これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

天地に流れる感謝の思い

2017-09-24 00:44:05 | 国を常しえに立てます
小川のせせらぎは、気がついた時にはそこに流れているものです。

どの一滴が始まりということはなく、幾千万のしずくが集まって川は川と成ります。
葉に落ちたしずくの一滴一滴が流れ落ちる、その始まりを誰も気に止めることはありません。

あらゆる出来事もまたどこがスタートで、いつから始まったということはありません。
様々なことが折り重なって、出来事は出来事と成ります。

いつもとは違う時の流れを過ごしたとしても、それもまた日々の生活の一部であることに違いはありません。
平凡な日々と非凡なひと時との間には何の断絶も無いということです。

普段とは違う景色を私たちは特別なものと捉えてしまいますが、切り抜いた別個のものがそこに流れているということはなく、この世に起きる
出来事は切り分けられることなく互いに溶け合っています。

区別しない心、決めつけない心、変わらない心、それがとても大切な要素となります。

意味づけや価値判断をする心癖を無くせば、そこには天地の穏やかな風がサラサラと流れていくことに成ります。

これが今日、最も言いたいことでした。
先に書いてしまうと何のことやら訳がわからないところですが、書かずには居られない大事なことでありました。


さて今日のポイントは、何が起きたかではなく、何をしていくか、です。
一人の人間にとって「特別な」瞬間など存在しないのと同じように、誰か一人だけの「特別な」経験など本来ありません。
全ては誰にでも共通すること、誰もが成せることであり、他人事ではなく自分事となります。

それでは本題に入りたいと思います。

日本列島には中央構造線というものがあります。
いずれ詳しく触れたいと思いますが、一言でいえば「日本列島を東西に横切る大断層」のことを指します。





断層と聞くと怖いと感じたり忌み嫌ったりしてしまうかもしれませんがそれは全く違います。
決めつけたり思い込みの価値判断は、さらなる淀みを生むことにしかなりません。
頭で考えず、心で感じれば自ずと感謝の心と成ります。


私たちは体の淀みを流すためにアクビや伸びのような弛緩をして緊張やこわばりを取ったりします。
そうやって少しずつ緩めればサラサラと流れていきますが、ガチガチに力んだままで居ますと流れるものも流れず、ついに大きな詰まりとなって
ドカンとダメージを被ることになります。

中央構造線がザワザワしているのは不安定ということではなく、安定に向かう道程と言えます。

私たちも健康のためには日頃から弛緩や脱力、軽い運動が大事ですが、それは天地宇宙も同じであるわけです。

そして自分の身体を見れば分かりますが、緊張やこわばりというのは右が悪くなれば左もまた同じように悪くなっていきます。
あるいは上下についても同じことが言えます。
膝や腰が悪くなれば肩や首が悪くなりますし、その逆もそうです。

それは中心でバランスを取ろうとするために起きる現象であり、悪いなりにも何とか最善の状態にもっていこうとする自然の理でもあります。
そのため良くも悪くもバランスが取れている時というのは、片側だけが悪かった時よりはマシに過ごせるようになっていきます。

それが何かのキッカケ(鍼やマッサージ、温泉など)でどこか緊張が取れると、全身のバランスが崩れて、どうにもならないツラさとなったり
します。

それならそのまま悪いなりにバランスを保っておいた方がいいのかというと、それでは負のスパイラルに陥って詰まりが累積し、いつかは決壊
して大ケガを負うことになります。
緊張やこわばり、凝りを取ることは必要不可欠で、それは全体のバランス取りながら少しずつ流していくことが大事であるわけです。


中央構造線の西端にある阿蘇・熊本が揺れてからは、東端の鹿島・香取も揺れました。
そうして日本列島はあちこちが沸々と発散し出しました。

日本列島は4つのプレートに囲まれており、そのうちの一つはフォッサマグナ、糸魚川-静岡構造線となって富山から富士を縦に貫いています。




中央構造線という横ラインの弛緩も必要不可欠な自然現象ですが、こうした縦ラインの弛緩も大きな御蔭様となります。

この世に住まわせてもらっている私たちは、天の子であり地の子です。
天を大きく巡った氣が私たちという柱を通って大地へと大きく流れていき、巡り巡って再び私たちを通して天の彼方へと流れていきます。

ですから私たちが感謝を捧げることは、大地の緊張やこわばり、凝りをサラサラと流すことになります。

(『三千世界に花ひらく』2017-7-27 後半「無限の8の字」参照)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/c68add523540e5093daccdfc4054281f


逆を言えば、私たちの心が凝り固まったり不安や不満を抱えてしまうと、大地の流れも詰まり詰まっていくことになります。
太古から、国が乱れ人心が乱れた時に飢饉や天変地異が起きるというのはそのためです。

さて、列島断層の東西ラインと南北ラインが重なるところにあるのが諏訪です。
なかでも諏訪大社上社本宮はほとんどその真上にあります。




この地はまるで鍼を刺すかのように、4つの大社、4つの柱によって氣抜きがされています。
ただただ感謝であります。

天と地と人の「無限の8の字」は天地宇宙との合一によって現れます。
それはつまり、ごく普通の状態、全てを放ったホットケ(仏)の状態に在ることで成ります。

決して大地の緊張を流そうと思ったり、特別な何かをやろうとする必要はありません。
作為的な思いというのは自我の現われであり、私たちの真我は天岩戸に隠れることになります。

同じように、わざわざ何処かへ行って何かをしようとする思いというのも我執と紙一重の世界と成ります。

何となく気になっていれば何故か分からないけどもそういう流れになる、気づいたらそこに立っている、そういうホットケの状態が顕現されて
いきます。

そう成ったらば、その地に感謝を捧げる。

それは本当に短い一瞬の思いでいいわけです。
大がかりな神事や長い祈りなど全くの無用で、むしろそれが邪欲の上塗りとなって凝りを酷くさせることにもなり兼ねません。

例えばグルメ旅行だったり、登山や観光、家族旅行だったり出張だったり、そうした主目的があってたまたまそこに立っていた時に、何となく
手を合わせたくなる。

スッと心に風が吹いたらば、何とは無しに手を合わせる。目をつぶって一瞬、感謝を思う。

それでイイ。
それがイイのです。

それが、天地宇宙の中の、私たちの存在であるわけです。

そこで理由探しや、何だったのか意味づけするのは全てを台無しにすることにしかなりません。
自我が現われた瞬間、無限の8の字は霧散します。

分かる時はあとになって分かるし、そもそも分かる必要などありません。
このように過ごさせて頂いている、生かして頂いている、それが全てなのですから。




さて私の場合は諏訪のあと富士の麓に行く機会が続き、美しい姿に手を合わせた頃に紀伊半島が気に掛かるようになりました。

以前にも書きましたが、紀伊というのはこの龍体の肚(はら)になります。
ちょうどその肚の真ん中らへんが気になって仕方ない。ザワザワする。
しかし関西に居た頃ならまだしも、そんなところへ行くことなど無理に近いので、そんな思いもサラサラと流していると、出張と台風のおかげ
でそこに立っていました。

私たちの身体もそうですが、全身の緊張を取るために背骨を一つ一つ緩めたりします。
あるいは、右側を緩めてから左側を緩めたりします。
ただそのようにしても一番最後までこわばりが取れないのが中心部分です。

全身を支える柱は、全体が倒れないようにすべてを受けてグッと踏ん張ってしまいがちになる。
私たちで言えば、それは腰であり背骨であり、そして肚下の一点です。

前回のブログで書いたとおり、手足や肩の緩みが取れても肚下の一点が緊張しているとストレスや衝撃をそこで受けることになり、体を壊す
ことになってしまいます。
中心を緩めると天地宇宙との隔たりがなくなり、すべてはサラサラと流れていくことになるのでした。

紀伊半島の中心の1ヶ所は、まさに日本列島の肚下の一点であり、中央構造線の中心の一点です。






中心の一点を緩める。
それにより全身の緊張が取れ、サラサラと流れていきます。

天と地を前にした時、私たちは誰もが、ただただ生かしてもらっていることの感謝を思うでしょう。

たった一人、たった数人などではなく、何千、何万、何億の思いが常にあります。
私たちは全人類が全員、天地宇宙を繋ぐ中心そのものです。

中心が緩めば全体が流れます。

それは私たちで言えば、我欲や我執、こだわりや価値判断を手放すことに他なりません。
ことさら感謝をしようなどと思う必要はありません。
そんな自我の上で捻り出されたものなどハリボテにしかなりません。

大丈夫です。
そもそもホットケの状態になった時に心に浮かぶのは感謝しかありません。
それは頭で理解するものでなく、心や皮膚に感じるものです。

構えず、気負わず、何も考えずに居るだけでイイ。

そうして何のけなしに手を合わせる。
あぁ気持ちいい、ありがたいなぁと思う。
それがすでに無限の8の字と成っているのです。

大地を鎮めるため、地震をおさめるため、などと気張るのは最悪です。

天地が静まっているから感謝なのではなく、生かしてもらっていることが感謝であるわけです。
天地が荒れようとも、その感謝の思いは変わるものではありません。

私たち誰もが、本当に軽やかな思い、軽やかな気持ちをほんの数秒思うだけで、他ならぬ私たち自身が幸せになっていきます。




タイミングを同じくして、天の大祓いが、沖縄から北海道まで余すことなく吹き抜けました。
まさにその日に肚下の一点に行けたことは感謝そのものです。

この日は各地で同じように、幾千万の感謝の思い、感謝の柱が立ったことでしょう。

一滴一滴は小川のせせらぎとなり、ゼロにリセットされた龍体には天地人の風がスーッと流れるようになった。そんな気がします。



(おわり)


中心の力を抜く

2017-09-17 13:24:31 | 武道のはなし
肩の力を抜くという言葉があります。

私たちは緊張したりストレスを感じると、知らず知らずのうちに身体のどこかにグッと力を入れています。

頭にきている時は歯を食いしばり、ストレスで心が固くなっている時は肩に力が入っています。

こうした身体の力みを抜こうとしても、根っこが変わらなければすぐにまた同じ状態になってしまいます。
心の状態が身体に現れているのですから、心の力みを取らなければ身体の力みも取ることはできません。

武道においても身体の力みを抜くことは非常に重要な要素となります。

この世というのは自我を強めるほどに心がギューッと凝縮していき、実体が濃密になっていきます。
実体がガッチガチになると氣の通りも悪くなり、氣の欠乏により病氣が現れます。

また、かたくなな自我と自我が触れ合うとガツンとぶつかり合うことになります。
これは武道の組手だけでなく、対人関係にも当てはまります。

一方、心がリラックスすると自我が薄まり、実体も薄まっていきます。
すると氣の流れも良くなり、天地宇宙との隔たりが薄まっていくことになります。

そのようにして腕の力が抜ければ、相手の自我が触れようともそれは私たちの中心へ通り抜けていき、ぶつかることなく流れ去って行きます。
まるで大祓詞のようにです。
また、足の力が抜ければ、その場に居着くことがなくなり前後左右あらゆる方向と一体となります。
そうして四肢の力が抜けて壁がなくなると、相手を投げ飛ばすことが出来るようになります。

さて今日はその先の話です。

その手足の力を抜けたとしても、そこで終わりにしてしまうと肝心要(かんじんかなめ)のものを見落とすことになってしまいます。

確かに四肢の力が抜ければある程度ぶつかることなく相手を投げられますが、そこで謙虚に耳を澄ますと肚下でわずかにぶつかっていることが
感じ取れます。

四肢の力が抜けていても、自我の芯が残っていると肚(はら)の下にそれが残るわけです。

腕や足の力が抜ければ相手から受けたものが自分の本体の中心線を通って、肚の下に来ます。
その状態で相手が腕力で来たならばそれを肚の下でグッと受けることになり、こちらは全身力で相手を投げることが出来ます。

しかしそれというのはどこまで行っても自我と自我の衝突であって、わずかなリラックスの差による自我の濃淡で投げ勝っているに過ぎず、
要するに物理的な理屈でしかないわけです。

肚(はら)で受ける。
その感覚で良しとするか、それではいけないとするか、まさにそこが大きな分かれ目となります。

日常生活、職場や家庭、人間関係においても様々な意見やものごとが四方八方からやってきます。
肩や手足の力を抜くというのは、表面的にニコやかに柔らかく受け応えることに通じます。
それはガチガチに跳ね返す状態に比べれば遥かに安心安定の状態であるのは間違いありません。

たださらに突き詰めると、自分の中心が頑な(かたくな)になっているとそこでぶつかる、跳ね返っているという事実が顕れてきます。

頭に来るようなこと、多大なストレスを感じるようなことが外から入ってきた時に、表面上は柔らかく受け流して事態の落ち着きが見られた
としても、肚(はら)の下でその全てをグッと受けてしまっていたならば、それは心や身体へと跳ね返り、何だか分からぬイライラや不安が
募り、シンドくなったり病気になったりしてしまいます。

あるいは、事態の落ち着きも中途半端で止まってしまい、再び同じような事象が私たちを襲ってくることになったりもします。

武道においてもそうであるように、この世においても重要となるのが中心の力を抜くということです。

手足のような表面的なものはむしろ放っておいてもいい。
そっちではなく、こっちということです。

厳密に言えば、肚下の力みが抜けていないうちは四肢の力も完全に抜け切っては居ないということになります。

ただ肚下の力みを抜くといっても、決してそれは虚脱状態を指すものではありません。

虚脱と脱力の差は、私たちが中心で一つになっているか否かです。

虚脱とは四方八方に放置している状態です。
それはバラバラになっている状態です。
中心で一つになっている状態、それが脱力です。
それは無限小に中心が集約しているがゆえに四方八方に無限に広がっている状態です。

自我の芽が残ってしまうとそれは成りません。
ですから脱力というのは「脱力しよう」と思ってそうなるものでなく、心が集約されると勝手にそのように成るものです。
中心がボヤけると四方への広がりも寸詰まったものとなってしまいます。

中心で天地宇宙と溶け合って一つになっていると、私たちは天地宇宙そのものとなります。
天地宇宙が私たちとなります。
手足どころか私たちの存在そのものが透き通った状態となり、何ものともぶつからない状態となります。

相手の力を肚(はら)の下でグッと受けることもなく、どこにもぶつからず全てが透明にサーッと消えていきます。

統一の状態とは、天地と同化し、四方八方の空間と溶け合っている状態に他なりません。

相手の怒りや悲しみが流れ込んで来ても、それを受けまいとは思わず、さりとて受け入れようとも思わず、ただ天地宇宙と一体のままにある。

白も黒もつけず、ただ私たちは天地宇宙そのものであるだけ。

そうしますと相手も天地宇宙とともに在りますので、私たちが平穏平和の境地にあれば、相手も平穏平和に成っていきます。
逆に、私たちが良くも悪くも自我を発現させて不統一になっていますと、相手もまた不統一になっていきます。
自我をぶつけるとお互いどんどんヒートアップしていくというのはその一例です。

合気道を創設した植芝盛平翁は、天地宇宙と一つになることを修行の眼目としました。
ある空間において翁が天地宇宙そのものとなれば、その場に居るものたちはその内にあることになりますので、何をせずともすでに技に
かかってしまったわけです。

仮に相手もまた天地宇宙と一つになっていた場合、ともに天地宇宙そのものでありますのでそこには技をかける掛けられるというものは
存在しなくなります。

すなわち和合そのものとなり、どちらが上どちらが下というもの自体が無くなる。
それこそは天地宇宙の姿そのものであるわけです。



力を抜くというのは突き詰めていくと、力が抜けるという表現に辿り着きます。

力を入れているのは私たちであり、自我であります。
力を抜くという動作も、そこに自我が存在します。

だからこそ、中心の力みには自分でなかなか気がつけないわけです。
腕や足、肩の力みというのは自分で気がつけますが、中心の力みは最後まで気がつけない。
何故ならば自我がハンドルを強く握っているうちは私たちは自我に同化してしまっているからです。

自我としてはそれが普通の状態であるため、中心が力んでいる状態もまた普通の感覚に成ってしまい気がつけないということです。
そして、中心でガシッと受けてしまうこともまた普通の感覚と成ってしまっているわけです。

力は抜くものでなく、抜けるもの。
それは、天地にまかせきった時に勝手に成る状態です。

そもそも私たちは天地宇宙そのものです。
ですから、外に任せきると表現しても、内に任せきると表現してもどちらも同じことです。

とにかく、自我のざわめきをほっておく。

ほっとく。

それが仏(ホットケ)の境地であり、詰まり詰まったものをサラサラと流す無二の方法となるのでした。






ウサギとカメ

2017-09-13 12:54:18 | 私は誰でしょう
私たちというのは何を指すのでしょうか。
どれが私たちなのでしょうか。

それを問うことは、表面的な事象に振り回されなくなり、表面的な事象をより一層味わうことへと通じていきます。

この肉体は私たちですが、私たちそのものではないことは感覚的に分かります。

この自我も私たちの一部ですが、私たちそのものではないことも漠然と分かります。

そうしたものを極限まで削り落として最後に残ったものを真我と呼んだ場合、それを私たちはどれほど感じ取れているかということです。

もちろん自我と真我を大きく区別することはできるでしょうが、曖昧になっている部分が想像以上に沢山あることを知る必要があります。

例えば私たちは、生まれつきの性格や自分らしさはどうしようもないものだと考えて、いつもの反応、いつもの感情をそのまま繰り返して
しまったりしています。
それはますます自我に縛られることを意味しています。

あるいは冷静に振り返って、今の家庭で、今の職場でリピート再生させている感情、態度というのは10年前とは違うものになってはいないか。
それを、立場が変わったとか、環境が変わったという理由で諦めてしまってはいないかということです。

立場の変化でも環境の変化でもなく、私たちは知らず知らずのうちに「自分」というものを着込んでしまっています。
自分で自分を縛ってしまっているわけです。

長らく着込んでいる変わらない「自分」という服もあれば、ここ数年着続けてしまっている「最近の自分」というアレンジもあります。

それはいずれも心の服装、心のパターンと表現することも出来ます。

縛られない自分とはどれなのか、服を脱ぎ捨てた本当の私たちとはどれなのか。
それを考えようとしてもすでに別のものを着込んでしまっている状態では、その上からそれを知るのは大変に困難な作業となります。

遥か昔から、私たちは身軽になって本当の自分に立ち返ろうと様々なアプローチを図ってきました。
それは宗教的なものもあれば、武道的なものもあります。
禊ぎのために身を削ぐ修行を行なったり、心の平穏を求めて世を捨てたり…

しかし自らの内に答えを求めても、着ぐるみにガードされてどうにもならない。
そのため多くはすぐに挫折して、悲しみのうちにまた同じパターンを繰り返してしまいました。

そのような場合、まわりに頼ってみるのも一つの策となります。
外に吹く風へと耳を傾けてみるということです。

外から吹く風というのは、様々な出来事、事件・事故、まさしく人生そのものを指します。
不幸、不運というのは私たちが勝手に決めつけたものであって、どんな出来事であろうとそれは私たちが何者であるのか映し出す鏡そのものです。

天地宇宙あらゆる存在は自分で自分の姿を見ることができません。
そのため、自分の外にある存在や出来事によって自分の姿を映し見ることに成ります。

その中には強制的に自分像を垣間見させてくれるものもあります。
病気もその一つで、そのとき自分のありのままの姿を認識することができるのでした。

そして同じように、自分像にしがみつかせないための最大の仕掛けといえるのが「老化」です。




人間というのは上手くできたもので、歳を追うとともに体力が失われていき、見た目も変化していきます。

それとともに私たちは長年のこだわりを手離していくことになります。
手放さざるを得なくなるわけです。

そのこだわりの最たるものが自分像ということです。

若い頃のような瞬発力や判断力、筋力、スピードは失われ、視野も狭くなります。
すぐに息が切れて休みたくなり、気圧や温度の変化で節々が痛んだりします。

そのとき全盛期のことを頭に浮かべ、今を悲しんだところで痛みや苦しみはかえって増すばかりとなります。
まさに病気の時と同じ理屈です。

そうして老いを認めずこれまでの自分像にしがみつき、あれこれ抵抗を続けますが、そうはいっても節々の痛みや疼きはどうしようもない。
視力の衰えも、耳の衰えも認めるしかない。
髪が薄くなっていくのも、シワが増えていくのもどうしようもない。

そうして一つまた一つと現実を受け入れてこだわりを捨てていくにつれて私たちは心が軽くなっていきます。

一つを受け入れてしまえば、その次の一つも受け入れやすくなっていきます。
老いるというのはまさしくその積み重ねであるわけです。

気張ったり頑張ったり認めまいという、我(が)が薄まっていく。その時、初めて私たちはありがたさというものを噛みしめるようになります。

若い頃に次々と人を追い抜き、健康もかえりみずやりたい放題やっていた、その慢心を心底感じるようになります。

老いるとは、謙虚になっていくことであるわけです。

逆に目の前のことを頑(がん)として認めないと、その次の一つも受け入れにくくなります。
気張ったり頑張ったり認めまいという我が強まっていくと、ガンコ老人になっていってしまいます。

自分像にしがみつくことは我執を強めて行くことに通じます。
自分像を脱ぎ捨てて行くことは我執を薄めて行くことに通じます。

そして身の丈に合ったものを有り難く受け入れることは生きやすさに通じていきます。

若い頃はエネルギーがほとばしり、ガンガン飛ばしたくて抑えきれないものです。
たとえばドライブにしても、しっかりしたエンジンでスピードの出る車に乗るとワクワクします。

しかし齢とともに知覚が鈍ってまいりますとスピードの出すぎる車は逆に怖くなってきます。
そうしてスピードは出なくとも安定感のある車の方がホッと感じるようになります。

まわりの車にドンドン抜かされていったところで、もともとスピードが出ない車なのでことさらムカッとなることもなく平穏に運転します。
誰かと競おうとは思いませんし、負けてるとも思いません。
そこに意味づけをしないので追い抜かす追い抜かさないなどということ自体が存在せずただの景色として流れていきます。

それが謙虚というものです。

謙虚とは考えて行なうようなものではなく、状態のことを指すわけです。

今までの当たり前が一つ一つ失われていくにつれて、私たちの心はますます軽くなっていきます。

それはこれまでの輝きがポロポロと崩れていくということでなく、私たちが長年しがみついてきた自分像を手放していくことに他なりません。

老いるというのは、一つ一つのメッキが剥がれ落ちて、生まれたままの無垢な輝きが表に現れてくることであるわけです。

若い頃はウサギのように全力疾走をするものです。
それが若い頃にだけ味わえる景色であり体験であるということです。
そして年齢とともにカメのように歩みが遅くなり、それに応じた景色や体験が得られるようになります。
それが老いてから味わえる景色であり体験であるということです。

どちらが勝ち負けというものではありません。
それぞれの目線でしか味わえないものを味わっているだけです。


ですから自我とともに走りまわることも、何ら悪いことではないということになります。
そのようにして初めて味わえる世界があるからです。
若い頃は自我に強く振り回されるのがイイのです。
まさに「災難に遭う時節には遭うがよく候」であるわけです。

しかし、ウサギからカメへとマイナーチェンジしているのに昔のように自我とともに走りまわろうとするのは執着にしかなりません。

若さを否定する必要もありませんし、老いを拒否する必要もありません。

その場その時にしか味わえないものを天地宇宙は私たちに用意してくれます。
それを優劣判断つけることは愚かなことでしかありません。

最後にカメはウサギを老い抜き、未知の世界へ辿り着きました。
ウサギとは若い頃の私たちのことであり、カメとは年老いた私たちなのでした。



私たちが日夜抱いている自分像を手放した先にあるもの、それが本当の私たちです。

受け入れていく、手放していく、こだわりをなくしていく。
それは自我が薄まることと同意です。

自我が薄まるということは天地と一つになっていくということです。
老いるというのは天地宇宙に同化していくことに他なりません。

だから昔からご老人は神様のように敬われていたわけです。
年老いたくないというのはトンチンカンな話でしかありません。

そしてそのようになった時、私たちは世界の紛争や他人の不幸が身近なことのように感じ、不安になったり痛ましく思うことでしょう。
わずかなことにもオロオロしてしまう。まさしくそれは宮澤賢治の憧れた聖人君子の姿そのものです。

年老いて心配ごとが多くなるのは何も心が弱ったからではなく、純粋無垢な天地の心そのものに近づいたからだと言えます。

「私とは何か」
それをひたすら問い続けて覚醒したインドの聖人が居ます。

その聖人は問い続けの過程の中で、数多くの自分像を手放したのではないかと想像します。

老いるというのは、無自覚のままにこれをやっていることに他なりません。
一番上に着込んでいる自分像を脱ぎ捨てていく。
そう考えると、老いるとは聖人になっていくことであり、悟りを開いていくことでもあるわけです。

より良い状態を追うこともなく、自分像を追うこともなく、今をそのまま受け入れれば何もぶつかることなく通り抜けていきます。

すべてを脱ぎ捨てた本当の私たちとは今ココのことです。

アダムとイブが追放された楽園というのは、まさしく今ココのことであったわけです。

明日を追わず、昨日を顧みず、理想に縛られず、幻想に囚われず、今ココと一つになる。

病気や老い、事件や事故、様々な出来事、それは私たちの本当の姿に気づかせてくれる他力の風であり、鏡と成ります。

生病老死。

これらは仏教では四苦と言われており、思い通りにならない苦しみだとされてますが、それは今ココを受け入れていないということに尽きます。

ですから実は、その思い通りにならないという苦しみこそが、私たちを今ココに戻すための天の計らいであったということです。

私たちとはウサギであります。
そして私たちとはカメであります。

そしてそれを味わっている私たちとは、今ココの天地宇宙そのものであるのです。





(おわり)