これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

この世界に清き一票を

2017-04-24 23:21:19 | 天地の仕組み
選挙が始まりますと「清き一票」という言葉を耳にするようになります。

でも心にも無いであろう言葉の軽さも相まって、何百万票、何千万票のうちたった一票が何になるかと反射的に反発心が起きてしまうものです。

大勢に埋没してしまう一票のために投票場に行くことに虚しさを感じ、義務という真面目に過ぎることにも生理的な嫌悪感を抱いてしまったり
します。

ただ、そのような思いというのは確率という理屈によって生じるわけで、実際は確率以前の理屈がそこに働いています。
つまり「自分でもって数の問題にしてしまうことで本当にその通りになっている」という現実の仕組みです。

確率というものによって現実が自然にそのように成るのではなく、私たちが確率を見て、そのように成るだろうという思いを強めることに
よって現実もそのように成っていくのです。

この世とは、私たち一人一人の景色であり、私たち自身の見たいようにしか見えません。
天地はそもそも私たちと一つであり、そこには一人だとか幾千万人だとかいう数の論理はありません。

私たちが天地なのですから、確率以前の問題であるわけです。

ただ、そうは言っても、思うだけでは現実は変化しません。
何故ならば、もし「一票でも変わるのだ」と思い直したとしても、「一票では変わるはずがない」という元の思いは残り続けているからです。

私たちが自我と一緒にあるかぎり、頭を切り替えたつもりになっても、自我の自動運転は律儀に継続されているのです。

一方、たとえ疑いを持ったままだとしても、実際に行動を行なった瞬間、現実に刻まれたその事実の方に自我は素直に従っていきます。

思いという不可視なエネルギーよりも、行動という物質的エネルギーの方が、この世では重い。

それは現実の一枚絵に焼き付けられ、そこから引き剥がすことができない天地宇宙の景色そのものだからです。

自我とは現実世界で働く装置ですから、当然そちらの次元に焼き付けられたものの方が圧倒的な影響力を及ぼすということです。

ですから、投票に行くという行動は、たかだか一票で変わるはずがないという思いを駆逐します。
もともとそれは投票に行かないための言い訳でしかなく、自我がしがみつく信条そのものです。
それが実際に投票に行ってしまったならば、信条も何も立ち消えになって、こだわり続けるガソリンも尽きてしまいます。

そうして、たかだか一票で変わるはずが無いという思いが無くなれば、心はニュートラルに戻ります。
そして、それ以前とは異なる景色が水面下に描かれることになります。

まさに、案ずるより産むがやすしです。

この諺は、誇大妄想的に膨らむ心配症を揶揄するものですが、それと同時に「実際の行動が私たちの心を変えて、本当に現実も変わる」という
ロジックを指し示しています。

この世は幾千万人の世界ではなく、私たち一人一人の世界です。
目の前の景色は私たちの思いの反映です。
ですからニュートラルになれば、自ずと私たちの一票は世界に映るようになります。

違う結果を望んでいたのにそのようにならなかったとすると、それは自我の望みと私たち自身の本当の望みが分離してしまっているだけの
話です。

何が言いたいかといえば、清き一票は、本当に清き一票であるということです。
その一票、その一歩が、私たちの景色を変える。目に映るものを変えていく。
逆に、一票を軽んじて他人まかせにして諦めてしまうと、間違いなく諦めたままの結果しか現れないということです。

この世界の中心は私たちです。

西欧で起きているテロ、中東の紛争、朝鮮半島情勢、中国の海洋進出、そういった世界情勢がどこか遠くの、自分には関係のない話と決めつけた
瞬間、諦めたままの現実が現れることになります。

日々流れるニュースを適当に見流すというのはそういうことですし、テレビや新聞で誰かが論説している話をそのまま鵜呑みにするというのも
そういうことです。

この世は、他の誰かによって決定しているのでもなければ、自然に勝手に回っているのでもありません。

私たちが他人まかせにするという選択を実行しているから、そのようになっているだけです。

すべては私たちに決定権があります。
そして、その通りに世界は変化していきます。

それは何千万人分の一という話ではないわけです。
一分の一。
私たちの一票、私たちの一歩、私たちの行動がこの世界を創っています。

今この時で言えば、半島情勢がどのようになっているか。
今の時代、その気になれば誰でも事実を知ることができます。
テレビや新聞や他人に脳味噌を預けてしまっていては、事実のほとんどを知らないままで終わります。

そこで、知らないのだから仕方ないという理屈は通用しません。
それは、知らないことが知らないまま勝手に世界に反映しているのではなく、「知らないまま反映しても良い」「知らないまま反映して欲しい」
と私たちが選択した結果に他なりません。

政治なんか知ったこっちゃない、世界情勢なんか知ったこっちゃない。
それもまた選択の自由です。

でも、それは他人に下駄を預ける選択をしたということですから、どんな結果になったところで間違いなくその責任はすべて自分にある、自分
の望んだ通りの現実が作りだされたのだと理解しなくてはいけません。
戦争になろうと、侵略されようと、家族を失おうと、決して他人のせいにしてはいけないということです。

そんな馬鹿な、そんなはずはない、と思うのは勝手ですが、何もせずに単に騒ぐだけでは何も変わりません。
子供が駄々をこねて騒いだところで何も解決しないのと同じです。

実際に行動に現すことで、その思いは現実に刻み込まれます。
思ったり騒いだり文句を言ってるだけで行動を伴わないというのでは、それは事実には成っていないわけです。

これまで他人や自然に任せて良い結果が繰り返されたとしても、それはたまたまのことであって、この次がそうなる保証はありません。
大海に浮かぶ葉っぱが、次の瞬間どうなるかなど分かるはずがないわけです。

天地に任せきるのと、自分を放棄するのとは、似て非なるものです。

前者は、自我から離れ、真我に立って天命を待つ状態ですが、後者は自我にしがみついたまま怠惰に身を任せる状態です。
そこを勘違いして、天よ、大地よ、と身を投じて自分を無くそうとするのは、文字通り投身でしかありません。

自我や我欲を嫌うあまり自分自身ごと投げ棄てようとするのは単なる自暴自棄でしかないということです。

私たち自身の中心とは、私たちが自ら動くことで保たれます。
動くというのは、心であり体のことです。
体が止まり、心が止まると、私たちの中心は失われてしまいます。

ですから、何が起きているのか知ろうとし、これから何が起きる可能性があるか考え、想定・想像をして、何に備えればいいのか実際の行動
として世界に刻み込むことが、途轍もなく大事だということです。

何かを考えるだけでも世界は変わります。
そして、そこから何かアクションを取ることで世界はさらに大きく変わります。

たとえ水一本買うだけでも、それが何かの思いに根ざした行動であれば、それは明らかに先ほどまでとは全く異なる世界に変わるわけです。

事の成り行きをこの世界に任せてしまうのは、グルジェフの言うところの、未だ目覚めていない状態であり、家畜の状態です。

私たちがこの世界を作り上げているというのに、その想像物の方に私たちの命を預けてしまうというのは本末転倒以外の何ものでもありません。
私たちはこの世の奴隷ではないのです。

その状態から脱却するのは本当に簡単なことです。
実際に思い、実際に行動するだけです。
それがとても大変なことだと思い込ませて面倒に思わせているのは、現状変更を嫌う自我の防衛本能でしかありません。

わずかに足一歩、指一つを動かすだけで、この世に刻まれた現実そのものとなります。
思ったことを動きに繋げる、それだけのことです。


誰かを非難したり、文句を言ってるだけでは何も変わりませんし、見猿・聞か猿・言わ猿でも何も変わりません。
いや、むしろ逆方向に現実を強化させてしまうことになってしまいます。

昔から身口意を諌められているのは、このロジックがあったからです。

自我というものは現状変更を嫌い、現状維持を第一にするように出来ているため、良いことに対する期待よりも、悪いことに対する不安の方に
より強くエネルギーを向けてしまうように出来ています。
そしてそうした不安がベースとなって、文句や不満というものが生まれ、それが行動となって現れていくのです。
つまり、私たちはネガティヴなことに関しては、知らず知らずのうちに、現実化のロジックを実践しているわけです。

私たちは、いつ如何なる時も、常に世界の中心であり続けています。
世界というのは他人事ではありませんし、私たち一人でどうにもならないことでもありません。

世界とは私たちそのものです。

その一歩、その一票がこの世の流れを変えるのです。

そしてまさしく、そのことを実践されている御方が天皇陛下であるわけです。

遠い世界の出来事までも我がこととして心を向けておられ、そして心痛め、祈りという行動を現され、災害あればその地におもむき、人々を
労い慰められておられます。

それこそ何千万人の中に埋没するのではなく、まさしく一分の一そのものです。

私たちも同じです。

この世で何が起きているのかしっかりと心を向けて、そして考え、想定をする。
そこから次は、思うままに身を動かすだけでいい。
神社にお詣りに行ったり、水や食糧を買いに行ったり、ブログやFacebookをアップしたり、本当にそんな身もフタもないことでいいのです。

思いが乗った実行動にこそ意味があります。

思いがとどまることなく行動へと伝わるその清らかさが、一分の一票の重みとなるのです。





エゴに乾杯!

2017-04-20 12:55:55 | 心をラクに
自我がまだ芽生えていない幼い頃というのは、我知れず天地と一つとなっています。
自我という壁が存在していないのですから、天地と一体になっているのが当然と言えます。

子供たちや動物たちのような、執着に囚われない無我の境地。

自我に目覚めたあとの私たちは、その喜びを求めて長い間あがいてきました。
そうして余計な価値観や囚われを刷り込んだ教育や社会を恨めしく思い、戻ることのない過去に思いを馳せるのでした。

では、自我の芽生えや、そのあとの増長とは無駄なものだったのでしょうか?
余計なものだったのでしょうか?

確かに子供たちは疑いを知らず、不安も知らず、今ココを信じ切った存在です。
ただ、それが当たり前すぎるため、そのことを自覚できずにいます。
天地と二分されずに共にあるということは、水の中の魚のように水の存在を分からずに居る状態です。
つまり、自分が天地と一体にあることを理解できずに居る状態ということになります。

それはまさに、天地創造以前の未分化状態にあった大いなる一つ(The Big One)が、自分というものを理解できず、その状態すらも認識
できずに居たのと同じものと言えます。

大いなる一つは、それを面白くないとして分化が始まり天地創造へと至りました。

つまり、あえて自他に分ける(分けたことにする)ことで、それまで見えなかったものを見えるようにしたということです。

私たちの人生もまたこれと同じであるわけです。

幼い頃は天地と未分化の状態にあり、悩み知らずの心地よい世界にありました。
その幼児の心のまま自我の増長がなかったとしたら、確かに悩みとは無縁に平和に生きられたかもしれませんが、代わりに私たちと天地宇宙と
いう本当の姿を味わうことが出来ずに終わってしまったでしょう。

水中の魚は、生まれた時から水と一体になっているため水の存在を理解できません。
魚が水の存在を知るには、水から離れるしかありません。
そのような分化をもって初めて水の存在を知り、そうして水中に戻された時には、水と自分との一体感をより一層クリアに自覚するように
なります。

以前は想像の限界にあったボンヤリした世界像が、その時、ハッキリと肌感を持って知るようになるわけです。

私たちも同じように、自我の増長という過程があればこそ、ふたたび天地宇宙と一体になった時の深い実感を得られるようになるのでは
ないかと思います。

ですから、幼い頃の無垢の状態というのと、それは同じであって同じではないということです。
十牛図の前半と後半がそうであるように、見た目は同じであってもその深みや厚み、広がり、すなわち味わいが全く違うものになっている
わけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十牛図

私たちの人生というのは、原点回帰の旅であって、回帰ではない。
それは、無駄な寄り道にしか見えない我執の泥沼を抜けた先にしかない世界であり、より高みへと進み続ける旅に他なりません。

我執の増長とは、停滞でも後退でもドロップアウトでもない、必要な道程であったわけです。


ただ生きる、無自覚の時期。
私「が」生きている、という我執の時期。
今ここに在る、という天地一体の時期。


まだまだ私たちには先があります。
どの瞬間も、後退などしていません。

囚われであろうが我執であろうが、それがあればこそ次の景色が拓けるのです。
つまり、囚われや我執が無ければ、一段上の視点は得られないということです。

そうであればこそ、エゴを忌み嫌って遠ざけようとすることは、むしろその先へと進む道を自ら閉ざすことにしかならないのが分かります。

自我というのは、例えば呼吸や心拍を司る自律神経と同じようなもので、私たちをこの世で生きていけるように導いてくれる高性能の自動運転
装置です。

ただただ、私たちを生かそうとしてくれている。

そのひたむきな一途さには涙が出るはずです。
そこへ勝手にエネルギーを注いでいるのは私たちであって、自我は与えられた通りに素直に従っているだけです。

自我そのものは何も悪くはありません。

もしエネルギー過多で暴走した車があったとしたら、その原因はエンジンではなく、ガソリンを注いだことにあるのは明らかでしょう。

それを、こんなエンジンなんて無ければ良かった、余計なものだ、捨ててしまえ、と唾を吐いて足蹴にする姿を見たら私たちは何を思う
でしょうか。

自我とは、私たちとは別個のもので、この世の預かりものです。
決して私たちの所有物ではありませんし、敵視したり蔑視したりするものでもありません。
それを傷つけたり、ゴミ箱に捨てようとしたりするのは、あまりにも酷すぎる仕打ちです。

今こそ、自我は自我として優しく抱き寄せましょう。

理屈など不要です。
そのまま、ありのままで感謝です。

優しく抱きしめ、今までゴメンねと心から謝り、そして、これまで生かしてきてくれたことに感謝です。

そうして初めて、自我も包み込んだままに天地宇宙を感じられるようになるでしょう。

私たちが、私たちを全てそのまま受け入れられなければ、天地宇宙をありのままに受け入れることなどありません。

つまり、ぬくもりや優しさを外に求めても何も得られないということです。

まずは、自分自身を優しく受け入れることから全ては始まります。
他の誰でもなく、私たちが私たち自身を120%受け入れてあげなくては、私たち自身はこの世界で根なし草のままとなります。

それを仲間や家族、天地宇宙や神々に求めても、絶対に満たされることはありません。

何故ならば、この世というのはそもそも私たちに包まれた世界だからです。


こうしたことはとてもシンプルである反面、思っている以上に難しいことでもあります。

そうだよねと分かったつもりになって居ても、実は何も分かっていないということがしばしばあります。

私たちの囚われというのは様々な形へ変化していくため、自分が本当は何を求めているのか隠されてしまいます。
そうなると、まわりからは見えているのに、本人だけが見えていないということにもなってまいります。

自我と一心同体の状態にあると、右向け右と言われれば、その景色しか目に入ってこなくなってしまいます。
自分では分かったつもりでも、実際は本質から目を逸らされてしまっているため、堂々めぐりになって先へ進むことができなくなってしまう
わけです。

一例をあげれば、まわりから賞賛されたいという思いなどもそうです。
一見するとそれは向上心の現れのように見えますが、実際は、認めてもらいたいという思いが変形したものです。
さらにそれは愛されたいという思いの変形であり、突き詰めるとそれは、受け入れて欲しいという思いに行きつきます。

ですから、本当に満たされるためにはその一番核の部分である「受け入れて欲しい」という思いを解決しなくてはならないということに
なります。

それが遥か手前の表層のところで止まってしまうと、賞賛されることに固執してしまい、褒められることが悦びだと思い込むことになります。
しかしどれほど賞賛されたところで芯から満たされることはありません。
もっと褒められようと頑張り続けても永遠に満たされるはずがないわけです。

賞賛されたい、認められたいという思いに限らず、結局のところあらゆる欲求というのは、根っこを辿っていくと「安心したい」という
ところへと帰結していきます。
そして、その多くは「受け入れて欲しい」という思いによって満たされるものだと言えます。

しかしすでに書きましたとおり、その受け入れて欲しいという思いを、他の誰かに応えてもらおうとするのは、チルチルミチルの青い鳥でしか
ありません。

私たちが私たちを優しく受け入れてあげないで、他に何があるのかということです。

ズルかろうが、醜かろうが、我執まみれだろうが、そうしたものこそは、この先の景色を見させてくれるためのものです。
だからこそ、そうしたものを引っくるめて、私たちを丸ごと120%受け入れる。

今のこのままの私で、すべてオールOKなのです。

見ないようにフタをしてきたこと、切り捨ててきたこと、そうしたものをすべて表にさらけ出して、そんな自分だからこそ最高にOKという
ことを噛み締めるということです。

そうやって今の自分を素のままにギューっと抱きしめた時、言葉に表せられない幸せが溢れ出すことでしょう。

そしてそのようになりますと、ジワーッと芯から感じられることがあります。

もともと私たちは受け入れられていたと。

これまで私たちは自分の芯の部分を直視できず、受け入れられずに居ました。
それにも関わらず、家族や仲間たち、そしてこの世界は、私たちを当たり前に素のままに受け入れていました。

賞賛してもらうまでもなく、認めてもらうまでもなく、その先では決して辿り着くことのなかった悦びがすでに満たされていたということです。

私たちを見ているのは遠くの誰かではありません。

親だというこだわりや、子だという囚われも脱ぎ捨て、ただ1人の存在がそこにあるだけです。

そこには上も下もありません。

過去の思いも、過去の行ないも、過去の記憶も、すべて感謝であって、それに縛られる必要もなければ、それに苦しむ必要もないのです。

私たちは丸ごとそのまま120%受け入れられています。

私たちのすべてがオールOKなのです。





誰かに何かをするということ

2017-04-12 08:04:48 | 天地の仕組み

両親と兄弟、一家そろって初めての家族旅行に行ってきました。

父親は典型的なモーレツサラリーマンでしたので子供の頃はほとんど家に居らず、家族で出かけるのはいつも母と兄弟だけでした。

老齢の父は、いつも本心とは反対の憎まれ口を叩いてばかりですが、今回の提案に関しては素直に喜んでいました。

そもそも調和というものを受け持つ女性に対して、男というのは家族や集団を守ることを受け持っています。
そのため男親というのは、お互い喋らずとも近くにみんなが居るだけで十分満たされるところがあります。

何を喋るでもなく、ただ同じ空間に居るというだけで、あとは新聞を読んでいようがテレビを見ていようがそれで幸せなのです。
嬉しいとかそんなことを口にしなくとも、一緒に居れば喜んでいることは分かります。

何かを贈ったから喜ぶとか、何かをしたから喜ぶとか、そういうことではなく、ただ居るだけでいい。
特別な旅行やプレゼントを用意しなくとも、ごく普通の景色があればそれが最上ということです。

実は、特別な何かをして「あげる」という意識は全てを台無しにするものにしかなりません。
たとえ無意識であろうと何かを期待して行なう行為は、深淵から自然に発露してくる感覚を打ち消してしまいます。

親孝行という一見プラスの行動にしても落とし穴が潜んでいると言えます。
親が喜んでくれた、だから嬉しい、良いことをした…
でも実際のところ、親の喜びもさることながら、誰よりも幸福感に包まれたのは私たち自身であるわけです。

どこに心を置くかによって、聞こえるものはガラリと変わってきます。

親孝行という言葉は後付けのものでしかありません。
それはそうした行為を客観的に表現した単語でしかなく、もしも孝行という言葉本来の意味を前面に出すならば、それは「自分孝行」と言った
ほうが正しいでしょう。

その時というのは、何だかとても嬉しい気持ちが心の底から湧き上がり、幸せに包まれます。
親が喜んだから嬉しいという玉突きの喜びではなく、深淵からダイレクトに来る私たち自身の喜びです。

家族旅行にしても、親が喜び、親が思い出を作ったということではなく、まさしく、私たちが喜び、私たちが思い出を作ったということです。

いま幸せなのは誰かと言えば、自分自身に他ならならないのです。


そして実は、それというのは親だけに限らず、私たちのまわりのあらゆる存在すべてにも当てはまることだと言えます。

そもそも私たちは、喜びを得るためにこの世に生まれてきました。
だからこそ様々な喜びを求めて、たとえば好奇心を満たそうとしたり、あるいは目標や目的に向かって頑張っています。

そんな数多くの喜びの中で、私たちにとって一番の喜びというのは、実は、他の誰かが喜んでくれることにあります。

これは決して優等生的な綺麗事ではなく、理屈として成立する物理法則です。

しかしそれを「かくありたい」というただの理想にしてしまってキラキラ目を輝かせると、いつまでたっても辿り着かない夢物語となって
しまいます。
それが理屈として理解した瞬間、事実として私たちの内におさまります。

喜びを味わうためにあるこの世界で、最も幸せを感じるのは、他の誰かを喜ばせることにある。
誰かに喜んでもらうことは、他のどんなことよりも幸せを感じる。


その元始めというのは、子供のころ、親が喜んでくれた時の幸せな心地にまでさかのぼります。

今日まで続く「誰かに褒めてもらうと嬉しい」という思いにしましても、その始まりは、一番身近な親に褒めてもらった時の喜びにあり、
そしてその喜びというのは、さらにその奥にある、親に喜んでもらいたいという思いが初発となっています。

そしてそれと同じ思いで、私たちのご先祖様たちは、親神様に対して御神楽や祝詞を奉納しました。

それは、見返りとして自分たちに何かをして欲しい、恩恵が欲しいというような打算的なものではなく、純粋に感謝の心そのものであり、
ただただ相手に喜んでもらいたい、相手を喜ばせたいという思いでした。
理屈ではなく、相手が喜んでくれることが、そのまま自分にとっての幸せであるということに尽きました。

その幸せは、神様が喜んでいるのを見知って自分も幸せになるというような間接的なものではなく、目や耳を通さずして身体の奥底から
湧き上がるものでした。

親が喜んでいるかどうかをわざわざ確認しなくてもすでに自分の中に喜びが溢れるように、神様が喜んで下さっている姿が見えなくとも、
すでに幸福感に溢れて喜びに包まれるということです。

そうした幸せな心地になればこそ、あぁ良かったと思い、再びまた神様が喜んで頂けるように振る舞い、お供えをしてきたということです。

もし自分の心を置き去りにして、単に目的のための行動となってしまうと、湧き上がる心地を感じ取ることが出来なくなり、ただ社会通念や
慣習に寄りかかった満足しか得られなくなってしまうでしょう。

つまり「親孝行だ」とか「神恩感謝だ」と考えてしまうと、孝行や感謝といった観念で止まってしまい湧泉が詰まってしまうということです。

ただ純粋に「親」「神」「相手」という存在がそこにあるだけでいいわけです。
そしてその結果がどうなるかは一切求めない。どうでもいい。
何故ならば、それをやるのは相手のためではないからです。

主体はどこまでいっても私たちにあります。
相手にはありません。

私たちは、自分がやりたいからやっているのです。

そうしたとき、相手の喜び以前に、すべては私たち自身の喜びであることを、その湧き上がる幸福感によって知ることになります。

誰のためでもない、すべては自分自身のためであるわけです。


この世というのは、数多くの人々に溢れています。

そして私たちは、自分のためよりも、まわりの人たちに何かをすることの方が、遥かに幸せを得られるようになっています。

その理屈はとても簡単です。

自分のために何かをする時、その照準は、大抵、浅く狭いところに向きます。
さらにそのエネルギーが向かう先は、私たちの自我であって、決して私たち自身ではありません。

一方、誰かのために何かをする時、外向きのエネルギーは全方位に向かって際限なく放たれます。
そして、この世界というのは私たち自身に他なりませんから、その放ったものはそのまま私たちに届くことになります。

それを鏡のように喩えることも出来ますが、実際はまわりに反射しているのではなく、そのまま突き抜けた先に私たちそのものがあるという
のが真実です。


私たちというのは、この身体の中にあるのではなく、この身体のまわりの全方位、遥かな先に満遍なく存在しています。

私たちは、私たち自身に包まれているのです。

自分のための言動というものは何となくバツが悪かったり、あるいは思ったほどの喜びでなかったりします。
それを無理にコレでいいのダと思おうとしても、やはりしっくりこないものです。

しかし誰かのためにやった時というのは理屈抜きにスッキリ爽やかです。
相手が喜んだから、というのは実は手前の理由でしかなく、その向こうに広がる私たち自身が喜んだからというのが本当の理由です。

ですから、相手がどのように反応しようと全く関係ない話であるということです。

そんな手前の話はどうでもいい。
それは鏡の反射ですら無い。
自我の自作ストーリーを、もっともらしく飾り付けたものに過ぎません。
それを悩んだり考え込んだり怒ったりするのはナンセンスでしかありません。

私たちの行為は、何ものにも邪魔されることなく、この世界を無限に突き抜けていきます。
そしてその先にある私たち自身へと届いていきます。


その喜びを私たちは感じることができます。
途中の誰が何をしたところで関係ありません。
私たちの自我ではなく、私たちの芯から湧き上がった感覚こそが真実です。

たとえ期待と異なる反応が目の前に現れたとしても、それは自我の想定したものが叶わなかっただけのことです。
それに苛立ったり悲しんだりするのは、自我の土俵に自らを縛っていることに他なりません。

そしてその土俵に乗っているかぎりは、様々な世界に幸せや満足を求めても芯から満たされることはないわけです。

私たちの芯の芯の部分というのは、そんなことにカケラも左右されることなく、放たれたその喜びを100パーセント受け取ります。

そして、相手の芯の芯の部分もまた同じようにそれを受け取っています。
そのことに相手の自我が気がつくかどうかはあまり問題ではありませんし、それに期待することは不毛と言えます。
なぜならば、それはお互いの自我同士の会話でしかないからです。

私たちは、まわりの喜びが、私たち自身の喜びとなります。
それは、相手の自我が喜ぶことではなく、相手の芯の部分が喜ぶことです。
そして、それはそのまま私たち自身へと届く喜びとなります。

そうしますと、ある一つの事実にたどり着きます。
それは、私たちに喜びが届くためには、私たち以外の存在が必要ということです。

私たちは、私たち以外の存在によって、最上の喜びを得られる。
腹の立つ人であろうと何だろうと、まわりのあらゆる人たちは、私たちを喜ばせてくれるために存在している。
それぞれがどのように振る舞い、どのような反応をしようと、それは途中にある自我の話でしかなく、その向こうにまで突き抜けることに
何の変わりもない。


つまり、まわりの人たちは、ただ、そこに存在してくれているだけで感謝ということになります。

唐突すぎる結論に一瞬キョトンとなるかもしれませんが、綺麗事ではなく理屈としてそうなるということです。

大いなる一つ(The Big One)の状態から、分化が始まり天地宇宙が創られた理由とはまさしくそこにあり、そしてその同じ仕組みが今も
こうして私たちのまわりに創り上げられているのです。

ですから、天地宇宙のあらゆる存在は私たちに感謝を思っていますし、私たちもまた天地宇宙のあらゆる存在に感謝を思っているわけです。

まわりの人たちは私たちの感謝そのものであり、私たちはまわりのみんなの感謝そのものであるということです。

「誰かに何かをする」

この世という存在は、みんながそれを行なうことで成り立っています。
それはつまり、この世というのが、感謝と喜びの結晶であることを意味しています。

さらに言えば、私たちのすることがまわりの誰かを通して私たち自身に届き、それが私たちのこの上ない喜びになるということは、何のことは
ない、私たちが求めてやまない優しい温もりは、実は私たち自身が発しているものだったということになります。

この上ない安心感やゆすらぎ。
それを外へ求めても、遠き幻想のままでしかありません。

それというのは、親でもなく天地神々でもなく、私たちがまわりの人たちに向けることによって、私たち自身に届いていくものだったと
いうことです。

私たちは、他の誰でもない、私たち自身によって優しく包みこまれているのです。