これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

旅の喜びはその道中にあり

2016-04-26 22:28:02 | 天地の仕組み
被災地の皆様に慎んでお見舞い申し上げます。

私ごとになりますが、会社の基幹工場が被災し、この10日あまり復旧支援に努めてきました。
ゴールは遥か遠く、まだまだ長い道のりです。

関係者一同寝ずの対応で「ヨシ!あと少し」というところまで行くのですが、そのたび余震に襲われて一からやり直し。
そんなことが一週間も続くと、疲労も限界に達し、さすがにヤバいかなと思うこともありました。

茫然としながら途方に暮れている時、心にスーッとある言葉が浮かびました。

「大調和」

今回ブログを書くのは躊躇われたのですが、浮かぶにまかせて綴っていきたいと思います。



始まりは、この世というものができる前にさかのぼります。

そこは、もともと波ひとつない大調和の世界でした。
平穏とも、平安とも言える世界です。

ある時、そこにほんのわずかの片寄りと揺らぎが生じ、たちまちにしてこの現実世界ができあがりました。

私たちのこの世界とは、大調和の上に存在する、揺らぎの結晶であるわけです。

揺らぎが流れを呼び、変化となりました。
絶え間なく流動する世界、それが天地宇宙となったのでした。

そうして今はそこから再び、元の大調和へと向かっています。

お盆の水というのは、運んでいる時はチャプチャプと波立ちますが、机に置くと勝手に落ち着いていきます。
それは物理の為せるものですが、では何故に物理現象としてそうなるのかと言えば、究極的には天地宇宙というものは
全てが安定へと向かっているものだからと言えます。

ただそれは決して、元の状態が正しいとか、今が良くないとか、そういうことではありません。

完全に調和した状態というのは、逆に言えば、何ひとつ変化がない世界です。
一切の片寄りがないと揺らぎというものが発生しません。
揺らぎが無いということは、ずーっと今のままの状態が続くということになるわけです。

たとえば自分一人しか存在しない世界を想像した時、もしも初めからそうであったとするならば、そこには他人という
概念もなければ、自己という概念も無かったでしょう。
それと同じように、片寄りや不安定というものが一切存在し無ければ、安定や安心という概念も無かったはずです。

それしか知らない時というのは、それが当たり前だったとしても、やはりとてもまったりしていたことでしょう。
そうして新たな刺激を求めた瞬間、水面を優しく撫でるようにしてわずかな揺らぎが起こり、天地宇宙や私たちがこうして
存在するに至りました。

完全調和を崩すということは、統一された自己を分裂させることと同義となります。

例として、私たちが自分自身と思っているこの身体というのは、完全な調和が保たれているからこそ、一つの自己として
認識されています。
しかし、もしもその調和が崩されたら、そこには自己と認識できない部分が現れることになります。
その時その部分が自覚を持って存在していたならば、もはやそれは自己以外の自己ということになるでしょう。

これが天地創造の仕組みであり、「全にして一であった大いなる存在」がいくつもの分け御霊へ分かれた過程でもあります。

原初にあった波ひとつない調和というのは、変化を望む思いによって崩されたということです。

完全調和の状態というのは、どのような変化も起こりようがありません。
変化が無いということは、ずっと同じ状態が続くということ。
ですから「創造」という概念は、完全調和が崩れることによって初めて生じるということが分かります。

素戔嗚尊やシヴァ神の存在というのは、まさにそこにあるわけです。

その役割とはあくまで、揺らぎや波立ちという程度のものであって、あらゆるものをぶっ壊すというような過激なものでは
ありませんでした。
ただ、それが地球規模の揺らぎとなると、人間の目から見れば結果としてそのように映ることもあったかもしれません。

そして、そのエネルギーは当然ながら、天地宇宙そのものである私たちの中にも存在します。

男児が、わざわざ日常平和をかき乱そうとするのは、天地の初発の衝動を現すものと言えるでしょう。
その一方で女子というのが、平穏無事を求めて仲裁に走るのもまた、天地宇宙の一側面であるわけです。

男性性というのは不安定やカオスを求め、女性性は安定や調和を求める。
それらは、いずれも天地の姿そのものということです。


人間考えでは「男というのは本当にしょーもないことばかりする」となりますが、天地宇宙の視野に立てば、どちらも
同じく等しいわけです。

高い所と低い所があればこそ、水は流れることが出来ます。
高い圧と低い圧があればこそ、風はただようことが出来ます。

変化というのは、そこに片寄りが存在することによってこの世に現出することができるのです。

先ほどのように不安定やカオスと書くと、私たちはネガティヴなイメージを描いてしまいますが、それは天地宇宙に
とっては、前へと進むための不可欠な要素と位置づけられます。
水の流れや風の漂いと同じように、そうした高低差によって生じるのが「チャレンジしようとする思い」であり「向上心」
であるわけです。

好奇心や向上心、挑戦欲というのは、天地宇宙にあまねく根源的なエネルギーです。
その一方で、調和と寛容性というのもまた天地宇宙に遍満する始原的なエネルギーです。

前者は男性性の象徴であり、後者は女性性の象徴と言えます。
そしてまた、前者が奇魂と荒魂であり、後者が和魂と幸魂ということになります。

天地宇宙が初発から抱き、また今現在もその全てを満たしているエネルギーを、私たちは完全無欠にこの身に宿している
のです。


あるいはそれらを国というものに置き換えるならば、前者は欧米諸国であり、後者は日本と言うことができるでしょう。

チャレンジングな気持ちとしては、フロンティアスピリット(開拓精神)というのが一番分かりやすいかもしれません。
それは実際に新大陸を切り拓くというだけでなく、科学や研究開発など様々な分野でも見られるものです。

そうしたものの根底に流れるのは「未知」への探究心です。

知らないことを知るところに、私たちは最高の喜びを感じる。
そうであるならば、この世に生まれて日々に生きるとは、まさにそれそのものではないでしょうか。

この世の中、一寸先は闇。
人生とは想定外の出来事ばかり。
分からないこと、知らないことだらけです。

なぜ私たちは未来が分からないのか、なぜ生まれる前の記憶は無いのか。
すべては「未知」をより深く味わうためのお膳立てであるわけです。

それは必ずしも幸福な出来事ばかりではないかもしれません。
ただ、この世に生きるというその一歩一歩が、すでにチャレンジそのものであるということなのです。


少し話を戻しますが、天地宇宙が大調和へ向かっている今というのは、ただ元の状態に戻ろうとしている途上に過ぎません。
そこだけを見れば、大調和が絶対正義であるかのように見えてしまいますが、そういうことではありません。
たまたま今はそこへ向かっていますが、大局的に見れば、大調和の先には再びカタルシスがあると言えるでしょう。

天地宇宙にとっては大調和がゴールではないわけです。

天地宇宙とは、元に戻ることを願っているのではなく、変化というこの流れにこそ喜びを感じているのです。

ビッグバンから、ビッグクランチ(無次元の特異点への収束)へと至り、再びまたビッグバンへ。
そのように天地宇宙の大いなる呼吸は延々と続いていくのでしょう。

調和がいいとか、カタルシスが悪いとか、それは不毛な価値観でしかないわけです。


この広大な流れというのはあまねく天地宇宙に広がるものですから、私たちの人生や日常にも同じように投影されます。

つまり安定や平和そのものが最終的なゴールなのではなく、そこへと至る道中、その過程、すなわち「今」というのが
常に、この世の全ての価値の凝縮であるということです。

言い変えれば、安定へと向かう“途上”、「~してる最中」というのが、この上ない喜びということです。


旅行の楽しみというのは、その道中にあります。
自宅に戻ることが喜びでは無いはずです。

安定や平穏無事が幸福だと思うのは全くの幻想であり、それは馬の人参でしかありません。
「今ここ」こそが幸福の真っ只中。
『青い鳥』とはそういうことなのです。


別の見方をすれば、何度も倒れながら起き上がる「あしたのジョー」の姿に私たちの魂は喜びを感じるとも言えます。

昭和という時代には、敗戦のドン底から這い上がった記憶が残っていたため、ボコボコにされながら立ち上がるスポ根
ものや、果てしなく不幸が続く世界名作劇場が喜ばれました。
険しい坂を登ることがそのまま喜びであることを、大人たちはヒリヒリとその皮膚に残していたのではないでしょうか。

明治にしても、坂の上の雲を目指して一心不乱に登ることがその輝きとなったわけであり、実際に坂の上へと登り着いて
しまった時、夢に描いた幸福はそこに無く、再び青い鳥を求めて彷徨うことになってしまいました。

それが敗戦で焼け野原になると、奈落の底から歯を食いしばって必死に登る途上に、再び私たちは幸せを感じたのでした。

そして平成に入って平穏無事に浸かると、そこにあると思っていた喜びはまたも見失われてしまいました。

苦難の中に内包される光、それは漆黒の内に在る小さき白点です。
黒の中にあって初めて白は輝き、そこに喜びを見出します。

しかし、全てが白となった時、そこは安定という名の無音の世界となります。
それでは、その先が無い。
だから、陰陽図の白の中には小さな黒が存在しているのです。


それは、清らかな中にも淀みはあるというような綺麗事を示しているわけではありません。
それこそが、この天地宇宙の思いであり、望みそのものを現しているのです。

それはまた天照大御神と素戔嗚尊の姿であり、天地のバランスと成りました。

白の中の黒点、そして黒の中の白点。
その姿は、女神である天照大御神が男神を生み、男神である素戔嗚尊が女神を生んだ、天の安河での「うけひ」にも
現われています。


いま現在あらゆる流れは、安定・調和へと向かっています。
では、その途上に現れるこの激震とは何なのでしょうか。
それを産みの苦しみなどと軽く済ませるのはあまりにも乱暴に思えます。

誤解を恐れずに言えば、それは粉をふるいにかけて落とす時のトントントンという振動のようなものかもしれません。

あらゆる粒子はより微細な状態へと向かって、サラサラサラと流れていきます。
すなわち凝縮から拡散へと向かうことによって、より流動性が高まるということです。

そしてその何処に片寄るかは、たまたまに過ぎません。
そこに蓋然性はありません。
その場所が滞ってるとか詰まってるとかそういうことでは無いのです。

ただ、粒子が目一杯に詰まっている状態では互いにバランスを取ってしまい、網の目からは何も落ちなくなります。
この世はすべてが安定に向かっているため、わずかに不完全であろうとも常にその状態での安定というものを目指すのです。

より一層に安定した状態というのは、今よりもさらに微細な世界の中にあります。

まだ粗さの残る安定状態にあってその拮抗が崩れる時というのは、まず最初に一ヶ所からサーッと流れ落ち、それに続く
ようにして一気に全体が流れていくことになります。
そしてその初めというのは、やはりこの日本であるわけです。
何故ならば、今の日本は、まさに黒の中の白点であるからです。

黒から白へと、また白から黒へと。
白そのものや、黒そのものよりも、そこへと向かう過程にこそ生命の輝きがあるということです。


ひるがえって目の前の現実に意識を戻してみますと、そうは言っても苦しみというのは事実として存在しますし、決して
割り切れるものでもありません。
苦しいという事実は、何をどのように理屈づけても、事実は事実です。

天地宇宙の大いなる流れを前に、あぁコレも天地の営みなのかと、今の苦しみがわずかでも軽減されれば幸いです。
ただ、無理矢理こじ付ける必要はありません。

私自身、今も目の前に忙殺されて汲々としています。
天地の流れを見れば、なるほど仕方がないことかと思いもしますが、次の瞬間には、いつ終わるともしれぬ登り坂を
鬱々と踏み締める自分が居ます。

でも、それでイイのだと思います。

私たちは、天地宇宙の大いなる心になる必要など無いのです。

いや、むしろ実際はこうして地団駄を踏みながらガムシャラに生きることこそ、その役割を全うしていることになる
のだと思います。
一喜一憂して、苦しみ悲しみ笑うことが、私たちが天地の大いなる存在である証しなのです。

何度でも谷底へと落とされて、また再び登る今この瞬間が、天地宇宙である私たち自身にとっては喜びであるのでしょう。
しかし、今、無理やりにそれを喜びに変換させる必要など無い。

大丈夫。

そんなものは、いつの日か、死ぬ間際にでも感じればいいことです。


安定した平和な日常を求める思いというのは、天地創造前の完全調和へと再び向かう大河の流れと同じものです。

不完全さにせよ片寄りにせよ、あるいはカタルシスにせよ、全ては「変化」を起こすためのものです。

救われないような絶望の今であっても、それが光に向かう「途上」である限りは、その瞬間こそがこの世に生きる輝き
そのものであるわけです。


遥か遠くに輝ける幸せというのは、大空を舞う紙飛行機のようなもので、手を広げてそれを追い駆ける姿こそが美しい。
そこに向かおうとする今この瞬間こそが、限りなく尊いのです。

あの光には絶対に辿り着けないと絶望して立ち止まることはありません。
辿り着くことが大切なのではなく、辿り着こうとすることが大切ということです。
その中には当然、苦悩も含まれます。
あらゆる喜怒哀楽、それこそが今この瞬間の輝きとなるのです。

目指すゴールに近づいているか否か、そこに価値などありません。
どのような形であろうと、日々を生きていることが、そのままこの世の目的を満たすことになります。

終わることが無いように見える今この苦境であっても、いつまでもそれが続くものではありません。
この世はすべて、より微細な状態へと向かっています。
そしてまた、苦しみというものは、それそのままで輝きとなっています。

空高く浮かぶあの雲に向かって、どこまでも、どこまでも。
そうして、今日という日を踏みしめていきたいと思います。

今をいかして頂いている全ての存在に感謝しながら。





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初心忘るべからず

2016-04-03 10:06:57 | 心をラクに
新年度とともに、駅前やオフィス街でフレッシュマンたちの姿を目にするようになりました。

どこか不安げに寄り添い合う彼らの、ニコニコ輝くその笑顔を見ていますと、自分にもあんな時代があったよなぁと、
頭の中に懐メロが流れ始めます。
しかしその一方では「まだ苦労を知らないからなぁ」と爺むさい考えが浮かんできたりもするのでした。

本当は、その時こそが初心忘るべからずの瞬間なのですが、正直そこまで真っさらな透明になるのは無理だろうという
思いの方が強すぎて、どこか空々しく聞こえてしまいます。

私たちは、本能的に、一度築き上げたものは大切に守ろうとします。
それが良い方向に動けば伝統や文化へと繋がっていきますが、自我がまさってしまうと掴んで離すまいとする執着へと
変化してしまいます。

以前、春日大社の権宮司さんがこんなことを仰っていました。

「コップに水を入れて満杯になったら、それ以上水を入れることはできない。
でも、コップが倒れて水がこぼれると、また新しい水を注ぐことができる。」

歳を重ねて経験や知識が増えていくと、知らず知らずのうちにその満たされたコップの中だけで物事を終わらそうと
してしまいます。
コップの中に入れ込む過程で、知らず知らずのうちに曲解することもあります。
そしてそれでも収まりきらないものは、断罪して悪者にしたり、自分の肌に合わないとして、バッサリ斬り捨ててしまい
ます。

もちろん、何十年もかけて作りあげたコップや、少しずつ満たしてきた水というのは、とても大切なものです。
軽視していいものではありません。
ただ、それにこだわりすぎたり、寄りかかりすぎて、他のものを受け入れられなくなるのは、あまりに勿体ない話です。
それでは何の変化も訪れませんし、何の成長もありません。

自分像というものは、それを固めてしまった時点で木彫りの人形と変わらなくなってしまいます。
これが自分だ!と決めつけた瞬間、あとはそれを必死に守る人生になってしまいます。
まるで、重要文化財か何かを、強固な保護ケースにいれて厳重に取り扱うようにです。

私たちがこの世に生まれてきた目的は、平和に生き抜くためではなく、様々な揺らぎに一喜一憂するためです。

何百キロもひたすら一直線に続く平坦な道を安全運転で走ることに何の面白みがあるでしょう。
ドライブというのは、そこにカーブやアップダウンといった変化があるからこそ、オォーと心が声をあげて喜びとなる
のではないでしょうか。

この世というのは、あらゆるものが流動しています。
何一つ、変化しないものはないわけです。

変わり続ける世界、動き続ける世界の中にあって、私たち自身も流れ続けることによって、初めてその風を感じられる
ようになります。


職人にしても、武道にしても、やはりそれまで学んできたものを一度空っぽにしないと新しいことは身につきません。

過去の経験や知識にドップリ浸かっていると、それがフィルターとなって、有りのままの姿が映らなくなります。
おまけに、どこか似たよな部分を見つけてしまうと、推定予測が働いて勝手な全体像が先に出来上がってしまいます。
そこからの微修正という作業が、どれだけ真実を歪ませてしまっているかは当人には分からないわけです。

私たちは、おおよそのゴールや全体像というものを想像しながら先へ進む習慣が身体に染み付いてしまっています。
その方が大ケガのリスクが減るからです。

過去の経験や知識が多ければ多いほど、その勝手な想像は、より強固なものに出来上がってしまいます。
そこから修正をかけて、本来の状態に近づけるには非常な困難が伴います。
何より、これでもう良しと終わらせようとしてしまう自分自身が一番の障壁となるわけです。

分かったつもりになってしまうと、それ以上何も入ってこなくなります。

本当に、ありのままの風が自分を吹き抜けていくには、独りよがりな先取り予測は捨てて、ただ目の前の一歩一歩を確実に
踏みしめていくだけです。
だから、コップの中は空になっている方がいいわけです。

たとえば武道において初心者が白帯を締めるのは、真っさらで透明な状態で教えを受けるという心の現れです。
そもそも道着が白いのも同じ理由からではないかと思います。
そうであればこその「道」であるわけです。

職人の世界でも、弟子にはあれこれと言葉で教えることはせず、ただ見て感じさせますが、それというのも頭から入れると
余計なものが邪魔をしてしまうからです。
見たり感じさせたり、あるいは真似をさせるというのは、先取りなどが無い、まさに「今」の一歩一歩そのものです。

そしてここでいう余計なものとは、経験や知識であり、それらに囚われる自我のことです。
前者は水に、後者はコップに置き換えることができます。

私たちがコップに水が張られていないと不安になるのは、空のままでは劣った状態、弱い状態だと思い込んでいるからです。
でも、そんなものは自我同士の幻想に過ぎません。


コップはコップのままで、天地からそのまま受け入れられています。
水が入ってようが入っていまいが、コップはコップです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
コップとして存在していることが全てなのです。

子どもにせよ新入社員にせよ、実際のところ経験も知識もわずかであるため、コップの水が少ない状態を当たり前に受け
入れています。
だからこその真っさらな瞳であり、有りのままの風であるわけです。

私たちも、自我の執着に付き合わなければ、たちまち彼らと同じようになります。
これまで一滴一滴ためてきた水というのは、それはそれ。
ゴミ扱いすることはないにせよ、それはそれとして感謝とともにサーッと手放していけば、コップは空に近づいていきます。

ただ、それがなかなかできない。

だからこそ、そういう時のために私たちは、自分で自分のイベントを用意します。

冒頭にも紹介しましたが春日の権宮司は、コップが倒れれば水が無くなると仰いました。

私たちの人生は、山あり谷あり、悪路ありのドキドキわくわくの爆走オフロードです。
小石を踏んで軽くバウンドした時には、コップから少しだけ水がこぼれ出ます。
その分だけ私たちは謙虚になり、真っさらな状態に近づきます。
そしてその分だけ、新たな事柄が新鮮な一滴となって注がれることになるのです。

大きめの石をガツンと踏んだ時には、強烈な衝撃により沢山の水がこぼれてしまいますが、それだけ物事を素直に受け
入れることが出来るようになるわけです。

そうした小石や岩によってドカンと揺れ動く様を、私たちはハプニングと呼んだり、失敗や挫折と呼んだりします。
しかし、そうしたものは明らかに私たちにとって良い方向へと繋がっているのです。

自信や名声、そうしたものが損なわれた時に落ち込むのは当然のことですが、逆にそれらが今まで水を逃さまいと押さえ
つけてきた張本人であることもあります。
そして、失われたよりも遥かに大きなものを私たちは得られるのです。

さらには、壁や岩に激しくぶつかって、水がこぼれるだけにとどまらず、コップそのものが粉々に砕けてしまうことも
あります。

これまで必死に作り上げてきた自分像、デコレーションしてきた自我、そうしたものが粉々に消え去った時というのは
まるで自分というものがすべて失われたように感じるかもしれません。
それまで当たり前にあった実体が無くなった感覚。
死に物狂いに掴み続けたものが煙のようにスッと無くなってしまった喪失感に呆然としてしまいます。

失敗や挫折に打ちひしがれたり、ストレスから心を壊す。
それは本当にツラく、厳しく、死にたいほどの苦しさでしょう。

しかし、コップすらも壊れた状態というのは、生まれたままの真っさらな状態のことでもあります。
それは天地宇宙と分け隔てのないツーツーの状態ということです。
今までの水をすべて失ってしまった、それどころか新たな水をためることすら出来ないという、そのことは悲観する以上に、
まさにあらゆる物事を有りのままに受け入れる天地そのものと一つにあると言えるわけです。

過去の水が無いということは、過去に縛られないということ。
ためることができないということは、先取りの予測を起こす材料が無いということ、つまり未来の不安に心奪われたりは
しないということです。
水もコップも無い状態とは、過去も未来もなく、常に、目の前の「今」だけしか無い状態であるわけです。


私たち人間は、もとより分かってるようで何も分かっていません。

それは決して謙遜だったり卑下しろという意味ではなく、そもそもの私たちは全てを分かっている状態だったところを、
わざわざ狙って、何も分からず何も知らない状態になったということです。

この世に何をしに来ているのかを思い返せば、今みたいにコップを満たして肩肘を張ったり背伸びをしたりしているのが
いかにバカバカしいことか分かってくると思います。
ましてや、足元では背伸びを捨てきれないでいるくせに、それでいて「謙遜にならなくてはいけない!」と優等生ぶって
上半身だけ身をかがめている姿が、本当に何をやってるんだか訳が分からんというのも、よく分かるはずです。

そんな回りくどいことなどしなくてもイイのです。

卑下するとか、優等生になろうとするとか、背伸びをするとか、そういうことをするまでもなく、最初っから私たちは
「何も分かっていない」のです。
そうなることを願ってココに来ているのです。


何も知らない、何も分かっていない。
だからこそハラハラドキドキしながら、ワクワクの方がそれを上まわる。

私たちは、今この時から、そのように成れます。

何故なら、この世に生まれてきたというのはそういうことだからです。
この世に存在しているというのは、そういうことなのです。

それこそが本当の「初心忘るべからず」です。

何も知らない、何も分かっていないことを隠すなどナンセンスということです。

少しばかり歳を食ったり、役職があがったり、段位が上がったりしたところで、中身は何も変わってなど居ません。
あとはギュッと掴んだ手を緩めるかどうかだけのことです。

この世に生まれてきた初心を思い返せば、入社したての気持ち、白帯の頃の心に戻ることなど他愛もないことではない
でしょうか。

明日にはまた、緊張の面持ちでその目を輝かせるフレッシュマンたちをあちこち見かけることでしょう。

でもその初々しさ、その輝きというのは、他人事などではなく、まさしく私たち自身の姿であるのです。


大きな、大きな、初心忘るべからず。




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