これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

母なる海と大きな心(後編)

2015-11-22 18:14:35 | 天地の仕組み
今日も朝から、シュッ、シュッとホウキで掃く音が聞こえてきます。

前回まで触れたように、私たちは、もともと明るく輝く存在です。
光り溢れる明るい世界というのは、同時にまた私たち自身の姿でもあります。

実際、私たちは誰もがそのままに生まれて来ました。
生まれてからしばらくは、疑うことなく自然に当たり前に、明るく輝いていました。
ただ、光を隠した仮初めの景色に包まれるうちに、少しずつ私たち自身も光を隠すようになりました。

それは自分でも知らず知らず、無意識のうちに感覚として調整されていったものです。
誰がいいとか、悪いとかいうことではありません。
「隠す」と表現すると悪いことのように聞こえますので、それは「演じている」と言い換えた方がいいかもしれません。

ですから、それは残念な過程でも何でも無く、むしろそれを分かった上で私たちはそうなることを選んで生まれてきて
いるということです。
行けばそうなることなど、天から見ていれば一目瞭然です。
そもそもこの世界は楽しむために存在します。
何故わざわざ「自分はそうはならない!」などと必死の覚悟で降りてくる必要があるでしょうか。

答えは簡単なのです。
私たちは、光を隠してまでして、色々なことを演じたいがためにこの世界にやってきてるのです。

演じることを通じて、これ以上ないほど数多くの経験と学びを得ることができます。
それは、元々の輝き溢れる状態のままでは得られなかったものであるわけです。
役に没頭しすぎて分からなくなってしまっていますが、それこそ私たちの狙い通りと言えるのではないでしょうか。
そしてそうした演技の節目節目で、メッキの隙間から溢れ出る光に触れて、私たちは故郷を思い出し癒されているので
しょう。

そうであるならば、この世の苦労や喜びというのはそれほどに貴重なものであるということです。
光り輝く世界や、私たちの本当の姿のままでは得ることの出来ない、超レア物であるわけです。

ですから、私たちの本来の姿は光り輝いてるはずなのに今がそうではないからといって、今の状態を悲観したり、卑下
したりする必要はないのです。

大切なのは、この紙一重の裏側が光り輝く世界であり、私たちもまた光り輝く存在であるということを分かった上で、
今この地味色の渋い世界で、同色の自分をしっかり味わい尽くすところにあるわけです。


本来の姿を知らずに路頭をウロウロさまよい歩くのと、全貌を分かった上で裏道をスイスイ歩くのとでは、心の持ちようが
全く違って来ます。
暗く沈んだ気持ちで鉛のように重い足を引きずり歩いている時には、薄暗い小道にしか見えなかったものが、心が軽やかに
大きく広がった途端、野に咲く花や射し込む木漏れ日といった、小道ならではの思いがけない発見が映るようになるのです。

まさに私たちは、この世界を味わいに来ています。

トラブルや災難というものも、もしかしたら小道にピュッと跳び出てきたウサギやリスのようなものかもしれません。


とはいえ、暗闇の中でのたうち回っている真っ最中には、そんな話を聞いても綺麗事にしか思えないでしょう。
実際、私自身がそうでした。
次々と跳び出してくる生き物を見てもイラっとしてしまい、それを愛くるしいと笑って受け入れることなど到底できない
わけです。

ひとたび萎縮した心は、ガチガチに凝り固まってしまい、次々と押し寄せる小動物や、降りしきる落ち葉に対して
ますます頑なになっていくものです。
「心を広げましょう」「開きましょう」などと言われても、それこそ心が付いていきません。

そんな時には、いま一度、原点に戻ってみるしかありません。

そして、心よりも脳が優位になっている時には、まず脳の方をラクにしてあげましょう。

脳優位の緊張状態が長く続いてしまうと、いくら感覚の方を追おうとしても脳に引っ張られてしまい、全く切り替える
ことができなくなります。
そうすると、あの感覚に戻りたいのに戻れないというもどかしさに、心は落ち込み、ますます萎縮し枯渇して行きます。

心の感覚を追いたいばかりに脳や理屈を忌み嫌ってしまうのは、結局は囚われの世界でしかないということです。

感覚の世界が遠のいてしまっている時には、理屈の世界から進んでいくのが一番です。
そのこと自体をネガティヴに捉える必要は全くありません。

もう一度、整理してみたいと思います。

明るい気持ちというものは、霧散させることはできません。
翳らせることは出来ても、霧散させることはできないのです。
それはつまり、明るさというものは湧き出ているものではなく、当たり前の状態であることを示しています。

逆に、暗く翳っている状態を明るくさせるためには、その翳りを払うしかありません。
ですから、気持ちが暗くなっている時に、上書きで明るくしようとするのは道理に反するということになります。
空一面に暗雲がかかった状態でランタンの薄明かりを灯しても、空が晴れることはないのです。

悲しい時は悲しい、苦しい時は苦しいのです。
それが今の自分の正直な姿であるわけです。
それを認めずに、悲しむまい、苦しむまいと、素の自分に蓋をしてしまうのでは、いつまで経ってもその先には進めません。
つらい時はそれを認めてしまうのが、まず第一歩となります。

悲しみや苦しみといったものは、己の執着がその火種となっているのは確かです。
しかしだからといって、悲しみや苦しみといったものに浸ってはいけないということでは無いわけです。
囚われてはいけないと思い詰めて、本当の自分を直視せず受け入れないことこそが、いけないのです。

誰だって聖人君子ではありません。
人は、囚われるのが当たり前なのです。
執着があるうちは、それをしっかりと認める(見て止める)ことが必要です。

無理して明るくしようとするよりは、しっかりと暗さを噛みしめたほうが、風を呼び込む近道になります。
それはつまり、「仕方がない」と諦めるということです。
そしてそれは、目の前の景色を受け入れることに通じます。
目の前の景色とは、仕事や家庭、身のまわりで巻き起こる様々なことだけでなく、心の内に湧き上がる今の正直な自分の
ことも指しています。

遠くの夢物語ばかり追わず、「仕方がない」と割り切って、粛々と足元の落ち葉を掃いていく。

実は、煩悩だけに限らず、目の前で起きる様々な出来事もまた、ハラハラと足元へと降り積もる落ち葉であるわけです。
そしてその落ち葉を縁(よすが)とし、それを掃き払うことで、私たち自身も祓われていくのです。

竹ボウキで舞い上がる風こそが、罪穢れを祓う風となります。
自ら呼び起こした暗雲を吹き払う風とは、やはりまた自らが呼び起こすものなのです。
何処か遠くの空から神風が吹くということはありません。

私たちの日々や、会社、家庭は、自らの神風を呼び起こすためのよすがです。
私たちが手にする竹ボウキを存分に振るえるように、そうした様々なことがハラハラと舞い降りてきているのです。
そうして私たち自身も祓われていくわけです。

そのように知れば、一つ一つに囚われてヒステリーになることもなくなっていくのではないでしょうか。

これまでは、道にうずくまって受け身になっていたために、まるで落ち葉の嵐が自分に押し寄せてくるように感じて
いたかもしれません。
そして我が身を守るために、その無数の一枚一枚に目を向け続け、心は疲れ果ててしまったことでしょう。

しかし、落ち葉はもとより落ちるものであり、それはただの方便に過ぎず、そもそも私たちの頬を撫でるようにして
私たちを清らかにしてくれるものだと分かれば、心は一変するはずです。

落ち葉の方から押し寄せてくるのではなく、逆に、小道を軽快に歩く私たちの方から、ハラハラと落ちる葉っぱに
触れていっている姿へと変わります。
そして、何の苛立ちもなく淡々と、サッと手でそれを払う姿へと変わります。

そうして、凝り固まっていた心は、自ずと天地へ溶け出していくことでしょう。

悩みや苦しみ、不満やツラさがあると、心はギューッと肉体の奥へと小さくなり、それとともに氣やエネルギーも
自分の奥深くへと小さく縮こまった状態になります。
それは周囲との断絶がより一層、深まった状態でもあります。
心が内側へ小さく凝縮してしまうと、一瞬一瞬が本当に生き苦しくなります。

「自分」と「自分以外」という分け方が際立つと、圧倒的な数の「自分以外」に押しつぶされ、参ってしまいます。
しかし「自分以外」というのはそもそもが幻想であるわけです。
自らの壁によって作られた幻想です。

繰り返しになりますが、天地宇宙というのは、「自分」でも「自分以外」でもなく、ただ一つの海しかありません。
個の存在として小さな意識に縮こまるのではなく、もっと大きな感覚に身を預けてみて下さい。
私たちは、誰もがこの天地宇宙の海そのものです。
その中でそれぞれが小さな手で囲って、それを自分だと思い込んでいるだけです。

私たちが海になれば、「自分以外」というものは無くなります。
すべてが自分になります。
この海の中では、他の人たちが小さく囲おうとも、一つの同じ海でしかありません。

ということはつまり、この世の全ては自分の外側に存在するのではなく、全て自分の内に在るということになります。

他の人たちは、この大きな私たち自身のあちこち所々を、小さく囲っているだけなのです。
そして私たちは、この大きな私たちの中でまた、自分自身をも同じく見守っているのです。

日々の暮らしの中で、まわりの人が何かを言ったり、何かをやったりしても、それは私たちの海の中を小さな手で囲い、
演じているということなのです。
そして、誰もがそのような演じることで色々なことを経験し吸収し、持ち帰るのです。
それは私たちもまた同じことです。

自分と自分以外とに切り分けず、そのように心を広げることで、まわりの人たちを外からではなく内から感じられる
ようになります。
そして、そうであればこそ、他人事には感じられなくなるのです。

これは家族愛や兄弟愛を遥かに越えるものです。
何故ならば、それは新たに湧き上がるようなものではなく、一心同体の
不可分の自分自身としての感覚
であるからです。
つまりは「状態」ということです。

それこそが、天地宇宙は愛で詰まっているということであり、みんな愛に生きましょうという昔から繰り返される決まり
文句の本当の意味です。
上っ面の絵空事ではありません。
愛とは、湧いたり生じたり失ったり消えたりするものではなく、単なる「状態」なのです。
だから、与えるものではありませんし、得るものでもありません。
目指すものなどではなく、それは、もともとの状態であるわけです。

母なる海というのは、まさに真理をついた表現だと言えます。
この母なる海に、私たちも全てを預け、包まれるに任せて溶けていくだけです。

ただ、その前提として、一つだけ大事なことがあります。
それは何処まで行っても、己の意識を失ってはいけないということです。
ボンヤリと意識が薄れて行って自分が無くなってしまうというのでは、単なる漂流になってしまいます。
これは逆に非常に危険な状態です。
我執を無くすということと、自分を無くすということは、根本的に全く違うものです。

海と一つになっても自分の意識はあります。
他の人たちもまた、海と一つになっても、それぞれに自分の意識はあります。
つまり、それこそが「一人一人が天地の中心の一点である」ということなのです。

今一度、天地宇宙の母なる海の大きな心になって、この世界を、そしてまわりの人たちを感じてみて下さい。
何故かは分からず、ジンワリと幸せな気持ちに包まれるのではないかと思います。

それが天地の心であるわけです。
そしてその時、誰も彼もが、あなた自身となっています。

今、それを自分の全体で感じています。
それこそが、肉体の枠に縛られない、本当の自分なのです。

そして、先に言ってしまいますが、これは今ここだけで終わってしまっても全く構わないものです。
日常において、ムカッと来た相手を前にして、そんな聖人君子になれというのは無茶な話です。
ただ、その時は無理だとしても、少し時間を置いてから一人その感覚に身を投じてみると、イライラしていた気持ちも
スーッと消えて無くなっていくことでしょう。

そうした時に「いや、そうは言ってもあれはおかしい」と自我が湧きあがってくるかもしれませんが、ここでの目的は
自分の正当化でも相手への非難でも無いはずです。
モヤモヤを消えて無くすことだけが全てですから、他の余計なことは考える必要はありません。
それが「落ち葉を掃く」ということです。
道端の落ち葉を相手に自問自答して、悶々として手を止めてしまうのでは、何の意味も無いではないですか。

とはいえ、これもまたガツガツやりすぎは良くありません。
日常万般そのように淡々と掃ければ理想的ですが、そこまで完璧を望まなくても大丈夫です。
たとえ時々であったとしても、天地宇宙の母なる海へと自らを同化
させることで、私たちは少しずつ祓われていくことになります。
ですから、いつでもそのようにあろうと欲をかいても意味がありません。
その我執が新たな苦しみとなり堂々巡りとなってしまいます。
なにごとも、身の丈にあった自然体が一番です。

清らかな景色も爽やかな心も、一瞬で消えてなくなり、また元に戻ってしまう...
そんなことは別に落ち込む話ではないわけです。
もとより、そのようなものなのです。

私たちは人間です。
聖人君子や神様になろうとする必要はありません。
この世というのは、枯葉が落ちるのが当たり前。
そのように出来ているのです。

そして、私たちはそんな中で粛々と、落ち葉を掃くために生まれてきたのです。

繰り返しになりますが、それは決して因業などではありません。
チリ一つ無い景色に囚われてしまうと苦しくなるだけです。
先のことを期待するのではなく、ホウキで掃くこと自体が、幸せな心地となり、爽やかな風となります。
そのための落葉であり、煩悩であるわけです。

心を広げようとすると目の前のことがおろそかになってしまいます。
といって、目の前ことに囚われてしまうと、今度は心が狭くなっていきます。
何かを追おうとするほどに、それは遠ざかって行くものです。

天地へ心を開いて、大きな大きな一つの海を感じたまま、目の前の一つ一つを、シュッ、シュッと掃いていきましょう。

大海を感じようとするのではなく、そうであることを私たちは知っているということが全てです。

見えなければ分からない、感じなければ分からない、というものではありません。
もとより私たちは、天地宇宙のチリ一つ無い、母なる海と一心同体です。
そこを離れて存在することはできません。
それは遠くにあるものでなく、私たちはもとよりその中に居て、忘れたフリをして楽しんでいるだけです。

苦しみや悲しみを無理に楽しみに変えようとすることはありません。
落ち葉の一つ一つに強引な意味づけは不要です。

苦しみは苦しみとして、悲しみは悲しみとして、自分の心を素直に映して、一つ一つを丁寧に掃いていきましょう。

大丈夫です。
私たちは、天地宇宙そのものなのですから。



(おわり)

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母なる海と大きな心(中編)

2015-11-18 21:35:31 | 天地の仕組み
私たちの心の広がりを風船のイラストでイメージするならば、風船は心の境界線であり、風船の中身は心の濁りに
喩えることができます。

その濁りが薄まるにつれて、風船が膨らんでいく、つまり心が大きくなっていきます。
そして心が広がるほどに、外界との壁も薄まっていくということになります。
風船の中に詰まっているエネルギーも、その膨らみに合わせて広がっていきます。

そうしますと、風船(心)が広がるにつれてエネルギーが広がり増えているように見えますので、風船(心)というものが
エネルギーそのものであるように感じてしまいます。

しかし実際のところは、エネルギー(氣)というものはもともと天地宇宙に万遍なく無限に詰まっているものであって、
風船はそれを囲い込んでしまっているに過ぎません。
詰まり詰まっている空間をただ囲っただけですから、その囲いが大きくなれば当然エネルギーも大きくなるわけです。
ですから、いわゆる「心を広げてエネルギーを大きくしよう」という表現は、ある一面だけを捉えた方便であって、
本来の構図とは微妙に意味合いが違っているということになります。

そのような仕組みの中で、心の濁りが無くなるというのは、風船の囲いが無くなった状態と言うことができます。
もともと同じ、内の空気と外の空気とが、晴れて一つになったということです。

少し理屈っぽいかもしれませんが、今この私たちのまわりの空気と、何万キロ離れたカルフォルニアの空気とは、距離に
関係なく同じ一つのものです。
それらを隔てるものは何もありません。
目の前の空気と、カルフォルニアの空気は完全に一つということです。
ということは、目の前の空気は、そのままカルフォルニアの空気でもあるわけです。
距離というのは関係ありません。
断絶のない、大きな大きな一つ、The Big Oneです。

それと同じように、私たちの心は、無限の天地宇宙の心と全く一つです。
ですから、私たちの心は天地宇宙を縦横無尽に瞬時に動けます。
その何処かに、自ら、風船の囲いを作るか作らないかというだけの違いでしかありません。

そして、心と私たちとは寸分のズレもなく同調していますので、その心が極大まで広がったり極小まで縮こまったり
しても、常にそれと共にある私たちは、なかなかその変化を自覚することができません。
それは安定飛行している飛行機の中に居ると、まるで静止しているかのように勘違いしてしまうのと同じことです。
自覚ができないために、不自然な状態に変化したとしても気がつけず、それを維持しようと自動操縦モードに入って
しまうわけです。

逆に、自分以外の誰かを見ていますと、その人の心の拡大縮小というのは非常によく分かります。
自分はその相手の心と共には無いからです。
すると、何故そんなに小さくなってしまっているのかと余計な一言を言いたくなりますし、あるいは先ほどまで
小さくなっていたのが突如としてパカーッと大きくなっている姿に思わず吹き出してしまったりします。
それなのに、同じことを自分がやっていてもそれには全く気が付けないわけです。

飛行機が動いているかどうかは、窓の外の雲や建物を見ることで分かります。
あるいはガタガタと揺れることで、どうやら動いているようだと想像します。
同じように、私たちの心がどのようであるかは、窓の外の出来事や人の反応を見ることで分かります。
あるいは自分の身辺や体調がガタガタと揺れることで気がつくことが出来ます。

目に映るものは自分の鏡であるというのは、そういうことです。

それをもってストイックに自らを正すことも大切ですが、と言って、そればかりになってしまうと心が疲労困憊して
しまいます。
鏡台を見ながら化粧を100%バッチリにするのも悪くはありませんが、ひとまず鏡を見てみて寝グセがあったら
チャチャッと直したり、顔を洗ったりするくらいで私はイイと思います。
「こうでなければいけない」「こうであってはいけない」という思いは、自分の心を重くさせてしまいますし、さらにまた
自分以外の人たちの姿を見下してしまったり、あるいはその姿に苛立つことにもなり兼ねません。

鏡を見た時には、身だしなみ程度で十分なのです。

そうしていくうちに少しずつ小ざっぱりしていって、わざわざ化粧などせずともそれなりに見れる顔になっていく
ことでしょう。


暗い気持ちになると、心はヒューッと小さくなっていきます。
明るい気持ちになると、心はパーッと大きくなります。

暗い気持ちというのは、苦しみや悲しみ、イライラやモヤモヤなど様々ですが、どれも何かに囚われていることが
スイッチとなって起こります。
ですから、これはこれで「仕方がない」「そういうものだ」と受け入れてしまえば、瞬時に霧散します。
ただ、1%でも囚われが残っているうちは、そのように霧散させてもすぐさまモヤモヤ~と黒い霧が湧き出てきて、
あっという間に充満してしまいます。
そうなると、こんな骨折り損、やっとられんわと、霧散させようとする最初の気持ち自体を折られてしまうわけです。

しかしそれは決してやり方を間違っているわけではありませんし、自分がダメ人間であるわけでもありません。
単なる勘違いであり、誤解をしているだけのことです。

それは家の掃除と同じで、たった一回ですっきりピカピカというのが、そもそも無理な話なわけです。
汚れというのは何度か繰り返すうちに少しずつ薄まっていくものですし、そうしたことを重ねていくうちに出来るだけ
汚さないようにしようという気持ちが生じてくるのです。

もとより部屋というのは、何もしなくとも汚れるものです。
「一回でオールクリアになって掃除は必要なくなる」と期待すること自体が、現実離れした高望みなのです。
初めから、そんなもんだと達観して臨めば、気持ちも軽やかになるでしょう。

そして一見同じように見えるその汚れっぷりも、先ほどと比べると明らかに今の方がマシになっているのが事実です。
「一回でピカピカにしよう」という我執に囚われてしまうと、そのこと自体がさらなる苦しみとなってしまいます。

神社で一番大変な仕事は、庭掃きとも言います。

特に今の時期は掃いたそばから落ち葉が積もってしまい、早起きの苦労があっという間に台無しにされてしまうこと
でしょう。

確かに、チリ一つない境内は見た目にも気持ちがいいものです。
でも、枯葉が落ちるのは止めようがありません。
そんな状況では、結果を求めすぎることが新たな苦悩を生むことになってしまいます。

といって、どうせ同じだからと掃除そのものを放棄してしまうというのでは、根本からおかしくなってしまいます。
達観して、こういうものだと諦めて(=明らかに見極めて)、半ば自動的に粛々と掃除する。
すると、あとから落ち葉が積もろうとも、境内はとても清らかな空気に包まれていきます。

実は、落ち葉という目に見えるものを掃こうとすることで、目に見えない様々な穢れも祓われているのです。

そうなると落ち葉というのは、むしろそこへと誘ってくれる方便とも言えるわけです。

私たちの煩悩というのは、この落ち葉に喩えられます。
私たちは、煩悩の湧き起こる根本そのものを根絶させようとしますが、実際のところそれはなかなか大変なことです。
そして落ち葉の無いスッキリ爽やかな風を求めて頑張り、その徒労に打ちのめされ、挫折し、諦めてしまいます。

でも、それでは意味が無いのです。

煩悩とは誰しも湧くもの。
落ち葉とはもとより降り積もるもの。

木を根元から切り落とそうとするのではなく、落ち葉を箒でシュッシュッと静かに掃いていく作業こそが大事なのです。
それこそが、落ち葉そのものではなくその空間を払う(祓う)ことになります。

つまり煩悩が現れた時には騒いだり流されたりせずに、「それはそういうもの」とサッと払うこと、あるいは流す
ことで、空間(私たち)そのものを祓うことになるのです。

掃いたそばから煩悩がまた湧いてきてしまうとガックリときますが、そこは、煩悩を払っているのではなく、そのたび
自分自身を祓っているのだと分かれば、達観して高望みも無くなるでしょう。
さらには、もしかしたら、煩悩に対してウェルカム感すら覚えるようになるかもしれません。



たとえ一瞬とはいえ煩悩が霧散した時、私たちは明るい気持ちになります。
ということは、人間は本来、明るい心であるものだということになります。
それは赤ちゃんを見れば分かることです。

そして、濁りの無い状態がそうであると言うならば、それそのものであるこの天地宇宙というのは、明るい心に
充ち満ちているということが分かります。

それこそが天地宇宙の姿であるわけです。

目の前の今がどのように映っていようとも、私たちは、間違いなくその明るい世界の中に居るのです。

そして、その明るさこそは、内も外も分け隔てなく、私たちの中にも詰まり詰まっているということなのです。


(つづく)


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母なる海と大きな心(前編)

2015-11-14 18:53:23 | 天地の仕組み
人の心というのは本当に不思議なものです。

幸せな時にはパーッと無限に天地の彼方まで広がりますし、悲しい時にはヒュルルルと針の穴ほど小さくなります。
その時その時の気分によって自由自在この上なしです。

このような時、心とともに、或る感覚的な実体があります。
別な表現をすると「氣」と言ったり「エネルギー」と言ったりもします。
それは、天地に満ちているご神気と同じものです。
天地宇宙のエネルギーと同じものが、私たちにも充ち満ちています。

全宇宙に詰まり詰まっているように、私たちにも詰まり詰まっている...
ということは、その間に壁がなければ、すべては一つの海となります。
そして全てが同じ素成ですので、一瞬にして隅々にまでシュッと通ります。

イメージとしては、分子の球体が横一列にピッタリくっついて並んでいるとすると、一番右端の情報が瞬間的に
一番左端の分子に伝わるような感じです。
これは、右から左へ一つ一つ順番に伝わっていくのではなく、全てが同質であるために全てに同時に伝わっている
状態です。
そうした球体が横一列ではなく、全方向360°にビッチリ詰まっているのがこの天地宇宙です。
そして、実際はそうした分子の壁すらなく、全てが一体となっています。

そこには自他の別がありませんので、瞬時に共有されるということです。

つまり、私たちも天地に溶け合い、同じ一つの海となった瞬間、時間や距離に関係なく、天地の隅々までが
この全細胞にスッと通った状態になるということです。
そうなると、感じることと分かることが同時となります。

それが天地宇宙、そして私たちの本来の姿です。

早い話、肉体を離れれば、誰もがそのようになります。
他人(人間に限らず)の心が分かる。というより、分け隔てなく自分の心と一つとなります。

肉体のままでも、心に壁さえ無ければ同じような状態となります。
心が開放されている存在は、皆そうであるということです。
いわゆるテレパシーというのは、相手の心をキャッチしたり読み取ったりするものではなく、自他の別なくただ一つに
なった状態であるわけです。

少し脱線してしまいますが、そのようなわけですから、神社を前にして自分の住所や名前など浮かべる必要など
全くないということが分かります。
さらに言えば、手を合わせるよりも前、それこそ家を出るよりもさらに前の、最初に参拝を思い立った瞬間から
あちらからすれば、すでに心一つになっているということです。
手を合わせる寸前になって慌てて心つくろって畏まっても、何でもお見通しの神様はプッと吹き出していることでしょう。

でも、それはそれでイイのだと私は思っています。
それも含めて神様は優しく見守って下さっていますし、そんな子供のような必死さこそが私たちの素の姿だからです。
お澄ましを気取って、つれなくクールに繕うほうがよっぽど可愛くありません。

ただ、お社に手を合わせてから必死にあれこれ唱えたり、願い事にしがみついたりすることだけは、やめたほうが
いいと思います。
己の壁を余計に分厚くしていくことにしかなりませんし、そうした我利我利の暗闇であっても神様の方では分け隔て
なく一つになってしまいます。
大変に悲しいお気持ちにさせてしまうだけで、どちらも救われません。

とはいえ、なにも無理して明るく手を合わせろと言っているわけではありません。
苦しかったり、悲しかったり、その時の自分に正直になって、ただ手を合わせるだけです。
手を合わせる前から、神様は全て分かって下さっていますからガンガンとアピールする必要はないということです。

さて、話を元に戻したいと思います。
私たちは肉体や現実に囲まれて日々の我利我利に埋没していると、脳(理屈)優位な状態が習慣化してしまい、
針の穴ほどにギューッと押し潰された小さな感覚の中でジタバタすることになります。

自分の心とエネルギー(氣)がこの頭や胸に小さく縮こまった状態で日々を送っていると、自分の外界は全てが
「自分以外」となります。
つまり、縮こまった「自分」が、数多の「自分以外」に囲まれた状態ということです。

それは朝の通勤ラッシュに例えられるかもしれません。
ラッシュの人混みに揉まれてキュウキュウになっている心が、日常生活で続いているわけです。
その満員電車の中でたまたま知り合いに会ったり、ちょっとした楽しみに遭遇した時だけ、ホッと心が緩んだり
アドレナリンが出て元気になったりしますが、それ以外の時は、いつ終わるとも知れぬラッシュの中で日に日に
弱り果てていきます。

そのように、内(自分)と外(自分以外)を完全に分断させてしまうと、生きづらくなってしまいます。
何故ならば、それは天地宇宙や私たちの本来の姿ではないからです。

先ほどの話に戻りますが、距離に関係なく果ての果てまでをも瞬時に感じる感覚というのは、自分の体に置き換えると、
指先の感覚を瞬間的に全身で共有するあの感覚と同じようなものだと言えるかもしれません。
身近すぎて分かりにくいところですが、実際それも距離など関係なく同時にやってきています。
神経とかそういうものとは違う、私たちを包むものがあるわけです。
指先までが自分の一部となっているからこそ、自分全体で感じるような状態になるのです。

「自分の指なんだからそんなの当たり前だ」と言ってしまえばそれまでなのですが、その当たり前であることが、
他のあらゆることにも当てはまります。
つまりは、天地宇宙と私たちの間でも全く同じであるということです。

宇宙全体を我がこととして感じる...
「私たちは宇宙の一部なんだからそんなの当たり前だ」



断絶がなく全てが溶け合っていますと、果ての果てのことも自分自身として感じられます。
騙されたと思って、ためしにこれまでの思い込みを捨てて、宇宙全体が我がことであるのは「そんなの当たり前すぎる
だろう」と思ってみて下さい。
肩の重荷が降りたように、天地宇宙の広がりが細胞の底へとストンと落ちるかもしれません。

本来あたりまえであることを当たり前でなくしてしまっているのは、私たち自身です。
余計な心や意識が介在すると、そのオープンな状態がキュッと閉められてしまいます。
壁が出来た瞬間、断絶が生じてしまいます。
裏を返せば、そのような壁を作れるほどに、私たちの心は強大で自由自在なエネルギーであるということです。

先ほどの喩えで言えば、私たちは自分の指先までの全てが自分であると分かっている(=信じきっている)ため、
どんなに疲れていても四肢が自分以外のものだと思うようなことはありません。
しかし、もし「自分の体はこの肩までだ」と信じたならば、肩から先の腕や手は何も感じられなくなるでしょう。

何を訳のわからないことをと思われるかもしれませんが、私たちはそれと同じようなことを今この瞬間やっている
わけです。
自分の外界の感覚がブツブツと切れまくっているのは、つまりはそういうことです。
もともと私たちは、天地宇宙と一つに溶け合っている状態が当たり前だったのです。

心というのが難しいのは、わずかでも我欲が生じると瞬時に反応してしまうところです。
我欲というのは、心に伴うエネルギーや氣を固めたり縮めたり鈍化させてしまいます。

「よし、天地と溶け合おう」という気持ちが出てしまうと、一見すれば前向きでありながら、その我心こそがそれを
阻害する張本人になってしまいます。
先ほどの喩えを振り返っても、私たちは、もとよりこの身体の指先まで私たち自身であるわけです。
「よし、一つに溶け合おう」などと思ったりする必要もありません。

溶け合っているというのは、意識して能動的に混ぜて溶け合うというものではなく、単に元の状態に過ぎません。
異なる状態に何かを上書きをして元に戻るということはありません。
「元の状態に戻る」というのは、今の状態をリセットすることです。
表現を変えれば、今の状態を手放す、あるいは諦めるとも言えます。

とはいえ、後ろ髪を引かれているうちは、たとえ一時的にやめられたとしても、不完全燃焼の思いが最後の1%の
塊となって、何時までもくすぶり続けてしまいます。
完全に諦めるためには、懲りずに何度も痛い目にあって、疲れ果てるまでトコトンやり切ることが必要であるわけです。
それが何度も生まれ変わりを繰り返す理由の一つでもあります。

その意味では、我欲や我執というのは、忌み嫌ったり毛嫌いするものではないということになります。
それらに引っ張られるうちは、トコトンそれを味わい尽くすしかありません。
これもまた「諦めるしかない」「割り切るしか無い」ということです。
但し、それをそうと分かった上でやるのと、そうでないのとでは、天地の違いが出てきます。
分かった上で諦め切っていれば、泥水が少しずつ清まるようにして囚われが薄れていくでしょう。

もともとは当たり前の自然な状態だったものが、不自然な状態になるには、意識的な努力をしなくてはいけません。
これは、自分の指先に当てはめればすぐに分かります。
つまり「この指は自分自身ではない」と意識を使った時にだけ、当たり前なことが当たり前ではなくなります。
それを当たり前な状態に戻すには、「この指は自分自身だ」という新たな意識を上書きするのではなく、ただ
最初の意識を手放すだけです。

言ってしまえば、知らず知らずに私たちは、今この瞬間も、そうした分断のための努力を続けていることになります。
まずはそれに気がつくことが第一歩です。
今のこの感覚が当たり前なのではなく、これは不自然なのだと。

それを知ることで、左右に揺れ動く場面がさらに増えてしまうかもしれません。
右往左往したり、一歩進んで二歩下がったり、ダラダラと我欲に引かれて煮え切らなかったりする自分に苛立つ
かもしれません。

でも、それこそは必要な過程であるわけです。

何度も生まれ変わりながら、我執に負けて同じような生き方を繰り返し、それでもほんの少しずつ進んで生きます。

それを劣等生と見て、たった一回の人生で挽回しようとするのは、ラクしようとし過ぎかもしれません。
何度生まれ変わっても同じことを繰り返してるくらいなのですから、一回の人生の中で懲りずに何度か同じことを
繰り返したところで、気にすることではないではないですか。
何度だって繰り返せばいいのです。

私たちの魂というのは、それこそ永遠です。
たった一回で三段跳びに上がろうなどと焦る必要はありません。
気負うことなく、そのくらいのいい加減さで気楽にやった方が、かえってスイスイと行くものです。
何ごとも、眉間にシワ寄せて我利我利やるより、楽しみながらやっていった方が、結果的に三段跳びになるという
ものです。

心に一切の迷いなく自然に手を放すためには、優等生的に分かったフリをするのではなく、不恰好だろうと疲れる果てる
までギューッと力強く握り締めることが素への道となります。

気になってしまう時は、見て見ぬフリをするよりも、面と向かった方が素直です。
そのことで自分を非難する必要は全くありません。
それをやるために今回もこの世に生まれてきているわけです。

甘い言葉というのは、未来永劫、無くなることはありません。
しかし自分の心に正直になって、しっかり向き合っていくうちに、いつしかそれは雑音となり、そのうちその音も
全く気にならなくなっていくでしょう。

(つづく)



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