これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

天地自然のペース(つづき)

2018-09-11 07:52:16 | 天地の仕組み
前回、見知らぬ人の氣に乗っかった話をしました。

この時は他に何も考えず相手に心を向けていたため、雑念が無くなり、相手の氣と一つになったのでした。

体調不良の時というのは、身体が重くなり動くのがシンドくなります。
これは悪いところの治癒にエネルギーを集中させているからというのも理由の一つですが、あまり外をウロウロさせないためという理由もあります。

そのことは、狩猟生活をしていた原始時代や、それより遥か昔の弱肉強食の歴史を考えればすぐに分かります。
体調が悪いのに無理をすれば、それが命取りになるからです。

台風や豪雨が迫ってきている時に身体が重くなるのもこれと同じ理由と考えられます。
気圧が下がると身体が動かなくなるのは、巣の中でジッとさせるためのもの。
命を守るため、つまりは「大難を小難に済ませるため」の仕組みであるわけです。

気圧が下がろうが熱が出ようがピンピンしている人も居ますが、パフォーマンスは確実に落ちています。
ちょっとしたことで動けなくなる人はそうした人を羨ましく感じるかもしれませんが、人類の長い歴史で見たらどちらが強者か明らかです。

一人の生涯として見ても、それはウサギとカメの構図になっています。
病弱な人の方がかえって大病を患わず、太く長く人生を謳歌できるというのが事実です。

太くというのは、元気ならばすっ飛ばして見逃すような、表に見えない裏側や奥深く、スイも甘いも喜びも悲しみも、ユックリしっかり味わうと
いう意味です。

また、心が増長しそうな時に強制的に謙虚にさせてくれているという側面もあります。
決して非難したり卑下したり悲しんだりするものではないわけです。



体が弱っている時は、氣が小さくなり、感性も鈍くなります。
それは気持ちの問題などではなく、身を守るための自然法則です。
氣が広がったままだと体を動かせてしまう、だから氣を小さくさせて動きにくくしているわけです。

それを恨めしく思ったり残念に思うのは単なる身勝手ということになります。
体調を崩すと動けなくなるのは生存本能です。
どうしようもないことだと割り切るしかありません。

とはいえ、そんなことで休んでいられないのがサラリーマンのツライところです。
心にムチ打って無理に焚きつけてでも、重い足を前へ出さなくてはなりません。





弱っている時は、もうアドレナリンを出してガツガツ我利我利やるしかありません。

これは心身ともにダメージが残るので本当はやりたくないところですが、といって自然体が一番だなどと言って、勤めを放棄するのは本末転倒に
しかなりません。

自然体にあることが、この世に生まれた目的ではないからです。

誰しも自然体に在りたいと思うものです。
ただ、いつなんどきでも自然体のままで在りたいと思ってしまうと、それは執着になります。
自然体に囚われてしまった時点で、もはやそれは自然体ではないわけです。


災難に遭う時節には災難に遭うのがよく候
苦労に遭う時節には苦労に遭うのがよく候


その瞬間だけを見ると「良い・悪い」「嬉しい・ツラい」という価値判断が生じますが、一生涯あるいは生前・死後まで広がる流れを見たとき、
そんなものは一時的な感情で貼り付けたレッテルに過ぎないことが分かります。

どんな展開であろうと、その瞬間にとってベストのことが起きています。

そこに何かしらの意味づけをすること自体、囚われにしかなりません。
意味なんてものは死んでからしか分からない。
分からないことはサッサと手離すのみです。

「塞翁が馬」の故事を見てわかるように、結局は最後まで良かったのか悪かったのかなど分かりません。
なぜかと言えば、そもそも「良い・悪い」というもの自体がこの世に存在しないものだからです。

私たちが期間を区切って勝手につけたレッテル(意味づけ)ですから、見方を変えればコロコロ貼り変わるのが当然と言えます。
そんなものに終わりなど来るわけがない。

答えはただ一つ。
目の前の出来事に不要なものは何一つない。
すべてが完璧に展開されているということです。

与えられた役割として我利我利とアドレナリンでやらないといけない時はそれを忌み嫌わず、もうやってやるしかない。
意味づけなど必要ないのです。

但し、その場合であっても、健康な時と同じレベルのパフォーマンスを求めるのはやりすぎです。

本能として氣が小さくなっているのですから、その瞬間にとっての最大限までで諦めなくてはいけません。

それ以上を求めると、我利我利の度を超えて執着の蟻地獄に突入してしまいます。
不完全燃焼のオーバーヒートは心身を傷つけることになります。

昨日までの自分像に囚われてはいけません。
それを求めるのは過去への固執です。


今この瞬間の自分というのは、昨日と比較されるものではありません。
過去とは切り離れて存在しているのが、今、今、今です。

過去の良い状態を追うのは、今ココから離れて過去をさまよっている状態です。
今に心を向けるというのは、本当の意味で、今のベストを尽くすということに他なりません。

それがショボいかどうかなどというのは、過去との比較でしかないわけです。

たとえ昨日の半分でしかなくとも今この瞬間の100%が出来たなら、それはもうスーパーOKなのです。


そう思えた瞬間、おそらく心の囚われが溶け、身体中の力みがスーッと抜けていくことでしょう。



朝の信号で他人の氣に乗った時、必死のバッチの状態から一転して、気づけば他力の風に乗っていました。

健康な時の仕組みというのがいかに凄いものなのか、そして目に見えなくとも他力の風というのがこんなにも他人に影響を与えているのか、
身をもってそれを体感しました。

そうなると、その相手とは違う人に心を向けたらどうなるのか?という興味が湧いてきました。

まわりは通勤サラリーマンが沢山歩いています。
色々な氣の流れが飛び交っていました。
それはまさしく様々な色合いに溢れていました。



結果として、スピードが違いすぎる相手ではリニア状態にはなれませんでした。

相手があまり早すぎると合わない。
逆に、遅すぎても合わない。
ほぼ同じくらいか、やや早いくらいだと、まさに波に乗るようにスッとオートモードに入る。

これと似たような感覚は、ランニングをする人なら体験したことがあるかもしれません。

自力で走るよりも、誰かペースメーカーを見つけてそこに体を預けてしまったほうが驚くほど楽になるというアレです。
それは決して精神的なものではなく、肉体的・物理的な現象として起こるものです。

そしてその時というのは、アレコレ余計なことを考えず、丸ごと全部その人に預けてしまっているはずです。
フーッ、ひとまず、あとは頼んだ、と。

無意識にやっていることですが、実はそれは相手に100%心を開いていることを意味します。

雑念を挟まずに「相手に心を向ける」というのは、フルオープンで「相手に心を開く」ことと同じであるわけです。

一方、ペースメーカーを決めて心を向けてもしっくり来ない時もあります。
そうなると、あれこれ考えごとをしてしまい、なかなか結果に結びつかず悶々としていきます。
透明度が下がるとますます視界が狭まり、フルオープンの感覚は遠ざかっていきます。
そうやって焦りや失望を感じるほどに我利我利が増していきます。

一度こうなってしまうと、どうにもやりようがなくなります。
そうなった時は、もうサッサと諦め、心を切り替え「またの機会を待つ」しかありません。

何故その状態になったら万事休すなのかというと、失ったものを追い求めること自体が執着になってしまうからです。
つまり、青い鳥を追うこと自体が、濁りの原因になってしまっているということです。

だから、サッサと諦める。
ただ、諦めるにしても中途半端な諦めでは、また負のスパイラルが発動してそこから抜け出せなくなります。

中途半端なリセットでは永遠に解決しません。
「あわよくば」なんていうスケベ心は捨てる。
もう今日は日が悪いと諦めて、完全にリセットするしかないということです。



透明度の違いというのは、職場や家庭でも日々、見えない影響を与え合っています。

例えば、どちらか一方が「自分が自分が」とガツガツしていますと、もう一方はついていく気が失せます。
聞いているだけで疲れてしまうと心を閉ざすことにもなります。

心がセカセカしている、慌てている、アドレナリンMAXになっている、そんな人間の氣に乗っかりたいと思う人はいません。

逆に、普段から落ち着いた感じの人なら、こちらも警戒することなくリラックスできます。
自分がテンパっていたり怒ったりしていても、そんな人に話しかける時には、少しは氣を落ち着かせるものです。

相手も同じようにテンパっていたり怒っていれば自分の濁りも映らなくなりますが、相手が透明すぎるとこちらの濁りが際立っていきます。

濁りと濁りが重なっても、今さら濁りの存在をどうとも感じません。
しかし透明と濁りが重なると、両者いずれも、ありのままをハッキリくっきり意識することになります。

自分の姿が自分でクッキリ見えてしまう。
ましてや、それがカリカリとヒステリーになってる姿となると、これはもう穴があったら入りたい気持ちになります。

相手とあまりに熱量差があるとそのギャップによって、アレ?と我に返り、自分と相手の両方が見えてしまう。
それはまるで透明な水面に映った鏡のようです。

ただ恐ろしいことに、常日頃から熱くなっていたり落ち込んだりしてる人は、相手との熱量にギャップがあった場面でもそれに気が付けなくなります。

肌や心までどっぷり染み付いていると、脳はその色に毒されて他の色が見えなくなります。

我利我利していると、まわりが何も見えなくなっていく。
日頃からカリカリしたりクヨクヨしていると、まわりは真っ暗なのが当たり前になっていくということです。

日頃からおかしなテンション(高すぎるのも低すぎるのも)が常態化しないように心掛ける必要があります。

一方で、それが自分ではなく他人だった場合はどうでしょう。
相手が、聞く耳を持たないテンションにドップリ浸かっていると、丸っきり響かないものなのでしょうか。

そんなことはありません。

あらゆるものの底に広がっている潜在意識は、表層意識を凌駕します。
ほんの僅か、ほとんど分からない程度かもしれませんが、それでも確実に落ち着いた状態へと近づいていきます。

この世のあらゆるものは、より精妙な状態へと流れていきます。

高次元の存在に会うと振動数があがるというのはこの原理に因ります。

本人の意思や状態に関係なく、濁りは清きへ、粗きは微細へ、闇は光へ、引き寄せられていきます。

たとえ相手が熱量ギャップに気がつけなかったとしても、知らず知らずのうちに精妙な方へシンクロしていくということです。

身近な例でいえば、イライラしていても温泉に浸かっているといつの間にかフーッとなっています。
仕事でカリカリしていても山の空気を吸っているうちにスーッと無の状態になっています。

一人の心が淀みなく清らかな状態に広がっていますと、その水に浸かった人はフッとそれにシンクロしていきます。

私たちも天地宇宙も、もともとは透明度100%のスーパークリアな状態にあります。
だから、自分の本来の状態に触れれば、必ずそちらに引っ張られるのです。

我執を磨き落とした人に会うと落ち着いた心地になっていきますし、赤ん坊を前にすれば凶悪犯でも悪意が薄れていきます。

天地自然の深遠な広がりを前にしてイライラを捨てられない人など居ないのです。




今の私たちというのは清流を無理やり濁らせているようなものです。
本来の状態の方が圧倒的に優位なのは当然と言えます。

水が高きから低きに流れるように、氣も、粗い状態から精妙な方へと流れていきます。

落ち着いた雰囲気にシンクロしますと、フィルターの目がゆるみ、知らず知らずのうちにラクな状態へ成っていきます。

職場においてリーダー次第で場の空気が変わる、社員の働きも変わると言いますが、それは決して精神論などではなく、氣の原理に基づくペース
メイキングであるわけです。

そして、そこで重要となるのはそれを打算でやろうとしないことです。
その瞬間、全ては破綻します。

ついてこさせよう、ラクにしてあげよう、癒してあげよう、結果を残そう、認められよう、と考えた瞬間、たちまち透明度は失われます。

方向性がネガティヴだとかポジティブだとか、そんなことはもはや関係ないわけです。
自分では良かれと思ってやっても、何かを作為した時点で同じ穴のムジナとなります。

相手がどうなろうと、そんなことは関係ない。
リラックスしてニコニコゆったりしていれば、それでいい。
結果を求めた時点ですべてアウトなのです。



部下をグイグイ引っ張っていくタイプは信長型と言われますが、それは上司と部下のペースが近い時にしか成立しません。
高度成長期やバブルの頃は、社会の流れというものがありましたのでそれが成立していました。

しかし今は流れが違います。
大声でがなり立てて、ペースの違う相手に無理やりエンジンかけさせてもオーバーワークになるだけです。

繰り返しますが、昔は無理をしなくても元々ある程度エンジンのかかった状態にありました。
そこには時代の流れ、国の流れというものがあったわけです。

小中学の受験戦争でもスパルタ教育というのが流行ったくらいです。
地面そのものが結構なスピードで動いているような時代でした。
ですから上司からビシバシ尻を叩かれれば、頑張りようもあったということです。

しかし国全体からガツガツした雰囲気が抜け、落ち着いた雰囲気に成りますと、もうそのやり方は通用しなくなりました。

自ら喝を入れ、まわりを叱咤してガムシャラに走り出すのではなく、ごく自然な発露でスーッと行く。
それが今の時代の流れであり、天地のペースであるわけです。

信長型だとか家康型だとか、そもそも型なんてものは相手を無視した考えでしかありません。
たまたまハマることもあれば、逆効果なこともある。

「自分がどうしたい」というところからスタートした時点で、もうどれだけ頑張っても相手には伝わりません。
表層意識で相手はついてきてくれるかもしれませんが、深層意識では無反応に近い拒絶となります。

「相手がどうであるか」
場の流れは、それによって決まります。

そして「相手がどうあるか」は「こちらがどうあるか」つまりこちらの透明度によって大きく変わってきます。

「どうしたいか」ではなく「どう在るか」

こちらにわずかでも我執があれば相手は心を開かなくなります。
なにせその時の心は、相手に向かずに、自分に向いている状態なのですから、相手からすれば向かってこないものに心を開くはずがありません。

ですから、そこに何の作為も無いことが透明度そのものとなります。
作為というのは、心が自分に向いている状態です。

自然にやる。
ただそれだけです。

肝心なのは「起こり」。すなわちスタートです。
勘違いしやすいところですが、どの方向にスタートすれば正解というものではないということです。

自然にやろうというのは、すでに作為です。
作為を無くそうと考えた時点でそれは自分になっています。
ましてや、相手が心を開くようにしようなんていうのは言わずもがなです。

スタート(起こり)を自ら生じさせた時点ですべてパーになります。

これは決して哲学的な話でも禅問答でもありません。それらは言葉を使うから難解に思えるだけです。
私たちというのはもともと理屈の生き物ではなく、感覚の生き物です。
感覚で分かったことを言葉で説明したのが哲学や仏説ですから、感覚に耳を澄ませばほのかに聞こえて来るものがあります。

何事にも自然な流れというものがあります。

気合いを入れなくてもいい。
風や川のような自然な流れ。
始まりも終わりも存在しない。
初めから流れ流れている。
そこにはスタート(起こり)などありません。

私たちは、その流れ流れているところに、ただソッと浮かべるだけです。

天地自然は、始まりも終わりもなく流れ流れています。
それこそは最高のペースメーカーということです。

そして私たちは天地自然の一部です。
天地自然そのものです。

その流れは外にあるのではなく本来の私たちがそれそのものであるわけです。

深遠なる深さ、静けさ、落ち着きの世界へ耳を傾け、その流れに心を向ける。

そこに重なったならば、あとはおまかせです。
身体も心も驚くほどラクにスーッと行くことでしょう。

そこは平穏静寂でありながらとても優しく、温かく、澄み切った世界なのでありました。





(おしまい)







天地自然のペース

2018-09-04 22:15:48 | 天地の仕組み
体調が悪い時というのは、足取りがとても重くなるものです。

先日まさにそんな状態で駅に向かっていますと、数メートル前に、同じくらいのペースで歩いている人が居ました。
その方は別に体調が悪いわけでもなく、それが普段のペースといった感じでした。

赤信号で追いついた時、フトこのあとどうしようと思いました。
ピタッと間合いを詰めたまま歩くのもバツが悪いですし、かといってわざわざペースを上げて追い抜く体力もなし。

結局スタートをズラして一呼吸ほど出遅れる形にして、さっきまでのペースで行くことにしました。
その直後、歩きだした瞬間に不思議な感覚に包まれました。

フワッと身体が軽い。
足取りが重くない。

一瞬アレ?となりました。
さっきまでとは明らかに違う。

弱っている時というのは感覚が鋭くなるものです。
重い体を青色吐息で動かしていたのが、まるでリニアのようにスーッと動く。

でも、その理由はすぐに分かりました。

それは、自分でも気がつかないまま前方の人の氣にスッと乗っかっていたのでした。

その時のことをもう一度ふり返りますと、もうフラフラな状態で、ひたすら歩くことだけに集中していました。
他に考え事をする余裕もありません。
吹雪の中の登山のように、目の前の一歩を黙々と踏みしめていました。

そんな時フト同じペースで歩く人に気づき、たまたま赤信号で立ち止まった時、心は100%その人に向いた状態となっていました。
そして歩きだしの時もタイミングを開けようと呼吸をはかっていたので、図らずも心はしっかり相手に向いていました。

他には何もない。ただ相手に向いているだけ。
そうしてそのまま無心で歩き出しました。
その瞬間、その人の氣に乗っかったということです。

ここでいう「氣」というのは、その人に吹く風なのでありました。





いきなり結論を書いてしまいましたので、少しだけ補足をします。
出来るだけシンプルな説明を心がけたいと思います。

身体が動く仕組みについて、現代科学ではこう説明されています。

「体を動かそうという意思が起きると、脳の運動野から発せられた電気的な信号が脊髄の運動神経を伝わっていき筋肉が動く」

この説明からいくと、脳がその肉体的な動きを認識するには、神経の伝達速度を考えると、常に0.5秒の遅れが生じてしまうと言います。

しかし、思いが生じてから実際の現象が現れるまで常にズレが生じてしまうと、現実世界の中で不具合が起きてしまう。
そのため、私たちの脳はこの遅れを先取りして、実際に身体が動ききる前に、もう動いたものとして認識するという荒技を行なっているということでした。

以上が科学的な説明です。

それはそれで面白い話ではありますが、これだけだと少々乱暴に思えます。

本当にそんな雑な仕組みで、これまで何十万年も不具合を起さずやってこれたのでしょうか。

この説明にはさらに補足が必要となります。

知覚というのは顕在意識(表層意識)で行われるものです。
0.5秒のズレというのはあくまで物理的な知覚の話に過ぎません。

まずは、意識以前に「感覚」というものが存在することを考える必要があります。
ここでいう感覚というのは神経系の皮膚感覚とは別物の、雰囲気とか空気とかそういう感覚のことです。

意識(表層)というのは頭の分析装置と連動するものですが、感覚というのは無意識(深層意識)へと繋がっていくものです。

感覚とは私たちを包み込むものです。
生じたり消えたりするものでなく、常にそこに在ります。
無意識と同じく、形を持たず、大海の如く氷山の下に無限に広がっています。

ただ、生じたり消えたりはしないものの、開いたり閉じたりはします。
表現を変えれば、微細になったり粗くなったりします。
それ自身が変質するということではなく見え方の問題。伝わり方の問題です。

どこまでも深く広く「存在している」ものの、その透き通り度合いで「現れかた」「見え方」「感じ方」が変わってくるということです。

これは透明度の高い海と透明度の低い海をイメージすると分かりやすいかもしれません。

透明度が低い海はすぐそこまでしか見えませんが、それでも奥底まで海は広がっています。
見えなくとも存在しています。
1m先しか見えないからといって、そこまでしか無いということではありません。

透明度が高かろうと低かろうと、海は変わらずそこに存在しているということです。

感覚や無意識についても同じです。
それらは変質することなく、変わらずそこに存在していますが、キャッチできる範囲というのは透明度によって変化するわけです。



さて、身体を動かす時の仕組みについて補足の途中でした。

信号を送って指示を出したり、動いた結果を認識したりするのは脳です。
ただその知覚の前に、すでに感覚が先行しています。

ここでの感覚というのは、無意識と連動したものでした。

その透明度によって、いわゆるオーラとかエーテル体とかアストラル体とか言われるように、感覚としてキャッチできる範囲が変わっていきます。

この大海はその先どこまでも深く続き、己の魂から集合意識、天地宇宙まで広がっています。

一般的に、エーテル体を氣と呼んだり、アストラル体を心と呼んだりすることもありますが、それは一つの表現でしかありません。
海の深さによって便宜的に呼び方を区分けしてるだけで、海はどこまでいっても海です。

そしてそれら透明度というものは、静まりかたや落ち着きの度合いによって変化します。
リラックスすればするほど、私たちは雑念が消えていき、無の境地になっていきます。

無と言っても何も知覚しないわけではありません。
感覚はより鋭敏になり、まわりの情報をキャッチし、それを理解できる状態にあります。

それというのは、外から触れて得られる情報ではなく、自分がそれと一つになることで内から得られる情報です。

それは同期とも言えるし、シンクロとも言えます。
なんでか分からないけどすでに知っている、という状態になります。

たとえば自分自身の情報というのは、わざわざ頭を介さなくても「すでに知って」います。
他人に説明する時にだけ、頭を介して噛み砕く作業が発生します。
それと同じことが起きるということです。

無の境地とは、雑念が湧かい状態であり、境界線がい状態です。

リラックスするほどに透明度は上がり、境界線が薄まり、私たちというものが広がっていきます。

だから、美しい山々や真っ青な海といった大自然に身を置いたり、満点の星空の下で大の字になったり、神社仏閣で手を合わせて日頃の喧騒を
忘れたり、自噴温泉に浸かってボケーっとまどろむのは、とても気持ちが良いのです。





逆に、迷いや不安、こだわりや期待といった我執があると心はガサガサと波立ち、透明度は下がっていきます。

ネガティヴ思考だけでなくポジティブ思考であっても、そこに打算や作為といった我執があると水は濁ります。

己自身の状態によって透明度は変わる。

透明度が変わるというのは、自分の範囲が広がったり狭まったりするということです。

狭まっているというのは、満員ラッシュに押しつぶされてそこしか見えなくなっている状態です。
広がっているというのは、透き通った先まで感覚が広がってまわりが見渡せている状態です。

「心を静めると天地と一体となる」というのはそういうことです。

透明度によって見えるものや感じるものが変わってくる。
つまり、己の状態が感覚を決めているわけです。


身体の動きに話を戻しますと、知覚意識に先行して、水面下の無意識のところでまず氣が動きます。
その流れに乗って身体が動くという順番になっています。

氣とは言わば、風のようなもの。
私たちはヨットのごとく帆を張り、自ら起こした風に帆を押されて進んでいるということです。

その氣が動いた時点で、そこに広がっている無意識はそれを感知しています。
実際の肉体が動いている時にはもう、距離やスピードに関係なく、それより先に無意識は感知しているということです。
そのため0.5秒のタイムラグなど起きないわけです。



ちなみに日本古来の武道は、身体運動のせめぎ合いをトコトンまで追求した結果、神経系の電気信号伝達という物理法則の次元を超えて、無意識
の世界に辿り着きました。

それは何も怪しい話ではなく、宮本武蔵や山岡鉄舟など、あらゆる剣豪が最後は坐禅に行き着いています。

もともと禅は、真理を求めて哲学的アプローチを重ねて行き着いた世界ですが、一方の剣術は死線をくぐりながらさらなる強さを求めて感覚的
アプローチの果てに行き着いた世界です。

それらが全く同じところに行き着いているというのは、まさにこの世の仕組みを表していると言えます。

皮膚感覚の先の先の先にあるのは精妙なる深淵な非物質の世界だったということです。

静まりきった世界、天地へ広がった世界。
そこまで感覚を深めることによって、抑えたり導いたり、制したり投げたり、あるいは「後の先」という発想が生まれました。

他のスポーツであってもプロレベルにもなれば、それと自覚しないままその領域に入っていることもあるのではないかと思います。

感覚に耳を澄ましている時、頭はオフになっています。
そうなると理解したり指示したりできないのかというとそうではありません。
心が開いているので、状況をクリアに理解できるし、ジャッジも出来ます。

このあたりは、例えば幽体離脱したらどういう状態にあるのかという話に通じるものがあります。
透明度が上がり心が広がっていると、そこまで一体となっているので、もう考えなくとも分かってしまっているわけです。

その逆に、あれこれ考えこんだりして頭がオンになると、感覚はどんどん薄まっていきます。
すると透き通った大海はたちまち濁ってしまい、何も見えなくなります。

自分本位の生き方を続けると透明度が下がり、みるみる真っ暗な世界となっていきます。
そうしてますます不安が増すと、安心を求めて我利我利に拍車をかける悪循環が始まります。

本当は最初から変わらず全ては私たちの目の前にある、、、でも何も無いじゃないか?
本当は私たちは天地宇宙の優しい温もりに包まれている、、、でも何も感じないじゃないか?


その迷い、その苦しさというのは、つまりそういうことであったわけです。

海というのは、見えるところまでしか存在しないわけではありません。
透明度がどんなに低くても、海はその先まで広がっています。

母はどこかと不安になる必要はないのです。
暗闇をさらに暗くさせることはないのです。

不安や不足に怯えると、安心したくて自分へスポットライト(思い)を向けてしまいます。
自分、自分、自分と。

そうなるとライトの反対側は暗くなります。
スポットライトを強くすればするほど、その反対側の暗闇は増していきます。

まわりから見ればそうではないのに、自分から見ると、真っ暗闇の中、ポツンとなっているように感じる。

だったら、やめてしまえばいいだけのこと。

天地宇宙も私たちも、何もしなければ、最初から、そして今この瞬間も、広く深く、透明クリアな状態にある。

それを信じるか疑うか。
それだけの話なのです。






(つづく)