これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

将来の心配はまったく要りません

2019-10-12 21:25:14 | 天地の仕組み
お金は概念ですから、そこには様々な思念が転写されます。

誰もがみんな、お金は大切なものだと確信しているため、安心して気を許しています。
そうして謙虚さや頑張りが消えて、素の自分がそこに写し出されていくわけです。

お金とは何か?と問われたら、その答えは人の数だけ存在するかもしれません。

お金には個々の想念が隠し立てなく素っ裸に転写されます。

たとえば、鏡に映る自分の姿を見るとハッと我に返って身なりを正そうとします。
しかし鏡の存在に気がつかなければ、格好つけようという気持ちも起こりません。
そこに居るのは、素の私たちです。

お金というのは私たちを映す「見えない」鏡になっているということです。

お金に対して抱く思いやイメージは千差万別ですが、それはお金そのものが有するものではなく、私たち一人一人の価値観や観念、信念が反射されたものなのでした。



今この社会では、お金は生活に直結しています。
そのため、お金は私たちの生存を左右するものと信じ込まれてます。

自分の命を守ろうとするのは最も強い生存本能です。
そのため謙虚な人でも、お金のことになると人が変わったように怒ったり動揺してしまいます。

例えるならそれは、濁流の中で掴んで離せない命綱のようなものと言えるでしょう。
命綱を失いそうになると恐怖に襲われ、奪われないように威嚇するといった感じです。

お金というのは、もとより何の実体も無い存在です。

ただ、私たちがハッキリくっきり想念を向ける的(まと)になったことで、その向こうに新たな概念体が形成されていきました。

神社の御神体というのはそれ自体は無機質なものに過ぎませんが、天地のエネルギーの依り代になることで神気をまとうことになります。
仏像もまた多くの人が手を合わせて思いを向けることで、エネルギーが蓄積して重厚な存在感を醸し出すようになります。

同じようにお金も人々の様々な思いを向けられることで、黒紫色のエネルギー体が渦巻くようになったのでした。

ポジティブなエネルギーだろうとネガティブなエネルギーだろうと、蓄積される仕組みは変わらないということです。

一人一人が散漫な状態で、しかもそれぞれの方向がズレていると、思念は分散していきます。
しかしそこにターゲットがあると、私たちは心をしっかり集中させられます。
一人一人の心がしっかりクッキリ集中すると、物凄いエネルギー集約が起こります。
(ガンダムのソーラレイのようにです。笑)

祈りもしかり、感謝もしかりです。

そうして神仏像といった偶像、あるいは御神体、山や岩といったものが、私たちの思いをフォーカスさせるための照準計(ターゲット)の役割を成したのでした。

そしてお金もまた、図らずもその役を成すことになったということです。

これは物質的な現金ではない、口座やカードといった電子決済であっても同じ話です。
見た目が違うだけで、仕組みの上ではどれも同じ機能を果たします。

いずれも私たちの思いをフォーカスさせる的(まと)となり、そこへ照射された思いはその先へ向かって集約されていきます。
そうして、その先では物凄い勢いのエネルギー充電が行われるのでした。





この世というのはシンクロ(共振)の世界であるため、同じ波動同士が共鳴し合います。

お金にしても、そこへどのような心を向けるかによって、お金の向こうに渦巻くあらゆる想念の中の、同じ波動に繋がることになります。
まさに虫メガネのフォーカスによってビタッとそこに繋がるわけです。

ですから、感謝の心を向ければ感謝に満ちた世界に繋がりますし、欲得と我執の心を向ければたちまち修羅の世界に叩き込まれます。
変幻自在な神仏と同じく、お金は、私たちの心一つで全く違う顔を見せるということです。

とはいえ修羅の顔というのは、ただ罰を与えるためのものではありません。
お不動様の正体がお釈迦様であるように、お金が阿修羅の顔となって襲ってくる時、それは私たちを目覚めさせるための仮の姿であるわけです。

そしてその正体とは、まさしく私たち自身に他なりません。


自分の懐へやってきたお金ですらそうなのですが、それが人様のお金に手をつけた時には、これは本当に大変なことになります。

自分の思いに応じてシンクロするわけですから、その闇が深ければ深いほど、濃縮された次元へ我が身を投じることになります。

これらは無意識の世界の話ですので、本人が自覚している自覚していないに関わらず、物理法則として厳格に働きます。

発動のポイントとなるのは、そこに欲望や我執があるかどうかです。

死後の地獄というのもまた、このシンクロの原理が働いた結果です。
そして、この世にも地獄は存在します。

お金は他愛のない当たり前の存在ですが、とても畏れ多いものです。

私たちは、神社に置いてある鏡に、日々接しているようなものだと言えます。





そもそもこの世の存在・事象は、全てが鏡の役割を為しています。

日々に起きること。日々に接する人々。
そこに向けた私たちの心は、波紋となって広がり、私たち自身へ返ってきます。

私たちは何かが起こると、それに応じて何かの思いを発します。
私たちは誰かに接すると、それに応じて何かの思いを発します。

その思いはその対象に向かったように見えますが、実際はその対象の向こうへと照射されていきます。

それが明日の私たち自身の世界となります。

私たちが発する思いが明日を作っています。

これが「自分が発するものが自分に返ってくる」法則の原理です。

そして、私たちの発する思いの中でもとりわけストレートに出されるのが、お金を通して発せられるものと言えます。

日々の暮らしの中で発せられる思いというのは、そうは言っても様々な自制心(かっこつけ)が働きます。
いわば、よそ行き姿の自分であるわけです。

しかしお金だけは私たちのリミッターが解除され、本当の姿が赤裸々に投影されることになるのでした。





お金に感謝すると、今の目の前に感謝することになります。
将来の安全ではなく、今この時に感謝することになります。


お金の向こう側にある「今この時」への感謝。
それは生かされている恩恵に対する感謝に他なりません。

するとそれは「生かされること」となって返ってきます。
つまり、将来も生かされることとなって返ってきます。


生かされることに心のエネルギーが注がれていきますので、「生かされる私たち」を私たち自身が作っているとも言えます。

これはお金にかぎらず、日々の生活の全てに言えることです。
今日起きた出来事も、今日出会った人々も、そこに感謝を向けると、日々生かされることへの感謝となります。

様々な出来事や人々が媒介となって、その向こうに照らされていく。
虫メガネのフォーカスが、寸分違わず「生かされること」へ向くということです。

すべては同じ仕組みの上で成り立っているわけです。

お金という形に囚われると、お金に振り回されることになります。
でもお金によって生かされていることを思うと、お金という偶像は消え去り、その向こうの世界へ心がフォーカスされていきます。

お金に感謝を向けると、生かされるという状況が返ってくるのです。

それは金銭という形かもしれませんし、そうでないかもしれません。
ただ金銭だろうとそうでなかろうと、「生かされる」という一番根っこの部分がダイレクトに現実化されるのですから、何の心配もないわけです。

「え、お金で返ってくるんじゃないの?お金じゃないなら何かイマイチ」なんて一瞬でも思ったならば、いやいや、そもそもお金は何のためのものなんですか?という話です。

お金は、私たちの生活を保証してくれるためのものでした。そう私たちが決めたわけです。

だったら、お金なんてあやふやなものを介さず、生かされている状況が即・保証されているということ以上に、安心なことがあるでしょうか。

「ギリギリでなく華やかに生きたい」「楽しく過ごしたい」「お金だったらそれが出来る」
と考えるのは、本当に籠の中の鳥そのものです。

そもそも「生かされること」というのは、なにも生命をギリギリ維持できるという意味に限定されていません。
バラ色のハッピー人生も、波乱万丈の嵐の人生も、すべてがそこに含まれます。

なにせ私たちはそうした色々な体験を味わうために生まれてきているのです。
それが保証されているとなれば、これ以上の安泰は無いでしょう。

しかも、
「生かされること」は得たり失ったりするものではありません。

株が暴落したり金融が破綻するとお金は減ったり消えたりしますが、そんな時でも「生かされること」は減ったり消えたりはしないわけです。

お金に関係なく、私たちは今も将来も「生かされている」のです。





私たちが新しいことにチャレンジできない一番の理由は「不安」にあります。

なかでも、将来の生活に対する不安はその最たるものだと言えます。

そうして目の前の仕事、とどのつまりは目の前のお金に、自ら縛られてしまっています。
目の前の今に縛られているということは、今、今、今に縛られ続けることを意味します。

将来の自分を決めているのは今の自分です。
明日になったら変えようと思っても手遅れです。
今この瞬間が明日を決めています。
今を変えない限り、「今」に追いつかない状態が継続し続けるということです。

お金の不安に怯えると、私たちは新たなチャレンジが出来なくなります。
不安に縛りつけられた私たちとは、まさに「籠の鳥」のことを指します。

そしてタチの悪いことに、そうなった時、本当に不思議なことが起こります。

まわりを囲む鉄格子が外敵から私たちを守ってくれるものに感じられ、安全な場所に思えてくるのです。

それは奇妙なほど何故か、確信となります。

そして「生かして頂く」という天の恩恵が籠の中でも等しく働いているだけなのに「籠の中だからこそ日々のエサ箱が保証されている」と思ってしまいます。

その結果、自由な空へ羽ばたくことより、檻の中の生活を失うことの方が恐ろしいと思うようになるのでした。

これは自らを家畜化する行為に他なりません。

国家やら資本主義やら闇の存在がそうさせているのではありません。
すべて私たちが自ら選んでいることです。

私たちは、今の自分が生きているという事実だけで、今の生き方が正しいと信じ込んでしまいます。
それはまさに、溺れる者がしがみ付く藁(わら)のようなものです。

籠の外に何があるかは見ないようにして目をつぶる。
それを未だ目覚めぬ人類とグルジェフは言いました。

大空や森へと飛び立つのは自然な行動です。
自然な思い、自然な衝動です。

生まれながらに腱を切られた鳥は羽ばたくことが出来ません。
その姿を見るとなんて可哀想だと思います。
しかし私たちはそれを、自分でやっているのです。

籠から飛び立つことを諦めるために、命の不安を自らの心に囁き続ける。
その自作自演を気がつかされてもなお、その不安というのは社会や他者によって植え付けられたものだと被害者ヅラをして、事実から目を逸らし、「だから
仕方ない」と今の自分を正当化して、思考停止に引き篭もってしまう。

自縄自縛の囚われから抜け出すのは、自分以外の誰かの力では不可能です。

自分がやりたくてやっていることは、自分でないとやめられません。

被害者も何も、自らそれを選んでやっているというのが事実です。
それを忘れてしまうと、もはや「やめる」ということすら出来なくなります。

「誰かによって不幸に陥る可哀想な自分」「もうそれは仕方ないんだ」と考えて、やめない自分を選択することになります。

理屈として当然のことですが、まわりがとやかく言ったところで本人にやめる気がなければ、それは勝負の決まった綱引きでしかありません。

もしも力づくでやめさせられたとしても、見た目はやめたことになっても、その内側のくすぶりが凄いことになります。
私たちのやりたい心は水面下で沸々と沸騰しているのに、それをやらないというのは「やらない自分という形に自分を縛りつける」ことに他なりません。
そこにはまた新たな自縄自縛が生じるということです。

縛っているのは他の誰かではなく、私たち自身です。

私たち自身のコントロールは完全に私たちが支配しているのです。

たとえ神様が正しい方向へ綱引きを起こしても、絶対に私たちが負けることはありません。

私たちの本心は他の誰にも変えさせることは出来ない。
私たちに関する決定権は、完全にすべて私たちに託されているのです。


高次の存在が直接関与してこない理由はすべてそこにあります。

出来ることと言えば、本人がこれまでと違う選択を自ら行うように、気づかれない程度にコツンと砂つぶてを投げることくらいです。
そういう意味では、天災や人災、財政破綻というのもその一つになり得ます。

(といって、だからそれが起きたのだと決めつけるのは早計です。この世の事象はその原因も理由も一つではなく幾つも複合しています。)

従って、もし私たちが籠の外に居たとしても、他人の籠を開けようとしてはなりません。
それは決して優しさではないわけです。

外野が出来ることは、それを示唆することだけです。
籠の外へ出るも出ないも、すべて本人の判断、本人の行動です。

表面上では自ら納得して外に出たように見えても、それが何か別の要因(たとえば執着を手放したい、良く見られたい、怒られたくない、カッコつけたい、等)
によって為された行為であった場合、芯の部分では不安が解消されていませんので、雨や風が吹いただけでたちまち籠の中に戻って鍵を締めることになります。

ましてや外部の人間に半ば強引にそれを焚きつけられた場合は、過度な揺り返しが起き、以前に増して頑なに引きこもり、籠の中から相手を罵倒するようになります。

いったい、これのどこに救いがあるでしょうか。

本人でも気がつかないような最深部の世界のこと。
他人がそこまでズカズカ立ち入るのは大変危険です。

多くの人はお金というものが生存に関わるものと考えています。
そのため自分の命にとても近いところに置いています。
ですから、そこにゴッソリと手を突っ込まれると本能的生理的に拒絶反応を起こします。
土足でズカズカ踏み込まれたように感じてしまいます。

自分のお金にはこだわらない。縛られない。
他人のお金には手出し無用。触れてはならない。


それを破ったが最期、修羅の世界に一直線です。

他人と深層を共有することなど有り得ない話です。
お金の話をしても絶対に分かり合えることはありません。
生き様の話をしたところで、芯から分かり合うことなど出来ないのです。

そもそも私たちは、それぞれ別の世界を生きています。

同じ世界に生きているというのは錯覚です。
そのほうが都合がいいので「そういうことにしておこう」とお互い了解しているだけです。

だからこそ、たとえ家族であろうとも、私たちはお互いのお金に触れてはいけません。

自らの意志でお金を渡したのならば大丈夫のように思えますが、もしそこに何らかの感情(恩を着せる、良い子ぶりっこ、打算、恐怖心)が少しでも混じって
いたら、それが想念切符となって、お互い、黒紫の渦へ一直線となります。

これは非情でも何もなく、虫メガネのフォーカスの原理が厳格に働くというだけの話です。
完全に物理法則の世界です。

お互いが本当に真っさらな状態で、もはや自分のものでは無いというほどに完全にお金の存在を忘れて、やりとりするならばその原理は働かないでしょう。
それならば、家族だろうと他人だろうと問題はありません。

しかしどちらか一方でも欲得や我執を無意識にでも持っているうちは、金品の受け渡しは大変危険な行為です。
悪い人と思われたくない、責められたくない、というのはすべて我が身かわいさの保身でしかありません。
本当に相手のことを思うなら、責められようが何されようが、毅然とした態度でキッパリ断ることです。

欲得や我執は、虫メガネのフォーカスによって、漆黒の闇へと私たちを突き落とすものとなります。

たとえそれが鳥かごから外へ出すための方便であろうとも、人様のお金には触ってはいけません。
それは本人が、自分の足でやることです。

神様や高次の存在はもちろん、直系のご先祖様でさえ、手をさしのべたくともグッとこらえ、温かく見守っています。

何故かといえば、私たちは自分で自分の未来を創る存在であるからです。


私たちは、私たちの明日を自ら作り出し、それを味わっています。
すべての存在にとって、今ここに存在している理由はそこにつきます。

私たちは一人残らず本当に尊い存在です。
他人がそこへ手をつっこむのは、その尊厳を踏みにじることに他なりません。

まわりに危うい人が居たとしても、心配しなくて大丈夫です。
そのまま朽ち果てることなど絶対ありません。

私たちは一人残らず、生かされています。

ですから、自滅が過ぎると阿修羅の怒りに触れたような修羅場が訪れます。
その阿修羅の正体は仏様であり、私たち自身です。

それは、これ以上このまま行ったら本当に危ないという土壇場での本当の優しさであるわけです。

囚われの籠から、黒く渦巻く闇へと想念を流し続けることは自滅に突き進む道かもしれません。
ただ、まわりが止めても突き進みたい自分がいるかぎり突き進むことになります。
それでも心配無用なのは、その最後の最後では、天は阿修羅となって「自ら救うものを救う」からです。

この世に存在しているということは、私たちが私たちを生かしているということです。

私たちは、決して私たちを見放すことなどありません。

囚われの籠の中に引き篭もって漆黒の想念をムチャクチャに垂れ流し続けても、それでも、救ってもらえるのです。

ましてや、鳥籠から外の世界へ飛び立って、どうして生かしてもらえないことがあるでしょうか。

右へ行こうが左に行こうが、すでに、私たちの将来は完全に保証されています。

私たちは、私たちによって生かされているのです。




(おわり)



  

   




みんな単なる約束事

2019-10-07 12:43:56 | 天地の仕組み
私たちは、お金の概念が定着した世界に生まれてきました。
まわりがそれを当たり前としている中に育てば、同じ感覚に染まるのが普通です。

その固定観念を無くすためには、ひとつひとつ丁寧に見ていく必要があります。

まずは身近な紙幣や貨幣について振り返りまして、それから概念の方へと進んでいきたいと思います。



紙幣や貨幣そのものが単なる紙切れや金属に過ぎないというのは、冷静になれば誰でもすぐに思い出せることです。
ただ普段、私たちはそのことを完全に忘れてしまっています。

初めて訪れる外国では、その国の紙幣やコインを見てもいまいちピンと来ず、まるでママゴトのオモチャのように感じたりします。
そのお金で初めて買い物する時も何となくドキドキするものです。

何故かといえば、自分にとっては実感の伴わない紙幣であり貨幣だからです。
それゆえ実際それで買い物が出来た時には、おぉ、と小さな感動を覚えたりします。

あれが本来の感覚であるわけです。

日本のお金だって、刷新されたときにはとても新鮮な感じがして、初めて使う時は少しドキドキしたりしました。

紙幣も貨幣も、本当に約束事に過ぎません。
単なる紙、単なる金属でしかないことが丸裸にされると、ホンマこれ大丈夫かいな?とドキドキが起こるわけです。

それが海外旅行でも体験したように、回数を重ねるうちに安心し、そのうち何も感じなくなります。
いま目の前にある使い慣れたお金も、今では何の抵抗もありませんが、もともとはそうだったのです。

宝石や金の延べ棒にしてもそれは同じことです。
ただの石。ただの金属。
紙幣や貨幣よりも抵抗を感じるとすれば、無意識への刷り込みがそれだけ強いということです。

金の延べ棒やダイヤモンドを見るとまるでそれ自体に価値があるように思ってしまいますが、それも、そういうことにしているだけです。

紙幣やコインは国の信用によって価値が保証されているのに対し、金の延べ棒やダイヤモンドは希少性によって保証されているという、それだけの違いに過ぎません。
どちらも単なる決め事であることに変わりないのです。

純金であろうとダイヤモンドであろうと、それそのものが価値を有しているわけでなく「価値という概念」を私たちが外付けしたものでしかありません。

紙幣や硬貨や純金や宝石を見ると、脳を通さず脊髄反射的に「価値あるもの」と反応してしまうそのパターンから離れて、静観することが、お金の向こうに広がる巨大な
概念体から足を抜くための第一歩となります。



では次に、その「価値」というのは何なのかという話です。

結論を先に言えば、これもまた実体のない単なる決め事に過ぎません。

価値という概念のベースには、私たちの実行動や実労働、私たちが費やした時間というものがあります。
我々の実感がそこに伴っていればこそ、定義として万人に共有されていると言えます。

たとえば私たちが何かを作ったとします。
家庭菜園でも生活用品でも何でもいいです。
それをそのまま自分で食べたり使ったとしましょう。

無人島の自給自足生活や、何万年前の原始生活も同じです。
すべての行動は自分が生きるためにやっているものです。

この時点では「価値」という概念は存在していません。
どんな努力だろうとすべては単に生きるための行為です。

それが、誰かと物々交換する場面になった時に、初めて価値という概念が発生しました。

自分や家族だけの小さい世界なら、日々の行為はすべて自分たちが生きることに直結していますので、そこに価値という概念は起こりません。
しかし、それを他の人たちと共有する場面になると共通の指標が必要となりました。

自分の作ったものを他の何かと交換するとなると、それに費やした時間(労働量)と同等のものでないと割に合わない。
交換する対象は自分のかけた時間と同等か、それ以上のものでないと交換する意味がない。

これは理屈としてはごく当然の話です。

なぜならば、一日かけてやったことは一日の食料に相当しないと私たちは生き抜いていくことは出来ないからです。
もしも一日働いて半日分の食料しか得られなかったら、一年もしないうちに先細りになって力尽きてしまいます。

こうして自分のかけた時間(あるいは労働量)というのは、最低でも同等の食料エネルギーに相当しないと割に合わないという指標が生まれたのでした。

価値の正体は、自分が生きるために費やした時間や実働ということになります。

とはいえ、食料そのものが価値の中心にあるうちは、想念の垂れ流しは最小限におさまっていました。
それはこの場合の目的が、ただ生きることにあったからです。
関係性がシンプルなうちは、湧き上がる思いも限定的となります。

しかし「お金」というものを介在することによって関係性は複雑化していきました。
単に生きることだけでなく、より快適に過ごす、より楽しく過ごす、といった目的に枝分かれしていき、様々な想念が湧き上がることになったのでした。

価値というのはもともと明日の衣食住を保証するだけのものだったのが、衣食住プラスアルファへ変わっていきました。
物々交換では「A-B」いう関係性だったものが、お金が媒体となることで「A-お金-♾」という関係性になった。
つまりそれだけ多様な想念が流れる構造となったわけです。

私たちはお金という一つのものしか見ていないようでも、実際はその向こうにいくつもの違うものを見ています。
しかし誰もそれに気がつかず過ごしています。

それが想念を垂れ流す一因になっています。
まずはこの事実を自覚する必要があります。

数多くへ分流していくことによって、私たちの想念流しは活性化していきました。

それとともに自覚しなくてはならないのは、その垂れ流しの勢いについてです。
私たちはこれまた無自覚であるがゆえに、それを自制することなく、むしろ加速させています。

流れる川筋が増えた上に、ワンコ蕎麦のような勢いで次から次へと想念を投下しているのでした。





お金を持っているとそれに相当する生活が保証されます。
お金の所有量というのが、将来の自分の時間、自分の寿命、自分の命と同じ意味合いを持つことになりました。

たとえば10億円あれば将来安泰だと思いますが、一文無しだと将来生きられないと思う。

お金と自分の命がオーバーラップするようになったわけです。

そうなると、お金を失う不安は、命を失う不安となります。
お金を得る安心は、命を保てる安心となります。

お金を失う場合、単にお金そのものを失うということだけでおさまらず、その先にぶら下がった様々なものを失う感覚に置き換わります。

たとえば
「自分(家族)の費やした時間」
「費やした労働」
「自分の苦労」
「自分の将来の保証」
「自分の命」
といったものです。

こうしたものが失われると思うと、瞬間的に、怒りや不安、そして恐怖が湧き上がることになります。

もしこの時の自分を丁寧に観察できれば、複数の観念がゴッチャになって押し寄せていることに気がつくことができます。
そして、それらはどれも自分がお金に向けた想念の反射であることを知ります。

しかし意識がお金そのものに向いてしまっていると、自分でも何に怒ったり怯えているのかよく分からなくなります。
一方そうした感情は止めどなく湧き上がってきますので、それをせき止めるシンドさから逃げたい自分に、OKを出せるような正論に飛びつこうとします。

具体的には
「お金がないと生きられない」
「お金は苦労の対価」
「日々を削って得たもの」
「誰にとっても大事なもの」
というものです。

こうした一般論は自分以外の人に確実に賛同を得られるものです。
そのため、安心してそうしたものに飛びついて、湧き出る感情の波に流されることを正当化するようになるわけです。

怒るのは当たり前、不安になるのは当たり前、相手が悪い、状況が悪い、というようにして思考停止状態になります。
本当はその時こそが、その怒りや不安の理由を深掘りできるチャンスなのにそれを放棄してしまいます。

そして一度その状態になってしまうと、その嵐をおさまらせるのは非常に困難なものとなります。

月並みな正論や理屈が怒りや不安の原因ではなく、それまでお金に対して無制限に注ぎ続けてきた個々人の想念こそが嵐の原因です。
なのにそちらには目を向けず、明後日の方向にある正論や理屈にエネルギーを注いでしまうのでは、不安の嵐がおさまるはずがありません。

お金の向こうに散らかしたゴチャ混ぜの混沌。
そこでのたうち回っている自分を救い出さないかぎり、たとえ正論や理屈でもって見た目が解決できたとしても、怒りや不安が消えることはないのです。



価値や労働なんてものは、もとより存在しません。

自給自足の生活では、全ての行動は自分たちが生きるためのものなので、労働という観念はありませんでした。
そして本来それは、貨幣経済下の集団生活にあっても同じことであります。

自給自足では実行したことがそのまま漏らさず自分に返ってくるから余計なことを考えないだけの話。
貨幣経済にあっても遠回りで返ってきているだけで、自給自足と何ら変わらないのです。

価値というものにしても、自分が費やした時間や実働を指したものでしたが、それがそのままイコール、将来の生活を保証するものになるというのは少々強引な設定と
言わざるを得ません。

確かに過去に稼いだお金によって今の衣食住をまかなえているように私たちは信じ込んでいますが、それこそが思い込みでしかありません。

物々交換の時代も、過去に収穫した穀物はせいぜい2〜3年しかもちません。
それから先の保証などありませんでした。
そこに永遠に通用するというお金が取って変わったために、私たちは完全に騙されることになりました。 

今現在のこの瞬間が過去の何かによって置き換えられたものではないように、将来もまた今ここの何かによって置き換えられるものではありません。

私たちは常に、今、生きています。
将来のために生きていることはありません。

たまたまお金という仕組みを作り上げた時に、約束事として過去のものが将来も通用するようにお互い決めただけなのです。
物々交換と同じ、即時性、即物性が今この瞬間も本当の姿として成立しています。
ですが、その感覚が消されてしまっています。

お金の約束事に意識が支配されてしまい、お金の価値が永遠ならば過去の努力も永遠だと思い込んでいる。

過去に費やした時間や労力はそこでもう完結しています。

将来を保証する価値というものは架空のものです。
ですから、価値を得たり失ったりすることに振り回される必要など無いということです。
お金に喜んだり怯えたりする必要など無いのです。



ただここで混乱しやすいのが、一方では、この世というのは私たちの思いによって「時間差で」作られるという原理原則が存在しているところです。
(これがあるため、お金の時間差も正しいと思い込んでしまうところがあります)

お金について言えば、先々を保証するものなどではなく即時的な物々交換と何も変わらないものです。そこに時間差など存在しません。

しかしこの世の成り立ちには時間差が存在します。

この場合、主体となるのは、費やした時間や苦労ではなく、思いであり行動です。

(ここでいう行動と労力とは違うものです。行動というのは無色透明な客観的事実のことを指します。苦労や実働、労力というのはそこに期待や欲得、感情といった想念が刷り込まれたものです。)

ここが大事なところです。
混乱しないようにもう一度言います。

過去に費やした時間や苦労はその場で完結しています。
ですから時間差によって将来に保証されるものではありません。

そういう意味で、価値というものは存在しないと言いました。

但し、過去の思いや行動は、そこで完結せず時間差で未来に影響を及ぼしています。

何かを行っている時の思いは、そのまま先々を作る材料になっています。


この場合の「思い」とは、現実に触れて発したネガティブ思念やポジティブ思念のことです。
狭義の意味では欲得や執念もそこに含まれます。

「外に向けたものが自分に返ってくる」「思いが創造する」とはそういうことです。

ですから実をいえば、もし今お金が無くなったからといって必ずしも「過去の苦労を台無しにされた」「将来の保証を奪われた」ということにはならないわけです。

過去の行動はすでに未来を作る材料となっており、お金があろうが無かろうが、未来はすでに作り上げられています。

お金が未来を保証しているのではなく、思いや行動が未来を保証しているのです。

従って目を向けるべきは、お金ではなく「何をしたか」あるいは「何をするか」なのです。

行動というのは無色透明なものです。
そこに「こんなに苦労した」「時間を犠牲にした」という思いを込めて、それをお金に投影させてしまうからおかしなことになります。

行動は未来を作る材料になりますが、そこに貼り付けた期待は未来に保証されるものではありません。

そこをしっかりと切り分けて理解する必要があります。

私たちが自分勝手に期待している様々な想念には、対価などは存在しません。
したがって将来においてその対価が保証されることなど無いのです。

そんなものにしがみ付いていたら本当の自縄自縛です。

労力や時間をお金に投影させてしまうと、私たちは自ら籠の鳥になってしまうということです。





(つづく)


※補足

厳密に言えば、本当はこの世の成り立ちもまた即時的なものです。
ただ、それではネタバレして一本道になってしまう(私たちがそうしてしまう)ので、自由度を無限に広げるために「時間が存在していることにしよう」という
約束を共有して、時間差という幻想を作り出しています。
思ったことや行なったことが即座に現実に反映してしまったら、私たちの言動は、安心安全の打算に縛られてしまうでしょう。
この世は少しでも多くの可能性を味わうためのものなので時間差が有効なのです。