天照大御神が岩戸に隠れた時、世界は漆黒の闇に包まれました。
ふたたび光を取り戻すため、天地のあらゆるエネルギーがそこへ注がれました。
思兼命(オモイカネノミコト)は一計を案じ、まずは三種の神器となる八咫鏡や八尺瓊勾玉が作られました。
そして天児屋命(アメノコヤネノミコト)は祝詞をあげ、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)は神懸かりして舞い踊り
ました。
みんなが相好を崩して笑い合っていると、おそるおそる岩戸の隙間から天照大御神が外を覗き見ました。
その瞬間、天手力雄命(アメノデジカラオノミコト)は二度と岩戸の締まらぬようにしっかりと押さえつけました。
天地あらゆる存在、万物の祖神(おやがみ)が揃いに揃い、この世は光に満たされたのでした。
これと同じことが今も、日々の私たちの中で繰り広げられています。
「貴方より貴い神が現れた」と言われて覗き見てみますと、そこに映されるのは真っさらな自分自身でした。
それは、今この瞬間に「自分」と思い込んでいる自分ではなく、切り絵から離れた、素の自分でありました。
世の中とはこういうものダ、人生とは、あるいは自分とはこういうものダと頑張っている(我を張っている)自分ではなく、
広大無辺の悠久の時をサラサラと流れる私たちでした。
自我の岩壁に覆い尽くされても、時に感謝の言葉(祝い言葉)により、あるいは身体を舞い動かすことにより、はたまた
声を上げて笑うことにより、いつも光がこの世界を照らしているのでした。
私たちというのは、暗闇の中で光を求めて壁を叩いて歩く、か弱き存在と思い込んでいます。
でも何のことはない、私たち自身が光なのでありました。
戸の隙間から光が射し込んで来るのではなく、戸の隙間から光が溢れ出て行くのです。
「岩戸開き」という言葉は、誤解を生みやすい響きかもしれません。
今の自分を変えたい、自分自身の魂は閉ざされている、閉じた扉を開けなくては…
あらゆる思い込みは、かえって光を隠すことになります。
闇の外にどれほど貴い神様が居るのかと覗き見ようとした時、そこに映ったのは自分自身なのです。
光そのものが、光を見ようとしても見ることは出来ません。
にも関わらず光を求めるというのは、自ずと影を遠ざける心となっていきます。
影は光の隠れ身です。
影を見まいとするほどに光は隠されていきます。
ですから、そもそも岩戸を開く必要など無いということです。
もとより、岩戸は閉じていないからです。
光を感じられないのは、その影を見まいとするからに他なりません。
この世は私たちの照らし出した影です。
私たちは無意識のうちに、光と影との間に優劣をつけてしまいます。
光と影は一対だという理屈に納得して影の地位を引き上げようとする試み自体、すでに優劣を前提とするものである
わけです。
理屈など関係なく、そもそも影と光は同質のものであります。
影とはすなわちそのまま光であるということです。
この世に現れる形が違うだけで、本質は同じもの。
ですから真っさらな心のまま、光を見るのと同じように、そのまま影を見るだけです。
それは目に映る日々の現実もそうですし、自分の中の心もそうですし、天地の流れもまたそうです。
日が立ち昇る「常陸」(ひたち)の国。
日が沈みまた蘇る「阿蘇」の国。
この国を水平に貫くエネルギーにも、陽と陰があります。
影は光です。
光の隠れ身です。
遠ざけたり区別したりせず、心変わりすることなく天地に広がる心をそのまま向けることにより、高きは低く、低きは高く、
自ずと鎮まり、影もまた影のまま優しく輝き溢れ出すことでしょう。
冒頭の神話にも現されているように、天地のあらゆる存在、あらゆるエネルギーの総参加によって私たちは護られています。
「おかげさま」の心。感謝のこころ。
それは岩戸に輝く光そのものです。
そうして、その心に照らされた影もまた影のまま輝き溢れるようになるのです。
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ふたたび光を取り戻すため、天地のあらゆるエネルギーがそこへ注がれました。
思兼命(オモイカネノミコト)は一計を案じ、まずは三種の神器となる八咫鏡や八尺瓊勾玉が作られました。
そして天児屋命(アメノコヤネノミコト)は祝詞をあげ、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)は神懸かりして舞い踊り
ました。
みんなが相好を崩して笑い合っていると、おそるおそる岩戸の隙間から天照大御神が外を覗き見ました。
その瞬間、天手力雄命(アメノデジカラオノミコト)は二度と岩戸の締まらぬようにしっかりと押さえつけました。
天地あらゆる存在、万物の祖神(おやがみ)が揃いに揃い、この世は光に満たされたのでした。
これと同じことが今も、日々の私たちの中で繰り広げられています。
「貴方より貴い神が現れた」と言われて覗き見てみますと、そこに映されるのは真っさらな自分自身でした。
それは、今この瞬間に「自分」と思い込んでいる自分ではなく、切り絵から離れた、素の自分でありました。
世の中とはこういうものダ、人生とは、あるいは自分とはこういうものダと頑張っている(我を張っている)自分ではなく、
広大無辺の悠久の時をサラサラと流れる私たちでした。
自我の岩壁に覆い尽くされても、時に感謝の言葉(祝い言葉)により、あるいは身体を舞い動かすことにより、はたまた
声を上げて笑うことにより、いつも光がこの世界を照らしているのでした。
私たちというのは、暗闇の中で光を求めて壁を叩いて歩く、か弱き存在と思い込んでいます。
でも何のことはない、私たち自身が光なのでありました。
戸の隙間から光が射し込んで来るのではなく、戸の隙間から光が溢れ出て行くのです。
「岩戸開き」という言葉は、誤解を生みやすい響きかもしれません。
今の自分を変えたい、自分自身の魂は閉ざされている、閉じた扉を開けなくては…
あらゆる思い込みは、かえって光を隠すことになります。
闇の外にどれほど貴い神様が居るのかと覗き見ようとした時、そこに映ったのは自分自身なのです。
光そのものが、光を見ようとしても見ることは出来ません。
にも関わらず光を求めるというのは、自ずと影を遠ざける心となっていきます。
影は光の隠れ身です。
影を見まいとするほどに光は隠されていきます。
ですから、そもそも岩戸を開く必要など無いということです。
もとより、岩戸は閉じていないからです。
光を感じられないのは、その影を見まいとするからに他なりません。
この世は私たちの照らし出した影です。
私たちは無意識のうちに、光と影との間に優劣をつけてしまいます。
光と影は一対だという理屈に納得して影の地位を引き上げようとする試み自体、すでに優劣を前提とするものである
わけです。
理屈など関係なく、そもそも影と光は同質のものであります。
影とはすなわちそのまま光であるということです。
この世に現れる形が違うだけで、本質は同じもの。
ですから真っさらな心のまま、光を見るのと同じように、そのまま影を見るだけです。
それは目に映る日々の現実もそうですし、自分の中の心もそうですし、天地の流れもまたそうです。
日が立ち昇る「常陸」(ひたち)の国。
日が沈みまた蘇る「阿蘇」の国。
この国を水平に貫くエネルギーにも、陽と陰があります。
影は光です。
光の隠れ身です。
遠ざけたり区別したりせず、心変わりすることなく天地に広がる心をそのまま向けることにより、高きは低く、低きは高く、
自ずと鎮まり、影もまた影のまま優しく輝き溢れ出すことでしょう。
冒頭の神話にも現されているように、天地のあらゆる存在、あらゆるエネルギーの総参加によって私たちは護られています。
「おかげさま」の心。感謝のこころ。
それは岩戸に輝く光そのものです。
そうして、その心に照らされた影もまた影のまま輝き溢れるようになるのです。
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