これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

こころの柔軟体操

2015-02-27 00:19:23 | 心をラクに
小学生や中学生の頃、いつも本ばかり読んで空想にふけっている子がいませんでしたでしょうか。
「今」から離れてしまってフワフワと地に足がついていない状態というか、少し現実離れした感じで、
どこかポーッとしていたのではないかと思います。
私も歴史小説にドップリ浸かっていましたので、似たようなものだったかもしれません(笑)

ただ夢や空想は、自分の中心さえしっかりしていれば、非常に価値あるものだと言えます。
それは、想像力を高めることになるからです。

常識や規範、信条といった社会通念や固定観念に囲まれていますと、気づかないうちに視野が
硬直してきます。
そして、自分の目に映る視野が全てだと思っていしまいますと、知らず知らずのうちに囚われや
執着心が生じてまいります。

流れる川を前にしても、その全体像が観えていないと、どうしても視野が狭くなってくるものです。
足下の水だけが世界の全てになると、手で囲ってそれを無くすまいとしてしまいます。
そして、流され変化する姿に、あたふた動じてしまうのです。
果てしなく広がる大河を感じていればこそ、疑問や理屈など挟むこともなく、目の前の景色を
感覚として自然に受け入れられるのです。
無限に広がる世界を受け入れた状態になって初めて、目の前の今に、芯から集中できるわけです。

この世というものは、私たち人間の視野だけを観ると、不合理で理不尽なことばかりです。

科学が今ほどに発展する前、あるいは西洋的合理主義に染まる前は、「仕方ない」「よく分からない
けどそういうものなんだ」という、達観した寛容さがありました。
屁理屈に凝り固まることなく素直で柔軟な心だったからこそ、視野の外のことも受け入れられて
いたのです。
残念ながら、現代は、何かにつけて頭で考えることが習慣化してしまっています。
ですから、理屈から離れる「空想」は、硬くなった心にとても効くのです。

そもそも私たちは、想像する力を使って、日頃から未然の危険を回避したり、未知の喜びや楽しみ
を体現しています。
それが「想像は創造」と言われる所以です。

そのような言い回しをすると、言葉の壮大さに圧倒されてしまいそうですが、それは遥かにもっと
身近なものです。
雨が降りそうだから傘を持って出掛けたり、旅行にトランプを持って行ったりと、想像力によって
創造されることなど、別に大それたことでなく、ごく普通にやっているのです。
肩ひじ張らずに、もっと気楽に考えていいものなのです。

そしてその想像力を柔らかくほぐすことで、視野の固定化を防げるようになります。
空想もそうした方法の一つですが、他にも、視点を変えるというやり方もあります。

物事というものは、切り口を変えることで違った見え方をします。
角度を変えて眺めてみますと、今まで平面だったものが立体的に見えてきます。
つまりそれが、視野が広がったということになるわけです。
あるいは光というものが、波であると同時に粒子でもあるように、一つのものに全く違う姿形が
同居しているものです。
どれか一つが正しいと決めつけず、どれもが有り得るという大らかな心こそが、目の前の景色を
より鮮明にクリアに観れることへと繋がっていくのです。


また空想というものは、科学の通説と繋がる部分もあれば、まったく矛盾する部分もあるものです。
でも空想そのものは“指月の指”なのですから、最初から方便だと割り切って楽しんでしまった方が、
心も一層ほぐれます。
空想そのものに囚われず、視野が広がることを楽しんだ方がいいということです。

視点の切り替えや空想は、社会通念や常識への囚われから自分を引っぺがす作業とも言えます
ので、そうしたものを捨てて身軽になっていくことにもなります。
ただ味噌クソ一緒にしてしまうと、自分の中心が「今」から離れて、フワフワ飛んでいったままに
なってしまいます。

常識や通念は捨てていった方がいいですが、現実まで置いていってしまうのはいけません。
目の前の現実を忘れて、フワフワ飛んで行ってしまうのはダメです。
クラゲのようにフワフワ流されるのは気持ちいいかもしれませんが、それではこの世で、自分が
自分でなくなってしまいます。
「今」に居てこそ、自分の現実が創造されていくのです。
人まかせ、風まかせではいけません。

風まかせといえば、五木寛之が石原慎太郎と『他力』と『自力』についてやり合ったエピソードを
思い出します。
五木さんは、大河の流れを『他力』と称して、ガリガリやることに否定的だったのですが、一方の
石原さんは『自力』とはガリガリではなく、それはヨットの帆だと説明しました。
全てを他力に任せきるというのは自堕落な無責任でしかなく、帆を張るという自助努力があってこそ、
風を掴んで流れに乗ることができる、というものでした。
石原さんも、『他力』の元たる大河の流れを全肯定しており、そこにプラスαとしてガムシャラに
頑張ろうとする必死さがあってこそ、風や流れを掴むことができると表現したわけです。

そして、ここでいうヨットのマストこそが自分の中心です。

中心が定まってこそ、心は大きく広がります。
中心がない状態では、どこかへ飛ばされていくだけです。
そこに広がりなどありません。
単なる片寄りでしかありません。
無限に広がるには、中心が大事なのです。

天地に溶け合っても中心はあります。
「今」が中心であり、「私」が中心です。
天地宇宙は「全にして個」「個にして全」の状態です。
全だけではありませんし、個だけでもありません。
その「全」が無限の広がりであり、「個」が中心です。
天地は、無限の個、無限の今に埋め尽くされているのです。

そしてこの、中心から無限に広がる心を喩えるなら、中心点からビーコン(音波)が放たれるような
イメージかと思います。
水面に小石を投げた時の波紋が広がっていくような感じです。
広げようとするのではなく、自然に勝手に広がっていきます。

中心をそのままにして心を広げ、そして広がった感覚のままで、また中心の今に集中する。
それこそが、より一層「今」に深く集中できることになります。

スピリチュアルや精神世界などで、とても素晴らしい感覚に触れたのに、いざ現実に戻るとあまりに
接点がなさすぎて、ブッタ切られた感じがすることがあるかもしれません。
でもそれは、”あっち行ってコッチ行って”と、その場その場で切り替えてしまっているからです。
精神世界に接している時と現実世界に接している時で、中心をフラフラ動かしてしまっているからです。
断絶があるから、それらが繋がらなくなっているのです。
「今」に中心を置いたまま、夢や空想の世界にまで心を広げていけばいいのです。
中心点の今から放たれた波紋の先に、その世界を感じればいいのです。
アッチのものをコッチに持ってきて当てはめようとするのではなく、その広がった感覚を天地に
放ったままで「今」に集中すればいいのです。
歯を磨いたり、ドライヤーをかけたり、ご飯を食べたりと、目の前の一つ一つのことに集中して
いけばいいのです。

ここで整理が必要となるのが「感覚」と「意識」(顕在意識)は別々のものだということです。
それらは連動しやすいのですが、それぞれ別々の動きをするものです。

たとえば、自宅に帰りますと、今いる部屋だけではなく家全体まで空間感覚(皮膚感覚)が自ずと
広がりますが、その時の意識の方は、目の前の視野の広さにとどまっています。
慣れ親しんだ場所に行くとホッとした気持ちにくつろぐのは、皮膚の毛穴が開いてこの空間感覚が
無意識のうちに広がっているからです。
(方向音痴というものは、もしかするとこの広がりが小さいからなのかもしれませんね)
ですから、空想や精神世界は、この感覚を広げるための方便として使えばいいわけです。
そしてせっかく広がったならば、その感覚はそのままに放っておくことです。
自宅に帰った時のように、心をリラックスさせて毛穴を開いたままにさせておくのです。
現実の視界(固定観念に縛られた視界)に戻った時に、その皮膚感覚まで元の小ささに戻してしまう
のは勿体ないわけです。
感覚が広がった状態にあればこそ、目の前の視野がそれまでよりも広く鮮明になっていくのですから。

そして、その極みが、天地が輝きに満ち溢れている感覚ということなのです。
大きく広がった感覚のままにあれば、まわりの人もホッコリした気持ちに包まれます。

これまで「幻想や空想にうつつを抜かさず『今』にこそ集中」と言ってきたのは、空想や精神世界を
否定するものではなく、「今」から離れてしまうことを懸念してのものでした。
幻想の世界に夢中になっているのは、心を広げていることにはなりません。
それは単に心を奪われてしまっているだけで、心そのものは何も広がっていません。
今の現実に中心があればこそ、心は広がるのです。
どこまで行っても、今の現実が一番なのです。
空想や想像にしても、今の現実に集中するためにこそ、意味を持つと言えるのです。


冒頭で、夢見チャンは「今」に集中しきれていない状態と言いました。
では、私たちがどれだけ今に集中できているのかを考えますと、スッキリ目覚めているとは言い
がたく、やはり少しウトウトしている状態ということになってしまいそうです。

「人類のほとんどは目覚めているのに眠っているかのように振る舞う」とロシアの神秘家グルジェフ
は言ったそうです。
それは一つには、私たちがスクリーンの中が全てだと信じきってそこに囚われていることを指して
いると考えられます。
スクリーンと客席とが相関関係にあることをしっかり自覚し、心を広げた状態で、客観性をもって
スクリーンの中の「今」に集中しきることを促したのかもしれません。

また一つには、社会通念や価値観という囚われの種を蒔いた存在によって半眠状態へと誘導されて、
催眠術にかかったように、あるいは夢遊病者のように無思考でそれに従う姿を指しているのかも
しれません。
囚われを追いかけて回転バシゴをくるくる回る姿は、そのように言われても仕方ないでしょう。
グルジェフが、自分の中心にまで通さずに、上っ面だけで条件反射的に自動反応してしまっている
ロボット状態を批判しているのだとすれば、やはり中心の大切さ、集中の大切さというところで
通じるものがあるように思います。

「今」に集中しきれずに景色がボヤけている状態、浮足立ってグラグラ動いている状態というのは
「眠っているかのように振る舞っている」ことに他なりません。

ちゃんと目覚めた状態とは、視界がはっきりしている状態です。
ちゃんとした振る舞いとは、今に集中していることです。

グルジェフは、仕事はハードであるほどいいと言っていたそうですが、それこそ雑念の起きる暇も
なく、今に集中することを目指していたのではないかと思います。
そして、体を酷使する仕事の方がもっといいと言ったのも、まさに禅の作務と同じで、肉体感覚を
優位にさせることで「今」に集中しやすいようにさせ、さらに行動という「今」に刻む唯一の手段で
「今」への集中をより加速させようとしたのだと思います。

グルジェフおススメのこの方法は、トコトン自分(意識)を追いこむやり方です。
どうしても勉強や修行が好きという、エネルギー溢れる情熱タイプには、合ってるかもしれません。
私もそういうストイックなのは嫌いではありません。
ただ、これも好みの分かれるところなので、今日はそれとは違うやり方、心を拡大させるという
アプローチで迫りました。
そしてそのための一つの方便として、空想で想像力を膨らませるのが有効ということでした。

ですからこれは、勉強や修行ではなく、遊びと思った方が分かりやすいかもしれません。
楽しんでナンボの世界です。
真面目に理屈を追うと疲れてしまいますし、分からない部分を噛み砕こうと頑張ってもシンドく
なるだけです。
分からないところや腑に落ちないところは、サッサと流すのが得策です。
外で遊ぶ時のように、ひとまず頭は置いといて、肌の感じるままに自由に楽しみましょう。
そうしますと、ここに書かれていることとは違った世界、新たな景色が自分の中に浮かんでくる
かもしれません。
それは、心を広げる新たなチャンスです。

遊びに夢中になるコツは、まずは面白がろうとする心にあります。
”面白い”が”楽しい”に繋がっていきます。

これからも折を見て空想の話を書いていきたいと思いますので、心の柔軟体操と思って、トコトン
遊んでみて下さい。
そして、どんどん手放していって下さい。

ただし体操の時は、くれぐれも中心をお忘れなく(笑)



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素直はトクです

2015-02-24 18:50:25 | 心をラクに
小さい頃、私は、こまっしゃくれた子供だったようです。
人前で喜びや悲しみを顔に出すのは、大人げないことだと思っていました。
背伸びというか、カッコつけたかったわけですね(笑)
ですから、家の外では感情を抑えて、なるべく表に出さないようにしていました。

私の母は喜怒哀楽のハッキリしたタイプなので、そうした態度をとても不満に思っていたようです。
一緒にボーリングに行った時も、私としては普通に楽しんでいたのですが、母からは「カッコつけ
てるからイヤだ」と言われたことがありました。
何か派手なポーズを決めたわけではありませんし、キザに振る舞ったつもりもありませんでした。
自分では淡々とやっていましたので、何のことか分からず、口喧嘩になった覚えがあります。
今になって思えば、母はもっと私に喜んだり悲しんだり、普通にハシャいで欲しかったのだと
思います。

私たちは、今この世界の一枚絵の中に溶け込んでいますが、その様子を多くの存在がハラハラ
わくわくしながら見守ってくれています。
そして、その観客席には私たち自身も座っています。
私たちも、自分の映画を一緒に観ているわけです。
そんな時、映画の主役が、喜怒哀楽を抑えて能面のように淡々と過ごしていたら、どうでしょうか。
しかも、さまざまな気持ちがハジけそうになると水をかけて消している様子まで、せんぶ観えて
しまっているのです。
あ~、もったいない・・・と溜め息をついてしまうのではないでしょうか。

テレビの人気番組に、小さな子どもが初めてお遣いに行くというものがあります。
知らない世界へ一人でドキドキしながら飛び込む姿に、視聴者の目は釘付けになります。
不安や恐れと葛藤する姿に、観ている方もハラハラ手に汗握り、ちょっとしたことに驚く姿には
思わず笑みがこぼれ、そして透き通った優しさを観ると、心洗われホロリと涙するのです。
やはり、損得勘定なしに一生懸命にやって、そして一喜一憂している姿であればこそ、大いに
盛り上がるのではないかと思います。
もし、その子どもが感情を押し殺し、平静なままスーッと買い物をしてしまったら、何も面白く
ありません。
ましてや、何もかも全て分かってる状態で馴染みの店に行く、というのでは企画段階でボツです。

つまりは、現実世界がそうであるわけです。
どうなるか分からないから、いいのです。
安全なところから出まいと頑なになっているのでは、企画倒れなのです。
自分の知らない世界、知らない視野へと、恐る恐るドキドキびくびくしながら出て行くから、
いいのです。

自分の心に素直になった方が、他の誰でなく自分自身が喜ぶということです。
何かに気兼ねして自分の感情を押し殺すというのは、全く逆なわけです。

神話を読んでみますと、神様自身がそのことを身を持って教えてくれています。
日本の神話に登場する神様たちは、とても表情が豊かです。
誰かの目を気にするでもなく、大いに泣き、大いに笑い、そして大いに怒っています。
実に、豊かな心が見て取れます。
それを大人げないとか、みっともないと思うのは、私たち人間の浅知恵でしかありません。
カッコいいとかカッコ悪いというのは、人の目を気にした価値判断です。
もちろん、自由奔放だからといって他人に迷惑をかけるのはいけません。
慎みは必要です。
ただ、自分の豊かな心までも押さえつけることはないわけです。
ポロポロ泣いたり、ゲラゲラ笑えばいいのです。
それを泣き虫だとか、落ち着きがないと思われたとしても、それは他人の価値観でしかありません。
自分の中心を相手に置くわけではないのですから、そんなことはどうでもいいことなのです。
そもそも自分の心が透明であれば、泣いても笑っても、まわりは笑顔でスッと受け入れてくれます。

もしかしたら、神話の神様の姿というのは、私たちのご先祖さまの姿なのかもしれません。
昔は、現代と違って、死というものが身近にありました。
いつまで生きられるか分からない肌感覚に包まれるなか、心はシャキッと覚めて、自ずと一つ一つ
のことに注力していたことでしょう。
そして様々なこと、様々な存在に感謝しながら、全身で生きていたはずです。
それゆえ、一つ一つの喜怒哀楽も、今とは透明度が違ったのではないかと思うのです。

実際、戦国時代や幕末維新、世界大戦の時など、武骨でストイックに見える時代こそ、日本人は
よく笑い、よく泣いていました。
幕末に来日した外国人は、日本人が弾けるように笑い、そして何より、ひと目をはばからずに泣いて
いる姿に驚きました。
そのような、溢れ出るほどの豊かな心を、みんなアタリマエに持っていたのです。
今の私たちは、当時の外国人と同じ見方しかできませんので、ご先祖様たちのその姿を想像すると
少し驚いてしまいますが、それが精神的に未熟だったかというと全く逆なわけです。
実際、当の外国人は、そうしたことも含めて日本人のことを、高潔だと評しています。
決して子どものように見えたわけではなく、その雑味のない透明な精神に、むしろ清々しさを感じて
いたのです。

そして薩摩武士も幕末の志士たちも、よく泣きました。
大東亜戦争下の日本男児たちも、泣きました。
それは、一つ一つの今に、それだけ真剣に向き合っていたことの現われです。
私利私欲が削られた透明な感性が、即座に、その心を発露させていたのです。

一喜一憂といっても、ただ感情の暴走に流されることとは違うわけです。
今に向き合い、素直に自分の気持ちを解放しているのです。
今から離れて、感情の激流に巻き込まれるのとはわけが違うのです。
それらは、似て非なるものとして、切り分けて考える必要があります。

感情というと、囚われの元凶や悪の権化のように思われがちですが、そこはリセットしなくては
いけないところだと思います。

ポイントは、自分の中心が保たれているかどうかです。
我欲が強ければ強いほど、自分の中心点から外れていきます。
自分の中心から離れた状態ですと、感情に押し流されてしまいます。
しかし自分の中心はそのままで、心を大きく拡げた状態で感情を解放させると、カラッと澄んだ
一喜一憂になります。


同じ怒るにしても、感情にまかせたそれと、透明なそれとでは受け手の感覚が全く違います。
前者は、雑味が外側からぶつかり、反発が生じて互いにあとを引きます。
しかし後者は、透き通るように内側へダイレクトに届くため、喝を入れられ我に帰る感じになります。
あとに引くこともなく、突き抜けた感じになります。

あるいは、愛と恋の違いなども、そこにあると思います。
我欲があるかないか、自分の中心点が失われてないかどうかです。
それによって、粘っこい執着丸出しの愛となるか、風のように爽やかな恋となるか、大きな違いが
出てくるのです。

これは悲しみも同じです。
自分の中心から外れて感情に流されてしまうと、ダラダラとクドい粘着質が後を引きます。
しかし、自分の中心が定まった状態で心を開放させた時は、透明で綺麗な悲しみとなり、観る者の
心にもグッと響きます。

中心から広がる想いは、我欲ではありません。
拡がる波紋のようなものです。
澄みきった風が、人々の心をスッと通り抜けます。

ここでいう中心とは、自分の芯が「今」にある状態です。

世の中には「感情は流さなくてはいけない」「流して眺めましょう」という考え方がありますが、これは、
自分の中心がなくなって流されていることを諌めてのものです。
中心を無くしてあちこち流されていることを自覚せず、さらに流されまくっていることに対して、そうした
方便を使っているわけです。

ですから、我欲や雑味が多いと感じた時は、そのような方便を使うのが有効です。
ただ、中心が自分の臍下にスッと定まっている時は、感情に素直になっていいのです。
我欲でなく透き通った状態であれば、それは心を広げることになるからです。

このように中心点と素直さが大切というのは、他の場面にも当てはまることです。

例えば、自分の知らない話を聞いて、「本当だろうか・・・いや、ダマされないぞ」と思って過ごすよりも
「へぇ~そうなんだ。それは面白い」と思って過ごす方が、彩り豊かな人生となるものです。

前者の不安の根っこにあるものは、ケガをしたくないという思いです。
でも、自分の中心がしっかりしていれば、「騙される」ということはありません。
それは、自分の外に心を置くことによって生まれるものだからです。
損得勘定や我欲の混じった好奇心の場合は、その延長に面白みを感じてしまいます。
ですから、アテが外れて「騙された」ということになるのです。

自分の中心がここにあれば、そもそも面白く感じるものが変わってきます。
最初からアテなど無いので、ハシゴを外されることもありません。
結果がどうかなど気にせず、今を楽しんできたので、既に十分満足です。
なので、実は嘘でした、と言われても「なんだそっか」で終わりです。
そんな心配よりも、日々の輝きを楽しもうとする素直さの方が、得る喜びは大きいのです。

このような素直さを体現した人は、過去に沢山います。

たとえば西郷隆盛は、どのようなことも一切疑わずに信じたといいます。
身の上話を聞いた時には、本人以上に喜んだり、ハラハラ心配したり、ポロポロ泣いたそうです。
そして、あとでそれが嘘だったと知った時も、ガッハッハと笑い飛ばしたそうです。
過去は過去で、その瞬間の自分に素直になっていた。
そして今は、今の自分に素直になっていたということでしょう。
自らを中心として、天地に無限の心を開いていたわけです。
感情豊かなだけでなく、とてつもなく度量が大きく胆も座っていたというのは、それ故でしょう。
そして何も話さなくとも、そばに居るだけで幸せな気持ちになれたといいます。

そういう点では、頭山満翁も同じですし、山岡鉄舟もそうだったと思います。
やはり、お二方とも、相手の話ではなくその相手自身を信じました。
それは、自分を信じていることでもあったわけです。
すべてをそのまま受け入れたのです。
ですから、もしも騙されたもしても、本心から何の後悔もなかったのです。
自分を信じきって相手を信じきった時点で、それはもう終わったことだからです。

その三人とも、自宅には大勢の人たちが集まり、何もせずゴロゴロと長居していたといいます。
どんなくだらない話でも、その声に触れるだけで幸せになれたということでしょう。
また、たとえ会話がなくとも、ただ近くにいるだけで心が安らいだということかもしれません。
そして、この人のためなら死んでもいいと思うのです。
それは理屈ではありません。
損得勘定でもありません。

ひとえに「徳」です。

天地の心に包まれた時、人はホッと優しい心地になります。
それは我執や囚われが取り払われた、生まれながらの素の状態です。
自らも天地に溶け込んでいき、そうして心からの安らぎを覚えるのです。

そしてまた、囚われのない素直な状態にあると、自分のまわりは楽しいことだらけになります。
子どもの頃のそれです。
楽しいことがやってくるのを待つのではなく、自ら楽しもうとするスタンスです。
何の変化もない状況でも、何か楽めないかと、創造力と探究心がフル回転になります。
そこに一石が投じられたらば、何だろう?と好奇心を膨らませます。
そして、ますますワクワク回転です。
そこでもし、意味が理解できなかったとしても、立ち止まることはありません。
納得できなければ楽しむのをやめてしまう、なんて馬鹿なことはありません。

目的はただ、楽しむことです。

「分からないけど面白い」という素直な気持ちです。

しかし大人になると、腑に落ちないと先に進むのはやめようと慎重になっていきます。
その先に楽しいことがあっても、「いや、まずは疑おう」となるのです。

もちろん、その姿勢が必要な場面は数多くあります。
確かに、なんでも手放しで受け入れるのは危険なことです。
ただ、少なくとも遊ぶことに関しては、そのストッパーを外してもいいと思うのです。
楽しむことが目的なのですから、楽しまなければ意味がないのです。
あとでそれが方便だったと分かっても、もう十分楽しんだわけですから、「あ~、騙されたー」と
笑っておしまいです。

そして、本当に素直であれば、そもそも騙されるということは有り得ないのです。
ですから、いちいち疑い深くなるよりも、素直に騙された方が「得」なのです。
遊びというのは、とにかく楽しんだもん勝ちです。

地に足をつけて自分の中心をスッと通したまま心を広げますと、透き通った豊かな感情が
溢れ出てきます。
その感情にフタをする必要はありません。
雑味を無くして心が広がるほどに、天地の温かさに溶けあっていきます。
そして、まわりは優しい心地に包まれていきます。
自分の目の前には、楽しいことがたくさん現われてきます。
今を楽しもうとするほどに、ますます楽しくなっていきます。
そして楽しめば楽しむほど、さらに心は広がり、天地と一つになっていきます。

それが素直さというものです。

それは徳であり、本当に得なことなのです(笑)




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忘れることはありがたいこと

2015-02-21 11:23:24 | 空想の世界
私たちは、「今」を存分に味わえるように、忘れるという能力を授かっています。
過去をいつまでも引きずらないで、今に集中できるようにとの天地の計らいです。

ただ、なかなか忘れられない思い出もあります。

あの頃に戻りたいという執着や、あの時のことは思い出したくないというトラウマがあると、心は過去に散れ散れになり忘れようにも忘れられ
なくなります。
見ようによっては、いくつにも分身しているような状態とも言えます。

今だけに心を向けていれば、過去の「今」は、時の流れとともに少しずつ薄まっていくようになっています。
しかし、その薄まっていく過去に自分の思いを塗り重ねてしまうと、今なお鮮明な記憶として残ってしまいます。

しかもこの場合、それは元の姿とは似て非なるものになっていくというややこしさがミックスされます。

実際はそこまでのものではなかったのに、思いが乗って美化されすぎたり、逆に恨みつらみで無惨に泥まみれにされたり。

そうなると私たちは、自分の創作物にしがみ付いているということになってしまいます。

そもそも、そこまで必死にならなくても過去が無くなることはありません。

忘れるという現象は、あたかも過去が消えてしまうかのような錯覚を生みますが、それはただ心の向き方の問題でしかなく、過去そのものは
何も変わらず存在しています。
いつでも私たちはそこに繋がることが出来るわけです。

ですから、忘れたら大変だとか、忘れたら冷たいなどと心配する必要はないということです。

今の瞬間それが頭に無かったとしても、心さえ向ければ、次の瞬間にはそれはすぐに蘇ります。
今の瞬間に「忘れている」ということは、むしろ今だけに集中できているということです。

そこが大事なのです。


「今」という一枚絵が隙間なく連なることで、私たちは「時間」という概念を作り出しています。

一つ一つの今は、その瞬間にしか存在していません。
それらがスムーズに差し替わることを私たちは「変化」として認識しています。

パラパラ漫画を早くやれば違和感なく受け入れられますが、今の私たちはまさにその状態といえます。
ですからそれをどんどん遅くしていけば、感覚的にこのことが分かってくるかと思います。

たとえば最近の写真立てには、デジタル画像が自動で差し変わるものがあります。
静止画が、時間とともに自動でスライドされていくやつです。
あるいは、プレゼン発表などのパワーポイント画面でもいいかもしれません。

こうしたものを想像すると、一つ一つの「今」が明確になってくると思います。

今そこに映っている静止画面が「今」の全てです。
その「今」にしがみつこうとしても、強制的に次の画面に切り替わっていくわけです。
「ちょっと待って、今のところまだ見てる途中!」と叫んでも、お構いなしに切り替わっていきます。

今の画面と前の画面とは、一から作り直された異なるものなのですが、ほとんど同じに見えるためにそのことを感じ取ることはできません。
そうしてその入れ替えを私たちは自然な「流れ」として受け入れることが出来ています。

実際にはトランプカードの全取っ替えなのですが、ほんの一部分だけのわずかな変化しか起きて無いと私たちは見なしているわけです。

とても良いと感じる一枚絵があったり、とても嫌だと感じる一枚絵があっても、静止画は強制的に
次の画面へとスライドしていきます。
あっ、と思う間もなく、次々と切り替わっていきます。
そこに執着しようにも、それが出来ないような仕組みになっているということです。

そうこうするうちにスライドはドンドンと進んでいきますので、遥か遠くへ去っていった一枚絵は、そこに心を向けようとしてもフォーカス
が緩んでいきます。
それを、私たちは「忘れる」という概念で捉えているのです。

それらの一枚絵は、今もすべて存在しています。
そこに心を向ければ、いつでも観られる。
それを、私たちは「思い出す」と言っています。

心のフォーカスが100%に近ければ近いほど、その景色も鮮明に見えるということになりますが、なかなか100%とはいきません。
そこで補正が働くわけですが、心が他の何かに囚われて本当の一枚絵に向いていなければ、それだけ補正が大きくなることになります。

心を向けるというのは、全てを向けるということです。
気持ちだけではなく、皮膚感覚など五感の全てがフル稼働の状態です。

心は時間とともに変化していきますので、他の五感まで薄まってしまうと、一枚絵そのものがボヤけていくことになります。

そういう意味では、何もかもすべてが天地に溶けあった状態になると、過去の一枚絵は、全てありのままの姿で鮮明に見えることになります。

死ぬ間際に観る走馬灯や、あるいは、死んだ後に観るかもしれない閻魔帳(閻魔画像)とは、そういうことなのかもしれません。

意識というものは色どりが付きやすいものですが「感覚」の方はそうではありません。
どのような観念に囚われようと感覚というのはなかなか変質しないものです。
ですから、感覚からのアプローチであれば過去の一枚絵へのフォーカス精度は高まるといえます。

実際、誰にでも五感がきっかけで過去を鮮明に思い出すといった経験があると思います。

草木や花の香り、食べ物の味、田舎の空気や風の匂い、肌感や手触り、街並みや家などの空間感覚。
それらが同期した瞬間、意識よりも感覚優位となり、想念や囚われが消し飛び、当時の自分、当時の世界に戻ります。

そうして、当時の一枚絵が鮮明に観える状態になると、記憶がはっきり戻ったとか、思い出がよみがえったという感覚になるわけです。

感覚や肉体というのは、心や意識よりも確実なものと言えます。
我欲の影響を受けず、状態として確立しています。


頭でアレコレ考えるよりも、実際に身体を動かして実行する方がいいというのは、そういうことでもあります。

この世では、行動こそが、今この一枚絵へ自分を刻みこめる唯一の方法です。
魂や心は、単に一枚絵を観ることしかできないのです。

”霊主体従”として、体を下位に置くのは間違いでしかありません。
魂や心も主であり、肉体もまた主なのです。
それぞれが別個のもの。
同じ一つのものとして考えるから、おかしくなるわけです。

この現実世界が光に輝いているように、この肉体も光に輝いています。
物質世界を卑下して、自分の肉体までも見下すのは、魂や心すらもフタしてしまうことになります。


さて、過去の一枚絵はすべてそのままの形で今も存在していると言いました。

ただ、当時それをどのように見ていたか、心をどのくらい向けていたか、どのような色をつけてしまっていたか…
それによって私たちの中では自分オリジナルの形で存在している状態となっています。

本来の絵がそこかしこに存在しているのに対して、そちらには目を向けず、自分の中の絵を見ているような状態とも言えます。

ですから、自分が見方を変えることによって、その一枚絵の景色(見え方)も変わってきます。
自分の心の純度・濃度によって、少しずつ変わっていくわけです。
それが「過去は変えられる」という意味になります。

これは比喩ではありません。

私たちにとって、そのように見えるものは、間違いなくそれが現実です。

たとえば何人かで同じ景色を見ていても、誰一人として同じものには見えていません。
それは、それぞれの想念や観念といった囚われがフィルターとなって、心を様々に彩っているからです。

ですから、今の私たちに見えている過去の一枚絵は、私たちにとっては本当にそれが現実です。
だかは、その景色が変わるということは、実際に自分の過去が変わるということになるわけです。

本当は、私たちがどのように見えているかということに関係なく、一枚絵は最初の姿のままで存在しています。
その一枚絵のありのままの姿というのは、光り輝くものであります。

それは、天地と溶け合い無限に広がった状態、すなわち天地の心になった時に感じられるものです。
視覚の次元ではなく、その中に溶け合っている状態であるため、それは観るのではなく、感じるということになります。

映画「レインマン」の題材にもなったサヴァン症候群の中には、過去に一度見た光景をまるで目の前にあるかのように鮮明に記憶している能力が
あります。
これなどは、本当に過去の一枚絵を、いま目の前で見ているということではないかと感じます。

何らかの方法で、その時の一枚絵に、自分の全てを100%向けている。
完全にその絵に溶け込んで一体になっている、ということではないかと思います。
サヴァンとは違いますが、未来や過去を観れる能力もこれと同じ理屈かもしれません。

過去が一枚絵として残っているということは、そこに繋がっているパーセンテージが、「記憶」に関係しているのではないかとも言えます。
そうなると、記憶は頭の中ではなく、頭の外(空間)に存在しているということになります。

そうなると老化とともに記憶が薄れてくるのも、過去へのリンクがうまく行かなくなっていると考えることができます。

また、直近の記憶は忘れてしまうけど昔の記憶は忘れないという現象は、今の自分より、当時の自分に理由があるのかもしれません。

活力溢れてた頃は、様々な五感鋭く全ての感覚で一枚絵をしっかりと感じていたので、いわば画素数(情報量)の多い状態となっており、
年老いて意識からのリンクするが弱まっても、五感でもって身体全体でその景色にリンクすることができる。
若い頃は肌感覚を開放させて景色に接していたため、年老いても感覚優位でそこに同期しやすいということなのではないかと思います、


さて、過去の次は未来です。

こうして連綿と連なる過去に対して、未来もまた無限の一枚絵が存在しています。
ただ未来に関しては、全方向にあらゆるパターンの一枚絵が存在していると言えます。

どの一枚絵にも私たちが描き込まれていて、そのうちのどれか一枚に、私たちの全て(心と魂と感覚)が向くことでそれが「今」となります。

これは、私たちの行動が刻まれることで一枚絵が完成するともいえますし、すでに描き込まれている一枚絵のうち、どれに心を向けるかで
それが行動の刻まれた現実になるともいえます。
いずれもどちら側から見るかの違いであって、どちらも同じことを言っています。

そして、世の中にはこうした仕組みを踏まえて、自分の望む形を強くイメージしてそこに心を向けることで現実化させるというテクニックが
あります。
心だけでなくその他のこともそこに向かなければ現実にはならないため、1%や2%といった弱い状態から、少しずつ10%、20%と積み上げ
て確率を上げていくわけです。

ただ、こうしたテクニックは明らかに囚われや執着を強化させる危険があるので、あまりお薦めできません。

過去の景色でさえも、私たちは曇った目でしか見られていないように、未来の場合も、狭い視野でしか見えていないからです。

仮にテクニック的なことで想いが実現したとしても、そこに我欲が入ってしまっている時は、その種を蒔いてしまうことになります。
自分の視野には夢描いたものが現実化しているように映ふかもしれませんが、その視野の外、つまり見えていないところでは種が育っていくと
いうことです。

蒔いた種は、自分で刈ることになります。

その芽というものは、見えていなかった場所に目を向けさせるためのものであり、視野を広げさせるものですから、否定したり忌み嫌うもの
ではありません。

囚われという重荷をおろすために、心を広げ、軽くしてくれるもの。まさにお陰様です。

ですから、ぶっちゃけ、この一連の流れに良いも悪いもなく、ただ世の中うまく出来ているということでしかありません。

要は、虫のいい話などないということです。

囚われを無くすにも色々な道があります。
エネルギーを送らないようにして執着を小さくしていく道もあれば、逆に、そこにガンガンと栄養を注ぎまくって破裂させる道もあります。

前者は、大ケガはしないけども根治するのに時間がかかるものですし、後者は、大ケガ一発で根っこから治るかもしれませんが、最後のギリギリ
のところでさらに酷い執着へ飛び移って逃げるというリスクもあります。

あとは好みの問題です。

いずれにしても執着に囚われ続けると、何も見えない何も聞こえない世界から抜け出せなくなってしまうので、私たちの芯の部分がそれを
どこまで耐えられるかということに尽きます。

人間考えの狭い視野に固執せず、天地にまかせてまだ見ぬ世界に飛び込んだ方が、ずっと楽しめるのが事実です。

私たちの目には、一枚絵の全景は見えていないものです。
見えているつもりになっていても、やはり、それは一部でしかないのです。

天地の心になって、目の前の「今」をそのまま受け入れますと、これまで見えていなかったものが見えてくるようになります。

過去の一枚絵は全てそのまま存在していますし、未来の一枚絵もそのまま存在しています。

ですから、心配しないで全て手放していいわけです。

この、前後左右上下に広がる無限の時空のなかで、今の私たちはその中心にいます。

それを全身に感じることが、目の前の今をより深く味わえることに繋がっていきます。

そして、それら無限の一枚絵をスライドさせているのは天地の力です。
私たちの目には見えない、数多くのお蔭さまです。

この大河に乗って、数々の一枚絵が、私たちの目の前に現われます。

その流れに逆らい、ガリガリ(我利我利)と自分好みの一枚絵に辿り着くこともあるでしょう。
あるいは、不安や恐れに手足を丸めて、川の底に沈むこともあるでしょう。
そしてまた、何かの一枚絵にしがみついて、激流の水しぶきに苦しむことだってあるでしょう。

そのどれもこれもが、尊い経験に変わりありません。
どれが正解ということはないわけです。

ただ、もしも私たちが、もっとこの世界を面白く感じたい、もっと楽しみたいと思うのならば、大河の流れやお蔭さまの存在へ心を開いていく
のがいいということです。

私たちの視野を遥かに上まわる、天地の視点にまかせれば、より味わい深い一枚絵が姿を現わす
ことでしょう。
そして、その一枚絵に対して100%フルオープンの天地の心を向けることができれば、さらに深い味わいを得ることができるわけです。

ですから、行き着くところは同じになります。

ご先祖様や天地宇宙のお蔭さまに感謝し、「今」に集中する。

それが、この世界を最大限に楽しむための秘訣です。

天地は、素直な子どもには最高の遊び場所をプレゼントしてくれるということです。



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現代の方便

2015-02-17 19:33:55 | 心をラクに
前回、人生は映画のようなものだという話をしました。
どんな作品であれ、登場人物に感情移入してその役に成り切ることが映画を楽しむコツで、
そこに集中すればこそ味わいは深まる、と。
そして映画の数だけ私たちは色々な味を楽しめる、という話でした。

でも、なかなかそのように割り切れないのが現実です。
その理由の一つとして、この世のイメージが歪められてしまっていることが少なからず影響
しているのではないかと思います。
「この世は生きにくいツラい世界なのだ」という共通観念が、どこか薄っすら漂っている
ように感じます。

私たち日本だけでなく、西洋でも、潜在意識の部分にそのような暗さが見え隠れします。

これは何なのでしょうか?

世の中には、想像もできないほどツラい苦しみを味わっている方が大勢います。
昔から、宗教は、そのような理不尽に苦しむ人たちの傍に寄り添ってきました。
ですから、その教えの中には、方便もたくさん含まれています。
それによって、多くの苦しむ人たちの心は、少しずつラクになっていました。

たとえば、疫病や飢饉など理不尽な生活環境に苦しむ民衆に対して、輪廻転生をもって
心の救いとしてきた歴史があります。
その時代は毎日が生き地獄だったでしょうから、とにかく日々を刻むこと、絶望せずに最期まで
生き続けることが、宗教が支援できるギリギリのところだったと思います。
ですから「この世は生きるにツラい世界である」として、まずはそこを全肯定して、人々に
世界を受け入れてもらうところからスタートしました。
その上で、煩悩や囚われについて少しずつ噛み砕いて、心をラクにしていったわけです。

しかし、これはあくまでも方便でした。

生き地獄に暮らす人たちに向かって「この世は素晴らしい世界なんだよ」なんて言えるはずが
ありません。
この世界を呪うこともなく、また日々に不幸の思いを刻むこともなく、最期まで頑張ろうとする
心を全うさせてあげようと思うのが、人というものです。
ですから「誰しもこの世に生まてくることはツラいこと」「その輪廻から抜け出すことが本当の
救いだ」と説明したとしても、やむを得ないことだと思います。

それらは決して現実逃避ではなく、現実世界を、歯を食いしばって生きるためのものであった
ことは明らかです。
そしてそれらは、そのような環境の中でこそ、効力が発揮されたものであったわけです。

そうした時代に比べますと、現代の日本は、これ以上ないほどに恵まれています。
おそらく有史以来、物質的にはもっとも生きやすい環境にあるはずです。
そのような状況ですと、心を軽やかにする方便も変わってきます。
人の心がそれぞれ違うように、オールマイティな方便というのは有りません。

強いて言えば「どんな形であれ生きていればオールOK」がそれにあたるかもしれませんが、
それだけでは何が何だか訳が分かりません。
具体性に欠けます。
ですから、現代版の方便が必要となってくるわけです。

そのためには、まずは古い方便を手放すことが必要となります。
世界がそもそも不幸なものだというような方便を使わなくても、私たちは、この世界を受け
入れることが出来るはずです。
私たちは、悩み苦しみも含めて楽しみにきているのですから、まずは、この世界を薄暗い
ものだとする囚われを無くすことが、スタート地点になるのではないかと思います。

そのためのキーワードはいくつかあります。
たとえば「因果応報」というものも、イメージをあらためたほうがいい言葉の一つです。
この言葉にまとわる暗いイメージは、世界を翳らせることになっています。
マイナスの行ないがマイナスの現実を(時間差で)生んでいるのは事実かもしれませんが、
そもそもマイナスが悪いものだというのは、人間の損得勘定にすぎません。
自分で脚本を色付けして、それを自分で味わっているのですから、それは人生の色どりで
あって、映画として考えれば一種の醍醐味と見ることもできるわけです。
もちろん、それをどのように捉えるかは個々の好みの問題ですから、どれが正解ということは
ないのですが、少なくとも「悪行悪果がいけないことだ」と、最初から決め付けることもない
と思うのです。

悪果に対してショックを受けたり悩んだりするのは、それこそ、そのために自ら絵を描いたわけ
ですから、必要なことだと思いますが、だからといって全てを悪鬼のごとく忌み嫌うことはない
でしょう。
ひとしきり落ち込み苦しんだのなら、あとは「やっちまったよな~」くらいのサッパリ感があっても
いいのではないかと思うのです。
何も、この世界や人生までを灰色に染める必要はないわけです。

あるいはまた「輪廻転生」という言葉にも、同じことが言えます。
よく喩え話に使われますが、動物や虫に生まれ変わることが、まるで格落ちでもするかのような
悪いイメージに取られているのも、リセットする必要があります。
何となく、この世に再び生まれてくることが苦しみであるかのような印象を受けてしまいます。
それは、過去の時代において、今世を誠実に生きるための方便として使ったものです。
肝心なその部分を忘れてはいけないと思います。

私たちの人生が一つの映画であるように、動物だろうと虫であろうと、そこには輝く世界が
広がっています。
むしろ、今を刻み続けているという点では、そっちの方こそ煩悩から解放された生き方だとも
言えるわけです。
結局、動物や虫の世界を見下しているのは、人間の世界や人間の暮らし、今の生活と比較して
の発想でしかないのです。
動物の世界にせよ虫の世界にせよ、私たちがそこにあれば、それは無限の世界です。
それをこけ下ろすというのは、上から目線も甚だしく、そもそも何も分かっていないということに
なってしまいます。

この世に生まれてくるのは、何かの罪を償うためではありませんし、ムチ打って自分を鍛える
ためでもありません。
過去の、生きるには苦しかった時代、日本だけでなく西洋でも、人々はその理不尽を受け入れて
生きるために、色々な方便が必要だったのです。
そして、いまだ漠然と残るそのイメージが、この世を薄暗い世界に思わせてしまっているように
感じます。
時代が変わり、本来は手放すべき方便に、今もどこか囚われてしまっているように思うのです。

そもそも方便というのは、月をさす指でしかありません。
あくまで月こそが向かう先であり、方便そのものに囚われてしまっては元も子もありません。
それは、その時その時の状況に応じて、変わっていくものです。手放していくものです。
このブログの内容にしても、やはり手放していくものです。
言葉というものは囚われやすいものなので、本当に注意が必要です。

そういう意味では、より強い囚われになりやすいのが「学ぶ」「成長する」という言葉です。

「学ぶ」というと、学校生活のあの我慢に耐えながら真面目に苦労を重ねるイメージがあり
ますし、「成長する」というと、自分をランクアップさせるようなイメージがあります。
そうしますと、例えば何かの本で、「この世に生れてきたのは学びのためです」とか「魂の
成長のためです」とか聞かされると、”よし、この人生で魂を磨かないといけない”とか、
”レベルアップさせないといけない”とか、果ては”今世で卒業したい”とか、素っ頓狂な話に
なってしまうわけです。
自ら、この世は苦労の多いシンドい世界なんだというイメージを強めてしまうことになります。
さらに「ツラく苦しいのは学びのために必要だ、成長のためだ」となってしまうと、まさにグルグル
まわり続ける回転梯子です。
”いつまでもゴールに辿り着かないのは世界がぐるぐる回っているからだ”と輪廻転生を誤訳し、
”そこから抜け出すのが救済だ”となってしまうと、それこそ本当の迷いになってしまいます。

そもそも「学ぶ」というのは、自分を追いたてて頑張ったり、耐えたりするものではありません。

「学ぶ」というのは、本質的には「楽しむ」であり、ニュアンス的に一番近いのは、「遊ぶ」という
表現だと思います。
真面目な人ほど、取り違えやすい言葉です。

子どもの頃の夏休みを思い出して下さい。
身も心もすべて開けっぴろげで、山や川に駈け出した経験があると思います。
それはもう、とにかく夢中で楽しんだはずです。
それこそが「学び」なわけです。
そしてそれが「成長」です。
その時、どんなに素晴らしいことを学んだでしょうか。
どれほど成長したことでしょうか。
そこには、何をしなくてはいけないとか、何かを学びとろうとか、自分を磨こうとか、そんな
馬鹿げた発想はありません。
ただ、天地を全身で味わっていただけです。
その時の気持ちに、素直になっていただけです。
だから、世界は輝いていたのです。

世界はグルグルなんて回っていません。
私たちは、この輝く世界に喜んで飛び込んできたのです。

世界が辛気臭い灰色に染まっているのは、自分で足かせをはめてしまっているからです。
子供の頃、川で転んでズブ濡れになったり、段ボール滑りで足をくじいたりしても、
それも含めてすべて笑い飛ばせたはずです。
濡れるのは損だとか、怪我をしたのは悪行悪果だとか、そんなのは本当につまらない話です。

この輝く世界に、私たちはワクワク胸躍らせながら生れてきたのです。
そしてそれは、これから先もずっとそうなのです。
今世も、来世も、関係ありません。
だったら、先のことなどあれこれ考えたりせず、今を信じて楽しみ切ったほうがいいわけです。
思い出せなくてもいいじゃないですか。
信ジル者ハ救ワレル、なのです。

子どもが無邪気にハシャぐ姿は、それを観る者の心を洗ってくれます。
それは大人になっても同じことです。
楽しいことに夢中になっている人は、本当に輝いて見えます。
万事、同じことです。

ただ、人生には、どうやっても楽しいと思えないこともあります。
そういう時、「つまらないと思わず、楽しむ」という方法もありますが、私はあまり
好きではありません。
ちょっとシンドい感じがします。
真面目すぎなところも性に合いません。

ならば、発想を変えて「ひとまず夢中になってみる」というのはどうでしょう。
夢中というのは、集中とも言えます。
すると、嫌だと思っていた気持ちが薄れていくことに気がつきます。
今に集中しきっていると、自分の感情はどこかへ消えていくのです。
それでもし「アレ?ちょっと楽しいかも?」とでもなれば儲けもんです。
そうならなくても、今に集中できているのですから、どっちみちOKということです。

何だかキツネにつままれたような感じがしますか?
でも方便なんて、そんなもんです(笑)

楽しめるところを探そうとする前に、取り敢えずやってみることをオススメします。
楽しいという感覚は、最初にあるものでなく、あとからついてくるものです。

何かに集中して、夢中になっている姿は、まわりの人も心ひかれるものです。
そして自分自身は、なぜか何事にも感謝を持てる素直な心になっていくものです。
そうすると、世界は輝いてきます。
そうこうするうちに、もしも楽しくなれたら、めっけもんというわけです。

これが、現代の方便です。

これまでの過去の方便は、否定したり排除するのではなく、ご先祖さまたちの苦しい心を支えて
くれたことへの感謝の気持ちを乗せて、手放していくのがいいと思います。


そして、このような話ができるのも、なにより私たちが平和な日本に住んでいるからです。
本当に、ありがたく、恵まれたことだと思います。
世界には、テロや紛争、餓えや病気など、不幸に苦しむ国が沢山あります。
そのような人たちに、この現代の方便を押し付けるのは、筋違いな話ということになります。
自分の考えを他人に押し付けるのは、宗教紛争の姿そのものであり、我欲でしかありません。

この現代の方便は、平和で恵まれた日本だからこそ、意味をなすものです。
用途限定だからこその、方便なのです。

それはそういうものだと踏まえた上で、あえて脱線しますが、そうやってもしも私たち日本人が、
みんな無邪気な子どものように輝き始めたらば、それを観る人たちはどう感じるでしょうか。
何なんだろう?なんであんなに楽しそうなんだろう?と、もしかしたら心が動くかもしれません。

それほど、無邪気な夢中というのは、輝きに溢れています。
そして、輝きとはエネルギーそのものです。
それは、観る者の心にまで響くものです。

そんなことを想像してみるだけでも、なんだかワクワクッとした衝動が、胸の奥にポッと
灯りませんか?

ひとしきりジワーっと味わいましたら、そこで、ひと呼吸。
これはあくまで空想の話だったということで、ポーンと天に放りましょう。
それはそれ、そんなこともあるかもなぁ、くらいでちょうどいいのです。
しがみ付いてしまいますと、成るのも成りません。

私たちは、ただ、目の前の「今」に夢中になるだけです。

誰か苦しむ人を思って、気兼ねする必要はありません。
その優しい気持ちは、また違うところで使って下さい。

私たちは、これができる時代、できる場所を目指してやってきたのです。
学ぶこと、すなわち、楽しむことが、この世でやりたかったことなのです。
私たちは、楽しんでいいのです。


さぁ、あれこれ気にせず、もっともっと楽しみましょう。

子どもの頃のように、ハシャギましょう。

同じアホなら、踊らにゃ損です!(笑)


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明日を拓くコツ

2015-02-15 09:49:39 | ひとやすみ
宮崎監督の話が出ましたので、少し脱線したいと思います。

宮崎監督の作品はストーリー性も去ることながら、そのメッセージ性が秀逸ですよね。
なにより、観る人の意識によって、何通りにも楽しめるのが素晴らしいと思います。
ただ、色々なものを調整しなくてはいけないとなると、監督もストーリーや流れなんて無視
したくなることもあるでしょうが、エンターテイメントという一点は捨てられないという気持ち
から、そのあたりは妥協せずに苦労されてるのではないかと思います。

また、何らかの意図を持たせて押し付けになってしまうことを、とても嫌っているように
見えます。
新作発表の時に「どのようなことを伝えたかったのでしょうか?」と聞かれても、大抵は
「それは作品を観て下さい」で終わりだったように記憶しています。
これには、意識的に答えたくないという思いと、本当に答えられないという思いが入り
交ざっているように感じます。

意味を持たせた瞬間、視野が限定的になってしまい、観客はその枠の中で、そのレールに
乗って観てしまいます。

でも、世界というのはもっと自由で、もっと驚きに溢れているものです。
何も知らないから新鮮であり、分からないからビックリするわけです。
行く前から、その先を探るようなことをしては勿体ない。
ましてやエンターテイメントなんですから、心配しないで素っ裸になって楽しめばいい、
ということを、宮崎監督も意識されていたのではないかと思うのです。

観る立場からすれば、メッセージの方向性を知っておいた方が、道を誤ることなく安心して
進めるということなのかもしれませんが、それこそ日ごろの心癖そのもののような気がします。

範囲を想定してその中におさまろうとするのは、「自分の見たいものしか観えず、見たくない
ものは観えない」ことを求めていることになります。
そうして、想定外のことが目の前に現れるとストレスを感じ、世界を何とか自分のフィールド
の内に戻そうと四苦八苦します。
そのジレンマが、悩みや苦しみとなるわけです。
「こうなるとマズい」「こうならないようにしよう」「こうなったほうがいい」というのは、どれも
自分が決めつけた価値判断です。
そうすることで、天地に溢れる、様々な可能性を絞り込んでしまっています。
人間考えの狭い世界に閉じこもってしまうのは、とても勿体ない話です。
自分の知らないところにこそ、驚きやワクワクが転がっているのですから。

ちょうどそれは、ブックセンターに行った状況に喩えられるかもしれません。
いつもコレと決めた本しか買いに行かない人と、せっかくだからと色々なコーナーを歩いて
みる人。
「安心」「安全」「確実」と思っていることなど、その程度の差でしかないということです。
それならば、自分が思いもしなかった発見があったほうが、豊かで楽しい時間を過ごせる
のではないでしょうか。

何も知らない、何も決めつけないからこそ、新たなものに気付ける可能性があります。
だから宮崎監督は、決して自分の意図を伝えようとしなかったのかもしれません。

また、私たちは、作品というものはその作者の考えた枠(意図)の中に全ておさまっている
ものだと思いがちです。
でも「自分の考えはこうだ」「こういう意味なんだ」なんていうのは、子どもの作る粘土細工
でしかありません。
意味や目的で縛ってしまった瞬間、個人の所有物に成り果ててしまいます。
でも、私たちは自分がそのような生き方をしていると、他の人の生き方にもそういうものを
見ようとしてしまうのです。

人生も世界も、意味などに縛られることなく、もっと自由で様々な気づきに溢れています。
何が出るか分からない宝箱の世界へ、まさに虫採りにでも出かけるように、宮崎監督も自らを
縛ることなく、身を投じたのだと思います。

実際、監督の製作スタイルは、脚本が未完成のままの見切り発進で、あとはスタッフの作業と
同時進行で作り上げていく形だと聞きます。
あらかじめ決めつけず、限定的になってしまうことを避けて、天に放っている状態です。
ですから、いったいどういう展開になるのか、監督自身も全く分からないのだそうです。
もちろん、その代償として、いつも頭を絞り出すように考えに考えて、悩み抜いています。
そうした先に、ポッと思いもしなかった展開が生まれてくるわけです。

宮崎監督は、経験上それを知ったのかもしれません。
もしかしたら初めの頃は、脚本を作りこんでからスタートさせていたのが、面白味を追う
過程で、全てぶっ壊して新たに作り上げざるを得なかったのではないかと思うのです。
入れ物を先に作ることで、人間考えの限界を目の当たりにしてしまった、と。
そして商業的な気づかいや、派手なハリボテで満足できるようなタイプだったら、どこかで
妥協したでしょうに、職人気質がそれを許さなかったのではないかと思うのです。

そうして辿り着いた独特の作り方は、まさにツラく苦しい作業そのものでした。
来る日も来る日も、限界までギリギリと頭を絞り続けるわけですから。
最初に自分世界の脚本を作ってしまった方が、どんなに楽なことか。
「いったい何でこんなことを始めてしまったんだろうと、いつも思うんです」
と監督もこぼしています。
それでも、自分の中にしかないものを出すのではなく、自分の枠から抜け出して、何だか
分からないものを掴もうとモガき苦しんだ方が、たとえどんなにシンドくても、面白いものが
出来あがっていったということなんだと思います。

そして監督は、制作期間の後半になると頭のフタが空いてしまって、クランクアップ後には
現実社会に戻るために、山奥でのリハビリが必要になるそうです。

天地にフルオープンになってしまって、現実生活をするには不便な状態になってしまったと
いうことなのでしょうが、それだけ、限界まで頭を絞り出して自我を無くして天に放った
ということなのでしょう。
まさに今に100%集中しきった状態です。
ですから、もしかしたら監督自身が、意図やメッセージから一番遠い位置に居たのかもしれ
ません。
そして、監督もそれを自覚されていた、ないしは意識的にそれをされていたとするならば、
「自分はこう解釈してます」という表現にも奥深いものを感じます。
「みなさんも楽しんで下さい」という言葉も、謙遜ではなくて本心だったのかもしれません。

そして、ここに、明日を拓くヒントが見えてきます。

・あらかじめ決めつけない。一切の限定をしない。
・「何とかなる」と、絶対的な確信を持つ。
・しかし、なるにまかせるのではなく、そこで一所懸命にやる。
・どんな展開になろうと、拒絶せず受け入れる。
・そこで中途半端な意味付けをして止まらず(安住せず)、今に集中する。
・すると、思いもよらなかったものが、ジンワリと姿を現わしてくる。
・「おぉ〜」と驚きと喜びのなか、天地の計らいを全身に感じる。
・そして、それにしがみ付かず、また次の一歩に集中する。

意味なんてのはあとからついて来るものですし、なかには死ぬまで分からないことだって
山ほどあるわけです。
所詮は人の考えることなんですから、分からないことの方が多くてアタリマエということです。

ですから、分からない不安で立ち止まるよりも、分かった時の驚きとアハ体験を信じて、
先ずは前に進むほうが、手っ取り早いのです。

映画と同じく人生でも、ツラく苦しいことは、制作過程に必要欠くべからざるものです。
その先の、想定外の中にこそ、アハ体験が広がっているわけです。
ですから、いまツラかったり苦しかったりしても、そこで立ち止まったり、あるいは、そこに
留まる理由を考えたり、そこから先に進む意味を探したりしなくても大丈夫です。
自分の想定内におさまろうとしてしまうと、余計にシンドくなります。
驚きと喜びというものは、その向こうにしかありません。

アハ体験とは「まさか!」という想定外の驚きによって起きるものだそうです。
当然ながら、それは答えを知らないことが前提ですし、限界まで頭を絞る努力とストレスが
前提になるものです。
そのギャップが喜びを倍増させるというのですから、人間というのはうまい具合にできている
と思わざるをえません(笑)

冒頭にも書きましたが、宮崎作品が何通りにも楽しめるのは、それが意味や目的に縛られて
いないからだと思います。
そこには人生にも通じる、自由な世界が広がっています。
だから、老若男女問わず、これほどまでに日本国民に受け入れられているのでしょう。

世の中に映画は色々ありますが、それを楽しむコツはみんな同じです。
全体を俯瞰する自分と、感情移入して登場人物の気持ちになりきっている自分の、二つの
自分を上手に切り替えることです。
あらすじなんか知らない方が面白いに決まっていますし、先の展開が分からないからこそ
登場人物の今に集中できます。
そうしますと、物語の流れに乗って一喜一憂できて、泣いて笑えます。
そして物語全体をより深く味わえて、幸せな時を刻むことができます。
あっという間の二時間半でしたが、終わった時はスッキリ気分爽快です。

それは、私たちの人生そのものです。
なんだかんだあっても、あっという間の二時間半なのです。

私たちも、肩ひじ張って構えるのはやめて、ジブリ作品を楽しむくらいの気持ちで、心軽やかに
景色を楽しんでみてはどうでしょうか。
それが、この映画を深く、面白く味わうコツかもしれませんよ(笑)



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