次々と仕事やトラブルに追われ続けていると、何もしなくていい状態に憧れるものです。
でも、いざ何もしなくていい状態になったら、それを幸せに感じていられるのは、せいぜい一週間程度かもしれません。
たとえお茶汲みでも掃除でも、何かやることがあればマシですが、「本当に何一つやることが無い」となると、これは本当にツラい。
もちろんパソコンでネットを見たり、携帯をチェックすることも出来ないという前提です。
もしかしたら半日も耐えられないのではないでしょうか。
ウトウトすることもできない、時間潰しのネタもない。
ただ椅子に座って時間が過ぎるのを待つ。
ついつい時計を見てしまうけど、10分も進んでいない。
嵐の忙しさの時はあんなにも時間があっという間に過ぎたのに。
何もやることがない、何もやれない、時が過ぎるのを待つだけというのは、あらゆる苦痛の中で最もツラいものかもしれません。
たとえば、それは一つの絵画だけを見続けるようなものだと言えます。
他の絵を見せてはもらえない。
脇見も許されず、ただ同じ絵だけを見続ける。
仕事を干されて窓際族にされるというのはパワハラの中のパワハラ、ブラックの中のブラックでしょう。
何もしない。何もできない。
そのツラさというのは、喉を掻きむしるような飢餓感に似ています。
まさに飢えであり渇望です。
酸素や食料を求めるのと同じ、本能的なものを感じます。
定年退職したら自由を謳歌しようと心底思っていた人たちも、そのほとんどが一ヶ月もしないうちにまた仕事を始めたくなるといいます。
私たちは、変化が無いと苦しくなる。
外的刺激が無いと心が枯れてしまうのです。
人と関わりあうことがこの世で一番の刺激だと書きました。
たとえ敵であろうと、嫌いな相手であろうと、怒りや憎しみという形で双方向の交流が生じています。
それは人間相手だけではなく、仕事であっても、日々の生活にしても同じことです。
それら景色が刺激となって、私たちの中でパッションが生じる。
何も描かれていない真っ白な絵画を観たところで、何の感情も湧き上がりません。
刺激がなければ、内発的反応は生じないのです。
ですから、ひどい嵐に叩きのめされる一枚絵であっても、苦しみと悲しみに打ちひしがれる一枚絵であっても、それでイイわけです。
次々と目まぐるしく、取っ替え引っ換え、色々な絵を突きつけられても、それでイイわけです。
そこに内発的反応が生じるのですから。
怒り。悲しみ。
いいではないですか。
喜びや笑いだけが価値あるものではありません。
思い描いた理想の一枚絵に巡り合えたら幸せになれるなんてのは幻想もいいところです。
そんなことは、念願かなって理想の絵に巡り合えた私たちがそのとき何をどう感じるか想像してみれば分かることです。
それは、喜び?
いやいや、そんな浅いところで考察を終わらせては何も見えてきません。
その喜びの出どころがどこにあるかです。
喜びの源泉となっているのは、安堵感、達成感、優越感、そういったものではないでしょうか。
では、そんなものに喜んでいるのはいったい誰なのでしょう。安全、安心に喜んでいるのは誰なのか。
それは表層の私たち。生命維持をなりわいとするエゴであるわけです。
深みに広がる私たち自身は、もっと違う喜びを求めています。
絵画や映画を観るとき、私たちは未知の出会い、未知の展開に胸躍らせます。
それに対して、私たちの表層意識、エゴはその逆のことを望みます。
エゴにとっては安全運転こそが絶対正義だからです。
と、ここでエゴを悪者にしたところで何も解決はしません。
エゴは悪さをしているわけではない。
それはそれでちゃんとした理由がある。
何も知らずエゴのことを悪く言うのは親知らずの不幸者となってしまいます。
エゴのせいなどにしてる暇があったらもっと違うことを考えたい。
そう、やたらこだわってきた理想の一枚というのは、単にエゴが幸せと感じるもの、エゴが満足するだけのものだったと、そっちに行き着きたいところです。
そんな一枚をいつまでも気にかけてどうすんだって話です。
深層の私たちとエゴは逆のことを望みます。
そして結局は深層の私たちが望む現実が選ばれます。
今この私たちが望む現実が選ばれることはない。私たちが望むことはなかなか実現しないということです。
量子力学では「観測すれば現実が変わる」「予想したことは現象化しない」とされていますが、この世が何故そういう仕組みになっているのかといえば、まさにそこに尽きると言えます。
深層の私たちは未知を欲してる。
だから現実は予測したとおりにはならない。
未知であることが最優先となるため、予想は外れるようになっている。
これは何もそういう仕掛けや法則があるということではありません。
単に深層の私たちが、未知の現実を選んでいるだけのことです。
表層の私たちが計画してもその通りにはならないし、計画しなかった方が成るように成る。
手放した瞬間に表層の私たちの計画ではなくなるため、それは観測対象ではなくなる。
そのため実現する可能性が急浮上するということです。
私たちはこの世に未知を楽しみに来ました。
先ほどのサラリーマンの話と同じように、あの世の私たちもまた刺激を欲してます。
この世を勤め上げて定年退職したあとには平穏な日々が訪れます。でもやはり、すぐに退屈になってしまいます。
現世であれほど願っていた平穏なんてのはこの程度のものだった。
そうしてまた、賑やかな世界に嬉々として身を投じようとするわけです。
そしてその際、私たちは、さらに楽しめる仕掛けを自ら選択します。
それはつまり意識と記憶の閉鎖です。
消すわけでなく、無いことにする。
存在しているのだけど、繋がないようにする。
生まれてくる時にあちらの心のまま来てしまうと、ネタバレして興醒めになってしまいます。
それどころか、生きること自体ままならなくなる。
たとえば、もしそのまま向こうの心で映画を観ると「これはスクリーンに映る画像にすぎない」となります。
実に冷め切ったクールガイの誕生です。
それが叶えば、人生に一喜一憂などせず、心もいちいち波打たずに済むかもしれません。
不安や心配からも完全解放されるでしょう。
その代わり、感情移入もできず眺めているだけの状態となります。
そんなものはすぐに飽きてしまう。
そんなことするために来たわけではない。
さらにタチの悪いことに、飽きるだけでは済まず、その場に居ること自体がしんどくなってしまう。
冒頭の話を思い出せばその気持ちが分かるかと思います。
何の変化も無い、何の刺激も無いと、私たちは耐えきれず逃げ出したくなってしまいます。
外と内の交流が枯れるとエネルギー切れの酸欠状態になっていく。
だから、どこか別のところに刺激を求めに、無意識のうちに、移動したくなるわけです。
私たちは映画を観に来ています。
そして、映画に来た目的は物語を楽しむことにあります。
ですから、まずはそれを観る私たちを物語に没頭させる必要がある。
そして何より、スクリーンの演者には、ちゃんと最後まで降板せず演じきってもらう必要があるわけです。
普段、映画を観る時、私たちは主人公に自らを投影させて感情移入します。
それだけでも十分ハラハラドキドキしますが、そのハラハラドキドキをさらに大きくしたいと思ったら、もう映画の中の主人公が本当の自分だと思い込ませるしかありません。
これで、内発的反応は最大化できます。
ハラハラドキドキMAX、メーター振り切りです。
ただ、それだけでは、いつなんどき自らゲームリセットしてしまうか分からない。
なにせ、苦難や苦労、苦痛を盛り沢山にしたストーリーですから、最後まで完走する前に退場してしまう恐れがある。
そのためエゴが必要となったわけです。
食ったり寝たり、生きることに貪欲にならないと私たちはこの世をあっさりギブアップしてしまう。
エゴは、私たちを生かしてくれているのです。
映画を観る時に、私たちは何を求めているかというと、やはり「楽しかったー」という完走感、読後感でしょう。
ハッピーエンドや幸せ展開に限らず、感動ドラマや悲劇・喜劇、ほのぼの日常ドラマでも、それは同じです。
エンドロールが流れて来た時に、ふぅ、と幸せな息を吐けるどうか。
毎食毎食、ステーキだケーキだと好きなものばかり食べていたら飽きてきてしまいます。
幸せ展開のハッピーエンドばかりだとマンネリ化してしまうわけです。
色々なものを味わう楽しさ、そして、それができる自由さを私たちは持っています。
だからこの世は、色々なメニューを味わう人々で溢れているのです。
世の中には「実現の法則」とか「引き寄せの法則」とかありますが、そんなものを使って追っかけようとしているのは、脳みそが考えだした楽しさや悦びでしかありません。
いやそれ以前に、誰かから与えられた思い込みに過ぎないかもしれません。
今の自分が、苦しいと思ったり、人生を無駄にしてると思ったり、もっといい人生があるはずだと思ったりしたとしても、それは今この氷山の一角が考えていることに過ぎないわけです。
映画館の向こうの私たちは単純に「あー楽しかった」というのを求めています。
実現の法則で「こうなりたい」と思い描いたストーリーがそのまま実現したとしても、それはエゴの悦びであって、私たちの芯の部分の悦びではありません。
そんなんでは、この世を去る寸前まで「いやー、上手く行った、楽しかった」と自分では思っていたのに、エゴから離れた瞬間に「もったいないことした、次はこういうのは無しでやり直そう」ということにしかならない。
昔から、輪廻転生は苦しみだと言われますが、その理由はまさにここにあります。
人間脳の考えたことに振り回されて人生を過ごしてしまったことを悔いて、また次の作品を求める。
でもその作品でもまた同じことを繰り返してしまう。
そうして、再度オーディションを受けて、やっとまわってきた映画でもまたも同じことを繰り返してしまう、、、
輪廻転生から抜け出せないことが苦しみなのではなく、執着から抜け出せないことが苦しみなのです。
執着は、私たちの自由を奪います。
だから執着に縛られた人生を歩むと「もったいないことしたー!」と悔いて、「よし次こそは!」とポジティブに思うわけです。
別に自分を責めたり、落ち込んだり、そういう感じでやり直そうと思うのではありません。
クソ真面目な自戒でもないし、ましてや罰則なんかではない。
そこにあるのは純粋に期待感だけです。
自分がダメ人間だなんだと、真面目に悶々と考える話では全くありません。
ポイントはそこではないのです。
ここに輪廻転生が苦しみだとか、衆生は度しがたいとか、おかしな発想が出てくる理由があります。
合格点を取ればいいという世界ではないのです。
自分で自分を評価する必要はありません。
優等生をやめないと大切なことが見えないままとなります。
求道心が過ぎると迷宮に入って同じことの繰り返しとなってしまいます。
輪廻の永久地獄(?)から抜け出すために執着を無くそうなどと考えると、それがまた執着となって本来の自分自身の自由を奪うことになります。
エゴは肉体を生かすための利己解釈エンジンを決して止めることはないのです。
そして私たちはこの世に生きるかぎり、そのエゴと離れることはありません。
つまり、何がどうなったところで、私たちの頭の中には必ずエゴの反応は浮かび上がってくる。それを消し去ることなどできないのです。
それをゼロにできたら解脱だなんてナンセンスなわけです。
ゼロになるのはこの世を去った時だけです。
ですから、私たちが出来ることは、頭に自己中心的なことが浮かんでもそれに慌てたり否定したり流されたりせず、はいはいソレね、とスルーすることだけです。
それが解脱といえば解脱かもしれません。
だったら、エゴが反応するたび何度だって解脱すればいいだけのことです。
一度解脱すればあとはラクチンな世界が待ってるだなんて甘い期待は今すぐ捨ててしまいましょう。
そこを履き違えて、煩悩(エゴの反応)を無くすことが目的となってしまうと、もうこれは迷宮入りもいいところです。
だって煩悩そのものは絶対に無くならないのですから。
しかし真面目が過ぎると、
「執着となる対象を目の前から無くそう。よし里を捨てて山籠りだ。(それから五年後…)ご馳走が無いから下品にがっつくことのない俺。合格近し!」
なんてことにもなりかねない。
見た目だけ100点を取ったところで本質は何も変わりません。
結局、死に臨んでそのことを悔いて、やはりまた生まれ直すことになります。
里から逃げず世の苦しみをしっかり味わいつくせば良かった、ご馳走を求めてがっついとけば良かった、となるだけです。
じゃあどうすればいいんだ、という話になります。
何をしても救いが無いじゃないかと。
そんなことはありません。
解脱なんかに目的を置かなければいいだけの話です。
執着上等です。
エリート意識なんか捨ててしまえです。
自分なんぞ、たかだかそんなもんだろと。
そもそも、輪廻転生が良くないものだとするからおかしくなる。
もともとその発想は、生きることは苦しいことなのでそこから卒業したい、という考えに端を発してます。
それというのも1000年も前に、生きること自体が苦しい時代がありました。
まさに生き地獄です。
それでもリタイヤはダメ、とにかく何がなんでも完走させなくてはいけないというのは絶対です。
だから方便として、解脱や輪廻転生というものが説かれました。
先々のことに夢を描き、それをモチベーションとして、人々はなんとか今世を生き切ったわけです。
それはそれで、その時代には必要なものでした。
ただ、お釈迦様はあの世のことを一切語っていません。
ましてや来世のことなど尚更です。
そのことを聞かれても決して答えませんでした。
下手に説いてしまうと何が起きたか、火を見るより明らかです。
遠くに囚われてしまっては何の意味もない。今は今しかない。いま目の前に集中することこそすべて。
ですから、先のことなど考えるだけ無駄。
むしろそんなことすればするほどアリ地獄。
「輪廻転生したくない」ではなくて「輪廻転生したっていいじゃん」と、そう考えれば万事解決なのです。
食べることが大変ではなくなった現代において、輪廻転生からの卒業に憧れるというのは、ことさら執着が根深いかもしれません。
なぜならそれは単に優劣意識に根差している可能性が高いからです。
レベルアップできない人が輪廻転生するだなんてトンチンカンなことです。
この世に生まれることや輪廻転生することがいけないことダメなこと、苦しいこと、負け組だとか思うからややこしくなる。
そうではない。
映画館の席にいる私たちは、ただただ「楽しみたい」だけ。
だから、なんだっていいんです。
これが合ってるのか間違ってるのか、そんなことはどうだっていい。
本当にここで大事なのは、たとえイマイチな日々、不本意な日々であっても、そこに集中するということです。
「今と違う景色が他にあるかもしれない」「このままでいいのだろうか」なんて浮気心を起こす必要はないのです。
禅寺の作務のように、目の前の掃除、目の前の食事、目の前の日々だけに集中する。
それこそが「あぁ、もっとこうしとけば良かった」という思いを残さずに済むことになります。
こうしておけば良かったというのは、「こうしておけばもっと上手くいってたのに」ではありません。
「こうしておけばもっと面白かったのに」です。
もっと上手くやれたのにという後悔は、死んでエゴを離れた瞬間に跡形もなく消え去ります。
もっと面白く楽しめたのにという後悔が、次また生まれ直すことになります。
人生に成功したかなんてのは全くどうでもいい。
あの時エゴに流されてしまったかどうか、執着してしまったかどうか。
それこそが心残りとなります。
ですから、今この私たちは、どこか遠くにある幸せを追う必要はないのです。
たとえ平凡な日々であろうとも、あるいは無茶苦茶な日々であろうとも、誠実に目の前のことに集中して過ごすことが、映画館の私たちの悦びとなります。
それでもなお、本当にこれでいいのかと不安があるならば、それこそ実現の法則を使ったり、あるいは神社の境内で手を合わせて、こう祈ればいいのです。
「(今は分からなくていいので)死んだあとに楽しかったーと思える人生を歩ませて下さい」
これで安心。あとは目の前の日々に集中するだけです。
映画館の私たちが楽しいと思うような展開をお任せしたので、もう何の心配もありません。
何度も言いますが、それはジェットコースターのような展開かもしれませんし、変化の少ない日々で終わるかもしれません。あるいは悲劇と不幸のオンパレードかもしれません。
どれが楽しいと思うかは、映画館に入ったその人のその時の気分によります。
他の人と違うのは勿論、自分の中でも一貫性なんてありません。
昨日はカレーの気分だったけど、今日はラーメンの気分。
その程度のものです。
ましてやそれが他人となれば、食べたいものが違って当たり前。
本当はラーメンが食べたいのに、誰かと同じ高級フレンチを頼もうとするのは単なる見栄というものです。
食事というのは、見栄のためでなく、喜びのためにするものですよね。
一度おまかせしたからにはあとは一切疑わない。
どんな展開になっても、それが私の本体の望んだところだと信じきる心です。
「それでも、もしかしたら気づかないまま今の形に執着してしまっているかもしれない…」と不安に思う時こそ、そのこだわりを手放せば大丈夫。
様々な執着というものはすべてが繋がっています。
目の前の執着をなくせば、遠くの執着も薄れていきます。
「おまかせしたからにはあとは大丈夫」
その諦めこそが、あらゆるこだわりを解かし、自然とレールも自動修正されていくことになるのです。
(つづく)