これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

本当の「自由」ってナンじゃろな

2016-03-26 14:24:02 | 心をラクに
昔からマスコミというのは、出来事や発言の一部を切り取って、自作自演の大騒ぎをしてきました。

戦後、自由が叫ばれるようになってからは、何かと言論統制だと騒ぎ立て、報道の世界は治外法権となりました。

ただ、それでも戦前から受け継いできた良識のおかげで、今日まで大なり小なり自制心が働いてきていました。
それというのは、理屈以前にさすがにこれ以上は恥ずかしいという思いであり、自ら蔑めることのツラさだったのではないかと思います。

それにしても、テレビ報道というものは本当に脆いと言わざるをえません。
視聴率の低迷という緊急事態にさらされると、その重圧に耐えかねて、人として当たりまえの感性すら捨ててしまったのではないかと思う
ほどです。

つい先日も、首相発言の捏造は本当に酷いものでした。
すでに語り尽くされたネタですが、少しだけ触れさせて頂きます。

「選挙のためだったら何でもする無責任な勢力に負けるわけにはいかない」

これがもともとの発言でした。
もちろん、それは民主党と共産党が手を組んだことを指してのものです。
これに対する日本テレビのニューステロップがこうだったわけです。

「安倍首相『選挙のためだったら何でもする』」

こうなると間違いや勘違いなどではなく、もはや確信犯です。
しかも一人や二人の見落としでスルーしてしまったという次元のものではありません。

この件に限らず、多くの報道で同じようなことが繰り返されてしまっているように感じます。

その裏には思想的な使命感のようなものもあるのかもしれませんが、それよりも、ただ単に注目されたいがために悪さをする子供と変わらぬ
自己顕示も見え隠れします。


日本が危ういから嘘をついてでも止めなければいけない。
悪い印象を国民に刷り込むことが先決。

センセーショナルな響きにすれば、みんなの感情に火がつく。
盛り上がればOK。



もしも確信犯的な誤報や情報操作があるならば、それはジャーナリズムの自殺と言わざるをえません。

大義や正義を隠れ蓑にすれば何でも許されるという発想は、それこそ彼らが最も嫌う軍国主義やファシズムと何ら変わりありません。

それが一度や二度ならばたまたまということもありますが、枚挙に暇が無いとなると同情の余地もありません。

少し前の丸山和也議員の黒人大統領発言にしても、むしろアメリカを讃える内容だったものを、コメントの切り取りによって完全に差別発言
に作り変えてしまいました。
そうやって海外の怒りを煽り、それに乗じて虎の威を借る狐となって、魔女狩りの如く一議員を血祭りにあげようとするえげつなさは、
かつての従軍慰安婦騒動を彷彿させるものがありました。

政治というのは、国民を護ること、国を発展させることがその本分です。
それを芸能ニュースじみた騒ぎ方で低俗な次元に引きずりおろし、国民の感情を煽ることによって、マスコミ報道の方へ注意を向けさせよう
というのは姑息以外の何ものでもありません。

そもそも完璧な人間など、この世のどこにも居ません。
だからこそ、それぞれが得意な分野を手分けしているのです。
人は、その為すべき仕事をすればいい。

しかるにその本業のことは一切報じず、全く関係のないところばかり揚げ足取って叩くことに何の意味があるのか。
そんなものは正義をかたったリンチ行為でしかありません。

聖人君子でなくては政治家が務まらないなどファンタジーにも程があります。
人間社会というのは清流だけではなく、むしろ濁った泥だらけです。

自分の胸に手を当てれば誰だって分かることです。

そうした世界をまとめあげていくには、その泥も進んで飲み込めねば務まりません。
むしろ、汚れ仕事だらけと言ってもいいくらいでしょう。
そんなこと、シミ一つない人間に務まるはずがない。
聖職者のような清廉潔白さを求めるなんて勘違いも甚だしいことです。

政治家に最も必要なのは、批判や汚名もかえりみず、本当に国や国民のためになることをやり遂げる気概です。

それさえあれば、他のことは致命的なものにはなり得ません。
むしろ、肝心なその気概が無くて、批判や汚名を受けないようにと身辺を綺麗にすることだけに注力している政治家なんていうのは、もはや
自己存在を否定しているとしか言いようがありません。

マスコミのおかしな幻想のせいでそのような代議士ばかり増えてきているのは、国家の危機でしかありません。
PTAレベルの正論を良しとするような感覚では国を滅ぼし兼ねません。
何となれば、正論のためなら国が滅んでも仕方がないとすら思っている輩に、この国を預けてはいけません。

本分をおざなりにするような良識を欠いた代議士は叩かれるべきですが、そうでもない議員を無理やり叩いてホコリを散らして、正義の名の下、
袋叩きにするのは異常そのものでしょう。

そして何よりタチが悪いのは、感情のまま暴走するように視聴者を扇動していることです。

彼らは支配だとか洗脳だとか、そんな高邁な目的で私たちを猪突猛進の闘牛へと肥やしているのではなく、ただ私たちを走らせたいだけであり、
自分はその中心に居たいだけなのです。
彼らの言動で私たちが一喜一憂すれば、それで満たされるのです。

本来のジャーナリズムとは、切り絵の平面に張り付いている私たちの頬を引っ叩いて、広い視野へと目を覚まさせるのが使命でしたが、
今では全くその逆になってしまいました。

もちろん、真面目なジャーナリストも大勢います。
ただ、感情的な報道姿勢の方が圧倒的に目立ってしまっているのです。

今回のブログで言いたかったのは、単なるマスコミ批判ではなく、ボーッと過ごすことの危うさです。

与えられる情報が純度100パーセントのものだと決めつけてしまうと、無思考のまま自我の自動運転を加速させるだけになってしまい、
結局その心癖は私たちの苦しみをより一層深めることになっていきます。

現実をしっかりと理解することで、煩悩を冷静に流すことができるようになります。

ですから改めて注意すべきは、こうした酷い捏造報道に「けしからん」と怒り心頭になってしまうところですが、それこそが自我の自動暴走へ
身を預けることになってしまう点です。

今この瞬間こそ、冷静に淡々と現実を見渡すことが大切となってきます。


さて、私たちは、長い間この切り絵の世界に一心同体となって張り付いてきたため、もとより無意識のまま自動モードにエネルギーを注ぐのが
当たり前になっていました。

さらには、サッカーのようなアッパーなスポーツ観戦や、ジェットコースター的なハリウッド映画など、私たちのまわりには無意識の感情
暴走を強化させてしまう媒体が山ほど存在しています。

観戦や鑑賞という大義名分によって自制心をはずして身を預けきってしまうと、感情のトップとボトムが目まぐるしく入れ替わることで、
その振り幅に酔っていくことになります。
そうして、脳の中では古い脳(動物脳)が優位な状態となってしまうのです。

しかし同じサッカー観戦にしても、違う態度で接すれば全く異なるものとなります。
普通のエキサイトで盛り上がる程度ならば何の問題もなくスカッと爽やかとなるわけです。

それが、理性を失うほどの狂気じみた乱痴気騒ぎへと身を投じてしまうと、これは本当に危ない。
よく言われる愚民化政策の3S(Sports、Screen、Sex)とは、詰まりそういうことなのです。

彼らからすれば、私たちに切り絵の平面から離れて天地の視点に立たれてしまうと、アッサリと見透かされてしまいますので、気付かせない
ように感情や欲望の暴走癖をつけさせて、切り絵の平面から逃れられないようにしているわけです。

感情にまかせている時というのは自我100パーセントの状態ですから、つまりは切り絵の平面にベッタリ張り付いている状態です。
それを繰り返させることにより、ベタつきが常態化してそうでない状態の方が気持ち悪くなるという仕掛けです。

それは言い換えれば、目を覚まさないように寝かせたままにさせておくということになります。

マスコミの煽情的な報道姿勢というものも、結果としてはこれと同じ効果を生んでしまっています。

でもタネあかしをしてしまえば、安っぽい手品に引っかかることもなくなるでしょう。

マスコミがやる手法として、まず誰が見てもフォローしようがないと思うような絶対悪を作り上げます。
それにより私たちは他の誰かと意見が分かれたり反論されたりする心配がなくなり、安心して非難できるようになります。

さらに、まわりのみんなと同じ方向へ一緒に走るのはシンクロ体験となって気持ちいいものに感じるという要素もそこに加わってきます。

天地宇宙の協調感覚を私たちは無意識のうちに知っています。
全体主義、同調意識、ミーハー意識といったものは実際は表層部分だけがそれと似ているだけに過ぎないのですが、そこはかとなく天地宇宙の
協調感覚を思い起こさせるために、やればやるほど安心が深まってきてしまうのです。

普段であれば理性が歯止めとなりますが、その自制心を外してしまうのがこの大義名分や正義というものであるわけです。

もう一度マスコミの手法をおさらいします。

・まずは感情の暴走が許されるような環境、空気感を作り出す。
・私たちの鼻面に餌をぶら下げて、衝動を喚起する。
・そうして私たちはまわりの目を気にすることなく怒りの感情をさらけ出す。

そういった流れです。

こうした誘導というのは、こちらのガードが甘ければ甘いほど容易になります。
まさしく手品と同じです。

テレビを見てお分かりのように、バラエティーでもニュースでも、出演者の言葉をそのまま文字にして流す手法が定着しています。
実際の目的が何であれ、あれこそは結果的には視聴者の思考を深めさせないための落とし穴となっています。

例えば音声だけだったならば、一度自分の中に落とし込んで反芻する作業が生じます。
ですから、もしも内容が浅かったり、つまらなかったりすると、すぐさまそれが露呈します。

しかしそこに文字も一緒に流すと、私たちはそれをサッと読むことで内容をいち早く理解したつもりになって、落とし込みの作業を省略して
しまいます。

つまり、自分の中での咀嚼が発生しないということです。

そして、そこに音響の笑い声が流れると、爆笑とまではいかないにせよ、何となく面白いような錯覚を感じてしまうのです。

物事に浅く接していると、雰囲気に簡単に流されてしまいます。

これは決して、うがった見方などではありません。
試しに画面の下方を隠して番組を見てみれば一目瞭然です。
薄っぺらい話でしかないのに、そこにゲラゲラと笑い声が流れてくると、とても違和感を覚えることでしょう。

高校生の頃、テスト前に教科書を斜め読みするとスッカリ分かったつもりになったのに、実際は殆んど記憶に残っていなかったという経験が
あるかと思います。
当たり前のことですが、それはただ教科書の言葉をなぞっただけでしかなく、自分の言葉ではなかったからです。

しかし、教科書を読んでいる時は自分の中に落とし込まれたような錯覚に陥ってしまう。
まさに、自分の言葉になったように感じてしまうわけです。

テレビで流れる文字にも本当に注意が必要です。
気を抜いてボーッとなぞっていると、その内容を自分も共有しているかのように感じてしまいます。
つまり、自分もそのように考えたように錯覚してしまうということです。

本にしてもセリフを読んでいると、登場人物に自分を重ねて、その考えや感情を身近に感じます。
耳だけで聞いてる時は、相手と自分を切り分けていますが、文字を読むとその距離が一気に縮まります。

冒頭の日本テレビの誤報などは、まさにそれを狙ったものと言っていいでしょう。

テレビや新聞、ネットを見ること自体は何の問題もありませんが、そこに寄りかかりすぎると非常に危険ということです。
分析や判断はすべて彼らのものなのに、スッカリ自分でそれをしたような気になってしまう。
自らを洗脳する事態となってしまいます。

一歩さがって眺めるように見てみると、アレ?と思うことが沢山あるはずです。
それは決して疑心暗鬼で物事を見るということではありません。
もともと彼らの姿勢とはそういうものだという理解のもと、自分の感性に絶対的な信頼を置くということです。

感性というのは、物事に囚われないことによって現れます。
この切り絵の平面からスッと離れることで、霧が晴れ上がっていきます。

とりわけ「善悪」や「正しい・正しくない」という言葉にはよくよく気をつける必要があります。
今の世の中、それを大義名分として感情の暴走を許してしまうような、お決まりのパターンが蔓延しています。

そうしたパターンを繰り返せば繰り返すほど、私たちは切り絵の平面にへばりついて離れられなくなります。

良い悪いなどという価値判断はひとまず置いておいて、まずは天地宇宙という本来の私たち自身に戻ることが先決です。

肝心なことは「良い、悪い」ではなく「囚われているか、囚われていないか」です。

つまり、切り絵の平面にしがみついているかどうか。
その一点に尽きるのです。

自由とは、何をやってもいいということではありません。
それは単なる「好き勝手な状態」でしかありません。
囚われまくっている状態です。

そこを間違えてしまうと、「誰かの自由は他の誰かの不自由」という誤った解釈に辿り着いてしまいます。

真の自由とは、「何にも囚われていない状態」のことです。

テレビやマスコミが誤った自由を繰り返すほどに、それを鵜呑みにした視聴者はますます囚われていくことになります。
それはまさに、自由を奪われていくということに他ならないのです。

ニュースでセンセーショナルな言い回しを耳にした時は、簡単にそれに流されないのが賢明です。

「ああ、またいつもの手法か」とサラリと流し、真っさらな目で原文を検索してみるのが、本当の自由というものではないかと思います。


そして、これまでのことは日頃の私たちの人間関係に当てはまる話でもあります。

誰かに何かをされたり、何かを言われたりした時に、私たちはカチンときた部分だけをクローズアップしてしまいます。
時に、前後の文章はカットしてその部分だけを切り取って、心の中で大騒ぎが始まったりします。

ムカッとした瞬間、今さっきの場面をさかのぼって、その起因となった言葉や事象のごく一部にだけキューっと焦点を当ててしまいます。

そして相手は実際そこまで言っていなくても、こちらの怒りによって脚色されて強いニュアンスに変わってしまいます。
あるいは、それが人物ではなく、生活の上での出来事だった場合でも同じです。
そこまで大したことでもなかったのに、自分の中ではトンデモナイ出来事へと塗り替えられてしまいます。

自分なりの正義や大義名分に乗っかって感情の暴走を許してしまうのは、不自由への道でしかありません。

私たちは、もともと自分の番組を自作自演しているプロデューサーです。
どんな人生にするのかは、まさに自分のサジ加減一つであるわけです。

そうであればこそ、これ以上は胸が痛むという感覚がとても大事になります。
何故ならばそれは、私たち自身、つまり魂の痛みに他ならないからです。

しかしそれに耳を貸さずに、信条や大義名分にこだわっていると、いつしか痛みすらも感じなくなってしまいます。
それは、魂の出す信号が届かなくなっていくということ。

そうやって自分で気付かぬまま人生を捻じ曲げていると、日々が出口の見えない苦悩と化し、生きるとは苦しみとなり、この世は抜け出すこと
の出来ないツラい世界だと諦めるようになってしまいます。

気持ちのいい番組というのは、素直なこころ、清らかな感性によって作り上げられます。

どんな理由であろうとも、感情の暴走を正当化するものにはなりません。
切り絵の平面から離れて、サラリと流すことこそ、真に自由な状態であるからです。


これから選挙が近づくにつれて、マスコミが活気づくとともに、まるで与党が悪の権化であるような報道がなされていくでしょう。

前回の政権交代の時は、完全にそれに踊らされ、大震災を挟んで国家存亡の危機を招いてしまいました。
それにも関わらず、懲りずに彼らはまた私たちに揺動を仕掛けてくるでしょう。
その理由は前半に書いた通りです。

国の政治というのは綺麗事では絶対に成り立ちません。

それは私たち自身の生き方にも通じることであるわけです。
理想や綺麗事にこだわりすぎると、まわりだけでなく私たち自身に対しても、許容できないことだらけになっていきます。

そして耳ざわりのいい言葉に囚われてしまうと、それだけの世界になってしまい、本当に大事なことが見えなくなってしまいます。

精神の熟した知的な人たちだ、平和を愛する進歩人だとおだてられ、その気になってエネルギーを注ぐほどに、実際は囚われが強まり、
つまりは眠らされることになっていきます。

相手に正義や善を求めるのでは無く、私たちが寛容になることがまず第一番目に必要なことです。

それが相手を活かすことになり、この国を護ることになり、ひいては私たち自身を目覚めさせることになります。

本当の自由というのは、まわりに奪われるものではなく、私たち自身が奪っているものなのです。




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謙虚なこころ

2016-03-15 23:29:13 | 心をラクに
私たちは年齢とともに様々な経験を積んでいきます。
そうして何が起きても大抵のことは大丈夫になってまいります。
歳を取るというのは、図太くなるとも言えますし、平常心が養われるとも言えます。

思い返して見ますと、小さい頃はほんのちょっとしたことでも人生の一大事に思えて慌てふためいたものでした。
そうして知識や経験を重ねるにつれて、オロオロすることも少なくなっていきました。

大人になってもそれは同じで、会社に入ったばかりの頃はハラハラドキドキすることや、失敗してガックリすることが
山ほどありましたが、今となってはあの頃のように波に呑まれてバタバタすることも少なくなりました。

この今においては一大事に見えることでも、学年が上がっていくと笑ってこなせるようになるのでしょう。
そして、そこでまた新たなことに出くわしてハラハラする。
人生というのはその連続であるわけです。

ということは、目の前のシンドい状況が、出口の見えない永遠の苦しみに見えたとしても、それは子供の頃と同じように
ただ、今の学年にとっての一大事に過ぎないということになります。

「いやいや、こんなシンドい状況、たとえ時間が経っても変わるもんではナイ」と思っているうちは本当に変わらない
でしょう。
精魂尽き果てて自ら手放さない限り、それこそ永遠に変わらないということです。

いま一度、先ほどの話に戻ってみます。

学年があがるにつれて大抵のことは平気になっていくわけですが、それは、経験済みのパターンが増えて安全運転が
出来るようになったとも言えます。
その一方で「何でもそれなりにこなせる」という思いは、知らず知らずのうちに慢心を招くことにもなります。

それは明らさまな形で表に現れる場合もあれば、ほんのわずかな心の淀みとなって静かに沈殿していく場合もあります。

たとえば、この歳になって何かしくじってしまった時、若い頃よりもガックリと落ち込むようなことがあります。
それ自体は些細な落ち度であっても、そこから会社へのダメージや関係者への迷惑などがパーッと浮かんでしまい、
ズドーンと落ち込みが加速していくようなケースです。

それは良く言えば、若い頃よりも責任範囲が広まって色々なことが見えるようになり、個人ではなく組織の痛みを感じる
ようになったということになります。
これは見るからに正論なだけに、落ち込みは歯止めをかけられることなく増幅されていきます。

しかしここでは、その大義を隠れ蓑として、別の思惑がありはしないかという観察が必要となります。

つまり、これまでの豊富な経験により自信過剰となって、何処か増長していなかったかということです。

仕事が上手く行かなかった時、醜態をさらしたと恥じたり、「何十年もやっているのにこのザマか」と自我の囁きが
聞こえたら注意が必要です。

一見するとカッコいいセリフなだけに、自ら騙されてますますエネルギーを注いでしまうところですが、その実体と
いうのは、“情けない、みっともない、カッコ悪い…”という感情でしかありません。

つまりは自己愛(我ヨシ)であり、自我と同一平面に囚われた状態であるわけです。

あたかも会社組織をおもんばかったかのような連帯意識や利他行為を装い、さらには自分の立場を全うしようという
責任感の強さをも装ってしまうと、スッカリ騙され自己愛へエネルギーを注ぎ続けることになってしまいます。

もちろん一番最初には、連帯意識や利他行為、責任意識という実体がそこにありました。
ただ、それらは闘牛の赤い布のようなもので、私たちがそこに向けて突進すると、触れるか触れないかのところで
ヒラリとかわされてしまい、それに気づかないまま明後日の方向へ突進し続けてしまうということです。

その時というのは、私たちの猛進は、内向きの煩悩へと向けられてしまっています。
私たちが責任意識や利他行為といった「いわゆる正義」に向けて走れば走るほど、自我の自己愛(我ヨシ)に向かって
いるのですから、終わることのない苦悩が続くのは当然と言えます。

しかし、ひるがえってみて、若手の頃にそれと同じミスを犯したとしたら、そこまでドツボにハマっていたかどうか。
おそらくそこまでドロドロした底無し沼のようなことにはならず、もっと純粋な落ち込み方をしていたのではないかと
思うのです。

年齢や経験を重ねていくと、有るべき理想に囚われてしまい、それが無意識のうちに格好つけとなって私たちを
縛ってしまいます。
それというのは、まさに謙虚さを欠いた状態であるわけです。

若い頃は、経験も知識も不足していますので増長しようがありません。
結果としては、謙虚な状態と言えます。
ですから、ドロドロと自己増幅するようなことはなく、単に「嗚呼、俺ってまだまだ未熟だな」と素直な落ち込み方で
終わるわけです。

歳を重ねるにつれて自信が増していくのは良いことなのですが、そこに優劣意識や我執が加わると、自信は単なる
増長慢へと変化(へんげ)してしまい、謙虚さが失われていくことになります。

自信に満ちた姿と、増長した姿というのは紙一重の世界です。

謙虚さの欠落というのは、見るからにエラそうにするというような分かりやすい形だけではありません。
それは自分でも気づかないうちに心の底へジンワリと浸透していきます。
そして普段は隠れて見えなくなっていますが、何かのきっかけで突如、表に現れます。
まさに冒頭のように何かのヘマをしてしまったケースなどがそうです。

すると、ただ単に謙虚さを欠いているだけなのに、見た目にはショックを受けて落ち込むという形が現れますので
本性はその陰に隠され、自分自身でもすっかり騙されてしまいます。


ガックリと肩を落として膝をついて落ち込む姿というのは自分としても気の毒に見え、真面目で誠実そうに映るものです。
でもそれが慢心の裏返しということもあるのです。

カッコつけであればあるほど、行き詰まった時や失敗した時のショックは大きくなります。

実際、私たちの自我というものは、自分自身に対して、知らず知らずのうちに高い値付けをするものです。
それは会社の中での役職だったり年次だったり、家庭の中での立場だったり、あるいは趣味や習い事での上達度合いだったり、
自分を取り囲む環境によって自然と吊り上げられていきます。

そうなると、その高く吊り上げられた自己評価を守ろうとより一層強い自己愛が働くようになります。

見るからに慢心となって現れれば手放しようもあるのですが、それが役職や立場というものによって責任感という形で
巧妙に隠されてしまうと、何を手放せばいいのかも分からなくなってしまいます。
そうして、評価を引きずり下ろすような人たちや出来事に出会うと、怒ったり抵抗したり落ち込んだりするのです。

しかし若い頃の自分にしろ、今の自分にしろ、実際のところは何一つ変わっちゃいません。

50歳だろうが60歳だろうが、この自分というのは、あの若造だった頃の自分と何も変わっていない。
それは、今この自分が一番分かっていることでしょう。

世間体というものや年齢や立場というものがあるため、みんなそれに見合ったオモテづらをしているに過ぎません。
その証拠に、中学や高校の同級生が集まるとあっという間に全部脱ぎ捨てて、一瞬であの頃に戻ります。

まわりに合わせて作り上げたオモテづらでしかないのに、それを忘れて押しつぶされ苦しむなんてナンセンスなのです。

「おのれがナンボのもんじゃい」

そんなことは自分自身が一番知っていることです。
今さら取り繕わなくても大丈夫です。
自分をゴマかしたところで何も生まれません。

もちろん、それは自分を卑下することとは全く違います。
決してマイナスの色を塗ることを言っているのではありません。

ここで言っているのは、無駄にプラスの色を塗っていないかということです。
そして、自分自身それにスッカリ騙されてしまっていないかということです。

傷つきガックリと落ち込む姿は、気の毒で可哀想なことだと誰もが思い込んでしまいます。
でも、それこそが全世界が引っ掛けられたトリック、大いなる幻想だとしたらどうでしょうか。

人は誰しも、他人から認められたいと思うものです。

自分以外の存在に認められることで、自分の存在を確認できる。
それによって安心感を得られるという構図です。

しかし、誰かに認められようが認められまいが、私たちは生まれる前から、今この瞬間も、そしてこれからも、天地宇宙に
包まれています。

自分がここに居るという事実が、天地宇宙のあらゆる存在から自分が認められている完全無欠な証拠になるのです。
必要十二分な条件として、証明は完全にして完璧に終わりです。

認められたい思いというのは、この世だけの幻想に過ぎません。
認められていない、受け入れられていないという設定を作って言葉遊びしているだけです。
もちろん、だからといって「人から認められるなんてクソ食らえ」と反発することではありません。
ただ、一休さんが狂気を演じてまで伝えようとしたのはそういうことなのです。

認められることの対義語は、失望されることです。
ガッカリされるというのは、自分の目線に置き換えると「カッコ悪い」ということになります。

まさに私たちの自我はカッコをつけようと必死になっているのです。

ミスして落ち込んだにしても、何故ここまで落ち込んでしまうのか分からない時というのは、単にカッコ悪い状況を
受け入れまいとしているだけかもしれません。

立派な人、信頼される人、尊敬される人、讃えられる人…
そんなものは全て仮初めのものに過ぎません。
それらを得たからといって、自分のいったい何が変わるのでしょう。
それを失ったからといって、自分のいったい何が変わるのでしょう。

私たちは、50歳だろうと70歳だろうと、本当は10代の頃と何も変わっていないことを知っています。
歳とともに変わるだろうと思っていたのは、若かりし日の幻想に過ぎません。
そうした思い込みをこれからも後生大事に抱え続ける必要などありません。
今のこの感覚に素直になるだけです。

歳を取ろうが、役職が上がろうが、知識が増えようが、成功を重ねようが、賞賛を浴びようが、私たちは何一つ変わって
いません。


逆に、役職を失おうが、失敗しようが、失望されようが、罵倒されようが、私たちというのは何一つ変わっていません。

初めから何も変わっていないのです。

プラスの塗り重ねによって自分が変わったと思い違いしてしまうと、マイナスの出来事に遭遇した時にズドーンと落ち込む
ことになります。

私たちは最初から増えもしなければ減りもしません。
それを思い出せば、たちまち今の苦悩から抜け出せます。

他の誰かが、勝手なプラスや勝手なマイナスをつけても、放っておけばいいだけなのです。

私たちは、誰かに認められなくても、天地宇宙から完全に認められています。
何かやらかしてしまっても、一滴も取りこぼすことなく100%受け止められています。

この世に存在するというのは、そういうことです。

こんな自分はイヤだと、自分自身を受け入れられずに居ても、そんなことなどお構いなく天地宇宙は完全に私たちを
受け入れています。

誰かにどのように思われたって、どうでもいいことなのです。
良く思われればアンガトサンですし、悪く思われればソウデッカです。

大事なことは、相手がどう思うかではなく、自分がどう思うかです。

もともと私たちは他人とは異なる形で生まれてきました。
似たような形だったら生まれてくる意味がありません。
理想像に窮屈に押し込めるなんて、全く馬鹿げた話なのです。
そんなところに上手いことおさまったとしても、そんなのは単なる器用者でしかないわけです。

たまたまそのゾーンに入ったら、それはそれ。
そのゾーンから外れたところで、それが当たり前というものです。

他人がどのように考えるかは、その人の自由です。
やりたいようにやらせればいい。
勝手にやらせとけばいいのです。

自分もやりたいようにやればいい。
好きにやればいいのです。

他人にそれを理解してもらおうと思う必要なんてありません。
孤独という幻想が嫌ならば、設定を変えればいいだけです。

自分がラクに自然体でやっているかどうか、それを知っているのは自分だけです。
自分が分かっていれば、誰が何と言おうと、それが正解です。
他人のお墨付きなんて要りません。
安心を求める思い自体が、仮初めの幻想に過ぎないのです。


謙虚なこころとは、素直なこころのことです。

たとえお爺ちゃんお婆ちゃんになっても、少年の心や少女の可憐さが色あせることはありません。
男はいくつになっても男子ですし、女性もいくつになっても女子のままです。
イタズラっぽく目を輝かせるお爺ちゃんや、可愛らしく笑うお婆ちゃんは本当に素敵です。

私たちは、いくつになっても変わらないのです。

素直さを包み隠す虚構に押し潰されそうになったら、サッサと脱ぎ捨ててしまうだけのことです。
まわりが何と言おうが、ハッハッハーです。

リタイアしたら第二の人生を楽しもうなんて言わずに、今、ラクになってしまえばいいのです。
何も失うものなんてありません。
なんせ最初から何も獲得してないのですから。

自我が騒ぎ立てる言葉に、何一つ真実なんてありません。
何故なら、それは「今ここ」ではない世界を叫ぶものだからです。
幻想世界の妄想でしかないわけです。

人生なんて、あっという間。
人間どんなに食べたくても、大福3個が限界なんです。

何があっても、何が起きても、まさに「だいじょ~ぶ」。

そう思えるように、私たちはこうして歳を重ねているのです。



※「だいじょ~ぶ」
『仮面の忍者赤影』の青影の決めゼリフ。古いか~

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あれでいいのダ (2)

2016-03-10 20:03:24 | 心をラクに
私たちが日々の一瞬一瞬をチョキチョキと切り続けているのは、実は、紙を切ろうとする思いそのものを手放すため
とも言えます。

それは、『こう切ってやろう』と考える自我を受け入れる、と言い換えることもできます。

自覚のないまま自動モードに乗っかってしまうのではなく、それを分かった上で見守っていると、いつの間にか自動モードが無くなっていることに気がつきます。
『こう切ってやろう』というこだわり自体が起きなくなっています。
その時とは、私たちが切り絵の平面から降りている瞬間であるわけです。

それは自分では気づいていませんが、たとえば風呂に入ってボーッとしている時や、山の上から景色を眺めている時、
プールで長いこと泳いでいる時、満天の夜空を見上げている時など様々な場面で訪れるものです。

そしてそのどれもが、感覚が前面に出ている状況であるのが分かります。

日常生活のように、意識が前面に出ている状態では、いざ切り絵から降りようとしても逆に足元がガッチリ固まって
動けなくなるのが事実です。
なぜならば、降りようとする思い自体が、切り絵の平面上に存在するものだからです。

自我の発した思考であるならば、その思考を続けるうちは自我と一体であるということです。
つまり、その思いから離れないかぎり、その思いが成就することはないわけです。

「事を為さねば何かを成すことはできない」という感覚からすれば、離れようと思うことなく離れることなどできる
のか?と思ってしまいます。
しかし、そうした疑心がまた解決を遠ざけてしまうことになります。

先ほどの例のように、風呂でもハイキングでも、切り絵の平面から離れようと思っていなくとも気づけば離れている
わけです。
もっと言えば、離れていることに気づいてすらいないほどです。

「こうしよう」という意識は、放っておくことで自然と遠ざかっていくものです。
イエス(賛同)だろうとノー(拒絶)だろうと、「こうしよう」という思いに変わりはありません。

ですから、一見すると遠回りに見えますが、まずは自動モードのままアレコレと発する自我の思いを受け入れることが
一番の近道になるのです。

受け入れるというのは、賛同することとはまた違います。
そのままに見守るということです。
イエスもノーも無い。
そこに自分を挟むことはない状態です。

私たちは「ノーの反対だからイエス」と無意識のうちに反応する癖がついてしまっています。
そうして、プラスだ・ポジティブだと、今度はそちらの方向にアクセルを踏んでしまいます。
しかしノーの反対とは、イエスもノーも無い状態。ニュートラルの状態です。
そしてイエスの反対もやはりニュートラルであるわけです。

それは、能動的なアクションが何も無いまま、流れを眺める状態です。
オールOKというものにしても、全てを肯定するのではなく、全てがそのままに流れるのを受け入れるということに
なります。

イエスもノーも自我が発するものです。
自我の思いに乗っかることは、自我をさらに波立たせることにしかなりません。
ポジティブ思考というものにしても、あくまでネガティヴ思考から脱却するための一時的な方便に過ぎないということ
です。

ニュートラルに流すためには、客観性と寛容性が必要となります。
なにごともそうですが、相手の立場に立って考えるというのはとても大事なことです。
この場合であれば、自我の立場になって見るといとです。
本当の理解とは頭で考えて分かるものではなく、心からの実感によってあとからついてくるものです。

自我というのはそれ自体が切り絵の平面に存在しますので、当然その平面上のことに必死になります。
もとより目先のことに囚われるものなのです。
それが良い悪いではなく、そういうものであるわけです。
囚われるという表現ではネガティヴイメージが強すぎるので「必死」と言った方がいいかもしれません。

溜め息混じりの“仕方ない”ではなく「なるほど、そうだよなぁ」という理解が生じれば、その瞬間すでに受け入れて
いることになります。

切り絵の平面では、そうなるもの。
避けようのないこと。
それどころか、必死に頑張っているのです。
無駄とか意味ないとかそういうことでなく、その立場として一所懸命なのです。
いじらしいくらいに。

「なら、しゃーないわな」と思った瞬間、自我の力みが緩み、全身の皮膚がフルオープンとなり、天地の呼吸を呼びます。

自我を忌み嫌ったりマイナスに見たりすることは、自らをさらに切り絵の平面に縛ることになります。
自我を拒絶しようとしているのは、その張本人たる自我そのものです。
逃げよう避けようと私たちが思っている時というのは、自我のド真ん中に中心を置いている状態に他ならないわけです。

過去の自分や他人を非難したり避けることもまた、自我を肥大させることにしかなりません。
過去がどんな形だって、もうそれはそれで仕方ないのです。
それでイイんです。
後悔や苦しみというのは、当時の自分や他人が良い悪いということではなく、そのような論理展開をあれこれ考える、
今この自我が作り出すものです。

自己批判や他者批判というのはその自我をより一層エネルギッシュにして後悔や苦しみを増大させることにしか
なりません。


そして繰り返しになりますが、ここで間違えていけないのが、だからといってその自我を否定したり手放したいとは
思わないことです。



あんなツラい経験を受け入れるなんて不可能。キツすぎる。あり得ない。受け入れられなくても仕方ない…

それはそれで事実だと思います。
それを否定するものではありません。
ただ、だからといってそこで終わりにしてしまってはいけないということです。
そうやって思考停止にさせてしまうのがトリックであるわけです。

別に、自我が保身のために私たちを騙そうとかゴマかそうとしているわけではありません。
私たちが勝手に思考を放棄してしまっただけです。

そしてこれまた、しつこいようですが、そのように思考を放棄してしまったこと自体も、良いとか悪いとかはなくて、
ただの状態に過ぎません。

今は、そうしたことに気づくことが全てです。

「状態」を、ありのままに見るだけ。
それで終わり。
そこでそのまま流せられれば、私たちは切り絵に乗らずにいられます。

自動モードで繋がってしまっていることをキチンと自覚していくことが大事ということです。

景色を眺めたあとのあらゆる付け足しは、たちまち自我の世界へ直行となってしまいます。
単なる状態に対して余計な色をつける行為が、私たちの足を引っ張ることなります。

私たちはこれまで無意識のうちにそれをやってきました。
つまり「私たちが勝手に思考を放棄した」と書くと、すぐさま「私たちが悪かったのだ」と判断してしまう癖がついて
いるということです。

「思考を放棄した」というのは事実としての状態ですが、「私たちが悪い」というのは自我の創作です。
そこには明らかにスイッチの切り替えが存在しているのですが、私たちはそれに慣れすぎてしまって、気がつけなく
なっています。

そうして初めは天地宇宙の世界に立っていても、無自覚のうちに切り絵の世界に戻っているということです。
それと気づくことなく、自動的に誘導させられてしまっているわけです。
自動モードで自我の創作が続いていることを1ミリも気づかずに、それを100%信じ切って、リモコンロボットの
ように過ごしています。

グルジェフはそのことを「眠った状態」「目覚めていない」と言いました。

といって、またそこで自我の誘導を悪いことだと断じてしまうと、これまたドツボにハマってしまいます。
このような場合、そうなんだなと自覚しつつ、あがらわず誘導されるところに道はあります。

切り絵の平面、切り絵の下に広がるテーブル、そしてまた切り絵の平面、というように私たちは瞬間瞬間で目まぐるしく
立ち位置を変えます。
それが悪いということではなく、それを全く自覚していないということです。

これからも目まぐるしく立ち位置は変わります。
それを変えまいとするのは、自我の発する我執になってしまいます。
チャカチャカ変わっても全然いいのです。

ただ、その都度「今は切り絵の平面」「今は天地宇宙」とそれをきちんと自覚できていることが極めて重要なわけです。

「あんなツラい経験を受け入れることなんて私には不可能。キツすぎる。あり得ない」という思い自体、否定するもの
でも肯定するものでもありません。
そうだよね、と受け入れるものです。

大事なことは、そのように思っているのは誰なのか?ということです。

それは「私」ではありません。
「自我」であるわけです。

しかし、それを「私」そのものだと思い込んでしまうことが、それ以上の思考停止を招いてしまっています。

切り絵の上にいる自我がそのように苦しみ傷ついていることは事実です。
そしてそれが私たちとともに歩んできた分身であるのもまた事実です。
だからこそ、私たちは自我がそのように傷ついていることを芯から理解できて、それを受け入れられるのです。
決して、自分ではないと言って切り捨てるものではありません。

切り絵の平面の下に、天地宇宙に広がる私たちがいます。
切り絵の分身に自分のすべてを凝縮させてしまうのではなく、『広大無辺に広がる私たち』と『切り絵の上の私たち』
という全貌を見渡しながら、自我を受け入れます。
その痛みや苦しみを中心に感じるということです。

忘れるとか突き放すとかいうことではありません。
ただ、視点を変えるだけのことです。

過去の出来事は、一つ一つの切り絵であり「状態」です。
それをそのまま流れるにまかせて眺めるというのも、自我を受け入れることによって成されます。

勉強にしろスポーツにしろ、最初から超一流の人など居ません。
みんな失敗や下手を受け入れて進歩します。
過去の切り絵を受け入れることが、諦めや寛容、そして自我を含むあらゆる存在すべてへの無条件の信頼を生み出します。

過去のツラい記憶を呼び覚ますような出来事に出会っても、「あの頃の自分はいじらしかった、かわいかったなぁ」
あるいは「よく頑張ったね、えらい」と思える時が必ず来ます。

もっと言ってしまえば、どれだけ押入れの奥に押し込めても、最期の最後はババーンと全部広げられるわけです。
誰もが死ぬ時には、すべてを表沙汰にされるのです。
しかもその時は衆人が見守るなかでのフルオープンです。

みんなの前で素っ裸になるのなんてヘッチャラだという剛毅な人なら別ですが、そもそもそういう人ならば押入れに
押し込めることなどあまり無いのではないかと思います。

いつかはやること。
どうせ裸になるなら、せめて一人の時に素っ裸になった方がラクというものです。

損得勘定で話してしまいましたが、そういうことでなくても、事実とは案外たいしたものではないのです。

最期の最後の場面で、それまで奥に隠していたものを引っ張り出された時というのは、初めこそ恥ずかしさや情けなさ、
悲しさ、様々な思いが起きるでしょうが、そうしたあとには必ずこのように思います。

「なんだこんなにラクになれるなら何十年もシンドい思いをすることなかった」
「やっちまった」
「先に言ってよ!」

最期の最後でラクになるよりも、早いうちにラクになって身軽に生きていく方が、数限りないことをより深く味わうこと
ができます。

私たちはある意味、苦しさを自ら作り出し、それを解き放った時の開放感を楽しんでいます。
ストレスや圧力のかかった状態から、元に戻る反動に喜びを感じていると言えるわけです。

もともと不足するものなど何もなく愛に満ち溢れている、というその事実を再確認するための一種のゲーム的な要素が、
この切り絵の世界の存在理由でもあるということです。

ですから、シンドい状況はシンドいわけですから、その事実をそのまま認めるのが何よりも先決となります。

シンドいことを忘れようとしたり見ないようにしたり、あるいはそのように考えてしまう自分を非難したり、加害者を
非難するというのは、同じ1コマにとどまってグルグルと自分の尻尾を追いかけることにしかなりません。
コマを進めてゲームを成立させるためには、事実を俯瞰して、風の流れを止めないことが何よりも大切となるわけです。


何かのキッカケで過去の傷が蘇るような出来事があったとします。
たとえばその当事者にバッタリ逢ってしまったとか、当時を思い起こすようなシーンに触れてしまったとかです。
そういう時は五感にダイレクトに来ますので、瞬時に当時の切り絵に魂が直結してしまいます。
まさにフラッシュバックです。

そうしたものが訪れた時に、冷静に切り絵の平面から降りるというのは至難のワザでしょう。

ですから事前のケアというものが大事になります。
地震や火事など災害対策と同じです。
その日が来る前に日頃からシュミレーションしておく、その状況を想起して備えておくわけです。

この場合ならば、平和で余裕のある心地の時に、過去のツラい思い出を振り返るということになります。

ツラい出来事そのものは、事実としての状態です。
それを眺める。
ただ、眺める。
そこから「自分は悪くない」とか「アイツが悪い」とか出てきても、それはただ自分が切り絵の平面に移動して
しまっただけのことなので、それはそれとして、また天地宇宙に戻る。

あるいは、自分を責める方向に行った場合は「自分は生きている資格が無い」「リセットさせたい」と出てくるでしょう
が、それはそれとして一通り流したあとに、また天地宇宙に戻る。
戻ってふたたび、ツラい出来事を、ただの状態として眺めます。

この最後に「戻る」という作業が災害対策になるわけです。
これまでは怒りや悲しみの感情が湧くとすぐフタをして、そのまま切り絵の平面に立ち続けていました。
そうした習慣を断つということです。

シュミレーションというのは実際にやらないと意味がありません。
ただ、いきなり過去をバーンとフルオープンすると心が傷だらけになってしまう場合は、焦らずゆっくりやっていく
ことになります。

前回も書きましたが、当時の自分が芯から傷ついている時は、まずは今この大きな自分がその自分を包み込んで、傷を
優しく温めてあげることが先です。
そうして少しずつ、ドアの隙間からチラ見でもいいので、過去を振り返っていくということです。

過去の傷を頭に浮かべ、その映像に飲まれることなくその先へと進める、つまりそのまま切り絵の平面から降りるという
ことを手動モードで習慣化していくと、それが新たに自動的な流れとなっていきます。

これまで条件反射的に「アイツが悪い」とか「自分が悪い」と自我の感情へリンクしていた自動モードが消えていくということです。

そうなると、現実で誰かにバッタリ出逢ったり、不意打ちでトラウマが蘇った時でも、パニックになって思考停止させ
たり現実逃避するようなことも無くなっていきます。


さて、切り絵の平面から降りるには、相手の立場にたって諦める(明らかに見極める)ことが有効でした。

それは自我の立場に立って見ることでもあり、また加害者の立場に立って見ることでもあります。

受け入れるというのは、何も相手が正しいものだと認めることではありません。
「正しい・正しくない」という概念は、何処までいっても比較でしかありません。
必ず敗者が生まれてしまいます。
それでは自我が、我が身を守ろうと過熱するだけです。

相手の立場に立って、その言動を「理解する」ということが、すなわち受け入れることになります。

「そうは言っても」と感情や自我をそこに付与するのは、自分を切り絵の平面に引き戻すことにしかなりません。
それはそれ、これはこれ、です。
切り絵の立場だったらそう思うのは当然だよね、でも今は天地宇宙の立場から見ての話だから、ということです。

感情や自我に引っ張られそうになった時は、今の自分はどこに足を置いているのかを明確にしておけば大丈夫です。
切り絵の平面に立ってはいけないということではありません。

いま自分はそこに立っているのだからこう考えるのは当然だ、と客観視できればいいのです。
それは自我に飲まれたことにはなりません。
そうやって腑に落ちれば自我は満たされます。
そうなれば、そのあとはラクに切り絵を離れて見てみることができるようになるわけです。

切り絵に引きずり込まれまいという抵抗こそは、自我そのものです。
その瞬間すでに切り絵に居るのです。
昔の漫画の「お前はもう死んでいる」みたいなもんです。

過去の記憶にしても同じように、引きずり込まれまいと思うのではなく、それはそれでいいということです。
過去の思いや感情というものは、切り絵の上に立っている自分、すなわち自我が発しているものだという理解さえあれば
それでいいわけです。

それが「受け入れる」ということです。

無くそうとか、心の奥へしまいこもうとする必要は無いということです。

今ここの自分が「こう切ってやろう」「こう切るゾ」という自我に引っ張られたとしても、やはりその思いを否定したり
忌み嫌うのではなく、自分が切り絵の上に立っていることを自覚していれば大丈夫ということです。

そもそも自我というのはそういうものですから、そこに立てばそうなるもの。
そこに立ってはいけないということではなく、そこに立っていることを自覚することが大事なのです。

この世に生きる限り、私たちは切り絵の平面から離れて生きることは出来ません。
そもそもそれを味わうために生まれてきたのですから、それこそ本末転倒になってしまいます。

紙を切るという思い自体を受け入れれば、ハサミ使いも自ずと天地の呼吸になっていきます。

いつ何どきでもそのようにあるというのは理想ではありますが、それに囚われてしまうとそれは遠ざかってしまいます。
そのようになれた「今」が、この一回にあれば十分なのです。

真実が分かってスッキリ悟ったはずなのに、気がつけばまた囚われている…
そんな時でもガックリ落ち込む必要はないわけです。
何度でも切り絵の自我に引っ張られて、一喜一憂していいのです。
私たちはそれをやりにきているのです。


完全無欠な聖人君子など夢の世界の話に過ぎないと知ることが、本当の悟りと言ってもいいかもしれません。

死んだら誰もが天地宇宙である自分に気づきます。
それこそ完全無欠です。
もとより私たちは完全な存在であるわけです。
ただ、不完全であるフリをして楽しむためにこの世に来ているのです。
ですからそれは不完全などではなく、人間らしさと言った方が正しいということです。

その状態から、少しでも完全な状態に近づこうとする。
それがこの世というアミューズメントパークの最大の楽しみであるわけです。

もとより相対比較は意味を成さないのです。
わざわざ不足している状態を作ってスタートしたのですから、その自分を卑下したり、苦しんだりするのではこれまた
本末転倒になってしまうということです。

みんなの形は違えど、たどり着く先は同じです。
派手なことをなそうとも、道半ばだろうと、地味だろうと、死んだ瞬間に等しく切り絵から離れます。
そして、もとから完全な状態にあることを思い出します。
結果はみんな同じということは、私たちはまさに過程を味わうためにこの世に来ているということです。

より上を目指そうとする思いにシンドくなった時には、実はそういう種明かしだったんだと一息ついてみるとラクに
なります。

今のこの自分を受け入れられれば、過去の自分も受け入れることができるようになります。

人間くさく生きることは、魂の喜びそのものです。
それこそが、寛容というものを一気に花開かせる鍵となるのではないでしょうか。



(おわり)



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あれでいいのダ

2016-03-04 20:21:03 | 心をラクに
なんの不安もなく平和に暮らしていても、何かの拍子にふと過去のツラい記憶が蘇ることがあります。

すると思わずギクッとなって、条件反射的にワーッと心の奥へと押し込めてしまいます。
まさに「出てくるなー!」と押入れに戻すような感じです。

これは、あんなトンデモないこと一生忘れられるはずがないと諦めてしまっているのも原因の一つになっています。
シンドくなるのは仕方ないと決めつけてしまうと、結局、抱え込むことを選択したことになってしまいます。
受け入れることとは似て非なるものとなってしまうわけです。

何かを抱え込むというのは、その何かに囚われている状態で、
何かを受け入れるというのは、その何かに囚われていない状態です。

かたや、その何かの上に自分が乗っかってしまっている状態、かたや、乗っからずに客観的に見ている状態ということ
になります。

ワーッと慌ててフタをしようとするのは、自我が傷つくまいとして起こす防衛本能です。
前回までの喩えを借りれば、それは切り絵の世界の自動モードと言えます。
つまり一連の流れは、自分が切り絵の上に乗った状態の時にだけ発動するものであるわけです。

ウゲッとなったとしても、次の瞬間にスッと切り絵の平面から降りて見れば、サーッと流れていきます。

ウゲッとなったキッカケがそのまま行くに任せる。
それが、受け入れるということです。
表現を変えれば、相手をどかそうとするのではなく「自分がどく」と言ってもいいかもしれません。

とはいえ、一刻も早くラクになりたい時にはそんな悠長なことなど言ってられません。
ましてや半分パニック状態になっていれば尚更です。
とにかく目の前のものを見えなくすることで精一杯。
考えるより先に手が出てしまいます。

でも実は、切り絵の平面から降りるというのは、手間も時間もかからないことです。
一瞬でラクになって、しかもあとにモヤモヤも残りません。

それを一つ一つヒモ解いていきたいと思います。

まずは過去というものについてです。

ある瞬間に切り抜いた紙は、次の瞬間には目の前から無くなっています。
それを過去という形で私たちは設定しています。
そして一番切り抜いた紙というのは二度とハサミを入れることは出来ません。
もちろん、無かったことにすることも出来ませんし、他の切り絵に作り直すことも出来ません。

そんなのは当たり前だと分かっていても、つい「そうだったら良かったのに」と思ってしまうことがあります。
そうした些細な未練ですらも、過去というものを最後の最後で受け入れきれない要因となってしまいます。

そしてそんな未練が湧くのは、実は、心の底から当たり前だと思いきれていないことに原因があります。
当たり前ダという即断が、それ以上の深い理解を妨げてしまっているのです。
それは頭の暴走のタネを新たに作らないためにはプラスとなりますが、中途半端にタネが出来てしまった時にはマイナス
に働いてしまいます。

地道なことではありますが、なぜ当たり前なのか?とその先まで深掘りすることが、真の意味での諦め、つまり達観と
なり、受け入れることへと繋がっていくことになります。

思考こそが囚われの元凶だとするならば、あれこれ理屈を追うのは逆アクションのように感じてしまうかもしれませんが、
中途半端な不完全燃焼のまま思考停止をすると、根っこの部分で手放せてない状態が続いてしまいます。
頑固な囚われを手放すためには、とことん思考を続けて、納得することが必要となるわけです。

前置きが長くなってしまいましたが、切り絵の話に戻りたいと思います。

天地宇宙に不完全な仕組みは一つもありません。
今とは違う仕組みの方が良かったならば、必ず、そのように成っていたはずです。

その上で、あらためて何故、一度切り終わった紙には二度とハサミを入れることができないか?ということです。

それはこの世というのが、一瞬ごとに切り絵が差し替わっているからです。
つまり、過去の切り絵を修正する必要性がないということです。
解決済みの案件なのです。
「こう修正したい」と望むなら、その直後にすぐにそれを反映させることができるのですから、わざわざ過去を修正する
必要がないわけです。

これは天地の視点で書いていますので、囚われの無いことが前提となります。

天地宇宙には「今」しかありませんので、「過去」の産物というのはただの記録、つまり存在でしかありません。
アレコレと論評するものでない、というのが天地一般の認識であるわけです。
もし過去の産物が気に入らなければ、「今」、違うものをカッティングすればいいだけ。
切り絵の平面から降りれば、それが当たり前の感覚ということです。

その時その時の切り絵というものは、空間と同じ一枚絵として焼きついています。
そこだけ切り分けることができるものではなく、天地宇宙が一枚の広大な
パネルとして存在しているということです。
過去の一場面を修正するには、その時の平面すべてを作り直す必要があるわけです。
理屈としても、それそのものを修正することは無理なのです。

天地の視点に立ってみれば、過去にカッティングした切り絵を、何度も見直して頭を抱えることは意味のないことです。
振り返りというのは、今後のカッティングの参考とするために行なうものです。

前者は後悔と言われ、後者は反省と言われるものです。

トンデモナイことをしてしまった(された)と思うのならば、今後は同じカットを作るまいと決めるだけのことです。
過去に戻ってウーッと苦しむにしても、それが今に反映させるためのエネルギー充電ならば意味がありますが、苦しむ
ためだけの苦しみでは、自分をムチ打つ行為にしかなりません。

また、過去の切り絵を、誰かに見られないように隠してもそれ自体が無くなるわけではありません。
自分で忘れてしまうおうとしても、絶対に無くなりません。

在るのですから、無くならない。
ですから、無いものにしたいという無意識の願望は苦しみを生むだけでしかありません。
目の前に突如トラウマのキッカケが現れた時に、何とか無視しようとしても、それは逆効果にしかならないのです。

ただし、忘れることはできます。
それは押入れに押し込んで記憶を薄めるというものではなく、本当の意味での「忘れる」です。

たとえば、いつも偏頭痛に悩まされる人が、我も忘れるほどハシャいでいる時にその痛みを忘れてしまうことが
あります。
その時というのは、頭痛の素は存在しているのですが、自分が自我から降りたことでスルー状態になっているわけです。
つまりこの場合、忘れたことによって頭痛というものが存在しないのと同じ状態になったと言えます。
そして肝心なのは、それが、忘れようとして忘れたものではないというところです。

過去のツラい記憶にしても同じです。
フタをして隠すのは忘れることにはなりません。
むしろ後生大事に金庫に閉まうことになってしまいます。

それが大したものでないと思えたり、心の底からシャーないと思えたり、「今」に100%集中できた時に、私たちは
自然と忘れてしまいます。
囚われてないからサーっと川に流れるごとく、無くなってしまうわけです。

過去のどんな切り絵であっても、それはもうどうにも変えようのないものです。
囚われるものではありませんし、蒸し返して自らを貶めるものでもありません。

過去にどんな意味があるかというと、ぶっちゃけ何の意味もありません。
それは意味というよりも、状態と言った方がいいかもしれません。
常に、今この時だけが唯一無二であって、過去にしてもその瞬間に唯一無二だったというだけです。
ただの、状態です。
ですから、やたらと重くとらえる必要は無いのです。

常に「今」という視点に立てば、あらゆるものが今ここに集約されていきます。
つまり、過去というものにしても、私たちが今ここに中心を置いてこそ活きるものになります。
それを反省と言ってしまうとネガティヴイメージがついてしまいますので、錬磨と言った方がいいかもしれません。

今この時において、いかに囚われずに自然なカッティングに近づけるか。
そのために過去が活かされるということです。

たとえば何かの作品を作るときも、失敗や下手を重ねることで、少しずつ角の取れたものが出来てきます。
いきなり洗練されたものなど出来るはずがありません。
過去に失敗や下手クソを重ねてこそ、素晴らしい作風というものが練られていきます。

言い方を変えれば、失敗や下手クソというのは、お陰様そのものということになるのです。

過去のミスを忌み嫌っているかぎり、それを受け入れることはとても難しくなります。
「嫌いだけど受け入れる」というのでは芯から受け入れたことにはなりません。
ミスというもので自らが傷ついてしまうことが、ミスを敵対視してしまう理由の一つとなります。
それは私たちを傷つけるものではなく、私たちを助けるものでもあるのです。

粘土細工にしてもゲームにしても、ミスしたからといって、泣いたりイジケたり、逆ギレして怒ったり、あるいは
自分は知らないと言い張る姿というのはどうでしょうか。
現実逃避や現実否定してもまた同じ失敗を繰り返すだけだろうと思うはずです。

このことは自分がミスした場合だけでなく、他の誰かが加害者だった場合でも同じです。

認めにくいことかもしれませんが、切り絵の世界から降りてみれば、トラウマというのもお陰さまの仮の姿と言うこと
ができます。

誰かに切り絵をズタズタにされて悲しい思いをしたとしても「嗚呼、可哀想な自分」という結論で終わらせてしまったら、
厳しい言い方ですが、結果だけ見れば先ほどのケースと何も変わらなくなってしまいます。

この世というのは起こった現象そのものには意味はなく、そのあとの進め方に意味が生じます。
思考停止の塩漬けにしてしまってはいけないのです。

ただ、加害者が自分であるのと他者であるのとでは、その背景もその過程も天地ほど違うものです。
明らかな不可抗力ですし、か弱い立場では虐待そのものです。

だからこそ、「受け入れる」ことが必要となるわけです。

思考ストップはいけないと言っても、物事には順序があります。
傷ついた自分をそのままに放っといてゴリゴリと先に進めるということではありません。
その先へ進むためには、その前にまず傷ついた自分を受け入れること、癒してあげることが先になります。
それさえすれば、そのあとは思考停止うんぬんなど考えるまでもなく、自然と流れていくようになります。

傷ついた自分が居るのでしたら、切り絵の平面から一旦降りて、天地そのものの大きな自分に戻ってから、ソッと優しく
抱き締めてあげます。


ズタズタになった傷の深さというのは、自分が一番良く知っています。
そうであればこそ、大いなる母となって優しく包み込んであげられるのは、他の誰でもない、この私しか居ません。
それをせずして、押入れの奥に押し込めて思考停止してしまうというのは、自分で自分を見捨てることになってしまいます。
結果として、自分で折檻しているにも等しいのです。

たとえ今の自分が立ち直ったつもりでいても、何かのキッカケで傷つけられた自分が蘇ってくるというのは、その、
いたいけな自分がいまだに助けを求め続けているということです。
自分だからいいや、という問題ではありません。
これまで見て見ぬふりをしてきただけでなく、これからも見て見ぬふりをするというのは、あまりに酷です。

誰かに見捨てられたというのなら、最後の砦である私たち自身が優しく受け入れてあげなければ、幼き私たちの心は
誰が救えるというのでしょうか。

その傷だらけの小さき私たちというのは、他の誰かに助けを求めているのではありません。
今この私たちに助けを求めているのです。

加害者に非を認めさせたいとか、加害者に救いを求めたいという気持ちは、表向きの感情でしかありません。
本当の叫びは、その奥にあります。
そこを勘違いしてしまうと、繰り返し何度でも、ウワーッと押入れに押し込めることになってしまいます。

小さな私たちが助けを求める「今この私たち」というのは、切り絵の下に広がる本当の私たち、大きな大きな私たちの
ことです。
天地宇宙に広がる私たちとは、過去の切り絵の下にも広がっています。
そこには時間も空間も存在しません。
だからこそ、傷ついた小さき私たちは、その私たちにSOSを送っているわけです。

今この切り絵に乗ったままの私たちが、抱きしめよう、包みこもうとしても何の解決にもなりません。
大人になった自分だったらあの頃の自分も受け入れられる、受け入れられなければいけない、と思うのは気負いすぎです。
同じ平面にいるかぎり、瞬時に当時の自分にシンクロしてしまい、その傷をそのままに受けてしまいます。
吹きすさぶ嵐に立ち向かって、これを流せるようにしなくては救われないと気張っても、余計に苦しくなるだけです。
そういう無理なゴリ押しの話ではありません。

いたいけな自分に心を重ねるというのは、あくまで今の自分が大きな天地宇宙となっての話です。
天地宇宙に溶け合っていれば、その内にある小さな囲みの傷も、我がこととして感じ取ることができます。

自分の中心を相手の中へ移すのではなく、自分が大きく広がり相手を包み込むことで、芯から優しく受け入れることが
できるのです。



ヒドい目に遭ったのは事実です。
それを無理やり肯定したり、プラスに思い込もうということではありません。
ヒドいのはヒドいけど、思考停止もしない。
いま大事なのは「それはそれ、コレはコレ」という理解です。

理屈で分かっていても、どうしようもないことはあります。
ただ、そこで今一歩踏み込むならば、実際どの程度の理解で「どうしようもない」という結論に達したのかという
ことになってきます。
ツラすぎるあまり道半ばで決めつけてしまっていないか、思考放棄していないかということです。

「ツラいけど直視しないといけない」
「過去に囚われてはいけない」
「過去は未来への糧にしなくてはいけない」
そうした結論自体、中途半端なものでしかありません。
分かったつもりというのが一番危険です。
そこから先の、何故そうなのか?という部分が腑に落ちないままやっていると、悲しみをさらに心の奥底に追いやること
になりかねません。

感情もまた切り絵と同じ平面上に存在します。
ですから、切り絵から降りて見れば、平面全体を俯瞰することになります。
落ち着いて景色を見るというのは、それを自然に受け入れるのと同じことになります。

つまりそれは、そこに在る感情も突き放すことなく受け入れている状態であるわけです。
頑張って受け入れるのではなく、状態としてそうなっているということです。

過去の自分を非難することもありませんし、過去の誰かを非難することもありません。

もしも自分の過去の切り絵を未だにアレコレと言ってくる人が居たとしても、それはその人が切り絵の平面上に乗った
状態で自分を見ているということでしかありません。
しかしクドクド言われた時に自分まで同じ平面上に乗ってしまうと、シュンとなったり、ムカっとなってしまいます。

切り絵から離れて眺めてみれば、その人がそういうのももっともだよなぁ、と感じられることもあります。
それは相手の言い分が正しいという場合もありますが、相手がこうした価値観に立って見たのならばそのように映る
のが自然だという納得感、理解の方が大きいでしょう。
すると、言い訳したり、言い争いをして自分を守ろうとする気持ちは無くなります。
それらは自我が発するものですから、切り絵から離れればウソのように消えてしまうのです。

また他の誰でもない、この自分が過去の自分をアレコレと言ってしまうのなら、それは取りも直さず、今この私が
切り絵と同じ平面上に居るというだけのことです。

その平面上に居るというのは、自我の運転する車に乗っている状態ということになります。

自我というものは「こうあるべきだ」「こうではいけない」などと、終わることのない無限ループを繰り返すものです。
そこには論理などありません。
切り絵を守ることが全て。
目先のことを本能的にジャッジするだけです。

あの時はあの時。
あれでいいのダ。


それは決して肯定という意味ではありません。
肯定も否定もなく、ただ受け入れることで今この瞬間カッティングへのこだわり(囚われ)が薄まるということです。

あの時の自分も、今この自分も、切り絵の奥に鎮座する自分は全く同じものです。
囚われが薄まることで、切り抜きがクリアになって下のテーブルが綺麗に見えてくるというだけです。

この目の前の「今」を受け入れることが、あの時の「今」を受け入れることに繋がっていくのです。


(つづく)




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