これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

ツギハギが新鮮な輝きとなる

2016-10-18 19:45:26 | 天地の仕組み
この世界というのは循環と再生によって成り立っています。
流れ流れていることが、常に新鮮な清々しさを生み出しています。

生きるものすべてが、生じたのち育ち、老い朽ちて土に帰り、そしてまた生じます。
生き物だけに限らず、この世に存在するありとあらゆるものがそうであるわけです。

そのようにして天地発生以来、この瞬間に至るまで「今」というものが連綿とつづられてきました。

その理を悟り、今という瞬間が常に清らかに新鮮にあることを最上としたのが、神道の常若(とこわか)の考えです。
常若とは、清々しいエネルギーに輝き溢れる姿そのものを指します。

しかしながら産業革命以来の消費社会というのは、そうした循環とは真逆のものとなりました。

大量生産、安売り販売の世界では、直すよりも買い換える方が安いという状況になりました。
そうして修理業も廃れていくことになってしまいました。
昔は傘一つとっても、今に換算すれば3千円くらいしたように感じます。
そのため骨が折れたりジョイントが壊れた時には修理に出すのが当たり前でした。

しかし今はその修理屋さんそのものが居ません。
おまけに千円やそこらで新品が手に入ります。
そして安かろう悪かろうを絵に描いたように、驚くほどモロく簡単に壊れてしまう。
そうしてまた新品を買い換える…

このようにして、今まで自然に流れていたはずの循環は枯れ果て、途絶えてしまいました。

それだけではありません。
安いという概念によって、物を軽んじる心が私たちの中に生じてしまいました。
どうせ千円だから、まぁいいか、と。

これでは愛着など芽生えるはずもありません。

ほんの40、50年前の日本にはモッタイナイ文化がありました。
それはケチケチしてるということではなく、物に対する謙虚な心でした。
そしてそれというのは物に限らずあらゆる事柄へ向ける心であり、果ては自分自身に向けられる心そのものであったわけです。

今や、物を軽んじるがごとく、私たちは私たち自身のことも軽んじてしまっている。
しかしこれまでご先祖様たちは、自分自身に対しても謙虚な心を向けていたということです。

その何千年も受け継がれてきた心が、わずか50年やそこらで絶えようとしています。

服にせよ家にせよ、布や板を当ててツギハギになっても、今と昔ではその時の心の痛みが違いました。
誰かにそれを見られる恥ずかしさというのは昔だって今と変わりなかったはずですが、そうしたことよりも、粗雑に使い捨てることへの
申し訳なさの方が遥かに心が痛むことだったわけです。

そうして私たちのご先祖様たちは、そのような透き通った心のままに、美しい伝統文化を生み出していったのでした。

例えば「金継ぎ」という芸術は、まさしくそうした心を端的に表すものではないかと思います。

金継ぎというのは、割れた陶器を漆で接着して金粉を塗って継ぐ伝統技法です。
もちろん、最初はモノを大切に扱おうとする精神から始まったものでしょうが、それが驚くほどの美しさを生むことになりました。

もともと陶器というのは単色よりも微妙な色合いや濃淡のある方が好まれました。
バランスの取れた色形よりも、変化に富んだ複雑さの中に、私たち日本人は美しさを感じてきました。
単調でのっぺりした色形ではなく、濃淡や凸凹というものに自然の息吹を感じるわけです。

茶碗や湯のみが割れる時というのは作為的なカットなど一切ない、イレギュラーな形となります。
すなわち自然そのものです。
人為的なカットはそこに心が色濃く反映されてしまい、その時点で不自然さが際立つことになります。

作為のない状態に、私たちは大自然を感じるわけです。

そもそもは粗雑に扱うことへの申し訳なさに端を発した技術でしたが、いつしかそれは元々の姿以上の美しさを生み出す伝統技法となった
のでした。


今一度振り返るに現代の、物を粗末に扱う心、使い捨ての心というのは、そのまま私たち自身に対する心になっていきます。
すなわち、私たちは無意識のうちに私たち自身を使い捨てている、消耗したらポイ捨てするものだと捉えているということです。

「もとより物とは壊れるもの、直すもの」という当たり前な感覚が無い。

傷つきヒビが入ったらもうそれは2級品だ、処分品だと自動判定してしまう心。
それがそのまま私たち自身に向くと、少しの傷だけでもダメ人間だと決めつけてしまう心となります。

そうして、自分なんかは居ても意味がないとか、必要がないという思考に陥ってしまうわけです。

しかし、この世界のあらゆるものは流れ流れて変わりゆくもので、ヒビ1つ入らぬ頑強なものなど存在などしないのです。
むしろそれを目指した古代文明の成れの果てというものを、今やボロボロの巨石群として見ることができるはずです。

私たちの人生というもの、そして私たち自身も、何度も傷つき、欠けたり割れたりするものです。
それが生きているということであり、この世に存在するということです。


それは恥じたり隠すことなんかではなく、そこにこそ美しさがあるのです。
ありのままを受け入れるなんていう綺麗事のレベルではなく、純粋に誰もがそこに一層の美しさを感じる。
理屈など必要がないことは、金継ぎの美しさを見れば一目瞭然でしょう。
上の写真というのは、私たちそのものであるわけです。


昔の日本人はよく笑い、そしてよく泣いたと言います。
開国間もない日本に来た外国人が、大の大人が人目もはばからず泣いている姿に驚いたと書いています。

現代の私たちからすれば、鋼の精神を持つ侍が、人前で涙を見せたというのはとても信じられないことです。
でもそれこそが私たちの凝り固まった固定観念そのものであるわけです。

強くあるためには壊れてはいけない、割れてはいけないという心。
それが今の私たちです。
天地の自然の流れというのはそんな我利我利したものではありません。

割れても欠けても、それ本来の強さや美しさが損なわれることなどカケラもない。
それを知っていればこそ、泣く時は泣くし、笑う時は笑う。
私たちのご先祖様たちは、本人もまわりもそれを当たり前に受け入れていたわけです。

その姿を、みっともないとか恥ずかしいなどと感じた西洋人の方こそ、遥かに幼く、我心に凝り固まった偏屈者だということです。
そしてその偏屈というのは他でもない、今この私たちの姿でもあるのです。

そもそも鬱だとか、心を壊すだとか、なんだか現代が夢も光もない鬱屈とした時代のように言われていますが、そんなことはないのです。
たまたまほんの少し前の高度成長期が白夜のような異常事態だっただけで、その前は、今この時代と本質的には何も変わらなかった
のです。

ただ、その頃はそうしたものを普通に受け入れていました。
欠けまい折れまいとするのではなく、しょっちゅう欠けるし割れる。

欠けまい割れまいと抵抗して頑張ったりせず、それを素直に受け入れる。

そうしてそこからツギハギをして、当たり前のように一層の逞しさと美しさが現れる。輝きが溢れる。
欠けたり割れたりしたからといって敗北者の烙印など押したりはしない。
この世とはそういうものだと自分もまわりもごく自然に共有していたわけです。


私たちの身体というのも日々細胞が入れ替わっています。
数ヶ月で全て入れ替わるとも言いますし、骨も含めると数年かかって入れ替わるとも言います。
いずれにしても常に新しいパーツと古いパーツが混在しているということです。
それこそツギハギそのものと言うことが出来ます。

神道においてもそうした新陳代謝こそが新鮮な輝きの素であると考えられ、常若の精神が伊勢の遷宮となり春日の造替となりました。

棟持柱が次の大鳥居となり、もとの大鳥居が他の神社の鳥居となる…それは生まれ変わりとともにこの世のとこしえの循環を表すものです。

私たちは日々、傷つき再生しています。
それは比喩などではなく、現実として心も身体もその通りであるわけです。
細胞一つ取ってもそうであるように、この世に生きるというのはそういうこと。存在するというのはそういうことなのです。

実際、大病を患った人ほど長生きをしたり、若かりし日に死線をさまよった人の方が老いてますます丈夫になったりするものです。
逆に、温室で蝶よ花よと傷一つなく大切に育てられた人の方があっさり逝ってしまったりします。

傷は恐れるものではありません。
粉々に砕け散っても、私たち自身が無くなることはありません。

むしろ、その一つ一つがこの次の頑丈な骨継ぎとなり、さらなる輝きを生み出す素にもなっていくのです。

壊れてもイイのです。
傷ついてもイイ。
欠けてもイイのです。

それは、より一層の輝きとなり、逞しさとなります。

壊れることを恐れなくていい。
それにダメ出し判定することなど無いのです。

挫折を怖れる必要はありません。
失敗を怖れる必要もありません。
非難も失望も、何も怖いものなどありません。

私たちは傷ついても大丈夫なのです。
欠けても壊れても大丈夫なのです。

人に潰されても、仕事に潰されても、生活に潰されても大丈夫。

身体が壊れても、心が壊れても、私たち自身が壊れることは決してないのです。

金継ぎの国宝のごとく、その先にはまさかの世界が広がっています。

そこで壊れるものは、のっぺりと単調なラインの我執でしかありません。
そうした作為を越えた世界にこそ、天地自然の輝きが現れ出てくるのです。



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天地の大道 (2)

2016-10-11 21:28:11 | 天地の仕組み
人生に面白みを感じられなくなったり、時が経つのを虚しく思ったり、この世に張り合いが無くなった時に、ふと自分にもそろそろ
お迎えが来るのかと思うことが、もしかしたらあるかもしれません。

確かに自分の魂とその思いが一致していればそうなるところですが、実際のところがどうであるのか表層の私たちがそれを知覚する
ことはまずもって無理な話でしょう。
ただ間接的な証明として、実際こうして今も生きているということは、私たちの魂は「この世でやることはやり尽くした」とは思って
居ないということが言えます。

それとは逆のケースとして、表層意識で「まだやり残したことがある」と思っても、魂が「今回やることはやった」と判断すれば
アッサリと旅立つことになるのですから、それをもってしても先ほどの証明は明らかであるわけです。

あの世に旅立たつことなくこうして生かされているということは、魂が「まだまだ味わえることがある」のを知っている状態だと
いうことです。

ですから、虚しい、つまらない、張り合いがないと感じている表層意識の方こそ事実誤認ということになります。

そのような思いが全身を覆い尽くしている時、あたかもそれが世界の真実であるように感じますが、その水面下で私たちの魂は全く
涼しい顔で、まだまだ味わっていない喜びを今か今かと楽しみにしているわけです。

こうしたギャップは、心の向け先が魂の照らす範囲とズレてしまっていることによって生じています。

ただ理屈はそうであるのですが、それならば魂が照らしているのが何処なのか探そうじゃないか、となると、それは逆に解決を遠ざける
ことになってしまいます。

そもそも心が向いたところにしか私たちのサーチライトは当たりません。
しかし、心の向いていないところ、いま光の当たらないところにそれはあります。

私たちのヘッドライトがおでこに固定されているうちは、いくらキョロキョロしても絶対に見つかりません。
まるでそれを避けるかのように、常にその光が当たらないところに在り続けるのです。

では、どうすればいいのでしょうか。

むしろ、光を当てようとしない、見ようとしないことがそれらを感じ取る近道になります。

見ようとしないといっても、その存在を無視したり、気にしまいとするのではありません。
それは、普通に確信している状態です。

「それは在る。ただ、今は見えていない。」

ひとたび腹に落とせば、あとは放っとくだけです。


私たちの魂は、私たち自身だけにとどまらずこの周囲を大きく照らしています。
その照らすものとは、人であり、物ごとであり、事象の流れといったマトリックスの世界であるわけです。

ですから、今は見えていない水面下の日蔭にも魂の光は届いていますし、同じようにまわりの人や物事へも広がっているということです。

魂が楽しみに待っているという景色、私たちにはまだ見えぬ世界が目に映るようになるのは、私たちの心がそこに向いた時です。
つまりは、魂が照らす範囲へと心が広がった時ということです。

そしてその照らす先がどこなのか分からない、あるいはボンヤリ見えはしても逃げ水のようにそこへ近づくことができないのならば、
まずは自分の身のまわりへと心を向けていけばいい。


魂は全方位に広がっていますので、そのうち一つにでも心が一致すれば、自ずと他の方位にも心は広がっていくということです。

そしてそれというのは「心を満たす」ことの解決にもなっていきます。

水面下の方向というのが何なのか分からなくとも、別の方向で1つだけ明らかなことがあります。
つまり、他人へ心を向けて他人のために何かをすることです。
それこそが、心の不足感を埋めることになり、また、目に映って居なかった景色を水面上に浮かび上がらせることにもなっていく
わけです。

こうしたことは打算や損得勘定、交換条件では成立しないのは明らかです。
たとえ見た目には世のため人のためであったとしても、もしそこに打算や損得勘定があったならば、その心は自分に向いたものであり、
自分のためにしていることに他ないからです。

これは、陰徳というものが、誰にも気づかれない方がいいとする理由でもあります。

景色にせよ、不足感にせよ、心が外へと広がることで初めて変わっていくものであって、自分に心が向いてしまっているのでは何も変わら
ないどころか、むしろその傾向をさらに強めることにしかならないわけです。


いま、目の前に大道が広がっていたとしても、それが私たちの全てではありません。
世間で言われるところの正道、燦々と日が照らす本道だけでなく、誰の目も向いていない脇の道がこの世には無数に存在しています。

それは仕事かもしれませんし、趣味かもしれません。
あるいはそんなジャンルを越えたものかもしれません。

そしてそれは今の私たちには想像もつかないことであるということでした。
しかし、それは確実に存在しています。

何故かと言えば、私たちは何かを味わいたくてこの世に生まれて来たからです。
そして、それがまだ見ぬ何処かに存在しているのは、今こうして生きていることこそが一番の証拠です。


生きることが虚しくなったのならば、その味わい求めた何かが今の景色には映っていないというだけなのです。


私たちは、見たいものしか見えていません。
見ようとしたものしか見えません。

それは無意識に行われているため、そもそも見ていないことにすら気づけていないというのが真実です。

ですから、魂が味わい求める景色というのは、すでに目の前にあるのに単に見えていないだけかもしれません。
もちろん、そもそも目の前には無いということもあります。
どちらのケースであっても共通しているのは、今の私たちには想像もつかないところにそれは在るということです。

だからこそ、その存在を確信することが、自然のうちにそれを浮かび上がらせるための解決法でありました。

そしてそれを邪魔しているものこそ、私たちの頭に固定されたヘッドライトであるわけです。
つまり、目の前に広がる大道が唯一の正道だという思い込み、固定観念をリセットすることが真っ先に必要となってくるということです。

私たちが個々に生きる人生というのは、目に映っている景色が全てではない、と。

とはいえ固定観念というのは固定されてどうにもならないものだから固定観念と呼ばれていますので、それを否定したり無くそうとしても
どうにかなるものではありません。

ですから今ここでは、ただ「これ以外のものも在るのだ」という気持ちを持つだけです。
目に映るもの以外、心に映るもの以外の価値観を受け入れるということであるわけです。

・・・

あるときフト、誰も見向かないような脇道の存在に気づきました。
そこは道と言うにはあまりに荒れ果てて、誰もそれとは思わないような、道なき道でした。

しかし、ただ気になるというその一点だけでその人は突き進む。
たとえ笑われようと、理解されまいと。

それがいつしかトンデモないオアシスへと繋がる道となりました。

それは自分だけ心地よいものかもしれませんし、誰にとっても心地よいものかもしれません。

しかし、そのどちらであろうと、その道が正道となり、大道となったことに違いはありませんでした。

自分自身にとっての晴れやかな道であれば、すでにそれは日蔭の道でなく天下の大道と成っているわけです。

日蔭の脇道も必ず日なたに成ります。
だからこそ、脇道を許容する社会、それを受け入れる心というのが大事になります。

この脇道というのは、現実的な世界を指すだけでなく、心の道も指します。
たとえ現実が変わらなくとも、目の前に映る大道だけに心を縛らず、目には見えない蔭へと
目を向けた時、脇道はその脇道のまま爽やかな風が吹き抜ける大道へ成っていきます。

それは理屈や打算、常識や価値観によって支えられるものではありません。
そもそも、脇道とは常に想定を逸脱するものです。
脱線すればこその脇道であるわけです。

そうでなければ新世界に成ることなど理屈からしても不可能です。

つまりそれは理屈から一番遠いところにあるということです。
理想論や真面目さとは対極にある。
打算や逆算で心を押さえつけるのは苦しみにしかなりません。

景色に映らないものを否定しない心というのは、異なるものを拒絶しない心、むしろそうした突拍子もない事柄を笑い飛ばせる心が
大前提となります。

許容する心、受け入れる心というのは、結局のところ自分自身に向ける心となり、つまりは進んで脇道へと身を投じる心にもなって
いきます。

冒頭のイグノーベル賞を受賞した研究者はもちろん、ノーベル賞を受賞した研究者たちにしても、誰も通らない脇道を進みました。
ここになんか気になる道があるぞ?と思って、目の前にある道を進んで行ったのでした。

結果がどうなるかよりも、目の前の一つ一つに正直になったのでした。

そしてそのノーベル賞を受賞した大隅先生はこう仰っています。

「人と違うことをおそれずに、自分の道を見極めて突き進んで欲しい」

これを聞いて、また特別な花道のようなものを想像してしまうとおかしなことになってしまいます。
別にみんながノーベル賞なんかを取る必要など全く無いのですから。

私たちは誰一人として同じ人間は居ません。
他人とは違うに決まっています。
そんな当たり前のことなのに、私たちはそのことをすぐに忘れてしまいます。

働くとはこういうもの、サラリーマンとはこういうもの、主婦とはこういうもの、生きるとはこういうもの…
そうした思い込みに縛られ、いつしか世の中の大道だけを歩くようになりました。

そうして、自分なんかがみんなと違うはずがない(特別なはずがない)と信じ込んでしまいました。

もう一度繰り返します。

私たちは、誰一人として同じ人間は居ません。

ですから、そのまま普通に歩けば、それが自分の道となります。
たまたま似たような道になることもあるでしょうが、間違いなくそれぞれ違う道になっています。

わざわざトリッキーな脇道を探そうとか、目の前の道を逸脱しようとかしなくても、普通に歩いていけばイイのです。
いけないことというのは、知らず知らずのうちに「世間の大道」を歩こうとすることです。

決めつけない。
あとは、ただ普通に歩いていくだけです。

それこそが「天地の大道」であるわけです。





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天地の大道

2016-10-04 08:14:49 | 天地の仕組み
今年も日本の研究者がイグノーベル賞を受賞しました。
ノーベル賞ではなく、イグノーベル賞の方の話です。

ご存知の通りイグノーベル賞とはノーベル賞のパロディで、奇抜な研究に対して贈られる賞です。
一種のユーモアとして始められたものでしたが、回を重ねるごとに知名度を上げて今では受賞者も喜んで参列する式典となりました。

研究内容が一見バカげていても、そこには真剣な理由や目的があります。
そうでなければ大学や国が研究費を出すはずがありません。
ただ、見た目の華やかさだけで人は評価をしてしまいがちです。

そこに一石を投じたのがイグノーベル賞でした。
素人からすれば鼻で笑ってしまうような研究であっても、その一石が波紋となり本来の輝きが明らかになったのでした。

私たちが暮らしの中で目にしている当たり前というのは、数々の日蔭が積み重なって結実したものでありました。
世の中に奇想天外な研究がこれほど数多くあったというのは驚きですが、しかしそれこそは、当たり前なことが当たり前になる前の
つぼみ、言いかえれば日蔭そのものであるわけです。

それにしても日本人が10年も連続受賞しているというのは、なんと誇らしいことでしょうか。
どう考えても金目にならない研究、実用性のない研究、馬鹿馬鹿しく思えるような研究ばかりなのにそれを許容できるのは、本当に懐が
深く、成熟した社会だと言えるでしょう。

例えばバナナにすっ転ぶ研究といったものは、スケールは違いますが宇宙観測などと本質的に変わらないものです。
地表観測やロケット開発などの軍事戦略的な意味合いを抜きにすると、純粋な天体観測というのはとにかく莫大な費用がかかるだけで、
日常生活が革新的に便利になったり、あるいは何かの大儲けに繋がることなど決して無い研究です。
その目的はただ、私たち人間やこの天地宇宙が如何にして生じたのか、あるいはどのようにして存在できているのかという知の探究で
しかありません。

そのようなことに途轍もない労力と費用をかけられる社会というのは、成熟以外の何ものでないでしょう。
そして、それはイグノーベル賞のような一見笑ってしまうような研究であっても同じであるわけです。

私たちがただ単に生きるだけなら、明らかに実利のある事柄だけに集中投資した方が効率的です。

しかし、現実というのはそうではありません。

様々な生きものたちが生存することに全力を向けているのに対して、私たちにとっての生存というのは別の目的を叶えるためのもの
でもあります。

すなわち、生きるために生きるのではなく、心を満たすために生きているということです。
だからこそ、心の満たされない状態が続くと絶望してしまい、心を壊したり死を選ぶようなことが起きてしまうわけです。

もとより私たちは生きるためだけに生きているのではありませんので、そうしたことを責めることは出来ません。
ただ、だからこそ、そうなってしまう前に自分にとっての「心が満たされる」ということが何なのか、見誤らないことが重要になって
きます。


自分の身の回りを充実させる、物品に満たされる、飲食に身を投じる、嗜好品に興じる…

あるいは、何かに没頭する、誰かのために何かをする、人の喜ぶことをする、国や社会に貢献する。



一口に「心を満たす」と言っても、それは状況によって、あるいは人によって様々です。

魂の成長の差などという一言で片付けてしまうようなものではなく、ある意味、言葉のアヤでしかないと言えるかもしれません。

どれもこれも「心を満たす」という表現でくくられてしまっていますが、実際はベクトルも土俵も全く異なるものです。

正しく言えば、前者は「自我の衝動に応える」であり、後者は「芯の部分から湧き上がる幸福感を求める」になります。

しかしここでも間違えてはいけないのが、自我というものに対して単なる欲得感情のように捉えてしまうことです。

例えば、戦後日本が高度成長期を経て豊かになる中では、心を壊す人や命を絶つ人が今ほど居ませんでした。
一つには、生きるに必死だったということもあるでしょうが、その一方では目に見えて景色が変わっていったということもあるでしょう。
一つ一つの芽が土中から花開くさまを目の当たりにしていくにつれ、心は満たされていったはずです。

少し前に流行った昭和30年代のノスタルジックというのはその肌感覚の反芻だったのではないかと思います。
日なたの結実を目の当たりにして、生きているという実感を持てた、一歩一歩しっかり山を登っている実感を持てたいうことです。

身の回りの物品に魅力を感じることが未熟だとか幼いということではなく、それぞれ根本から全く異なるものであるわけです。

ただ、生きとし生けるもの、少しずつ魂の照らす範囲が広がっていくに従って、当然のことながら心の満たされかたも変わってきます。
そして、魂の照らす範囲が広がるにつれて、自我というものが明確になっていきます。

動植物から人間へと魂が経験を重ねていくにつれて、個体の中でおさまっていた自我が少しずつ色濃くなっていきました。
そうして魂の照らす範囲が一個体の中にとどまらず、その外へと広がって行く時、その自我もその外へと広がって行くことになります。

それはいま私たちが解釈しているところの「自我」とは異なるものであるわけですが、これまでの魂の進化の延長として考える
ならばそれもまた「自我」で間違いないわけです。
進化の遥か先にある天体や宇宙というものも自我を有していて、ただそれは自他の区別が無くなっている状態にあるということです。

自我が個体の外へと広がっていくというのは、要するに、自他の境を薄めていくことと同意と言えます。

「自我」と聞いた時に固定的な概念をイメージしてしまうと、それを「失くす」とか「薄める」、「昇華させる」「手放す」という
発想になって、それではない何かを追い求めることになってしまいます。
しかし、実際はすべては同じ延長上にあるもので、それは例えば私たちの肉体が成長するにつれて変化していくのと何ら変わりない
ものなわけです。


身体の成長ということに関して、子供の肉体を捨てて大人になるとか、子供の肉体を手放して成長するという考え方がいかに的外れで
あるか。
それらは同じ一直線上にあり、内含しながら変化しているだけであるというのは誰もが当たり前に理解していることでしょう。

子供の肉体を手放さなければ大人になれないと思い込むが如く、私たちは自我を手放さなければ真我に近づかないと思い込んでいます。
それがかえって、自我というものを固定化させることになっています。

そうやって一個体の中に自我をとどめてしまっている結果、私たちは魂の照らす範囲との間にギャップを生じさせてしまっています。

いつまでたっても満たされない想いというのは、そのギャップがあるが故に、魂の照らす範囲と、自身のアクションとがズレてしまって
いるということです。

もしも魂の照らす範囲が個体の内にある場合は、自分だけのことでも十分に満たされるでしょうが、照らす範囲が自分自身から
溢れている場合それでは満たされなくなります。
そして人間というのは、その魂が、一個体の範囲を遥かに越えてその周囲までを照らす存在です。

魂が成長していく過程で、太陽の照らすがごとくその光の照らされる範囲は少しずつ大きくなっていきます。
生まれ変わるごとに、照らされる範囲に合わせるように着替えていき、それが一個体の範囲を越えて照らされる時、私ちちは人間という
身体をまとうようになるのです。

私たちは誰もが、本人の自覚、気持ちの有る無しに関係なく、その魂は一個体の範囲を越えて周囲を照らしているということです。

ですから、優等生的な発想からではなく、私たちは、自己保身や自我の欲に応えるだけでは芯から満たされることはないのです。

この話を進めていくと、例えば、自分の心と向き合って生きてきた人や、信心深い人、前世において心を磨いてきた人は、それが顕著に
なるということになります。

端的に言ってしまえば、自分のためだけに生きていると虚しくなっていくということです。
魂の照らす範囲が広ければ広いほどそうなってしまう。
平凡な人生だろうが、派手な人生だろうが、そこのところはあまり関係がない。
自分という個体の範囲を越えて、溢れ出すようにして他者へと心を向けることが、満たされぬ想いを解決する糸口になっていくのです。

といって、他人の顔色を窺いながら生きて行くということではありません。
それは、嫌われたくない、波風立てず平穏に暮らしたいということですから、結局のところ自分のためだけに生きていることに他なら
ないからです。


(つづく)





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