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お金はお札(おふだ)

2018-01-27 13:04:42 | 天地の仕組み
仮想通貨の暴落や流出が話題になっています。

仮想通貨というと実体がない危うさが真っ先に頭に浮かびます。実体がないだけに仮想通貨そのものがうさん臭く感じられてしまいます。

これまでも仮想通貨については色々な意見がありました。
否定派は、信用という部分が弱すぎて市場経済を混乱させる恐れがあるところを指摘します。
コイン管理者が裏で何をやっているか分からない、中間搾取はもとより、ヤバくなったら逃げてしまうのではないか、あるいは第三者が盗み
とっても捕まえられないのではないかという不安です。

裏で何をやってるか分からないのは今の貨幣経済も同じですが、こちらは管理者が国であるだけ個人管理に比べればまだ安心ということになって
います。
逃げも隠れもできないし、国民がスカンピンになったら国も一連托生なので、最後まで責任をもって何とかするはずだ、という論理です。

ということは仮想通貨で本当に問題となるのは、実体があるか無いかではなく、管理者への信頼だけということになります。

実際、その実体の無さゆえ、仮想通貨は「お金」という概念がなくなるためのステップとして期待されてもいます。
ただ、これについては夢のようなフワフワした理想論に浸る前に、冷静な整理が必要となります。

それは、そもそも「お金というのはいったい何なのか」という私たちの意識の交通整理です。

先ほどの期待にしても、お金という概念をネガティヴなものとして捉えている印象があるので尚更この整理は重要になります。


お金というのは私たちがこの世に生まれた時から当たり前に存在する仕組みです。
何千年にも渡ってこの世界を存続させてきた仕組みです。
そのため私たちはそのことを信じて疑わず、深く考えることはしませんでした。

そんなことを考えても何も生まれない。
考えようとしても頭が疲れてしまう。
そのように、すぐ思考にストップをかけてきました。

そして何故か、お金という概念を深掘りしようとするとイケナイことをしているようなモヤモヤした気持ちが湧き上がってきて、心が苦しく
なって考えることをやめてしまうのでした。

「そんなことしなくても、これまでの歴史がその正しさを証明している。これから先の未来も保証されることを疑ったり、無駄な骨折りしても意味が無い。」

そのような言い訳が、不自然なほど激しい勢いで湧き上がってきます。
そしてそれにも屈せずそこから先へ進もうとしますと、今度はゾッとするような感覚まで襲ってきたりします。

そうしたものの正体は今回の主旨から外れることなので、また機会があれば触れたいと思いますが、このように直視することを私たちが何故か
避けてきたという事実に気づくと、色々なものが見えてきます。

仮想通貨というのは意識変革のための正義というよりも、こうした無意識の縛りを解くためのトリガー(引きがね)になるのかもしれません。

そもそも電子であろうと紙であろうと、本質は何も変わりません。
それはどちらも私たちが価値を付けたものに過ぎないということです。

金やダイヤモンドにしても、私たちが価値を付与すればこそ高価なものとなっています。
物量が少ないということが価値に直結するわけではありません。
多くの人がそれを欲しいと思わなければ、どんなに珍しくともただの石ころに過ぎません。
それはたとえば、多くの人にとって隕石というものが何百万円もの価値を感じないことでも明らかです。

大昔、貝殻や石がお金だったと聞くとエッと思いますが、金やダイヤモンドにしたって多少綺麗な石ころに過ぎないのですから、他の世界の人たちから見ればエッてなもんでしょう。

ですから、それそのものに価値があるわけではない。私たちがそれは価値あるものと決めているだけのことです。

石ころにしても、紙切れにしても、デジタルにしても、すべては価値が伴って初めてお金として成立しています。
そしてその価値というのは「この紙切れに価値があることにしよう。それはこのくらいということにしよう」という決めごとに過ぎない。

そんなのは当たり前の話ですが、そのことをどれだけ冷めた目で見られるかが、お金というものを客観視する第一歩となります。

額面と同じ価値があることにしようという約束事を忘れて過ごしていると、紙切れやデジタルそのものに価値があると刷り込まれていき、
さらにはお金という「概念」そのものに価値があると信じ込まされることになります。



あらためて、お金という概念について整理してみます。

私たちは、お金が無いと色々と困ってしまいます。だから私たちはお金が無くならないように頑張ります。

まず、食べたり暮らしたりするのにお金がかかります。自給自足でないかぎり、生命維持のために私たちはお金が必要となります。
それが足りなくなると命の危険を感じてしまうので、私たちは「安全のために」お金を貯めようとします。

また、色々な場面において自分のやりたいようにやろうとするとお金が必要になります。
言い換えれば、将来の「自由度をあげるために」私たちは貯金に励みます。

つまり私たちは「安全」と「自由」のためにお金を貯めるということになります。

その危機というのは、来るかもしれないし来ないかもしれない。
私たちが何かをやりたいと思う場面も、来るかもしれないし来ないかもしれない。

しかし、私たちは過去にそういう場面に遭遇したり、あるいは遭遇した人の話を見聞きしたりしているので、反射的に安全を追いたくなります。

スイスイと上手くやっていけた人の話を聞いても、それはたまたまラッキーなだけでそんな運を頼りに生きるなんて出来ない、「自分のハンドル
は自分で握って生きて行くのが一番安全だ」と考えて、それに該当しない情報は排除してしまいます。

そうして貯金を重ねたのち実際にそういう場面がやってきた時には、お金があって良かった、と安堵します。
そして自分の正しさが証明されますと、確信を深め、私たちはますます貯金に励むようになります。

でも、そのようなパターンが繰り返されているのが実は私たちの自作自演だとしたら、どうでしょうか。

つまり「お金がなくて不自由な場面に直面すると困るからお金を貯める」のではなく「お金を貯めるから不自由な場面に直面する」と。

これは何も、お金を貯めたら必ずそういう目に遭うということではなく、お金を貯める時の思いがどうかということに関わってきます。
言い換えれば「潜在的にお金の心配を抱き続けてるかぎり、お金と引き換えでしか自由が得られなくなる」ということになります。

よくいう、思いが創造するというレベルの話ではなく、そうした繰り返しパターンを私たちが無意識のうちに望んでいるということです。

これは何かと似ていることに気がつきませんでしょうか。
そう、まさしく人生と同じです。

人生や生活に対して安心安全のことばかり考えているかぎり「安全対策のおかげでセーフとなる状況」しか訪れない。
つまり必ず、ややピンチや、かなりピンチが訪れている。それも安全対策をした範囲の、ということです。

「貯金や仕事をやめたらきっとお金で困る」と思っている限り、「お金があったために困らずに済むような場面」ばかりが繰り返されてしまう。
そして結局は貯金や仕事をやめられなくなる。

状況があるから自分の考えを変えられないのではなくて、自分の考えを変えないからそうした状況が延々と繰り返されている。

そしてさらには、生まれ変わりの転生すらも、このパターンが当てはまっていると言えます。

何事であれ「繰り返される」というのは、思考が変わらないことを示しています。

繰り返されると言っても、例えば苦しい出来事や悲しい出来事が繰り返されればさすがにその「繰り返し」に気がつけますが、もしも不幸と
感じるほどの出来事が起きていなければ、たとえ繰り返しの中にドップリ浸かっていても気がつけなくなります。

今のこの仕事をやめたら大変なことになる。
収入が減ったら大変な目に合う。
だから新しいことはやってはいけない。

そのようにして今の生活や安定収入をガッチリ守っていると、もしも何かの繰り返しパターンが起きてたとしてもそれがその収入やその生活範囲内
におさまっていれば、繰り返しそのものに気がつくことができません。

「安全対策のおかげでセーフとなる状況」「お金があったために困らずに済むような場面」が何度起こっても、その繰り返しに気がつけない。
ましてや、それが私たちたちの変わらぬ思考パターンが起こしたものであるなんてことは、もっと気がつけない。

そしてお金に関して、変わらぬ思考パターンの土台となるのが「安全、自由、そのためにはお金は大切」という信念です。

やりたいことに気づくのが先であるはずなのに、まだ見ぬ何かのために先にお金を貯めるというのは、その変わらぬ思考パターンのなせるわざ
です。

そもそもお金というのは概念であり、単なる約束事に過ぎません。

でも、その約束事が手元にないとやりたいことが実現できないというのはどうなのでしょうか?
何かおかしくありませんか?

もももとお金というものがこの世に存在しなかったとしたら、私たちはどう生きているのか想像してみましょう。
もちろん何かしらの労働は行っているでしょう。ただそれは生きるためのものであって、そこでの暮らしは身の丈にあったものとなっているはず
です。

貧乏なのが当たり前。
不自由なのが当たり前。
多くは求めない。欲はかかない。
ほんの少しのことで感謝を思う。
今日一日に感謝する。明日のことは明日感謝するだけのこと。
やりたいことがあったら時間の許す範囲でそれをやる。

それはまさしく文明開化以前の、私たちのご先祖様たちの姿ではないでしょうか。
貧しくとも幸せそうな笑顔に溢れる日本人の姿に外国人が驚愕したのもうなずける話です。


私たちは、生きることに余裕が出てくるにつれて、何か大きなトリック(ひっかけ)にドンドン陥っていってしまったのではないでしょうか。

問題は、お金という概念にあるのではなく、無制限に安全や自由を求める心にあるわけです。

もとより安全や自由を求めるのは、この肉体を存続させるための本能として当然のものですから、全否定するものではありません。
といって全肯定するものでもない。

要は必要以上に求めてしまうこと、手放しで暴走してしまうことがいけない。
本能と欲望をゴッチャにしてはいけないということです。


お金という概念そのものは何の問題もありません。
ただ、私たちの思いがそこへ投影された瞬間、味噌クソ一緒になってしまう。
ですから、そうした思いがある限りは、たとえこの世から現金というものが無くなろうと他の何かがその受け皿となるだけです。

かりに仮想通貨に切り変わっても、あるいはお金という概念が無くなろうとも、私たちが何らかの価値に縛られるパターンが変わらなければ
何の意味もない。

本当の意味でお金への囚われから解き放たれるためには、まず私たちが不安や期待をそこへ投影させているという事実をしっかり自覚することが
必要となります。

「不安を解消したり、期待を実現するためにお金が有効である。」
「だからその万能薬のために、嫌な労働にも耐え続ける」

不安や期待や苦しみや喜びを、私たちは「お金」に写し身(転写)してしまっているということです。
大祓いの時に自分の罪穢れを紙の人形(ひとがた)に写してその形代を祓いますが、同じことが起きているわけです。



概念はあくまで概念でしかありません。
本当ならば、私たちがココにあって、概念はその中の一部でしかありません。
しかし、私たちは、まずその概念があってその中に私たちを置いてしまっています。

お金は何のためにあるのでしょうか。
本来そんなものはあっても無くてもどうでもいいものなのです。
ただ便宜上、便利なので使っているだけにすぎません。

お金は便利だから使うものであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
お金は、私たちが、便利だから使っているだけです。

お金があるか無いか、そんなことは状態の違いでしかありません。
もちろん有れば有ったで何かと便利かもしれません。
でも、それがなければならない、ということにはならないわけです。

お金が無いからやれるはずがない、お金を稼がないと路頭に迷ってしまう、お金が、お金が、、、
と、思考の真ん中にお金を置いてしまうと、私たちは知らず知らずのうちにがんじがらめに縛られた家畜と化してしまいます。

それこそが、無自覚に同じパターン繰り返してしまっている最大の仕掛けです。

何かをやろうとする前に無意識のうちに歯止めをかけてしまうなんて、丸っきり意味不明でしょう。
まだ見ぬ未来の自由を得ようとして今を縛るなんて本末転倒も甚だしい。

でも私たちは皆、大なり小なりそのような状態となっています。
それが前半で触れた、潜在意識に流れる刷り込みの一つです。

そして現金であろうとデジタルであろうと、そこには様々な人たちの思いが写っています。
紙幣も貨幣も、色々な人たちの思いが乗った形代となっています。
ですからそれを後生大事に抱え込むのは、それだけの思いを背負うことになります。

では形代だから穢らわしいのか、汚いのか、というとそういうわけではありません。

「汚い」「穢らわしい」とレッテル貼りするのは、逆に「高価なものだ」「命に関わる大事なものだ」と刷り込むのと結局は何も変わりません。

大祓詞にもあるように、罪穢れであろうとも流れ流れていくことによってそれは綺麗に浄化されていきます。
つまり、縁あって手元にやってきたものはそのままサーっと流せばよい。
新たな思いを乗せることなく流し流すことでお金は清らかなエネルギーとなって世界を祓います。

お金とは便利な手段です。
それは、言葉と似た性質のものでもあります。

便利だから言葉を交わす。
言葉を止めることはない。言葉を貯めることもない。
言葉を出したところで何か減るわけでもない。

汚い言葉を受けてもそれを自分の中に止めなければ何も穢れることはない。
言葉を交わすことでエネルギーの循環が起きる。
言葉を発することで、川が流れ、風が流れて、水車や風車がまわる。


私たちは、お金に対して複雑な思いを無意識のうちに持っています。
それを欲する思いと、それを忌避する思いと、相反するものを持っています。
それは、お金に対する思いではなく、お金を通して浮かび上がる私たちの欲望に対する思いであるわけです。

自分の素裸は見たくないという自我の防衛本能が働いて、私たちはお金そのものについて深く考えることを避けてしまうとも言えます。

お金そのものに綺麗も汚いもありません。
お金というのは、言葉と同じで、ただサラサラと流れていくだけのものです。
プラスもマイナスも無い。

ですから、それが無ければ大変なことになるというのはメチャクチャな話ですし、それが有れば何でも大丈夫というのもメチャクチャな話なのです。

お金に対して、過度の執着をするでもなく、過度の拒絶をするでもない。
ただその便利さに感謝をする。
お金とは、その程度のものです。

そうしてお金の呪縛から解き放たれ、私たちが私たちに戻った時、なぜ必要以上に安全と自分を求めてしまったのか不思議に思うことでしょう。

それは単なる熱病のようなものです。
私たちが自分でハンドルを握ってると思い込んでいたものが、実は暴走トラックに身を預けたものでしかなかったということです。

そもそもこの世界には自由も不自由も存在しませんし、安全も危険も存在しません。

そこにあるのはただフラットな状態です。
そこに私たちの思いが乗っかって色づけされているだけのことです。

「もっともっと」と自由を求めるから、それまで存在しなかった新たな不自由を感じる。
「もっともっと」と安心を求めるから、それまで存在しなかった新たな不安を感じる。

ですから、貧乏(?)な暮らしだったご先祖様たちが不自由さを当たり前としていたのは、何も聖人君子だったからでなく、その状態を
不自由はものだと感じていなかった、断定していなかった
ということなのです。

まさにそれこそが、無意識の繰り返しパターンが消えて無くなるヒントなのでありました。


(お金はぞんざいに扱わず、抱え込みすぎず、感謝して流していきましょう。)




今この瞬間も生まれ変わり中

2018-01-03 21:31:03 | 心をラクに
あけましておめでとうございます。
元旦からすっきり爽やかな青空に、身も心もリフレッシュです。

正月だけは、世間の騒がしさや仕事の心配も忘れて、今この瞬間この空間に身も心もまかせきりになります。

何の濁りもない、透き通った軽やかなこの感覚こそが、私たちの本当の状態と言えます。

私たちは生まれながらに自由自在です。
時間にも空間にも縛られていませんし、どんなレールにも縛られていません。

天地宇宙には法則というものがありますが、それは単に現象を表現したもので、私たちがそれに縛られるわけではありません。

少しだけ真面目な話をしますが、たとえば因果応報という言葉があります。
良いことをすれば良いことが返ってくる、良くないことをすれば良くないことが返ってくるというものです。

蒔いた種が生る。原因が結果を生む。
「善因善果」「悪因悪果」、そして理屈としては「普通因・普通果」ということになります。
普通の生活であっても、そこには流れやリズムがあるわけです。

ただ、この説明を聞いても芯の部分でしっくり来なかったならば、それはそのまま素直に受け入れるのが正解だと思います。
とりわけ、良いことをすれば良いことが返ってくるという説明に抵抗を感じたならば、なおさらに。

見た目の「因」を追っても、求める「果」は芽吹くものではありません。
芯の部分がどうであるか、本心がどうであるか、それがそのまま現実世界に結果として現れてきます。

因果応報というのは、過去からの流れがレールのように連なっているというよりも、その流れに乗っているうちに「私たちの」心の状態が
太く大きくなっていき、それが芽吹いたものだと言えます。

つまり、何かをしてしまったらそれでレールが敷かれてしまって運命から逃れられないということではなく、それをやるに至った私たちの心の
状態がそのまま根を深くしていった結果、芽が開いたということです。

ですから、エサに釣られて打算的な行動を取ったり逆算に基づく言動を行なったところで、その根っこに邪(よこしま)な心があれば、それが
そのまま反映させた現実が現れるわけです。




中学生の頃を思い出してみましょう。
校則に合ったきっちりした服装。ぴっちり切りそろえた髪。優等生という形。
それを守ったのは何のためだったでしょう。
怒られたくない。褒められたい。たかだかそんなことのためだったのではないでしょうか。

今なお、良いことが返ってくるのを期待して良いことをしようというなら、その期待している良いこととは何なのでしょうか。
それが安全や自己満足など、相変わらずそんなことであったならば、私たちは中学校の頃と何も変わってないことになります。

子供のころに、規則や決まりに反発して脱線しようと思ったのは幼稚な反抗心などではなく、まさしく本能的なものだったと言えます。

私たちは他の誰でもない、私たち自身です。
その心も、その人生も、すべて自由自在です。


自分で縛ることもなければ、他人に縛られることもありません。

この世とは何をしてもいい世界であり、何でも出来るからこそ私たちはこの世に生まれ出てきました。

あの世は自由度が低く、何もできない世界でした。
あっちの誰にでも逢えるわけでもない。どこにでも行けるわけでもない。何でもかんでも出来るわけではない。
魂に応じて厳密に、出来ることにかぎりが生じる世界でした。

しかしこの世ではそうしたことが無限に自由自在です。
そんな世界に私たちは喜び勇んで出て来ました。

私たちは右にも左にも行けます。
真っ直ぐ引いた一本道に縛られるなんて真っ平ごめんです。
良いことをすれば良いことが返ってくるなんて聞いたら、反射的に心を閉ざすのが当たり前です。

こうすれば悪い結果になるからやめる、こうすれば良い結果になるからそうする、そんなのはもったいない話です。
そんなものは、そうなった時に考えればいい。
悪い結果になったらなったで、その時にショックを受けてオロオロしながら涙をすればいい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html

結果を期待した行動や、逆算の行動には、中身が存在していません。スカスカです。
なぜなら「今ここではない何処か」に自分を置いてしまっているからです。

はるか彼方の何処かに心を置く。その瞬間、今ココは消失して私たちはがんじがらめになってしまいます。

天地宇宙というのは「今ここ」そのものです。
私たちは空間も時間も突き抜けて、天地無限に広がっています。
すべては今ここであるわけです。




「今ではない何処か」とは、近づこうとすればするほど離れていく蜃気楼です。

今ココに足をつけて初めて、天地無限へ今ココが広がり、遥か彼方の時空もすべてが今ココと成ります。

私たちは今ココにしか存在しない。
この天地宇宙も今ココにしか無い。
未来も過去も今ココにしか無い。

逆算や打算を考えた瞬間、天地の中心たる私たち自身が失われ、天地はスカスカの張りぼてと化します。

因果応報というのは、現象をあらわしたものに過ぎません。
原因があって結果が生じるのではなく、そこに結果があってそれを遡ってみればたまたまその原因となる状況があっただけです。

そもそも、天地宇宙とは真っ平らなものではありません。
変化と抑揚に満ちています。

それを三次元的に見れば、山あれば谷あり、谷あれば山あり、となるだけの話です。

それが自然のリズムであり、天地の呼吸です。
そしてそれはこの世だけにとどまらず、あの世まで連なる循環となっています。

波の無いフラットな状態というのは停滞であり、呼吸が止まった状態です。
波の高きを目指そうとしても、上がれば下がる、下がれば上がるというのが、あの世にまで連なる天地宇宙の法則です。

それを小さく切り取れば、天地宇宙の「他力の風」となりますし、大きく切り取れば「私たち自身の呼吸」となります。

この世に生まれてあの世へ帰る、というのも同じく天地の呼吸です。
ですからこの世で行なったことの波は、あの世へと連なり、来世へと連なっていきます。

波には大きな波もあれば小さな波もあります。
波とはそういうものだと知れば、その波は今世のうちにも数多く味わうことができます。

来世に持ち越さなくても、今世(こんせ)の中でアップもダウンも味わえます。

しかしそれを因縁の消化と言ったり、因果応報と言ったり、正負の法則などと言ってしまうと、たちまち変な色合いがついてしまいます。
本来それ自体には何の意味も定義もなく、純粋に、私たち自身の呼吸そのものに過ぎません。

ただ、水面(みなも)が下がったあとに今こうやって上がっている、水面が上がったあとに今こうやって下がっている、と前後を認識したまま
噛み締めたならば今世は二倍にも三倍にも味わい深くなります。

しかしそれが今世と来世とに分断されてしまうと、その連なりを分からぬままに点でしか捉えられず、その経験は見かけの不平不満だけに
終わってしまいます。

誰かを責めたり叱咤したならば、今度は自分がその経験を味わう。
暇な会社生活を味わったならば、今度はブラックな会社生活を味わう。
お金に窮して苦しんだならば、今度は余裕のある暮らしというものを味わう。

たとえ大きな変化でなくとも、ささやかな変化は誰の身にも起きています。
裏表がほんのわずかばかり入れ替わる。
来世に持ち越さず、今世の中に来世が現れます。

同じ人生の中で生まれ変わったかのような様々な経験を味わえるのは幸せなことです。

実際、私たちは日々の一瞬一瞬を、一から作り直しています。
同じものが続いているように見えても、新しいものが連なっているのが事実です。
常に、今この時も、私たちは生まれ変わり続けているわけです。

そして、そのことを一番に実感できるのが年末年始だと言えます。

大晦日を挟んで何が変わったわけではないはずなのに、まるで生まれ変わったかのように新鮮な気持ちになる。
それは、私たちが「去年」「今年」と切り分けて、昨日までの自分をしっかりと切り離した結果です。

私たちは常に生まれ変わっています。
ただ無意識のうちに昨日の自分を引きずっているためにそれが実感できなくなっているだけです。

新年を迎えて何だかとても清々しい気持ちになるのは、単に気分的なものではなく、真実であるわけです。

そしてそれは何も年末年始にかぎらず、日々の中でも、昨日の自分や、今さっきの自分を断ち切って今ココに100%あれば、私たちはいつでも
新年正月の新鮮な心地になれるということです。

お正月、私たちは当たり前のように、明けましておめでとうございますと言います。
何が明けたかというと、年が明けた。
それでは年が明けると何でおめでたいのかとなると、なかなかそこまで考えることはありません。
でも感覚的に、確かにおめでたい。だから考えようとも思わない。

その答えは、読んで字のごとしです。
一年が終わって、新しい一年がやってきた。
夜が明けて、今日が始まった。
その「明けた」です。

闇が明けた。濁りが晴れた。罪穢れが祓われた。
だから、おめでたいわけです。

私たちは日々生まれ変わっています。
そして今この瞬間にもまた生まれ変わりました。

明けない闇が続くのも、気持ちが濁ってしまうのも、罪穢れるのも、すべて私たちがそれを抱え込んでしまっているからです。

大晦日のように不安やモヤモヤをすべて過去に預けて切り離してしまえば、いつだって元日のような清々しい真っさらな状態になります。

今ココに集中するというのは、一瞬前をそこでリセットさせて完全にリフレッシュすることです。

まさにお正月の、今この瞬間この空間へと身も心も開け放した感覚こそが、本当の私たちに還っている状態であるわけです。

明けましておめでとうございます。

正月三が日なんかでなく、365日、この感覚を大切にしていきたいと思います。