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日蔭のかがやき (序)

2016-07-26 20:19:39 | 日本を旅する
ひと月も前のことですが、長野県の戸隠と諏訪に行ってきました。
茨城の鹿島・香取と同じように「早く行かなくては」と焦燥感に駆られながらもなかなかタイミング合わず、ようやく
訪れることができました。

戸隠は15年ほど前に近くを通ったことがありましたが、その時はただならぬ雰囲気に逃げ帰ってしまったという、ある意味
思い出深い場所でした。

あまり神社に興味ない先輩たちも「せっかくだから寄ってく?」と言ったのですが、ハンドルを握っていた私は「やめとき
ましょう」と即答して通りすぎてしまいまして、普段は率先して行きたがっていただけに、意外そうな顔をされたことを今でも
覚えています。

あの時の感覚というのは、頭や理屈ではなく、身体的、本能的なものでした。
体の奥底、中心の中心から、何か分からぬ恐ろしさがジワーッと全身の細胞へ広がっていくような感覚でした。

たしかに勉強不足で礼儀知らずのまま行っていたら大変なことになっていたかもしれません。
もちろんバチを当てるというようなことを天地はしないでしょう。
ただ、結果として苦しんでいたのではないかと思います。
それは苦しめようとしたものではなく、勝手に苦しんでいると言った方がいいかもしれません。

似たようなことが高千穂峡でもありました。
以前にも書きましたが、高千穂の時こそまさに常識不足の礼儀知らずで、ご神域に入るということの何たるかも分からず
お参りをしていました。

さすがに頭を下げたり柏手を打ったりということはしてましたが、そうした所作も含めて基本的なことを知らない。
そもそもの御手水からしてすっかり忘れてスルーしてしまうような有り様でした。
何というか、自爆そのものです。
不可抗力だとか無罪放免を願うとかそういう情の話ではなく、この世界には厳然たる原理原則が存在していることを
知ることになりました。

とりわけ陰陽様々なエネルギーが天を覆うように渦巻く場所を、観光気分のままフラフラと気を抜いて歩こうとしたのは
軽率かつ非常識だったと言うしかありません。
喩えるならG7サミットの首脳が集まるど真ん中に下着姿でフラフラと入っていくようなものでした。

そんなの知らなかった、では済まされないわけです。

手と口をすすぐのは神様への礼儀ということだけでなく、自らの身を護ることにもなります。

「空気が変わる」という表現がありますが、それは、より精妙な世界ということでもあります。
私たちの日常世界はガチャガチャと粗いものですが、スーッと澄んでいくにつれて透き通った世界に成っていきます。

粗い状態で精妙な世界の中へ入ると、何も聞こえず感じないままで終わったりしますが、自らも精妙になっていくと
ツーツーに風が通り抜けて一体となります。
自我の主導で成ろうとしてなるのではなく、自然となっていくということです。

その逆に、荒々しい存在がうごめく世界に、自らも粗い状態で身を置くとグワーッと入られてしまうことがあります。
自らが精妙になっていくと、そういうところへ近づくことがなくなり、またたとえ立ち入ってしまったとしても波乱れること
なく通り抜けさせて頂けます。

日本には、様々な存在の呪いや怒りを鎮めている場所があります。
それはもちろん凄まじいパワーであるわけです。
それをパワースポットと表わすのは意味合いとしては間違ってはいませんが、そこで何かを貰えるなどと思うのは筋違い
でしかありません。
テレビでは訳も分からずパワースポットと囃し立てていますが、そうしたところは「祟ったり呪ったりせずに平穏無事に
生かさせて頂いていることを感謝するための場所」であって、つまる
ところ、今この現状を感謝するための場所であるわけです。

今よりおかしなことにならず有りがたい。
今この状況が有り難い。
ですから、いま以上のことを求めるなどお門違い以外の何ものでもありません。

そういう場所に行くと「何かいつもと違うものを感じる」のは当然のことで、それは喜ぶことではなく、恐れることです。
どうしても気になるならば、遠くから感謝を送ればいい。
わざわざ危ない橋へ突撃することはないと思います。
面白おかしく無難に通れるのは、無邪気な童心のうちだけでしょう。
子供のエネルギーは本当に凄いものです。


話を戻しますが、高千穂のような場所というのは様々なエネルギーが渦巻いています。
精妙な世界にあっても清濁様々なエネルギーが集まるところがあります。
太古からのパワースポットと言われるようなところではこういうことがよくあります。
そのような場所へ、粗い状態のまま入っていくと浸透圧と同じように荒々しいエネルギーが入ってきてしまいます。

精進潔斎というのは、自らを精妙な状態へとリセットさせるものです。
ですから、自らの身を護ることにもなります。

とはいえ、精進潔斎の発端、ルーツというものはもっと自然発生的な衝動だったことでしょう。
身を護るとか礼儀だとか、そのような理屈の世界ではなく、そうせずには居られないというものであったのではないかと
思います。

途轍もなく圧倒的なまでに崇高な存在、無限小に至るまでが澄み切った清らかな存在、そうしたものの前に身を置くと、
言葉や理屈は吹っ飛び、感覚だけの世界になります。
何というか、とにかく今この状態が申し訳なさすぎる、居ても立っても居られないという感覚が押し寄せます。
そうした時、ただただ、綺麗な水で全身くまなく洗い流したい、下着にいたるまですべてを真っ白なものに着替えたい、
そのような強い衝動に駆られます。
精進潔斎の知識ありきではなく、真っ白になりたい衝動が先にあって、結果としてもとの知識と合致するという感じです。

うまい喩えではないかもしれませんが、例えば、部屋で薄汚れた格好でくつろいでいたら、いきなり戴冠式の晴れ舞台に
瞬間移動してしまったと想像してみて下さい。
それこそ今すぐ綺麗な格好に着替えたいと心底思うのではないでしょうか。
しかしその思いが叶わず薄汚れた格好のまま衆目にさらされ続けますと、居たたまれない、穴があったら入りたいと恥じ入る
のではないでしょうか。
この時、まさしく理屈などではなく、心の底から綺麗になりたいと思っているわけです。

澄み切った空気、雑味ひとつ無い空気の中にありますと、際立って異質な自分に違和感を覚えます。
見栄や外聞ではなく、綺麗なところに置かれたら、清らかにならないと居たたまれないわけです。

そして、お手水というのはそれを瞬時に叶えます。
すすいだ瞬間、くたびれた服装がシンデレラのドレスに替わるようなもんです。

本来の禊祓いとは全身を洗い清めるもので、口と手をすすぐのは簡易的なものとされますが、そんな安っぽいものでは
ありません。
お手水はそのものズバリ、禊祓いです。
居たたまれない感覚は瞬時に無くなります。
モヤモヤとした違和感もスーッと消え去ります。

まさしく禊祓いそのものです。
簡易的なものだとか、神様へのマナーだとか、形式だけのものだとか、そういうことではないということです。

高千穂ではそれを知らずに、お手水そのものが頭から抜け落ちてしまうという恐ろしいことをしてしまったわけですが、
その結果、何が何だか分からない苦しさに戸惑うことになりました。

ただ、そうやってしばらく悶々としていたところ、ある瞬間からフッと薄い皮膜に覆われたような感じになりました。

何と表現していいか分かりませんが、それは海底二万マイルに出てくるような、一昔前の潜水服を着させられたような
感覚でした。
頭の部分が大きな球状になっているアレです。

透明な気泡に包まれたような感覚とでも言えればファンタジーな感じになりますが、実際のところは、皮膚呼吸がしにくい
というか息苦しい酸欠状態でしたから、そんなメルヘンな絵面には程遠いものでした。

そしてその時というのは、薄皮一枚を隔てた外部は、今のこれとは丸っきり違う異世界そのものに感じました。
潜水であれば服一枚の向こうは海水であるわけですが、それと同じように、明らかに潜水服の外が異質のものだという
感覚に包まれました。

自分の皮膚の周り、潜水服の内側だけがこちらで、その外は別次元。
目に映るのは見慣れた景色ですが、その人もその風景も、水槽を隔てて向こうに見える状態。
まさに水に映る映像のような、三次元の実体感がない世界なのでした。
また、足の一歩一歩にしても踏み締める重みがなく、夢遊しているような非現実的な感覚となっていました。

観光客はみんな美味しそうに名物のダンゴなんかを食べていますが、潜水服にくるまっている自分は何一つ口に入れられない。
お茶やポカリも入らない。
唯一、水だけが飲めるという状態でした。

目の前でダンゴを食べる人たちの姿は何だかテレビの映像でも見るような感覚でしたが、何故だか、自分が周囲とは
ズレているということをごく自然に当たり前に受け入れていました。
深いところで感覚として納得しているものの、それがどういうことなのか頭では分かっていないという状態でした。

この時も天岩戸神社や天安河原はあまりにも畏れ多く恐ろしく、参拝するなどトンデモなく、近くを通る時には平身低頭、
息も殺して通らせて頂きました。
本当に畏れ多い時には、顔どころか目を上げることもできない。
お殿様の前で面を上げようとして「無礼者!」なんてシーンがありますが、あれは理屈やしきたりであのようになった
のではなく、なるほど本当に貴い存在の前ではそれしか出来ないということをこの時知りました。

そんなこんなで文字どおり逃げるようにご神域から脱出したわけですが、その瞬間シュッと透明な皮膜がなくなり唐突に
普通の状態に戻りました。
徐々に無くなるのではなく、あるポイントでピュッと無くなる。
その時はもう、何というか久方ぶりに水の中から上がって空気を吸えたというか、やっとシャバの空気を吸えたような感覚
で、フーッと大きく息をついたのでした。

知らなかったとはいえ、無鉄砲な危うさをそのように護って頂けたことにあらためて感謝であります。

私たちは光の反射によって、ものごとを網膜に映し見ています。
それはつまり、反射しないものは見えていないということになります。
これはステルス機の原理にもなっています。
目に見えないものとは、日の当たらない陰の世界とも言えます。
しかし、陰にこそ輝くものが実在しているわけです。


さて、今回は長野の旅を書くつもりだったのですが、思いっきり別の話に脱線してしまいました。

15年ほど前に初めて戸隠の前を通った時は、この高千穂に通じるところがありました。
生半可な気持ちで近づいてはいけない、危うきに近寄らず、出来れば行きたくないと長い間フタをしてきましたが、そう
やって見ないふりをすることも出来なくなってしまいまして、思い切って出かけることにしたのでした。


(つづく)




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