被災地の皆様に慎んでお見舞い申し上げます。
私ごとになりますが、会社の基幹工場が被災し、この10日あまり復旧支援に努めてきました。
ゴールは遥か遠く、まだまだ長い道のりです。
関係者一同寝ずの対応で「ヨシ!あと少し」というところまで行くのですが、そのたび余震に襲われて一からやり直し。
そんなことが一週間も続くと、疲労も限界に達し、さすがにヤバいかなと思うこともありました。
茫然としながら途方に暮れている時、心にスーッとある言葉が浮かびました。
「大調和」
今回ブログを書くのは躊躇われたのですが、浮かぶにまかせて綴っていきたいと思います。
始まりは、この世というものができる前にさかのぼります。
そこは、もともと波ひとつない大調和の世界でした。
平穏とも、平安とも言える世界です。
ある時、そこにほんのわずかの片寄りと揺らぎが生じ、たちまちにしてこの現実世界ができあがりました。
私たちのこの世界とは、大調和の上に存在する、揺らぎの結晶であるわけです。
揺らぎが流れを呼び、変化となりました。
絶え間なく流動する世界、それが天地宇宙となったのでした。
そうして今はそこから再び、元の大調和へと向かっています。
お盆の水というのは、運んでいる時はチャプチャプと波立ちますが、机に置くと勝手に落ち着いていきます。
それは物理の為せるものですが、では何故に物理現象としてそうなるのかと言えば、究極的には天地宇宙というものは
全てが安定へと向かっているものだからと言えます。
ただそれは決して、元の状態が正しいとか、今が良くないとか、そういうことではありません。
完全に調和した状態というのは、逆に言えば、何ひとつ変化がない世界です。
一切の片寄りがないと揺らぎというものが発生しません。
揺らぎが無いということは、ずーっと今のままの状態が続くということになるわけです。
たとえば自分一人しか存在しない世界を想像した時、もしも初めからそうであったとするならば、そこには他人という
概念もなければ、自己という概念も無かったでしょう。
それと同じように、片寄りや不安定というものが一切存在し無ければ、安定や安心という概念も無かったはずです。
それしか知らない時というのは、それが当たり前だったとしても、やはりとてもまったりしていたことでしょう。
そうして新たな刺激を求めた瞬間、水面を優しく撫でるようにしてわずかな揺らぎが起こり、天地宇宙や私たちがこうして
存在するに至りました。
完全調和を崩すということは、統一された自己を分裂させることと同義となります。
例として、私たちが自分自身と思っているこの身体というのは、完全な調和が保たれているからこそ、一つの自己として
認識されています。
しかし、もしもその調和が崩されたら、そこには自己と認識できない部分が現れることになります。
その時その部分が自覚を持って存在していたならば、もはやそれは自己以外の自己ということになるでしょう。
これが天地創造の仕組みであり、「全にして一であった大いなる存在」がいくつもの分け御霊へ分かれた過程でもあります。
原初にあった波ひとつない調和というのは、変化を望む思いによって崩されたということです。
完全調和の状態というのは、どのような変化も起こりようがありません。
変化が無いということは、ずっと同じ状態が続くということ。
ですから「創造」という概念は、完全調和が崩れることによって初めて生じるということが分かります。
素戔嗚尊やシヴァ神の存在というのは、まさにそこにあるわけです。
その役割とはあくまで、揺らぎや波立ちという程度のものであって、あらゆるものをぶっ壊すというような過激なものでは
ありませんでした。
ただ、それが地球規模の揺らぎとなると、人間の目から見れば結果としてそのように映ることもあったかもしれません。
そして、そのエネルギーは当然ながら、天地宇宙そのものである私たちの中にも存在します。
男児が、わざわざ日常平和をかき乱そうとするのは、天地の初発の衝動を現すものと言えるでしょう。
その一方で女子というのが、平穏無事を求めて仲裁に走るのもまた、天地宇宙の一側面であるわけです。
男性性というのは不安定やカオスを求め、女性性は安定や調和を求める。
それらは、いずれも天地の姿そのものということです。
人間考えでは「男というのは本当にしょーもないことばかりする」となりますが、天地宇宙の視野に立てば、どちらも
同じく等しいわけです。
高い所と低い所があればこそ、水は流れることが出来ます。
高い圧と低い圧があればこそ、風はただようことが出来ます。
変化というのは、そこに片寄りが存在することによってこの世に現出することができるのです。
先ほどのように不安定やカオスと書くと、私たちはネガティヴなイメージを描いてしまいますが、それは天地宇宙に
とっては、前へと進むための不可欠な要素と位置づけられます。
水の流れや風の漂いと同じように、そうした高低差によって生じるのが「チャレンジしようとする思い」であり「向上心」
であるわけです。
好奇心や向上心、挑戦欲というのは、天地宇宙にあまねく根源的なエネルギーです。
その一方で、調和と寛容性というのもまた天地宇宙に遍満する始原的なエネルギーです。
前者は男性性の象徴であり、後者は女性性の象徴と言えます。
そしてまた、前者が奇魂と荒魂であり、後者が和魂と幸魂ということになります。
天地宇宙が初発から抱き、また今現在もその全てを満たしているエネルギーを、私たちは完全無欠にこの身に宿している
のです。
あるいはそれらを国というものに置き換えるならば、前者は欧米諸国であり、後者は日本と言うことができるでしょう。
チャレンジングな気持ちとしては、フロンティアスピリット(開拓精神)というのが一番分かりやすいかもしれません。
それは実際に新大陸を切り拓くというだけでなく、科学や研究開発など様々な分野でも見られるものです。
そうしたものの根底に流れるのは「未知」への探究心です。
知らないことを知るところに、私たちは最高の喜びを感じる。
そうであるならば、この世に生まれて日々に生きるとは、まさにそれそのものではないでしょうか。
この世の中、一寸先は闇。
人生とは想定外の出来事ばかり。
分からないこと、知らないことだらけです。
なぜ私たちは未来が分からないのか、なぜ生まれる前の記憶は無いのか。
すべては「未知」をより深く味わうためのお膳立てであるわけです。
それは必ずしも幸福な出来事ばかりではないかもしれません。
ただ、この世に生きるというその一歩一歩が、すでにチャレンジそのものであるということなのです。
少し話を戻しますが、天地宇宙が大調和へ向かっている今というのは、ただ元の状態に戻ろうとしている途上に過ぎません。
そこだけを見れば、大調和が絶対正義であるかのように見えてしまいますが、そういうことではありません。
たまたま今はそこへ向かっていますが、大局的に見れば、大調和の先には再びカタルシスがあると言えるでしょう。
天地宇宙にとっては大調和がゴールではないわけです。
天地宇宙とは、元に戻ることを願っているのではなく、変化というこの流れにこそ喜びを感じているのです。
ビッグバンから、ビッグクランチ(無次元の特異点への収束)へと至り、再びまたビッグバンへ。
そのように天地宇宙の大いなる呼吸は延々と続いていくのでしょう。
調和がいいとか、カタルシスが悪いとか、それは不毛な価値観でしかないわけです。
この広大な流れというのはあまねく天地宇宙に広がるものですから、私たちの人生や日常にも同じように投影されます。
つまり安定や平和そのものが最終的なゴールなのではなく、そこへと至る道中、その過程、すなわち「今」というのが
常に、この世の全ての価値の凝縮であるということです。
言い変えれば、安定へと向かう“途上”、「~してる最中」というのが、この上ない喜びということです。
旅行の楽しみというのは、その道中にあります。
自宅に戻ることが喜びでは無いはずです。
安定や平穏無事が幸福だと思うのは全くの幻想であり、それは馬の人参でしかありません。
「今ここ」こそが幸福の真っ只中。
『青い鳥』とはそういうことなのです。
別の見方をすれば、何度も倒れながら起き上がる「あしたのジョー」の姿に私たちの魂は喜びを感じるとも言えます。
昭和という時代には、敗戦のドン底から這い上がった記憶が残っていたため、ボコボコにされながら立ち上がるスポ根
ものや、果てしなく不幸が続く世界名作劇場が喜ばれました。
険しい坂を登ることがそのまま喜びであることを、大人たちはヒリヒリとその皮膚に残していたのではないでしょうか。
明治にしても、坂の上の雲を目指して一心不乱に登ることがその輝きとなったわけであり、実際に坂の上へと登り着いて
しまった時、夢に描いた幸福はそこに無く、再び青い鳥を求めて彷徨うことになってしまいました。
それが敗戦で焼け野原になると、奈落の底から歯を食いしばって必死に登る途上に、再び私たちは幸せを感じたのでした。
そして平成に入って平穏無事に浸かると、そこにあると思っていた喜びはまたも見失われてしまいました。
苦難の中に内包される光、それは漆黒の内に在る小さき白点です。
黒の中にあって初めて白は輝き、そこに喜びを見出します。
しかし、全てが白となった時、そこは安定という名の無音の世界となります。
それでは、その先が無い。
だから、陰陽図の白の中には小さな黒が存在しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/78/b0670a8ee12de88adceaddb1ed44e1c3.jpg)
それは、清らかな中にも淀みはあるというような綺麗事を示しているわけではありません。
それこそが、この天地宇宙の思いであり、望みそのものを現しているのです。
それはまた天照大御神と素戔嗚尊の姿であり、天地のバランスと成りました。
白の中の黒点、そして黒の中の白点。
その姿は、女神である天照大御神が男神を生み、男神である素戔嗚尊が女神を生んだ、天の安河での「うけひ」にも
現われています。
いま現在あらゆる流れは、安定・調和へと向かっています。
では、その途上に現れるこの激震とは何なのでしょうか。
それを産みの苦しみなどと軽く済ませるのはあまりにも乱暴に思えます。
誤解を恐れずに言えば、それは粉をふるいにかけて落とす時のトントントンという振動のようなものかもしれません。
あらゆる粒子はより微細な状態へと向かって、サラサラサラと流れていきます。
すなわち凝縮から拡散へと向かうことによって、より流動性が高まるということです。
そしてその何処に片寄るかは、たまたまに過ぎません。
そこに蓋然性はありません。
その場所が滞ってるとか詰まってるとかそういうことでは無いのです。
ただ、粒子が目一杯に詰まっている状態では互いにバランスを取ってしまい、網の目からは何も落ちなくなります。
この世はすべてが安定に向かっているため、わずかに不完全であろうとも常にその状態での安定というものを目指すのです。
より一層に安定した状態というのは、今よりもさらに微細な世界の中にあります。
まだ粗さの残る安定状態にあってその拮抗が崩れる時というのは、まず最初に一ヶ所からサーッと流れ落ち、それに続く
ようにして一気に全体が流れていくことになります。
そしてその初めというのは、やはりこの日本であるわけです。
何故ならば、今の日本は、まさに黒の中の白点であるからです。
黒から白へと、また白から黒へと。
白そのものや、黒そのものよりも、そこへと向かう過程にこそ生命の輝きがあるということです。
ひるがえって目の前の現実に意識を戻してみますと、そうは言っても苦しみというのは事実として存在しますし、決して
割り切れるものでもありません。
苦しいという事実は、何をどのように理屈づけても、事実は事実です。
天地宇宙の大いなる流れを前に、あぁコレも天地の営みなのかと、今の苦しみがわずかでも軽減されれば幸いです。
ただ、無理矢理こじ付ける必要はありません。
私自身、今も目の前に忙殺されて汲々としています。
天地の流れを見れば、なるほど仕方がないことかと思いもしますが、次の瞬間には、いつ終わるともしれぬ登り坂を
鬱々と踏み締める自分が居ます。
でも、それでイイのだと思います。
私たちは、天地宇宙の大いなる心になる必要など無いのです。
いや、むしろ実際はこうして地団駄を踏みながらガムシャラに生きることこそ、その役割を全うしていることになる
のだと思います。
一喜一憂して、苦しみ悲しみ笑うことが、私たちが天地の大いなる存在である証しなのです。
何度でも谷底へと落とされて、また再び登る今この瞬間が、天地宇宙である私たち自身にとっては喜びであるのでしょう。
しかし、今、無理やりにそれを喜びに変換させる必要など無い。
大丈夫。
そんなものは、いつの日か、死ぬ間際にでも感じればいいことです。
安定した平和な日常を求める思いというのは、天地創造前の完全調和へと再び向かう大河の流れと同じものです。
不完全さにせよ片寄りにせよ、あるいはカタルシスにせよ、全ては「変化」を起こすためのものです。
救われないような絶望の今であっても、それが光に向かう「途上」である限りは、その瞬間こそがこの世に生きる輝き
そのものであるわけです。
遥か遠くに輝ける幸せというのは、大空を舞う紙飛行機のようなもので、手を広げてそれを追い駆ける姿こそが美しい。
そこに向かおうとする今この瞬間こそが、限りなく尊いのです。
あの光には絶対に辿り着けないと絶望して立ち止まることはありません。
辿り着くことが大切なのではなく、辿り着こうとすることが大切ということです。
その中には当然、苦悩も含まれます。
あらゆる喜怒哀楽、それこそが今この瞬間の輝きとなるのです。
目指すゴールに近づいているか否か、そこに価値などありません。
どのような形であろうと、日々を生きていることが、そのままこの世の目的を満たすことになります。
終わることが無いように見える今この苦境であっても、いつまでもそれが続くものではありません。
この世はすべて、より微細な状態へと向かっています。
そしてまた、苦しみというものは、それそのままで輝きとなっています。
空高く浮かぶあの雲に向かって、どこまでも、どこまでも。
そうして、今日という日を踏みしめていきたいと思います。
今をいかして頂いている全ての存在に感謝しながら。
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ゴールは遥か遠く、まだまだ長い道のりです。
関係者一同寝ずの対応で「ヨシ!あと少し」というところまで行くのですが、そのたび余震に襲われて一からやり直し。
そんなことが一週間も続くと、疲労も限界に達し、さすがにヤバいかなと思うこともありました。
茫然としながら途方に暮れている時、心にスーッとある言葉が浮かびました。
「大調和」
今回ブログを書くのは躊躇われたのですが、浮かぶにまかせて綴っていきたいと思います。
始まりは、この世というものができる前にさかのぼります。
そこは、もともと波ひとつない大調和の世界でした。
平穏とも、平安とも言える世界です。
ある時、そこにほんのわずかの片寄りと揺らぎが生じ、たちまちにしてこの現実世界ができあがりました。
私たちのこの世界とは、大調和の上に存在する、揺らぎの結晶であるわけです。
揺らぎが流れを呼び、変化となりました。
絶え間なく流動する世界、それが天地宇宙となったのでした。
そうして今はそこから再び、元の大調和へと向かっています。
お盆の水というのは、運んでいる時はチャプチャプと波立ちますが、机に置くと勝手に落ち着いていきます。
それは物理の為せるものですが、では何故に物理現象としてそうなるのかと言えば、究極的には天地宇宙というものは
全てが安定へと向かっているものだからと言えます。
ただそれは決して、元の状態が正しいとか、今が良くないとか、そういうことではありません。
完全に調和した状態というのは、逆に言えば、何ひとつ変化がない世界です。
一切の片寄りがないと揺らぎというものが発生しません。
揺らぎが無いということは、ずーっと今のままの状態が続くということになるわけです。
たとえば自分一人しか存在しない世界を想像した時、もしも初めからそうであったとするならば、そこには他人という
概念もなければ、自己という概念も無かったでしょう。
それと同じように、片寄りや不安定というものが一切存在し無ければ、安定や安心という概念も無かったはずです。
それしか知らない時というのは、それが当たり前だったとしても、やはりとてもまったりしていたことでしょう。
そうして新たな刺激を求めた瞬間、水面を優しく撫でるようにしてわずかな揺らぎが起こり、天地宇宙や私たちがこうして
存在するに至りました。
完全調和を崩すということは、統一された自己を分裂させることと同義となります。
例として、私たちが自分自身と思っているこの身体というのは、完全な調和が保たれているからこそ、一つの自己として
認識されています。
しかし、もしもその調和が崩されたら、そこには自己と認識できない部分が現れることになります。
その時その部分が自覚を持って存在していたならば、もはやそれは自己以外の自己ということになるでしょう。
これが天地創造の仕組みであり、「全にして一であった大いなる存在」がいくつもの分け御霊へ分かれた過程でもあります。
原初にあった波ひとつない調和というのは、変化を望む思いによって崩されたということです。
完全調和の状態というのは、どのような変化も起こりようがありません。
変化が無いということは、ずっと同じ状態が続くということ。
ですから「創造」という概念は、完全調和が崩れることによって初めて生じるということが分かります。
素戔嗚尊やシヴァ神の存在というのは、まさにそこにあるわけです。
その役割とはあくまで、揺らぎや波立ちという程度のものであって、あらゆるものをぶっ壊すというような過激なものでは
ありませんでした。
ただ、それが地球規模の揺らぎとなると、人間の目から見れば結果としてそのように映ることもあったかもしれません。
そして、そのエネルギーは当然ながら、天地宇宙そのものである私たちの中にも存在します。
男児が、わざわざ日常平和をかき乱そうとするのは、天地の初発の衝動を現すものと言えるでしょう。
その一方で女子というのが、平穏無事を求めて仲裁に走るのもまた、天地宇宙の一側面であるわけです。
男性性というのは不安定やカオスを求め、女性性は安定や調和を求める。
それらは、いずれも天地の姿そのものということです。
人間考えでは「男というのは本当にしょーもないことばかりする」となりますが、天地宇宙の視野に立てば、どちらも
同じく等しいわけです。
高い所と低い所があればこそ、水は流れることが出来ます。
高い圧と低い圧があればこそ、風はただようことが出来ます。
変化というのは、そこに片寄りが存在することによってこの世に現出することができるのです。
先ほどのように不安定やカオスと書くと、私たちはネガティヴなイメージを描いてしまいますが、それは天地宇宙に
とっては、前へと進むための不可欠な要素と位置づけられます。
水の流れや風の漂いと同じように、そうした高低差によって生じるのが「チャレンジしようとする思い」であり「向上心」
であるわけです。
好奇心や向上心、挑戦欲というのは、天地宇宙にあまねく根源的なエネルギーです。
その一方で、調和と寛容性というのもまた天地宇宙に遍満する始原的なエネルギーです。
前者は男性性の象徴であり、後者は女性性の象徴と言えます。
そしてまた、前者が奇魂と荒魂であり、後者が和魂と幸魂ということになります。
天地宇宙が初発から抱き、また今現在もその全てを満たしているエネルギーを、私たちは完全無欠にこの身に宿している
のです。
あるいはそれらを国というものに置き換えるならば、前者は欧米諸国であり、後者は日本と言うことができるでしょう。
チャレンジングな気持ちとしては、フロンティアスピリット(開拓精神)というのが一番分かりやすいかもしれません。
それは実際に新大陸を切り拓くというだけでなく、科学や研究開発など様々な分野でも見られるものです。
そうしたものの根底に流れるのは「未知」への探究心です。
知らないことを知るところに、私たちは最高の喜びを感じる。
そうであるならば、この世に生まれて日々に生きるとは、まさにそれそのものではないでしょうか。
この世の中、一寸先は闇。
人生とは想定外の出来事ばかり。
分からないこと、知らないことだらけです。
なぜ私たちは未来が分からないのか、なぜ生まれる前の記憶は無いのか。
すべては「未知」をより深く味わうためのお膳立てであるわけです。
それは必ずしも幸福な出来事ばかりではないかもしれません。
ただ、この世に生きるというその一歩一歩が、すでにチャレンジそのものであるということなのです。
少し話を戻しますが、天地宇宙が大調和へ向かっている今というのは、ただ元の状態に戻ろうとしている途上に過ぎません。
そこだけを見れば、大調和が絶対正義であるかのように見えてしまいますが、そういうことではありません。
たまたま今はそこへ向かっていますが、大局的に見れば、大調和の先には再びカタルシスがあると言えるでしょう。
天地宇宙にとっては大調和がゴールではないわけです。
天地宇宙とは、元に戻ることを願っているのではなく、変化というこの流れにこそ喜びを感じているのです。
ビッグバンから、ビッグクランチ(無次元の特異点への収束)へと至り、再びまたビッグバンへ。
そのように天地宇宙の大いなる呼吸は延々と続いていくのでしょう。
調和がいいとか、カタルシスが悪いとか、それは不毛な価値観でしかないわけです。
この広大な流れというのはあまねく天地宇宙に広がるものですから、私たちの人生や日常にも同じように投影されます。
つまり安定や平和そのものが最終的なゴールなのではなく、そこへと至る道中、その過程、すなわち「今」というのが
常に、この世の全ての価値の凝縮であるということです。
言い変えれば、安定へと向かう“途上”、「~してる最中」というのが、この上ない喜びということです。
旅行の楽しみというのは、その道中にあります。
自宅に戻ることが喜びでは無いはずです。
安定や平穏無事が幸福だと思うのは全くの幻想であり、それは馬の人参でしかありません。
「今ここ」こそが幸福の真っ只中。
『青い鳥』とはそういうことなのです。
別の見方をすれば、何度も倒れながら起き上がる「あしたのジョー」の姿に私たちの魂は喜びを感じるとも言えます。
昭和という時代には、敗戦のドン底から這い上がった記憶が残っていたため、ボコボコにされながら立ち上がるスポ根
ものや、果てしなく不幸が続く世界名作劇場が喜ばれました。
険しい坂を登ることがそのまま喜びであることを、大人たちはヒリヒリとその皮膚に残していたのではないでしょうか。
明治にしても、坂の上の雲を目指して一心不乱に登ることがその輝きとなったわけであり、実際に坂の上へと登り着いて
しまった時、夢に描いた幸福はそこに無く、再び青い鳥を求めて彷徨うことになってしまいました。
それが敗戦で焼け野原になると、奈落の底から歯を食いしばって必死に登る途上に、再び私たちは幸せを感じたのでした。
そして平成に入って平穏無事に浸かると、そこにあると思っていた喜びはまたも見失われてしまいました。
苦難の中に内包される光、それは漆黒の内に在る小さき白点です。
黒の中にあって初めて白は輝き、そこに喜びを見出します。
しかし、全てが白となった時、そこは安定という名の無音の世界となります。
それでは、その先が無い。
だから、陰陽図の白の中には小さな黒が存在しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/78/b0670a8ee12de88adceaddb1ed44e1c3.jpg)
それは、清らかな中にも淀みはあるというような綺麗事を示しているわけではありません。
それこそが、この天地宇宙の思いであり、望みそのものを現しているのです。
それはまた天照大御神と素戔嗚尊の姿であり、天地のバランスと成りました。
白の中の黒点、そして黒の中の白点。
その姿は、女神である天照大御神が男神を生み、男神である素戔嗚尊が女神を生んだ、天の安河での「うけひ」にも
現われています。
いま現在あらゆる流れは、安定・調和へと向かっています。
では、その途上に現れるこの激震とは何なのでしょうか。
それを産みの苦しみなどと軽く済ませるのはあまりにも乱暴に思えます。
誤解を恐れずに言えば、それは粉をふるいにかけて落とす時のトントントンという振動のようなものかもしれません。
あらゆる粒子はより微細な状態へと向かって、サラサラサラと流れていきます。
すなわち凝縮から拡散へと向かうことによって、より流動性が高まるということです。
そしてその何処に片寄るかは、たまたまに過ぎません。
そこに蓋然性はありません。
その場所が滞ってるとか詰まってるとかそういうことでは無いのです。
ただ、粒子が目一杯に詰まっている状態では互いにバランスを取ってしまい、網の目からは何も落ちなくなります。
この世はすべてが安定に向かっているため、わずかに不完全であろうとも常にその状態での安定というものを目指すのです。
より一層に安定した状態というのは、今よりもさらに微細な世界の中にあります。
まだ粗さの残る安定状態にあってその拮抗が崩れる時というのは、まず最初に一ヶ所からサーッと流れ落ち、それに続く
ようにして一気に全体が流れていくことになります。
そしてその初めというのは、やはりこの日本であるわけです。
何故ならば、今の日本は、まさに黒の中の白点であるからです。
黒から白へと、また白から黒へと。
白そのものや、黒そのものよりも、そこへと向かう過程にこそ生命の輝きがあるということです。
ひるがえって目の前の現実に意識を戻してみますと、そうは言っても苦しみというのは事実として存在しますし、決して
割り切れるものでもありません。
苦しいという事実は、何をどのように理屈づけても、事実は事実です。
天地宇宙の大いなる流れを前に、あぁコレも天地の営みなのかと、今の苦しみがわずかでも軽減されれば幸いです。
ただ、無理矢理こじ付ける必要はありません。
私自身、今も目の前に忙殺されて汲々としています。
天地の流れを見れば、なるほど仕方がないことかと思いもしますが、次の瞬間には、いつ終わるともしれぬ登り坂を
鬱々と踏み締める自分が居ます。
でも、それでイイのだと思います。
私たちは、天地宇宙の大いなる心になる必要など無いのです。
いや、むしろ実際はこうして地団駄を踏みながらガムシャラに生きることこそ、その役割を全うしていることになる
のだと思います。
一喜一憂して、苦しみ悲しみ笑うことが、私たちが天地の大いなる存在である証しなのです。
何度でも谷底へと落とされて、また再び登る今この瞬間が、天地宇宙である私たち自身にとっては喜びであるのでしょう。
しかし、今、無理やりにそれを喜びに変換させる必要など無い。
大丈夫。
そんなものは、いつの日か、死ぬ間際にでも感じればいいことです。
安定した平和な日常を求める思いというのは、天地創造前の完全調和へと再び向かう大河の流れと同じものです。
不完全さにせよ片寄りにせよ、あるいはカタルシスにせよ、全ては「変化」を起こすためのものです。
救われないような絶望の今であっても、それが光に向かう「途上」である限りは、その瞬間こそがこの世に生きる輝き
そのものであるわけです。
遥か遠くに輝ける幸せというのは、大空を舞う紙飛行機のようなもので、手を広げてそれを追い駆ける姿こそが美しい。
そこに向かおうとする今この瞬間こそが、限りなく尊いのです。
あの光には絶対に辿り着けないと絶望して立ち止まることはありません。
辿り着くことが大切なのではなく、辿り着こうとすることが大切ということです。
その中には当然、苦悩も含まれます。
あらゆる喜怒哀楽、それこそが今この瞬間の輝きとなるのです。
目指すゴールに近づいているか否か、そこに価値などありません。
どのような形であろうと、日々を生きていることが、そのままこの世の目的を満たすことになります。
終わることが無いように見える今この苦境であっても、いつまでもそれが続くものではありません。
この世はすべて、より微細な状態へと向かっています。
そしてまた、苦しみというものは、それそのままで輝きとなっています。
空高く浮かぶあの雲に向かって、どこまでも、どこまでも。
そうして、今日という日を踏みしめていきたいと思います。
今をいかして頂いている全ての存在に感謝しながら。
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