ってくるので、ついつい受け手もそれに気を許してノって
しまうということです。
まさに踊るアホウに観るアホウです(笑)
どちらもアホウになって一緒に踊っている、観ている人もみんなで踊っているということです。

少しだけ真面目な話になりますが、こうした大阪の気風というのは、その歴史の古さとともに
関西圏のパワフルな霊的エネルギーに裏打ちされていることを強く感じます。

そのあたりのことは別の機会に触れたいところですが、何にせよ大阪というのは、取り繕おう
とする心を打ち壊す(開放させる)文化が、ナチュラルに根付いています。
そして、自分一人だけの世界ではなく、みんなで一つという感覚を当たり前に共有しています。

頭がいいヤツや運動の出来るヤツよりも、オモロいヤツが子供のころは一番モテるというのは
非常に深いものを感じます。

唐突ではありますが、頭の中に、天照様が岩戸ごもりした時の賑やかな宴会騒ぎの様子が
浮かんできます。
みんな明るく楽しく大笑いをしている姿です。
アメノウズメノミコト様がみんなを笑わせたことが、天照様が岩戸を開くキッカケとなりました。

それは、演技ではなく本当に神様たちが心をフルオープンにして溶け合った瞬間です。
そしてそれを引き出させたアメノウズメ様も、自我を無くした天地一体の境地だったわけです。
それらが、天照様のかたくなになっていた心の壁を開いたのです。

何を言いたいか、もうお分かりかと思います。
天照様とは私たちの真我であり、岩戸というのは私たちの囚われや思い込みであるわけです。
そして、今の私たちはアメノウズメ様になって、まわりに集う仲間たちと心一つにしてハシャぐ
ことができるのです。

大阪というのはなかなかに奥深い土地です。
お笑いというものが、大阪から発信されているのも大いに納得です。
皆さんも心をラクにしたければ、是非とも大阪に来てみてはいかがでしょうか。

脇の固いかたには、少々、手荒いスパルタが待ってるかもしれませんが(笑)



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私たちが天地の中心です

2015-05-23 19:07:00 | 心をラクに
昔のことを振り返ると、様々に思い出が蘇ります。
時間というもののおかげで、嫌な記憶はうまい具合に風化して、何となく全体的には楽しかったような
感じがしてきます。

それでもフトした時に、嫌な思い出が鮮明に浮かび上がってきてツラい気持ちになることがあります。
人それぞれ境遇が異なりますから、ツラい思い出も千差万別です。

そうした嫌な出来事というのは、大きくは2つに分けられると思います。

一つは、誰かに何かをされたというもの。
そしてもう一つは、誰かに何かをしてしまったというものです。

いずれも相手は、親であったり兄弟であったり、妻夫であったり恋人であったり、恩人であったり友人で
あったり、様々です。
しかし、心の傷というのは、結局は自分が自分につけているものであることに変わりはありません。

誰かに傷つけられたケースでは、その時の相手を赦して受け入れること以上に、その時の自分を受け
入れることが大事になります。
ただ、頭で分かったからと言って、すぐにそれが出来るものでもありません。
今それを包み込むにはまだツラく感じるような時は、無理をしないほうがいいと思います。
そのような時は、無理やり過去を直視するよりも、まずは自分の心を解放することが先決でしょう。

これまでも触れてきましたように、少しずつ囚われや思い込みを手離して、楽しくハシャいでラクになる
ということです。
今の自分をそのまま100%自由にしてあげることは、自分をありのままで受け入れることになります。
自分の心が大きくなっていくにつれて、受け入れる幅も広がっていくわけです。

傷ついた自分を優しく受け入れられるようになれば、自ずと、その時の相手に対する見方もニュートラル
(中立)になっていきます。
相手を受け入れることで自分を受け入れられるようになるのではなく、先に自分自身を受け入れることで
相手のことも受け入れられるようになるのです。

さて、このように誰かに傷つけられたというのも大変ツラいことなのですが、一方で、自分が誰かを傷つけて
しまったというのは、それ以上にツラく感じてしまうことかもしれません。

なぜならば、前者の場合は自分さえ相手のことを許せば解決できるわけですが、後者は相手がこちらを
許さないかぎり自分は許されないと思えてしまうからです。
先ほどのような「その時の自分を優しく受け入れることで相手の傷も癒される」と考えるのは、あまりに
身勝手のように感じてしまうでしょう。

そのような時は、このように考えてみるのがいいかもしれません。

誰もがこの世界から去る時には、自分の人生を走馬灯で観させて頂きます。
そこでは自我から解き放されて、思い込みや固定観念なしの真っさらな状態で全てを感じるようになります。
観るとか考えるとかではなく、感じるわけです。
自分の心も、相手の心も。
そして事象そのものが、無色透明なニュートラルであることも感じて分かります。

自分は天地の大いなる心と一つになり、自我が消え去り、相手の心が流れてきます。
すると、たとえば誰かに何かをされてツラく苦しく感じていた出来事は、まるで第三者のように冷静に
眺められているうちに、大抵がそのままに放っておける(=赦せる)ようになります。

一方、自分が何かをして相手をツラく感じさせた出来事は、ニュートラルな心によって、その相手の心や
周囲の状況といったあらゆるものが同時に伝わってきて、鮮明に映るようになります。
自分がやったことを本当の意味で、ありのままに感じるようになります。

自分は天地の心にあるため、言い訳や自己弁護などする我欲も起きずに、それらをそのまま受け入れます。
そして、それを噛み締めて反省をするようになります。
そうして、自分がこれから何をしたいか、何ができるか、考えるのです。

この時、自分がどれだけ沢山の人たちから温かいエネルギーを注がれていたかも感じます。
それを全身全霊に感じることによって、今度は自分がそれをやろうと思うようになります。
それが死後にやることだったり、来世でやろうと誓うものになっていくわけです。

ただ、そのような臨死状態にならずとも、今この瞬間、真っさらになって相手の心を映し観れば、その
悲しみや苦しみは流れ込んできます。
当時そこに居た自分自身よりも、ありありと全体を感じ取れるようになります。
すると、今この時が一番に、過去のその時の出来事をしっかりと味わうことになります。
同様に、たくさんの人たちが自分に注いでくれていた温かい心もありのままに感じ取れるようになるわけ
です。

これはとても大事なことです。

とはいえ、そこで間違えやすいのが、傷つけてしまった申し訳なさを抱え続けてしまうことです。

正直、相手を傷つけた事実がなくなることはありません。
ですから、それを無くしたいと思うこと自体が誤りということです。
その努力は、否定的な意味づけを強めることにしかなりません。
本来それはニュートラルなものでしかありません。
そして、申し訳ないと思ってしまうこともまた、否定的な意味づけを強化していることにしかならないの
です。

その申し訳なさを解消したいと思ってしまうと、相手がそれを今も引きづっているのか、あるいはまったく
気にしていないのかヤキモキしてしまうところです。
しかし実際のところは、そんなのは何の意味も持たないことです。
たとえ相手が気にしていなかったからといって、当時の相手が傷ついたことに変わりようがありませんし、
逆に、相手がそれをキッカケとしてさらにボロボロになっていたとしても、その当時の相手の傷はそれ
以上でも以下でもないわけです。
ですから、相手の状態を気にかけて、それによって自分が救われようとか罰せられようとするアプローチ
では何の解決も生まないということです。

事実は事実でしかなく、増えたり減ったりするものではありません。
対象物それ自体が変わることはありません。
唯一、私たち自身が、大きな器でそれを受け入れるか、小さな器で溢れさせてしまうかによって対象物の
見え方が変わってくるだけです。

そしてその違いを生むのは、過去ではなく、今ここにあります。
今これから何をするかということに尽きるのです。
過去をどうにかしようということではなく、今をどうするかによって、過去も変わってくるわけです。

当時へ心を向けてどんなに後悔したり悶え苦しんだりしても、その事実は変わりようがありません。
むしろ、どうにもならない現実に苦しみ、自責の念を膨らましてしまうだけです。

ですから、焦点を過去に向けず、この今に向けるというのが必要になります。
今に100%心を向けて、そして今のあらゆるものをそのままに受け入れるように、心を開いていくわけ
です。
そうしていくことで、数限りないお陰様から頂いた温かい肌の記憶を思い出して、今度は自分がその感覚
を発現させていくのです。

これはつまり、私たちが死んだ時に来世でやろうと誓うプロセスを、生きながらにして今世のうちにやる
ことになります。

フト、色々な思い出が浮かんできた時には、死の間際の走馬灯を眺めている感覚になってそれを追って
みて下さい。
臨死ですから、自分をしっかり脱いでしまうのが、感覚をより鮮明なものにします。
昨日までの自分や、先ほどまでの自分はもうありません。
死んでしまったのですから、この先それは意味がないわけです。
もう、そこには今の肩書き、今の個性、今の自分はありません。
自分というものはすべて脱ぎおろしました。
ただ、目の前には、過去の出来事が現れているだけです。
フト思い出したそれを、事実のままに、客観的に受け入れます。

その時に、自分が傷つけてしまった人たちの心が流れ込んできます。
まるで自分の気持ちであるかのように、悲しみやツラさが心の内底から湧き出してきます。

その痛みと苦しみを、両手を大きく広げて優しく抱き締めて下さい。

そうして自然に出てきた言葉を外に出してみて下さい。

その時、傷ついていた自分自身の心も、我がことでありながら、我がことでないままに、その悲しみや
ツラさが胸の内に溢れ出ます。

その痛みと苦しみを力いっぱい抱き締めているうちに、ふたたび思いが自然に込み上げてくると思います。

そうしたら、その言葉も素直に口に出してあげて下さい。

それで十二分です。
過去の自分をありのままに抱き締めて受け入れることが全てです。
それ以上、エネルギーをそこに注ぐ必要はありません。
自分を責めてはいけません。

さて、そのようにしっかりと事実を受け入れましたら、今度は一転して、これまで自分が受けた温かい心に
目を向けます。

最期の走馬灯を眺めている感覚になって、過去へ心を開きます。

たくさんの愛情を注いでくれた祖父母、両親、家族、伴侶、友だち、お世話になった方たちの心に、自分を
重ねていきます。
そうして、いつも自分に注がれていた優しい風を全身で感じてみます。

そのおかげさまに触れた時に湧きあがる感覚へ、フルオープンの素っ裸になって自らを投じます。

全身が感謝に包まれ、それがすべての毛穴から一斉に流れ込んできます。

そうするうちに皮膚は消えてなくなり、自分は感謝の心そのものになります。

感謝が自分であり、自分は感謝となります。



これからは、注がれた愛をお返しする番です。

それは天地に満ち満ちているものを、自分の中心を通して、また天地へと発露させることです。
天地に満ちるは、感謝の心であり、優しさであり、温かさであります。
それを、とどめることなく循環させるのです。

私たちはこの世界のポンプです。
私たちは天地宇宙の、まさに心臓です。
天地の循環の中心は、私たち自身なのです。

「一人一人が創造主」というのはそういうことです。
人間は神の一部であるとは、そういうことです。
そして、これは現実世界に実体を持っている私たちだけができることなのです。

人生で何をやりたいか、何を現実化したいか、人にはそれぞれあるでしょう。
あるいは、何かをやりたいけども、それが何かが分からないという人もあるでしょう。

ただ、何かをやるという、実際の見た目の形はあまり重要ではありません。
天地宇宙に満ち満ちている、この温かな安らぎを、自分を通してまた外へと溢れさせることが全てです。
見た目の形は、そうしたものの結果でしかありません。

何だか分からないけど何かしなくてはという焦燥感は、天地自然の循環に参画したいという衝動です。

そうした時に、見た目の形を探そうとすると、ますます混乱が生じ、飢餓感が増してしまいます。

何かをしたいけども具体的に何をすればいいか分からないならば、天地宇宙や人々から頂いた優しさ、
注がれた愛情、安らぎを、心の内から外へ溢れさせてみてはどうでしょうか。
具体的な行動や言葉を考える必要はありません。
ただ、その感覚を思い出して、皮膚の外へ溢れさせるだけです。

私たちは、天地に満ち満ちる温もりのなかに、優しく包まれています。
そして私たちが、自分の中心から同じものを溢れ出させることで、天地もさらに輝き満ちるようになります。
その天地の輝きは、私たちを、ますます溢れる優しさで包みこんでいきます。
その喜びに、私たちの内からさらなる輝きが溢れ出していきます。

それは天地の呼吸そのものです。

私たちは、天地の循環の中心なのです。

温かく優しい心を、自分の外へと溢れ出してみて下さい。
天地が私たちへ注いでいる温もりの、その感覚を真似してみて下さい。
両親や家族、妻夫、恩人、友人、恋人、そうした人たちが自分へ注いでくれた温かさを、今度は目の前の
人たちへ向けてみて下さい。

自分が過去に誰かを傷つけた事実や、傷つけられた事実というものが無くなることはありません。
ただ、そうした天地の呼吸が、自分の過去を優しく包み込んでいくうちに、そのツラさは少しずつ癒されて
いくことでしょう。

それにより、過去の相手だけではなく、過去の自分自身が天地へと溶け込んでいくことになります。
そうして、その時の相手、その時の自分に、心からの感謝を思うようになるでしょう。

今の私たちが、過去の自分を温かく包み込むことで、過去の自分から優しい温もりが溢れ出します。
私たちが、過去の自分を救うのではありません。
私たちが、過去の自分によって、救われるのです。
ツラく傷ついた過去の自分自身によって、フワッと優しく抱き締められるのです。

私たちは、つねに天地宇宙の中心にあります。

本当の私たちというのは、時間や空間の壁もなく、他人や自分の違いもなく、内と外の区別もなく、ありと
あらゆる方向から満ち溢れる優しい温もりに包まれているのです。




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この世は無限の多面体

2015-05-15 12:12:58 | 国を常しえに立てます
子供の頃というのは、自分のすぐ近くしか見えていませんでした。

心の届く範囲は家族や友達までがいいところ。
学校のクラスにしましても目に映っていたのは半分くらいですし、隣近所もせいぜい100mほどだったのではないでしょうか。

あとは、よく行く店や駅前といったピンポイントの景色が飛び飛びに存在している状態だったと思います。
まさに自分の心の届く先が、私たちにとっては世界の果てだったと言えます。

特に子供の頃は、頭から入る情報よりも身体を通して得る情報が主ですから、行動範囲イコール認識範囲となります。

そのうち成長するとともに知識や経験が増えていきますと、認識範囲というものは広がっていきます。
そして酸いも甘いも味わっていくうちに、他人の心情も推し量れるようになっていくわけです。
子供の頃はその部分がどうしても弱いのは止むを得えないということです。

自分の体験が深まることで心が広がり、他人に思いを向けることで、さらに世界は広がります。

ただ、それは紙一重でもあるわけです。
いわば諸刃の剣のようなものと言えます。

子供の頃の行動範囲は狭かったとはいえ、その景色はとても鮮やかなものでした。
道端の草に虫を見つければ飽きることなく遊べました。
一歩進むごとにそこには新しい何かがありました。
透き通った心と好奇心があいまって、世界はとても広く、そして輝いていました。

子供の頃の世界は、空間としては狭かったかもしれませんが、平米あたりは非常に濃密だったと言うことができます。

それが知識や経験によって世界を見るようになりますと、認識範囲は広がる一方で、その色彩は薄まっていくことになりました。

それは、体を使った体験知識から、頭を使った情報知識への変化が原因だったというよりも、そうした情報が唯一絶対のものだと思い込んで
しまうことに原因があったと言えます。

ものごとの一面性しか見ないのは、いわば平面観察なわけです。
情報知識というのはどうしても一面的なものになりがちです。
しかしこの世の物事は、多面的で立体的なものです。
その厚みというのが、彩りの鮮やかさとなって現れてくるわけです。

身体を通した知識や経験は、その厚みをそのままキャッチするため、彩りも豊かになります。

ただ実際の行動範囲にも限界があるため、身体を通すことだけに固執すると、世界も限定的になってしまう側面もあります。

もちろん、様行動範囲の中でも天地宇宙の全てを感じて一生を過ごすこともできます。
ほんの一昔前までは、一生涯その町から出なかった人たちも数多くいました。
その人たちの人生が厚みで劣っていたということではないわけです。

一方、他人の情報によってフィールド(観察対象、認識範囲)を広げるというのも、人生の厚みに繋がる手段となります。
どちらも人生の厚みに変わりはありません。

いまの私たちは、生まれながらにして後者の環境に置かれました。
ですから、行動範囲が狭くとも、広い世界を縦横無尽に認識できるという恩恵を預かっています。

ただ、借り物の情報には、借り物の価値観や固定観念がついているものです。
これがクセものです。
本当ならば厚く味わえるはずの世界が、浅くしか味わえなくなってしまっています。
それに慣らされてしまつと、身近なものですらも浅くしか味わえなくなってしまいます。

他人の情報というのは、対象物の一面性しか現していません。
身体から入るものが様々な情報の折り重なった立体的なものであるのに対して、頭から入る情報は
一方向から見た平面的なものでしかないわけです。
ですから、世界を広く厚く味わうためには、観念に染まった濁りを濾過するとともに、その平面的な姿を立体にすることが必要になってきます。

このように書くと何やら大変な作業に聞こえますが、実はまったく簡単なものです。

思い込みや囚われを捨てて、ただそのままを全身に通せば、フィルターで濾過されたように清らかな風が吹き抜けて、中心から真実が滲み出て
きます。
そして、一方向だけでなく、様々な角度から光を当てることで物事は立体的になります。
つまり、情報を鵜呑みにせず、また自らも思い込みを無くし、中心から再び照らし観るということです。

喩えるならば、私たちをチェス盤に置かれた一つのコマとしますと、他人や自分のまわりで起きる事象はまわりのコマということになります。

子どものころはすぐ隣のコマしか見えませんでしたが、大人になると他のコマを遠望できるようになります。

直接そこへ近づくこともあれば、写真や言葉で人づてにその容貌を伝え聞くこともあります。
そうした時に、大部分の情報が抜け落ちてしまったり、思い込みで捻じ曲がったり、他人の価値観が混ざり込んでしまったりするわけです。

しかし今一度、この世界がチェス盤であることを思い出しますと、実際はどのコマもそのチェス盤を介して足元で繋がっていることに
気がつきます。
これまではチェス盤の上から他のコマを観ようとしていましたが、それを腹下から感じようとすれば、足元から直通で繋がってありのままの
姿が自分の中心から湧き出てきます。

自分自身に100%同化して、囚われを無くし、クリアになって心を広げれば、ジンワリと映りあがってくるのです。

しかし他人の情報をそのまま鵜呑みにしてしまいますと、あたかも自分の身体を通したような錯覚に陥って、その思い込みや固定観念の色が
ついた情報が、真実として私たちに刷り込まれてしまいます。

大人になるにつれて「こういうものだ」という観念が、何かにつけて自動的な価値判断を下すようになりました。

同じものを観るにしても、ガチガチに囚われている人と、多面的に見えている人では、心に映る姿
は全く違うものになります。
見えているものが違うのですから、お互い会話は成立しなくなります。

ものごとは本来、中立で無色透明です。
どの角度で見るかによって、無限パターンの姿を見せます。

ありのままに見るというのは、その多面性を自由自在に感じとれる状態です。

決めつけたり、拒絶したりしないということです。
世界観が狭いというのは、ものごとの一面しか見えてない状態です。
それを二面、三面と切り口を増やしていくことで、決めつけや思い込みを薄めていくことになります。
多面的に見るほどに、世界はより鮮やかに広がっていきます。

これからの時代、これは本当に大切なことになってきます。
なぜならば、この世界の柱、この国の柱は、私たち一人一人の柱にかかっているからです。

話を戻しますと、一つのことを多様に映し出すというのは、例えばこういうことです。

総理大臣が何かのコメントをしたり、決断をしたとします。
そこで、世界のことや国のことなんて知ったこっちゃないというように自分のまわりしか見えてない人は、それをどのように感じるかという
ことです。

物価が上がるとか、物騒な世の中になったら嫌だなとか、自分の日常生活範囲のアプローチや感情でしか世界は映らないかもしれません。
これが、事象の一面しか見ていない状態であるわけです。

あるいは、隣国までしか見えない人ならばどうでしょう。
アメリカのことはよく分からないけど、韓国や中国が気分を悪くするから余計なことしないで欲しいと、ことなかれ発想になるかもしれません。
これもまた、一面でしかないわけです。

そして、そもそもの元ネタの情報自体が、誰かの片寄った価値観に染まったものだったとしたら、根本から話が変わってきてしまうわけです。

新聞やテレビ、教科書にしっかりと印刷されていたり、大学教授や評論家のお墨付きがあると、そのままスーッと、真実であるかのような
暗示をかけられてしまいます。
しかし結局はそうしたどれもが、たった一つの方向から見ただけの平面観察でしかないのです。

この世に正しいものは一つしかないと決めつけてしまうと、話がややこしくなってしまいます。

確かに、事象は一つです。
しかしそれは無限の多面体なのです。
ですから、見え方は何通りもあるのです。

それを「真実が一つならば、見え方もただ一つだ」と思い込んでしまうと、大本の真実までが歪められてしまいます。

相手がどのような見方をしようとも、こちらが相手に合わせる必要もないですし、相手をこちらに
合わさせる必要もありません。
一つに決めつけようとするから、無理が生じて衝突が起こります。
世界の紛争の原因はすべてこれです。

価値観の相違なんていうのは、あって当たり前。
多面性(多様性)を認め、どれもアリとして受け入れることが、天地自然の姿です。

過去の歴史やご先祖様に対しても同じことです。
当時の世界情勢や社会通念、国の状況も振り返らず、教科書に書かれた言葉の羅列や学者の思い込みを鵜呑みにするのでは、どれだけ真面目に
勉強したところで、ものごとの一面しか見えていないことになります。
むしろ一次元思考が厚塗りされて、より強化されることになっていきます。

その時代の生活、その時代の世界を、自分の肌に感じようと毛孔を開けば、チェス盤を通して幾万もの感覚がスーッと流れ込んできます。

そうでなくとも私たちの祖父母が、生きるために必死だったことくらい分かるわけですし、どのようなケチをつけたところで、その純粋な
想いには心からの感謝の気持ちが湧いてくるのが、人として自然なことだと思います。

感謝の心に、理屈など不要のことです。
外野がケチをつけたところで変わるものではありません。

チェス盤だ何だと言いましたが、結局は、ただ自分の中心から湧き出てくる心に素直になるということに尽きるのです。

誰からもケチつけられたくないと「民衆はみんな騙されていたのだ、被害者だ、可哀想に」と言うのは思考の放棄でしかありません。
それは占領国のプロパガンダを鵜呑みにした状態です。
百歩譲って、仮に軍に騙されていたとしても、そのことと、必死に生きて家族を守ろうとしたことはまったく次元の違う話です。
それがどれほど透き通った心だったか、必死の思いだったか、誰にだって分かるはずです。

命がけで家の留守を守ろうとした祖母たちに心からの感謝ですし、命がけで国や家族を守ろうとした祖父たちに心から感謝です。
戦争だ何だというのは、それはそれ、これはこれでしょう。
それが多面的に物事を見るということです。

ご先祖に感謝の心を捧げることが、軍国賛美になるなんてことは有り得ません。

たった一つの価値判断にまとめてしまえば自分としてはラクかもしれません。
しかし、色々なものを受け入れる心がなければ、この世は単色モノトーンの薄暗い世界になってしまいます。

自分だけはイイ子で居たい、自分の安全のためならば祖父母たちのことは見て見ぬふりでいいというのは、あまりにも薄情すぎる話です。
思想やイデオロギーが何であれ、むしろ周囲からのそしりを受けてでも、祖父母の肩を持とうとするのが、人というものではないでしょうか。
この国に住む人は、そのような心根の優しさを持っていると、私は強く信じています。

国や先祖、隣人など、自分以外の存在を非難したり嫌ったりする人は、実は自分自身を許容できていない人ではないかと思います。

自分に関して嫌いに思っている部分を、他の誰よりも強烈に嫌って許せないわけです。
ただそれでは生きるに苦しすぎるので、自分の嫌な部分にはフタをして、それ以外の部分を過大評価することでバランスを保つようになります。
結局それは自己尊大となり、他人の他愛もない一言を侮辱と感じて、過剰反応を示すことになってしまいます。

それは個人にかぎらず、民族や国という集合体にもあてはまるものです。
他国を許容できないとするならば、それは自国を許容できていないということになります。
つまりは、自国の嫌な部分を受け入れられていないということになってしまうわけです。

誰だって自分の国を嫌いにはなりたくないですから、好きになれる要素を見つけてそれを膨らまし誤魔化すようになります。
そして他国を非難することで、相対的に自国の評価をあげて、自分の中心を安定させるようなことをしてしまいます。

そうなると、その対象国が反発した時には、自分自身の中心を揺るがされることになるので、ビックリするほどの過剰反応を示すことになって
しまいます。

実はこの構図は、そのまま私たちの国の自虐思考にも当てはまるものです。
全く正反対に見える「自尊」と「自虐」ですが、根っこは同じところに繋がっていきます。

自分たちの国のことを嫌い、けなしている人たちは、やはり自分自身のことを許容しきれていない
人たちです。
今の自分を安心できていない人たちです。
そして、自分自身の闇に光をあてるのではなく、そのはけ口として自国をサンドバッグ代わりにするのです。

ありとあらゆる固定観念をぶつけ続けているうちに、その国のイメージは酷いものへ塗り替わっていきます。
それは本来の姿とは似ても似つかぬものです。
でも、当人の目にはそれが実際の姿として映ってしまっています。
過剰なほどに一面しか見ようとしなかった結果がそれであるわけです。

自尊であろうと自虐であろうと、根っこは自分自身を受け入れられないところにあります。
自分自身を受け入れられない人は、他人を受け入れられません。


とりわけ固定概念や価値基準のように、自分の外にあるものに中心を置いてしまうと、ますます拍車がかかってしまいます。
なぜならば、自分のありのままの姿というのは、誰かの決めた固定基準とはズレるものだからです。

そんなズレなど気にせず放っておければいいのですが、大概はストレスに感じるものです。
そしてそのズレを許せなくなります。
その時もしも中心をキチンと自分に置いているならば、そうした外の価値基準の方がおかしいとなるのですが、中心を外に置いてしまって
いると、ズレた方(自分、他人)がおかしいとなってしまいます。

真面目な人やインテリな人、カッコつけな人ほどそうなりやすいと言えます。

固定概念や価値基準というのは、仮空のものです。
文字通り、仮りそめで空虚なものです。

それはそれで一つの目安として意味があるにすぎないもので、その了解のもとで利用するものです。
真面目で素直な人ほど、一度間違ってしまうと延々と迷宮の中を疾走してしまいます。


ここで視点をかえて、別の側面から今の世界情勢を見てみたいと思います。

かつて一大強国だったアメリカは以前のような元気はなくなってしまっています。
マッチポンプで戦争特需を作り出す余力すらなくなりつつあります。
ましてや、国中に厭戦ムードが蔓延している状況ですからもはや八方塞りです。
やるだけ自らの首を絞めることになります。

一方では中国が一気に軍事力をあげ、国際的なパワーバランスは過去とまったく変わってきています。

しかし、自国の衰弱をアメリカが公に認めるはずがありません。
日本も分かっていてもそれを口には出せません。
だから表現を変えたコメントしか出しません。

いったいどのようなことが起こりうるか、私たちが真っさらな心で冷静に、広く深くイメージすることが大切になります。
決して、途中で思考放棄してはいけません。
固定観念や思い込みによって、適当なところで終わりにしてしまっては生けないわけです。

浅い切り口に自らをフォーカスさせてしまうと、戦争の片棒をかついで巻き込まれるという程度の景色しか映らなくなってしまいます。

昔のようにアメリカが睨みを利かせられていた時代は、私たちも呑気に平和に暮らせていました。
ただそれはパワーバランスが保たれていたからです。
あくまで力の均衡が、安定に繋がっていただけです。

そのバランスが崩れたら、あっという間に平和は去ります。
アメリカが弱まったのなら、他の形でそれを補わないとバランスは取れません。
もちろん、安倍さんが色々と動いたのには、これ以外にも理由があります。
ただ、このパワーバランス一つとっても、子どもでも十分わかる理屈のはずです。
戦争をしたい首相なんて居ません。

まさか、昨日までが平和だったから、明日も平和が約束されてると信じる人はいないでしょう。
東日本大震災を見て、まだそんな幻想を抱ける人がいるとしたらよっぽどのことです。

もし攻められる危機を承知の上で、理想を語る快感に酔いしれて叫んでいるというならば、その人は、国や子孫のことよりも、自己満足の
ほうを優先させていることになります。
だとすれば、日本を守ろうと身を粉にしている人たちを罵倒するのも理解できます。

非難すべきは政治家ではなく、一面しか見ずに騒ぎ立てようとする浮わついた心の方です。

正義や善悪なんてものは、風向きが変わればすぐさま一変します。
そのようなものに乗っかって、安全な場所から気持ちよく叫んでいる人たちというのは、風向きが
変わっても同じことをするものです。
戦前や戦中に主戦を叫んでいた人たちが、今では不戦を叫んでいます。
正義や正論によって不戦を訴えているのであれば、その人は将来、主戦を最も叫ぶ人になる恐れがあるわけです。

もちろん、戦争は避けるべきです。
そのために今の総理大臣は命懸けで頑張っています。
このまま何もせずにいれば、間違いなく戦争の危機に直面します。
喧嘩できないように自分の手を縛ったところで、相手が殴りかかってくることは止められません。
相手はそれをよく見ています。

今こそ多面性が重要になります。
相手のことを冷静に観察して、素のままに相手の動向を推測するだけです。
そこには相手をけなす意図など何もありません。
それはそれ、これはこれだからです。
悪意をもって想定するのではありません。

そのようなニュートラルな見方ができず、何かにつけて価値判断をセットにして見る癖が染み付いていると、物事を切り分けて見ることが
できなくなってしまいます。
すると、他国をけなしたくないがために、善意をもった想定をしようとする人が出てきます。

つまり「戦争を仕掛けてくる可能性があると考えてしまうと相手を悪者と決めつけることになるから、それは良くない。だから相手は戦争
なんて仕掛けてこない」という論理展開です。

論理が破綻していることなど、この際重要ではないわけです。
あくまで、相手を悪者と決めつけないことが最重要になってしまっているということです。
そもそも悪者ということと、戦争の想定とは、全くの別物であるのに、それが一つになってしまうのです。

そういう人たちにとっては、私のような想定は、相手をけなすものだと映るのかもしれません。
しかし、全ての物事は、本来中立なものですから、けなすものでも褒めるものでもありません。
単なる、一つの事実があるだけです。

意味付けは、自分たちが勝手にしてるものにすぎません。
騒ぎ立てる人たちは「戦争=悪者」という条件反射ゆえ、簡単な想定を考えるだけでも論理破綻してしまいます。

確かに、戦争は悪いことです。
そして、人間には本当に悪い人など居ません。
でも戦争は起きるのです。

価値観は、無限に存在します。
どれがいい悪いというものではありません。
ただ、自分の考え方がすべてに当てはまると思うのは奢りであり怠慢でしかありません。
価値判断などというのは、個人の思い込みでしかないのです。
そういった短絡的なレッテル貼りに縛られてしまうと、客観的に景色を見ることができなくなってしまいます。

一面性が先鋭化されてしまうと、認識範囲が狭くなり、決めつけや思い込みに曇って、ありのままが見えなくなります。

こちらが素っ裸であれば相手は何もしてこないはずだというのは、単なる妄想、願望です。
過去は何一つ未来への保証になりません。
未来は、常にあらゆる可能性が広がっています。
今までのアタリマエは、お蔭さまの積み重ねで成り立っていただけで、明日の保証にはなりません。

第9条があったから平和だったのではなく、平和だった期間に第9条というものがあっただけです。
こちらが良い人だから、戦争がなかったのではありません。
相手に力がなかったら、やってこなかっただけです。
そんなこと、昨今の出来事を見れば子供にも分かることです。

新たなバランス、新たな均衡に向けて物事が動くのは、自然の摂理です。
過去と比較することには、何の意味もありません。

私たちの国の中にも血気盛んな人間は居ます。
それは右寄りでも左寄りでも同じことです。
そこをクローズアップして全否定するというのは、あまりにも短絡的すぎます。
全体を真っさらな心で見られるようにならなくてはいけません。

非戦を叫ぶ人たちは、戦争を美化するような好戦的な人に対してだけ騒ぐべきです。
国を守ろうとする人にまで口撃するのはおかしなことです。
誰彼かまわず口撃してまわる非戦論者が、将来、最も危険な主戦論者にならないように祈ります。

私たち国民は、今こそ、自分の中に心柱を立てなくてはいけません。
社会通念や善悪、固定観念に中心を置いてはいけないのです。

自分一人が気にかけたところで国がどうなるものでもないと考えるのは間違いです。

何十万票のうちのわずか一票という、カタチに囚われてはいけません。
それはチェス盤の上部の世界でしかありません。
下ではすべてが繋がっています。

自分自身が変わることは、途轍もなく大きい変化となります。
それは単に、百匹目のサルのような話とは違います。

一人の中心に柱が立った瞬間、ビシッと世界は変わります。

我々はCTスキャンで世界を見る観察者です。
意識が変われば、全てが本当に変わります。
最初からダメだと決め付けずに、意識を変えるという実際のアクションが、現実に影響します。

どのようなこと、どのような人でも、無限通りの多面性を有しています。
相手がどの面を出しているかではなく、私たちがどの面を見るかです。
一つの面に固執せず、心やわらかく数多くの面を見ることで、この世界は驚くほど広がります。

カットの数を増やせば増やすほど、自分の囚われは薄まっていきます。

そして宝石がカット面を増やすほどにその輝きを増していくように、この世もまた、私たちが多面性を許容することによってキラキラと輝きを
増していくのです。



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天地の心はすぐそこに

2015-05-11 07:40:47 | ひとやすみ
先日、ゴールデンウィークを利用して職場のリニューアルがありました。
場所はそのままなのですが、回線工事にあわせて古くなった机や収納棚を一新することになりました。
たまたま私の席は一番奥なので、そこからフロア全体を見渡すことができます。
手狭なところに80人がひしめきあっているので、なかなかに濃い景色です(笑)

連休明けに朝一で出社すると、誰もいないフロアにはのっぺりした机とそれを囲むように段ボールが
山高く詰まれていました。
机の搬入は業者の方たちがやって下さったので、あとは自分たちで中身を収納するだけです。

静かなうちにサッと終わらしてつらつらメールをチェックしていましたが、30分ほどすると空気が違う
のを感じて、ふと顔をあげてみると・・・
先ほどまでとは一変して、まるで野戦場のような光景が広がっていました。
80もの人たちが一斉に段ボールを開けて、言葉を発することなく黙々と作業に集中。
ドタバタとみんな凄い気合いなのですが、全体としては声一つ立たずに静かなのです。
まるで禅寺の作務のようです。
チャイムが鳴ってからも誰一人まわりに注意を向けることなく、自分のことだけに没頭していたため、
定例ミーティングなどの日常業務が完全に吹っ飛ばされてしまいました(笑)

実際は、段ボールの一つでも出せば仕事は始められたはずですが、一気に片づけようという熱気が
フロア全体に溢れていました。
仕事を早くスタートさせるために気合いが入っていたというわけではなく、違うスイッチが入った感じ
だったわけです。
一心不乱。何かに取りつかれたかのような目でした。

その時、ふと頭の中に復興の映像が浮かびました。

空襲で焼け野原になったあとに一斉にバラック小屋が建つ様子や、自然災害で被災した土地に家が
立つ様子です。

昨日まで当たり前に過ごしていた景色が、一瞬にして何もないサラ地になった時、人間は理屈抜きに
元に戻そうというエネルギーが湧いてくるのでしょう。
それは身体に染みついた肌感覚というものが、心とリンクしているからに他なりません。

仕事で広島に出張することがよくありますが、いつも思うのが、戦争で荒野になってしまった場所が、
よくぞ西日本随一の大都市に復興したということです。
もちろん生まれた時から慣れ親しんだ場所ですから、そこで再建する人たちは多いでしょうが、あれ
ほど酷い光景を目の当たりにしたならば、かなりの人数が近くの町へ集団移住して、第二の広島の
ような発展の仕方をしてたとしても不思議はないところです。
それなのに、何もなくなってしまった場所が、他の町を上まわるような大都市になったのですから本当
に驚きです。

そのような状況に置かれた時、人は理屈を越えて全く違う本能が湧き出てくるということでしょう。

愕然とすると同時に、凄まじいエネルギーが溢れ出るわけです。
悲しみという自我の中に埋没してしまうのではなく、強靭なバネのように、グッと落ち込んだ瞬間、
バウンドの反動力で物凄いエネルギーが噴き出すのです。
それは、自我という小さな枠を吹っ飛ばして、生き物としての生命力が輝き溢れた瞬間とも言えます。
どこかに移り住んで立て直そうなどという小ざかしい理屈は吹き飛んでいるのです。
根源から溢れ出る生命エネルギーの爆発に、我を忘れて、同化しているわけです。
それが一人、二人でなく、町単位で起きているのですから、そのエネルギーは半端なものではない
でしょう。
戦災や被災の悲しみに満ちた土地の氣も、その爆発的なエネルギーが一新して、活気に溢れたまま
その後の大いなる発展に繋がったのだと思います。

ですから、今さらではありますが、東日本震災の後の復興計画は残念でなりません。
部外者が理屈であれこれ時間をかけて先延ばしになっているうちに、このエネルギーが消えてしまい
ました。
海の近くが危ないというならば、高台でもどこでも新しい場所を早くに決めれば良かったのです。
費用がどうだとか、安全性がどうだとか、細かいところまで詰めていたらキリがありません。
国民の生活が最優先で、お金はあとから考えるものです。
必要なものは、かならず回ります。
出したものは景気として返ってきます。
それよりなにより、時間こそが勝負です。
官僚や企業ならば責任を考えてキッチリ詰めようとするのは仕方ありませんが、そうした理屈を越えた
決断を下すのが政治です。
それこそが、政治家の存在意義です。
理屈のみでやるならば、この世は民間人だけで事足ります。
いちいち点数を気にしていたら、政治などやってられません。
世の中には、陰と陽があるのです。
純白を探そうとするのは、夢想家のすることです。
政治家は、毒を飲み込むのが仕事です。
批判されるのが仕事の一部なのです。

結局、1年2年と待たされた人たちは、熱が冷めて新しい環境に順応してしまいました。
当然のことです。
先祖代々の土地、長く住んでいた場所、そういうものをその人の身になって政治家たちが考えてくれて
いれば、もっと違うことが頭に浮かんだかもしれません。
遠く離れた机の上で100点の模範解答を考えているうちに、風は去ってしまいました。

残念ですが、人間の可能性というもの、生命の力強さというものを信じ切れなかったのでしょう。
というよりも、そこへ目を向けることすらなかったのかもしれません。

とはいえ、他人のマイナス部分だけをあげつらっていても何も生まれません。
昔の政治家は、国民のために正しい道だと信じていれば、何を言われようと泥をかぶって己の信念を
貫き通しました。
これは公人としてまったく正しい姿です。
しかし今の世は、ほんの少しのことでマスコミが騒ぎたて、そして何よりそのことで私たち国民が大騒ぎ
して事を荒立てて、政治家を潰してしまっています。
そんなものは勧善懲悪でもなんでもありません。
単なる子供のイジメです。
その結果が、東日本震災での政治対応となりました。
決して左巻きの政党だけの責任ではありません。

いつでも自分の目で、自分の心で、真っさらな景色を映し観るのが大切なことです。
他人の声に惑わされてはいけません。
それは、地球を助けようとか、自然を守ろうとか叫びならがら何かをやることよりも、遥かにそれらを
実践、実行、実現していることになります。

私たちは、囚われや我執を放せば、それだけでもの凄いエネルギーに溢れるのです。

自分の中心に柱を立てること、わずかな汚れにいちいち騒がず有りのままに大局を見ること、そして
そこに映るものを我が身にただそのまま流すだけ、それがあらゆることの第一歩になります。
それこそが、地球を輝かせようとか、子供たちを守ろうということへ繋がっていくのです。


ゴールデンウィーク明けの初日、大勢の人たちが誰一人ムダ口をたたくことなく、無心で段ボールを
整理していました。
1時間もすると段ボールの山はすっかり片付き、いつもの景色が戻っていました。
みんな、やっと元の世界に戻ってきたというように、ホッと息をついていました。

つい先ほどまで、目の前のことだけに一心不乱に集中してた時、この部屋は自我を離れたエネルギー
に溢れていました。
一息ついたその笑顔は、ホッと安堵の表情というだけでなく、知らずのうちに天地と一体となっていた
充実感の現われだったのかもしれません。

天地の心は、そこかしこにあります。
そしてその瞬間というのは、案外、自分自身では気がつかないものなのかもしれません。
眠い目をこすりながらアクビをしてた私も、その一人だったのでしょう。

人生というのは、瞬間瞬間で、誰もが天地と一体となっているということです。

生きることは、眉間にシワ寄せて考えるものではなく、もっとラクで、もっと自由でイイんです。



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