これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

日陰にそそぐ感謝のこころ

2016-06-28 15:16:51 | 国を常しえに立てます
天照大御神が岩戸に隠れた時、世界は漆黒の闇に包まれました。
ふたたび光を取り戻すため、天地のあらゆるエネルギーがそこへ注がれました。

思兼命(オモイカネノミコト)は一計を案じ、まずは三種の神器となる八咫鏡や八尺瓊勾玉が作られました。
そして天児屋命(アメノコヤネノミコト)は祝詞をあげ、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)は神懸かりして舞い踊り
ました。

みんなが相好を崩して笑い合っていると、おそるおそる岩戸の隙間から天照大御神が外を覗き見ました。
その瞬間、天手力雄命(アメノデジカラオノミコト)は二度と岩戸の締まらぬようにしっかりと押さえつけました。

天地あらゆる存在、万物の祖神(おやがみ)が揃いに揃い、この世は光に満たされたのでした。


これと同じことが今も、日々の私たちの中で繰り広げられています。

「貴方より貴い神が現れた」と言われて覗き見てみますと、そこに映されるのは真っさらな自分自身でした。
それは、今この瞬間に「自分」と思い込んでいる自分ではなく、切り絵から離れた、素の自分でありました。

世の中とはこういうものダ、人生とは、あるいは自分とはこういうものダと頑張っている(我を張っている)自分ではなく、
広大無辺の悠久の時をサラサラと流れる私たちでした。

自我の岩壁に覆い尽くされても、時に感謝の言葉(祝い言葉)により、あるいは身体を舞い動かすことにより、はたまた
声を上げて笑うことにより、いつも光がこの世界を照らしているのでした。

私たちというのは、暗闇の中で光を求めて壁を叩いて歩く、か弱き存在と思い込んでいます。
でも何のことはない、私たち自身が光なのでありました。

戸の隙間から光が射し込んで来るのではなく、戸の隙間から光が溢れ出て行くのです。

「岩戸開き」という言葉は、誤解を生みやすい響きかもしれません。
今の自分を変えたい、自分自身の魂は閉ざされている、閉じた扉を開けなくては…
あらゆる思い込みは、かえって光を隠すことになります。

闇の外にどれほど貴い神様が居るのかと覗き見ようとした時、そこに映ったのは自分自身なのです。

光そのものが、光を見ようとしても見ることは出来ません。
にも関わらず光を求めるというのは、自ずと影を遠ざける心となっていきます。
影は光の隠れ身です。
影を見まいとするほどに光は隠されていきます。

ですから、そもそも岩戸を開く必要など無いということです。
もとより、岩戸は閉じていないからです。


光を感じられないのは、その影を見まいとするからに他なりません。
この世は私たちの照らし出した影です。

私たちは無意識のうちに、光と影との間に優劣をつけてしまいます。
光と影は一対だという理屈に納得して影の地位を引き上げようとする試み自体、すでに優劣を前提とするものである
わけです。

理屈など関係なく、そもそも影と光は同質のものであります。
影とはすなわちそのまま光であるということです。
この世に現れる形が違うだけで、本質は同じもの。
ですから真っさらな心のまま、光を見るのと同じように、そのまま影を見るだけです。

それは目に映る日々の現実もそうですし、自分の中の心もそうですし、天地の流れもまたそうです。


日が立ち昇る「常陸」(ひたち)の国。
日が沈みまた蘇る「阿蘇」の国。

この国を水平に貫くエネルギーにも、陽と陰があります。

影は光です。
光の隠れ身です。

遠ざけたり区別したりせず、心変わりすることなく天地に広がる心をそのまま向けることにより、高きは低く、低きは高く、
自ずと鎮まり、影もまた影のまま優しく輝き溢れ出すことでしょう。

冒頭の神話にも現されているように、天地のあらゆる存在、あらゆるエネルギーの総参加によって私たちは護られています。

「おかげさま」の心。感謝のこころ。

それは岩戸に輝く光そのものです。
そうして、その心に照らされた影もまた影のまま輝き溢れるようになるのです。



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「おかげさま」の国

2016-06-12 19:05:07 | 国を常しえに立てます
理化学研究所の発見した新元素の名前が「ニホニウム」に決まりました。

これについては「ジャパニウム」や「ジャポニウム」の方が良かったという意見も多いようです。

確かに、言葉のキレとしては外国語で統一させた方がスムーズに感じます。
日本語に外国語がくっつくと、一方が身近すぎる分、バランス悪く感じて何となく野暮ったく聞こえてしまいます。

ただ、先入観をなくして冷静に考えると、まさにこれしかないと手を打つことでしょう。


今回の発見は、簡単に言ってしまえば原子核と原子核を衝突させて核融合させるというものでした。
原子核というのは1兆分の1cmという、私たちから見ればほとんど無いに等しいような大きさです。
超極小のもの同士がぶつかり合って核融合を起こす確率というのは100兆分の1だと言います。
そんな気の遠くなる作業を、発見者の森田先生は「今日はいける」と信じて黙々と繰り返していたそうです。

森田先生は、絵に描いたようなエビス顔の御方です。
全身から溢れる笑顔は、自我から離れてフルオープンになったことの裏返しと言えます。

そして実験機器に触れた瞬間、テレビカメラの存在など忘れ、完全に職人の顔と化していました。

職人さんは作業に身を投じているうちに作業そのものが自分自身になっていく瞬間があると言います。
自分がそこへ溶け出して無くなるような状態です。
これは職人の世界に限らず、例えばスポーツや運動の中でも起こることです。
結果を忘れ、ただ目の前に100%集中しきる。
出来ること全てをそこに向けている状態ということです。

しかしそこに期待や不安がわずかでも生じると、たちまち「今」から離れてしまい、成るものも成らなくなってしまいます。
森田先生は「人事を尽くして天命を待つ」との思いから、しょっちゅう神社に行かれていたそうです。
湧き上がる期待や不安に作業を邪魔されたくないという気持ちもあったのかもしれません。
そうして、お賽銭とともに期待も不安も全て神様に預けてしまったわけです。

神社に手を合わせて天命を待つという、その行ないもまた私たちが最大限やれることの一つです。
そしてそれが「人事を尽くす」最後の1ピースとなります。

ただ、私たちは普段、湧き上がる期待や不安の方を自分で抱え込んでしまい、逆に目の前の方を神様に預けようとして
しまいがちです。
状況を受け入れられず、風向きが変わってくれないかと景色の変化を願ってしまう。
まさに逆を行ってしまうわけです。

人との出逢いにせよ、目の前で起きている出来事にせよ、その確率というのは100兆分の1では済まされないものかも
しれません。
といって「だから大切にしましょう」というような短絡的な話をするつもりはなく、原子核の実験のように一心にそこへ
身を投じ、そののち天へ手を合わせるという段取りを踏めば、天の風を呼び寄せることになるのではないかということ
です。


さて、私たちは集中しようが集中しまいが、いつでも目の前のことに心を向けて過ごしています。
目に映るものに囲まれて生きていると表現してもいいかもしれません。
しかしその頭上では太陽が燦々と私たちを照らしています。
目に映っていないものが、いま目の前のものを映し出しているということです。

いちいちその存在を仰ぎ見るまでもなく、陽の光というのは自然に当たり前に注がれています。
そして私たちの背を照らした光が、私たちの目の前に影となって現れます。

光というものは、それそのものは見えませんが、影を見ることによってその存在を知ることが出来ます。
その影というのが、私たちの目の前にあるモノや出来事であるわけです。

プリズムを通ると七色に分かれるように、光は私たちを通してこの世界となって現れます。
そして、その光の根源とは私たち自身でもあります。
つまり、私たちの魂の発する光が、私たちを通して現実という世界となって現れている。
この世界というのは私たち自身の影であるわけです。


ですから、私たちを取り囲むあらゆる物事に対して感謝を向けるということは、その大本である光、すなわち私たちを
照らす光への感謝となります。

「お陰さま」という言葉は、私たちが日ごろ考えるイメージとは逆のことも示しているということです。

陰(影)である現実に感謝をする。
見えないもの(光)への感謝というのは、まさしく、見えるもの(影)への感謝によって成るわけです。

私たちの国は「日の本の国」です。
陽の光に照らされた国。
その本にある国。
つまり「日本」というのは、この世がお陰さまに埋め尽くされていることを意味しています。

この世の成り立ちをそのものズバリ言い表している言葉、それが「日本」です。
私たちはそのような言霊を冠した国で生かして頂いているのです。

また、ジャパンという響きは「日本」という字の漢音「ジッポン」から来ていると言われています。
ですから、ジャパンであろうとニホンであろうと「日の本」に変わりはないということです。
どちらが良いの悪いのと議論する必要もありません。

それより何より、そこで世界の人は思うでしょう。

「ニホニウム」ってナンじゃい?

もしも「ジャパニウム」であれば、この疑問はおそらく湧かなかったはずです。
そしてその疑問の先に行き着くのが、「日本」という言葉の由来ではないかと思います。


「ニホニウム」とは日本人の自国の呼び名「ニホン」から来ており、「ニホン」とは「太陽のもと」という意味である。
この世は太陽のおかげで存在し、そのエネルギーたる女神は人間の祖先として、遥か太古から未来永劫に至るまで人々の
崇敬を受け続けていく。



これを単に一地域の信仰に過ぎないと考える人も居れば、世界すべての共通項だと感じ取る人も居るでしょう。

ニホニウムという名は、むしろグローバルな響きを秘めているわけです。

「日の本」というのは、この国だけを指すものではなく、この世のすべてを示すものです。
陽としてのエネルギーが私たちに当たると、そこに影が現れ「現実」となります。
そしてそのエネルギー、その光というのは実は私たちの内側から出るものです。
天照大御神様とは人類共有の存在であるわけです。



「日の本」と言えば、常陸(日立)の国が激しく動いております。
列島を挟んで中央構造線の対極に位置する阿蘇は、よみがえり(蘇り、黄泉がえり)の言霊を冠しています。

黄泉が轟き、陽の立つ地がそれに呼応する。

天照様は一度岩戸にお隠れになられて、それからふたたび世に現れました。
まさしく、よみがえりです。

この世というのは、陰と陽のバランスで成り立っています。
その波は列島を貫く中央構造線のライン上にも現れています。

陽への感謝とともに、やはりその影にこそ感謝をお伝えするのがとても大事なことです。

日々の生活でもそうですし、大きな流れについてもそれは同じだと思います。

ご先祖様たちや見えない存在への感謝の心が、明日のこの国(世界)を映し出していくことでしょう。



(つづく)





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