これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

真面目もほどほどに 3

2020-01-18 23:46:00 | 心をラクに
人は誰でも、無意識のうちに自分の身を守ろうとします。
生きるための本能としてそれは当然のことです。

それが根源から湧き上がる衝動によるものであれば何の問題もないのですが、損得勘定や価値観と結びついてしまうと、たちまち我執の暴走が始まってしまいます。

タチが悪いのが、そうなったとしても私たちは生き残るための本能だと信じてしまい、歯止めが効かなくなるところです。

理想や信念に真面目気質が注ぎ込まれると、もう誰も止められなくなります。

善と悪。
正しさと間違い。

対極となる相手ができると、我執の垂れ流しが始まります。

褒められたいがための真面目。
安心したいがための真面目。
否定されない・怪我しないための真面目。

「魔が刺す」という言葉がありますが、「真面目」は「魔自滅」にもなります。

そしてこの仕組みをうまく使い、正義の旗を振って大衆を導く手法があります。
本当の手練れともなると、美しく綺麗な音色を奏でるようになります。

冷静な大人は違和感を覚えますが、真面目を信じる子どもたちはコロッと騙されます。

極東に現われる「永遠の未成年者集団」というのを予言した指導者も居ました。

夢見心地に鼻高々に歩みを進め、その先に待ち受けていることが分からない。気がつけない。
いざその時になって泣き喚いても、なお、それが自ら招いたものだと気が付かない。

ハーメルンの笛吹きは今この時も綺麗な音色を奏でています。

正義のメロディーを奏でれば簡単に騙される。
だから、真面目すぎるのは危険なのです。


世界の国々はお互いが「自分こそ正しい」と信じて最後の戦いに向かいます。

様々な国の言い伝えでも、この世の終末は白と黒の闘いだとされます。

正義と悪との最終決戦。
それは天使と悪魔にも喩えられたりします。

しかし、誰もが自分こそが白い存在だと思っています。
本気でそう思っている。
そして、相手こそが悪だと思っている。
お互いがそう思っている。

それが最終決戦、ハルマゲドンの正体です。

白黒はっきりさせない日本は優柔不断だと馬鹿にされてきました。
しかし和合を目指すのはまさしく天地宇宙の姿そのものです。
海外の評価ばかり気にして、海外の価値観を日本に導入しようとする行為は、破壊行為以外の何物でもありません。

世界を救うのは日本であるという言い伝えもまた世界中にナンボでもあります。
その理由は、この世界というのは拮抗と和合が対になっているからでしょう。
自然界を見れば分かるように、拮抗の先にあるのは共倒れか、和合(融合)のどちらかです。

しかしながら、自らの勝利を信じる者にとって共倒れなんて発想は微塵もありません。
そのため日本の存在は目の上のタンコブとなります。
真の平穏は衝突とカタストロフィ無くして訪れないと本気で思っている人たちにとっては、それこそが正義なのです。

もちろん、破壊と創造という視点からすれば、その考えにも正しさはあります。
但し、そこに勝者は居ない、という条件が付きます。

カタストロフィというのは何も残らなくなることです。
野焼きによって草一つなくなった大地から新たな息吹が次々と芽生える。
まさに、もののけ姫のエンディングです。
私たち人類はこれまで何度もそれを繰り返してきました。

当事者である彼らがそこまで達観した志を持っているのかというと、多くはそうではないでしょう。
自分たちは白き存在、正義の存在であると信じて勝利は自分たちの上にあると思っている。
それが双方のモチベーションとなっています。


そんなやる気マンマンの気持ちにザバーッと水をかけて丸く収めようとする日本の存在は、ある意味脅威でしょう。

そのため、そうはさせじと日本を貶めるラッパの音が高らかに鳴り響くのです。
それを知らぬ永遠の子供たちは、笛の音に導かれ、国を貶めたり皇室を絶やすような道を、鼻息荒く進んでいきます。

ただそれとて全否定して排除すべきかというと、そんなことはないのですから世の中というのは本当に面白いものです。

それどころか広い視点で見れば、そうした反日行動が国を護るための一つのピースに成っているとも言えます。

本気で自衛隊を解体させよう、国を骨抜きにしようとする、その暴走モードによって、最終決戦における自衛隊の本格介入が阻まれ、その手前までは行けても、結局どっちつかずの状態のまま生殺しにされる。

各国からは後ろ指を差され、さげづまれながらも、敵対的立場に立たず、一歩引いた場所に身を置くことになります。

この位置に居なければ、最終局面で登場することはできないわけです。

ですから、あるところまでは永遠の子供たちも必要な役目を為していると言えます。
ただ、これまでがそうだったというだけで、あとわずかはそうであるものの、今がギリギリの瀬戸際です。

全否定が無いように、全肯定というのもない。
そろそろ良い加減にとどめなければなりません。

今までがそうだったからといって、それが将来の保証にはなりません。
真面目すぎる日本人は憲法を変えることでもヒステリックになりますが、だからこそ真面目はほどほどに止めないと身を滅ぼすことになります。

ラッパの音がさらに強さを増していく時に、今までのように何も考えず付いていってしまうと、それこそ本当にハーメルンの笛吹きの結末
になってしまいます。

自分のことばかり求めていると、まわりが見えなくなります。

安心を求める人は常にウロウロしてないと落ち着きません。
ドッシリとどまってまわりをゆったりと見ることなどできないのです。
そのため、前に進むための原動力として、信じられるものを求め続けます。
信じるものが無ければ前には進めないと思い込んでいるのです。

そして正義や大義はそういったものに使われやすい。

終戦の時も、ヒステリックに極端な右に突っ走っていた人ほど、情勢が変わるとともに極端な左に突っ走ることになったのはそのためです。

いま極端な左に暴走している人はこの点要注意です。
我が身に危機が訪れた瞬間、豹変する恐れがあります。

そのことをよく分かった上で、その奏でる音色を聞く必要があるということです。

信念というものは凄い原動力と成ります。
宗教にもそれは現れています。
政治的思想に燃える人たちが宗教信者と似てくるのは、モチベーションの仕組みが同じだからだと言えます。



新約聖書のマルコ伝には、終末が近づくと偽メシアが数多く出現すると書かれています。

これを単なる宗教指導者の類いと思っているとすっかり騙されることになります。

宗教家でもない、ごく普通の人が発する耳触りの良い言葉に、スッカリ心奪われ、この鬱屈した世界を変えてくれるのではないかと期待を寄せる。

政界でも、言論界でも、TVの世界でも、環境の世界でも、精神世界でも、本当にありとあらゆるところにハーメルンは現れます。

綺麗事だけを言っていれば誤魔化せる時代は終わりました。
すでに政治の世界でもそういった手法はボロが出るようになっています。

肩の力を抜いて、頭の力を抜いて、心の力を抜いて、気持ちを楽にすれば、景色がよく見え、耳の聞こえも良くなります。

この世というのは玉石混淆です。
見た目を追うとどれが本物か分からなくなります。

一流芸能人の格付けチェックという人気番組が有りますが、あれよりもこの世のほうが遥かに難易度は高いのです。
あの番組では知識や経験がモノを言いますが、この世では逆にそうしたものを捨てるところに目利きの道が開けます。

本物というのは上っ面を加工するものではなく内側から滲み出るものです。
ですからいくら知識や経験を頼りに外側からアプローチをかけても、中身の判別はかえって難しくなります。

もともと私たちは誰もが天地宇宙そのものです。
根っこはみんな同じです。
芯の部分に身を置けば等しく天地宇宙。
優劣なんてものは存在しません。
上っ面の音色など、どこ吹く風です。

自分は天地宇宙そのものだから大丈夫。
それを信じきれるか、それを事実として受け入れられるか、そこに尽きます。

自分の芯の部分に立ち返れば、まわりのものも、その芯の部分を感じ取れます。

誰にとっても正しさというものはあります。
それを全て捨てろというのは無理な話でしょう。
それでも、決してこれが絶対のものではない、と思うことならできるはずです。

同じ会社の中でも、職場が変われば正しさは全く変わります。
ましてや会社が変われば尚更です。

同じ日本でも土地が変われば正しさは変わるわけですから、国が変われば尚更でしょう。

家庭によって正しさは異なりますし、個々人においてもそうです。

違う家庭(過程)で育った人間同士が同じ場所で暮らすようになれば、それぞれの正しさがぶつかり合うことになります。

家庭では、掃除はこうやるもんだ、片付けはこうだ、と。
職場では、仕事はこうやるもんだ、段取りはこうだ、と。

そんな時「何を言ってんだ、こうやればいいじゃないか」と思うのは、それはこちらの正しさだということです。

相手は相手の信じる正しさに依っているのです。

理解する、受け入れる、許容する。

誰もが自分の正しさこそ、一番正しいと思って生きています。
自分の正しさが何の根拠もないものだと知れば、私たちは相手だけでなく自分自身も許せるようになります。

ただ、最後の最後まで油断は禁物です。
ここでまた「正しさなど持たないのが正しいのだ」となると、またまた囚われの世界に片足踏み入れることになってしまいます。

真面目は終わり!
何でもエエわい、くらいの気持ちでちょうどいい。

少しは自分としての正しさを持ちたいというのがあれば、そこは大目に見る気持ちこそ大切です。

自分も含め、人それぞれに依るところが無いと不安になるのです。
それは標識なのだと割り切って、大切にしてもいいところです。

日本では昔から、どこか憎めない悪党というのが好かれてきました。
ジブリ映画にしてもガンダムにしても、相手を悪者にして終わりにはしませんでした。
敵も味方もそれぞれの信念があり、正義があり、そこに向かって必死に生きる姿がありました。

戦国時代にしても、関ヶ原にしても、幕末にしても、お互いの正義がありましたし、何よりそうしたことを日本国民が当たり前に受け入れています。

そして太平洋戦争の敗戦があればこそ、双方の義がぶつかる哀しさと虚しさは私たちの細胞の奥にまで染み込んでいるのではないかと思います。

欧米も中国も、海外の多くの国々は、その時その時の敵対相手を悪役にすることで現政権を正当化してきました。
だからこそ映画にしても物語にしても、あるいは遥か昔の神話にしても宗教にしても、善と悪との対立を背景とした勧善懲悪ものが主流となっています。

しかし、旧約聖書の創世記やエノク書には、もともと悪魔も天使も同じ存在だったと書かれています。
人間を愛したことで天使が悪魔になった。
つまり、二つの存在の差はわずかにそれだけのものでしかないということなのです。

一切の妥協を許さない完全なる真面目存在が天使で、ある意味自分に正直な存在が悪魔だったわけです。

悪魔というのは、いま描かれるような極悪非道な存在なんかでは無かったのです。
そんなものは、たとえば地獄で人を切り刻む鬼などと同じく、私たちの妄想でしかなかったということです。

「ハルマゲドン」「天使と悪魔の最終決戦」などと言うとやたらおどろおどろしいものをイメージしてしまいますが、何のことはない、
単に正義を追求する真面目人間が、自分の意に沿わない相手を悪魔呼ばわりして、差別して排除しようとするものでしかなかったわけです。

真面目が過ぎると、自分は天使になって相手が悪魔になってしまう。
これは私たちにもあてはまることです。

こうなると本当にもう、この言葉しかありません。

「真面目もほどほどに」

もっとチャランポランでいいんです。
もっと自分に素直でいいんです。

なぜ日本神話があれほど自由奔放なのか。
八百万の神々たちがすでに示されているではないですか。
寛容性とはそういうことです。

そして、私たちの御先祖様たちはすでに何千年も前からそのことを理解していたわけです。



(おわり)


  


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