今年は近年まれに見る暖冬となりました。
一月には大阪で19℃超え、東京でも18℃超えを記録し、17℃を超える日が続きました。
とりわけ、一月後半から二月前半にかけての暖かさはコートを脱ぐ人が続出するほどでした。
あまりの暑さに、自分も体調を崩した記憶があります。
また、今年の冬は雨の日も多かったと言えます。
例年ですと乾燥で喉がやられるところですが、今年は加湿器なしでラクラク過ごせました。
見過ごされがちですが、春節の前後はかなり気温の高い日が続き、また適度な雨も降っていたのでした。
毎年この時期になるとインフルエンザが流行しますが、それはウィルスが寒冷乾燥を好むからです。
逆に高温多湿になるとウィルスは生存できなくなります。
湿気があると空気を舞えずに落ちるというのは何となく分かりますが、高温だとなぜ生存できなくなるのか。
実は熱に弱いのではなく、そこでもやはり水分が影響しています。
空気中に含まれる水分量は温度によって変化します。
温度が高いほど飽和の上限が高くなりますので、より多く水分を含むことができるようになります。
普段、湿度何パーセントと言っているのは、その日の気温で含有できる最大水分量を100とした時に、実際の水分量がどれだけかを示すものです。
ですから湿度30%と言っても、夏場と冬場では空気に含まれる水分量は違うということになります。
このため雨が多い時はもちろん、気温が高い時もまたウィルスにとっては生きにくい環境となるわけです。
そう考えると今年はコロナが騒がれ出した一月後半から今に至るまで、ほとんどどちらかの状態が続いています。
こんな年はこれまで無かったと思います。
先週も今週も、東京では晴れて暖かい日と、寒いけども雨の日が入れ違いで続いています。
日本では昔から疫病退散のため様々な祈りが行なわれてきました。
祇園祭など有名なお祭りの殆どは、疫病を鎮めるために始まったものでありました。
疫病退散や雨乞いというと、非科学的かつ原始的で幼稚な発想だと思いがちですが、これは全く間違っています。
実際のところ人々の思い、天地の恵み、様々なエネルギーが働くと、人知れず今回のようなことが起こっているのです。
もちろん、私たち人間の力だけでそうなるものではありません。
もとより国を護るエネルギーというものがあって、絶えずこの国を包み込んでいます。
私たちの思いが散らかっているとそのノイズにより国を包むエネルギーは滞っていきますが、私たちの思いが一つに清らかになると、それらが本来の姿を現すようになります。
しかし苦しみや悲しみのまま必死の懇願で疫病退散を祈ったり雨乞いをしたりすると、ノイズを散らすことになり逆効果となることもあります。
非情なようですが、それが自然の理なのでどうにも仕方ありません。
思いというのはシンプルなほうが清らかな流れとなります。
ですから、祭り神輿などは意図せず最高の儀式となっているということです。
もう楽しんだもん勝ち、はしゃいだもん勝ちなのです。
私たちが氏神神社で日々の感謝をお伝えしたり、あるいは部屋の神棚に手を合わせるのも、こうしたことへ繋がっていきます。
ちなみに、元来の祭りというものは、神様に喜んでもらうためのもの、楽しんでもらうためのものでありました。
誰かを喜ばせたい、楽しませたい、と心から思った時、余計な邪念は消え去ります。
今も神社で行われる御饌や御神楽というのはその精神を継いでいます。
透き通った思いは清らかなエネルギーとなって天地へ通じます。
今この状況一つとっても日本だけが圧倒的にヒイキされてるように見えますが、これは私たちのご先祖様の貯金によるところが大きいと言えます。
それはノイズで汚しっぱなしにせず綺麗にしてきたという貯金です。
私たちの代で使い果たしてしまわないように、できるかぎり感謝をお伝えしていきたいところです。
さて、疫病退散を最優先に私たちの思いを受け取って天の恩恵が現れていますが、天地・陰陽の裏腹で、それとはまた別の兆候が大地に現れることになります。
雨のあとに一気に気温が上がると、勢いよく天地の氣が流れます。
大地においては日頃マントルの深層からエネルギーが湧き上がっていますが、特に断層などの切れ間ではその湧出が大きくなります。
あるいは立派な山々なども、そうした深層から湧き立つエネルギーと、天からのエネルギーが繋がる場所と言えます。
それらエネルギーの触媒として、昔の人は巨石を磐座としました。
大地はどこであろうと地の底からエネルギーが湧き出ています。
ただ、埋立地などではどうしてもそれが弱くなります。
逆に、中央構造線やフォッサマグナといった大地の切れ目では溢れるように湧き立ちます。
そうしたところでは力のある温泉が数多く湧出しています。
あるいはまたパワースポットと呼ばれる場所になったり、お社が存在することになります。
神社仏閣に関しては、それら龍脈の滞りを無くす(鎮める)ためという理由もありました。
切れ目から溢れ出るエネルギーは、まるで谷を駆ける龍のように見えます。
龍のように連なる割れ目に滞り(詰まり)があると、そこが堰となり圧が掛かり地鳴りが起こることになります。
私たちも無意識のうちに寝起きに伸びをすることがありますが、それは滞りを無くすためのものであります。
ちょっとした凝りならばすぐ取れますが、ガチガチの凝りがある時に無理に伸びをするとグキッと痛めてしまいます。
身体の凝りというのは血流の滞りによって生じます。
この時、適度な温泉に浸かったり、あるいは軽い運動をしたりすると血流がよくなって、その緩やかな流れによって凝りがほぐれていきます。
しかし、ガツンと強い温泉に入ったり、激しい運動をしたりすると、血液は激しい流れとなって凝りにぶつかり、体を壊すことになります。
雨上がりに気温が急上昇するとエネルギーが一気に流れますので、大地でもこれと同じようなことが起こります。
天地の采配により、暖かい日と雨の日が続き、疫病退散がいま目の前で現在進行形となっていますが、一方で地震の危うさが裏腹となるのでした。
2月初頭、たまたま大阪へ行く用事があったのでその帰り道、天香久山の頂上、奈良の大神神社、檜原神社で手を合わせました。
翌週は徳島出張の帰りに阿波国一ノ宮の大麻比古神社へ行き、翌日は東京から信濃国一ノ宮の諏訪大社へ参りました。
大神神社の御神体は三輪山で、大麻比古神社の奥宮の御神体は大麻山です。
そして諏訪大社の上社本宮の御神体は守屋山です。
山というのは大地のエネルギーが持ち上がって出来たものです。
エネルギーは大地から沸き立ち、天からもエネルギーが降り注いでいます。
地球規模でも、例えば磁力線というものが天から地へ、地から天へと流れています。
天地宇宙はエネルギーが流れ流れ、交流しています。
宮島の厳島神社にしても手を合わせると実はその先の弥山を遥拝する形になります。
弥山の山頂(二つ前の写真)には巨石群があり、何千年何万年も祈りの場でありました。
ただ、そんな巨石崇拝やアミニズム(自然崇拝)の形のままでは原始的だと鼻で笑って、現代まで祈りが受け継がれることは無かったでしょう。
全くもって神社を建てた人たちの凄さというか、建てさせた存在の凄さを思い知らされるばかりです。
一ノ宮というのは、図ったかのように大地のスポットに置かれています。
神社そのものが要石(かなめいし)となって、経絡のツボの上に置かれているようなものです。
ツボというのは面白いもので、ある一点をスッと刺すだけで全身の離れた先端まで一気に氣が通るようになります。
私たちが日頃そうとは知らずに神社へ足を運び手を合わせると、それはそういうことになるのです。
だから、神社で個人の願いをするなんて野暮中の野暮であるわけです。
感謝を伝えればそれは地の流れに乗って天へと上がり再び地に降りて自分に還ってきます。
一人一人の感謝は小さな小石に過ぎずとも、それが集まり集まると巌(いわお)となります。
龍脈の一つに中央構造線があります。
九州熊本から四国徳島、紀伊水道を通り、奈良の上を通って伊勢へ抜け、長野の諏訪湖の先でV字ターンして茨城へと抜けていきます。
大麻比古神社、諏訪大社はこの上にあり、天香具山や大神神社もほぼこの上にあります。
そしてこの経絡の「ここゾの一点」は、やはり伊勢神宮ということになるのでしょう。
今では、お伊勢さんでは個人の願いをしてはいけない、と観光ガイドにも載るようになりました。
伊勢神宮に限らずどの神社であってもそれは同じことですが、龍脈のヘソたる伊勢でそれが浸透するのはとてもいいことです。
一年前の予約がこのタイミングとなりましたが、私も手を合わせに参りたいと思います。
大地の滞りというのは自然由来のものもありますが、人々の心の乱れによるものもあります。
抜け落ちた髪が絡まって吹き溜まるように、私たちの雑念が大地の風通しを悪くします。
古来、人心が乱れると天災が起こりました。
それほど私たちの心というのはパワフルなものです。
逆を言えば、感謝や祈りというのもそれだけのエネルギーがあるということです。
誰か一人の力で何かの奇跡が起こるというものではありません。
私たち一人一人の思いが重なって大河となります。
感謝や祈りといってもアレコレややこしいことをするのではなく、純粋にシンプルに、感謝の思いを置くだけです。
それは別に中央構造線の上で無くとも、家の近くの氏神様でも、自宅の神棚でも、すべては一つに繋がっています。
私たちの体にも縦横無尽に経絡が張り巡らされているように、一軒一軒の神棚も、各地の氏神神社も、すべてが一つに繋がっているのです。
シンプルな感謝の思いというのは、あれこれ単語を並べる必要はありません。
言葉を並べるほど心は固まります。
型にハメようとするほどガチガチになります。
ああだから感謝だとか、こうだから感謝だとか、そんなものは本当に要りません。
今この瞬間、生きている
今こうして生かさせて頂いている
ありがたいなぁ…
それ!
最後のそれ!
せっかく来たのだからと長々と祈り倒すのは逆効果にしかなりません。
ノイズ・セレクション金賞受賞です。
たとえ一瞬であろうと真心が大事なのです。
深さこそがすべて。
第一、時間なんてものは私たち人間の幻想でしかないのですから、そこにこだわる時点でアウトとなります。
この世の仕組みとして、一瞬も永遠も同じものです。
安心してその一瞬にかけて大丈夫です。
信じる勇気。サッと立ち去るのが粋というものです。
なんだかんだいっても、
ありがたいよなぁ…
この最後の余韻。
そこに身を投じる。
あとの余計なことは何も要りません。
余韻に浸って、手を合わせ、あとは何もしない。
何も考えない。
ほっておく。
それが天地無限へと響く一陣の風となります。
(おしまい)