お金は概念ですから、そこには様々な思念が転写されます。
誰もがみんな、お金は大切なものだと確信しているため、安心して気を許しています。
そうして謙虚さや頑張りが消えて、素の自分がそこに写し出されていくわけです。
お金とは何か?と問われたら、その答えは人の数だけ存在するかもしれません。
お金には個々の想念が隠し立てなく素っ裸に転写されます。
たとえば、鏡に映る自分の姿を見るとハッと我に返って身なりを正そうとします。
しかし鏡の存在に気がつかなければ、格好つけようという気持ちも起こりません。
そこに居るのは、素の私たちです。
お金というのは私たちを映す「見えない」鏡になっているということです。
お金に対して抱く思いやイメージは千差万別ですが、それはお金そのものが有するものではなく、私たち一人一人の価値観や観念、信念が反射されたものなのでした。
今この社会では、お金は生活に直結しています。
そのため、お金は私たちの生存を左右するものと信じ込まれてます。
自分の命を守ろうとするのは最も強い生存本能です。
そのため謙虚な人でも、お金のことになると人が変わったように怒ったり動揺してしまいます。
例えるならそれは、濁流の中で掴んで離せない命綱のようなものと言えるでしょう。
命綱を失いそうになると恐怖に襲われ、奪われないように威嚇するといった感じです。
お金というのは、もとより何の実体も無い存在です。
ただ、私たちがハッキリくっきり想念を向ける的(まと)になったことで、その向こうに新たな概念体が形成されていきました。
神社の御神体というのはそれ自体は無機質なものに過ぎませんが、天地のエネルギーの依り代になることで神気をまとうことになります。
仏像もまた多くの人が手を合わせて思いを向けることで、エネルギーが蓄積して重厚な存在感を醸し出すようになります。
同じようにお金も人々の様々な思いを向けられることで、黒紫色のエネルギー体が渦巻くようになったのでした。
ポジティブなエネルギーだろうとネガティブなエネルギーだろうと、蓄積される仕組みは変わらないということです。
一人一人が散漫な状態で、しかもそれぞれの方向がズレていると、思念は分散していきます。
しかしそこにターゲットがあると、私たちは心をしっかり集中させられます。
一人一人の心がしっかりクッキリ集中すると、物凄いエネルギー集約が起こります。
(ガンダムのソーラレイのようにです。笑)
祈りもしかり、感謝もしかりです。
そうして神仏像といった偶像、あるいは御神体、山や岩といったものが、私たちの思いをフォーカスさせるための照準計(ターゲット)の役割を成したのでした。
そしてお金もまた、図らずもその役を成すことになったということです。
これは物質的な現金ではない、口座やカードといった電子決済であっても同じ話です。
見た目が違うだけで、仕組みの上ではどれも同じ機能を果たします。
いずれも私たちの思いをフォーカスさせる的(まと)となり、そこへ照射された思いはその先へ向かって集約されていきます。
そうして、その先では物凄い勢いのエネルギー充電が行われるのでした。
この世というのはシンクロ(共振)の世界であるため、同じ波動同士が共鳴し合います。
お金にしても、そこへどのような心を向けるかによって、お金の向こうに渦巻くあらゆる想念の中の、同じ波動に繋がることになります。
まさに虫メガネのフォーカスによってビタッとそこに繋がるわけです。
ですから、感謝の心を向ければ感謝に満ちた世界に繋がりますし、欲得と我執の心を向ければたちまち修羅の世界に叩き込まれます。
変幻自在な神仏と同じく、お金は、私たちの心一つで全く違う顔を見せるということです。
とはいえ修羅の顔というのは、ただ罰を与えるためのものではありません。
お不動様の正体がお釈迦様であるように、お金が阿修羅の顔となって襲ってくる時、それは私たちを目覚めさせるための仮の姿であるわけです。
そしてその正体とは、まさしく私たち自身に他なりません。
自分の懐へやってきたお金ですらそうなのですが、それが人様のお金に手をつけた時には、これは本当に大変なことになります。
自分の思いに応じてシンクロするわけですから、その闇が深ければ深いほど、濃縮された次元へ我が身を投じることになります。
これらは無意識の世界の話ですので、本人が自覚している自覚していないに関わらず、物理法則として厳格に働きます。
発動のポイントとなるのは、そこに欲望や我執があるかどうかです。
死後の地獄というのもまた、このシンクロの原理が働いた結果です。
そして、この世にも地獄は存在します。
お金は他愛のない当たり前の存在ですが、とても畏れ多いものです。
私たちは、神社に置いてある鏡に、日々接しているようなものだと言えます。
そもそもこの世の存在・事象は、全てが鏡の役割を為しています。
日々に起きること。日々に接する人々。
そこに向けた私たちの心は、波紋となって広がり、私たち自身へ返ってきます。
私たちは何かが起こると、それに応じて何かの思いを発します。
私たちは誰かに接すると、それに応じて何かの思いを発します。
その思いはその対象に向かったように見えますが、実際はその対象の向こうへと照射されていきます。
それが明日の私たち自身の世界となります。
私たちが発する思いが明日を作っています。
これが「自分が発するものが自分に返ってくる」法則の原理です。
そして、私たちの発する思いの中でもとりわけストレートに出されるのが、お金を通して発せられるものと言えます。
日々の暮らしの中で発せられる思いというのは、そうは言っても様々な自制心(かっこつけ)が働きます。
いわば、よそ行き姿の自分であるわけです。
しかしお金だけは私たちのリミッターが解除され、本当の姿が赤裸々に投影されることになるのでした。
お金に感謝すると、今の目の前に感謝することになります。
将来の安全ではなく、今この時に感謝することになります。
お金の向こう側にある「今この時」への感謝。
それは生かされている恩恵に対する感謝に他なりません。
するとそれは「生かされること」となって返ってきます。
つまり、将来も生かされることとなって返ってきます。
生かされることに心のエネルギーが注がれていきますので、「生かされる私たち」を私たち自身が作っているとも言えます。
これはお金にかぎらず、日々の生活の全てに言えることです。
今日起きた出来事も、今日出会った人々も、そこに感謝を向けると、日々生かされることへの感謝となります。
様々な出来事や人々が媒介となって、その向こうに照らされていく。
虫メガネのフォーカスが、寸分違わず「生かされること」へ向くということです。
すべては同じ仕組みの上で成り立っているわけです。
お金という形に囚われると、お金に振り回されることになります。
でもお金によって生かされていることを思うと、お金という偶像は消え去り、その向こうの世界へ心がフォーカスされていきます。
お金に感謝を向けると、生かされるという状況が返ってくるのです。
それは金銭という形かもしれませんし、そうでないかもしれません。
ただ金銭だろうとそうでなかろうと、「生かされる」という一番根っこの部分がダイレクトに現実化されるのですから、何の心配もないわけです。
「え、お金で返ってくるんじゃないの?お金じゃないなら何かイマイチ」なんて一瞬でも思ったならば、いやいや、そもそもお金は何のためのものなんですか?という話です。
お金は、私たちの生活を保証してくれるためのものでした。そう私たちが決めたわけです。
だったら、お金なんてあやふやなものを介さず、生かされている状況が即・保証されているということ以上に、安心なことがあるでしょうか。
「ギリギリでなく華やかに生きたい」「楽しく過ごしたい」「お金だったらそれが出来る」
と考えるのは、本当に籠の中の鳥そのものです。
そもそも「生かされること」というのは、なにも生命をギリギリ維持できるという意味に限定されていません。
バラ色のハッピー人生も、波乱万丈の嵐の人生も、すべてがそこに含まれます。
なにせ私たちはそうした色々な体験を味わうために生まれてきているのです。
それが保証されているとなれば、これ以上の安泰は無いでしょう。
しかも、
「生かされること」は得たり失ったりするものではありません。
株が暴落したり金融が破綻するとお金は減ったり消えたりしますが、そんな時でも「生かされること」は減ったり消えたりはしないわけです。
お金に関係なく、私たちは今も将来も「生かされている」のです。
私たちが新しいことにチャレンジできない一番の理由は「不安」にあります。
なかでも、将来の生活に対する不安はその最たるものだと言えます。
そうして目の前の仕事、とどのつまりは目の前のお金に、自ら縛られてしまっています。
目の前の今に縛られているということは、今、今、今に縛られ続けることを意味します。
将来の自分を決めているのは今の自分です。
明日になったら変えようと思っても手遅れです。
今この瞬間が明日を決めています。
今を変えない限り、「今」に追いつかない状態が継続し続けるということです。
お金の不安に怯えると、私たちは新たなチャレンジが出来なくなります。
不安に縛りつけられた私たちとは、まさに「籠の鳥」のことを指します。
そしてタチの悪いことに、そうなった時、本当に不思議なことが起こります。
まわりを囲む鉄格子が外敵から私たちを守ってくれるものに感じられ、安全な場所に思えてくるのです。
それは奇妙なほど何故か、確信となります。
そして「生かして頂く」という天の恩恵が籠の中でも等しく働いているだけなのに「籠の中だからこそ日々のエサ箱が保証されている」と思ってしまいます。
その結果、自由な空へ羽ばたくことより、檻の中の生活を失うことの方が恐ろしいと思うようになるのでした。
これは自らを家畜化する行為に他なりません。
国家やら資本主義やら闇の存在がそうさせているのではありません。
すべて私たちが自ら選んでいることです。
私たちは、今の自分が生きているという事実だけで、今の生き方が正しいと信じ込んでしまいます。
それはまさに、溺れる者がしがみ付く藁(わら)のようなものです。
籠の外に何があるかは見ないようにして目をつぶる。
それを未だ目覚めぬ人類とグルジェフは言いました。
大空や森へと飛び立つのは自然な行動です。
自然な思い、自然な衝動です。
生まれながらに腱を切られた鳥は羽ばたくことが出来ません。
その姿を見るとなんて可哀想だと思います。
しかし私たちはそれを、自分でやっているのです。
籠から飛び立つことを諦めるために、命の不安を自らの心に囁き続ける。
その自作自演を気がつかされてもなお、その不安というのは社会や他者によって植え付けられたものだと被害者ヅラをして、事実から目を逸らし、「だから
仕方ない」と今の自分を正当化して、思考停止に引き篭もってしまう。
自縄自縛の囚われから抜け出すのは、自分以外の誰かの力では不可能です。
自分がやりたくてやっていることは、自分でないとやめられません。
被害者も何も、自らそれを選んでやっているというのが事実です。
それを忘れてしまうと、もはや「やめる」ということすら出来なくなります。
「誰かによって不幸に陥る可哀想な自分」「もうそれは仕方ないんだ」と考えて、やめない自分を選択することになります。
理屈として当然のことですが、まわりがとやかく言ったところで本人にやめる気がなければ、それは勝負の決まった綱引きでしかありません。
もしも力づくでやめさせられたとしても、見た目はやめたことになっても、その内側のくすぶりが凄いことになります。
私たちのやりたい心は水面下で沸々と沸騰しているのに、それをやらないというのは「やらない自分という形に自分を縛りつける」ことに他なりません。
そこにはまた新たな自縄自縛が生じるということです。
縛っているのは他の誰かではなく、私たち自身です。
私たち自身のコントロールは完全に私たちが支配しているのです。
たとえ神様が正しい方向へ綱引きを起こしても、絶対に私たちが負けることはありません。
私たちの本心は他の誰にも変えさせることは出来ない。
私たちに関する決定権は、完全にすべて私たちに託されているのです。
高次の存在が直接関与してこない理由はすべてそこにあります。
出来ることと言えば、本人がこれまでと違う選択を自ら行うように、気づかれない程度にコツンと砂つぶてを投げることくらいです。
そういう意味では、天災や人災、財政破綻というのもその一つになり得ます。
(といって、だからそれが起きたのだと決めつけるのは早計です。この世の事象はその原因も理由も一つではなく幾つも複合しています。)
従って、もし私たちが籠の外に居たとしても、他人の籠を開けようとしてはなりません。
それは決して優しさではないわけです。
外野が出来ることは、それを示唆することだけです。
籠の外へ出るも出ないも、すべて本人の判断、本人の行動です。
表面上では自ら納得して外に出たように見えても、それが何か別の要因(たとえば執着を手放したい、良く見られたい、怒られたくない、カッコつけたい、等)
によって為された行為であった場合、芯の部分では不安が解消されていませんので、雨や風が吹いただけでたちまち籠の中に戻って鍵を締めることになります。
ましてや外部の人間に半ば強引にそれを焚きつけられた場合は、過度な揺り返しが起き、以前に増して頑なに引きこもり、籠の中から相手を罵倒するようになります。
いったい、これのどこに救いがあるでしょうか。
本人でも気がつかないような最深部の世界のこと。
他人がそこまでズカズカ立ち入るのは大変危険です。
多くの人はお金というものが生存に関わるものと考えています。
そのため自分の命にとても近いところに置いています。
ですから、そこにゴッソリと手を突っ込まれると本能的生理的に拒絶反応を起こします。
土足でズカズカ踏み込まれたように感じてしまいます。
自分のお金にはこだわらない。縛られない。
他人のお金には手出し無用。触れてはならない。
それを破ったが最期、修羅の世界に一直線です。
他人と深層を共有することなど有り得ない話です。
お金の話をしても絶対に分かり合えることはありません。
生き様の話をしたところで、芯から分かり合うことなど出来ないのです。
そもそも私たちは、それぞれ別の世界を生きています。
同じ世界に生きているというのは錯覚です。
そのほうが都合がいいので「そういうことにしておこう」とお互い了解しているだけです。
だからこそ、たとえ家族であろうとも、私たちはお互いのお金に触れてはいけません。
自らの意志でお金を渡したのならば大丈夫のように思えますが、もしそこに何らかの感情(恩を着せる、良い子ぶりっこ、打算、恐怖心)が少しでも混じって
いたら、それが想念切符となって、お互い、黒紫の渦へ一直線となります。
これは非情でも何もなく、虫メガネのフォーカスの原理が厳格に働くというだけの話です。
完全に物理法則の世界です。
お互いが本当に真っさらな状態で、もはや自分のものでは無いというほどに完全にお金の存在を忘れて、やりとりするならばその原理は働かないでしょう。
それならば、家族だろうと他人だろうと問題はありません。
しかしどちらか一方でも欲得や我執を無意識にでも持っているうちは、金品の受け渡しは大変危険な行為です。
悪い人と思われたくない、責められたくない、というのはすべて我が身かわいさの保身でしかありません。
本当に相手のことを思うなら、責められようが何されようが、毅然とした態度でキッパリ断ることです。
欲得や我執は、虫メガネのフォーカスによって、漆黒の闇へと私たちを突き落とすものとなります。
たとえそれが鳥かごから外へ出すための方便であろうとも、人様のお金には触ってはいけません。
それは本人が、自分の足でやることです。
神様や高次の存在はもちろん、直系のご先祖様でさえ、手をさしのべたくともグッとこらえ、温かく見守っています。
何故かといえば、私たちは自分で自分の未来を創る存在であるからです。
私たちは、私たちの明日を自ら作り出し、それを味わっています。
すべての存在にとって、今ここに存在している理由はそこにつきます。
私たちは一人残らず本当に尊い存在です。
他人がそこへ手をつっこむのは、その尊厳を踏みにじることに他なりません。
まわりに危うい人が居たとしても、心配しなくて大丈夫です。
そのまま朽ち果てることなど絶対ありません。
私たちは一人残らず、生かされています。
ですから、自滅が過ぎると阿修羅の怒りに触れたような修羅場が訪れます。
その阿修羅の正体は仏様であり、私たち自身です。
それは、これ以上このまま行ったら本当に危ないという土壇場での本当の優しさであるわけです。
囚われの籠から、黒く渦巻く闇へと想念を流し続けることは自滅に突き進む道かもしれません。
ただ、まわりが止めても突き進みたい自分がいるかぎり突き進むことになります。
それでも心配無用なのは、その最後の最後では、天は阿修羅となって「自ら救うものを救う」からです。
この世に存在しているということは、私たちが私たちを生かしているということです。
私たちは、決して私たちを見放すことなどありません。
囚われの籠の中に引き篭もって漆黒の想念をムチャクチャに垂れ流し続けても、それでも、救ってもらえるのです。
ましてや、鳥籠から外の世界へ飛び立って、どうして生かしてもらえないことがあるでしょうか。
右へ行こうが左に行こうが、すでに、私たちの将来は完全に保証されています。
私たちは、私たちによって生かされているのです。
(おわり)
誰もがみんな、お金は大切なものだと確信しているため、安心して気を許しています。
そうして謙虚さや頑張りが消えて、素の自分がそこに写し出されていくわけです。
お金とは何か?と問われたら、その答えは人の数だけ存在するかもしれません。
お金には個々の想念が隠し立てなく素っ裸に転写されます。
たとえば、鏡に映る自分の姿を見るとハッと我に返って身なりを正そうとします。
しかし鏡の存在に気がつかなければ、格好つけようという気持ちも起こりません。
そこに居るのは、素の私たちです。
お金というのは私たちを映す「見えない」鏡になっているということです。
お金に対して抱く思いやイメージは千差万別ですが、それはお金そのものが有するものではなく、私たち一人一人の価値観や観念、信念が反射されたものなのでした。
今この社会では、お金は生活に直結しています。
そのため、お金は私たちの生存を左右するものと信じ込まれてます。
自分の命を守ろうとするのは最も強い生存本能です。
そのため謙虚な人でも、お金のことになると人が変わったように怒ったり動揺してしまいます。
例えるならそれは、濁流の中で掴んで離せない命綱のようなものと言えるでしょう。
命綱を失いそうになると恐怖に襲われ、奪われないように威嚇するといった感じです。
お金というのは、もとより何の実体も無い存在です。
ただ、私たちがハッキリくっきり想念を向ける的(まと)になったことで、その向こうに新たな概念体が形成されていきました。
神社の御神体というのはそれ自体は無機質なものに過ぎませんが、天地のエネルギーの依り代になることで神気をまとうことになります。
仏像もまた多くの人が手を合わせて思いを向けることで、エネルギーが蓄積して重厚な存在感を醸し出すようになります。
同じようにお金も人々の様々な思いを向けられることで、黒紫色のエネルギー体が渦巻くようになったのでした。
ポジティブなエネルギーだろうとネガティブなエネルギーだろうと、蓄積される仕組みは変わらないということです。
一人一人が散漫な状態で、しかもそれぞれの方向がズレていると、思念は分散していきます。
しかしそこにターゲットがあると、私たちは心をしっかり集中させられます。
一人一人の心がしっかりクッキリ集中すると、物凄いエネルギー集約が起こります。
(ガンダムのソーラレイのようにです。笑)
祈りもしかり、感謝もしかりです。
そうして神仏像といった偶像、あるいは御神体、山や岩といったものが、私たちの思いをフォーカスさせるための照準計(ターゲット)の役割を成したのでした。
そしてお金もまた、図らずもその役を成すことになったということです。
これは物質的な現金ではない、口座やカードといった電子決済であっても同じ話です。
見た目が違うだけで、仕組みの上ではどれも同じ機能を果たします。
いずれも私たちの思いをフォーカスさせる的(まと)となり、そこへ照射された思いはその先へ向かって集約されていきます。
そうして、その先では物凄い勢いのエネルギー充電が行われるのでした。
この世というのはシンクロ(共振)の世界であるため、同じ波動同士が共鳴し合います。
お金にしても、そこへどのような心を向けるかによって、お金の向こうに渦巻くあらゆる想念の中の、同じ波動に繋がることになります。
まさに虫メガネのフォーカスによってビタッとそこに繋がるわけです。
ですから、感謝の心を向ければ感謝に満ちた世界に繋がりますし、欲得と我執の心を向ければたちまち修羅の世界に叩き込まれます。
変幻自在な神仏と同じく、お金は、私たちの心一つで全く違う顔を見せるということです。
とはいえ修羅の顔というのは、ただ罰を与えるためのものではありません。
お不動様の正体がお釈迦様であるように、お金が阿修羅の顔となって襲ってくる時、それは私たちを目覚めさせるための仮の姿であるわけです。
そしてその正体とは、まさしく私たち自身に他なりません。
自分の懐へやってきたお金ですらそうなのですが、それが人様のお金に手をつけた時には、これは本当に大変なことになります。
自分の思いに応じてシンクロするわけですから、その闇が深ければ深いほど、濃縮された次元へ我が身を投じることになります。
これらは無意識の世界の話ですので、本人が自覚している自覚していないに関わらず、物理法則として厳格に働きます。
発動のポイントとなるのは、そこに欲望や我執があるかどうかです。
死後の地獄というのもまた、このシンクロの原理が働いた結果です。
そして、この世にも地獄は存在します。
お金は他愛のない当たり前の存在ですが、とても畏れ多いものです。
私たちは、神社に置いてある鏡に、日々接しているようなものだと言えます。
そもそもこの世の存在・事象は、全てが鏡の役割を為しています。
日々に起きること。日々に接する人々。
そこに向けた私たちの心は、波紋となって広がり、私たち自身へ返ってきます。
私たちは何かが起こると、それに応じて何かの思いを発します。
私たちは誰かに接すると、それに応じて何かの思いを発します。
その思いはその対象に向かったように見えますが、実際はその対象の向こうへと照射されていきます。
それが明日の私たち自身の世界となります。
私たちが発する思いが明日を作っています。
これが「自分が発するものが自分に返ってくる」法則の原理です。
そして、私たちの発する思いの中でもとりわけストレートに出されるのが、お金を通して発せられるものと言えます。
日々の暮らしの中で発せられる思いというのは、そうは言っても様々な自制心(かっこつけ)が働きます。
いわば、よそ行き姿の自分であるわけです。
しかしお金だけは私たちのリミッターが解除され、本当の姿が赤裸々に投影されることになるのでした。
お金に感謝すると、今の目の前に感謝することになります。
将来の安全ではなく、今この時に感謝することになります。
お金の向こう側にある「今この時」への感謝。
それは生かされている恩恵に対する感謝に他なりません。
するとそれは「生かされること」となって返ってきます。
つまり、将来も生かされることとなって返ってきます。
生かされることに心のエネルギーが注がれていきますので、「生かされる私たち」を私たち自身が作っているとも言えます。
これはお金にかぎらず、日々の生活の全てに言えることです。
今日起きた出来事も、今日出会った人々も、そこに感謝を向けると、日々生かされることへの感謝となります。
様々な出来事や人々が媒介となって、その向こうに照らされていく。
虫メガネのフォーカスが、寸分違わず「生かされること」へ向くということです。
すべては同じ仕組みの上で成り立っているわけです。
お金という形に囚われると、お金に振り回されることになります。
でもお金によって生かされていることを思うと、お金という偶像は消え去り、その向こうの世界へ心がフォーカスされていきます。
お金に感謝を向けると、生かされるという状況が返ってくるのです。
それは金銭という形かもしれませんし、そうでないかもしれません。
ただ金銭だろうとそうでなかろうと、「生かされる」という一番根っこの部分がダイレクトに現実化されるのですから、何の心配もないわけです。
「え、お金で返ってくるんじゃないの?お金じゃないなら何かイマイチ」なんて一瞬でも思ったならば、いやいや、そもそもお金は何のためのものなんですか?という話です。
お金は、私たちの生活を保証してくれるためのものでした。そう私たちが決めたわけです。
だったら、お金なんてあやふやなものを介さず、生かされている状況が即・保証されているということ以上に、安心なことがあるでしょうか。
「ギリギリでなく華やかに生きたい」「楽しく過ごしたい」「お金だったらそれが出来る」
と考えるのは、本当に籠の中の鳥そのものです。
そもそも「生かされること」というのは、なにも生命をギリギリ維持できるという意味に限定されていません。
バラ色のハッピー人生も、波乱万丈の嵐の人生も、すべてがそこに含まれます。
なにせ私たちはそうした色々な体験を味わうために生まれてきているのです。
それが保証されているとなれば、これ以上の安泰は無いでしょう。
しかも、
「生かされること」は得たり失ったりするものではありません。
株が暴落したり金融が破綻するとお金は減ったり消えたりしますが、そんな時でも「生かされること」は減ったり消えたりはしないわけです。
お金に関係なく、私たちは今も将来も「生かされている」のです。
私たちが新しいことにチャレンジできない一番の理由は「不安」にあります。
なかでも、将来の生活に対する不安はその最たるものだと言えます。
そうして目の前の仕事、とどのつまりは目の前のお金に、自ら縛られてしまっています。
目の前の今に縛られているということは、今、今、今に縛られ続けることを意味します。
将来の自分を決めているのは今の自分です。
明日になったら変えようと思っても手遅れです。
今この瞬間が明日を決めています。
今を変えない限り、「今」に追いつかない状態が継続し続けるということです。
お金の不安に怯えると、私たちは新たなチャレンジが出来なくなります。
不安に縛りつけられた私たちとは、まさに「籠の鳥」のことを指します。
そしてタチの悪いことに、そうなった時、本当に不思議なことが起こります。
まわりを囲む鉄格子が外敵から私たちを守ってくれるものに感じられ、安全な場所に思えてくるのです。
それは奇妙なほど何故か、確信となります。
そして「生かして頂く」という天の恩恵が籠の中でも等しく働いているだけなのに「籠の中だからこそ日々のエサ箱が保証されている」と思ってしまいます。
その結果、自由な空へ羽ばたくことより、檻の中の生活を失うことの方が恐ろしいと思うようになるのでした。
これは自らを家畜化する行為に他なりません。
国家やら資本主義やら闇の存在がそうさせているのではありません。
すべて私たちが自ら選んでいることです。
私たちは、今の自分が生きているという事実だけで、今の生き方が正しいと信じ込んでしまいます。
それはまさに、溺れる者がしがみ付く藁(わら)のようなものです。
籠の外に何があるかは見ないようにして目をつぶる。
それを未だ目覚めぬ人類とグルジェフは言いました。
大空や森へと飛び立つのは自然な行動です。
自然な思い、自然な衝動です。
生まれながらに腱を切られた鳥は羽ばたくことが出来ません。
その姿を見るとなんて可哀想だと思います。
しかし私たちはそれを、自分でやっているのです。
籠から飛び立つことを諦めるために、命の不安を自らの心に囁き続ける。
その自作自演を気がつかされてもなお、その不安というのは社会や他者によって植え付けられたものだと被害者ヅラをして、事実から目を逸らし、「だから
仕方ない」と今の自分を正当化して、思考停止に引き篭もってしまう。
自縄自縛の囚われから抜け出すのは、自分以外の誰かの力では不可能です。
自分がやりたくてやっていることは、自分でないとやめられません。
被害者も何も、自らそれを選んでやっているというのが事実です。
それを忘れてしまうと、もはや「やめる」ということすら出来なくなります。
「誰かによって不幸に陥る可哀想な自分」「もうそれは仕方ないんだ」と考えて、やめない自分を選択することになります。
理屈として当然のことですが、まわりがとやかく言ったところで本人にやめる気がなければ、それは勝負の決まった綱引きでしかありません。
もしも力づくでやめさせられたとしても、見た目はやめたことになっても、その内側のくすぶりが凄いことになります。
私たちのやりたい心は水面下で沸々と沸騰しているのに、それをやらないというのは「やらない自分という形に自分を縛りつける」ことに他なりません。
そこにはまた新たな自縄自縛が生じるということです。
縛っているのは他の誰かではなく、私たち自身です。
私たち自身のコントロールは完全に私たちが支配しているのです。
たとえ神様が正しい方向へ綱引きを起こしても、絶対に私たちが負けることはありません。
私たちの本心は他の誰にも変えさせることは出来ない。
私たちに関する決定権は、完全にすべて私たちに託されているのです。
高次の存在が直接関与してこない理由はすべてそこにあります。
出来ることと言えば、本人がこれまでと違う選択を自ら行うように、気づかれない程度にコツンと砂つぶてを投げることくらいです。
そういう意味では、天災や人災、財政破綻というのもその一つになり得ます。
(といって、だからそれが起きたのだと決めつけるのは早計です。この世の事象はその原因も理由も一つではなく幾つも複合しています。)
従って、もし私たちが籠の外に居たとしても、他人の籠を開けようとしてはなりません。
それは決して優しさではないわけです。
外野が出来ることは、それを示唆することだけです。
籠の外へ出るも出ないも、すべて本人の判断、本人の行動です。
表面上では自ら納得して外に出たように見えても、それが何か別の要因(たとえば執着を手放したい、良く見られたい、怒られたくない、カッコつけたい、等)
によって為された行為であった場合、芯の部分では不安が解消されていませんので、雨や風が吹いただけでたちまち籠の中に戻って鍵を締めることになります。
ましてや外部の人間に半ば強引にそれを焚きつけられた場合は、過度な揺り返しが起き、以前に増して頑なに引きこもり、籠の中から相手を罵倒するようになります。
いったい、これのどこに救いがあるでしょうか。
本人でも気がつかないような最深部の世界のこと。
他人がそこまでズカズカ立ち入るのは大変危険です。
多くの人はお金というものが生存に関わるものと考えています。
そのため自分の命にとても近いところに置いています。
ですから、そこにゴッソリと手を突っ込まれると本能的生理的に拒絶反応を起こします。
土足でズカズカ踏み込まれたように感じてしまいます。
自分のお金にはこだわらない。縛られない。
他人のお金には手出し無用。触れてはならない。
それを破ったが最期、修羅の世界に一直線です。
他人と深層を共有することなど有り得ない話です。
お金の話をしても絶対に分かり合えることはありません。
生き様の話をしたところで、芯から分かり合うことなど出来ないのです。
そもそも私たちは、それぞれ別の世界を生きています。
同じ世界に生きているというのは錯覚です。
そのほうが都合がいいので「そういうことにしておこう」とお互い了解しているだけです。
だからこそ、たとえ家族であろうとも、私たちはお互いのお金に触れてはいけません。
自らの意志でお金を渡したのならば大丈夫のように思えますが、もしそこに何らかの感情(恩を着せる、良い子ぶりっこ、打算、恐怖心)が少しでも混じって
いたら、それが想念切符となって、お互い、黒紫の渦へ一直線となります。
これは非情でも何もなく、虫メガネのフォーカスの原理が厳格に働くというだけの話です。
完全に物理法則の世界です。
お互いが本当に真っさらな状態で、もはや自分のものでは無いというほどに完全にお金の存在を忘れて、やりとりするならばその原理は働かないでしょう。
それならば、家族だろうと他人だろうと問題はありません。
しかしどちらか一方でも欲得や我執を無意識にでも持っているうちは、金品の受け渡しは大変危険な行為です。
悪い人と思われたくない、責められたくない、というのはすべて我が身かわいさの保身でしかありません。
本当に相手のことを思うなら、責められようが何されようが、毅然とした態度でキッパリ断ることです。
欲得や我執は、虫メガネのフォーカスによって、漆黒の闇へと私たちを突き落とすものとなります。
たとえそれが鳥かごから外へ出すための方便であろうとも、人様のお金には触ってはいけません。
それは本人が、自分の足でやることです。
神様や高次の存在はもちろん、直系のご先祖様でさえ、手をさしのべたくともグッとこらえ、温かく見守っています。
何故かといえば、私たちは自分で自分の未来を創る存在であるからです。
私たちは、私たちの明日を自ら作り出し、それを味わっています。
すべての存在にとって、今ここに存在している理由はそこにつきます。
私たちは一人残らず本当に尊い存在です。
他人がそこへ手をつっこむのは、その尊厳を踏みにじることに他なりません。
まわりに危うい人が居たとしても、心配しなくて大丈夫です。
そのまま朽ち果てることなど絶対ありません。
私たちは一人残らず、生かされています。
ですから、自滅が過ぎると阿修羅の怒りに触れたような修羅場が訪れます。
その阿修羅の正体は仏様であり、私たち自身です。
それは、これ以上このまま行ったら本当に危ないという土壇場での本当の優しさであるわけです。
囚われの籠から、黒く渦巻く闇へと想念を流し続けることは自滅に突き進む道かもしれません。
ただ、まわりが止めても突き進みたい自分がいるかぎり突き進むことになります。
それでも心配無用なのは、その最後の最後では、天は阿修羅となって「自ら救うものを救う」からです。
この世に存在しているということは、私たちが私たちを生かしているということです。
私たちは、決して私たちを見放すことなどありません。
囚われの籠の中に引き篭もって漆黒の想念をムチャクチャに垂れ流し続けても、それでも、救ってもらえるのです。
ましてや、鳥籠から外の世界へ飛び立って、どうして生かしてもらえないことがあるでしょうか。
右へ行こうが左に行こうが、すでに、私たちの将来は完全に保証されています。
私たちは、私たちによって生かされているのです。
(おわり)