これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

仕事なんて部活みたいなもん

2018-08-29 19:31:22 | 心をラクに(仕事がツラいとき)
仕事や生活がギュウ詰めラッシュでシンドくなってしまうと、頭も心もカチンコチンに固まってトホホの境地になるものです。

「ずっとこんな状態だし、自分はもうこんな自分になってしまった、これからもずっとそうに違いない」
なんて気持ちにならないように、今日はリフレッシュをテーマに進めていきたいと思います。



中学や高校に新入生として入学したての頃のことは覚えてますでしょうか。

何があったとか細かいことはサッパリですが、その時の感覚というか心持ちは何となく思い出せるのではないかと思います。

初めての学校。初めての環境。
どこに何があるのか。これから何が起きるのか。

ゲタ箱や階段、トイレ。
一年は何階で、二年は何階。
最上級の三年なんて出来れば会いたくない。
グランドや体育館の場所。
みんな知らないことばかり。

クラスもお互い知らない同士。
このあと授業がどう進んで行くのか、放課後はどうなるのか。
何もかも手探り状態です。

未知に対するハラハラ、ドキドキ。
未知に対するフワフワ、ワクワク。
軽い緊張感。地に足つかぬ期待感。
そして内から湧き上がる高揚感。

他の記憶はすっかり忘れてしまっても、こうした感覚はハッキリと思い出せます。





もういい歳のオジさんオバさんが今さら中高生の記憶なんて恥ずかしい、なんて思ったら勿体ない話です。

この世において肉体は老いさらばえていくものですが、心というのは一歳たりとも老けるものではありません。
なのに、何を好きこのんで自ら老けこむ必要があるのかということです。

もちろん、この世は鏡の世界です。
目に見えるモノとの交流が波紋となって、目に見えない部分が波揺れていきます。

目に見えるモノは変化をしていきます。
ですから、目に映るモノに心が引っ張られても仕方のないところではあります。

でも、目に見えない部分というのは、ありてあるもの。初めから何も変わっていません。

私たち自身は、初めから変わらず、今ココに在り続けています。
外からの刺激によって波が生じ、様々な悦びを感じています。

夢のワンダーランドに入り込み過ぎると、鏡に映るモノと私たち自身が同じものであるかのように信じ込んでしまいます。
しかし実際は、それはそれ、これはこれであるわけです。

肉体が老いていこうとも、私たち自身は生まれたての赤子の時と何ひとつ変わっていません。

「変わっていないとおかしい」「成長していないと恥ずかしい」というのは頭だったり立ち居振る舞いだったり、つまりは知識や習慣のことで
あって、心の部分はそれとは別の話です。

若い頃に気持ちを戻すのは恥ずかしいことでも何でもなく、むしろそれが当たり前というか、本来は何歳になろうともその若い心地のままに
あってしかりなのです。

その証拠に、その頃の感覚を思い出そうとすれば誰だって鮮明に蘇るはずです。

脳記憶は戻らなくとも心の感覚はすぐに戻る。
年老いても昔の友達に会えば一瞬であの頃に戻る。
いい歳をしてなんて言うほうが野暮というものです。

あの人、気が若いわねぇ、なんて他人事のように言うこと自体、ツッコミどころ満載なわけです。

空気感や肌感というものは色あせることはありません。
今だって、入学や卒業、文化祭といったイベントごとの感覚は鮮烈に覚えているものです。

年齢を感じさせない若々しい人というのは、その頃と変わらぬ感覚のままに生きていると言えます。

私たちは、年齢とともに役割や立場というものが付いてきます。
鏡に映る自分がタキシード姿であれば、無意識のうちにそれに合わせた立ち居振る舞いになっていきます。

それ自体はごく自然なことなので否定するものではありません。

ただ、それはあくまで鏡に映る自分、見た目の自分だけの話であって、今ココに在り続けている「私たち自身」までが蝶ネクタイに縛られて
ピシッとなっているわけではないということです。

それは、たとえばディズニーランドでファンタジーな仮装をしてまわりと交流を楽しむのと、とてもよく似ています。

育ちが良ければそういう服装や物腰になりますし、逆であるならば粗暴な雰囲気になっていきます。
両親の期待に沿うような真面目で聞き分けの良い自分像にもなりますし、何ら期待もされぬ粗野で遣りたい放題の自分像にもなります。

それはそれ、自分の立場に応じて、この世での自分のスタイル、スタンス、居場所というものを手探りで作り上げ、ホッと腰を据えているに
過ぎません。

こんな自分は嫌だと思っても、それは着ぐるみを嫌だと言っているだけのことなのです。

ディズニーランドと実生活との違いは、それが本当はその場その瞬間だけのもの、限定的なものに過ぎないことをしっかり自覚しているかどうかの
差でしかありません。

どんな仮装をしても遊園地を出ればたちまち素に戻ります。
いつまでもそれを現実世界で引きずることはありません。
なぜならば、本当の自分が別物であることを知っているからです。

実生活にしても同じです。
これまで慣れ親しんできたパターン、慣れ苦しんできたパターンというのは単なる仮装に過ぎません。
本当の自分が別物と知っていればサッサと脱ぎ捨てられるということです。

もちろん、仕事にしても同じ。
仮装に興じるように仕事に徹する。
それはそれで全然OKでしょう。
そして会社を出ればそこには素の自分がいる。

何が言いたいかというと、本当の自分と、よそ行きの自分をゴッチャにすると苦しくなるということです。

確かに、よそ行きの格好などせずに、どこにあろうと素の自分で居られればそれが一番ラクかもしれません。
でも、そんな無い物ねだりをしたところで苦しさが増すだけです。

それが叶うに越したことはありませんが、それよりも「よそ行きの格好というのはディズニーランドに行くようなもんだ」と割り切ったほうが
よっぽど楽しめるというものです。

どうせこの世を離れれば、どこまでも広がる大きな私たち自身がいるわけです。

会社なんてのは、この世の暮らしの中でのほんの一部。たかだか氷山の一角にすぎない、遊園地の仮装パレードです。

それはそれでイイのです。

ただ、仮装パレードは、それが仮装であるとハッキリ自覚しているからこそ楽しめるものです。
カボチャのお面やネズミの着ぐるみが本当の自分だと思い込んでしまうと、これは悲劇以外の何ものでもないでしょう。



会社に入った頃の私たちはどんな気持ちだったでしょうか。
社会人になりたての小っ恥ずかしさ、ハラハラ、ドキドキ。
それは中高生になりたての、あの頃と変わらなかったはずです。

いま一度、新入生だったあの日に戻ります。

教室でのフワフワした感じが終わりますと、その次には部活見学がありました。

すでにコレと決めている人も居れば、何も決めてない人も居ました。
とにかくみんな何かしら部活を始めたいと思っていました。
あるいは、そんなにヤル気は無かったものの必修だったから仕方ないという人も居たでしょう。

いずれにせよ、新しい何かをやることに対して期待と不安を抱きつつ、わけもわからないまま始めたのでした。

最初のうちは知らないことだらけで、緊張したり汗かいたり、それは大変なものでした。
先輩はやたらと歳上に見えますし、先生などはもはや異世界の存在でした。

ガツンと怒られればガックリ落ち込み、部活に行くのが嫌になったり、このシンドさがいつまで続くのかと思い悩んだりしました。

とはいえ、そんな日々ばかりでもなく、ごくたまに幸せを感じることもあったり、楽しさを感じることもありました。

そのうち、場所や雰囲気、人に慣れてきますと、先輩にも色々な先輩が居ること、意外と子供っぽいこと、先生だって自分たちと大して変わら
ない、単なる歳上なんだと分かってくるのでした。

そうして慣れに慣れてきますと、部室でダベったり、喫茶店に寄り道をしたりと自分たちの世界がハッキリくっきり作り上げられていきました。

良いこともツラいこともごちゃ混ぜな日々。
それは今思うと、本当に楽しいことばかりで、何と言っても限定されるがゆえに安全な世界だったことが分かります。

しかしそんな世界でも、当時はそれが私たちの世界の全てでした。
どこまでも広く大きく、そして悩み多き世界に思って居たのでした。





ひるがえってみて、今の日々というのはどうでしょうか。
例えばサラリーマン生活ならばどうでしょう。

取引先からはグサグサ刺されるような交渉を迫られ、上司からは滝のように仕事を回され、社内では全方位のあらゆる部署から突き上げを喰らう。

四方八方から満員ラッシュの圧が掛かり、自分はケシ粒のように押し潰される。
それでも自分は自分でありたいと、抵抗して押し返そうとする。

そうして、潰され押し返す日々に、身も心も窮々に疲弊していきます。

職場の空間に身を置くだけでツラい。
上司や顧客と会うだけでツラい。
心の休息もなく息が詰まっていく。

多くのサラリーマンはそのような状態になっています。

でも頭を一度リセットして、先ほどの高校時代の部活の話を読み返してみて下さい。
ただし、同じ文章ですが、それを会社に置き換えてです。

そうしますと、その当時はそれしか見えずに泣き笑い苦悩していましたが、そこを過ぎてみれば全ては期間限定でエリア限定の良い思い出という
ことが分かってきます。

サラリーマン生活なんて、高校の部活と何ら変わらない。

あのころ自分よりも遥か年上に見えていた先輩たちも、今思えばたかだか一つ二つしか離れてないガキンチョだった。
でも、その時には間違いなく大きく見えた。

おんなじことです。

会社の上司。あるいは役員や社長。
今は遥かに格上の存在に見えるかもしれませんが、たかだか10歳やそこらの年の差でしかない。

そんなのは、あと20年もすれば分かります。
まさに部活で見上げた先輩たちと何ら変わらないのです。

高いモチベーションで入った部だろうと、イヤイヤ入った部だろうと、どの部もみんなで何かを成し遂げようとしていました。

会社も同じです。
どんな思いで入社したにせよ、その部活仲間はみんなで何かを成し遂げようとしているわけです。

一つの目標に向かって頑張っていた部活動。
あの時の気持ち、雰囲気。

会社だとか仕事だとか考えるから麻痺してしまうだけ。
あまりに長いこと浸かっていると忘れてしまうのは当然です。
麻痺したこと自体が問題なのではなく、その状態に慣れてしまっていることが問題なのです。

仕事なんて部活に行くようなもん。
上司にしたって部活の先輩みたいなもん。
職場なんてのは部室に過ぎないわけです。

足取り重く考えることはありません。

部活のために部活しているのではない。
仕事のために仕事をしてるのではない。

それが分かれば、たとえ大変な状況にあろうとも、心はフッと軽くなるのではないでしょうか。

部活だって、その時は十分大変でした。
でもみんなで頑張りました。
仕事だって部活みたいなもんです。
失敗したって負けたって大したことではない。
評価されなくたってボロカス言われたって大したことはない。

だってこれは単なる部活動なんですから。
それで自分の人生が終わるわけではない。
それが自分の人生の全てではない。

学校生活の頃は、それが世界の全てのように思い込んでました。
でも学校生活なんて世界の一部でしかないのが、今ではとてもよく分かります。

サラリーマン生活だって同じです。
私たちの世界の一部でしかない。
部活に毛が生えたようなものでしかないわけです。

もっと気楽に、もっと肩の力を抜いて、今の苦労に立ち向かえばいい。

たかだか部活程度に、心底思い悩み、苦しむことなんてないのです。
たとえギュウ詰めラッシュに遭っても、そんなのは狭い世界の話。

それが世界の全てなんかではない。
それが永遠に続くことなんかない。

今の苦しみをそのまま苦しんでいれば、必ず、景色は変わっていきます。

ほっといても私たちは歳を取っています。
心は変わらずとも容器は変わっていく。
まわりの環境は変わっていくものです。
環境が変われば必ず展開は変わっていきます。

景色とは必ず変わるものなのです。

長く思えた高校生活も、今思えば、たった3年でしかありません。
たったの3年です。

今この時だけしか味わえない景色。

オジさんだろうと子供だろうと、そのことに何の変わりもありません。

「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候」

つまりは、そういうことなのです。





(まだつづく、かも)




スタートが違う

2018-08-19 14:24:26 | 心をラクに(仕事がツラいとき)
電車に乗っていますと、窓の外には当たり前のように家やマンションが続いています。
新幹線で何時間走っても、景色の向こうには家々が続いています。

都会でも田舎でも、ごく普通に、津々浦々まで住まいが広がっています。

購入であろうと賃貸であろうと、住む家を確保するのは大変なことです。
でもこんなにも住居が連なっている。

つまりそれが叶うだけの何らかの仕事を、みんなやっているということです。

私たちの意識というのは普段、目の前のことだけにフォーカスされているため、なかなかまわりを見ることはありません。

日々、自分の仕事や暮らしを見ていますと、何とかやっている、よくやってると思ったりします。
でもフト顔を上げてみますと、それが自分一人ではないことに気づかされるわけです。

自分のことしか見えていない状態というのは、アイ・カメラの世界(目が写す世界)です。
脳裏に映る世界とは、まさしくカメラがフォーカスした風景に他なりません。

他の人たちが目に入らないのは、意識(=カメラのフォーカス)が違うところに向かっているからです。

とはいえ、同じ他人でも、自分より恵まれている他人はやたらと目に入ってくる。
それというのも、自分が欲してやまないところ(環境、物、状態)へ心が向いてると、そこに居る人たちも画面に映り込んでくるからです。

結局それも、自分のことしか見ていないからこそ起きる現象だと言えます。





自分の意識が向いた先へとカメラは向きます。
本来ならばフォーカスする時だけ覗いて、それが終わればカメラはおろして裸眼に、すなわち普段の景色に戻るものです。
つまり裸眼の世界というのが今ココになります。

しかし四六時中、自分の欲してやまないところや不平不満に向けてフォーカスし続けていると、いつしかそれが世界の全てに成っていきます。
それは、常に双眼鏡を覗きながら生活しているようなものです。

寝ても起きても、遠く離れた世界ばかりが目に入ってくる。
自分が居ない場所。今ココではないどこか。
それが私たちの目に映り続けます。

「自分はそこに居ない」「その環境を得られずにいる」という映像にさらされ続けていますと「自分は不足している」「孤立している」と洗脳
されていきます。

足元には若草が生え、野花が咲いているのに、遠くしか見えない。

すでに自分に有るものは見えにくい。
まさに灯台もと暗しです。

こうであって欲しい、これが嫌だ、という不満不足は「今ここ」をハナっから否定するものとなります。
それは、今この肉体の有る現実世界ではなく、架空の世界、幻想の世界をさまよっていることに他なりません。



誰もが必死に生きている。
私たちはその一人です。

もとより、心から仕事を楽しんでいる人なんて滅多に居ません。

誰だって、家族を養うため、雨風、寒さをしのぐため、食料確保のため、つまりはこの世を生きるため、汗水を流しています。

どんなにツラくても、生きるために。

どこまでも続く家々。
マンション群の一戸一戸。
山あいの一軒一軒。
そのすべてに必死の日々がある。
何とかやりくりする生活があるわけです。

その波はこの世界の津々浦々にまで広がっている。
悲喜こもごも、苦しさも悲しさも、その数だけ広がっている。

生きているということは、生きるための勤めが存在しているということです。
生きていく手立てが必ずあるということです。

この世には今日を生きるための手立てが幾万と存在しています。

もしもこれが限られた数しか存在しない、たとえば椅子取りゲームのような世界だったならば、餓死者が後を絶たなかったでしょう。
でも現実はそうではありません。

先進国だから当たり前、現代だから当然、という単純な話ではない。
単なる金銭ではなく、生きていくための手立てという広い意味で考えています。

いつの時代でも私たちは生きるために必死に走り回っていました。

昔からそういうものです。
それが普通、それが当たり前。
ハナからこの世界はそういうものであるわけです。

ですから、そうではない状態を求めれば求めるほど苦しくなっていきます。

馬車馬のように走り続けなければならない人生、と嘆くことはありません。
それこそは逆の見方をする必要があります。

人が存在する限り、生きる手立ては尽きることなく存在している。

考えてみますと、実はこれはとても不思議なことであり、凄いことだと言えます。







通勤ラッシュの時間帯。

ドアが開いてドドドーっと人混みに押し潰されますと、窮々になって、目の前の狭い空間に必死になります。
外の景色を見る余裕なんてありません。

プライベートでも仕事先でも、色々なことが次々と押し寄せると、まさに通勤ラッシュの寿司詰め状態のようになっていきます。

身を守るため、現状を打破するため、目の前の一つ一つを解決していく。
ですから、目の前に集中してまわりが見えなくなるのは悪いことなんかではなく、もともと自然なことであるわけです。

しかしその状態が延々と続いてしまうと、マズイことになっていく。
まわりが見えなくなって、その狭い世界というのが自分の全てになってしまう。

そうなると、思うわけです。


「私たちは苦労するために生まれてきたのか」
「そもそも、なぜこの世は、働かないと生きられないような仕組みになっているのか」

「野ざらしの雨風の中に寝てもビクともしない丈夫な体」
「食事を取らなくても朽ちることのない体」
「そんなふうに人間を作っていれば、働かなくても過ごせたはず」
「そうすれば、心からやりたいこと、楽しいことに集中できたはず」

「しかし雨風に冷えれば体は壊れるし、食べなければ死んでしまう」

「だから住まいを確保しないといけない」
「だから食料を確保しないといけない」
「だからツラくとも働かないといけない」

「楽しくワクワク生きたいけど、生きるためには頑張って仕事をしないといけない」

「でもそれで仕方がないのだ」
「ツラいなどと考えてはいけないのだ」



心に湧き上がる不満を吐き出し続けると、このような感じになっていくのではないでしょうか。

ただ、普通はこんな不平不満をこぼすのは嫌だと思ってしまうものです。
ネガティヴな感覚は出来れば避けたいと思ってしまうからです。

でも間違いなくこれは必要なことだと言えます。

私たちは歳を重ねるほどに、疑問に思うことすらやめようとしてしまいます。
いわゆる、諦めグセというやつです。

何故?という思いつきそのものを即座に否定してしまう。
考えるだけ無駄、虚しくなるだけ、というようにです。

しかし最初から思考を停止させてしまうと、問題の本質には絶対に辿り着けません。
不平不満はよくない、ダメだ、という優等生思考こそが諦めグセの元凶です。

真実は逆で、不平不満にトコトン向き合わなければ、その先には進めません。
真面目になろうとすればするほどドツボにハマって行きます。
不平不満は吐き出しきらないと、その出どころが解消されることはないのです。

思考を停止させず、いま一度落ち着いて考えてみますと、不満の向こうに新たな疑問が現れてきます。

「ちょっと待てよ、なにかおかしい」
「そんなことのためにこの世は用意されたのだろうか?」
と。

そうしますと、それに対して間髪入れずに「違う」という言葉が頭に浮かんでくるはずです。

この世が苦しみの世界だなんて誰が決めたのでしょう。
私たちでしょうか?

いえ、私たちが生まれ落ちた時には、世界はすでにそのような決めつけに溢れていました。

我々はエデンの園を追放された罪人だ
キリストに石を投げつけた裏切者だ
輪廻転生から抜け出せぬ煩悩の塊だ
地球というのは宇宙の流刑地なのだ
すべては因果応報の結果なのだ…


時代を越えて様々な表現がされてきましたが、どれもこれも真実などではなく、その手前にある透明バリアーに他ならぬものでした。

そんなものに対して真面目な優等生になる必要なんて全く無い。

真実まであと少しのところで、常に私たちはスカされてきたということです。





受け入れがたい悶々を感じたならば、心の叫びを素直に吐き出したほうが素の状態に立ち還れます。

世迷い言(よまいごと)はやめろ、馬鹿も休み休みに言え、救いようのない話も大概にしろ、と

その声こそが全くもって正しいのです。

結局どれもこれも、この世は苦しいものという決めつけから論理をスタートさせてるからおかしくなってしまう。

この世は苦しいもの、そして神や天地は悪くない、となると「自分が悪いのだ」という結論に必ず行き着くことになるのです。

苦しい世界の中で私たちは翻弄されている、という構図そのものが間違っています。

何を選ぶか、選択は私たちに委ねられています。
世界がそれを決めるのではなく、私たちが決めるのです。

「決まりきった世界の中で私たちは受け身の存在でしかない」というのは思い込みです。
思い込みや決めつけからは、諦めと思考停止しか生まれません。

苦しい日々があり、私たちは生きるために苦労している。
もちろんそれは事実です。

ただその真意が分からなければ、たとえ心を救う言葉に出会えたとしても、その救いは一夜にして露と消え、再び荒波に翻弄されてしまいます。

真意というのはこうです。
「ひっくり返せば分かる」

生きるために苦労する
⇨ 苦労するために生きる

生きるために仕事をする
⇨ 仕事をするために生きる

スタートが逆、ということです。

私たちが平和に生きているところに苦労が襲ってきたのではない。
そもそもが苦労をするために生きているということです。

私たちの命は、生きるためにあるのではなく、苦労するためにあるわけです。



ここで今一度、ネガティヴやポジティヴというものについてリセットする必要があります。

例えば「この世に生きるのは楽しむため」というのは一つの表現でしかありません。
「人生はワクワクするもの」なんてのもそうです。単なる比喩です。
決して、それ以外が間違いということではありません。

この世に正解なんてものは存在しません。

ポジティヴな生き方が正しいというのもまた決めつけでしかないわけです。
なのにそれを追ってしまうから、それ以外の生き方が残念であるかのような錯覚に囚われてしまう。

苦労であろうと、ワクワクであろうと、あらゆる何もかもを味わうためにこの世は存在している。
もちろん、仕事にしてもそうです。

生きるために働くのではない。
働くために生きているのです。

ワクワクしない仕事だから残念、なんてことはない。
天職に巡りあえないから残念、なんてことはない。

仕事で苦労するのも、この世に生を受けた理由の一つということです。
だから、この世は仕事に溢れているのです。

そもそもワクワクする仕事ばかりが溢れる世界なんていうのはファンタジーでしかありません。
それは仕事がそうなのではなく、自分たちがどうであるかに尽きます。

「ワクワクする仕事に溢れている世界」というのは、正しく言えば「ワクワクする私たちしか居ない世界」ということになります。

それは、どんな仕事に対してもみんながしっかり向き合っている世界と言い換えることができます。

囚われや恐怖や縛りがなくなればワクワクする仕事に巡り会えるということではなく、様々な仕事の見え方が変わってくるということです。

何処か遠くに青い鳥を追い求めるのではなく、目の前の足元にしっかりと心を向けることが、ずっと求め続けていた答えであったと知るのです。

その結果として、新しい出会いや新しい仕事に巡り会うこともあります。
でも、それはどこまで行っても結果でしかなく、決して初めから目指されたものではないわけです。

そして繰り返しになりますが、それらはワクワクしていなければ成就しないということではありません。
ワクワクは心の指針ではありますが、私たちをフラフラと夢遊させる青い鳥ではないからです。

何よりも優先されるべきは今の目の前になります。

この世界であらゆる存在が目指しているのは常に目の前の一歩であり、そこに、この世に生まれてきた喜びが広がっています。

たとえ望むべきでない現実がそこにあったとしても、目の前の景色がその瞬間にとっての生まれてきた目的であり夢であるということです。

つまり、すべては今この瞬間にとってのパーフェクトなものであるわけです。

悩んだり悔やんだり羨んだりするのもまた一興。
それはこの世界だけで味わえるものだからです。

目の前に広がる景色。
それが楽しくなくてはいけない、なんてことは決してない。
幸せでなくてはいけない、なんてことはないのです。

苦しくとも悲しくとも、それこそが今この瞬間そのもの。

それでイイのではなく、それイイのです。

因果応報なんて、そんなネガティヴなイントネーションはクソ喰らえなのです。

なぜ仕事が在るのか。
なぜ私たちは仕事をするのか。

家に住むため、家族を養うため、食費を稼ぐためというのはすべて方便です。
私たちがイヤイヤでも仕事や生活に向かうための方便です。

ですから、食べないと死んでしまうのも、やはり一つの方便であるわけです。

食べないと死んでしまう。だから働く。だからあがく。だから悩む。だから苦しむ。

この一連を味わうための方便として、神様(私たち)は食べないと生きていけないようにこの世を作ったと言えるのです。




「誰のための弔いの鐘と問うなかれ、それはあなたの為に鳴らされた鐘なのだから」
(17世紀のイギリスの詩人)


生老病死をもってブッダは四苦と言いました。
生きていくのはシンドい。老いるもシンドい。病もシンドいし、死ぬのもシンドい。

しかしそのどれもが、どうしようもないものです。
どうしようもないことをどうにかしたいと思うところに苦しみが生じます。

しかし、どうしようもないということは、それ自体がこの世に必要なものに他ならないと言い換えることができます。

つまり、そもそも四苦はこの世には必要なものであるということです。
そうと知って生まれてきたのならば、私たちはそれを味わう目的で来たということになります。

生きるための仕事、生きるための勤め、生きるための役割、そうしたものは全てそのシンドさのための方便であり糧であるということです。

誰がために糧(かて)はあるのか。
否、誰がために苦しみはあるのか。

もともと外にそれが在って私たちがここに居るのではないわけです。
私たちがここに居るから、それがそこに在るのです。

仕事がもともと有ったのではなく、私たちのためにその仕事が有ったのです。
誰かがもともと居たのではなく、私たちのためにその人が居たのです。

上手くやれば苦しまずに済める、なんていう薄っぺらい期待感こそ四苦の最たるもの。
どうしようもないことはどうしようもない。
その苦しみは私たちのために起きているのです。

こんな仕事は嫌だ、こんな人は嫌だ、ワクワクする仕事をしたい、気の合う人たちとだけ好きなことをやりたい…
それは丸っきり違ったわけです。

今この仕事をやるために生きている。
今この人に会うために生きている。
今このシンドさのために生きている。

そのために生まれてきた。
そのために今この瞬間ここに居るのだ。


そのように降参しますと、見える景色が変わってきます。

無駄な日々など無い。
無駄な出会いなど無い。
無駄な苦しみなど無い。

何かと関わりあうため、誰かと関わりあうため、私たちは生きています。
ご縁というものが、自分一人では作れない体験を生みます。

自分の思いのままの世界が幸せだと決めつけると、そうではない現実に対して悩みや苦しみが生じます。

この世界は、もとより思いのままにならない。

他ならぬ想定外のできごとを私たちは味わいに来ているからです。

想定外というのは自分一人だけでは作り上げられない。
だからご縁というものがある。
仕事も人もそのためのものです。

想定外とはすなわち未知のことです。
仕事も人も苦しみも、すべては未知のためにあるわけです。

そして苦しみの正体とは、自己本位に他なりません。
これは決してワガママという意味で言っているのではありません。
自分しか見えなくなるという意味で言っています。

自分しか見えなくなると苦しくなるのがこの世界です。

ラッシュに窮して狭苦しい空間に閉じこもったり、あるいは遠くの庭ばかり双眼鏡で眺めたり、狭い景色を追っていると苦しくなる。

そこで苦しさから逃げずに、苦しさを受け入れる。
すると不思議なことに、世界がフッと広がっていくということです。

もともと私たちはThe Big Oneです。
大いなる一つであるわけです。
しかし、自分一人だけでは何の変化も生じず何の経験も得られない。
だから分離というものを仮定して、自分以外のものと関わりあうことにしました。

この世こそがまさしくその場として存在しています。
苦労というのは、関わりあいの結果として生じたものであるわけです。



自分たちが、まず今どこに居るのか。
双眼鏡をおろして、今ココをシッカリと見渡します。

そうしてそこに、不足、不満、苦労、苦しみがあったのならば、それこそがこの世に来た目的なんだと諦めきる。そこからがスタートです。

すると、今ココを否定することはなくなります。
今ココを受け入れるとはそういうことです。

これが中途半端なままですと、また双眼鏡を覗いてどこか遠くを探し始めることになります。

この世の中というのは、誰もが生きて暮らせるように出来ています。
それはつまり、誰もが苦労できるという意味でもあるのです。



(つづく)