2つの台風が同じようなV字ターンをしながら日本の左右を通過していくようです。
曲がるタイミングといい軌道といい、綺麗なシンクロを成しています。
そのうちの一つは石垣島と西表島の間を通過して瞬間風速71mを記録したそうです。
実は9年前に当時観測史上最大の瞬間風速69.9mを記録した台風も、同じように石垣島と西表島の
間を通過していきました。
この時は石垣島の電柱200本以上が倒壊し、島の8割が停電、倒壊家屋も出るほどの甚大な被害を
残しました。
実際は観測機器が振り切って壊れてしまったため、記録上は69.9にとどまったとも聞きます。
当時、私は毎年のように石垣島に通っていまして、まさにこの時もそうでした。
のんびり過ごすつもりが、ホテルに軟禁状態で何も出来なかったことを覚えています。
とはいえ、それが中途半端な内容だったらば残念な思いしか残らなかったでしょうが、この時はあまり
にケタ違いだったために、一生記憶に残る経験となりました。
ところで、八重山には八重山の神様がいらっしゃいます。
明らかに本土の神様たちとは違います。
といって台湾とも違う、独特の雰囲気です。
自然霊的な土地神や先祖神のような感覚を、天上の近くに感じました。
沖縄の原語などは古い大和言葉の流れですし、遺伝子的にも大和民族に近いと聞いていましたので、
天地のエネルギーとしては日本に近いものを想像していたのでしたが、こんなにも違うのが驚きでした。
とはいえ、全てが異なるわけではなく、重なる部分もあったりしてそこが面白いところでした。
本当に多くのことを学ばさせて頂きました。
さて、そんなこんなで三たび訪れたところでの直撃でありました。
それは背筋に電撃が走って、魂の端々までピーンとするような衝撃でした。
前段は省略します。
直撃したその日の夜から話を始めたいと思います。
宿泊は海に面したホテルだったのですが、とにかく風の強さが半端ありませんでした。
窓を閉めていても吹き付ける圧力で隙間が空いて、リビングの床が水浸しになってしまいました。
窓から2~3メートル離れた床までびしょ濡れでしたから、どれほどの横なぐりだったか想像つくか
と思います。
いつ窓が割れてもおかしくない激しさでしたので、早々にベッドは放棄してキッチン寄りの壁に退避して
いましたが、ホテル全体が強風にあおられてグラグラ揺れる状態が一晩中続きました。
眠れないどころか、最悪の場合これは倒れるかもしれないと思いつつジッと息を潜めて過ごしました。
停電の暗闇の中、飛行機のような物凄い轟音と、グワッグワッと揺れ続ける建物。
そして窓を閉めてるのに何故かビシャッと水しぶきが体にかかる状況で、ひたすらドス黒い何かが
過ぎ去るのをジッと待っていました。
夜が明ける頃になると、外はモワーッとした生温かい余韻を残しつつ、燃え尽きたあとの静かさに
なっていました。
白々と明け始めたところで、あらためて部屋を見渡してビックリ。
泊まった部屋は6階か7階の高さだったのですが、リビングは砂だらけになっていました。
それどころか貝殻も散乱しています。
そこそこ大きいものもありました。
窓の鍵は閉まっているのに、まさに密室のミステリーです。
さて、何とか晴れはしましたが、その日がチェックアウトでしたので、これから空港に向かわなくては
なりません。
一階に降りると駐車場にあった車は強風に押されてみんなガタガタ。
ガラスが割れたり、車体がボコボコになったり、マトモな車は一台もありません。見るも無残です。
まわりには何かの残骸や瓦が散らばってましたので、昨晩はそうしたものが風に乗って弾丸のように
飛び交っていたのでしょう。
私が借りたレンタカーも後方のテールライトが大破していました。
もともとホテルの周りはサトウキビ畑が生い繁り、その中を真っ直ぐに道路が通っていたのですが、
背の高かったサトウキビは全て根本から倒れてしまい、地平線の彼方まで見晴らせるようになって
いました。
そして道路に立っていた電柱は、遥か先まで全て倒れていました。
鉄筋の電柱が倒れる姿というのは、ポッキリというものではなく、まさにグシャっという感じです。
中のワイヤーが力で無理やり捻じ曲げられたようにひしゃげて、それを固めていた周りのコンクリが
粉々に飛散しているような状態です。
徐行して進む間、そうした惨状がどこまでも続いていました。
道路には電線がゴムのようにデローンと横たわってます。
夏空の田園風景ですので、かえって異様さが際立ちました。
そうして海岸線を走っていきますと、海岸沿いは何軒かに一軒が半壊していました。
昔ながらのシェルターのようなコンクリートの家は無傷です。
今どきの建物だけが被害を受けていました。
何より衝撃的だったのは、海岸を行けども行けども、完全な無音だったことです。
普通であれば、蝉の声や、風の音など、何かしらの気配というものがあるものです。
しかし、この日の朝は、ありとあらゆる音が消えていました。
真っ青に晴れ渡った南国の風景なのに、まるでテレビのミュートボタンを押したように、あらゆる
気配が消えていました。
生き物の気配が完全に消えた肌感というのはショッキングなものです。
目に映るクリアな景色とは裏腹に、死の感覚しか無いのです。
虫一匹残らず居ないどころか、草木すらも完全に鼓動を止めているようでした。
生命の気配が何一つ無い。風すらも無い。
全くの無。
すべての生き物が死に直面して、生命の氣が萎縮してしまったのでしょう。
無に包まれた世界は、身体中を針で刺されるようなヒリヒリとした緊張で詰まり詰まっていました。
そして、自分では冷静さを保っているつもりだったのですが、そうではなかったことをあとで知ること
になりました。
羽田空港に着いてから、いつものリムジンバスに乗って都心の渋滞に巻き込まれていた時のことです。
窓の外は、品の無いビルや大小様々な建物がゴチャゴチャかたまっていました。
その間を押し分けるように通る首都高を、渋滞の車が我先にとギュウギュウに詰まっています。
いつもならばこの景色を見て、旅先との落差にガックリしながら溜め息をついていたところでしょうが、
この時は、何の前触れもなしに、涙がジワーッと出ていました。
感情がたかぶったわけでなく、何ら変わらぬ心持ちのまま、窓越しにボーッとビル群を眺めていただけ
なのに。
思わずエッと驚いてしまいましたが、少しずつそれが何なのかが分かってきました。
頭の方は「相変わらず息苦しい町だな」と思っていたのに、肉体の方は「生きて帰ってきた」という
魂の喜びに浸っていたということです。
にわかに受け入れがたい事実でした。
私は東京生まれですが、子供の頃からこの不自然で窮屈な空気が嫌で嫌でたまらず、休みになるたび
緑豊かな土地へ行ってましたし、将来は絶対そうしたところに住むつもりでいました。
ですから、理屈として有り得ない反応だったわけです。
でも、誤魔化しようがありません。
頭の判断ではなく、皮膚の反応で身体が震えてしまっている。
頭や心よりも、肉体こそは何にも増して正直です。
皮膚は死に直面した緊張感に、ずっと包まれていたのでしょう。
それは自分の芯の芯の部分の顕れでもあるわけです。
心底嫌っていたこのコンクリートとこの空気が自分の死に場所なんだと、否応もなく力技で納得させ
られました。
そしてそうであればこそ、本当の意味で、土地の氏神様に心からの感謝を捧げられるようになった
のでした。
少し前に、定年退職を迎えた熟年層が第二の人生として、海外へ移住することが流行りました。
我欲だけで考えると、税金や物価や気候やレジャーなど、違った物差しが働いてしまいます。
元気なうちは目先の満足に目が眩んで、幸せに浸っているような気持ちになるでしょう。
ただ身体が弱ってくると、何故か誰もが同じように、最期は自分の生まれ育った故郷で死にたいと
思うようになるのです。
それは、ほとんど故郷の記憶など無いはずの中国残留孤児の老婆ですら、そうであるわけです。
鮭が大海から上流へ戻るように、私たちもこの細胞一つ一つに染み付いた何かが、芯の芯から
響き出して全身を震わすのかもしれません。
肉体を包む感覚とは、魂の声そのものであるわけです。
台風というのは、甚大な被害を及ぼしますが、時に神の一撃ともなります。
このたびの一撃も、目に見えない御加護となるかもしれません。
その軌道はまるで日本全土を覆うカーテンのようでもありますし、その動きはクルクルと床を履く
自動掃除機のようでもあります。
台風一過のあとは空気が澄みわたるものです。
まさに真意であり、神意であり、神威です。
改めて天地に護られた国と思わずにはいられません。
ただ、ただ、天地に感謝です。
曲がるタイミングといい軌道といい、綺麗なシンクロを成しています。
そのうちの一つは石垣島と西表島の間を通過して瞬間風速71mを記録したそうです。
実は9年前に当時観測史上最大の瞬間風速69.9mを記録した台風も、同じように石垣島と西表島の
間を通過していきました。
この時は石垣島の電柱200本以上が倒壊し、島の8割が停電、倒壊家屋も出るほどの甚大な被害を
残しました。
実際は観測機器が振り切って壊れてしまったため、記録上は69.9にとどまったとも聞きます。
当時、私は毎年のように石垣島に通っていまして、まさにこの時もそうでした。
のんびり過ごすつもりが、ホテルに軟禁状態で何も出来なかったことを覚えています。
とはいえ、それが中途半端な内容だったらば残念な思いしか残らなかったでしょうが、この時はあまり
にケタ違いだったために、一生記憶に残る経験となりました。
ところで、八重山には八重山の神様がいらっしゃいます。
明らかに本土の神様たちとは違います。
といって台湾とも違う、独特の雰囲気です。
自然霊的な土地神や先祖神のような感覚を、天上の近くに感じました。
沖縄の原語などは古い大和言葉の流れですし、遺伝子的にも大和民族に近いと聞いていましたので、
天地のエネルギーとしては日本に近いものを想像していたのでしたが、こんなにも違うのが驚きでした。
とはいえ、全てが異なるわけではなく、重なる部分もあったりしてそこが面白いところでした。
本当に多くのことを学ばさせて頂きました。
さて、そんなこんなで三たび訪れたところでの直撃でありました。
それは背筋に電撃が走って、魂の端々までピーンとするような衝撃でした。
前段は省略します。
直撃したその日の夜から話を始めたいと思います。
宿泊は海に面したホテルだったのですが、とにかく風の強さが半端ありませんでした。
窓を閉めていても吹き付ける圧力で隙間が空いて、リビングの床が水浸しになってしまいました。
窓から2~3メートル離れた床までびしょ濡れでしたから、どれほどの横なぐりだったか想像つくか
と思います。
いつ窓が割れてもおかしくない激しさでしたので、早々にベッドは放棄してキッチン寄りの壁に退避して
いましたが、ホテル全体が強風にあおられてグラグラ揺れる状態が一晩中続きました。
眠れないどころか、最悪の場合これは倒れるかもしれないと思いつつジッと息を潜めて過ごしました。
停電の暗闇の中、飛行機のような物凄い轟音と、グワッグワッと揺れ続ける建物。
そして窓を閉めてるのに何故かビシャッと水しぶきが体にかかる状況で、ひたすらドス黒い何かが
過ぎ去るのをジッと待っていました。
夜が明ける頃になると、外はモワーッとした生温かい余韻を残しつつ、燃え尽きたあとの静かさに
なっていました。
白々と明け始めたところで、あらためて部屋を見渡してビックリ。
泊まった部屋は6階か7階の高さだったのですが、リビングは砂だらけになっていました。
それどころか貝殻も散乱しています。
そこそこ大きいものもありました。
窓の鍵は閉まっているのに、まさに密室のミステリーです。
さて、何とか晴れはしましたが、その日がチェックアウトでしたので、これから空港に向かわなくては
なりません。
一階に降りると駐車場にあった車は強風に押されてみんなガタガタ。
ガラスが割れたり、車体がボコボコになったり、マトモな車は一台もありません。見るも無残です。
まわりには何かの残骸や瓦が散らばってましたので、昨晩はそうしたものが風に乗って弾丸のように
飛び交っていたのでしょう。
私が借りたレンタカーも後方のテールライトが大破していました。
もともとホテルの周りはサトウキビ畑が生い繁り、その中を真っ直ぐに道路が通っていたのですが、
背の高かったサトウキビは全て根本から倒れてしまい、地平線の彼方まで見晴らせるようになって
いました。
そして道路に立っていた電柱は、遥か先まで全て倒れていました。
鉄筋の電柱が倒れる姿というのは、ポッキリというものではなく、まさにグシャっという感じです。
中のワイヤーが力で無理やり捻じ曲げられたようにひしゃげて、それを固めていた周りのコンクリが
粉々に飛散しているような状態です。
徐行して進む間、そうした惨状がどこまでも続いていました。
道路には電線がゴムのようにデローンと横たわってます。
夏空の田園風景ですので、かえって異様さが際立ちました。
そうして海岸線を走っていきますと、海岸沿いは何軒かに一軒が半壊していました。
昔ながらのシェルターのようなコンクリートの家は無傷です。
今どきの建物だけが被害を受けていました。
何より衝撃的だったのは、海岸を行けども行けども、完全な無音だったことです。
普通であれば、蝉の声や、風の音など、何かしらの気配というものがあるものです。
しかし、この日の朝は、ありとあらゆる音が消えていました。
真っ青に晴れ渡った南国の風景なのに、まるでテレビのミュートボタンを押したように、あらゆる
気配が消えていました。
生き物の気配が完全に消えた肌感というのはショッキングなものです。
目に映るクリアな景色とは裏腹に、死の感覚しか無いのです。
虫一匹残らず居ないどころか、草木すらも完全に鼓動を止めているようでした。
生命の気配が何一つ無い。風すらも無い。
全くの無。
すべての生き物が死に直面して、生命の氣が萎縮してしまったのでしょう。
無に包まれた世界は、身体中を針で刺されるようなヒリヒリとした緊張で詰まり詰まっていました。
そして、自分では冷静さを保っているつもりだったのですが、そうではなかったことをあとで知ること
になりました。
羽田空港に着いてから、いつものリムジンバスに乗って都心の渋滞に巻き込まれていた時のことです。
窓の外は、品の無いビルや大小様々な建物がゴチャゴチャかたまっていました。
その間を押し分けるように通る首都高を、渋滞の車が我先にとギュウギュウに詰まっています。
いつもならばこの景色を見て、旅先との落差にガックリしながら溜め息をついていたところでしょうが、
この時は、何の前触れもなしに、涙がジワーッと出ていました。
感情がたかぶったわけでなく、何ら変わらぬ心持ちのまま、窓越しにボーッとビル群を眺めていただけ
なのに。
思わずエッと驚いてしまいましたが、少しずつそれが何なのかが分かってきました。
頭の方は「相変わらず息苦しい町だな」と思っていたのに、肉体の方は「生きて帰ってきた」という
魂の喜びに浸っていたということです。
にわかに受け入れがたい事実でした。
私は東京生まれですが、子供の頃からこの不自然で窮屈な空気が嫌で嫌でたまらず、休みになるたび
緑豊かな土地へ行ってましたし、将来は絶対そうしたところに住むつもりでいました。
ですから、理屈として有り得ない反応だったわけです。
でも、誤魔化しようがありません。
頭の判断ではなく、皮膚の反応で身体が震えてしまっている。
頭や心よりも、肉体こそは何にも増して正直です。
皮膚は死に直面した緊張感に、ずっと包まれていたのでしょう。
それは自分の芯の芯の部分の顕れでもあるわけです。
心底嫌っていたこのコンクリートとこの空気が自分の死に場所なんだと、否応もなく力技で納得させ
られました。
そしてそうであればこそ、本当の意味で、土地の氏神様に心からの感謝を捧げられるようになった
のでした。
少し前に、定年退職を迎えた熟年層が第二の人生として、海外へ移住することが流行りました。
我欲だけで考えると、税金や物価や気候やレジャーなど、違った物差しが働いてしまいます。
元気なうちは目先の満足に目が眩んで、幸せに浸っているような気持ちになるでしょう。
ただ身体が弱ってくると、何故か誰もが同じように、最期は自分の生まれ育った故郷で死にたいと
思うようになるのです。
それは、ほとんど故郷の記憶など無いはずの中国残留孤児の老婆ですら、そうであるわけです。
鮭が大海から上流へ戻るように、私たちもこの細胞一つ一つに染み付いた何かが、芯の芯から
響き出して全身を震わすのかもしれません。
肉体を包む感覚とは、魂の声そのものであるわけです。
台風というのは、甚大な被害を及ぼしますが、時に神の一撃ともなります。
このたびの一撃も、目に見えない御加護となるかもしれません。
その軌道はまるで日本全土を覆うカーテンのようでもありますし、その動きはクルクルと床を履く
自動掃除機のようでもあります。
台風一過のあとは空気が澄みわたるものです。
まさに真意であり、神意であり、神威です。
改めて天地に護られた国と思わずにはいられません。
ただ、ただ、天地に感謝です。