でも心にも無いであろう言葉の軽さも相まって、何百万票、何千万票のうちたった一票が何になるかと反射的に反発心が起きてしまうものです。
大勢に埋没してしまう一票のために投票場に行くことに虚しさを感じ、義務という真面目に過ぎることにも生理的な嫌悪感を抱いてしまったり
します。
ただ、そのような思いというのは確率という理屈によって生じるわけで、実際は確率以前の理屈がそこに働いています。
つまり「自分でもって数の問題にしてしまうことで本当にその通りになっている」という現実の仕組みです。
確率というものによって現実が自然にそのように成るのではなく、私たちが確率を見て、そのように成るだろうという思いを強めることに
よって現実もそのように成っていくのです。
この世とは、私たち一人一人の景色であり、私たち自身の見たいようにしか見えません。
天地はそもそも私たちと一つであり、そこには一人だとか幾千万人だとかいう数の論理はありません。
私たちが天地なのですから、確率以前の問題であるわけです。
ただ、そうは言っても、思うだけでは現実は変化しません。
何故ならば、もし「一票でも変わるのだ」と思い直したとしても、「一票では変わるはずがない」という元の思いは残り続けているからです。
私たちが自我と一緒にあるかぎり、頭を切り替えたつもりになっても、自我の自動運転は律儀に継続されているのです。
一方、たとえ疑いを持ったままだとしても、実際に行動を行なった瞬間、現実に刻まれたその事実の方に自我は素直に従っていきます。
思いという不可視なエネルギーよりも、行動という物質的エネルギーの方が、この世では重い。
それは現実の一枚絵に焼き付けられ、そこから引き剥がすことができない天地宇宙の景色そのものだからです。
自我とは現実世界で働く装置ですから、当然そちらの次元に焼き付けられたものの方が圧倒的な影響力を及ぼすということです。
ですから、投票に行くという行動は、たかだか一票で変わるはずがないという思いを駆逐します。
もともとそれは投票に行かないための言い訳でしかなく、自我がしがみつく信条そのものです。
それが実際に投票に行ってしまったならば、信条も何も立ち消えになって、こだわり続けるガソリンも尽きてしまいます。
そうして、たかだか一票で変わるはずが無いという思いが無くなれば、心はニュートラルに戻ります。
そして、それ以前とは異なる景色が水面下に描かれることになります。
まさに、案ずるより産むがやすしです。
この諺は、誇大妄想的に膨らむ心配症を揶揄するものですが、それと同時に「実際の行動が私たちの心を変えて、本当に現実も変わる」という
ロジックを指し示しています。
この世は幾千万人の世界ではなく、私たち一人一人の世界です。
目の前の景色は私たちの思いの反映です。
ですからニュートラルになれば、自ずと私たちの一票は世界に映るようになります。
違う結果を望んでいたのにそのようにならなかったとすると、それは自我の望みと私たち自身の本当の望みが分離してしまっているだけの
話です。
何が言いたいかといえば、清き一票は、本当に清き一票であるということです。
その一票、その一歩が、私たちの景色を変える。目に映るものを変えていく。
逆に、一票を軽んじて他人まかせにして諦めてしまうと、間違いなく諦めたままの結果しか現れないということです。
この世界の中心は私たちです。
西欧で起きているテロ、中東の紛争、朝鮮半島情勢、中国の海洋進出、そういった世界情勢がどこか遠くの、自分には関係のない話と決めつけた
瞬間、諦めたままの現実が現れることになります。
日々流れるニュースを適当に見流すというのはそういうことですし、テレビや新聞で誰かが論説している話をそのまま鵜呑みにするというのも
そういうことです。
この世は、他の誰かによって決定しているのでもなければ、自然に勝手に回っているのでもありません。
私たちが他人まかせにするという選択を実行しているから、そのようになっているだけです。
すべては私たちに決定権があります。
そして、その通りに世界は変化していきます。
それは何千万人分の一という話ではないわけです。
一分の一。
私たちの一票、私たちの一歩、私たちの行動がこの世界を創っています。
今この時で言えば、半島情勢がどのようになっているか。
今の時代、その気になれば誰でも事実を知ることができます。
テレビや新聞や他人に脳味噌を預けてしまっていては、事実のほとんどを知らないままで終わります。
そこで、知らないのだから仕方ないという理屈は通用しません。
それは、知らないことが知らないまま勝手に世界に反映しているのではなく、「知らないまま反映しても良い」「知らないまま反映して欲しい」
と私たちが選択した結果に他なりません。
政治なんか知ったこっちゃない、世界情勢なんか知ったこっちゃない。
それもまた選択の自由です。
でも、それは他人に下駄を預ける選択をしたということですから、どんな結果になったところで間違いなくその責任はすべて自分にある、自分
の望んだ通りの現実が作りだされたのだと理解しなくてはいけません。
戦争になろうと、侵略されようと、家族を失おうと、決して他人のせいにしてはいけないということです。
そんな馬鹿な、そんなはずはない、と思うのは勝手ですが、何もせずに単に騒ぐだけでは何も変わりません。
子供が駄々をこねて騒いだところで何も解決しないのと同じです。
実際に行動に現すことで、その思いは現実に刻み込まれます。
思ったり騒いだり文句を言ってるだけで行動を伴わないというのでは、それは事実には成っていないわけです。
これまで他人や自然に任せて良い結果が繰り返されたとしても、それはたまたまのことであって、この次がそうなる保証はありません。
大海に浮かぶ葉っぱが、次の瞬間どうなるかなど分かるはずがないわけです。
天地に任せきるのと、自分を放棄するのとは、似て非なるものです。
前者は、自我から離れ、真我に立って天命を待つ状態ですが、後者は自我にしがみついたまま怠惰に身を任せる状態です。
そこを勘違いして、天よ、大地よ、と身を投じて自分を無くそうとするのは、文字通り投身でしかありません。
自我や我欲を嫌うあまり自分自身ごと投げ棄てようとするのは単なる自暴自棄でしかないということです。
私たち自身の中心とは、私たちが自ら動くことで保たれます。
動くというのは、心であり体のことです。
体が止まり、心が止まると、私たちの中心は失われてしまいます。
ですから、何が起きているのか知ろうとし、これから何が起きる可能性があるか考え、想定・想像をして、何に備えればいいのか実際の行動
として世界に刻み込むことが、途轍もなく大事だということです。
何かを考えるだけでも世界は変わります。
そして、そこから何かアクションを取ることで世界はさらに大きく変わります。
たとえ水一本買うだけでも、それが何かの思いに根ざした行動であれば、それは明らかに先ほどまでとは全く異なる世界に変わるわけです。
事の成り行きをこの世界に任せてしまうのは、グルジェフの言うところの、未だ目覚めていない状態であり、家畜の状態です。
私たちがこの世界を作り上げているというのに、その想像物の方に私たちの命を預けてしまうというのは本末転倒以外の何ものでもありません。
私たちはこの世の奴隷ではないのです。
その状態から脱却するのは本当に簡単なことです。
実際に思い、実際に行動するだけです。
それがとても大変なことだと思い込ませて面倒に思わせているのは、現状変更を嫌う自我の防衛本能でしかありません。
わずかに足一歩、指一つを動かすだけで、この世に刻まれた現実そのものとなります。
思ったことを動きに繋げる、それだけのことです。
誰かを非難したり、文句を言ってるだけでは何も変わりませんし、見猿・聞か猿・言わ猿でも何も変わりません。
いや、むしろ逆方向に現実を強化させてしまうことになってしまいます。
昔から身口意を諌められているのは、このロジックがあったからです。
自我というものは現状変更を嫌い、現状維持を第一にするように出来ているため、良いことに対する期待よりも、悪いことに対する不安の方に
より強くエネルギーを向けてしまうように出来ています。
そしてそうした不安がベースとなって、文句や不満というものが生まれ、それが行動となって現れていくのです。
つまり、私たちはネガティヴなことに関しては、知らず知らずのうちに、現実化のロジックを実践しているわけです。
私たちは、いつ如何なる時も、常に世界の中心であり続けています。
世界というのは他人事ではありませんし、私たち一人でどうにもならないことでもありません。
世界とは私たちそのものです。
その一歩、その一票がこの世の流れを変えるのです。
そしてまさしく、そのことを実践されている御方が天皇陛下であるわけです。
遠い世界の出来事までも我がこととして心を向けておられ、そして心痛め、祈りという行動を現され、災害あればその地におもむき、人々を
労い慰められておられます。
それこそ何千万人の中に埋没するのではなく、まさしく一分の一そのものです。
私たちも同じです。
この世で何が起きているのかしっかりと心を向けて、そして考え、想定をする。
そこから次は、思うままに身を動かすだけでいい。
神社にお詣りに行ったり、水や食糧を買いに行ったり、ブログやFacebookをアップしたり、本当にそんな身もフタもないことでいいのです。
思いが乗った実行動にこそ意味があります。
思いがとどまることなく行動へと伝わるその清らかさが、一分の一票の重みとなるのです。