これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

風に宿る神威

2015-08-24 22:05:05 | 国を常しえに立てます
2つの台風が同じようなV字ターンをしながら日本の左右を通過していくようです。
曲がるタイミングといい軌道といい、綺麗なシンクロを成しています。

そのうちの一つは石垣島と西表島の間を通過して瞬間風速71mを記録したそうです。
実は9年前に当時観測史上最大の瞬間風速69.9mを記録した台風も、同じように石垣島と西表島の
間を通過していきました。
この時は石垣島の電柱200本以上が倒壊し、島の8割が停電、倒壊家屋も出るほどの甚大な被害を
残しました。
実際は観測機器が振り切って壊れてしまったため、記録上は69.9にとどまったとも聞きます。

当時、私は毎年のように石垣島に通っていまして、まさにこの時もそうでした。

のんびり過ごすつもりが、ホテルに軟禁状態で何も出来なかったことを覚えています。
とはいえ、それが中途半端な内容だったらば残念な思いしか残らなかったでしょうが、この時はあまり
にケタ違いだったために、一生記憶に残る経験となりました。

ところで、八重山には八重山の神様がいらっしゃいます。
明らかに本土の神様たちとは違います。
といって台湾とも違う、独特の雰囲気です。
自然霊的な土地神や先祖神のような感覚を、天上の近くに感じました。

沖縄の原語などは古い大和言葉の流れですし、遺伝子的にも大和民族に近いと聞いていましたので、
天地のエネルギーとしては日本に近いものを想像していたのでしたが、こんなにも違うのが驚きでした。
とはいえ、全てが異なるわけではなく、重なる部分もあったりしてそこが面白いところでした。
本当に多くのことを学ばさせて頂きました。

さて、そんなこんなで三たび訪れたところでの直撃でありました。
それは背筋に電撃が走って、魂の端々までピーンとするような衝撃でした。

前段は省略します。
直撃したその日の夜から話を始めたいと思います。

宿泊は海に面したホテルだったのですが、とにかく風の強さが半端ありませんでした。
窓を閉めていても吹き付ける圧力で隙間が空いて、リビングの床が水浸しになってしまいました。
窓から2~3メートル離れた床までびしょ濡れでしたから、どれほどの横なぐりだったか想像つくか
と思います。
いつ窓が割れてもおかしくない激しさでしたので、早々にベッドは放棄してキッチン寄りの壁に退避して
いましたが、ホテル全体が強風にあおられてグラグラ揺れる状態が一晩中続きました。
眠れないどころか、最悪の場合これは倒れるかもしれないと思いつつジッと息を潜めて過ごしました。

停電の暗闇の中、飛行機のような物凄い轟音と、グワッグワッと揺れ続ける建物。
そして窓を閉めてるのに何故かビシャッと水しぶきが体にかかる状況で、ひたすらドス黒い何かが
過ぎ去るのをジッと待っていました。

夜が明ける頃になると、外はモワーッとした生温かい余韻を残しつつ、燃え尽きたあとの静かさに
なっていました。

白々と明け始めたところで、あらためて部屋を見渡してビックリ。
泊まった部屋は6階か7階の高さだったのですが、リビングは砂だらけになっていました。
それどころか貝殻も散乱しています。
そこそこ大きいものもありました。
窓の鍵は閉まっているのに、まさに密室のミステリーです。

さて、何とか晴れはしましたが、その日がチェックアウトでしたので、これから空港に向かわなくては
なりません。

一階に降りると駐車場にあった車は強風に押されてみんなガタガタ。
ガラスが割れたり、車体がボコボコになったり、マトモな車は一台もありません。見るも無残です。
まわりには何かの残骸や瓦が散らばってましたので、昨晩はそうしたものが風に乗って弾丸のように
飛び交っていたのでしょう。
私が借りたレンタカーも後方のテールライトが大破していました。

もともとホテルの周りはサトウキビ畑が生い繁り、その中を真っ直ぐに道路が通っていたのですが、
背の高かったサトウキビは全て根本から倒れてしまい、地平線の彼方まで見晴らせるようになって
いました。
そして道路に立っていた電柱は、遥か先まで全て倒れていました。
鉄筋の電柱が倒れる姿というのは、ポッキリというものではなく、まさにグシャっという感じです。
中のワイヤーが力で無理やり捻じ曲げられたようにひしゃげて、それを固めていた周りのコンクリが
粉々に飛散しているような状態です。
徐行して進む間、そうした惨状がどこまでも続いていました。
道路には電線がゴムのようにデローンと横たわってます。
夏空の田園風景ですので、かえって異様さが際立ちました。

そうして海岸線を走っていきますと、海岸沿いは何軒かに一軒が半壊していました。
昔ながらのシェルターのようなコンクリートの家は無傷です。
今どきの建物だけが被害を受けていました。

何より衝撃的だったのは、海岸を行けども行けども、完全な無音だったことです。
普通であれば、蝉の声や、風の音など、何かしらの気配というものがあるものです。
しかし、この日の朝は、ありとあらゆる音が消えていました。

真っ青に晴れ渡った南国の風景なのに、まるでテレビのミュートボタンを押したように、あらゆる
気配が消えていました。
生き物の気配が完全に消えた肌感というのはショッキングなものです。
目に映るクリアな景色とは裏腹に、死の感覚しか無いのです。
虫一匹残らず居ないどころか、草木すらも完全に鼓動を止めているようでした。
生命の気配が何一つ無い。風すらも無い。
全くの無。
すべての生き物が死に直面して、生命の氣が萎縮してしまったのでしょう。
無に包まれた世界は、身体中を針で刺されるようなヒリヒリとした緊張で詰まり詰まっていました。

そして、自分では冷静さを保っているつもりだったのですが、そうではなかったことをあとで知ること
になりました。

羽田空港に着いてから、いつものリムジンバスに乗って都心の渋滞に巻き込まれていた時のことです。
窓の外は、品の無いビルや大小様々な建物がゴチャゴチャかたまっていました。
その間を押し分けるように通る首都高を、渋滞の車が我先にとギュウギュウに詰まっています。
いつもならばこの景色を見て、旅先との落差にガックリしながら溜め息をついていたところでしょうが、
この時は、何の前触れもなしに、涙がジワーッと出ていました。
感情がたかぶったわけでなく、何ら変わらぬ心持ちのまま、窓越しにボーッとビル群を眺めていただけ
なのに。
思わずエッと驚いてしまいましたが、少しずつそれが何なのかが分かってきました。

頭の方は「相変わらず息苦しい町だな」と思っていたのに、肉体の方は「生きて帰ってきた」という
魂の喜びに浸っていたということです。

にわかに受け入れがたい事実でした。

私は東京生まれですが、子供の頃からこの不自然で窮屈な空気が嫌で嫌でたまらず、休みになるたび
緑豊かな土地へ行ってましたし、将来は絶対そうしたところに住むつもりでいました。

ですから、理屈として有り得ない反応だったわけです。

でも、誤魔化しようがありません。
頭の判断ではなく、皮膚の反応で身体が震えてしまっている。
頭や心よりも、肉体こそは何にも増して正直です。
皮膚は死に直面した緊張感に、ずっと包まれていたのでしょう。
それは自分の芯の芯の部分の顕れでもあるわけです。

心底嫌っていたこのコンクリートとこの空気が自分の死に場所なんだと、否応もなく力技で納得させ
られました。
そしてそうであればこそ、本当の意味で、土地の氏神様に心からの感謝を捧げられるようになった
のでした。

少し前に、定年退職を迎えた熟年層が第二の人生として、海外へ移住することが流行りました。
我欲だけで考えると、税金や物価や気候やレジャーなど、違った物差しが働いてしまいます。
元気なうちは目先の満足に目が眩んで、幸せに浸っているような気持ちになるでしょう。
ただ身体が弱ってくると、何故か誰もが同じように、最期は自分の生まれ育った故郷で死にたいと
思うようになるのです。
それは、ほとんど故郷の記憶など無いはずの中国残留孤児の老婆ですら、そうであるわけです。
鮭が大海から上流へ戻るように、私たちもこの細胞一つ一つに染み付いた何かが、芯の芯から
響き出して全身を震わすのかもしれません。
肉体を包む感覚とは、魂の声そのものであるわけです。

台風というのは、甚大な被害を及ぼしますが、時に神の一撃ともなります。

このたびの一撃も、目に見えない御加護となるかもしれません。
その軌道はまるで日本全土を覆うカーテンのようでもありますし、その動きはクルクルと床を履く
自動掃除機のようでもあります。

台風一過のあとは空気が澄みわたるものです。

まさに真意であり、神意であり、神威です。
改めて天地に護られた国と思わずにはいられません。

ただ、ただ、天地に感謝です。





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これからの時代

2015-08-17 22:49:17 | 国を常しえに立てます
まわりを見ると、国の外ではトンチンカンな大騒ぎをしていたり、内では近視眼的な自己満足に
浸っていたり、そうした人が大勢を占めていたりするかもしれません。

そうであったとしても、自分は、ただ自分の中心に耳を澄ませて、感じるままに心を向けましょう。

焦ることもなければ、ハラハラすることもありません。
民主主義とか多数決とかに囚われなくても大丈夫です。
みんなに分かって欲しいとか、共に感じてもらおうとか、すべて余計なよそ見でしかありません。

他の人は他の人。
何人いようとも関係ありません。
そんな人ばかりだったとしても、絶望することはありません。
人数は関係ないのです。

この世というのは、多数決でもなければ、100匹目の猿でもありません。
数を揃えようとしなくて、いいのです。
自分は、ただ目の前に集中する。
この世界は、間違いなく1分の1なのです。
その「1」が本物であることが何よりも大切なことです。

それは決して自分だけが本物だという傲慢さとは違います。
本物というのは、他の何にも染まらず、余計なよそ見もしない、天地自然に素直な状態のことです。
天上天下唯我独尊ということです。

人の世で生きるかぎり、話し合いや多数決、和合というのは大事にしなくてはいけません。
ただ、それはそれであって、その条件が満たされなければ世界が変わらないというわけではありません。

数が揃わなければ変わらないということではないですし、数が揃えば変わるということでもありません。

天地自然がどのように雷同しようと、多くの人々がそれでもなお子供のように駄々をこねようとも、
私たちは素の心のままに自然に振る舞うだけです。

自分たった一人に何ができる?とは思わないで下さい。
自分が凄い存在であるか、凄くない存在であるか、そんなことなど何の意味もありません。

自らの行ないで天地宇宙は変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。
そんなことはどうでもいいわけです。

結果など一切気にせず、何も作為せず、ただ心の底から湧き上がる衝動に従って、やりたいように
やるだけです。

感謝を納めて、天地がおさまればそれはそれ。
おさまらなくとも、それはそれ。

そもそも天地がおさまらなくとも、感謝を納めたという事実が、目減りすることありません。
そして、たとえ天地が荒ぶれようとも、感謝を納める思いが、目減りすることもありません。

結果など求めず、また如何なる出目も気にすることなく、ただ今の思いを素直に伝えるだけです。

それで何かが起きても、それはそれ。
素直な心を向けた事実が陰ることなど、1ミリもありません。
のちにどのような結果に会おうとも、自分の心には爽やかな風が吹き抜けていることでしょう。

清々しさに満たされるのは何にも代えがたいことです。

私たちは何もあの世に持って帰れません。
ただ、清らかな風に吹かれた今この瞬間の心地よさだけが永遠なのです。

結果や周囲など気にかけず、ただただ、今の心を素直にあらわしましょう。




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純粋な気持ちを現しましょう

2015-08-14 12:13:48 | ひとやすみ
東京に戻ってから初めての箱根に行ってきました。

ジリジリと刺すような日差しの中、高速渋滞のノロノロ運転。
エアコンも効かないような猛烈な暑さでした。

高速を抜けて少し行きますと、正面に箱根の山々が見えてきました。
太陽サンサン、目の覚めるような青空なのに、山の上にはまるで練乳のように雲がフワーッとかかっていました。

我が愛車は息も絶え絶え、箱根の急勾配は後進に譲りつつ、ようやく箱根神社へ到着。
いつもなら国内外の観光客でごった返している境内が、まるでオフシーズンの平日のようにガラーンとしていました。
ホッと息をつきつつも、噴火騒ぎの影響がここまでかと思うと少し複雑な気持ちでした。

箱根神社というのは昔からとてもご縁の深く、感覚的には氏神様に近い場所です。
そのため、もともと東京に戻ったならばすぐに御礼と報告にあがるつもりだったのですが、まさかその直前に噴火騒ぎになるとは思っても
いませんでした。

そのようなこともありまして、ダブルでドーンと来る可能性を想定しながら境内に入ったわけでしたが、そこは外の喧騒などドコ吹く風。
いつもと変わらぬ静かな空気が漂っていたのでした。

人の居ないガラーンとした景色とは裏腹に、ふんわりと落ち着いた空気感。
不安という人間考えが作り出した景色がいかに不自然であるかということです。

実際の現実とは、人の思いなどに関係なく、いつもと変わらぬ時の流れ、佇まいでした。

さて、神社というのは、その人その人のご縁がある場所です。
同じ神社で手を合わせても、バーンと来たり来なかったり。それは人それぞれであるわけです。
そこに在る何かが依り代となる場合もあれば、そのエリアにそのままドーンとおわすこともありますし、はたまた自分自身が依り代になる
ようなことだってあるかもしれません。

私たち自身の鏡に映って顕れるわけですから、人それぞれ、またその時々によって、来たり来なかったりというのも全く自然な話かと思います。

来る来ない自体もそうですし、その顕れかたにしても人の数だけあることでしょう。

言葉や文字、映像で来る場合。濃縮還元の塊がドカッと来る場合。イメージとして浮かぶ場合。

背中からブワッと全身を包むように皮膚に来ることもあるかもしれませんし、首筋の後ろからエネルギーを照射されるように来るかもしれません。

手を合わせた瞬間にフワーッと幸せな気持ちに包まれ、この世の流れからスッと抜かれ、優しい静寂に置かれるのは本当にありがたく
勿体無いことであります。

時には潜水服にくるまれて水中を歩くような、全身を薄い膜に包まれ夢心地を歩くという珍しいパターンや、たちまち圧縮濃密な空気に一変して、
四方が空間ごと別次元と化すパターンというのも全くもって言葉にはならないものであります。

時と場所、人によって現れかたは山ほど変化するでしょうが、こうしたものは単に切り口が異なるだけでどれも同じものであるわけです。
風変わりだから凄いとか、平凡だから凄くないとか、そういうことではありません。

どれも同じものです。

感じ方ではなく、ただ感じることが大切だと思います。

手を合わせてほんのりと幸せを感じる。
その瞬間、ありがたいなぁという思いがジワジワと湧き出てくる。
頭で考えて湧き上がるのではなく、幸せな感覚とともに感謝の思いが自然と出てくる。

それこそが本当に大切なことであって、その他のことは、言ってしまえばオマケに過ぎません。
派手さに浮かれてしまってそこを見落としてしまうのは本当にもったいないことです。

他の誰かが違うことを言っても、それはその人オリジナルのことですので、それはそれ。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「そうなんや」くらいで丁度いい話です。

逆に思い込みの自作自演に酔ってしまっている人を見かけても「そうなんや」で丁度いい。

万事、付かず離れず、自分の中心に柱を立てて、映し見るということです。

ハナから切り捨てるでもなく、丸っきり鵜呑みにするでもなく、淡々と眺めるわけです。

そうして、そんな世界もあるのかなぁと、実際に自分の心に耳を澄ませてみることがとても大切なことではないかと思います。

それは小さなささやきかもしれません。
でも、そこで感じたものこそが自分オリジナルの本物であるわけです。


さて、箱根神社に話を戻したいと思います。

自分の場合、いつも本殿の箱根大神様の方はサラッとしていて隣の九頭龍様に行くとフワーッと
来ていたのですが、今回は勝手が違いました。
本殿の方で手を合わせると、いきなりホワッとした田舎帰りのホッコリ感が来ました。
言葉で表現するなら「おかえり」とか「よく来たね」といった感じです。

勝手なアテレコではなく、間違いなく来てるのが面白いところです。
言葉よりも先に思いが届くということだと思います。

今回は、そのあとの九頭龍様が全く無反応だったので、アレ?と不思議に思いました。
なんかいつもと違うのかなと一瞬思いましたが、境内の緑と精妙な空気に、雑念もあっという間に消えて清らかな心地に戻るのでした。

そうして、いつものように階段を降りて芦ノ湖へ向かいました。

すると、湖は水かさが増して、強風が吹きすさび、湖面がジャブジャブと波打っていました。

空を仰ぐと、薄暗い雲が一面をおおうようにして、かなり低いところにまで下がっていました。

そのうち雲はますます近くにまで迫り降りてきて、大風が強くなり、波もジャボジャボと大きくなり、今にも竜の子太郎がザバーッと出て
きそうな雰囲気になりました。
下界は雲一つないカンカン照りだったのに、まったくここだけ異世界のようです。

お社にはおられませんでしたが、今日はこちらの方におられたのでした。


この日の箱根は目的がそれだったので、そのまま日帰りしましたが、数日前にまた思い立って再び箱根に行くことになりました。

ただ、目的は完全な骨休み。
なので温泉宿です。

宿に着くと同時に、畳で大の字になって館内図を眺めました。
チェックインしてから避難経路をチェックするのは子供の頃からの習慣です。
火事になったらどう逃げるかと複数パターンをイメージして、地震になった時は何処が危ないかとボンヤリ考えるのでした。

3・11が起きてからは、さらに宿の外から何処へ逃げるかも考えるようになり、今回に関しは、噴火が起きたらどの方向へ逃げるかを
自然と頭に浮かべていました。

こうして書き出すとやたら面倒な作業のようにも思えますが、実際はリラックスしながらボーッと考えているだけなので手間も感じません。
ガツガツするわけでなく、単に空想を楽しむようにゴロゴロしながらやる感じです。

災害が来たらどうしよう!?と不安に思ってしまうのは本末転倒で、来たら来たで、その時はその時。
ただ、そうなった時に最大限のことができるように、事前に考えられることを想定しておきます。
これは一度体を通せば十分なもの。
擬似体験というのは、色々な意味で非常に有効だと思います。

一度通しておくと、次の時には、頭を使わなくても先に通っていたりするものです。
これは武道で実証済みなので、日常においても間違いないことでしょう。

さて、そんな時フト気づいたのは、この数年、知らない土地に泊まると地震が来たらどうするか、津波が来たらどうするかと考えてたわけ
ですがら今回は噴火が来たらどうするかと自然に考えている自分が居たことでした。

そこには別に悲壮感や危機感など一切なく、淡々と思い浮かべているだけで、それはそれとして旅行を普通にエンジョイしているのでした。
つまり、何の抑揚もなくフラットな状態であったわけです。

今となっては、ごく当たり前のこととして私たちは受け入れていますが、改めて地震、津波、噴火と単語を並べますと、なんと凄まじいことか
と思うばかりです。

それなのに、実際は特段の思いも抱かずにそうしたことを淡々と想定している。
おそらく外国の人たちは、このうち一つすら身近に感じているものは無いのではないでしょうか。

私たちは、こうした自然災害を知らず知らずのうちに心の近いところにポンと置きつつ、それをストレスとも感じずに明るく日々をエンジョイ
しています。

それが無意識のうちに天地宇宙に対する畏敬となり、また自ずと自分たちの慢心や増長を抑える謙虚さへと繋がっているのではないかと
思います。


つまりは、自然のうちに情操教育がされているわけです。

日本というのは、本当に素晴らしい国です。
私たちは恵まれた環境に生まれ育っています。

そのような環境であればこそ、当たり前に天地自然の感覚が皮膚に染み付き、“神ながらの道”が
誰にとっても身近なものになっていると
いうことです。

神ながらの道とは、天地と自分が分け隔てなく一つとなることです。

天地の脅威を常に感じているということは、天地という存在が常に心に同居しているということです。

それを同居させられない人たちにとっては、もしかしたら今の日本は住むのにシンドイ国かもしれません。
でも私たちの祖先は、むしろそうした環境だからこそ、豊かな心を育んできたわけです。

実際の自然災害というのは、身内を失ったり、財産を失ったり、生活すべてを奪われてしまい本当にツラいことだと思います。
現実というのは、綺麗事だけではありません。
それでもなお、やはり私たちはこの天地宇宙の大自然に包まれて、そこに寄り添って生かされています。

天地の動きによって人生を終えるのは、文字通り、天命かもしれません。
究極的には、天寿を全うしたとも言えます。
ですから、私たち日本人は、心の奥底では誰もがそれを受け入れているのではないかと思います。

そうした上で、最後の一瞬まで、何が何でも生き抜こうと必死にあがくことが最も大事なことになるということでしょう。

天地宇宙の成り立ちを肌で感じているが故に何処かで達観している、しかし、最後まで諦めることなく必死に生きようとする。
まさしく目の前の今に、最後の最後まで「一所懸命」(一つ所に命を懸ける)。

ある高僧が臨終の間際に発した「死にとうない」というのは、まさにそのことだと思います。

最後まで諦めず、ドロ水をすすっても生き抜きぬく。

何より、私たちのご先祖様たちがそうして下さったからこそ、今の私たちが在ります。
派手な人生よりも、とにかく生き切ったこと、生き抜いたという、ただそのことが貴いわけです。

24時間チャリティーマラソンどころではありません。
つまずいたり、転んだり、立ち止まったり、諦めたり、 泣いたりわめいたりしながらも、一生涯を完走しきった。
最後はほとんど進んでいるのかも分からないほどになりながらも、最後の一瞬まで生きようとした。
別に誰に見せるわけでもありません。
ただ、目の前の今に必死に噛り付いていただけです。

震えるような感動が湧きませんでしょうか。

せっかくのお盆です。
形だけの神妙さなど必要ありません。
今のその気持ちを素直に表すだけです。

理屈など抜きにして、万感の拍手と感謝をその完走に送ってみてはいかがでしょうか。

きっと、照れながらも喜んでくれると思いますよ。



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それはそれ、これはこれ

2015-08-08 15:36:11 | 心をラクに
現世と書いて「うつしよ」と読みます。

この世は、現実世界という「現し世」であると同時に、向こうの世界の「映し世」であり、
諸行無常の「移し世」であります。

この世界とは、私たちが本来いるあちらの世界の淡さを濃密に凝縮したものです。
ギュッと詰まりに詰まった、実体であるわけです。

もとの世界が微細に溶けあった淡き海であるならば、この世界は一つ一つがカチコチに
固まった氷のようなものと言えるかもしません。
別に冷たいものだとか堅苦しいものだとか、そういうことではありません。
実体があるということです。
そしてそれは、頭を少しだけ出している氷山であったり、見る角度によって姿を変える
氷の塊だったり、あるいは光を通せば七色に分かれるプリズムだったりするわけです。

こちらの感覚で言えば、あちらの世界は夢まぼろしのように感じるわけですが、向こう
からすれば、その淡き感覚の方がリアルであって、今のこちらの感覚の方が夢まぼろし
のようなものとなります。
どちらが正でもどちらが負でもありません。
こちらの感覚は、こちら限定です。
そしてこちらに居る間は、間違いなく、今のこの感覚が正です。
その感覚に正直に生きることが正(生)であるわけです。

ただそれが唯一絶対のものだと囚われ過ぎてしまうと、今度はガチガチの決めつけ主義
でまわりが見えなくなって裸の王様になってしまいます。

万事、自然体の、ほど良い加減がいいわけです。
そこに人間考えを挟んで、ヨシやったるゾ!と気持ちを出しすぎてしまうとおかしくなって
しまうということです。

ですから先程とは逆に、こちらの今この現実の感覚を無視して、「投影された仮そめの
ものならば、この世というのはボンヤリした幻想のような淡いものなのだ」とイメージ
してしまうと、これまた囚われの世界に陥ってしまいます。

この世を虚無であるとか、所詮は夢物語の儚い世界だと思ってしまうと、今ここに集中
することができなくなり、地に足つかずフワフワと浮き上がってしまいます。

どちらを向いているにしてもそこに偏り過ぎると、偏見の色メガネになってしまいます。
天地宇宙というのは、アレとコレのどちらか一つが正解ということではなく、アレもコレ
も正しい世界です。

もしも何かに矛盾というものを感じるならば、それは今のその立ち位置が低いということ
になります。

人類は、矛盾というストレスを解消したい衝動から学問を進歩させてきた一面があります。
学問の世界においては、矛盾する他方を否定せず、両方が統一されるような高みを見い出そう
としてきたわけです。
自分の立ち位置を変えてしまえば、たちまちにして矛盾というものはなくなり、もっと広く
新しい真実が見えてくるものです。
にも関わらず、信念や価値観という情緒の部分では、人類は自分の立ち位置を変えることを
拒み続けてきました。

どちらか一方を担ぎ上げ、矛盾する他方を全否定して排斥し続けてきたわけです。
あるいは他方が正しいと証明されれば元の方を見直して、左右に立ち位置を変えながら階段を
昇り続けることができたはずですが、実際そのようなことが殆ど為されなかったことは過去の
文明の攻勢を見れば明らかです。
本来は議会政治の在り方もそうした理想理念が元にあったはずでしたが、左右の対立が決して
高みへ止揚することはなく、単なる全否定の叩き合いになってしまったのは、全く同じ流れと
いうことです。

自分の立ち位置とは、自分の価値観や信条、思い込みによって自動的に定められてきます。

ですから、それらを手放してしまえば、当然ながら自然とその位置から離されていきます。
手放すのが忍びないならば、ひとまずそれはそれとして横に置いておくだけでも、自分の
本体はそこから離れて全体を俯瞰する場所に移動していきます。
なぜならば、もともと私たちというのは天地宇宙の一部であり、天地宇宙というのは何もの
にも縛られずに全てから自由であるからです。
たまたま今は、自ら好き好んでそれぞれ一ヶ所に引っ付いているだけのことです。
ひと休みをすればスッと元の場所に戻り、その瞬間、対立や矛盾というものは霧散します。

対立も矛盾も、相対的な現象でしかありません。
一方と他方を別々に分けて、そのどちらかに我が身を置く限り、対立や矛盾は物理的に
発生するわけです。
点から線へ、線から平面へ、水平から垂直方向へと、我が身の立ち位置を変えていけば、
それまで別々に見えていた事象も、同じ次元の中に溶け合います。
対立や矛盾が消えない時は、自分がまだ何かに囚われているということです。
それは、自分のまわりの何か別のもの(環境や身内など)が自分を縛っているのではなく、
ただ自分がグリップを掴んで離さないだけです。
ですから、わざわざそこから出ようと頑張ろうとしなくても、ただ手を離せば自然にスーッ
と元の場所に戻っていきます。

実際、頑張ってそこから出ようとすればするほど、無意識のうちに握った手は強くなって
しまいます。
あるいはまた、対立する相手を理解できてから初めて自分の手を離そうとするのでは、結局は
色メガネの弊害によっていつまで経っても前に進むことはできません。
そうしたことが、これまで世界が立ち止まってしまっている原因なのではないでしょうか。

相手など関係ありません。
ただ、自分が手を離すだけです。

プラカードを強く握って声高に叫んでいる人たちも、その手を離すだけでまた違った景色が
見えてくるのではないかと思います。


さて、今日は話が二転三転しながら、クルクルと立ち位置や感覚が入れ替わっていきます
ので、読んでいて混乱してしまうかもしれません。
ただ、どちらも真であり正(生)であり、いずれにも縛られない感覚をお伝えしたいので、
その両方を俯瞰できるような立ち位置で読んで頂ければと思います。


ふたたび、話を戻します。

この世の感覚は、ここに存在するかぎり絶対的に大事なものです。
その感覚に真面目に真摯に取り組んでいれば、他に何も要りません。
あれこれ深く考えたり、広く観ようとしなくても、ただ生きることに黙々と集中していれば、
それだけでこの世に生まれた全てを満たすことになります。

農作業であれ、事務作業であれ、家事であれ、育児であれ、目の前のことに黙々と取り組んで
いる人たちは、年を老いても、スッと一筋通ったような美しさを醸し出しています。

つまりは、子供のように、何も疑うことなく純朴にただ普通にやるだけでいいわけです。

しかし、どうにもこうにもストレスの多い社会で、色々な人や情報にさらされながら汲汲と
生きていると、純朴に普通に生きるというのもこの上なく困難となります。
であるならば、理屈だろうと方便だろうと、囚われ縛られながらその先へ進んで生き続けて、
苦労と体験を通して一周して元に戻ることが、一番の近道であると同時に、質実剛健な説得力
と強靭さを伴うことになります。
それは他の誰でもない、まさに自分自身に対してのブレることない説得力です。

こうして長々と書いていることは、まさに子供のように何も疑うことなく純朴に生きるための
一周と思って頂ければ分かりやすいかもしれません。

そのような苦労をせずとも、ナチュラルに何も疑うことなく信じ切れる人は幸いです。
でも、私のように疑り深い人間は、自分の目や体で実感して初めて疑いを無くして信じること
ができるようになるものです。
ですから、「戻る」のではなく「進む」のみです。
進んで進んで、ようやく子どもの心に辿り着く旅です。
しかしそれが、どこか途中で止まってしまうと、凝り固まった心のままで終わってしまいます。
同じ手放すにしても、心の中で後ろ髪を引かれながら優等生然として無理やり手放すよりは、
掴んで掴んで掴み続けてから、グッタリ疲れて手放す方が、とても自然なことだと思います。

また、たとえ疑り深くなくても、純粋に真面目が過ぎると、道のあちこちに転がっているフト
したことに囚われてしまい、知らず知らずのうちに渦巻きスパイラルに陥ってしまいます。
そうした蟻地獄から脱するためには、まずは自分が蟻地獄に居るということに気づくところが
第一歩となります。
すると、実は渦巻きの底の方に向かって自らがアクセルを踏み続けていたということを、知る
ようになります。

そのため昔の人は「この世は無である」とか「かりそめだ」とか様々な方便を使って、真面目
の過ぎる人たちを囚われから引き離そうとしました。

ただ困ったことに、それはそれで度が過ぎると、逆にその「無」に囚われてしまって、全くの
逆効果になってしまいます。
あくまでそれは、この世の了解事項に“囚われすぎて”まわりが見えなくなってしまった人に
それを気がつかせるための方便に過ぎず、決してこの世を劣るものと軽んじたり、薄らボヤか
したりするものではないわけです。
そうしてこの世はツラい世界だとか、ここに生まれてくるのは修行のためだなどと、否定的な
見方に囚われてしまうと、この世が存在する意味自体が失われてしまいます。

「この世のこれは現実であり、この世界が全てであり、だからこそ一所懸命に生きるのだ!」

まさにそれに尽きます。

この人類共通の了解事項は、この世では絶対的に正しいものです。
夢物語のようなスカスカなものではありませんし、決していい加減に軽んじるようなものでは
ありません。
そのルールにどれだけ素直になれるかが、この世界をしっかりと満喫するコツです。
時にそこから離れて俯瞰して見ることも大事ですが、一方で、この世界に着地する時には他の
雑念は捨てて100%ただひたすらに、今ここに集中するということです。
雑念を捨てるとは、この世界の了解事項にしっかりと身を投じ切ることでもあるわけです。

「所詮は造り物だから」とか「想い描いたように創られるもの」とか、そのような中途半端な
シタり顔は厳禁ということです。
それはそれ、これはこれです。

たとえば、本を読んでいる時にいちいち「私はこれがフィクションだと知ってる」と繰り返す姿は
どうでしょうか。
ゲームを楽しんでる時に「これはゲームだから架空のものなんだ」と言い続けている姿もそう
です。

まったもって不粋の極み。
アホ丸出しでしょう。
そんな姿、誰も応援できません。
そもそもそんなことで、本当に本人は楽しめているのかということです。

この世の瑣末なことに囚われすぎないために、外の元の世界を知っているのは大事なことですが、
こちらに身を置くかぎりは、外の元の世界に囚われずに、この世にしっかりと身を投じて味わい
切ることが重要です。
外の元の世界を知るのも、むしろ、こちらをしっかり味わい切るがためのものであるわけです。

人生というのは、たった一回きりです。
私たちみんなが了解しているこの世界の決めごとは、それこそが正解なのです。

元の生命は永遠かもしれませんが、今はそんな理屈など必要ないことです。
それはそれ、これはこれです。

今のこの生命と、元の生命と、どちらか一方に偏ってしまうと他方に矛盾を感じてしまうだけです。
どちらに対しても100%を向ければ、どちらも真実になります。

今この生命は、一回きりなのです。

だからこそ、どんな日々も、どんな人生も美しく、そして貴いのです。
決して美徳に満ちた生き方だけを指しているのではありません。
我執だらけで自分のことだけを考えていたとしても、それはそれでいいのです。
その必死さの中にこそ、真実があるからです。
一番まずいのは、シタり顔で中途半端に偽善に生きることです。

アレかコレかではなく、アレもコレも正解。
その上で、どちらかへ心を向ける時は、そちらに100%ということです。
つまり、それはそれ、コレはコレなのです。

この現実にしっかりと身を投じきって、一喜一憂して右往左往して、怒って恨んで泣いて笑って、
全力で駆けた(懸けた)先に、たとえわずかでも他の誰かのために何かを思ったり何かをしたり
した、その瞬間が、天地宇宙そのもの、光そのものとなります。
それを含む全てが等しく貴いのです。

我知れず、フトそのようになっている。
それは、頭であれこれ考えて行なう善意とは天地ほど違います。
全てが自分としての自然体であればこそ、全てが本物になります。

100の我欲に生きようと1の大我があれば、それでいいのです。
まさに『蜘蛛の糸』なのです。
あれを悪党の話と思ってしまうと、そこで終わってしまいます。

そもそも大我を得ようとする時、その思い、その我欲こそが最大の障壁となってしまいます。
たとえ小我であろうと日々に正直に生きるところに、本物が顕れるのだと思います。

小我も大我もありません。
我が身が可愛くて、いいのです。
そのように自分に正直であれば、素直さ100%の日々になります。
自分自身をそのまま受け入れた日々になります。
そして、同じ線上のその先に、ごく自然に、何かのためや誰かのために我が身を忘れてしまう
透明な心が顕れます。

天地宇宙という視点では、すべては分け隔てなく一つ所に溶けあってます。
でも、その心は一瞬で十分です。
冒頭から長々と書いてきました、あちらの感覚、こちらの感覚、そうした全てを映し見る天地の
立ち位置、そういうものは一瞬でも通せばそれでいいのです。

そうしたらば、あとは、今この世界の現実に全身を投じて、万遍なく浸りきるだけです。
世のことに憤り、仕事に不満をこぼし、日々の暮らしに喜びを感じ、命を惜しみ、己の我がまま
に溜め息をつく。
「命は一度きり」というこの現世(うつしよ)の決め事に没頭するのみです。

これはお祭りだと冷静に分析するよりも、その輪の中に入って一緒に踊る。
子どもの心とは、まさにそこにあるのではないでしょうか。

それはそれ、これはこれです。

今の目の前に身を投じる時には、恥ずかしがらずに、成りきるのが一番でしょう。
どんなに崇高なことであろうとも、それが脇見であれば単なる雑念にしかなりません。

目の前のことが何よりも大切なのです。
この世には、無意識下で全人類が合意した共通の決め事があります。
郷に入ったら、郷に入りきりましょう。

そして何よりも、その一度きりの現世を支えているのは、天地宇宙の様々な存在であり、私たちの
ご先祖様です。
おかげさまに感謝をして、この世をしっかりと生きることが、一番の恩返しになります。

お盆の時期になりました。
日本というのは本当に素晴らしい国だと思います。
この国に生かさせて頂いて、心の底から良かったと思うばかりです。




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マイペースでいきましょう

2015-08-01 17:03:27 | 心をラクに
まわりの環境が変わると、それまでの当たり前が通用しなくてハッとすることがあります。

たとえば新しい土地に引っ越しますと、買い物やゴミ捨てのような些細なことでも勝手が分からず、頭が
フル回転になってしまって神経を使うものです。
今まで考えずにやれてたことに一つ一つ引っかかってしまうと、その度にペースが乱れてしまいます。

見知った環境では無意識のうちに先の先まで見通せていますので、頭も心も使わず自然にこなせますが、
勝手が分からないと視界が寸詰まりになって、目先のことに翻弄されてしまいます。

これは武道でも同じで、慣れないうちは相手の手足など末端だけを見てしまいます。
すると、次に何が来るか分からないので気が休まらず、組手が終わった時にはグッタリしてしまいます。
「こう来たらこう対処しよう」と一つ一つマニュアルで考えてしまうのが一つの原因です。
景色が見えないから一つ一つに囚われてしまうとも言えますし、一つ一つに囚われてしまうから景色が
見えないとも言えます。
それでもその苦労を続けていくうちに、蹴りも突きも、何も考えず勝手に自動で捌(さば)けるようになって
きますと、相手全体を包むように景色が広々と見え始めて、驚くほど疲れなくなります。

武道に限らず、普段の生活であっても心が狭まってしまうとまるで息が詰まるようにバテてしまいます。
ましてや、右へ左へと振り回されると尚更です。

これは決して、体力やスタミナの問題だけではありません。
まさに心の広がりがエネルギーに影響するということです。
どれだけ分け隔てなく天地に溶け込んでいるかによって、目に見えないエネルギーの差が生じます。
心が広がれば広がるほど、天地の氣が流れ込んできますし、逆に心が狭まっていると、その流れが遮断
されて天地のエネルギーが欠乏してしまいます。

また心が広がれば、心は安定します。
心が狭まれば、心は揺れに揺れます。
どちらがよりエネルギーを消耗してしまうかは明らかでしょう。

心が縮こまっていると、天地のエネルギーをうまく取り込めないだけでなく、必要以上の浪費までしてしまう
ということです。

慣れないことをしますと、どうしても心が目先に囚われやすくなります。
そして身の周りの環境が変われば、慣れないことだらけですので、それが顕著になります。

そういう意味では、職場などはその最たるものと言えるかもしれません。
なにせ、シンドイからといって自分で勝手に妥協したり、ノンビリやったりできませんので(笑)

たとえば仕事がまったく変わりますと、環境以前に自分が素っ裸にされてしまいます。
知識も経験もゼロからのスタートですと、そもそも何が起きているのか分かりませんし、何をすればいいの
かも分かりません。
しかし、そんなことはお構い無しに、仕事は次から次へと押し寄せてきます。
人員削減の時代、一つ一つ丁寧に教えてもらえることもありませんし、一人分以上の仕事処理を即日期待
されます。

遠くを見たり景色を広々と見ようとしても、次々と仕事が押し寄せてきますと、あとがつかえてますので
そんな悠長なことは言っておられず、目の前をがむしゃらにこなしていくだけになります。

ただそうなると、いくら気持ちを前向きに出していても目先のことしか見えていませんので、背中や脇は
スカスカです。
あちこちから仕事が殺到するうちに、ガラ空きの死角からズカーンと直撃を受けてしまいます。
そうなるとまさにサンドバッグ状態です。
キックボクシングでも、食らいたくないからといってすべてのパンチやキックを見極めようとしていると途中
から追いつかなくなり、総崩れとなって四方八方から滅多打ちに合います。

仕事にしてもキックにしても、色々なことが一斉に殺到すると思わずそれらを全て捌こうとしてしまいます。
でも、そこで焦って全部を見ようとしなくていいということです。
むしろ、見ないほうがいいと言った方がいいかもしれません。
1発2発くらい捌きそこねても死にはしません。
しかしその1発2発の失敗を嫌がってガチガチに構えてしまうと、それこそ何十発も食らうことになって
しまうわけです。
もしも幸いにして、器用に全てを捌けたとしても、神経はグッタリでしょう。
しかも下手にそのやり方でこなせてしまった方が、かえってダメージが根深くなり兼ねません。
ですから、そういう意味では不器用なほうがいいとも言えます。
何故ならば、目に見えてすぐにパンチを受けた方がダメージは小さくて済むからです。
手先器用や要領よしは、あとで大きな代償を払うことになってしまいます。

これは仕事に限らず、人生全般に言えることです。
待ったなしで今こなさなくてはいけない場面というのは、日頃の日常においていくらでもあることです。
器用・不器用というのも人間関係に当てはまりますし、体が強い弱いという部分でも同じことが言える
わけです。

捌こうと思えば思うほど、実は、心は受け身になってしまいます。
自分では攻めているつもりでも、心が構えている状態というのは、受け身なのです。
目の前に来たものを処理しようというスタンスが、すでに受け身であるわけです。
自分としては前傾姿勢になってヨシ来い!と気合いを出しても、脇はガラ空きです。
目が届いている範囲は強いけれども、少し外されるとモロい。
だからと言ってそうした隙をなくそうと全方位に気合いを出そうとすると、ますます心は頑なになって
しまい、かえって打たれ弱くなってしまいます。
基本、受け身のスタンスである限り、頑張れば頑張るほどカラ回りしていくわけです。

がむしゃらな必死さは大事ですが、全てを落ち度なく完璧にこなそうとする心は、単なる我執になって
しまうということです。

食らってもいいのです。
それよりも、ちゃんと広がった景色を見れていることの方が大事なのです。
「自分の信念に従ってこうしなくてはいけない」とか「まわりの期待にこたえなくてはいけない」とか、
そのような縛りを手放して、失敗しようがパンチを食らおうがそんな一発二発など構わないという心で
もって、目の前のことをがむしゃらにやっていくということです。

ですから、最初のうちは、一つ一つ目先のことしか見えていなくて、いいのです。

これまでの話をすべて引っくり返すようですが、本当の入門したての最初のうちは一つ一つのパンチや
蹴りを見極めようと集中するのが、いいのです。
ただし、それは食らいたくないという気持ちからではなく、捌き方を覚えるという意味からです。
ですから、捌き方を覚えたのに何年たってもいつまでも目先に囚われてしまうのは、食らいたくないと
いう我欲になってしまいます。

環境が変わることで、それまで広々と見えていた景色が一夜にして、手先足先しか見えない景色になる
のは息苦しくツラいことではあります。
ただ今まで見たこともないようなパンチや蹴りが飛んでくるうちは、その捌き方を覚えるまでは手先に
集中するしか無いのです。
もちろん達人の域に達して芯から天地と一体になりきっていれば、見たこともないものが降りかかって
きても、手先に惑わされず全体が見えたままスッと対処できるかもしれません。
しかし、天地と一体でありたいという欲があるうちは、到底そのような境地には辿り着けていないわけ
です。
そうなると、いくら全体が見えるのが大切だからといって、一発二発食らっていいなどと思っていると、
単なる恰好だけで中身が伴わず、一つも捌けず滅多打ちにあってしまいます。

右も左も分からないうちに、最初から広々と見ようとするのは、単なる我執でしかありません。
世界とは、広々と見ようとするものではなく、自然に広々と見えてくるものです。
それは結果としての理想形であるだけで、勝手が分かるまでは、今のドタバタに身を投じ切るしかありま
せん。
大船に乗れば揺れないのが分かっていても、小舟の操作を仕事として与えられたのならば、それに没頭
するだけということです。
大海原に翻弄される落ち葉の如く、小舟とともに、自身も存分に揺らされまくることが必要です。
そこで自分だけは揺らされまいとするのは我欲ということになります。
心揺らされるのは修行不足だと嘆くことこそ、単なる驕りでしかないわけです。

環境が変わる前はどっしり落ち着けていたのに、今は明らかに心の一点が浮き足立って波立っていたと
しても、それはそれでいいのです。
それが今の目の前に身を投じきったありのままの姿であるならば、それこそが、自然な姿(自然体)と
いうことになります。
いまの自分の自然体にそのまま素直になることが、この世界に生きる価値となります。

その状態を、杓子定規でもって良い悪いと測ることには、あまり意味がないのです。
ですから、そうした価値判断に嘆くことはありません。
ましてや、それをもって今の自分が劣っていると思うなど、もってのほかです。
そもそも、自分の状態を知らないまま生きてしまっているために、今の状態を分からせようというのが、
氣のテストの目的であり、そのテストをクリアするかどうかは目的ではありません。
つまり、今の自分の状態をしっかりと理解していることこそが、大事なことなのです。
それさえ自分で分かっていれば、何の問題もありません。
そして、それが正常化できればそれは喜ばしいことですが、浮き足立ったままだからといってそれが悪
ということにはならないのです。
そこを履き違えて、落ち着いた状態こそが絶対正義であり、そうならなくてはいけないと思ってしまうと、
それこそが執着や囚われになってしまいます。
まわりにとやかく言われても、気にせずほっとけばいいのです。
囚われないことこそが、天地の大道です。

大事なのは、今の目の前です。
これだけは間違いありません。
そして、その時その場面での必死の集中というのは、形や見た目ではありません。
正解や理想など必要ないのです。

確かに、まわりのみんなが船上で翻弄されていても、一人落ち着き、泰然自若としていたいものです。
そして、その落ち着きに感化されて周りも冷静になっていくというのは理想ではあります。

しかし、その落ち着きを自分で作ろうとしてしまうと、かえって逆効果になってしまいます。
どんな場面であろうと、その時の自分の素直な自然体こそが本物なのです。
下手に氣の原理を知っていると、天地と一体の状態になろうとか、溶け合おうとか、目先に囚われまい
とか、形や結果ばかりに心が向いてしまいます。
でも、そんなことは本来、二の次のものなのです。
何よりもまずは目の前のことに集中することが第一なのです。
それをしっかりやった上で、初めてその先に原理原則が顕われてくるということです。
物事には順序というもがあり、段階というものがあります。
そういうものだと知ることは大事ですが、それに囚われてしまうと本末転倒してしまいます。

つまり、船が揺れに揺れたら、自分の心も揺れに揺らされて、全然かまわないわけです。
揺らされないのがいいのダと頑なになる必要はないということです。

「災難に遭うときはしっかり遭うのが良い」というのはそういうことですし「寒さの夏はオロオロ歩く」と
いうのはそういうことです。

そもそも、みんなが大騒ぎしている修羅場に、ロクに何もできないくせにドーンとシタり顔でいたら、
どう思うでしょうか。
本当の落ち着きとはそういうことではありません。
みんなの騒ぎから離れることではなく、その騒ぎの中に身を投じ、右へ左へと走り回って、そのなかで
冷静な判断を下すことです。
中途半端な落ち着きは、単なる部外者ズラにしか映らず、反発心と断絶感を生むことにしかなりません。
その空間、その環境、その雰囲気にどっぷりと身を投じることが、まず第一歩です。
そこで揺らされまくったら、揺らされまくればいいのです。

そうするうちに、小舟の操作も覚えていくものです。
操作を覚えもしないのに大船の理想だけを語っても何の意味もありません。
地に足つかぬ人間の言葉など、誰も聞く耳を持ちません。

そうして小舟の勝手が分かったならば、そこで初めて心落ち着けて遠望するのが良いでしょう。
いつまでもそこで揺れに揺れていることはありません。
それはそれで執着になってしまいます。
ここで改めてまた、氣の原理が生きてくるわけです。

地に足つけるとは、目の前のことにシッカリと身を投じることです。
その上で、心が落ち着いてくると自然と視界が広がっていきます。
そうして初めて、まわりの人たちの中にも落ち着きが伝わっていくのです。

思いつくまま次々と乱暴に仕事を投げかけてきた人たちも、無意識に一呼吸を入れてから話しかけてくる
ようになるものです。
仕事の量自体は変わらないかもしれませんが、みんなアップアップしていた雰囲気が、スッと変わること
でしょう。

人によっては、環境が変わる前は、夢のように恵まれた日々だったかもしれません。

お金の心配もなく、家族の心配もなく、親戚づきあいや近所づきあいの心配もなく、順風満帆な日々。
あるいは、何ものにも縛られず、何ものにも振り回されず、自由に空を飛ぶような日々。
それが突如、天と地ほど違う環境に激変してしまうと、心や体はついていけなくなることでしょう。
何もかもがあったのに、何もかもが無くなってしまう。
そして他の親戚や隣近所の人、他の仕事をしてる人々を見てみると、今でも幸せそうに気楽に伸び伸びと
やっているかもしれません。
なぜ今の自分だけが、こんなに落ちてしまったのだろうと、訳もなく悲しい気持ちになってしまいます。

でも、過去やまわりを見ても、何の意味もありません。
過去の自分も、隣の人たちも、それはそれなのです。
いつまでもそこに心を置くものではありません。
あちこち心が分散すると、どうしても比較が発生してしまいます。
それによって、自分の置かれた環境について、価値判断が自動的に始まってしまいます。

この世界というのは、本当は、いま自分の目の前だけが、自分にとっての100なのです。
人それぞれに、その時その時の「いま」があるだけです。
それが良いか悪いかというのは、勝手な価値判断でしかありません。
本来はすべてが無色透明です。
それを因果応報とか、何がいけなかったのだろうかなどと考えることに、全く意味がありません。
悪いことがあったら次は良いことがあるとか、良いことがあったら次は悪いことがあるとか、そのような
ことでもありません。
良いも悪いも、単なる価値判断にすぎません。
ただ、「いま」があるだけです。

過去や未来を追う前に、いま目の前のことが全てなのですから、そこに完全に身を投じるだけです。
そもそも、原因が分かったところで、目の前の今は何も変わりません。
因果応報のもとを辿ろうとするのは、自分の不満や不安を解消しようとする行為でしかなく、「いま」を
置き去りにする行為でしかありません。
「いま」は「いま」なのです。
それ以上でも、それ以下でありません。
そこに無心で没頭するのが全てであって、理屈で納得するものではないわけです。

ですから、災難に遭う時はしっかり遭うのがいいということです。
目を背けたり、過去や未来を追ったりせず、いまの眼前にすべてを向けるだけです。
一つ一つの今で、そのようにしていくことが、自分の人生の最高のルートなのです。
こうすれば良かったとか、こうしたから良かったとか、そういうことではありません。

仕事だけに限らず、暮らしや健康、人間関係、プライベートもすべて同じです。

日々サービス残業で家には寝に帰るだけだったり、休日出勤が続いたりすると、自分のペースも掴めず、
出口の無いトンネルに入ってしまったような気持ちになってしまいます。
でもそこは、もとのペースに戻そうとあがく場面ではないということです。
「あぁ今度はそういう流れが来たんだな」という割り切りが大事です。
「しゃーない、しっかり災難に遭う場面なんだな」というわけです。
何故だろうとか、そんなつまらないことを考えても意味がないのです。

体の調子が悪い時なども、なぜ体調が悪くなってしまったのかと悶々としてしまいますが、これまた理由
を求めても何も解決などありません。
病気に遭う時も、しっかりと遭うのがいいということです。
しゃーない、と。

最初のうちは、一つ一つの情報に目が奪われてしまいます。
当然、全体を見る余裕なんてなく、末端に囚われて視界が狭まってしまうでしょう。
でもそれは最低条件として必要なものです。
そして、その段階では心も寸詰まりとなって、もとの健康体に戻そうと心が散れぢれになり、悶々と暗い
気持ちになっていくものです。
それは心の原理なので仕方ないことであって、ある意味、必要な過程とも言えるかもしれません。
「雨ニモ負ケズ」の素直な心の顕われは、まさにそれそのものです。
ただ、いつまでもそこに囚われ続けてしまうのは、自分自身が望んだものではありませんし、天地や宇宙
も悲しむだけです。
泣いたと思ったら笑っている、一喜一憂の素直さが大切です。
それはそれとして諦めることとは、自らがつかんで離さなかった我執を諦めるということです。
囚われを手放すことは、現状を受け入れることになります。
そうなれば、あとはしっかりと今の日々を味わいきるだけです。

そうなると、自分にとってそれは最早「災難」ではなくなります。
単なる「いま」になります。
受け入れずに抵抗し続けている限り、災難は「災難」であり続けるのです。
「いま」をそのまま受け入れて生きていると、末端に囚われず、全体の景色が自然に見えてきます。
そうしているうちに、気づけばまた潮目が変わってきます。
いつしか大海の流れが変わってくるわけです。

 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 
 是は災難をのがるる妙法にて候

マイペースとは、決して自分のペースでやるということではありません。
自分のペースというのは、まわりの環境が変われば、まったく通用しなくなります。
大波に飲まれてしまうと、自分のペースで泳ぐことなど不可能です。
そうした時は、素直に諦めて、力を抜いて荒波に身を任せて泳ぐだけです。
なぜ潮目が変わったのかと考えることなどナンセンスなのです。

波というのは、時に高く、時に静かに、コロコロと変わっていくものです。
いつまでもずっとなだらかに行こうと思っても、それは自分が決められることではありません。
そうであればこそ、波の高低を考えることなく、ただ身を任せて泳いでいくしかありません。
そうなると、その時その時で自然とペースは変わっていくことになります。

つまり、マイペースというのは、天地のペースに合わせるということです。

まわりの環境に不満を抱いてそれを変えようとするのは、自分のペースに天地のペースを合わさせようと
していることに他なりません。
色々なハウツー本を読みあさったり、何とかの法則を実践しようとするのは、残念ながらそういうことで
しかないのです。

仕事で家に帰れない、病気で思うように動けない、あの人と上手くいかない、この人と会いたくない・・・
少し前まではそんなこと無かったのに、突如、世界が変わってしまったように感じることがあります。

そんなとき、家族サービスが出来なくなってしまう、武道の練度が落ちてしまう、給料が下がってしまう、
みんなに迷惑かけてしまう、開放的な楽しい時間が失われてしまう・・・と、過去の自分と比較してしまい、
次から次へと不安や不満が湧き上がってきます。

でもそういう時は、もう、そういうものだと諦めて、しっかりそこに身を投じるしかないということです。
それはそれとして、身を投じきるのが、いいのです。
そして、そうした状況が永遠に続くということはありません。
何故ならば、それが天地のペースだからです。
物事が変わらないままであるというのは人間が抱く我執のペースであって、常に変わり続けるのが天地
のペースなのです。

その天地のペースを無視して、自分のペースを変えずにあがき続けていると、いつまでたっても天地の
ペースというものを否応なく自分の眼前に突きつけられることになります。
大波を嫌って自分のペースで泳ぎ続けるかぎり、いつまでたっても大波の中から抜け出せない、つまり
苦しい環境が永遠に続いているかのように映るということです。

「マイペースでいく」(行く・生く)とは、自然のリズムに生きるということです。
マイペースとは、自ら作るものではなく、「自然と成る」ものです。

そしてまた、どうしようもないことを「仕方ない」といいます。
人の力ではどうしようもないことは、あれこれ抵抗せずに綺麗さっぱり潔く諦めて受け入れるのが一番と
いうことです。

仕方がありません。

災難に逢う時は、しっかりと逢いましょう(笑)




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