いまだインフルエンザが猛威を振るっています。
他人事と思っていましたら、私も思いっきりかかってしまいました。
忙しくて休めない時ほど招き寄せてしまうものなのでしょうか。
布団から起きあがることもできず、スポーツドリンクとゼリー飲料の生活が何日も続いてしまいました。
体力はある方だと思っていたのですが、わずか4、5日歩かなかっただけで体力の落ち方は半端ありませんでした。
ようやく動けるようになって近くの駅まで歩いてみますと、身体がうまく動かせないだけでなく、頭のスピードも同じ
くらい遅くなっていることに驚きました。
身体のスピード、頭のスピード、心のスピード、そのどれもが緩慢で、まわりと比べて明らかに遅い。
そうでありながら自分の中ではそれらのスピードが一致しているので、もどかしいという感覚は全く無いのです。
大げさでなく、人や物事、世の中の全てが1.3倍速の早送りのようにビュンビュンと通り過ぎていく感じでした。
一方で、目に入ってくる景色が狭く、気配を感じ取れる範囲も極端に狭まっていたのには閉口しました。
高熱と異物に対して、これは一大事と感じた身体が、全ての機能を治癒方向へ集中させたのでしょう。
とにかく気配をキャッチできないものですから、普通に歩いていましても、何の前触れもなく自転車や歩行者が
目の前に突然バンと現れるので、怖くて仕方ありませんでした。
ひたすら端っこの方を歩いて、できるだけ世の中の流れの邪魔にならないようにやり過ごす。
自分の身を自分で守れない現実を、まざまざと見せつけられた感じでした。
自分からはまわりを避けることが出来ない。
まわりが自分を避けてくれることに託すしかない。
つまり、まわりの心に頼るしかないという感覚です。
こうなると、理屈抜きに、謙虚にならざるを得ません。
自分の生命がまわりによって支えられているのですから、イケイケで我を張ることなどできません。
あぁそういうことだよなぁという深い納得感でした。
それは決して自分が弱々しい存在だというのではなく、もとより私たちはそういう存在なのだという納得でした。
日頃は、今よりほんの少し元気というだけで、大した差でも無いのに、自分で我が身を守っているものと、何とは
無しに思い込んでしまっています。
でも、強さとか弱さとかそういうことではなく、私たちは誰一人例外なく、当たり前に様々な存在に支えられ、
護られているのです。
それが、ほんの少し謙虚になった瞬間に、全身の毛穴から流れ込んできます。
自分以外のあらゆる存在に支えられていることを感じると、いわゆる「自分以外」というものが、この自分を支える
「大きな自分」であることを実感します。
「自分」というのは全体の中の一部分であり、それを包む「自分以外」というのも、同じその全体であるということ
です。
つまり、自分に、外も内もない。
自分「以外」というものは存在しないのです。
しかし、あくまで自分というものにこだわりすぎると、相対的に、自分以外というものにもこだわることになって
しまいます。
自分という存在にこだわりすぎると歪んだプライドが芽生え、自分を卑下するような図式が出来上がってしまいます。
卑下とは、自分を弱い存在だと思ってしまうことです。
「自分以外の支えがないと何も出来ない自分」
そのように捉えてしまうと、弱さという概念が生まれてしまいます。
すると、大きくふさぎ込んでしまうか、あるいは弱さを認めまいと反発して頑固になってしまいます。
もともと存在すらしなかった概念なのに、一人相撲が始まってしまうわけです。
様々な存在に護られている状態というのは、弱さでも何でもありません。
それはただの、真実です。
天地宇宙の、ごく自然の姿というだけです。
何も食べなければ生きていけないことを、弱さなどと誰が思うでしょうか。
空気を吸わなければ存在もできません。
そんなのは誰にとっても、当たり前のことなのです。
私たちは年齢に関係なく、生まれた時からすでにあらゆる存在から守られ、支えられ、生きています。
老いるとは、そのことが目に見えて実感できるようになるということです。
体力が弱ったり、様々なことがままならなくなることで、身近な人たちや社会から支えられるようになります。
それは弱さなどではなく、天地宇宙の当たり前の成り立ちの、一片に過ぎません。
目に見えるか見えないか、頭がクリアか濁っているか、それは氷山の上か下かの差でしかなく、どちらも同じ氷山に
変わりは無いのです。
誰もが、身近な人たちや社会そして天地宇宙から支えられています。
社会的弱者などという言葉は、無知と傲慢の極みとしか言いようがありません。
水面の上も下も何の差も無いと知り、老いというものを自然に受け入れた時、頭で描かれた作為的な謙虚さなどでは
なく、実感を伴った真の謙虚さが内から湧き出てくるのではないかと思います。
それは止めようにも止められない衝動でしょう。
長幼の序というのは、まさにそうした姿があって成立したものなのではないでしょうか。
老いにより、失うとともに大きく得るものがある。
だからこそ、いつの時代でも一族を護ってきたのは、最も謙虚な長老たちだったわけです。
病み上がりに駅まで歩いた時、その断片を垣間見させて頂いた感じがしました。
道ゆくご老人やご婦人は、まわりを見ていないのではありません。
見ようにも見えないだけです。
しかし、それによって違うものが見えるようにもなるということです。
ご老人やご婦人には敬意をもってソフトに接するというのは、遥か太古からの経験によって自然と為された振る舞い
であったわけです。
規律としての長幼の序や、スマートな紳士のたしなみなどというのは、本来はその奥に深い真実があったのでした。
このように、人それぞれに年齢や体力に応じて時間や空間が違います。
何だろうコノ人?セカセカしてるな…とか、随分ノンビリしてるなぁ…とか、色々と感じることがありますが、その人に
とっては別に焦ったりグズグズしてるわけではなく、普通の当たり前の時間・空間を過ごしているということです。
確かにセカセカ過ごすのは、端から見ればシンドそうに映るかもしれませんが、それはその人のやりたいこと。
It's not your business.(あんたにゃ関係ない)です。
まさに、それはその人の仕事なのです。
良いも悪いも決めつけず、いちいちカリカリせずスッと流してあげることが受け入れることになります。
私の場合、病み上がりで久々に会社に行った時、喋るスピードも仕事の反応も、歩く速度も遅くなっていました。
まわりはみんな、大丈夫か?と本気で心配してくれましたが、自分では自然体でそのスピードになっていただけで
別に体調が悪いということではありませんでした。
いつもの気合いが無いとも言われましたが、自分としては正直このゆっくりとした波立ちのない感覚を心地よく
感じていました。
まわりからはまどろっこしく思われたかもしれません。
しかし年老いた時の感覚というのはこのような世界なのかと思うと、とても幸せな気持ちになりました。
ただ残念ながら、仕事というのは連携プレーですので、まわりと噛み合って成り立つものです。
過去のこれまでの私のペースをもとに、まわりも合わせにくるものですから、あまりズレたままでいても仕事は
うまく回らなくなってしまいます。
そうして数日もすると元の時間軸に自然と戻ってしまったのが、何とも残念ではありました。
自ら発してきた時間・空間というものが周囲に定着すると、まわりの接し方も、あるいは与えられる仕事の量や
質にしても、それに応じたものとなっていきます。
そこで突然一人だけ変わってしまうと、まわりと全く噛み合わなくなりギクシャクしてしまいます。
最初からゆったりとした時空をもって登場していれば、まわりもそれに合わせた噛み合わせになったのでしょうが、
いきなりちゃぶ台をひっくり返してしまうのは、たとえ自分の中では時間・空間が噛み合っていたとしても、周りが
混乱してしまいます。
もちろん、だからといって、まわりに気を使いすぎて自分を殺すというのはおかしな話です。
しかし、ちゃぶ台をひっくり返してしまった結果、自分も苦しく、まわりも苦しいのでは何の救いもありません。
そうであるならば、時空をいきなり変えるのではなく、根っこの感覚は保ったままで少しずつ変えていく、周りの
人たちが微調整の範囲で合わせていけるようにしていくのが良いということになります。
相手の立場に立ちながら、敬意をもって優しくソフトに導いていくことが大事ということです。
それは相手に気を使って横目で見ながら加減するということではなく、相手にしっかりと心を向けて、共に一緒に
歩みながら、無理している部分の力を少しずつ抜いて行くというです。
相手をどうにかしようと思うのではなく、ちゃんと噛み合った状態になってから、己の心根に素直になるわけです。
さて、話を少し戻しますが、数日寝たきりでいると筋力が弱ってしまい、部屋の中を少し歩くだけでもグッタリ
疲れてしまいました。
ましてや、外へ出るとなると完全に心が折れてしまい、寝室から食卓、コタツという必要最小限の動線だけで一日が
終わってました。
高齢で骨折をすると寝た切りになる恐れがあるというのは、こういうことなのかもしれないと考えてしまいました。
特に強く実感したのは、身体がなまることよりも、心がなまるということでした。
身体を壊すとあまり動かなくなります。
動かないと筋肉が弱り、筋力が落ちるとますます動くことがシンドくなります。
そうして出不精になっていくのでした。
この図式は、心にも当てはまります。
部屋にこもっていると、外へ出かけようという気持ちが萎えていきます。
気力が落ちていくと、人に会おうとか、人と会話しようとする衝動も薄まっていきます。
つまり、こういうことです。
筋肉を使わないと筋力が落ちる。
すると身体を動かさなくなる。
身体を動かさないと筋力が衰える。
するとさらに身体を動かさなくなっていく。
同じように、
心を使わないと少しずつ気力が落ちていく。
すると心を使うことが億劫になっていく。
心を使わないとますます気力が萎えていく。
するとさらに心を使いたくなくなっていく。
そうなりますと、誰とも会いたくない、話したくない、接触したくないとなっていきます。
筋肉を使わないと寝たきりになってしまうように、心を使わないと引きこもりになってしまうわけです。
筋力というのは、負荷がかかることで維持されます。
気力というのも、負荷がかかることで維持されます。
負荷とは、英語で言えばストレスのことです。
つまり、心にストレスがかかることによって私たちは気力を育んでいるのです。
日々の暮らしの中での、ツラさや苦しみ、悲しみといったストレスは、まさに私たちを活き活きと生かすための糧で
あったわけです。
とはいえ、負荷が大きすぎると筋肉を痛めてしまうように、ストレスにしても適度でなければ心を痛めてしまいます。
意図的に負荷を作り出さなくても、私たちは日々の暮らしの中で自然と好い加減の負荷を受けています。
この世界は、普通に暮らしているだけで、様々なストレスにさらされます。
それはちょうど、普通に暮らしているだけで重力によって適度な筋力が作り出されるのと同じです。
たとえば宇宙に行くと、身体の負荷はゼロになりラクラクと宙を舞うことができるようになります。
しかし地球に還ってくると自分の足で歩けないほどに筋力が弱りきってしまいます。
そのままでは地球ではマトモに暮らせない、宇宙でしか暮らせないということになってしまいます。
私たちは、心のストレスがゼロになるような環境を夢描きます。
しかし、それこそは無重力で舞うことを望むようなものであるわけです。
もしもそのような環境に行けたとしても、そこでしか過ごせない身体になってしまいます。
この世で過ごせない身体になってしまうということです。
いつでも私たちは、家から一歩出れば、沢山のストレスにさらされます。
しかしそれをシンドイものだと思ってしまうと、無数のツブテを全身に浴びる世界と化してしまいます。
それらは空気や重力と同じように、当たり前にそこにあるものですし、それが無ければこの世界では生きていけない
ものであるわけです。
なにごとも、心一つです。
「だからそれに感謝をしよう」というのはさすがに嘘くさいものの、せめて忌み嫌わず、あまり意識しすぎずスルー
していくのが健全と言えるでしょう。
「何だよ、この重力。身体がシンドイよ」なんて言わないのと同じようにです。
ただその一方で、グルジェフ的な「重い負荷であるほど良い」というのは、極論になる恐れがあります。
やはり自分の体力や気力に見合った適度な負荷が一番だと思います。
病み上がりの100mダッシュは身体を痛めてしまいます。
気力が枯れ果てている時は、わずかなストレスだけでも心は傷だらけになってしまいます。
筋力が落ちた時にはまずは歩くことから始めるように、心が萎えた時にはまずは部屋から外へ出ること、山や川など
大自然のなかへ身を置くのがいいのではないでしょうか。
そこで何をしようというのではなく、ただそこに居るということだけで十二分であるわけです。
頬に当たる日差しも、肌を触れていく風も、大自然の何もかもが優しい負荷となります。
ストレスと書くとぶつかり合うキツさを想像してしまいますが、本来はそういう負荷なのです。
別の表現をするならば「刺激」とも言えるかもしれません。
心が萎えてしまっている状態とは、自分が自分の中にこもってしまった状態でもあります。
つまり、そこには明確に「自分以外」が存在しています。
「自分以外」を創り出してしまうことで、強固な壁が造り出されてしまいます。
そしてそれが極まると、その壁の外というもの自体が、意識の中から薄れていきます。
自分の内だけが、自分が意識できる全てになってしまうということです。
大自然の温かい日差しも、優しい風も、全てはその壁をノックする刺激となります。
その時、外の存在をハッと思い出します。
頭や意識ではなく、身体が、皮膚が先んじてそれをキャッチします。
その瞬間、壁は透明になっていくのです。
私たちは、様々な存在に支えられています。
様々な存在に護られ、生かされています。
私たちを包むすべてが、私たちを生かしてくれています。
空気もそうですし、重力もそうですし、ストレスもそうです。
視界の外から飛び出してくる自転車や物事にビクビクと恐怖する必要はありません。
視界の外も、視界の内も、全てを信じきり、任せきるのが天地自然な姿です。
「自分」「自分以外」という考えを手放して、私たちを包む大きなすべてを信じる。
様々な存在に生かされていることを、素直に受け入れるということです。
自分も自分以外も無い、全ては一つに繋がるものだと感じられれば、言い表せられぬ感謝の心が
湧きあがる
でしょう。
「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
何だか分からないけども、ただただ感謝としか言いようがかい感謝の心。
まさに、それと全く同じものです。
それこそが、真の謙虚さというものではないでしょうか。
私たちは「自分以外」の全てに支えられ、護られています。
それは十人十色の他人もそうですし、日々のストレスもそうであるわけです。
あらゆるものには、その見た目からは想像もできない、ありがたいお陰様が隠されています。
そして謙虚になるほどに、お陰様がその姿を現します。
私たちが目に見えない数多くのお陰様に包まれ護られているというのは、綺麗事でも何でもありません。
それこそが、この世の事実なのです。
にほんブログ村
他人事と思っていましたら、私も思いっきりかかってしまいました。
忙しくて休めない時ほど招き寄せてしまうものなのでしょうか。
布団から起きあがることもできず、スポーツドリンクとゼリー飲料の生活が何日も続いてしまいました。
体力はある方だと思っていたのですが、わずか4、5日歩かなかっただけで体力の落ち方は半端ありませんでした。
ようやく動けるようになって近くの駅まで歩いてみますと、身体がうまく動かせないだけでなく、頭のスピードも同じ
くらい遅くなっていることに驚きました。
身体のスピード、頭のスピード、心のスピード、そのどれもが緩慢で、まわりと比べて明らかに遅い。
そうでありながら自分の中ではそれらのスピードが一致しているので、もどかしいという感覚は全く無いのです。
大げさでなく、人や物事、世の中の全てが1.3倍速の早送りのようにビュンビュンと通り過ぎていく感じでした。
一方で、目に入ってくる景色が狭く、気配を感じ取れる範囲も極端に狭まっていたのには閉口しました。
高熱と異物に対して、これは一大事と感じた身体が、全ての機能を治癒方向へ集中させたのでしょう。
とにかく気配をキャッチできないものですから、普通に歩いていましても、何の前触れもなく自転車や歩行者が
目の前に突然バンと現れるので、怖くて仕方ありませんでした。
ひたすら端っこの方を歩いて、できるだけ世の中の流れの邪魔にならないようにやり過ごす。
自分の身を自分で守れない現実を、まざまざと見せつけられた感じでした。
自分からはまわりを避けることが出来ない。
まわりが自分を避けてくれることに託すしかない。
つまり、まわりの心に頼るしかないという感覚です。
こうなると、理屈抜きに、謙虚にならざるを得ません。
自分の生命がまわりによって支えられているのですから、イケイケで我を張ることなどできません。
あぁそういうことだよなぁという深い納得感でした。
それは決して自分が弱々しい存在だというのではなく、もとより私たちはそういう存在なのだという納得でした。
日頃は、今よりほんの少し元気というだけで、大した差でも無いのに、自分で我が身を守っているものと、何とは
無しに思い込んでしまっています。
でも、強さとか弱さとかそういうことではなく、私たちは誰一人例外なく、当たり前に様々な存在に支えられ、
護られているのです。
それが、ほんの少し謙虚になった瞬間に、全身の毛穴から流れ込んできます。
自分以外のあらゆる存在に支えられていることを感じると、いわゆる「自分以外」というものが、この自分を支える
「大きな自分」であることを実感します。
「自分」というのは全体の中の一部分であり、それを包む「自分以外」というのも、同じその全体であるということ
です。
つまり、自分に、外も内もない。
自分「以外」というものは存在しないのです。
しかし、あくまで自分というものにこだわりすぎると、相対的に、自分以外というものにもこだわることになって
しまいます。
自分という存在にこだわりすぎると歪んだプライドが芽生え、自分を卑下するような図式が出来上がってしまいます。
卑下とは、自分を弱い存在だと思ってしまうことです。
「自分以外の支えがないと何も出来ない自分」
そのように捉えてしまうと、弱さという概念が生まれてしまいます。
すると、大きくふさぎ込んでしまうか、あるいは弱さを認めまいと反発して頑固になってしまいます。
もともと存在すらしなかった概念なのに、一人相撲が始まってしまうわけです。
様々な存在に護られている状態というのは、弱さでも何でもありません。
それはただの、真実です。
天地宇宙の、ごく自然の姿というだけです。
何も食べなければ生きていけないことを、弱さなどと誰が思うでしょうか。
空気を吸わなければ存在もできません。
そんなのは誰にとっても、当たり前のことなのです。
私たちは年齢に関係なく、生まれた時からすでにあらゆる存在から守られ、支えられ、生きています。
老いるとは、そのことが目に見えて実感できるようになるということです。
体力が弱ったり、様々なことがままならなくなることで、身近な人たちや社会から支えられるようになります。
それは弱さなどではなく、天地宇宙の当たり前の成り立ちの、一片に過ぎません。
目に見えるか見えないか、頭がクリアか濁っているか、それは氷山の上か下かの差でしかなく、どちらも同じ氷山に
変わりは無いのです。
誰もが、身近な人たちや社会そして天地宇宙から支えられています。
社会的弱者などという言葉は、無知と傲慢の極みとしか言いようがありません。
水面の上も下も何の差も無いと知り、老いというものを自然に受け入れた時、頭で描かれた作為的な謙虚さなどでは
なく、実感を伴った真の謙虚さが内から湧き出てくるのではないかと思います。
それは止めようにも止められない衝動でしょう。
長幼の序というのは、まさにそうした姿があって成立したものなのではないでしょうか。
老いにより、失うとともに大きく得るものがある。
だからこそ、いつの時代でも一族を護ってきたのは、最も謙虚な長老たちだったわけです。
病み上がりに駅まで歩いた時、その断片を垣間見させて頂いた感じがしました。
道ゆくご老人やご婦人は、まわりを見ていないのではありません。
見ようにも見えないだけです。
しかし、それによって違うものが見えるようにもなるということです。
ご老人やご婦人には敬意をもってソフトに接するというのは、遥か太古からの経験によって自然と為された振る舞い
であったわけです。
規律としての長幼の序や、スマートな紳士のたしなみなどというのは、本来はその奥に深い真実があったのでした。
このように、人それぞれに年齢や体力に応じて時間や空間が違います。
何だろうコノ人?セカセカしてるな…とか、随分ノンビリしてるなぁ…とか、色々と感じることがありますが、その人に
とっては別に焦ったりグズグズしてるわけではなく、普通の当たり前の時間・空間を過ごしているということです。
確かにセカセカ過ごすのは、端から見ればシンドそうに映るかもしれませんが、それはその人のやりたいこと。
It's not your business.(あんたにゃ関係ない)です。
まさに、それはその人の仕事なのです。
良いも悪いも決めつけず、いちいちカリカリせずスッと流してあげることが受け入れることになります。
私の場合、病み上がりで久々に会社に行った時、喋るスピードも仕事の反応も、歩く速度も遅くなっていました。
まわりはみんな、大丈夫か?と本気で心配してくれましたが、自分では自然体でそのスピードになっていただけで
別に体調が悪いということではありませんでした。
いつもの気合いが無いとも言われましたが、自分としては正直このゆっくりとした波立ちのない感覚を心地よく
感じていました。
まわりからはまどろっこしく思われたかもしれません。
しかし年老いた時の感覚というのはこのような世界なのかと思うと、とても幸せな気持ちになりました。
ただ残念ながら、仕事というのは連携プレーですので、まわりと噛み合って成り立つものです。
過去のこれまでの私のペースをもとに、まわりも合わせにくるものですから、あまりズレたままでいても仕事は
うまく回らなくなってしまいます。
そうして数日もすると元の時間軸に自然と戻ってしまったのが、何とも残念ではありました。
自ら発してきた時間・空間というものが周囲に定着すると、まわりの接し方も、あるいは与えられる仕事の量や
質にしても、それに応じたものとなっていきます。
そこで突然一人だけ変わってしまうと、まわりと全く噛み合わなくなりギクシャクしてしまいます。
最初からゆったりとした時空をもって登場していれば、まわりもそれに合わせた噛み合わせになったのでしょうが、
いきなりちゃぶ台をひっくり返してしまうのは、たとえ自分の中では時間・空間が噛み合っていたとしても、周りが
混乱してしまいます。
もちろん、だからといって、まわりに気を使いすぎて自分を殺すというのはおかしな話です。
しかし、ちゃぶ台をひっくり返してしまった結果、自分も苦しく、まわりも苦しいのでは何の救いもありません。
そうであるならば、時空をいきなり変えるのではなく、根っこの感覚は保ったままで少しずつ変えていく、周りの
人たちが微調整の範囲で合わせていけるようにしていくのが良いということになります。
相手の立場に立ちながら、敬意をもって優しくソフトに導いていくことが大事ということです。
それは相手に気を使って横目で見ながら加減するということではなく、相手にしっかりと心を向けて、共に一緒に
歩みながら、無理している部分の力を少しずつ抜いて行くというです。
相手をどうにかしようと思うのではなく、ちゃんと噛み合った状態になってから、己の心根に素直になるわけです。
さて、話を少し戻しますが、数日寝たきりでいると筋力が弱ってしまい、部屋の中を少し歩くだけでもグッタリ
疲れてしまいました。
ましてや、外へ出るとなると完全に心が折れてしまい、寝室から食卓、コタツという必要最小限の動線だけで一日が
終わってました。
高齢で骨折をすると寝た切りになる恐れがあるというのは、こういうことなのかもしれないと考えてしまいました。
特に強く実感したのは、身体がなまることよりも、心がなまるということでした。
身体を壊すとあまり動かなくなります。
動かないと筋肉が弱り、筋力が落ちるとますます動くことがシンドくなります。
そうして出不精になっていくのでした。
この図式は、心にも当てはまります。
部屋にこもっていると、外へ出かけようという気持ちが萎えていきます。
気力が落ちていくと、人に会おうとか、人と会話しようとする衝動も薄まっていきます。
つまり、こういうことです。
筋肉を使わないと筋力が落ちる。
すると身体を動かさなくなる。
身体を動かさないと筋力が衰える。
するとさらに身体を動かさなくなっていく。
同じように、
心を使わないと少しずつ気力が落ちていく。
すると心を使うことが億劫になっていく。
心を使わないとますます気力が萎えていく。
するとさらに心を使いたくなくなっていく。
そうなりますと、誰とも会いたくない、話したくない、接触したくないとなっていきます。
筋肉を使わないと寝たきりになってしまうように、心を使わないと引きこもりになってしまうわけです。
筋力というのは、負荷がかかることで維持されます。
気力というのも、負荷がかかることで維持されます。
負荷とは、英語で言えばストレスのことです。
つまり、心にストレスがかかることによって私たちは気力を育んでいるのです。
日々の暮らしの中での、ツラさや苦しみ、悲しみといったストレスは、まさに私たちを活き活きと生かすための糧で
あったわけです。
とはいえ、負荷が大きすぎると筋肉を痛めてしまうように、ストレスにしても適度でなければ心を痛めてしまいます。
意図的に負荷を作り出さなくても、私たちは日々の暮らしの中で自然と好い加減の負荷を受けています。
この世界は、普通に暮らしているだけで、様々なストレスにさらされます。
それはちょうど、普通に暮らしているだけで重力によって適度な筋力が作り出されるのと同じです。
たとえば宇宙に行くと、身体の負荷はゼロになりラクラクと宙を舞うことができるようになります。
しかし地球に還ってくると自分の足で歩けないほどに筋力が弱りきってしまいます。
そのままでは地球ではマトモに暮らせない、宇宙でしか暮らせないということになってしまいます。
私たちは、心のストレスがゼロになるような環境を夢描きます。
しかし、それこそは無重力で舞うことを望むようなものであるわけです。
もしもそのような環境に行けたとしても、そこでしか過ごせない身体になってしまいます。
この世で過ごせない身体になってしまうということです。
いつでも私たちは、家から一歩出れば、沢山のストレスにさらされます。
しかしそれをシンドイものだと思ってしまうと、無数のツブテを全身に浴びる世界と化してしまいます。
それらは空気や重力と同じように、当たり前にそこにあるものですし、それが無ければこの世界では生きていけない
ものであるわけです。
なにごとも、心一つです。
「だからそれに感謝をしよう」というのはさすがに嘘くさいものの、せめて忌み嫌わず、あまり意識しすぎずスルー
していくのが健全と言えるでしょう。
「何だよ、この重力。身体がシンドイよ」なんて言わないのと同じようにです。
ただその一方で、グルジェフ的な「重い負荷であるほど良い」というのは、極論になる恐れがあります。
やはり自分の体力や気力に見合った適度な負荷が一番だと思います。
病み上がりの100mダッシュは身体を痛めてしまいます。
気力が枯れ果てている時は、わずかなストレスだけでも心は傷だらけになってしまいます。
筋力が落ちた時にはまずは歩くことから始めるように、心が萎えた時にはまずは部屋から外へ出ること、山や川など
大自然のなかへ身を置くのがいいのではないでしょうか。
そこで何をしようというのではなく、ただそこに居るということだけで十二分であるわけです。
頬に当たる日差しも、肌を触れていく風も、大自然の何もかもが優しい負荷となります。
ストレスと書くとぶつかり合うキツさを想像してしまいますが、本来はそういう負荷なのです。
別の表現をするならば「刺激」とも言えるかもしれません。
心が萎えてしまっている状態とは、自分が自分の中にこもってしまった状態でもあります。
つまり、そこには明確に「自分以外」が存在しています。
「自分以外」を創り出してしまうことで、強固な壁が造り出されてしまいます。
そしてそれが極まると、その壁の外というもの自体が、意識の中から薄れていきます。
自分の内だけが、自分が意識できる全てになってしまうということです。
大自然の温かい日差しも、優しい風も、全てはその壁をノックする刺激となります。
その時、外の存在をハッと思い出します。
頭や意識ではなく、身体が、皮膚が先んじてそれをキャッチします。
その瞬間、壁は透明になっていくのです。
私たちは、様々な存在に支えられています。
様々な存在に護られ、生かされています。
私たちを包むすべてが、私たちを生かしてくれています。
空気もそうですし、重力もそうですし、ストレスもそうです。
視界の外から飛び出してくる自転車や物事にビクビクと恐怖する必要はありません。
視界の外も、視界の内も、全てを信じきり、任せきるのが天地自然な姿です。
「自分」「自分以外」という考えを手放して、私たちを包む大きなすべてを信じる。
様々な存在に生かされていることを、素直に受け入れるということです。
自分も自分以外も無い、全ては一つに繋がるものだと感じられれば、言い表せられぬ感謝の心が
湧きあがる
でしょう。
「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
何だか分からないけども、ただただ感謝としか言いようがかい感謝の心。
まさに、それと全く同じものです。
それこそが、真の謙虚さというものではないでしょうか。
私たちは「自分以外」の全てに支えられ、護られています。
それは十人十色の他人もそうですし、日々のストレスもそうであるわけです。
あらゆるものには、その見た目からは想像もできない、ありがたいお陰様が隠されています。
そして謙虚になるほどに、お陰様がその姿を現します。
私たちが目に見えない数多くのお陰様に包まれ護られているというのは、綺麗事でも何でもありません。
それこそが、この世の事実なのです。
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